hello solitary hand・番外編
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―――ポートマフィア。
トップである首領の命令を絶対とし、歯向かう者に容赦なく、裏切る者に慈悲は無い。正しく暴力を通貨とし、死と流血を齎す常闇の生産者。日向で生きる術を忘れた無法者共の群れ。
そんなポートマフィアの一角で、近頃とある噂話が実しやかに囁かれていた。
「なぁ、知ってるか?五大幹部の一人が嫁さん貰ったって噂」
「え!?五大幹部って、ま、まさか紅葉様が…っ」
「馬ぁ鹿、“嫁さん”っつってんだろうが。話ちゃんと聞けよ」
「ス、スンマセン…。でも、一体誰が?他の五大幹部って云っても、一人分はここ何年か空席の儘だし、もう一人は未だに名前すら聞いたことないし。残るは…、え?まさかAさんっスか?」
「否、あの旦那に嫁さんは無理だろ」
「っスよね〜。そしたら後は…え!?中也さん!?」
「まぁ、単に噂だがな。つうかあんなの、半分くらい都市伝説みてぇなもんだしよ」
「都市伝説?」
「ほら、三年前の大規模抗争。あれで敵のアジトに単身乗り込んで皆殺しにした女を中也さんが見初めて嫁しにたとか。その女はどんな猛者であろうと指一本触れずに倒しちまう豪傑だとか。あとは、あの禍狗の小僧と一日タイマン張って引き分けたとか何とかな」
「それ嫁じゃなくてマウンテンゴリラじゃないっスか?」
「はは、所詮は噂だ。大方どっかの馬鹿共が酒の席で有る事無い事吹聴したんだろう」
「嗚呼、抑々あの狂犬相手にタイマン張れる女なんて居る訳」
「あー!!」
「うおっ!?な、何だよ!?」
「紅葉様っス!」
「お前…、あんな上に居んのによく見つけたな」
「嗚呼、紅葉様…。今日も凛々しく美しいっスねぇ…」
「てか隣に居る奴、誰だ?」
「あ、そう云えば。紅葉様の部下に、あんなの居たかな…」
「さぁ?新人でも入ったんじゃねぇか?」
遥か高みの階層を過ぎ去る、その名に違わぬ優美な紅。その艶やかさに霞む傍の人影は、その後数秒もしない内に彼らの記憶からも霧散した。その左薬指に煌めく、―――銀色の光ごと。
****
「そら、着いたぞ。後はこの通路を真っ直ぐ進み、最初の突き当たりで右にある昇降機に乗れば地上に出られる。後は迎えでも何でも呼ぶがよい」
「何から何迄有難う御座います紅葉さん。本当に助かりました」
「はぁ…、感謝を口にする暇があるなら、お主はもう少し考えて行動する事を覚えよ。如何にあの子がお主に甘いとは云え、斯様な真似をしでかしたと知れれば間違いなく大目玉を食うぞ?」
「はは…。すみません。でも見つけちゃった以上、ほっとく訳にもいかなかったので」
却説。本日通算十三回目の溜息を賜った所で、これ迄のあらすじ!
今日も今日とて愛しの旦那様を送り出したその二時間後、寝室の棚にぽつんと取り残されたA4サイズの封書に気付いた私。彼が仕事関係のものを自宅に持ち込むなんて珍しい。そう思い封書を手に取った瞬間、私の中で稲妻が走った。手触りの良い上等な材質、仰々しい蝋印の押された封、何より表面に刻まれた“極秘”の二文字に、嘗てポートマフィアの事務員として培った経験が確信をもって告げた。“これ絶対大事なヤツだ”と。そして真面目な彼がこんな見るからに重要そうな封書を、意図してこんな所に出しっぱなしにして行く筈が無い。其処迄考え至った瞬間、私の脳内でイマジナリー名探偵が高らかに推理を口にした。
―――これ、忘れ物だね!
かくして愛しの旦那様に忘れ物を届けるべく、私は彼の職場であるポートマフィア本部ビルに潜入した。因みに、三年前のミミックとの大規模抗争で書類上私は殉死扱いにされており、今もこうしてのうのうと生きている事は、組織内でもごく一部の人間しか知らない機密事項となっている。何でも組織を抜け行方を晦ませていた裏切り者への例外的待遇を隠匿する目的と、刺客防止の意味も兼ねての処置だそうだ。故に此度の潜入も昔の仕事着とグラサンで構成員に扮し、しっかりと身バレ防止に努めた。だが意気揚々とビル内に潜入したはいいものの、志し半ばで私は早くも難局にブチ当たる事となった。何と肝心の彼の執務室は、昇進に伴い別フロアに移転された後だったのだ。正しく投了、万事休す。そんな私の前に現れた救世主がこちら―――
「はぁ…。廊下の隅から唸り声が漏れ聞こえて来た時は、組織に恨みを持つ死霊が化けて出たのかと思ったわ」
「そこで初手に金色夜叉出す辺り流石ですよね紅葉さん」
だがそのお陰で私は、本日開かれる定例会議で彼と顔を合わせる予定の紅葉さんに巡り会えた。事情を聞いて紅葉さんも快く届け物を請け負って下さり、これで任務完了一件落着。しかもこれ以上人目に付かないようにと、紅葉さんは私をポートマフィアの秘密通路迄案内して下さった。ホントこの人女神かな?
「まぁ、元はと云えばあの子が書類の管理を怠ったのが原因じゃが、お主もお主じゃぞ菫。斯様な真似をせずとも、あの子に連絡を取るなり、部下に届けさせるなり、他に手はあったじゃろう。此度は偶然
「ん〜、そう心配する事も無いと思いますよ?一応やつ…芥川君とは、先日のガチンコバトルで事実上“手打ち”って事になってますし」
「寧ろその現場を眼にしたが故の危惧なのじゃがな…。あの様な死闘を演じた後で、彼奴の遺恨が晴れたとはとても思えぬが?」
「はは、まぁきっと許しては貰えてないでしょうね。でも、あの子と真面に話し合おうと思ったら、全力で殴り合いながらでないと無理だと思いまして」
「“話し合い”、のう…。
「あ、いえ…、あれはですね…?ちょっと同一の推しへの解釈がお互いに地雷同士だったと云うかですね…。引く訳にはいかない戦いが其処にはあったのです。ええ…。でも互いに意見を貫き通して引き分けた以上、少なくとも視界に入っただけで斬首狙われる事はもうないと思いますよ」
「はぁ…。お主も熟く難儀な奴よのう。あの儘お主は死んだと思わせておけば、不要な面倒を招かずに済んだじゃろうに…」
心底呆れた様に溜息を吐く紅葉さん。そんな彼女の言葉に同感しつつ、私は苦笑を浮かべた。
「だって、そんなの姑息が過ぎるじゃないですか。それに、芥川君はこの組織に欠かせない存在です。私はもう組織の人間じゃないけど、あの人にとって此処の人達は家族同然ですから。そんな芥川君にこれ以上不義理な真似はしたく無かったんです。
今更ですけど、それでもせめてこれからは、ちゃんと胸を張ってあの人の隣に立っていられる自分で居たいから。……その、…ほら。…つ、妻として…」
自分で口にしておきながらその言葉が矢張り照れ臭くて、誤魔化す様に私は自分の左手を掴んだ。そんな私の内心を察したのか、紅葉さんは何とも生温い微笑みを浮かべる。
「早いものじゃのう。あれからもう一年になるか」
「ええ、未だに夢みたいです。毎日幸せの過剰摂取で、ニヤケ面がデフォルト化しそうですよ」
「ふふ、気を付けろよ。それ以上顔が緩みおったら、孰れ鼻から下が溶け落ちるかもしれんぞ?」
「うん。無いと云い切れないのが怖いですね」
「やれやれ、これはほんに重症らしいのう。…じゃが安心したわ。その様子なら、もう死に体で机に倒れ伏す事も無さそうじゃな」
「oh…、忘れたい黒歴史を容赦無く持ち出して来ますね紅葉さん…」
「今だから云うが、あの時は
「い、今は大丈夫ですよ。何だかんだあの人必ず家には帰って来てくれますし。逢えない日とか今の所一日も無いですし。ホント、毎日ハッピーオブハッピーライフです」
そんな話をしていたら、此処一年の幸せな記憶が何時の間にか脳内に溢れ出していた。その温かく穏やかな思い出に、熱を上げた顔がまたニヤけ出す。けれどそれが現在に近づく程に私の中で
「でも…。逆に、あの人の方が無理してないかちょっと心配です。今日みたいな事も、今迄一度もなかったのに…。あの人、ちゃんと睡眠摂れてるのかな……」
「ん?何じゃ、お主ら寝室は別なのかえ?」
「あ、いえ。一緒ではあるんですけど。最近の彼、帰ってくるのが殆ど明け方なんですよ。この一年でどんどん仕事が多様化してる所為か、スケジュールが寿司詰め通り越して押し寿司レベルに過密化してるっぽくて…」
そう。今迄なら日付が変わる頃に帰宅し、就寝と翌日の準備を終えてから深夜二時頃に床に着いていたあの人は、現在日の出と共に帰宅するのがデフォルトになってきている。無論私も帰宅した彼を出迎えるべく、リビングで眠気覚ましのB級ホラーを垂れ流しつつ睡魔と格闘していたのだが、とうとう先日「俺はいいから、無理せず寝てろ」と云い渡されてしまった。私としては何とか食い下がりたい所ではあったが、その時の彼の疲れ切った苦笑を前にしては反論出来る筈もなかった。
「まぁ、一応朝起きたら何時も隣で寝てるし、朝ご飯もちゃんと摂ってくれてますけど、大分疲れが溜まってるみたいで食事中も凄く眠そうにしてるんですよね。本人は“大丈夫だ”って云うんですけど、今に過労で倒れないか…心配…で…」
その時ふと、私は異変に気が付いた。つい先刻迄隣から漂ってきた春の木漏れ日の様な気配が、一切感じられなくなったのだ。思わず隣に目を向けると、矢張り其処には紅葉さんが居てにこやかな笑みを浮かべて居た。と云うか、にこやかな笑みを貼り付けている様に見えた。
「のう菫や。これはちょっとした確認なのじゃが、最近あの子とはどんな話をしておるのかのう?」
「ど、どんなって…、普通に家庭内の報告事項ですよ?足りないモノはないかとか、困ってる事はないかとか。あとは彼の帰宅時間とか、夕ご飯必要かどうかとか。まぁと云っても、最近は専ら“今日も遅くなるから先に寝ててくれ”の一択ですけど……」
「……因みに、お主らがそんな状態になってから一体どれくらいになる?」
「え…どれくらいかな…。多分もう少しで一月くらいにはなるかと…」
―――ピシリッ…。
と云う、そんな音が聞こえた気がした。まるで眼に見えない何かに亀裂が入った様な音。そしてその音の出所は、云わずもがな…
「一月か…、成る程のう…」
何も無い虚空に眼を向けそう独り言ちる和装の麗人は、袖で口元を覆いほくそ笑んだ。異能が発動している訳でも無いのに、彼女の周囲からは殺伐とした気配が滲み出ている。
「よし菫。お主矢張り、今暫く此処におれ」
「はい!?え、何でですか!?」
「すまんがちと野暮用が出来てのう。何、案ずるな。お主はゆっくり茶でも飲んで待っておればよい」
「否でも私、此処じゃ機密事項扱いですし…。一体何処で待てば…」
「嗚呼、そう云えばそうじゃったのう。ふむ……」
すると紅葉さんは口元に手を当てて思案に耽る。が、少しすると何か妙案でも思いついた様に「そうじゃ」と手を打った。
「丁度お主に打って付けな場所があったわ」
そう微笑む和装の麗人が、心なしか悪戯めいて見えた。
****
見慣れた飾り気のない地下の一室。其処で何をするでも無く何時もの様に座していると、不意に背後で扉が開く音がした。足音が二つ。踵の高いブーツと革靴。前者は聞き慣れていたが、後者は初めて聞く音だった。背後から近づくその音に視線は疎か声すら掛けずにいると、俺の首元に音も無く銀色の閃光が突き付けられた。
「相変わらず不愛想な男じゃのう。客人に挨拶も無しかえ?」
「招いた覚えはない。…が、気に障ったのなら君の好きにするといいさ」
首の数
「
「待て、意味が判らない。君の客人なら、君の客間で持成してやれば善いだろう。俺には一切関係の無い事だ」
「そうしたいのは山々じゃが、あれはちと訳ありでのう。……ほれ、お主も何時迄そんな所に突っ立っておる?此方へ来て座れ“菫”」
「!」
「こ、紅葉さん!?」
同僚が口走ったその名に、不覚にも俺は眼を見開いた。何故か呼ばれた本人も驚いた様に眼を剥いていたが、そんな彼女に同僚は小さく笑いながら肩を竦めた。
「案ずるな。この男も一応は五大幹部の端くれじゃ。お主に纏わる事情は粗方把握しておる」
「そう、なんですか…?」
「嗚呼。それに此奴は、あの子とも
同僚にそう手招きされた彼女は戸惑っている様に見えたが、軈て小さく頷くと此方へと進み出た。そうして俺の前に立つと、頼りなく丸めていた背筋を真っ直ぐ伸ばして俺に視線を向ける。彼女が何を思ってそんな表情を浮かべたのか、会って数分にも満たない俺には判らない。だが少なくとも、彼女の顔にずっと貼り着いていたあの所在無げな苦笑は消えていた。
何処か誇らしそうに、けれど少し照れ臭そうにはにかんで、彼女は俺に名を告げた。
「その…、初めまして。私、“中原菫”と云います。夫の中也が何時もお世話になっております」
その名乗りに今度こそ固まった俺の横で、和装の美女が白々しく微笑んだ。
「
それだけ云うと同僚は俺と彼女の横を通り過ぎ、また靴音を響かせて出入り口へと消えていった。取り残された俺達は軈てどちらとも無く顔を見合わせ、何とも云えない沈黙だけが地下の一室を満たしていった。
****
「砂糖とミルクは必要か?」
「あ、いえ、お気遣いなく。無くても飲めますので」
「そうか、助かる。何せこの部屋に客人など君が初めてでね。自分が使わない物は用意が無いんだ」
そう云って部屋の主は私に珈琲の入った杯を手渡すと、また籐椅子に腰掛けた。左側だけ編み込みにされた長髪。長い手足とそれに見合った背丈。欧州の人間であると思われるその容貌は、しかし何処か浮世離れした空虚が染み付いて居る様に見えた。
うん。てか、どうしてこうなった?
あっるぇ?おかしいなぁ?先ず紅葉さんが急に私を引き留めたのもおかしいが、其処で何故見ず知らずのお兄さんに私を預けて行くんですか?「此処なら人の出入りも殆ど無い故安心するが良い」って。すみません紅葉さん、その代わりにより深刻な問題が付加されてるんですがお気付きでしょうか。幾ら彼の同僚だからって、ガチ初対面のお兄さんとティータイム耐久戦とか陰キャには難易度鬼モードなんですがトリアエズダレカタスケテ。
「しかし、君も災難だったな。よりによってこんな処に連れて来られるとは」
「そ、そんな事…。寧ろこの場で一番被害を被っているのはお兄さんの方じゃ…」
「………」
「? あの…」
「嗚呼…。否、済まない。少し驚いただけだ。気にしないでくれ」
「はぁ…」
今の会話の何処に驚くポイントが在ったのか。と云うか、この人本当に五大幹部の一人なんだろうか。まぁ実際元の世界でも五大幹部は一人だけ情報が公開されてなかったし、紅葉さんが云うからには間違いないんだろうけど。でもそれなら、この人も定例議会に出なきゃいけないんじゃないか?抑々、首領に次ぐ組織統率権を持つ人が、こんな質素な地下室に居るのもおかしいし。
それに、なんかこの人―――
「……そう不安がらなくていい。彼女にはああ云ったが、流石に同僚の伴侶を邪険にはしないさ」
「あ、いえ…。そうではなく…。今日は大事な会議があると聞きましたけど、お兄さんは出なくていいんですか?」
「俺の仕事は暗殺者の後進育成だけだ。それ以外の業務に首を突っ込む心算は無い。抑々、土竜の様に地下から出て来ない男の意見など、何の役にも立たんだろう」
「…それ、幹部的に大丈夫なんですか?」
「大丈夫だから俺は今もこの大層な肩書きをぶら下げている。まあ、所詮は成り行きで押し付けられた立場だ。剥奪された所で惜しくもないがね」
わぁ、どうしよう。何か今迄に無かったタイプだな。あ、でも色んな事に興味が薄い感じとか昔の太宰にちょっと近いかも。とは云えやっぱ感情の機微がイマイチ読み辛い…。
「君こそ、どうして此処に居るんだ。君の存在はこの組織で機密事項扱いにされている筈だろう」
久々に予備知識無しぶっつけファーストコンタクトの難易度に内心頭を抱えていると、唐突にお兄さんはそう切り出した。
「あ~…、その…。ちょっとウチの人に届け物が在りまして…」
「届け物?一体何を?」
「……えっと…、其れは出来ればノーコメントでお願いしたいです」
抑々この件は、彼の失敗と云うよりは私が勝手に焼いたお節介みたいなものだ。下手に話して彼の顔に泥を塗る様な事は避けたい。まぁ此処迄会話した感じ、多分このお兄さんは人の失敗談をネタにするタイプじゃないだろうけど。
「……まぁいい。だが、今後君はもう少し慎重になるべきだ。無用心にフラフラ出歩いていると、今に誘拐屋に拐かされるぞ?」
「はは…。肝に命じます。でも抑々私に触れられる人なんて居ませんから、誘拐するにしてもそれなりに準備しないと無理だと思いますよ?」
「ん?…嗚呼、そう云えば君は随分と変わった異能を持っているんだったか」
「はい。基本的には常時他人と他人の異能力を弾く異能です。まぁウチの宇宙最高の旦那様と、異能無効化の異能力者である彼の元相棒って云う例外が二人居ますけどね」
「……気になっていたんだが。反異能力は勿論例外として、彼奴は…、君の夫は何故その異能の影響を受けないんだ?」
「嗚呼、それは私があの人を“許容”したからですよ」
「許容?」
「はい。あの人は“拒絶する必要がない”って、私が私の意思で許容した。だから彼は私に触れるんです。私の夫は、私が心からそう思えた
―――ただひとりの人ですから」
無意識に落ちた視線が、また左手の薬指を映す。この世界に迷い込んだと同時に異能力を授かって三年。その中で私に触れられた人間はたった三人。そして今は二人だけだ。最初の二年の殆どは、ただ一人を除いて他人どころか外界そのもとの接触を断って過ごした。漸く地上に顔を出したこの一年も、私の生活圏の全てはだだっ広い4LDKの一室に集約されていたと云っても過言ではない。勿論買い出しの為に外へ出る事はあるし、その時には送迎役兼護衛の人が付いてくれる。立ち寄ったお店の店員さんと短い会話をする事もあるし、街を歩けば行き交う人々と擦れ違う事もある。
けれど、ただそれだけだ。
今の私の日常生活の中でこの異能の為に生じる弊害は一つもない。送迎役の人も、お店の店員さんも、擦違う街の人々も。無理に触れる必要は無い。そして無理にでも触れたいと思えた唯一の相手は、二度とこの手に弾かれる事などないのだから。
「そうか…。愛されているんだな。彼奴は」
初めてその声に感情の色が滲んだ様に聞こえた。思わず眼を向けると、その顔は相変わらず遠く彼岸の幻の様だったけれど、それでもほんの僅かに体温の感じられる様な表情だった。
「当ったり前です!何せあの人は、
お前が俺以外何も要らねぇって云うんなら、全部お前にくれてやる。お前から取り上げちまう分、俺が与えてやる。お前が失った分、俺が埋めてやる。喩えどんな手を使っても、俺の全てを懸けて。菫。
―――お前を是が非でも幸せにしてやる
この一年、彼はその言葉を実行し続けてくれた。
広くて眺めの良い部屋、買い出しの度に着く送迎役兼護衛さん、まるでお小遣いの様に手渡された黒いカード。それらを「当たり前だ」と云って、彼は惜しみなく私に与えてくれた。その上で、彼はどんなに時間が無い時でも私の居る自宅に必ず戻ってきてくれるのだ。
職務が佳境に入った時も。取引先との会食で夜が明けた時も。敵組織の殲滅を終えた時など、態々身なりを整えて血と硝煙の匂いを消してから帰ってくれる。そう云う時の彼は、何時もより石鹸と香水の匂いがするから何となく判る。きっと其の儘職場や近場のホテルに泊まってしまった方が早い筈なのに、そんな手間迄掛けて彼は必ず私と同じベッドで眠りに着くのだ。寝る時は「おやすみ」と額にキスをして、必ず私を抱き締めた儘眠ってくれる。そして朝起きればまた「おはよう」と額にキスをして、私の作った朝食を残さず食べ切って、家を出る前にもう一度額にキスをして「行ってくる」と頭を撫でてくれる。忘れ物をした今朝でさえも、それだけは忘れずにいてくれた。
彼以外、殆どの人間と接点を持たない生活の中で。その欠落を埋めようと、彼は何時も私を気に掛けてくれている。出来るだけ私を夜の世界から遠ざけようと、家に仕事関係のものは持ち込まず、話題にすら上げないでくれている。
“君が居て呉れたらもう何も要らない”と、漸く言葉に出来た私の人生最大の我儘を、彼は本当に叶えてくれた。
自分は夜の闇に染まった儘、それでも私を光の世界に留まらせて、
“ただの女”としての幸せを、彼は私に与えてくれた。
だから、私は―――
「……一つ、確認させてくれ」
幸せな記憶にジワリと熱を宿した心臓が鼓動を止めた。止めるに値する何かが、その声には籠っていた。仄かに感情が滲んでいたその顔は、未だに色を失って居なかった。けれど、其処に在ったのは先刻迄の体温ではなく、硬く冷たい暗闇の縁だった。
「君は彼奴を自分の全てだと云うが、なら君は
―――
鼓膜に届いたその言葉を咀嚼しつつ、向かい側に腰掛けるその表情を私はジッと見据えた。其処に悪意は無い。敵意も無い。無論揶揄の類でもない。ただ、今迄彼が纏っていた朧げに霞む傍観者めいた空気は消えていた。恐らく、この人は今初めて私と本当に言葉を交わしている。直感的にそう確信した。理由は判らないけれど、きっとこれはこの人にとってとても重要な問いなのだろう。
「………」
だから私は今一度その問いを吟味して、答えを紡ぐ為に息を吸いこんだ。考える迄もなく、まさしく“当たり前”に確定している、
揺るぎない事実を。
「知りませんよ」
ピクリと、お兄さんの目元が僅かに引き攣った。けれど私は其れに構わず言葉を続ける。
「私があの人と過ごした時間は、一年ちょっとだけです。私と出逢う前のあの人を…。あの人の過去を私は殆ど知らない」
私が知って居るこの世界の知識は、所詮一部分だけを切り取った断片情報だ。
それでも―――
「それでも私は、あの人がどう云う人かを知って居ます。喧嘩っ早くて好戦的で、だけど面倒見が善くて責任感が強くて、義理堅く律儀で。結構見栄っ張りで、お酒が大好きなのにお酒に弱くて。自分の仲間を家族みたいに大事にしてて。下っ端の事務員が怪我しただけで、滅茶苦茶怒ってくれて。心配してくれて。
初めて私の痛みを労わってくれた人。初めてこの手で触れたいと思えた人。
彼の過去に何が在ったとしても、彼が何者であったとしても、その事実だけは変わりません。あの人は、
―――中原中也は、私が初めて心から愛した男です」
何も読み取れなかった目の前の表情が、僅かに張り詰めた。生命活動すら中断されてしまった様に固まった長髪の異邦人は、けれど徐々に肩を落として口の端を吊り上げる。
「嗚呼、本当に…。彼奴は何時も俺を驚かせるな…」
その言葉の意味を問いたかったけれど、声が出なかった。それは多分、目の前のお兄さんが初めてはっきりと、人間らしい柔らかな顔で笑っていたからだ。その笑顔が矢張りあの人にそっくりで、私は不覚にも呼吸を止めて魅入ってしまった。
「なぁ、もう一つだけ聞かせてくれ。君との初デートの時彼奴は…、中也はちゃんと約束の時間に遅れず来たか?」
「はい!?は?な、何でそんな事…っ」
「いいから教えてくれ。頼む」
「…………。…………その、待ち合わせ場所に向かってる時に緊急の案件が飛び込んだらしくて…。結局、一時間…遅れて来ました……」
「………」
「………」
「っ…。くく…」
「ちょっ、笑わないで下さいよ!仕方ないじゃないですか!あの人ホンット忙しいんですからね!?それに待たせた詫びにって、帰りは異能で夕空を一緒にお散歩してくれたんですよ!?もう脳内で“人生のメリーゴーランド”流れ出すレベルにロマンチック極めてましたからねマジで!!」
私の返答を聞いたお兄さんは、先刻迄の虚脱感が嘘の様に口元を押さえて俯き肩を小刻み揺らす。だがその時不意に、部屋の奥で機械的な稼働音が漏れた。反射的に音のした方を見やると、其処には私がこの部屋に連れて来られた時に潜った扉があって。開かれた暗がりの向こうから、見慣れた黒が盛大に足を踏み出した。
それはもう、踏み込んだ足元に
「やれやれ、如何やら迎えが来たみたいだな」
いつの間にか顔を上げていたお兄さんが、溜息混じりにそう云って肩を竦めた。そんなお兄さんに、突如現れた来訪者は口の端を釣り上げる。が、一般的に“笑顔”と銘打たれる筈のその造形は、誰が見ても判る程明確な怒気を垂れ流していた。
「会議にも顔出さねぇ引き篭もりが良いご身分だなおい。ウチの嫁と茶ぁシバいて楽しかったか?この
「………へ?」
そのご尊顔に負けず劣らず怒気を含んだドスの効いた声。だがその最後の一言が私の脳内で玉突き事故を起こした。辛うじて意味は咀嚼したものの矢張り飲み下す事が出来ず、そろそろと視線を向ける私に当の本人はニヤリと笑った。
まさしく、すぐ其処に居る旦那様にそっくりな笑顔で。
「
その日、ポートマフィア本部ビルの地下隔離室で、其れは其れは盛大なシャウトが上がった。
****
ヨコハマ港を一望出来る高層マンションの最上階。その中でもとびきり上等な4LDKのリビングで、私はフカフカの皮張りソファーの上に鎮座していた。―――ただし正座で。
「この度は!誠に!申し訳ございませんでしたあぁーーー!!!」
膝下に三つ指ついて、一切無駄のない鮮やかな軌道を描きながら、私はソファの縁に額を叩き付けた。きっと土下座ソムリエが居たら満面の笑顔で拍手喝采を送ってくれる事だろう。だが生憎と私の目の前に居るのは、土下座ソムリエではなく両腕両脚組んで反対側のソファーに踏ん反り返る愛しの旦那様だった。
「おう。自分がやらかした事の重大さが判ってる様で何よりだわ。まぁ抑々、判ってんなら最初からやらかすなって話だがな」
「仰る通りです!!ホントスンマセン!!」
ワァーオどうしよう。怒られるのは覚悟の上だったが、想像以上にお怒りでいらっしゃる。何時もより三トーンくらい声低いし、元々鋭い目元が鋭さ増し増しになってるし。下手すりゃ
「取り敢えず云いてぇ事ぁ山の様にあるが、そいつぁお前も同じだろう。だから、先ずはお前の云い分から聞いてやる」
「滅相も御座いません!中也に連絡もせず勝手にポートマフィア本部ビルに忍び込んだ上、目的果たしたのに何時までも帰らず。しかも知らなかったとは云え、お義兄さんに接待させるなんて飛んだ御無礼を」
「そりゃ帰る間に散々聞いたからもういい。他には?」
「へ?……えっと…、今度からはちゃんと中也に相談してから動きます?」
「……それだけか?」
「??……後は……、今度お義兄さんに義妹として正式なご挨拶状を」
「要らねぇよ!糞兄貴の事は如何でもいい!謝罪と反省以外で、何か俺に云いてぇ事はねぇのかよお前!?」
「え…。否、特には…。それより、中也は仕事大丈夫なのか?早く職場に戻った方が善いんじゃ…」
すると私の返答を聞いた中也は、愕然とした様に眼を見張った。そんな彼の顔を見てどうしたら善いか判らずに居ると、とうとう中也は手で目元を覆って俯いてしまった。
「はぁ…。マジで姐さんの云う通りじゃねぇか、クソ…」
「中也?あの、私何か…」
「いい、気にすんな。これは完全に俺の落ち度だ。……よし。なぁ菫」
「ん?何?」
「俺、明日丸一日非番になったぞ」
「どうしてそうなった!?」
突然謎のカミングアウトをかました中也は、私のツッコミにバツが悪そうな顔で頭を掻きながら答える。
「今日の定例会議前に、姐さんが首領に脅し掛け…直談判したんだよ。今直ぐ俺に休暇を出せってよ。で、最終的に一日だけならって事で首領から正式な許可が下りた。正直、本気の姐さんには首領も敵わねぇからな」
「否待て!何で紅葉さんがそんな事…っ。てか、こんな急に休んだら後で仕事の皺寄せが」
「菫」
「……っ…」
不意に、中也が私の名前を呼んだ。それだけで、ワタワタと狼狽する私を黙らせるには十分だった。中也は相変わらずソファーに座った儘、徐に手袋を外し出した。そして高級な革張りの黒が剥ぎ取られた無骨な手を、私の前に差し出す。中也は少し難しい顔をしたまま何も云わなかったけれど、その行動の意味なら判っていた。
彼が手袋を外して私に手を差し出す時、その行動が意味するものは何時だって一つ。―――“手を握り返してくれ”だ。
「……わっ!」
差し出された手に自分の手を重ねると、その瞬間私の身体は宙に浮かび上がった。けれど重ねた手がしっかりと繋ぎ止めてくれたから、高い天井迄飛んで行かずに済んだ。繋がれた手に引かれ間に据えられたテーブルを飛び越えて、私は反対側のソファーへと手繰り寄せられる。まるで風船の様に宙を漂い辿り着いた先は、眉間に少しだげ皺を寄せた愛しい伴侶の膝の上。
「中也?…っ?」
向かい合った儘私を自分の膝の上に降ろした中也は、空いている手を私の背中に回して更に距離を詰めた。そして握っていた手を解くと私の髪にそっと触れ、其の儘優しく頭を撫で始める。
「あの…、中也…さん?」
彼の行動の意味が判らず名前を呼んでみるも、中也は黙った儘口を開かない。その癖視線は私に向けた儘、繰り返し私の頭を撫で続ける。軈てその手が米神を撫で付け、滑り落ちる様に頬を伝う。顔に掛った髪を耳に掛けられ、其の儘弾力を確かめる様にふよふよと頬を押された。意味は判らなくても、そうして彼の手が自分に触れる程に、心臓の奥が熱を帯びて綻んでいく様だった。
この世界で、私を初めて助けてくれた手。私に居場所をくれた手。私が初めて触れたいと思った手。
その手が此処にある事が、今更ながらに奇跡の様で。気付けば私は、まるで犬猫の様に自分からその手に顔を摺り寄せていた。それに応える様に、硬く暖かい手が私を撫でる。少し乾いてざらついた指先の感触すら心地よくて、安堵に眼を閉じて彼の肩に顎を乗せると、背中に回されていた手がまるで子供でもあやす様にポンポンとリズムを刻む。
「首領が休暇を許可した後な、俺も姐さんに叱られちまったよ。“お前は何の為に彼奴を嫁にしたんだ”って」
耳元に降ってくる声はまるで寝物語でも紡ぐように穏やかで、ほんの少し申し訳無さそうに聞こえた。
「手離したくなかった。その為に俺は、自分以外何もかも取り上げてお前を此処に閉じ込めた…。なのに、今じゃ碌な会話もしねぇで、ただ毎日同じベッドで寝て、同じ食卓に着いて。そんな形ばっかり守った所で、中身が伴わなきゃ意味なんざ無ぇのによ…」
鼻腔を満たす香水の匂いがより濃くなった。頭から抱き寄せられて、私の鼻先がチョーカーの巻かれた首筋に押し付けられる。
「“物判りのいい嫁に甘えるのも大概にしろ”って喝入れられて、漸く気付いた。ホントその通りだ。忙しさにかまけて、お前の事ちゃんと見てやれてなかった。何時もお前が平気な顔して笑うからって、気ぃ抜いてた。お前が
「中也…」
懺悔の言葉と共に力を増していた両腕がふと緩んだ。硬い指先に導かれて上げた視線の先には、眉をハの字に寄せて苦笑する中也が居た。
「なぁ、もう一度聞くぞ菫。お前、―――俺に何か云いてぇ事はねぇか?」
「……っ…」
優しく穏やかに問われ喉元に息が詰まった。そんな私を促す様に、中也はまた私の手を握ってくれた。今度は指を絡めてしっかりと握られ、直接伝わる熱が手の平をじわりと焦がす。けれどその熱は、本当はずっと欲しかったもので。それに気付いてしまったら、心臓の奥底に押し込めていた何かが一つ、喉元に詰まった息を押し退けてポロリと外に出た。
「私な…、中也に話したい事が、沢山あるんだ…」
「おう」
短い返事。けれど言葉の先を促すそれは、私の中にある堰を打ち砕くには十分だった。
「買い物の時に見つけた面白い新商品の事とかな、配信サイトで君の好きそうな映画見つけた事とか、送迎役の部下さんが君の事滅茶苦茶褒めてた事とか…。ずっと君に話したかった…」
「そうか」
「君に食べて欲しくてな、色んな料理調べて、作り方の解説動画見て…。ワインに合う料理のレパートリーとか、すっごい増えたんだ…」
「そうか」
「……寝る時な、矢っ張りちゃんと中也に“おやすみ”って云いたくて…。キスも、ちゃんと起きてる時にして欲しくて…。でも、忙しくても毎日帰って来てくれてる君に、これ以上我儘云いたくなくて。こんなに幸せにして貰ってるのに、これ以上望んだらきっと中也を困らせるから…。だから、云いたくなくて……」
言葉を紡げば紡ぐ程、文章が拙くなっていく。それでも、そんな箇条書きの羅列を彼はちゃんと最後迄聞いてくれた。そして小さく「そうか」と呟くと、私の顔を引き寄せて額にキスをしてくれた。毎日施されている筈のそれが何故か一際特別なものに感じて、その余韻に浸り切った私にまたあの優しい手が触れる。
「悪ぃ、寂しい想いさせちまったな」
「寂…しい……?」
「如何にあの子がお主に甘いとは云え、斯様な真似をしでかしたと知れれば間違いなく大目玉を食うぞ?」
―――嗚呼、そうか。
だから私、あんな事したのか。
中也に連絡もしないで、部下さんに頼む事もしないで、本当に忘れ物かどうかも判らない封書を届けに、行っちゃいけないこの人の職場に行ったのか。
気付かなかった。
ずっと昔に忘れてしまっていたから。それっきり判らなくなってたいたから。
でも、これが
「……寂しい。うん、寂しかった…。中也が居ないのは、私寂しいよ…」
まるで駄々を捏ねる子供の様に、私は両手で自分と大差のない背中にしがみ付く。それをしっかりと抱き止めて、中也は私の耳元にそっと声を落とす。
「嗚呼、安心しろ。明日はずっとお前の傍に居る。何かしてぇ事とか行きてぇ場所はあるか?」
「出掛けなくていいから、家で中也とゆっくりしたい。中也、最近ずっと忙しかったし」
「おい、俺の事は気にすんなって」
「私がそうしたいんだ。中也と一緒に昼くらい迄寝過ごして、遅い朝ご飯食べたら今度はソファーの前にお菓子とジュース並べて、一緒にダラダラ映画とか観てさ…」
「…まぁ、お前が本当にそうしてぇならいいがよ…」
「後な、中也に食べて欲しいけど朝ご飯には重過ぎるからって、今迄出せなかった料理が沢山あるんだ…。それ作るから一緒に食べよ」
「おぉ、そりゃいいな。なら俺も作るの手伝ってやるよ」
「え!いいの!?」
「嗚呼。俺も久々にお前と台所に立ってみてぇしな。何なら今日の夕飯も一緒に作るか?」
「うん!作る!あのな、私中也の作る海老のアヒージョ食べたい!あ、材料は冷凍庫にストックあるから安心してくれ!」
「おう任せろ。じゃあ今夜は特別に、お前の気に入ってる銘柄の上物を開けてやる」
「わーいやったー!あ。でも中也、あんまテンション上げて飲み過ぎないでくれよ?」
「あ?何でだよ?折角久し振りにお前と飲めんのに、存分に楽しまなきゃ損だろ?」
「………だって中也…、酔うと最後には寝ちゃうじゃん…」
「だから何だよ?」
「………」
「菫?」
「………中也は…それでいいのか…」
「………」
辛うじて私はその問いを言葉にして吐き出した。如何か伝われと念じながら、私は羞恥心を押して彼の碧い瞳を一心に見つめる。が、そんな私の願いも虚しく、我が愛しの旦那様は怪訝な顔で首を捻った。
「何が?」
「~~~っ!だ、だから…っ。その…夫婦的には、あるだろ!一緒に夕ご飯食べて、お風呂入って…その…後にさ……」
我ながら羞恥の余り爆死しそうになるが、“寂しい”と云う自分の感情に全く気付けなかった私でも、“其れ”だけは厭と云う程に気付いてしまっていた。何せ真面な会話さえ失いつつあったこの一ヶ月でさえも、私を抱き締めて眠りに就くと云う彼の習慣だけは変わらなかったのだから。そして彼の云い付けを守り先に眠りに就いた夢の中でも、自分を包み込む彼の手と匂いだけは何故かちゃんと判ってしまっていて。壊れ物に触れる様にそっと滑るその感触と、麻薬の様に脳を溶かすその香りに、何も感じずに居る事なんて出来る筈がなかった。
「中也は…何ともなかったのか……。ずっと、君に触りたいって…。触って欲しいって…。思ってたの…やっぱ私だけ、っわ!?」
自分の浅ましさが恥ずかし過ぎて最早顔も上げられずに居ると、突然視界がぐるりと回った。その急展開に頭が付いていかず間抜けな声を上げた私は、リビングを出た辺りで漸く自分が中也の肩に担がれている事を理解した。そして、その行動の意味を問うべく呼んだ彼の名は、盛大に蹴破られた寝室の扉の音に掻き消される。
「中也!?え、何!?一体どうし、うわっ!」
状況が理解出来ない儘私の視界は再びぐるりと回転し、その勢いとは裏腹にふわりと丁寧に着地を果たした。が、ベッドサイドに座る形で落ち着いた私の身体は、下半身が漬物石の様に重くなっていて立ち上がる事が出来ない。そして私にそんな異能を掛けた張本人は、胸元に締めたベルト帯を剥ぎ取ると、着ていたジャケットを脱ぎ捨てた。
「ちょ、何!?中也さん何して」
「抱く」
「はい!?」
「煩ぇ。煽りやがったのはそっちだろうが。なぁにが“何ともなかったのか”だ。んな訳あるか。云われなくてもこっちはとっくに限界来てんだよ馬鹿野郎」
「っ…!?」
私は思わず息を飲んだ。重力増し増しのドスの効いた声で呟く彼は、先刻迄の労る様な笑みが完全に消え失せ、代わりに瞳孔がカッ開き目元に暗い影が差していたいた。その只ならぬ気迫に気圧されながらも身動きが一切取れずに居る私に、彼はベストの釦を引き千切る様に外しながら続ける。
「毎晩毎晩よぉ…、自分の女が同じベッドに居んのに、手ぇ出さねぇで凌ぐのがどんだけもどかしいか判るか…?美味そうな匂い垂れ流す柔らけぇ身体抱き締めながら、俺がどんな思いで踏み止まってたか判って云ってんのかよ。ええ?菫ちゃんよぉ?」
ついにベスト迄脱ぎ捨てた中也は、荒れる呼吸を抑えようとする様に肩で息をしながら私の前に歩み寄る。その飢えた獣の様な眼光に射止められた私は、眼を逸らす事も出来ず内心で静かに合掌した。だがその一方で、どうにも腑に落ちない不満の様な疑問の様なものが思考の端にこびり付いて。最早遺言とばかりに私はそれを口にした。
「な、なら…云ってくれればよかったのに……」
「あ゛?」
「だ、だって、その気になれば出来る時間は十分あっただろ?私の事だって、起こしてくれれば幾らでも……」
「………」
「………?中也…?」
途端に中也の足がピタリと止まった。思わず顔を上げると、先刻迄の獣の様な表情が一転、真っ赤な仏頂面に変わっていた。その表情の意味が判らず彼の出方を待っていると、軈て数秒の沈黙の後中也は何とも云い辛そうに小さな声でボソボソと答えた。
「馬鹿野郎…。それじゃまるで…、お前を抱く為だけに毎日帰って来てるみてぇじゃねぇか……」
「…………」
その言葉を聞き届け、飲み下し、吟味した私の中で―――
何かがブチリとキレた。
「過保護なんも大概にしろやこのスパダリ名誉会長がーーー!!」
恐らく中也に対して初めて怒号を上げた私は、傍にあった枕を彼の顔面に叩きつけた。
「あのな!私は君の嫁だぞ!?何遠慮してんだよ!?こちとらただでさえも君に貢献出来る事が少な過ぎて頭抱えてんのにさ!寧ろ強引に押し倒して身包みひん剥くらいの気概を見せろよ!それでもマフィアか中也の意気地なうわっ!?」
自分でも理不尽この上ないと理解した上で尚止められなかった批難は、私の身体が重力に引かれてベッドに背面ダイブした事により物理的に中断された。そんな私の顔の横に片手を着いて身体の上に馬乗りになった旦那様は、それはそれは引き攣った笑顔を浮かべておいででした。
「嗚呼…そうかよ…。ならお言葉に甘えてマフィアらしく強引に抱かせて貰うわ…。泣き入る手前迄たっぷり可愛がってやるから覚悟しろよこの阿呆嫁」
「ちょ、重力操作は反則、んっ…!」
噛み付く様に唇を重ねられ、再び私の非難は物理的に中断された。そして、今度こそ表情筋以外一切動かせなくなった私は、まさしく狼の前に差し出された羊の様に骨の髄まで貪られたのであった。
****
「あれ?中也さん未だ来てねぇのか?」
「嗚呼、あの人なら急遽非番になったらしい」
「へぇ、珍しい事も在ったもんだな」
「あ!もしかして、噂のゴリラ嫁に捕まったんじゃないっスか?“仕事ばっかりしてないで家族サービスしろ”って痛っ!」
「んな訳あるか。馬鹿な事云ってねぇで仕事しろ。中也さんが居ねぇと仕事にならねぇ様じゃ、マジであの人行き遅れちまうぞ」
「違ぇねぇ。よし!中也さんが可愛い嫁さん貰えるように、今日も張り切って働くぞ手前ら!」
「へ〜い」
****
「なぁ中也」
「ん?」
「中也はさ…、男の子と女の子ならどっちがいい?」
「まぁ…、俺はどっちでも構わねぇが…。強いて云うなら男の方が助かる…」
「何だよ助かるって?」
「女の場合、十二過ぎる迄首領から隠し通さねぇといけねぇからよ……」
「………いっそあっちを闇に葬ると云う選択はいたたた!」
「馬ぁ鹿。冗談でもやめろ」
「はぁい」
摘まれた鼻を真下にある首筋に擦り寄せると、それに応える様に彼は私の前髪を掻き上げて額に口付ける。引き締まった胸元に手を当てながら私は再び彼に問いかけた。
「なぁ中也。今、どんな気分?」
「何だよ急に」
「いいから」
「………」
「…云ってくんないと、また寂しくて職場に忍び込むぞ」
「判った判った、云うから絶対やめろ」
「ん。じゃあ改めて、今どんな気分?」
「……“夢を見る”、ってのは…きっとこんな感じなんだろうな……」
呟く様にそう零した彼は、自分の上に重なっている私の身体を更に引き寄せる様に抱き締める。触れ合う互いの肌が滲んだ汗で隙間なくピッタリと貼り付いた。
「惚れた女を嫁にして、其奴とこうして何するでもなく過ごしてよ…。終いには“餓鬼が産まれたら”なんて話迄してんだ…。俺には、一生縁の無ぇ事だと思ってたんだがなぁ……」
「…落ち着かないか?」
「柄じゃねぇのは確かだな。それでも…、悪くはねぇよ。お前が居るからな」
「へへ、そりゃ光栄だ。……なぁ、中也」
「ん?」
「大好き」
「…嗚呼、知ってる」
言葉はそれだけを返して、残りを清算する様に彼は私の唇を塞ぐ。昨日とは打って変わって、緩く、甘く、優しい口付け。それはまるで麻酔の様に私の意識を溶かして、安堵に瞼を閉じれば鼻腔を抜ける香水と汗の匂いに思考すらも溶け落ちる。
そうして微睡んだ末に、私は愛しい伴侶の腕に抱かれて
―――また幸福な夢の世界に落ちていくのだ。