hello solitary hand・番外編
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この国には『鬼の撹乱』と云う言葉がある。
鬼の様に強く丈夫で健康な人が、珍しく病に罹る事を意味する言葉だ。だが抑々その病と云うのも、実際は江戸時代頃に夏の暑さや日差しにやられて体調を崩す人が多かった事が背景にあるらしい。とどのつまり、どんな人間でも自然の猛威には勝てないと云う事だ。それが例え、人智を超えた生命力の持ち主でも。
「まぁ、君も人の子だったって事かね…」
「ごほっ、げほげほっ…」
ピピピと小さくなった体温計を見てみると、其処には明らかに一般的な平熱をブチ抜いた数字が並んでいた。私は体温計に落としていた視線を改めて前に向ける。視線の先で顔を真っ赤にした同居人が、虫の息でまた咳き込んだ。
「はい、太宰治君風邪確定です」
****
『はぁ?太宰が風邪を引いた?』
「嗚呼。頭痛と咳と目眩に加えて、現在の体温が三十八度五分。素人目から見ても完全に風邪の症状だね」
異変に気付いたのは今朝。朝食の支度を終えて太宰を起こしに行った所、何時も以上に寝起きが悪く返事すらしない。業を煮やして布団を引っ剥がすと、熱っぽい顔で浅い呼吸を繰り返す太宰が小さく縮こまっていたのだ。慌てて布団を掛け直し額に触れてみると、普段より明らかに高い体温に漸く状況を把握した。
携帯端末を肩で挟み込み作業の傍職場に事の次第を報告すると、信じられないと云わんばかりの第一声を上げた国木田君が暫しの沈黙の後応えた。
『…………仮病じゃないのか?』
「う〜ん…、多分それは無いと思うぜ?本人もしんどそうにしてるし、幾ら太宰でも自分の体温迄は操れないだろう」
『成程、“馬鹿は風邪を引かん”と云うのは迷信だったか』
「いやいや、彼は普通に天才のカテゴリーだろう?それに“馬鹿は風邪を引かない”って云うのは本来、“馬鹿は風邪を引いても気付かない”って云う鈍感さを指した言葉であって、馬鹿だろうが天才だろうが人間である以上は風邪くらい引くって」
『ふん、孰れにしろ自業自得だ。仕事をサボって川になど飛び込むからそうなる。で?あの唐変木が病欠と云うのは判ったが、お前はどうするんだ?』
「すまんが私も今日は欠勤で頼む。割と本気で辛そうにしてるから、一人で置いてくのはちょい心配でね。埋め合わせは今度するからさ」
『はぁ…、構わん。抑々彼奴は出勤してもサボるからな、実質欠勤はお前一人みたいなものだ。一日くらいならどうと云う事はない』
「有難う。助かるよ」
『それよりお前も、あの唐変木に風邪を移されんように気をつけろよ。マスクの着用と手洗いうがい、そしてこまめな消毒を怠るな』
「はいよ。つっても、私も結構頑丈に出来てるから、風邪なんてそうそう引かないんだがね」
『その油断が命取りになるのだ!あの殺しても死なん生命力を持つ太宰が寝込む程の病だぞ?若しかしたら、未知なる新種のウィルスかもしれん』
「国木田君は太宰を何だと思ってるんだい?」
『兎に角、無理はするな。共倒れにでもなったら目も当てられん。自身の体調管理に万全を期した上で、奴の看病にあたれ。良いな』
「はい、先生。んじゃそっちは任せたぜ?」
『嗚呼、じゃあな』
「うん、またな〜。……却説と」
国木田君との通話を終え携帯端末を閉じると、私は棚の前で腕を組んだ。通話中にざっと探してみたが、冷却シートは疎かマスクすら無い。考えてみればこの四年、太宰も私も寝込むまでの風邪なんて引いた事が無かった。精々咳と鼻詰まりとかで、市販薬を二三日飲んでいれば普通に治っていたのだ。よってこの家には、圧倒的に看病アイテムが不足している。何なら市販薬の瓶ですら空だ。大方、太宰が自殺の一環で知らない内に纏めて飲んでしまったのだろう。そして更に運が悪い事に、今朝朝食を作る際冷蔵庫の中身は粗方使い切ってしまった。あの様子だと普通の食事は無理だろう。辛うじて米と卵は残っているが、後は酒とお摘みに買った塩辛やキムチだけだ。
「買いに行くしかないか…」
「ごほっ…、げぼげほ…」
「え?太宰!?」
その時、襖の滑る音がして咳き込みながら太宰がフラフラと足を引き摺って出てきた。慌てて駆け寄ろうとすると手で制される。苦しそうな咳の合間に、途切れ途切れの言葉が紡がれた。
「げほ…、いいっ…、っげほ移る、から…」
「んな事云ってる場合か阿呆!」
私はすぐ様コップに水を汲むと、太宰に差し出してその儘背中をさすりつつ座らせた。水分をとったお陰か徐々に咳が治まった太宰は、最後に一度浅く息を吐く。だが、その吐く息の時点で既に苦しそうなのが丸判りだ。
(こりゃ想像以上に重症だな…)
この状態の太宰を一人置いて買い出しに行くのは流石に忍びない。取り敢えず今は彼を布団に戻して、後の事はそれから考えよう。
「太宰?何か欲しいなら私が持って行くから、今は布団で寝ててくれ。な?」
「……そう、じゃ…なくて…」
度重なる咳の所為だろう。何時もの太宰からは想像も付かない様な弱々しく掠れた声に、聞いているこっちまで痛ましくなる。私は汗ばんだ背中を摩りながらゆっくり先を促した。
「うん、ゆっくりでいいよ?何だってしてやるから云ってみて?」
「………トイレ…」
「……あ〜…さいで…」
生理現象と云うどうしようもない課題を突き付けられて、私は太宰に寄り添いながらトイレ迄連れて行った。流石に中までは付き合えないので連れて行った後は出て来るまで外で待ち、数分後太宰を連れて再び部屋に戻った。普段なら絶対に茶化して来るはずのその状況で、しかし太宰は一切無駄口を叩かず苦しげに呼吸を繰り返しているだけだった。あの太宰が軽口すら叩けないなんて、これは愈々もって深刻だ。
(先ずは何か冷やすものが欲しいか…)
私は太宰を布団に寝かせると直ぐに作業に取り掛かった。幸いウチの冷凍庫には氷が常備してある。と云っても蒸留酒をロックで飲む時用の丸氷なのでかなり大振りだが、無いよりはマシだろう。それを二三個水と一緒にビニール袋に入れて布巾で包み、もう一枚布巾を濡らして太宰の元に戻る。
僅かに私の方へと眼を向けた太宰に微笑んで、私はその横に腰を下ろすと即席の氷嚢を額の上に乗せた。すると眉間に寄っていた皺が緩み、気持ちよさそうに太宰が眼を閉じる。その様子に少しホッとして、私は濡れ布巾で太宰の顔や首元を軽く拭った。
「すまんな、中の氷デカいから収まり悪いかもしれんが、今はそれで我慢してくれ」
そう声を掛けると、太宰は薄く眼を開いてまた私に視線を向けた。細められた潤みのある鳶色の眼が弧を描き、少しだけ口角を上げた太宰は言葉も無い儘ただ小さく頷いた。
「……っ…!?」
あれ?なんだろうこの感じ?あれ?おかしいな?だって今太宰君は風邪で苦しんで大変な状態なのだ。一刻も早くこの症状を緩和させ、全快させるのが私の使命なのだ。なのに、何だこの胸の高鳴りは…。一体どう云う事だ………
―――今日の太宰べら棒に可愛いぞ!?
衝撃の事実に気付いてしまった私は、一度深呼吸してもう一度太宰の姿に眼を向けた。陶器のように滑らかな頬に差した紅色、その上を伝う汗の所為で顔に張り付いた黒髪の何と悩ましい事か。言葉を吐かない代わりに主張する熱っぽい吐息は、ただの呼吸音だと云うのに自棄に艶かしく聞こえる。何より薄く開かれた瞼が元々長い睫毛をより際立たせ、その中に収まる潤んだ焦点の合わない鳶色の瞳がいっそ妖艶とすら云える奇妙な色気を醸し出している。
敢えて云おう、クッソエロい!!
太宰とはそれなりに長い付き合いになるが、よくよく考えてみれば此処迄弱った姿を見るのは初めてだ。何せ前述の通り風邪には縁遠い人だったし、怪我をする事は多かったがそれで調子が変わる事は無かった。しかし、今の太宰は何処からどう見ても完全に弱りきっている。確かに今迄も彼と時間を共有する中で、私は様々な太宰のレアショットを心のカメラに収めて来た。だが『弱々しい太宰治』なんて奇跡すら超えた神の恵みを拝める日が来るなんて思ってなかったし、何ならそれに気付いちゃった私の頭の中は現在お祭り騒ぎだ。助けて、ウチの太宰がヤバい可愛いしメッチャエロい死んじゃう。
「………菫…?」
「あ、ごごごごめん!ちょいぼーっとしちゃってな」
空気の掠れる音の様な希薄な声で名前を呼ばれ我に返ってみると、氷嚢で和らいでいた太宰の顔がまた曇った。
「あまり、此処に居ない方がいい…、菫に移ったら…ごほっ!ごほげほっ!」
「嗚呼、無理に喋んなくていいから!ちょっと待ってろ、水取って来る!」
私は台所へ駆け込むと、またコップに水を汲んで太宰の元に戻った。見ると仰向けに寝ていた筈の太宰は、咳を抑え込もうとする様に横向きになって体を縮こまらせていた。その姿をまた痛々しく感じて、今度こそ完全に邪念を打ち払った私は太宰に水を渡して背中を摩った。
「水、枕元に置いといた方が良さそうだな。せめて咳か熱、どっちかでも治まれば善いんだが…」
とは云え、この様子だと自然回復は見込めないだろう。矢張り薬は必要だ。正直かなり不安は残るが、今の最優先は太宰の症状を緩和する事。申し訳ないが暫く一人で耐え忍んでもらうしか無い。
「ごめん太宰。ちょっと薬とか諸々買って来るから、少しの間一人で…」
ピンポーン
その時、玄関から呼び鈴の音がした。この緊急事態にまさかセールスか?だとしたら即刻お帰り頂いて早く太宰の薬を買いに行かなくては。一分一秒でも惜しくて、私はダッシュで玄関に駆け込むと勢いよく扉を開けた。
「すみません!今立て込んでるので新聞とか牛乳とか宗教勧誘ならまた後日」
「残念、どれもハズレだ。まぁ医者も要らないってんなら帰るがねェ」
「っ!?晶子ちゃん!?」
扉の先に居たのは余りにも見知った顔だった。しかし何故彼女が此処に居るか判らず唖然としていると、晶子ちゃんは「邪魔するよ」と一声かけて室内に上がり込んだ。
「え?何で?晶子ちゃん仕事は?」
「だから仕事に来たンだよ。乱歩さんの依頼でねェ」
「乱歩さんが?」
「嗚呼。太宰が珍しく風邪で寝込んでるって聞いて、“彼奴等の家には風邪薬も碌に置いてないから、届けてやってくれ”ってさ」
「oh…流石名探偵…」
「その名探偵から伝言だ。“報酬に今度苺大福十個作って来い。それと薬代は給料から天引きしといてやるから有り難く思え”だとさ」
「はは…歪みないなぁ乱歩さん」
「で?噂の風邪っ引きは何処だい?序でに診察してってやるよ」
「マジか有難う!いやぁ、正直完全に手詰まりだったから助かるよ」
「しかしあの太宰が風邪ねェ…。明日は槍の雨でも降るんじゃないかい?」
「まぁ気持ちは判るが、割と冗談抜きで重症っぽいんだ。熱と咳が酷くて、真面に話せないみたいでさ」
「へぇ、そりゃあ益々珍しい。喋らない太宰なんて、国木田辺りが見たらひっくり返りそうだ」
「はは、でも晶子ちゃんが来てくれたんならもう安心だ!本当に有難うね」
今頃社内で駄菓子をモシャモシャ食べているであろう名探偵に心から感謝の祈りを捧げて、私は地獄に垂らされた蜘蛛の糸ならぬ、病床に現れたお医者様を太宰の部屋へと案内した。取り敢えずこれで太宰を一人残して薬を買いに行く必要も無くなった。一時はどうなる事かと思ったが、これで太宰の事も幾分か楽にしてやれそうだ。
「やったぞ太宰!晶子ちゃんが診てくれるって!これで、もう…」
意気揚々と太宰の部屋の襖を開いた私は絶句した。キチンと整えられた布団の上に、これまたキチンと両手を組んでお行儀良く横たわっている太宰の顔に、
―――
「おやぁ、もう手遅れだったかい?」
「太宰ーーーー!!?」
私は慌てて布団に駆け寄ると太宰の顔に掛かっていた布を引っ剥がした。
「ばぁ!」
「うわぁ!!」
「うふふふふ。矢っ張り菫は善い反応をするねぇ」
「おま、お前なぁ!!」
布を取り去った瞬間に舌を出して声を上げた太宰に、私は不覚にも驚愕の叫びと共に思いっきり尻餅をついた。当の太宰は布団から体を起こすと口に手を当ててくすくすと笑っている。どうやら顔に掛かっていた白い布は、氷嚢にしていた布巾だった様だ。
「何だい。存外元気そうじゃないか」
「やぁ、いらっしゃい与謝野先生。こんな姿ですみません。療養中と云う事で目を瞑って下さい」
「別に構わないよ。それより、菫には熱と咳が酷いって聞いたが、他に症状はあるかい?」
「頭痛と、それから目眩が少し。後は咳の所為で喉が痛みますね…。お陰でこの通り、私の玲瓏たる美声が痛々しい嗄声に… げほげほっ」
「そんだけ喋れりゃ十分だろう。ったく…。菫から口も利けない程弱り切ってるって聞いて、珍しいモンが拝めるかと少し期待してたんだがねェ…」
「ご期待に沿えずすみません。でも病床に伏している私と云うだけで、もう十分貴重な光景でしょう?」
「…………」
多少しんどそうな顔をしながらも、太宰は普段と変わらない調子で晶子ちゃんと談笑している。そんな彼の姿に、云い知れない違和感がじわじわと染み出してきた。けれどそれが言葉に変わる前に、私に視線を移した太宰が眉根を寄せてへにゃりと笑った。
「ねぇ菫、私お腹空いちゃった」
「え?…嗚呼、うん。でも材料的に、お粥か卵酒くらいしか作れんよ…?」
「あ、私卵酒が善いなぁ。砂糖多めで作ってくれる?」
「おぅ…、判った…」
「じゃあその間に、
「そ、そんな…。駄目です与謝野先生…っ。私には菫と云う心に決めた人が…」
「舌切り落として本当に喋れなくしてやろうか?」
「はい…」
「じゃあごめん晶子ちゃん。太宰の事頼んだ」
私の声に晶子ちゃんは手をひらりと振って応えてくれた。私は一先ず太宰の部屋を出てエプロンを掴むと台所へ立った。リクエスト通り卵酒を作るべく日本酒を火にかけ、卵と砂糖をボウルに入れて掻き混ぜる。しかし、調理をこなしながらも私の頭の中は先程の太宰の振る舞いばかりが浮かんできた。
だって、確かに太宰は口も利けない程弱り切っていた筈なのだ。それが次に襖を開けた時には死んだ振りで私を驚かし、声は掠れた儘だったが晶子ちゃんとも普通に会話をしていた。つい先刻迄、少し喋るだけでもあんなに咳き込んでいたのに。
(私が心配し過ぎてただけだったかな…)
徐々に泡が湧いて来た鍋を火から下ろして、先に卵と砂糖を入れておいた湯飲みに温めた日本酒を注いだ。するとその時襖が滑って、太宰の部屋から晶子ちゃんが出てきた。
「お、善い匂いがするねェ」
「お疲れ様、善かったら晶子ちゃんも飲む?」
「おや、善いのかい?」
「うん、二人分作ってあるから。治療費の足しに」
「ふふ、そりゃ嬉しい報酬だ」
湯呑みの一つを差し出すと、晶子ちゃんは何度かふーふーと息を吹きかけて口を着けた。
「うん、美味い。偶には卵酒ってもの悪く無いねェ」
「それで、どうだった太宰?」
「かなり質は悪いみたいだが、典型的なただの風邪だ。解熱剤と咳止めと、後は喉が痛むって云ってたからトローチも一緒に出しといたヨ。あれで今日明日は様子見てみな。嗚呼、後これも」
「わぁ、冷却シートとマスクまで…。重ね重ね有り難い」
「感染予防って意味じゃ今更マスクしても遅いかも知れないが、無いよりはマシだからねェ。太宰にも、喉の保湿に役立つからって渡しておいたヨ」
「有難う晶子ちゃん。本当に助かったよ」
「…………なぁ菫」
「ん?」
不意に晶子ちゃんが湯飲みに目を落とした儘私の名を呼んだ。しかしその続きは一向に紡がれるとかなく、少し難しい顔をしていた晶子ちゃんは卵酒を一気に飲み干すと湯呑みを私に返した。
「否、矢っ張り何でもない。
「晶子ちゃん?」
「取り敢えず、医者として今出来る事はした。後はアンタが何とかしてやんな」
「え?…うん、判った…」
「じゃあ
「嗚呼、本当に有難うね晶子ちゃん!」
扉を開けて出て行く晶子ちゃんに手を振って、軈てその姿が階段の下に消えていくのを見届けて私は扉を閉めた。私は早速晶子ちゃんに貰ったマスクを着けてお盆に卵酒の湯呑みと、水入りのピッチャーを乗せて太宰の部屋に戻った。両手が塞がっている為足で襖をスライドさせて、私は中に声を掛ける。
「太宰〜?ご所望の卵酒だぞ〜」
見ると太宰は既に布団で横になっていた。布団を頭からすっぽり被った太宰は、しかし私の声に全く反応が無い。
「………太宰…」
嫌な予感がして私は足早に太宰の許へ駆け寄ると、彼が被っている布団を捲り上げた。其処には晶子ちゃんが来る前より顔を赤くして、今にも止まってしまいそうな荒い呼吸を繰り返す太宰が居た。
「君…、まさか…」
感じていた違和感が明確な形を得てストンと腑に落ちた。晶子ちゃんが居る間見せていたあれは、意図的に平気な振りを演じていただけだったのだ。私に悪戯を仕掛けたのも、起き上がって見せたのも、お得意の軽口をペラペラと叩きまくったのも、全部自分の不調の深刻さを悟らせない為のデモンストレーションだ。そしてその痩せ我慢の代償が今、体調の悪化と云う形で彼の体に返ってきている。
「ホント馬鹿か君は…!」
瞬間的に怒りが込み上げたが今は説教なんてしている暇は無いし、しても無駄だろう。だが情け無い事に、対処法なんて晶子ちゃんに処方された薬を飲ませて休ませる以外に思いつかない。しかも処方された解熱剤と咳止めは何方も錠剤だ。今の熱に浮かされ意識が朦朧としている太宰じゃ真面に飲めるかすら怪しい。先刻より明らかに熱くなっている太宰の顔に触れながら焦りに焦った私は、遂に苦肉の策を打ち出した。
「悪い太宰。共倒れした時は一緒に社の医務室でお世話になろう」
聞こえていない事を承知で一方的な断りだけ入れて、私はマスクを剥ぎ取ると晶子ちゃんが置いていった薬を適量取り出して自分の口に放り込んだ。奥歯でガリっと噛むとそれは一発で粉々になる。持ってきたピッチャーからコップに水を注いで口に含むと、私は太宰を抱え起こして唇を重ねた。
「…んっ……ふ……」
「………ん…」
苦しげに歪められていた眉が、僅かにまた歪んだ。太宰が咽せ返らない様に少しずつ、ゆっくりと口移しで薬を喉の奥に流し込む。時折口内に逆流してくる水は錠剤が溶けて酷く苦い。それを自分で飲み下してしまわない様に注意して、口の中が空っぽになる迄私は太宰の口を塞ぎ続けた。
「っ…、ん、はぁ…っ」
「げほ、っごほ…」
薬を溶かした水を全部飲ませきり、私は漸く顔を上げて大きく息を吸った。太宰の方も何度か咳き込んだが、水分を摂ったお陰か小さい咳が少し出ただけで治まった。額に滲んだ汗と口の端から少し垂れた水滴を拭って太宰を布団に寝かせ直すと、大分溶けてきた即席氷嚢の代わりに晶子ちゃんに貰った冷却シートを額に貼り付ける。その時枕元にマスクが落ちているのに気付いて、それも太宰に着けてやった。本当は今すぐにでも晶子ちゃんを呼び戻したい所だが、そんな事をしても恐らくまた同じ事の繰り返しになるだろう。心許ないが今打てる手はこれで全部だ。後は太宰自身の回復力と、同僚に悪夢の域とまで云われた生命力に委ねるしかない。
「っとに…、頼むぞマジで…」
つい先刻迄私の脳内をお祭り騒ぎに叩き込んでいたその寝姿を幾ら見つめても、正直今は生きた心地すらしない。何より、太宰に感じた違和感の正体にもっと早く気付けなかった自分が、酷く情けなかった。
「……ごめんな、太宰……」
聞こえていない事は承知の上だ。それでも言葉が漏れた。少なくとも私には、それを見抜く材料もチャンスも幾らでもあった筈なのだ。それなのに、私は―――
「―――!」
その時、私のエプロンの端を包帯だらけの手が掴んだ。その手を眼で辿ると、マスクと乱れた蓬髪の隙間から鳶色の瞳が薄っすら開いているのに気付いた。
「…………菫…」
酷く希薄な声が私を呼んだ。エプロンを掴んだ包帯だらけの手が、探るように私の膝に触れる。その手の上に自分の手を重ねて、私は彼の耳元に声を落とした。
「大丈夫だ。此処に居る。此処には私しか居ない。だから、ゆっくり寝てて善いんだよ」
すると、薄く開いていた鳶色が瞼の裏にまた隠れた。包帯だらけの手は私の手の下で動きを止め、少しして小さな寝息が聞こえて来た。目元に掛かった蓬髪を軽く耳にかけてやる。マスクの白と黒い髪の間に覗く肌は未だ赤みが残って熱を帯びていたけれど、ぴったりと閉じられたその目元は、心なしか先刻より安らかに見えた。
****
朝眼を覚ました瞬間に、自分の体の異変に気づいた。
全身が自棄に怠くて特に頭が一番重い。眼を開いて見える世界は所々ぼやけて見える。呼吸をする度に喉に痒みが湧いてそれを吐き出そうとすると発作の様な咳が出た。“嗚呼、嘗ての部下もこんな感じだったのかなぁ”と他人事の様に考える程度の思考力は残っていたが、それが自分の脳味噌だなんて信じられない程に回転が遅い。
この手の体調不良を起こす事は、稀だが全く無かった訳じゃない。大分昔、幼少の時分にこう云った経験した事は何度かある。けれど少なくともポートマフィアに入る頃には、寧ろ病より自殺未遂による怪我で床に伏している事の方が多くなっていた。此処まで重篤な症状が出るのは本当に何年振りだろうか。
「社に欠勤の連絡入れとくな。私も今日は休むから、しっかり療養するんだぞ」
そんな彼女の言葉すら酷く遠い。苦笑しているのは判るが、彼女の顔がはっきり見えない。何より受信した情報を精査する自分の頭が余りに緩慢でイライラする。しかも、口を開けば出て来るのは呼気と咳ばかりで真面に言葉すら紡げない。挙げ句の果てに、ちょっとした距離を歩く事すら彼女に付き添って貰ってやっとの始末。
何でも思い通りに思考して、思い通りに動いていた体が自分のものじゃないみたいで、高性能の最新機器から急に錆臭い型落ちの中古品に押し込められた気分だ。そんな自分の有様が云い様もなく、
―――不快だった。
「晶子ちゃん!?え?何で?晶子ちゃん仕事は?」
突然鳴らされた呼び鈴に駆け出して行った菫が、玄関で声を上げるのが聞こえた。断片的にしか聞こえないが、どうやら与謝野先生が来たらしい。恐らくは乱歩さん辺りの計らいだろう。それに就いては正直助かった。けれど、社の同僚にこんな無様な姿を晒すのは絶対に御免だ。
だから、スクラップの様になってしまった自分の体に残された機能を全部使って、可能な限り普段通りの振る舞いに徹した。幸い与謝野先生は私を見て、“話に聞く程大した事はなかった”と判断してくれ様だ。ただ菫が何か勘づいていそうだったから、理由を付けて退室して貰った。
「薬は全部食後に飲みな。喉が痛むんならトローチとマスクもやるよ。感染予防はもう手遅れかもしれないが、喉の保湿には役立つからねェ」
「何から何まで有難う御座います」
「…………」
「如何しました与謝野先生。未だ何か?」
認めたくないが、最早自分の顔がどんな造形を形作っているか判らなくなってきた。申し訳ないけれど、襤褸が出る前に早くご退室頂けないだろうか。そんな失礼極まりない事を考えていると、与謝野先生は眉間に僅かばかり皺を寄せながらも、診察道具を鞄に仕舞って立ち上がった。
「なぁ太宰。医者である
唐突に何とも容量を得ない質問を投げられた。けれど、その趣旨は何となく判る。流石は探偵社の医務室を預かる専属医だ。直感的に、彼女も何かしらの違和感を感じているのだろう。
―――それでも…、
「いいえ、もう十分です。今日はご足労頂き本当に有難う御座いました」
そう返すと、与謝野先生は暫しの間の後深く溜息を吐いて部屋を後にした。その瞬間、喉に押し込められていた咳が一気に溢れ出した。それでも未だ襖を挟んだ向こう側には与謝野先生と菫が居る。彼女達に音が届かない様に、私は布団を口に押し当てて止めどない発作の様な音を殺し続けた。そして喉の表面を削る様な咳が止まった後に待って居たのは、意識すら保ってい居られない程の倦怠感だ。まるで頭蓋の中に熱した鉛でも注ぎ込まれたかの様に、頭が重くて痛くて動かない。これでは本当にまるっきり“スクラップ”だ。気道を通る呼気でさえ喉を抉る様で、こんなに痛いならさっさと呼吸が止まってしまえば良いのにと、なけなしの思考ですら私は死を望んだ。
「悪――宰。―倒れした―――社の医務――世話に―――」
何を云って居るのかは判らなかった。
ただ、其れが“彼女”の声である事は、スクラップの脳味噌でも理解出来た。
「…んっ……ふ……」
最初に感じたのは息苦しさ。次いで感じたのは苦みだ。吐き出してしまいたくなるようなその苦みは、けれどどんなに抗っても口内に逆流してくる。こんなに苦いものを口に留めておくくらいならと、私は止む無く其れを飲む込む事を選んだ。何度も戻しそうになった。それでも、その苦い液体は私のペースに合わせてゆっくりと爛れた喉を潤していく。軈て殆ど職務放棄していた嗅覚が、僅かに甘い匂いを捉えた。すると何故か、其の苦いだけだった液体迄もが仄かに甘く感じて。今迄吐き出そうと抗っていたそれを、私は寧ろ請う様に進んで喉の奥に流し込んだ。
漸く判った。
その味を、私は知って居た。
何度も味わってきた、彼女の味。
「……ごめんな、太宰……」
その声が酷く痛々しくて、愛しくて。
手探りに彼女を探すと、私の手の上に覚えのある感触が重なった。
「大丈夫だ。此処に居る。此処には私しか居ない。だから、ゆっくり寝てて善いんだよ」
―――嗚呼、そうか。
なら、大丈夫だ。此処に君しか居ないのなら大丈夫。此処に君が居てくれるなら大丈夫。
こんな醜態ですら、きっと君は
優しく笑ってくれるから。
****
最初に見えたのは青だった。
漸く焦点が合ってきて、それが布の塊だと理解した。
それを引き寄せて深く吸い込む。
洗剤の匂いと食べ物の匂い。
そして微かに、彼女の匂いがした。
「……菫……?」
殆ど空気の掠れる音の様な薄い声で、それでも彼女の名前を呼んだ。
けれど返答がない。
頭を動かして辺りを見回す。手に掴んでい居たのは彼女のエプロンだ。けれど本体が見当たらない。見回した室内に、菫が居ない。
「……菫」
呼んでも返答はない。
たったそれだけの事に、酷く心臓が逸った。
「菫……っ」
鉛が詰まった様に重い体が、それでも動いた。壁伝いに漸く立ち上がり自室を出る。居間にも、台所にも彼女は居ない。茹だる程熱い筈の頭が急激に冷えていく様に感じた。
「菫…」
何故返答が無いのか。何故彼女の姿が見当たらないのか。それを考える思考力さえ失っていた。ただ、“菫が居ない”。その事だけが、機能停止寸前の私の脳が認識した全てだった。
その時、薄い壁の向こうから鉄板を踏み鳴らす様な音がした。
「―――っ!」
最早思考する事すら投げ出した。反射的に玄関の扉を開け、その向こうへと駆け出す。階段の下から上半身だけ見えた彼女の姿に、漸く止まっていた鼓動が動き出す。
「…嗚呼…、…良かった…居た…」
「太宰!?」
彼女の声が私を呼ぶ。それだけでもう十分だった。頬に感じる鉄の冷たさも、鼻腔を抜ける錆び臭さも、もうどうでも善い。それなのに、柔らかい小さな手が私に触れて、錆び臭さで一杯になっていた嗅覚が甘い匂いを肺に送り込む。
「何してるんだ!?嗚呼もう、裸足で…。せめて靴くらい突っ掛け来い!」
彼女の声がする。鼓動が聞こえる。柔らかくて、暖かくて、気持ちがいい。でも、如何やら怒らせてしまった様だ。それは駄目だ。また、置いて行かれてしまう。
「…ごめ…なさい……」
彼女がこれ以上怒らない様にちゃんと謝った。けれど、矢っ張り何処にも行って欲しくなくて。手近な所を掴んで体を寄せる。より判る様になった彼女の匂いを深く吸い込んで、ひりひりする喉を震わせて言葉を吐いた。
「……か…ないで…、“僕”を…置いてかないで……」
ドクリと、耳元で鼓動が鳴った。今迄寒かった所に、柔らかい手が重なって引き寄せられる。大きく脈打つ心音に満たされた耳に、優しい声が落ちた。
「嗚呼、判った。大丈夫。君を置いて行ったりしないよ、――― 治 」
それはまるで子守唄の様で。その声音に安堵した私の意識は、今度こそ深い微温湯の様な暗闇に落ちていった。
****
沸騰してきた鍋の火を弱めてふと視線を上げると、台所の小さな窓は真っ黒に塗り潰されていた。すると不意に背後で襖が滑る音がして、振り向いてみると襖に身を寄せた風邪っ引きが何とも頼りない視線を此方に向けていた。
「おいおい。病人は寝てなきゃ駄目だろう」
そう苦笑しながらも、直ぐに手を洗って襖に寄り添う彼に歩み寄った。やや赤みの引いたその顔に触れて、掌に伝わるその体温に安堵した。
「良かった。大分熱は引いたみたいだな」
「………」
「今夕飯作ってる所なんだが、お粥で構わないか?」
「………蟹が入ってるなら…」
「はは、そう云うと思ってもう用意してある」
「…………」
「取り敢えず、夕飯出来る迄もう少し待っててくれ。直ぐ持ってくから」
そう云って微笑むと、襖に寄り添っていた鳶色が物云いた気に細められた。その様が今は自棄に可愛く思えて、私は何時もより乱れた蓬髪をわしゃわしゃと掻き回す様に撫でた。すると余計に不満げな顔をされたが不思議とそれすら愛おしくて、自分の口元からマスクを下ろして唇を寄せた。だが、私の顔は熱の籠った掌で押し返されてしまった。見上げてみると太宰は益々渋い顔をしていて、その儘何も云わずに彼は自室の暗闇に溶けて襖を閉めた。
「わぉ…、こりゃ本当に珍しいな……」
押し返された唇に触れながら独り言ちて、私は台所に戻った。まな板に乗ったネギの残りを刻んで、擦り下ろした生姜と一緒にお粥の鍋に入れる。最後にご所望の蟹缶を全部投入し、味の素で整えて完成だ。それと冷蔵庫で冷やしておいた経口補水液をお盆に乗せて、私は太宰の部屋に戻った。室内は矢張り真っ暗で、流石に危ないと私は一度お盆を下に置いて電気をつけた。すると、またしても頭からすっぽり布団を被って蹲る風邪っ引きの姿が浮かび上がる。と云っても、今回のこれはただの不貞寝だろう。
「太宰?お粥出来たぞ?」
「…………」
「せめて水分くらいは摂ってくれないか?谷崎君達が色々買ってきてくれたからさ」
「…………何で谷崎君が出てくるの…」
漸く布団の中からちょっとだけ顔を出した太宰は、歴戦の野良猫の様な荒んだ眼をしていた。そんな彼に噴き出しそうになるのを抑えて、私は布団の隣に腰を下ろした。
「“仕事の帰りに病人食になりそうな物を諸々買ってきて欲しい”ってお遣いをお願いしたんだよ。そしたら、賢治君と敦君と鏡花ちゃんも来てくれてな。あ、勿論ナオミちゃんも。賢治君からもいい感じの野菜一杯お裾分けして貰えたし、これで二、三日は買い物に行かなくても済みそうだ」
「……………」
「心配しなくても、玄関で品物受け取ってお駄賃渡してお帰り頂いたよ。まぁ、ナオミちゃんは病床の君を見たいって結構粘ってたけどな。でも敦君とかは本気で心配してたから、治ったらちゃんとお礼云っとくんだぞ?あと他の皆にもな」
「…………菫」
「ん?」
「……私、熱に浮かされて何か口走らなかった……?」
マスク越しにくぐもった小さな声が落ちた。未だ喉は痛そうだが、咳の方は大分落ち着いてきたらしい。その事に内心安堵して、私は首を傾げて見せた。
「別に?」
「…………」
「晶子ちゃんが帰った後、君はまたぶっ倒れて先刻迄ずっと寝てたよ。てか、変な痩せ我慢やめろよなマジで。呼んでも反応ないから凄い焦ったぞ」
「…………」
「一応、弁解あるなら聞いてやるが?」
「…………ごめん」
「素直で宜しい。それで、お粥どうする?」
「…………食べる」
「じゃあちゃんと顔出して」
軈て心底渋々と云った風に体を起こした太宰は、掛け布団を頭に被った儘その場に胡座をかいた。無言で差し出された両手を態と無視して、私はお粥をれんげで掬って数度息を吹き掛けるとその儘太宰の口元に差し出した。
「…………自分で食べられる」
「おやおや、普段なら喜んで食いつく癖に。矢っ張り風邪の所為で調子が出ないのかな太宰君?」
ニヤニヤ笑って煽ると太宰は余計眉間に皺を寄せて、けれどそれ以上云い返さずに黙ってれんげに食いついた。太宰の口にお粥を運んでやりながら、私は彼の顔をそっと盗み見た。明らかに臍を曲げている。きっと先刻の返答に納得していないからだろう。だからと云って深追いしても墓穴を掘るだけだと彼も理解しているから、あれ以上何も云えずにモヤモヤしているのだ。
別に、其処迄気にする事でもないだろうに。
「……ねぇ、私の顔見てニヤつかないでくれる…」
「ん?嗚呼すまん。完全に無意識だった。今日の君が一段と可愛い所為だな」
「この有様を見てそう思うなら、随分悪趣味だね」
「何とでもどうぞ。はい、これでラスト。……よし、後は食後の薬だな。あ!」
「だから、それくらい一人で飲めるってば。菫は私に過保護過ぎ」
「君の口からそんな言葉が飛び出すとは…」
流石に素で驚いて眼を丸くすると、太宰はむくれた顔でそっぽを向いて引ったくった薬を口に運んだ。
「…………太宰よ」
「今度は何?」
「否、これはあくまで忠告なんだが…。君、あんまり人前で薬飲まない方が良いぞ……」
「何で」
「下手すりゃ死人が出るかもしれん」
「ごめん、ちょっと何云ってるか判らない」
私の心からのアドバイスに、今度は太宰が素でツッコミを入れた。けれど何とも艶かしい動作で薬を運んだ口にコップの水を流し込むと、太宰はそれをお盆に戻してごろりと横になった。不貞寝を再開した大きなその背中が、自棄に幼く見えた。
「太宰」
呼んでも返事はない。だから待ち続けた。耐久戦は十八番だ。膝を抱えて座り、頬杖を突きながらじっとその背中に視線を送る。そして案の定、先に動いたのは太宰の方だった。
「………何」
「君に機嫌を直して欲しいんだが、私は何をしたら善い?」
「…………、……明日は出勤して。私はもう大丈夫だから」
「却下」
「は?」
私の返答に背中を向けていた太宰が振り向いた。驚いた様な、呆れた様な顔で目を丸くする彼に、私はにっこりと笑って見せた。
「君が全快する迄私は君の傍を離れない。だからそれは却下だ」
「君…、本当に私の機嫌取る気在るの…」
「勿論。だからそれ以外なら何でもしてやるぞ?」
「……私はもう一人でも平気だよ…」
「悪いが、病人で在る以上君に一人で居る権利は無いな」
「………心配してくれるのは嬉しいけれど、保護者気取りなら止めてくれ。君に子供扱いされるのは、嫌いなんだ…」
「成る程。じゃあ云い方を変えるぞ太宰。
―――私は単に、惚れた男に尽くしたいだけだ」
俯き掛かっていた顔が不意に此方を見た。その一瞬を逃さず私は彼の顎を捕まえて距離を詰める。未だ潤みの残る鳶色の双眸に、ニヤリと笑った自分が映った。
「病床に伏す君を介抱出来るなんて役得以外の何だってんだ?何時も隙のない万能人たる君に、一から十までご奉仕出来るんだぞ?こんな機会みすみす逃して堪るか」
私を映していた鳶色が、何とも苦みのある皺を寄せて細められた。
「…私の世話なんて、何時もしてるじゃないか…」
「それとこれとはまた別だ。不調で思うように動けない君を世話する事に意味がある。ぶっちゃけると“私が居ないと何も出来ない太宰”とか、ちょっと素敵じゃないか」
「……本当に悪趣味」
「自覚してる。で、どっちかっていうとこれは子供扱いってよりは旦那様扱いな訳だが、それでも私に傅かれるのは厭かい?」
少しして、至近距離でじっと見つめていた鳶色が瞼の裏に隠れた。マスク越しに深く溜息を吐いて、太宰は自分の顎を掴んでいる私の手を取った。
「卵酒、まだ飲んでない…」
「嗚呼、そうだったな!んじゃもう一回作るよ」
「………菫」
「ん?」
「…………有難う…」
また俯いてしまった蓬髪を、私はもう一度撫で回して其の儘抱き締めた。一瞬びくりと跳ねた肩は、けれどそれ以上反応を示す事は無かった。
「いいんだよ太宰。抑々、こうなった原因の一端は私かも知れないしな…」
「え?」
「何でもない。却説、それじゃ悪いが少し待っててくれな」
そう話をぶった切って誤魔化す様に彼の目元にキスを落とすと、私はお盆を持って早々に部屋を出た。誰もいない台所で、シンクにお盆を置いて軽く息を吐く。
するとその拍子にまたポロリと続きの本音が漏れた。
「寧ろ、私の所為だと良いな…」
この四年、真面な風邪なんて引いた事もなかった彼が突然寝込んだ原因。
最近彼に起きた変化。
今回の風邪がもしその所為なら、
私と一緒に居る時間が増えて、彼の気が緩んでしまった事による副作用だったとしたら―――
「はは、ホント悪趣味」
それでも、ニヤつく口元を抑えられなかった。
「…嗚呼…、…良かった…居た…」
晶子ちゃんの登場で薬や看病グッズが手に入り、太宰の容態が安定してきた事に安堵し始めた頃。すっかり冷め切った卵酒を飲みながら、“そう云えばウチには病人に食べさせられる物も無かったのだ”と云う由々しき問題を思い出した。だから太宰が起きない内に買い出しを済ませようとした。エプロンは太宰が掴んで離さなかったのでその場に脱ぎ捨てて、上着を羽織り出来るだけ静かに扉を閉めて施錠した。
―――心算だったのだけど…、
「……か…ないで…、“僕”を…置いてかないで……」
大分希望的観測だが、もし仮に太宰の中であの時の記憶が本当に曖昧になっているなら、矢張り国木田君の黒歴史同様誰にも明かさずこの儘墓場迄持っていくべきだろう。
多分あれは本人の云う通り、熱に浮かされて浮かび上がってしまった“何時かの彼”なのだろうから。
何より、あくまで“あれ”は私に向けられたものだ。喩え社の皆でも、彼自身であっても―――
「誰にも、くれてやるもんか」
使い古されたシンクの上にそう笑んで、私はご所望の卵酒を作るべく冷蔵庫を開けた。だがそこではたと気付く。抑々太宰は先刻薬を飲んだばかりだ。其処に立て続けにアルコールを流し込むのは如何なものか。せめてもう少し時間を置いてからの方が良いのではないか。しかし、その間ただ待っていて貰うのも気が進まない。それなら少しでも眠って体力を回復させて欲しいが、逆にそれだと卵酒を飲ませる為に態々太宰を起こす事になってしまう。
「あ、そうだ」
私は冷蔵庫を閉めて浴室に向かった。洗面器にお湯を張ってタオルと着替えと替えの包帯を持って再び太宰の部屋の襖を開ける。すると、此方に眼を向けた太宰がキョトンとした顔で首を傾げた。
「あれ?もう出来たの?」
「それなんだがなぁ…。先刻薬飲んだばっかだし、卵酒はもうちょい時間空けてからの方が良いと思うんだ。で、折角だからその間に着替えて貰おうと思ってさ」
「え゛?」
「だってほら、太宰も大分汗かいて身体中ベタベタするだろう?今の体調でお風呂は無理だが、身体拭くくらいはしてやれるからさ。一回全部脱いで新しいのに取り替えようぜ」
「ぜ、全部って…、まさか…包帯も…?」
「当たり前だろう。寧ろそれが一番汗吸ってんだから。心配しなくてもちゃんと包帯の替えも用意してあるし、元通り私が巻き直してやるから…」
ズザザザザっ!!
「何をしてるのかね、太宰君?」
三度頭から布団を被った太宰が、物凄い勢いで部屋の隅迄後退した。その眼は、完全に浴室に連れ込まれた猫ちゃんだった。
「…………おい、まさかとは思うが…、この後に及んで“恥ずかしい”とか云わないよな?」
「べ、別にそう云う訳じゃ…」
「ならこっちに戻って服脱げよ」
「女性が男にそんな事云うんじゃありません!」
「はぁ…、何が問題なんだ太宰?君の裸なんてもう何度も見てるだろ」
「それと包帯全部取り上げられた姿晒すのとは違うんですぅ!」
謎の抵抗を示す太宰に私はまた大きく溜息を吐いた。此の儘では洗面器に張ったお湯が冷めてしまう。病人相手に気は進まないが、こうなれば実力行使だ。
「ほら、いいからさっさと脱ぐ!」
「きゃー!やめて乱暴しないでー!」
「乙女か!」
「嫌がる恋人を無理矢理脱がそうだなんて、君は何時からそんないやらしいお姉さんになってしまったんだい!?菫のえっち!!」
ブチ!
っと音を立てて、私の何かが切れた気がした。
「………君が、それを云うのかい…」
「へ……?」
「“駄目だ”っつってんのに毎度毎度あの手この手で人の事ひん剥いといて、君がそれを云うのかい。ええ?太宰君よぉ…」
「あ…、否…それは…」
その一瞬の隙を突いて、私は太宰から布団を引っ剥がし胸元の釦に手を掛けた。
「そう云やぁ前に、床の上なら包帯の下見せてくれるって云ってたよな?なら病床の今も該当するよなぁ?あん?」
「ちょ、菫待って…」
「問答無用!」
「あーれー!お代官様お戯れをー!!」
「ふはははは!よいではないかよいではないか!!」
その日、ヨコハマの夜に絹を裂くような男の悲鳴と悪代官の様な女の高笑いが木魂した。
****
この国には『鬼の撹乱』と云う言葉がある。
鬼の様に強く丈夫で健康な人が、珍しく病に罹る事を意味する言葉だ。そう、どんな健康優良児であっても人間である以上体調を崩す事はある。ましてや、自ら好き好んで病人の傍に張り付いていれば尚更だ。
「良かったね菫、これで君も人の子だったと証明された訳だ」
「ごほっ、げほげほっ…」
つい先日迄同じ症状に苦しんでいた同居人が、ピピピと小さく鳴った体温計を私から取り上げて眼を落とす。そして、心底嬉しそうにそれはそれは良い笑顔を浮かべた。
「おめでとう!臼井菫さん風邪確定です!」
「ヂグジョー…ごほごほっ!」
「嗚呼駄目だよ菫。無理に喋らないで。大丈夫!口にしなくても君の考えている事なら、私何でも判っちゃうから!」
熱と頭痛と目眩でクラクラする視界に、撹乱から完全復活した鬼…、と云うか悪魔の真っ黒な微笑みが映った。殆ど虫の息となった私の頬に、ヒヤリとした長い指先が触れる。
「社には私から病欠の知らせを入れておくよ。嗚呼、勿論私も欠勤するから安心してね。君が全快する迄、今度は私が付きっきりで看病してあげる」
声を出せば咳が出る為首を振って意思表示しようとした結果、それは頬を伝っていた手に妨げられた。何なら、其の儘大きく冷たい手が纏わり付く様に私の頬を撫でた。
「大丈夫だよ菫。何も心配する事は無いさ。君が私にしてくれた様に、私も献身的に、誠心誠意、一から十まで君に尽くすと誓おう。欲しい物は何でも揃えてあげるし、食事も食べさせてあげるし、薬も飲ませてあげるし、着替えも手伝ってあげるし、勿論汗ばんだ身体も隅々迄拭いてあげるし、何ならトイレも一緒に行ってあげる。それ以上のどんな事だって、君の為なら何だってしてあげよう。幸い私はもう抗体出来ちゃってるから、移る事も無いしね!」
ヤバい。此奴、ここ数日の看病生活の事を完全に根に持ってやがる。大丈夫な要素が何一つない。てか私其処迄やってないだろ!と云う叫びは咳に還元された。そんな私の目元をすりすりと親指でなぞりながら、ドス暗い鳶色がとろりと歪む。
「うふふ…。あの時は悪趣味なんて云ったけど、漸く君の気持ちを理解したよ菫……。嗚呼、もう―――
“私が居ないと何も出来ない菫”なんて、とぉ…っても素敵…っ!」
あ、さよなら私の人権。
もし審査員が居たら満場一致で満点を叩き出すであろう程パーフェクトな恍惚のヤンデレポーズを決めた太宰に、私は静かに己の人としての尊厳に別れを告げた。
その後、太宰の連絡を受けた敦君から私の病欠の報を聞いた探偵社ベテランメンバーが事態を察し救出部隊を送り込んでくれる迄、私は太宰のドロっドロに過保護な看病を受けながら全身全霊で“健康である事の大切さ”を噛み締める事となったのである。