hello solitary hand・番外編
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光を失った海から溢れ出す潮騒が、漆黒の夜に爪を立てる。
地上に広がるは物云わぬ二つの骸。其処から滲み出した赤に染まった白皙は、両の眼から涙を零してぼくに問うた。
「本当に……?」
その場に跪いた儘、ぼくは胸に手を当て首を垂れる。
たった今、自分の全てを肯定してくれた彼女に。
神の御座より落とされた憐れな天使に。
心からの敬愛を以って答えた。
「ええ。貴女はぼくにとっての福音だ。ぼくは貴女を救いたい。約束しましょう、菫さん。
貴女は必ず、ぼくがこの手で―――」
****
淡く色づいた花弁の舞う一本道。其処に突然逆さ吊りの道化師が現れた。
「やぁいらっしゃいドス君!どうどう?この庭園?気に入って貰えたかな?」
「正直云って、少し驚きました。まさかここ迄広い場所を貸し切って頂けるとは」
「ええ!本当!?やったやったー!ふふふ、私も頑張った甲斐があったよ!まぁ、と云っても斗南先生の名義で一発だったけどね☆いや〜、全く司法省の王さまさまだよ!」
「彼女は何と?」
「とても喜んでくれていたよ!『こんな綺麗な景色を見るのは久し振りだ』ってね」
「……そうですか」
足を止めずにそう返して前を横切ると、今度は正面の何も無い空間から長い三つ編みが再びぼくの視界に踊り出る。木漏れ日に照らされた白い外套を翻し、道化師は足取りも軽やかにぼくの横に並んだ。
「ねぇドス君。君の目から見て、彼女はあとどれくらいで
「そうですね…。少なくとも、来年の桜は見られないでしょう。尤も、その前には全て終わらせておく心算ですが」
「ふふ、楽しみだなぁ。まぁ、彼女の夢が叶う瞬間に、きっと僕は立ち会えないんだろうけど…」
「……降りますか?“不楽本座”」
「まさか!これはあくまで、僕自身の戦いだ。幾ら彼女が僕の理想を体現してくれたとしても、僕自身がそれを証明出来なければ意味が無い。だから安心してよドス君。予定通り、僕はこの先の作戦で死ぬ。―――真の自由意志の存在を証明する為にね」
そう告げた彼は、桜並木の終点を前に足を止める。その先にあったのは、木組の屋根とテーブルを挟んで設らえられた一組のベンチ。
「嗚呼…。それにしても、本当に彼女はどんどん美しくなっていくねドス君。あんなにも自由な儘生きている人間は、きっと彼女だけだ。心底羨ましいよ」
深い感嘆の先に居たのは、左右で違う色をした長髪と相対している車椅子に乗った女性。相手の持つカードの上を漂う彼女の手は、毒々しい赤に覆われている。それはよく眼を凝らせば一つ一つが花の形を模しており、まるで宿主に根を下ろす寄生植物の様に白い頬の上迄這い登っていた。その上にある眼窩に嵌った瞳が、目元に掛かったレンズ越しに一枚のカードを見据える。
「ん〜……。やっぱこっちかな」
「!?」
「はは、当たりだろ」
「……おい。何故態々ジョーカーを引く。これは最後にジョーカーを持っていた方が負けのゲームじゃなかったのか」
「嗚呼、そっか。いやぁすまんすまん。シグマ君がいい反応するから、可愛くてついね」
「………」
「?…シグマ君?」
「何でもない。それよりもう一度勝負だ。カジノの支配人を務める以上、相手に考えを見透かされる様じゃ話にならないからな」
「ん〜、でもシグマ君結構ポーカーフェイス上手い方だと思うがね?」
「……たった今それを看破した相手に云われても、説得力がない」
「はは、それは単にアドバンテージの問題だよ。
「あれれ、またバレちゃったか。ん〜、福音ちゃんってばどんどん手強くなってくねぇ?」
「君は“やってやるぞ”オーラが迸り過ぎなんだよ。こんなん寝てても判るわ」
「そんな!福音ちゃんに寝起きドッキリを仕掛けて刺激的な朝をお贈りする私の野望が大ピンチ!!」
「多分決行前に妨害食らって頓挫すると思うぞ、その野望」
「当然です」
すると、視線一つ動かさず会話を続けていた彼女が初めて此方を振り返った。眼鏡の奥で細められた瞳に会釈を返すと、彼女は溜息を吐いて対戦相手に向き直る。
「すまんシグマ君。迎えが来てしまった。ゲームは此処迄だ」
「………」
硬い表情で口を噤む対戦相手に苦笑して、彼女は持っていたカードを彼に差し出した。それを相手が受け取ると、続いて彼女は車椅子に凭れる道化師を見上げて笑みを浮かべる。
「今日は有難うな道化師さん。お陰で凄く楽しかったよ」
「とんでもない。お礼を云うのはこっちの方だよ。有難う、君に逢えてよかったよスミレちゃん」
「嗚呼、此方こそ。…さよならゴーゴリ」
互いに口元だけで小さく微笑み合うと、道化師はそれ迄の空気を打ち消す様に明るい声を上げる。
「却説!じゃあ私達もそろそろ帰ろうシグマ君!何せ未来の支配人様はやる事が山積みだからね!」
「嗚呼、判ってる。………またな、スミレ」
一度だけ此方を振り向いた対戦相手は、少し考える様な間の後にやっとそう紡いだ。それに対し、彼女は困った様に苦笑して返事を返す。
「いいや、“また”は無い。“さよなら”だよ、シグマ君」
その返事を聞いて彼は一瞬顔を強張らせたが、軈て何かを諦めた様に道化師の広げた外套を潜る。それに続いて此方へ手を振っていた道化師も外套の中に包まれた。そうして瞬く間に個性的な出で立ちの二人は影も形もなく消え、後に残った彼女は小さく振り返していた手を車椅子の肘掛けに着く。
「迎えに来るの早過ぎじゃないか?」
「時間通りですよ。寧ろ貴方がたの談笑を待っていて、予定が押してしまいました」
「あっそ。そりゃ悪かったな」
口ではそう云いながら全く悪びれた様子も無く、彼女はテーブルに残された団子に手を伸ばす。その行動に少々驚いて一瞬眼を見張ると、彼女は満面の笑顔を浮かべてぼくにそれを差し出した。
「ほい。じゃあ待たせたお詫びだ。お一つどーぞ」
「………」
「おや?どうしたんだい?遠慮せずに食べなよ。美味しいぞ」
「………」
最早隠す気もないその作意にいっそ敬意すら感じる。そして彼女が浮かべるその笑顔から引く気が無い事を読み取ったぼくは、無駄な時間を節約する為幼稚な企みに付き合う事にした。低い位置に居る彼女に合わせて身を屈めると、自分の髪が滑り落ちて視界を阻む。それを耳にかけ直して、ぼくは差し出された団子を一つだけ口にした。
「っ…!」
その瞬間、口内に広がる強烈な甘味と香料の風味に身体が拒否反応を起こす。反射的に吐き出しそうになるそれを手で押さえ、咽せそうになるのを堪えながら喉の奥に流し込んだ。真面に噛む事もせずに飲み込んだそれが度々喉に痞えて気道を塞ぐ。ぼんやりと脳裏に『窒息死』の三文字が浮かび掛けたその時、不意に古風な湯呑みがぼくの視界に現れた。反射的にそれを受け取って中の液体を飲み干すと、喉に詰まっていたそれが漸く胃へと落ちていった。するとすぐ真上から堪えきれないとでも云う様に、酷く愉快そうな笑い声が降り注ぐ。
「ぷっ…、ふふ…ははははは!凄いな。君を知ってる人が今の見たら、皆漏れなく宇宙猫みたいな顔になるぜきっと」
「ごほ…っ、…はぁ。これで気は済みましたか?」
「嗚呼、大満足だ。いやぁ、でもホント凄いなシグマ君の差し入れ。かの魔人に此処迄のダメージを与えるとは。今度から君の命を狙う暗殺者には、“団子が効果的ですよ”って教えてやらんとな」
「まぁ確かに…、今迄で一番命の危機と云うものを間近に感じましたね…」
「はは、そっか。普通の味覚だと、これってそんなヤバいんだ」
クスクスと笑いながら、彼女は先刻ぼくを死の淵に追いやった団子の残りを頬張る。口の中を溶かす様な甘味と咽せ返る様な香料の塊を咀嚼しながら、彼女は満足気に、けれど何処か困った様に笑った。
「うん。やっぱ美味しいじゃん」
そう零しながら一串全部食べ切って、次の串を取ろうとする彼女。その手が届く前に、ぼくは団子の乗った皿を取り上げた。
「あ!ちょっと何すんだよ。どうせ君食べないだろ」
「風が出てきました。冷える前に帰りますよ」
「え、待て待て!マジで帰るならせめてそっちの道を通ってくれ」
「回り道になりますが?」
「だからいいんだよ。その分長く桜を見ていられるだろ?家に帰る迄が花見だからな」
「はぁ…。そう云うものですか」
頭上を覆う桜の天蓋。此処に来る迄の道中で飽きる程眼にしたその景色の中を、ぼくは彼女の車椅子を押して進む。時折り吹く風が細い髪を踊らせ、桜の合間から降り注ぐ陽光が点々と彼女を照らしていた。彼女の表情は見えないが、機嫌がいいのは確かだろう。代わり映えのしない景色を延々と眺めるよりはましだと、ぼくは彼女に視線を落とした儘足を進める。
「はぁ〜、偶にはこう云うのもいいもんだなぁ…。ポカポカしてて、何か眠くなってきたわ…」
「寧ろ今日は肌寒い方ですよ」
「いいんだよ。何か色彩的にポカポカしてんの。てか君、北国出身だろ?日本の寒さなんて大した事ないんじゃないか?」
「北国の出だからと云って寒さに強いとは限りません。それに元々ぼくは基礎体温も低いので」
「君さ…私の健康に口出しする前に、先ず自分の体質改善優先したら?」
「ご心配なく。人を動かす事も、滅ぼす事も、脳と口さえ動けば事足ります。故に、この虚弱な不健康体でも何ら不都合はありません」
そう。人間程御し易い生き物はこの世に存在しない。いとも容易く思考を操られ、仮に気づいたとしても争う事を止められない。思考を繰り返し、呼吸を繰り返し、その度に罪を重ねていく。だからこそ、誰かがその罪を浄化しなければならない。
そしてぼくには、それが出来る。
「……なぁフョードル。“約束”、ちゃんと守ってくれるんだよな」
静かな声がぼくを呼んだ。先刻の漫談が嘘の様に澄んだ声。疑念も、威圧も、懇願すらも、其処には宿って居なかった。これはただの確認作業。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそぼくは、今迄何百何千と繰り返されたそれに不変の誓いを告げる。
「ええ。勿論です。この地に眠る白紙の文学書で、ぼくは異能力者の居ない世界を作る。その時は、貴女の願いも一緒に叶えて差し上げます。だから、もう何も恐れる事はありません。菫さん。ぼくの福音。
貴女は必ず、ぼくがこの手で救って差し上げます」
神に誓いを立てる様に、ぼくの口は真摯な言葉を紡ぐ。それに対する返答は、降り注ぐ木漏れ日の様に淡い温度を含んでいた。
「そっか。じゃあ大丈夫だな」
再び微笑みを浮かべた彼女は、何故か其の儘ぼくに向かって手を伸ばす。その行動に首を傾げると、また悪戯を企む子供の様な顔で彼女は僕に云い放った。
「帽子貸して」
「はい?」
「君のそのモフモフ帽、貸してくれ」
「………ぼく、先程“肌寒い”と云ったばかりなんですが?」
「大丈夫だって。仮に君が風邪ひいても多分喜ぶ人の方が大多数だ」
「……貴女、この数年で本当に性格が歪みましたね」
「はは、君のお陰だ。ざまあみろ」
屈託のない笑顔で無慈悲な事を云う彼女。そんな彼女に溜息を吐いて、ぼくは云われた通り被って居た帽子を手渡した。
「ふぁ〜…。フワフワや〜。ホント君の帽子は手触り抜群だな。柔軟剤何使ってんの?」
「さぁ、侍従長にでも聞いて下さい。それで、今回の我儘の目的は?」
「ん〜?なぁに、折角の花見だからね。出来るだけ綺麗な景色を眼に焼き付けておいたいと思っただけさ」
そう云ってぼくの帽子を被った彼女は、車椅子の背凭れに頭を預けて天を仰ぐ。その時一際強い風が吹いて、防寒具を失ったぼくの横顔を煽った。麗かな天候に反した冷たい風が、攫った桜の花弁と共に吹き抜けていく。鼓膜を叩く風に紛れて、酷く小さな声がした。
「嗚呼、本当に綺麗だな」
冷たい風に吹かれて消えてしまいそうなその声に眼を落とすと、其処には相変わらずニコニコと笑う彼女が居るだけだった。
「あ、所でさフョードル。どうだこれ。似合う?」
自分の頭を指さしながらそう問うた彼女の姿を、ぼくはまじまじと見定める。細い髪。白いワンピース。厚いレンズの眼鏡を掛けた目元。そして白い肌に赤い花を浮かび上がらせたのその姿を吟味した上で、ぼくは彼女に返答を返した。
「それなりに」
****
彼女を見つけたのは全くの偶然だった。
利用した密輸船が港に到着した際、岸辺のコンクリートに打ち上げられているのを乗務員の一人が発見した。とは云え、此処は非合法組織が夜を牛耳る魔都ヨコハマ。海に捨てられた死体など大して珍しくもない。だが、その死体には奇妙な点が二つあった。一つ目は、触れようとすると稲妻が走る様な音と共に弾かれてしまう事。もう一つは、その死体は僅かに背中を上下させ呼吸をしてい居た事だ。
謎の現象によって誰一人触れる事の出来ない、正体不明の遭難者。
そんな彼女を引き取ったのは、無論利用価値を見出しての事だった。彼女が異能力者で、これが彼女の力ならば、使い道は幾らでもある。もし使えない時は切り捨ててしまえば良いだけ。新しい手駒を増やす時と何ら変わらない。あの時ぼくが彼女に抱いていたのは、その程度の期待だった。
「こんばんは。貴女に依頼したいお仕事があるのですが、宜しいでしょうか?」
現地で協力者を得るのは簡単な事だ。大戦の爪跡が今尚残るこの街では、明日を生きる権利すら持たない者達が溢れている。ヨコハマ租界の中心地、“擂鉢街”と呼ばれるこの場所はその巣窟だ。人間社会から弾き出された彼等にとって、守るべきは道徳ではなく己の命。故に彼等は、報酬さえ出せば犯罪行為に手を染める事も厭わない。引き取った正体不明の女性は、そんな貧民街の便利屋に一先ず預ける事にした。一応彼女の性別を考慮して見つけた同性の元軍医だ。戦時中の劣悪な医療体制と冷徹な上司の指示に耐えかね軍属を辞すも、その経験がトラウマになり戦後も医者として復帰できず幼い妹と共に此処へ落ちたらしい。
「貴女の許で暫く彼女を保護して頂きたいのです。勿論、必要経費は此方で負担します。その代わり、彼女の様子は定期的に知らせて下さい。いいですね?」
彼女について何も判らない以上、此方の拠点にいきなり連れ帰る訳にはいかない。彼女の所属、人格、能力、それらを暴いた上で、今後の方針を決めよう。そう思って、ぼくは彼女の持ち物を全て回収し調査を始めた。とは云え、人一人の身辺調査など仕事の片手間でも熟せる容易な作業だ。半日足らずで、彼女が何処の誰なのかも判明する。そう、
―――
半日も要らないと思っていた作業時間が一日一日と伸びていき、遂には本来の仕事も中断して、ぼくは彼女の身元を暴く事に没頭していた。その上で、何も出なかった。職業も、住所も、人間関係も、それどころかこの世に生まれた記録すらない。軈て、彼女の調査に明け暮れたぼくは四日目にして遂に“これ以上は無意味だ”と結論を出した。経歴を消された人間など、この世には五万と居る。だが彼女には経歴を消した痕跡すらも見つからない。既存の情報から彼女について知るのは不可能。そう理解したぼくは、四日振りに彼女の許を訪れた。
便利屋からの定時連絡で、保護した翌日彼女が眼を覚ました事は聞いていた。多少記憶障害の気が見られ時々話が噛み合わない事はあるが、健康面では特に問題なく生活出来ているらしい。ただ、矢張りあの奇妙な力は意識が戻った後も健在で、世話を頼んだ便利屋もその妹も、彼女には触れられずに居るのだと云う。
「こんにちは。おや、随分と顔色が善くなりましたね。お元気そうで何よりです」
便利屋に案内された部屋で、彼女は十歳くらいの少女と戯れていた。発見時は死体の様だった彼女の顔は今もまだ白いが、ほんのりと赤みが差した頬は生きて居る人間である事を確かに証明していた。だが、その頬は見る見るうちに色を失い、軈て発見した時以上の蒼白へと落ちていく。血の気が引き凍り付いた表情の中で、唯一彼女の両眼だけが確かな感情を湛えていた。其処に在ったのは驚愕と畏怖。そして彼女がその視線を向ける先に居たのは、ぼくだった。
「あ…えっと…、こんにちは。貴方が私を助けてくれた人…ですか…」
「ええ。こうして直接お目に掛かるのは初めてですね。ぼくはロジオン・ラスコーリニコフと申します」
「嗚呼、これはご丁寧にどうも。その、私は臼井菫って云います」
偽名の名乗りに人当たりの善い笑顔で挨拶を返す彼女。しかし、その下に押し込められた動揺をぼくは見逃さなかった。それと同時に、自分の内側が僅かにざわつく。誰一人触れる事が叶わず、この世に一切の情報が存在しない人間。だがそんな彼女は明らかに、“ぼくの事を知って居る”。謎を人型に閉じ込めた様な彼女について初めて判明したその事実に、不覚にもぼくは心からの笑みを浮かべていた。
****
コンテナ一つ分の空間に重厚な音色が反響する。最後の余韻が空気に溶けると、一人分の拍手が後を追う様に刻まれた。その発生源は、ぼくの自室のベッドに寝そべる一人の女性だ。
「いやぁ、腕が鈍って無い様で安心したわ!んじゃ次は“天国と地獄”で!」
「徒競走でもされるお心算で?」
「はは、無理無理私走れないもん。どうしてもって云うなら、フョードルお兄さんどうぞ」
「謹んで辞退します。それより、そろそろベッドを空け渡して頂けますか?」
「えー。何だもうギブアップかよ?本当に体力無いな君」
「寧ろ、仮眠を取りに戻る程消耗した状態で五曲も演奏しきる体力が自分に在った事に、ぼくは驚いていますよ」
「やれやれ。其処迄云うならしょうがない。ほら、どーぞー」
そう云って、ぼくのベッドを占拠してしていた彼女はゴロリと寝返りを打った。確かに其処にはぼくが横たわるに十分なスペースが確保されているが、肝心の彼女は未だベッドに寝そべった儘だ。
「………」
「ん?如何した?仮眠摂りたいんだろ?遠慮せず好きなだけ眠ると善い」
その白々しい発言からベッドを降りる気が全く無い事を理解したぼくは、数秒の思考の末彼女の隣に横になる事を選んだ。すると案の定、揶揄する様に彼女はクスクスと笑う。
「へぇ…。本当に寝そべるとは思わなかったなぁ。そんなに眠たかったのかい?」
「貴女こそ、人肌でも恋しくなったんですか?」
「はは、ほざきやがれ。私はただ何時も通り、君に嫌がらせしたかっただけだよ」
「ええ。判っています。抑々ぼくは、貴女に触れられませんから」
そう零してぼくは瞼を閉じる。鼻腔を満たしていく彼女の匂いを思考から追い出して、早く眠れと脳に指示を出す。けれど、それは鼓膜を直接揺する彼女の声に妨害された。
「今日、そんな疲れたか?」
「………ええ。慣れない事を…し過ぎました…」
「別に、態々君が迎えに来る必要なんてなかっただろ…」
「そうですね…。けれど、貴女に桜を見せて差し上げると約束したのは、ぼくですから……」
「………そうか」
珍しく歯切れの悪い返答に、ぼくは重い瞼を無理矢理引き剥がしてすぐ隣に視線を向けた。
「構いませんよ。そんな約束をした事など、貴女はもう覚えて居ないのでしょう?」
「……嗚呼」
短く返事を返す彼女は、ぼくから視線を逸らして眼を閉じる。そんな彼女の方に寝返りを打って、ぼくはまた問いをかけた。
「今日の催しは、お楽しみ頂けましたか?」
「……嗚呼。道化師さんもシグマ君も、日記で読むよりずっといい人だった。何より、もう桜なんて見られないと思ってたから、凄く嬉しかったし、楽しかったよ…」
「ならば結構です。貴方がそんな顔をする必要はありません」
「うっさい。私がどんな顔をしようが私の勝手だ」
「ええ。判っています」
閉ざされていた視線が再び自分に戻って来た。それだけで十分だった。互いに触れ合わぬ儘、ただ言葉だけを交わし、ぼく達は一つのベッドに身を横たえる。
「……しっかし…、君は相変わらず綺麗な顔をしてるな…。至近距離で見てたら、残りの視力が根刮ぎ消し飛びそうだ」
「ぼくの容姿にそんな感想を抱くのは、貴方くらいですよ」
「いやいや。君のその容姿はある一定層に熱烈な需要があるからマジで」
「はぁ…。まぁ孰れにせよ、ぼくには理解出来ない趣向ですね」
「おうおう、聞き捨てならねぇなぁフョードルの旦那ぁ?そのサラッサラの黒髪に陶磁器の様な白い肌、何より君の蠱惑的な紅い瞳は世界遺産に認定しても善いくらいだ。私が大富豪だったら、全財産注ぎ込んででも鑑賞券を捥ぎ取ってる所だぜ?」
「ですが貴女は、ぼくと云う人間そのものはお嫌いでしょう?」
「当たり前じゃん」
顔色一つ変えず彼女はそう返答を返す。まるで内緒話でもする様に顔を寄せて、レンズ越しの双眸がぼくに微笑んだ。
「私は君の容姿も声も好きだ。でも、それらを含めて君と云う人間が嫌いだ。喩えどんなに恩を受けても、喩えどんなに記憶が崩れ落ちても、私は君を一生許さない」
甘やかに紡がれた怨嗟の言葉。それを受け止め、咀嚼し、そしてぼくは微笑みをもってそれに応える。何時もの様に。
「ええ、それで構いません。ぼくは貴女を敬愛しています。けれど、だからと云って―――ぼくは貴女に愛されたい訳ではありませんから」
判り切った問答。四年前のあの日から、変わる事の無い言葉。それらをまた繰り返して、彼女は何時も通り何かを蔑む様に笑う。
「君はさ…、もし私と同じ“立場”の人間が現れたら、その誰かさんにも全く同じ事を云って傅くんだろうな」
「ええ。ですが、ぼくの前に舞い降りて下さった天使は貴女だけだ。故にぼくはこの敬愛を、貴女だけに捧げましょう」
「何度も云うが、私は君が信じてる様な高尚な存在じゃない。君が愚かと見下すそこいらの人間と全く同じ生き物だ。私は、君の福音なんかじゃない」
「いいえ。貴女はぼくの福音です。貴女がぼくの前に現れた瞬間、ぼくの此れ迄の行いは正しかったと証明された。貴女自身が其れを否定しても、確かにぼくは貴女に肯定されたのです」
「……なぁ、フョードル」
「はい」
「私さ、君のそう云う所が大っ嫌いだよ」
吐き捨てる様に、彼女はぼくに侮蔑の言葉をぶつける。これもまた何時もの事。彼女はぼくを嫌っている。憎んでいる。けれどぼくのこの想いに、彼女の感情は関係ない。敬愛とは、信仰とは、何時だって一方的なものなのだから。だから、ぼくは口元に弧を描く。嫌悪されようと、憎悪されようと、変わらないこの想いを彼女に告げる。
「知って居ます。それでもぼくは、貴女を救いたいのですよ。菫さん」
****
「私はこの世界の人間じゃない!」
まるで臓物を断ち切る様な苦渋の表情で、漸く彼女はそう吐き出した。
正体の不明の異能力者である彼女と初めて直に言葉を交わしたのは、今日の昼間。事情を聞くも彼女の返答は「猫を追い掛けてダンプに轢かれ、眼が覚めたら海の中に居た」と云う支離滅裂なもので、彼女を預けた便利屋が記憶障害を疑ったのも納得だった。しかし、その主張の裏を幾ら引き出そうと誘導しても彼女が襤褸を出す事は無く、少なくとも彼女の中ではそれが真実なのだと断ずる以外に無くなった。だが、だからと云って安易に記憶障害や精神錯乱と切り捨ててしまうには、彼女は余りに真面だった。それと同時に、初めて顔を合わせた時の違和感がぼくの中で強く主張を繰り返す。ぼくが口を開く度に微かに固まる彼女の空気。それは少なくとも、初対面の人間に対する警戒心から発せられるものではない。それに、此方の意図を探る様に向けられる視線も気がかりだ。だからぼくは彼女に告げた。「もし行く所が無いのなら、ぼくが貴女を引き取りましょう」と。その時彼女が一瞬浮かべた表情には、明らかな危機感が克明に刻まれていた。だから、彼女が今夜便利屋の許を抜け出す事も容易に予測出来た。
唯一想定外だったのは、彼女の目的が“逃走”ではなく“
無人の岸辺で、便利屋の許から持ち出したのだろう果物ナイフを自分の首に突き付けていた彼女は、ぼくの姿を見た途端表情を凍らせた。その眼には矢張り、明確な困惑と恐怖が混ざり合って渦を巻いている。そんな彼女にぼくはあくまで友好的に語り掛けた。貴女の身の安全は自分が保証する。それで足りなければ、貴女を害する一切のモノから貴女を守ると誓おう。だからもう、何も恐れる事は無いのだと。怯える幼子を諭す様に、ぼくは慈悲に溢れた声で彼女に微笑んだ。
だが返ってきたのは、矢張り拒絶だった。
そしてそれは想定して居た事だ。彼女が昼間度々ぼくに向けていた眼。あれは、単に自分を利用しようとする悪人に向けられる程度のものではない。そして今、より明確に色づいたその眼にぼくは確信した。
嗚呼、この眼をぼくは知っている。
今迄何度も見てきた。
人の道を外れた悪人よりも、もっと暗く悍ましい。人智を超えた魔物を見る眼。
―――ぼくに、最も多く向けられて来た眼だ。
「嗚呼。矢張り貴女は、ぼくの事を知って居るのですね」
バラバラだったパズルが、ぼくの中で一つまた一つと形を成していく。この世に生きた痕跡が一切存在しない女性。それはまるで、つい四日前に突然この世界に迷い込んでしまったかの様だった。しかしそれに反して、彼女は今日初めて会った筈のぼくを異様な迄に警戒している。それこそ、自らの命を絶つ事も辞さない程に。それは何故か?答えは簡単だ。彼女は、ぼくがどう云う人間かを知って居る。だからこそ、今もこうして自分の喉笛にナイフを突き付けているのだ。彼女がぼくから逃げ延びる唯一確実な方法が―――死ぬ事だけだと知っているから。
「ですが、それはもう叶いません。既に貴女は、ぼくの手の平の上だ」
ぼくの声を合図に、街灯すらない夜の岸辺に一人分の影が増える。それを見た彼女が、今迄と違う感情を宿して両目を見開いた。現れたのは小瓶を持った虚な眼の少女。昼間尋ねた際、彼女と楽しそうに戯れていた便利屋の妹だ。少女が何の為に現れたのか、それを説明する必要は無かった。苛烈な怒りを滾らせた彼女の眼光が、状況を理解した事を克明に告げていたのだから。それに微笑みをもって応えると、数秒の沈黙の末に彼女は漸く持っていた果物ナイフを捨てた。
降伏の意思を告げた彼女は、まるで絞首台に立たされた囚人の様にぼくを見上げていた。そんな不安定な眼を覗き込んで、ぼくは彼女にこれ迄抱いていた疑問を問うた。
“貴女は一体何者なのか”、“何故この世界に生きた痕跡が無いのか”、“何故貴女はぼくの事を知っていたのか”、“その知識は何時、何処で、どうやって手に入れたのか”、“貴女は他に何を何処まで知っているのか”、“抑々貴女は―――本当に人間なのか”。
触れられない彼女の顔を触れない様に両手で囲って、視線を縫い止めたぼくは溢れ出す疑問を彼女に問うた。だが口は開けど、彼女は一向に言葉を吐き出そうとはしない。怯える様に揺れる彼女の眼には、僅かに思考が巡っているのが見て取れた。彼女には未だ、それだけの余裕が残っている。或いは、そうまでして話せない“理由”があるのだ。だが、そんな事は大した問題にはならなかった。そんな余裕も、理由も、考えていられない程に追い詰めればいい。その準備は、既に整っている。
「どうしても…、お答え頂けませんか……」
「……っ…」
「……そうですか。………残念です」
最終警告を告げたぼくは、一人宵闇に取り残されていた少女に合図を送る。それを見た少女は、小瓶の中身を一気に飲み干した。次の瞬間、少女の手から滑り落ちた小瓶がコンクリートの上で砕け散り、後を追う様に小さな身体が崩れ落ちる。それを見た彼女が、悲痛な声を上げて少女の元へと駆け寄った。満足な呼吸も儘ならず痙攣する少女。けれど人に触れられない彼女には、少女を抱き起す事すら出来ない。
「ご心配なく。今ならまだこの解毒剤で助かります。ただ急いだ方が善いでしょう。服用から二分程度で手遅れになりますから」
「っ…!」
「もう一度お尋ねします。貴女は一体何者なのですか、臼井菫さん」
苦しむ少女に彼女が出来る事は何も無い。彼女に出来るのは、少女を救える誰かに縋る事だけだ。喩えそれが、
―――己が命を絶って迄逃げ延びようとした男だったとしても。
「―――っ!!私は…、私はこの世界の人間じゃない!私が生まれ育ったのは此処とは別の世界だ!アンタを知って居たのは、アンタの事が書かれた本が私の世界に在ったから!此れが私の知って居る全てだ、フョードル・ドストエフスキー!」
教えた覚えのないぼくの本名と共にそう叫んだ彼女は、まるで神に許しを乞う咎人の様だった。ぼくはその言葉を咀嚼し、精査し、そして口を開いた。
「貴女の世界は、
「……え…」
全く予期していなかったとでも云う様に、彼女は呆けた声を漏らす。けれどぼくは其れに構わず、尚も質問を重ねた。
「貴女が別の世界から来た異邦人であり、ぼくの知識を“本”で得たと云うならば、貴方の世界には“この世界の人間の詳細を記した本”があると云う事でしょう?つまり、この世界を観測出来る世界が存在する。そんな世界から、貴女は此方へやって来た」
こんなにも鼓動が騒がしいのは何時以来だろう。否、もしかしたら初めてかもしれない。何もかもが自分の予想の域を脱しないこの世界で、今初めて、その予想を超える存在がぼくの目の前に居る。
「一つの世界を観測し得るもう一つの世界。それは最早“神の御座”と呼んでも過言ではありません…っ。教えて下さい菫さん。貴女の世界は一体どんな世界なのですか?其処に不浄は、争いは、流血は、罪は、罰は、
―――異能力は、存在しますか?」
今迄以上に膨れ上がった問いを浴びせかけられた女性は、最早思考力さえ失ってしまった様に只々震えていた。しかし強張ったその口元の代わりに、僅かに動いた首が左右に振られる。それは確かな否定の意思表示。騒いでいた鼓動が明確な歓喜を打ち鳴らしたその瞬間、硬いコンクリートの上で藻掻いていた少女が吐血した。
「っ!レンカちゃん!?レンカちゃん!!」
我に返った彼女が、取り乱した様子で少女を揺する。そう。
「……レンカ…」
「っ…!?」
その時、魂の抜け落ちた声が宵闇の岸辺に沈んだ。たった今息を引き取った少女の姉である便利屋が、その双眸を絶望に染め上げて立ち尽くしていた。
「何で…何でレンカが…。どうして…」
「チカさん…、これは…」
「っ…!この恩知らず!!」
憎悪と嫌悪で織られた叫びと共に、便利屋は腰に差していた銃を彼女に向ける。明確な殺意に満ちた目が彼女を捉え、引き金に掛った指に力が籠る。
「よくもレンカを…、私のたった一人の家族を…っ!」
「…っ……!!」
ドンッ、ドンッ、―――バチン!!
銃声が轟いたそのすぐ後に、電流が走った様な強い破裂音が響いた。其処から少し遅れて、コンクリートに肉塊が落ちる音が続く。
「……ぇ…」
先に声を漏らしたのは彼女の方だった。眼球が転げ落ちそうな程に眼を見張って、彼女はその光景をただただ見つめていた。
其処に広がって居たのは人工的な舗装を施された血染めの岸辺。倒れているのは小さな少女と、銃を手にした女性。どちらも自身の身体から広がる血溜まりに身を横たえて黙している。
「なん…で…」
「これは驚いた…。貴女は、物質も弾き返す事が出来たのですね…」
「…弾き…返す……?」
「おや、もしや無意識だったのですか?たった今、ご自身を襲った凶弾を弾き返して見せたじゃありませんか。
ぼくの言葉に導かれる様に、彼女は自分の手に眼を落とす。撃ち込まれた二発の弾丸。それを弾き返し撃ち手の命を奪ったその手は、白い皮膚に赤い花の様な形をした痣が浮かんでいた。
「成程、貴女はご自身の異能に就いては本当に何もご存知ないのですね。嗚呼、しかし善かった。他に何処かお怪我は」
「―――…なさい…」
ポツリと、言葉と共に雫が落ちた。それを皮切りに、光を失った瞳から次々と涙が零れ落ちる。
「ごめ…さい…、ごめんなさ…、ごめん…なさい…。ごめんなさい…っ」
「っ!?」
懺悔の言葉が繰り返される度、赤い花は彼女の手から上に這い上っていく。それに呼応する様に彼女が触れて居るコンクリートは罅割れ、徐々に徐々に陥没していった。
「早く死ななくて、ごめんなさい…。まだ生きてて、ごめんなさい…。助けて貰ったのに、何も返せなくて…。欠陥品の癖に、此処に居て、ごめんなさい」
それは余りに悲痛な懺悔だった。
言葉を吐く度に、内側を引き裂かれているのではと思う程に。
その様を見て、ぼくは漸く理解した。
彼女がこの世界に堕とされた理由を、彼女の罪を理解した。
だから―――
「では、ぼくが貴女を救って差し上げましょう」
迸る気流の中心で座り込む彼女は、ぼくの言葉に顔を上げた。まるで全てを反射する硝子玉の様な瞳には、ただただ悲しみと恐怖だけが満ちている。その冷たく空虚な光に、ぼくは今度こそ心からの慈しみを込めて言葉を贈る。
「貴女が自らの存在を否定し、生き続ける罪に耐えられないと云うなら。貴女が望む“終わり”を、ぼくが用意して差し上げます」
「……どう…して…」
本当に心から判らないとでも云いたげな呟き。その純粋な疑問符に、ぼくは微笑みを以て答えた。
「たった今、貴女がぼくの全てを肯定して下さったからです」
「……は…」
「貴女はこの世界を観測し得る別の世界からやって来た。そして、その世界には異能力が無い。そうなのでしょう?」
戸惑いながらも小さく頷く彼女にまた鼓動が高鳴る。出来る事なら今此処で彼女の手に接吻し、この敬意を示したい。けれどそれが叶わないぼくは、せめて誠意を以って彼女の前に跪く。
「嗚呼…。ならば矢張り、貴女は神がぼくに遣わした福音だ。貴女の存在は神を証明し、同時にぼくの正しさすらも証明して下さった。この感謝を、ぼくは貴女に返したい。
だから教えて下さい菫さん。貴女は、一体どんな終焉をお望みですか?」
悲しみと恐怖に満ちていた硝子玉に、幽かな光が宿る。ぼくにはその光が、この世の何よりも純粋で美しいモノの様に見えた。
「それなら、私は今度こそ
―――消えてしまいたい」
小さく、か細い声だった。それでも彼女は、まるで贈り物を強請る子供の様に笑顔を浮かべてぼくに請うた。
「私は、欠陥品なんだ…。人間失格なんだ…。生まれてきた事自体が間違いだったんだよ……。だから、消して。
そしたら、全部巧くいく。私の所為で怒らせた人、困らせた人…、死んだ人も、全部無かった事になる。
それが正しい在り方なんだ。
だからお願い、私は最初から生まれなかった事にして…」
その懇願に、不覚にもぼくは心の底から感服した。
生まれて初めてだった。
“罪からの解放”ではなく、己の存在諸共に“罪の清算”を切望する人間を、
こんなにも清く、拙く、美しい願いを抱く人間を、ぼくは初めて眼にした。
「承知しました。貴女のその願いは、ぼくが叶えて差し上げます」
跪いた儘、ぼくは更に深く首を垂れて胸に手を当てる。この言葉に嘘は無い。正真正銘真実の誓い。それを捧げるだけの価値が、この人にはある。
「本当に……?」
「ええ。貴女はぼくにとっての福音だ。ぼくは貴女を救いたい。約束しましょう、菫さん。
貴女は必ず、ぼくがこの手で―――消して差し上げます」
あれから四年。彼女は未だぼくの傍で、願いの成就を待ち焦がれている。
書いた事が事実となる白紙の文学書。其処に自らの消滅を記される日を待ち望んでいる。故に、彼女がぼくの許を逃げ出そうとした事はあの夜以降一度もなかった。無論、自殺を試みた事も無い。問題が在ったとすれば、彼女の手に浮かび上がった痣がその後も
それは、ぼくでさえも予期していなかった事態だった。
銃弾を弾き返した際、彼女に発現した正体不明の痣。それは異能の対象範囲を拡張するものの自然治癒する事は無く、それどころか意図的な異能の行使を止めた後も、痣の範囲は時と共に広がっていった。発現から四年の月日が経過した今、彼女は顔の上部を残して全身の殆どが痣に覆われている。そしてその痣は、徐々に彼女から“感覚”を消し去っていった。
最初に消えたのは痛覚。ケロリとした顔で在り得ない方向に曲がった腕を差し出された時は、出来の悪いホラー映画でも見せられている気分だった。その次に消えたのは味覚。その所為で、食事や料理を好んでいた筈の彼女は、必要最低限の食事を摂る事すら渋る様になった。触覚も大分朧になり、長い距離を歩けなくなった彼女が車椅子を使う様になったのは一年前。聴覚と嗅覚は比較的残ってる様だが、視覚はもう直ぐ眼鏡でも補正しきれなくなるだろう。だが一番の問題は、
感覚のみならず記憶迄もが、彼女から消え始めていると云う事だ。
その喪失は断片的に発生し、最早彼女が何を覚えていて何を忘れているのかすら判らない。最近は日記を付ける事で忘却分を補填している様だが、視力が消えればそれも叶わなくなるだろう。
刻一刻と時が過ぎるに従って、彼女は着実に壊れていく。
痣の進行を止める為に、様々な手段を試してみたが結局全て徒労に終わった。ただ一人、問題を解決出来る可能性のある異能力者に心当たりはあるが、彼女を彼に接触させるのは危険だ。何せ相手は、ぼくと同格の頭脳を持つ悪魔的天才。下手に動けば、此方の動きを悟られ形勢が不利になる。そうなれば、ぼくの望みも、彼女の望みも叶えられなくなってしまう。
そうだ。重要なのは彼女の望みを叶える事。それさえ達成されれば後は些末な事だ。彼女が幾ら壊れようと、最後に彼女を消す事さえ出来れば何の問題もない。誓いは果たされ、彼女はぼくに救われる。
だから一刻も早く、彼女の自我すら消え失せてしまう前に。
早く、早く、早く―――
“本”を手に入れ、菫さんを消さなくては。
「―――それと菫様の容態ですが。先程視覚の完全消滅と共に、大幅な記憶の遺却が確認されました」
「…………は…」
侍従長の定時連絡。その中に含まれていた彼女の経過報告に、それ以外の全てが脳内から消失した。どうやって部屋を出たのかは判らない。どうやって彼女の部屋に辿り着いたのかも覚えていない。ただ、気がつくとぼくは彼女の許に居て、そして彼女は困った様に首を傾げていた。
「えっと…、其処に誰か居る…よな?すまん、私ちょっと今何も見えなくて…」
「……菫…さん…」
「ん?…嗚呼、そっか。私の事か。うん、私は菫だぞ?君は…、私を知ってる人…だよな?」
「……っ!」
緊張感の無い声で紡がれたその言葉に、呼吸が止まった。感覚が失われていく中でも、彼女は他人の判別が出来ていた。少なくとも、彼女がぼくの声を聞き分けられなかった事は今迄一度も無い。それなのに―――
「ぼくの事が…、判らないのですか……」
「あ…、うん。ごめん…。正直、自分が何で此処に居るのかもよく判んなくて……」
言葉が出なかった。喉が貼り付いて呼吸が出来ない。眼の前の現実を飲み下せず立ち尽くすぼくに、彼女は心配そうな顔でベッドから立ち上がる。
「なぁ、君大丈夫か?ごめんな、私…、わっ!?」
「っ!菫さん!!」
視覚を失い触覚すらも真面に機能していない彼女が、たった数歩でも満足に歩ける訳が無かった。踏み出した足はすぐにバランスを崩し、彼女の身体は無様に落ちる。ぼくに見えて居たのはそれだけ。ぼくの頭にあったのもそれだけ。だから、彼女に触れたらどうなるかなど、思い出す余裕も無かった。
「…………」
腕の中に収まって居た身体は、冷たく痩せ細って居て、ぼくの力でも容易に壊せてしまいそうだった。初めて間近で感じた彼女の匂いが、鼻腔を満たし思考を鈍らせる。すると、腕の中にいた小さな身体が不意にもぞりと動いて、ぼくの襟元に鼻先を押し付けた。
「あれ…、この匂い…。なぁ、君ってもしかして、ずっと私を助けてくれてた人?」
「……え…」
漸く動いた視線の先には、自分の胸元にピッタリと寄り添って此方を見上げる彼女が居た。その言葉の意味が判らず疑問符を漏らすと、彼女は合点がいった様に嬉しそうに笑う。
「嗚呼そうだ、その声!君は私を助けてくれた人だろ?」
「助…ける…?」
「うん。まぁ、具体的に何して貰ったかはちょっと思い出せないけど…。でもな、君が色々してくれて楽しかったのは覚えてるし、君が何時も助けてくれて嬉しかった事は覚えてるぞ!」
「………」
「あー、でも善かった。君が居てくれるならもう安心だな」
そう云って彼女は心から安堵した様に、ぼくの背中に両手を回す。何が何だか判らずに、浮かんだ疑問が直接口をついて言葉になった。
「貴女は…、ぼくが嫌いな筈でしょう……?」
「はぁ!?いやいやいや、どうしてそうなった!?だって私、自分の名前とかもう判んないけど、それでも君が大切な人だって事はちゃんと覚えてたんだぞ?それって心算さ、私は君がそれだけ大好きだったって事じゃないか!」
「…………」
思考が追い付かないと云う現象を、生まれて初めて体験した。判るのは、彼女が何もかも忘れてしまった事。彼女がぼくの腕の中に居る事。そして、彼女が…、菫さんがぼくを“大切な人”だと云い切った事。たったそれだけの事で、ぼくの思考はいとも容易く動きを止めてしまった。
「あ、所で君名前は?今度はちゃんと覚えるからさ、もう一回教えてくれないか?」
「………。…フョードル…、ドストエフスキー…」
自分の名前を紡ぐ度に、身体が強張った。ぼくの名を知られれば、背中に回されたこの手に突き飛ばされる気がして。けれど、赤く染まったか細い手は確かめる様にぼくの顔に触れ、軈て丁寧な手つきでぼくの両頬を包んだ。
「フョードル…。嗚呼…、この響きは知ってる気がする。そうだ、フョードル。君がフョードルだ」
一人で納得した様にぼくの名を繰り返して、彼女はぼくの額に自分の額を重ねる。こんなにも近くに彼女が居る。触れ合える距離に彼女が居る。それを確かめる様に、彼女の背中に手を回そうとしたその瞬間、酷く静かな声が落ちた。
「なぁフョードル。“約束”、ちゃんと守ってくれるんだよな」
「―――っ……」
動きを止めたぼくに彼女は尚も続ける。疑念も、威圧も、懇願すらもない。今迄何百何千と繰り返された確認作業。自分の名前すら忘却しながら、彼女はその不変の問いをぼくに掛けた。
「貴女は未だ……、それを望むのですか……」
「…正直云うとな、何で君にそんな事をお願いしたのかも、もうはっきりとは覚えてないんだ。でも、きっと私はこれからもっと壊れてく。周りの事も、自分の事も、何もかも忘れて、君の名前もまた判らなくなる。
……そんな終わり方は、厭だ」
初めて聞く彼女のその柔らかな声は、まさしく神の祝福を告げる福音の様だった。
何時か見た淡い桜の様に、嫋やかに微笑んだ彼女はぼくの手を握る。
「だから、そうなる前に終わらせて欲しい。
大切な君を忘れてしまう前に。
私の中から君が消えてしまう前に。
君の手で、私を消してくれ。フョードル」
全てを反射する硝子玉の様な瞳は今、文字通り何一つ映してはいない。けれどその中に、嘗て見た悲しみと恐怖は無かった。其処に在ったのは楽園だ。何ものにも侵されず、何人も触れる事の出来ない、彼女が漸く辿り着いた安息の地。その中で安らかに微笑む彼女は、この世のものとは思えぬ程に―――美しかった。
「ええ…、勿論です。貴女はぼくの福音。喩えこの世界の全てを敵に回そうとも、
菫さん、貴女は必ずぼくがこの手で、消して差し上げます」
あの時と同じ様に、彼女の前に跪いたぼくは深く首を垂れる。ただ一つ違ったのは、ぼくの手が自分の胸ではなく彼女の手に触れていた事。あの日叶わなかった接吻をその手に落とし、ぼくは改めて彼女に誓った。
「そっか。じゃあ大丈夫だな」
そう云って子供の様に笑う彼女に微笑み返して、ぼくはその手を額に押し当てる。
敬意を込めて、誓いを込めて、
そして、心からの祈りを込めて―――
「…フョードル?」
「……嗚呼…菫さん…。貴女の手はこんなにも、冷たかったのですね…」
願わくば、願わくば、
思考を掻き乱すこの感情の正体に、最後の最期迄気付く事がありません様に。
そんな祈りを込めて、ぼくは赤い徒花の咲き乱れる冷たい手を、強く強く握った。