hello solitary hand・番外編
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それは、何気ない日常の一コマから始まった。
「皆さんお疲れ様!今日のおやつは大福ですよ~」
「わぁーい!待ってましたー!」
「ほほぅ、これは中々の上物とお見受けした」
「うふふ。社長が会合の帰りに買ってきて下さったのよ」
「美味しそう」
綺羅子ちゃんがお茶と一緒に持ってきてくれた三時のおやつに湧き上がる乱歩さんと私。そして普通に眼を輝かせる鏡花ちゃん。見慣れた何時のも光景。だがその日、ただ一人だけ何時もと違う行動を取った人物が居た。
「折角ですが、私は遠慮しますわ…」
「え?いいのナオミちゃん?」
「はい。私の分は他の人に差し上げて下さい」
「やったー!じゃあ僕がもーらい!」
「あ!ちょっと乱歩さん!」
「構いませんわ菫さん。如何かお気になさらず」
「え…、でも大丈夫かナオミちゃん。もしかして具合悪い?」
「いえ…、そう云う訳ではなく…」
普段私達同様、三時のおやつにはテンションを上げるメンバーである筈のナオミちゃんが、何故か今日は自らおやつを辞退した。その行動の意図が判らず首を傾げると、隣で綺羅子ちゃんが何かに気づいた様に苦笑した。
「嗚呼、ごめんなさいナオミちゃん。私すっかり忘れてて…」
「いえ…、此方こそ気を遣わせてしまってすみません」
「何?」
「判らん」
「あ~…、菫ちゃん、鏡花ちゃん。ちょっと…」
手招きをされた私達は、それに従って綺羅子ちゃんの許へと近寄った。すると綺羅子ちゃんは両手で口元を囲って、小さな声で私達に事情を説明する。
「―――と、云う訳なの」
「あ~、なーる」
綺羅子ちゃんの話を聞いて納得した私の隣で、鏡花ちゃんは尚も不思議そうに首を傾げた。
「どうして隠すの?ダイエット」
「きょ、鏡花ちゃん…っ」
「えっとな鏡花ちゃん。こう云うのは、人によってはデリケートな話題でして…」
「大丈夫ですわ皆さん…、元はと云えば自分の甘さが招いた結果ですもの…」
「ナオミちゃん…」
先日我が探偵社で実施された健康診断。その結果が昨日皆に返されたのだが、ナオミちゃんは前回の測定結果より体重が増えてしまっていたらしく、この度ダイエットを決意したのだと云う。まぁ確かに、この手の問題は女性にとって死活問題である事は事実だ。況してや、花も恥じらう年頃の女学生からしたら尚更だろう。……だがそれにしても―――
「あまり変わった様に見えない」
「それな」
「まぁ、私もそうは云ったんだけど…」
「そんなの、人目に触れる所が変わって居ないだけですわ!現に数字の上では、明確に増量傾向にあるんですよ!」
「私も増えてた」
「鏡花ちゃんのは成長期!」
「否、ナオミちゃんも十分成長期在り得ると思うが」
「矢っ張り考え過ぎよナオミちゃん。若い頃は一、二
「そう云う油断が命取りになるんです!若さに胡坐をかいて“ちょっとだけ”を繰り返した積み重ねが、後々取り返しのつかない障壁となって立ちはだかってくるんですわ!」
「う゛…、如何しよう綺羅子ちゃん…。何かめっちゃ心臓がギュッてすんだけど…」
「大丈夫よ菫ちゃん。私も全く同じ気持ちだわ…」
「大丈夫?」
「え…、あ、その…。今のはあくまで私が自分自身を戒める為に云った言葉であって…、それ以外の意味は…」
「否、大丈夫…。判ってる。判ってるんだけどさ…。こうね…、思い当たる節が多過ぎて、つい…」
「私もナオミちゃんくらいの年頃の時そんな高い意識があったら、何か変わっていたのかしら…」
件の健康診断で晶子ちゃんと三人仲良く「アルコールは控えて下さい」と表記された私達は、遠い眼をして互いに微笑み合うしかなかった。そんな大人二人をあたふたとフォローするナオミちゃんの気遣いが、余計に心に沁みた。
「まぁ、取り敢えず事情は変わったよ。でもあんま無理なダイエットしちゃ駄目だぞ?」
「そうよ。身体を壊したら元も子も無いし、抑々ナオミちゃんは今の儘でも十分可愛いもの」
「うん」
「有難う御座います皆さん。……でも矢っ張り、女性に生まれたからには自分を磨く努力は惜しみたくないんです。それに…」
「「「それに…?」」」
「それに…、その…、少しでも兄様に“可愛い”って思って頂ける自分で居たいんですもの…」
「「「…………」」」
「…………」
「……ぎゃんかわ」
「菫ちゃん!?」
「倒れた」
「あれ?菫も大福要らないの~?じゃあ僕がもーらい!」
「もう、乱歩さん!」
****
「………はぁ…」
自室の引き出しに封印しておいた忌まわしい記述に、またしても溜息が漏れる。ナオミちゃんに感化されて、逃避した現実に改めて向き合ってみたが矢っ張り眼を背けたくなる気持ちは変わらなかった。何せ前回より明らかに体重が増えている。しかも一、二
(まぁ正直、今迄自分の見てくれなんて其処迄気にした事無かったからなぁ…)
人生の大半を他人にビクついて過ごしてきた私にとって、自分の容姿は其処迄重要な要素ではなかった。抑々他人と関わりたくなかったし、関わって欲しくもなかったのだから当然だ。美人さんは大好きだが、自分にもその美貌が欲しいと願った事は無かったし、精々石を投げられないくらいの顔面偏差値があれば十分だと思っていた。自身の見てくれで気を付ける事と云えば、最低限の身嗜みと清潔感をキープする事くらいだ。お洒落とか、美容とか。そう云うものに全く関心が無かった訳ではないが、何処か自分には遠い世界の文化の様に感じて。寧ろそれで華やかに仕上がった他人を離れた場所から見ている方が、ずっと有意義に感じた。
それが少しずつ変わり始めたのは、矢張り―――彼と付き合い出してからだ。
初めての
「少しでも“可愛い”って思って貰える自分で居たい…か……」
夕暮れの一室で独り言ちて、私は診断書を再び机の引き出しに仕舞うと、部屋を出て夕飯の準備に取り掛かった。
****
「あれ?菫、今日それだけ?」
「ん?おう…、今日はそう云う気分なんだ。それより早く食べようぜ。な?いただきます」
「いただきます…」
笑って誤魔化してはみたが、矢張り太宰は腑に落ちないと云った様に怪訝な顔で首を傾げている。急に慣れない事をするんじゃなかったなぁと内心で後悔しつつも、私は普段の半分しか米の入って居ない茶碗に箸を付けた。幸いな事に太宰もそれ以上は言及せず、何時もの様に他愛のない雑談を交えながら夕食は進んでいく。だが―――
「ねぇ菫。何か今日、異様にペース遅くない?」
「んん?そう、かな?」
「だってそれ、まだ一杯目でしょう。何時もなら、三杯目が空になる頃合いなのに」
「ほら、この前健康診断あっただろう。あれでさ、診断書に“アルコールは控えて下さい”って書かれちゃってて。流石に拙いかなぁって…」
「そんなの、探偵社の大人組は乱歩さん以外ほぼ全員書かれてるじゃない。国木田君なんてそれに加えて、“ストレスの溜め過ぎに注意しましょう”ってカウンセリングの案内迄来てたよ」
「うん。それは君が国木田君弄りを止めれば解決すると思うぞ」
「そんな事より、如何したの菫?今日何かあった?」
「そんな事よりで片付けちゃいけない問題だと思うのは私だけかな太宰君」
「はぐらかさないで。三食デザート付きで三時のおやつと晩酌を毎日欠かさない君が、どうして今日はこんなに控えめな量で抑えて居るんだい?」
「う…わぁ…、改めて聞くと私メッチャ食ってんじゃん…コワっ」
よりにもよって愛しの恋人殿から突き付けられた現実に、愈々もって眩暈がしてきた。いかんわこれ。そりゃ太るわこれ。日々の勤労に加え乱歩さんを負ぶって歩き、KUNIZAPの稽古に明け暮れていたとしても清算できないカロリーの暴力だわこれ。判ってたけど、普通にナオミちゃんより私の方が余っ程減量必要だったじゃねぇかチキショー。
「菫?」
「否…、何でもない…。その…出来ればこの件は、そっとしておいてくれると助かります…」
「………判ったよ。でも最後に一つだけ聞いていい?」
「なんでしょう…」
「もしかして君、ダイエットしてるの?」
「云った傍から傷口に岩塩撃ち込んでんじゃねぇよ鬼か君は!!」
わー、何だこれ。何か滅茶苦茶恥ずかしい。否、ダイエット自体は寧ろ己を向上させる手段であるからして、別段其処に羞恥を感じる要素は無いのは判っているが。何かアレだ。暗に「最近太りました」って事を太宰に公表してしまった様でメッチャ恥ずい。まぁ実際云い逃れ出来ないレベルで肥えちゃったんだけどさー!
「ふぅん。成る程ねぇ」
「っ!」
太宰が納得した様に独り言ちたその瞬間、私は本能的な悪寒を感じた。見ると太宰は箸を置いて私の方へと近づいてくる。ニヤニヤと釣り上がった口の端と弧を描いた目元に、私の経験則が緊急警報を発令した。
「おや?どうして逃げるんだい菫?」
「うん。それは君の美貌に“碌でも無い事考えてる”ってガッツリ書いてあるからかなぁ〜」
「酷いなぁ。私はただ君の悩みの種がどれ程のものか、確認したいだけだよ」
「いやいやいやいや。マジで勘弁して下さい太宰さん。それは色んな意味で死ぬ。どうかお慈悲を、温情を…」
「安心して、ちゃんと優しく確かめてあげるから」
「その時点で既に優しさ欠如してんだろうが!ひっ…」
「はぁい、捕まえた〜」
壁際迄追い詰められた私の両手を掴んで、太宰はそれはそれは楽しそうな笑顔を浮かべた。一周回って無邪気にすら見える邪念一〇〇%の笑みに、私は内心で静かに合掌した。
「却説、どれどれ〜?…う〜ん、ほほう…あ〜、確かに云われてみれば…」
「〜〜〜っ!!」
嘗てこんなにも非道な行いがこの世にあっただろうか。幾ら己の不摂生が招いた結果とは云え、それでついた贅肉をよりによって自分の恋人に確認されるとかあんまりじゃないか。あーそうですね。もう腹の肉が摘めちゃいますもんね。物的証拠が此処に在りますもんね。もうヤダ。いっそ殺してくれ。
「…成る程。よし、大丈夫だよ菫」
否、私のメンタルは既に晶子ちゃんでも治癒不可レベルで死に体なんだが。そんな憂いを内心吐き出す私の頬を両手で包み込み、散々私の身体を撫で回した太宰は慈しむ様な微笑みを浮かべた。
「これくらいなら私、全然余裕で欲情出来るから」
「その判断基準の何が大丈夫なんだよ!」
積もり積もった負の感情が爆発し、反射的に私は太宰の胸倉を掴み上げた。しかし太宰は背後に薔薇の幻影が見え出す程キラッキラの笑顔で、尚も優しく微笑む。
「気にする事なんて無いさ菫。多少丸っこくなっても、それはそれで愛嬌があって可愛いと思うよ?」
「一
「まぁまぁ。抑々、何で急にダイエットしようなんて思ったの?今迄多少体重が増えても、大体見て見ぬ振りして流してたじゃない」
「う゛…」
云える訳ねぇ。『君に可愛いって思って貰える自分になりたくて…』とか口が裂けても云える訳ねぇ。てか自分とキャラ違い過ぎて身体が拒絶反応起こすわ。普通に云い切る前に吐血必死だわ。そんな葛藤を脳内で繰り広げていると、不意に太宰が小さく苦笑して私の身体を抱き寄せた。
「菫は可愛いね」
「……。今更機嫌取ろうとしても無駄だぞ…」
「私はただ思った事を云っただけさ。一生懸命な所とか、恥ずかしがり屋な所とか、お馬鹿な所とか凄く可愛いくて私だぁい好き」
「おい、さりげにディスってんのバレてんぞ」
「だから菫、もっと自惚れていいんだよ?
「……っ…」
嗚呼、狡い。これは卑怯だ。
知ってる癖に。私が君のそう云う顔に弱い事を。私が君のそう云う言葉に弱い事を。知ってる癖に。全部知った上で態とこう云う事をする。本当に―――
「……容赦ないにも程がある」
「おや?私は何時だって君に最大限の優しさをもって接している心算だけど?」
「その優しさが容赦ないって云ってんの。君がそんなんだから、私の自制心だって薄れてくるんじゃん……」
「うんうん。それは大変善い傾向だねぇ。そうやってどんどん他人より自分に素直な菫ちゃんになってくれると嬉しいなぁ」
「教育方針の違いが壊滅的過ぎやしませんか」
「だってその方が絶対可愛いもの」
「君の可愛いの基準が謎過ぎる」
「お互い様でしょ」
不思議なものだ。先刻迄あんなに色んな感情が
「太宰の馬鹿…」
「わぁ、驚く程捻りの無い罵倒が出たね」
「馬鹿太宰。今日から君を“孫に延々食べ物与えて肥えさせる爺ちゃん婆ちゃん”と同じカテゴリに分類してやる馬鹿……」
「え~。でも実際、其処迄深刻に捉えなくてもいいと思うんだけどなぁ。寧ろこの辺とか、いい感じにボリューム出てきたのに勿体ないよ?」
「ちょ、待て!!」
しかし私の制止も虚しく太宰は両手で私の胸をむんずと掴み、むにむに揉みしだきながら万感の思いを込めた様な感嘆を漏らした。
「嗚呼、こんなに立派に実って…。私も丹精込めて育てた甲斐が在ったよ。ん?でもこれだと今のブラきついかな…。よし菫、折角だから新しい下着買っちゃおう。私が素敵なの見立ててあげるから!」
「要らねぇ!取り敢えず手ぇ離せ!あと生産者的コメントやめろ!!」
「えー、やだぁ~。あと五分~」
「起床時間延長するノリで食い下がんじゃねぇえ!!」
その数秒後、堪忍袋の緒が切れた私は太宰を投げ飛ばし食卓に戻った。荒れた心其の儘に箸を進めた結果、結局普段と同じ量を完食してしまったが、それを見ていた太宰が頭を摩りながら嬉しそうに微笑んでいた。
こうして、私のダイエット計画は僅か数時間でご破算となった。とは云え、抑々これは太宰に褒められたくて思い立った事だし、それで太宰が寂しい思いをすると云うなら本末転倒に他ならない。幸い太宰も私の増量を確認した上で何時もと変わらず“可愛い”と云ってくれた訳だし、焦って本腰を入れる程喫緊の問題でもなさそうだ。まぁそれでも、これ以上増量しない様に日々の生活を見直す必要はあるな。取り敢えず明日から、毎日の摂取カロリーとか運動量とか把握する習慣を付けてみよう。そんな事を考えながら、私は何時も通り太宰の腕の中で心安らかに眠りに就いた。
―――筈だった。
「……ん…?」
何となく寒くて私はぼんやりと眼を開けた。理由はすぐに判った。布団の中に太宰が居ない。トイレだろうか?そう思って待ってみたが、一向に太宰は戻って来ない。流石におかしいと思って私は布団から起き上がり、襖に手を掛けた。ほんの僅かに襖を開いた瞬間、探し人の背中が見えた。太宰が居た事に安堵する一方で、私ははてなと首を傾げる。太宰は茶の間でちゃぶ台の前に座っていた。だが部屋には電気が付いていない。唯一彼の手元の携帯だけが光源として、寒々しいブルーライトを灯している。
(何してんだろ…)
何となく気になって、私は襖を僅かに開けた儘太宰の様子を伺った。どうやら携帯で何かを見ている様だが、彼の姿が重なって画面がよく見えない。ジッと眼を凝らして上下に視線をずらしながら見える位置を探る。すると不意に太宰が「ん~…」と難しそうに唸りながら携帯を頭の上に掲げた。
そして、何時になく真面目な声で彼はぽつりと呟いた。
「矢っ張り、こっちの方が可愛いかな…」
「―――っ……」
呼吸が止まった。その事すら自覚できない程、私の思考は感覚ごと停止した。
漸く見えた携帯の画面。其処に映っていたのは、滑らかなサテン生地の下から覗く雪の様に白い肌と、細くしなやかな肢体。
それはまるで、触れたら壊れてしまいそうな程に儚く、嫋やかな
―――黒髪の美女の姿だった。
****
「晶子ちゃん先生。一生のお願いです。どうかその鉈で私にこびり付いた贅肉を全て削ぎ落して下さい」
「取り敢えず手術台の上で土下座すんじゃないよ」
私の懇願に晶子ちゃんは呆れた様に溜息を吐きつつも、椅子を勧めて聞く姿勢に入ってくれた。
「で、一体何がどうしたってんだい?」
「痩せたいんです…。具体的には儚さ演出出来るくらいのスレンダーボディに生まれ変わりたいんです……」
そう頭を下げる私のメンタルは絶賛どん底更新中だった。原因は云わずもがな、昨晩太宰が眺めていた薄着の美女の写真である。
否別にね、ああ云うのを見るなとは云わないよ?太宰君も健全な成人男性であるからして、あの手の写真の百枚や二百枚鍵付きフォルダに保存してても仕方ないと思うよ?現にこれ迄も太宰の部屋を掃除する時は、うっかりエロ本とエンカウントしちゃっても静かな心で元の場所に戻そうと誓いを立てて掃除してきたよ。まぁ実際エンカウントした事無いけどさ。それはいいとして、結局何が云いたいかと云うと―――
やっぱ太宰…、ああ云うタイプが好みなんかな……。
確かに太宰は毎日の様に私に“可愛い”って云ってくれるし、“好きだよ”とも云ってくれる。太宰が私を手離す心算がない事も今更疑う気は無いし、愛されてる自覚と云うヤツも…まぁ、恥ずかしながらある。けれど、“では私が太宰の好みのタイプに該当しているか”と問われると果てしなく自信がない。何故なら好きになった人と好きなタイプは、厳密には別物だからだ。私もぶっちゃけてしまえば、サラサラなストレートの黒髪が好きだし、色白でちょっと骨張ったくらいの体格が好みだし、切長の眼と影のある顔立ちがタイプだ。だが、如何に外見が好み一〇〇点満点のドストライクタイプでも、中身と言動によって好感度最下位に下落する事は、既に某ストーカー鼠が証明している。好きなタイプはあくまで好きになり易いだけであって、好きになる人とイコールでは無い。判っている。それは、判っているのだが……。
「矢っ張り、こっちの方が可愛いかな…」
もうこの歳じゃ身長は伸びない。顔面偏差値も生まれた瞬間に決まっている。唯一今からでも軌道修正出来るとしたら、それは体型だけだ。ならば私は、その残された最後の望みに全力で賭けるしかない。
「ただ、何分私はその手の知識に乏しいから、お医者さんの晶子ちゃんに聞くのが一番確実かなと思って…」
「成る程ねェ…。まぁ確かに無闇矢鱈に食事減らして運動しても、痩せる前に身体壊すだけだ。その判断は正しいよ。……正しいが…」
「晶子ちゃん?」
理由は伏せつつ事情を説明すると、晶子ちゃんは何処か歯切れ悪く答えた。普段の彼女らしからぬ反応に首を傾げると、晶子ちゃんは少し難しい顔をして再び口を開いた。
「否…。アンタの云う通り、健康的に痩せる方法を教えてやる事は出来る。出来るんだが、その…アンタには大分キツいと思うよ?」
「うん。それは判ってる。私だって楽して簡単に痩せられるなんて思ってないよ」
それが辛く厳しい道である事は判っている。一朝一夕で辿り着けるものではない事も理解している。けれどそれで彼に心から“可愛い”と云って貰えるなら、どんな修羅の道でも私は耐え切ってみせる。
「既に覚悟は出来ている。だからどうか気にせず云ってくれ晶子ちゃん」
「はぁ…、判ったよ。じゃあ取り敢えず手始めに
―――禁酒しな」
「ぐふぉあっ!!」
「あと間食も禁止だ。食後のデザートは果物を適量だけなら大丈夫かねェ。まぁ、当然だがケーキやアイスは論外だよ」
「ごっふぁっ!!」
立て続けにクリティカルヒットを叩き止まれ、私は無惨にKOされた。椅子から滑り落ち虫の息となった私に、晶子ちゃんは頭を掻きながら深い溜息を吐く。
「だから云っただろ。アンタには大分キツいって。減量の基本は余分なカロリーの削減だ。ともなれば、一番最初に削られんのは嗜好品の酒や甘味に決まってるだろう?」
「ウン…、ソーダネ…当タリ前ダネ…ハハハハ……」
「……厳しい様なら、徐々に減らしてくって手もあるよ?大分長期戦になるが、酒と甘味で生きてるアンタには耐えられないだ」
「否、やる」
私はヨロヨロと立ち上がりながらも、はっきりとそう答えた。確かに酒と甘味は私の生命の源と云っても過言ではない。それでも、太宰とどちらが大切かと聞かれれば、答えは考える迄もない。
「私、今日から禁酒する。間食もやめる。絶対に痩せて、少しでも綺麗で可愛い女になるんだ!」
こうして、私の二度目のダイエット計画が幕を開けた。
****
「皆さんお疲れ様!今日のおやつはシュークリームですよ~」
「わぁーい!待ってましたー!」
「ごめん綺羅子ちゃん。私、今日はいい…」
「え?でも、今日は菫ちゃんが大好きなケーキ屋さんのシュークリームよ?」
「う…うん…。大丈夫。どうかそれは、別の人にあげてくれ…」
「あれ?何菫、シュークリーム要らないの~?じゃあ僕がもーらい!」
****
「失礼します。…あ、すみません社長。休憩中でしたか」
「否、構わん。折角だ、お前も一つ食べるか?」
「う゛……、い、いえ…お気持ちは嬉しいのですが、遠慮します……っ」
「む?お前饅頭は好きだっただろう?」
「まぁ、好き…ではありますが…。その…一身上の都合により、現在甘いものを控えておりまして……」
「えー!菫お饅頭も要らないの〜?じゃあこれも僕がもーらい!」
****
「今回も世話になったな名探偵。どうだ、偶には一緒に一杯?そっちの嬢ちゃんも結構な酒豪だって聞いたぞ?」
「ミ…ミノウラ刑事…」
「ダメダメ箕浦君!菫は今禁酒中なんだから、邪魔しないでよね!」
「ん?そうなのか?」
「うん!それより僕、飲み屋より甘味処にいきたいなー。あ、勿論お前の分は僕が貰ってやるから安心していいぞ菫!」
「ア…ハイ…。アリガト…ゴザマス……」
****
そして本日も、見るからにご機嫌な様子の名探偵は、死んだ魚の様な眼をした後輩の手を引いて高らかに云い放った。
「さぁ!今日の依頼は豪邸で起きた盗難事件だ!安心しろ菫、何時も通り出された茶菓子はぜーんぶ僕が貰ってやるからな!」
「ワァーイ…アリガトウゴザイマース……」
機械音声より生気の無い返事を返す後輩を連れて、乱歩さんは意気揚々と事務所を出て行った。無機質な扉の音を最後にシンと静まり返った室内に耐えられなくなったのか、敦が恐る恐る口を開いた。
「あの…。放っておいて大丈夫なんですか、あれ……」
「大丈夫ではないだろう。…だが、俺達にはどうしようもない。何せ当の本人が頑として譲らんのだからな」
菫がダイエット宣言を始めてから今日で二週間。初めはあからさまに“断腸の思い”とでも云う様な表情で歯を食い縛っていた菫は、最早その表情を浮かべる気力すらなくなっていた。太宰に避けられていた頃とはまた別の意味で深刻なその憔悴ぶりに、見るに見かねた春野女史や鏡花が何度か説得を試みたが、彼奴は依然として食事制限とやらを続けている。
「与謝野先生の話では、日常生活に必要な分の食事はきちんと摂取しているそうだ。寧ろ身体的には改善傾向にあるらしい」
「否…とてもそうは見えないんですけど……」
「まぁ彼奴は基本的に、酒と甘味を栄養にして生きている様な奴だからな。その両方をいきなり断つなど、ジャンキーから薬を取り上げる行為に等しい。見ろこれを」
「? 何ですかこれ?」
俺が差し出した紙片を見て、敦は怪訝そうな顔で首を傾げる。其処には“日報”と書かれた枠の下に、断末魔を上げのた打つミミズの姿を彷彿とさせる様な文字が並んでいた。
「昨日菫が書いた提出書類だ。日を追う毎に手の震えが止まらなくなっているらしい」
「既に禁断症状が!?」
「兎に角、早急に手を打つ必要があるな。如何に唐変木とは云え、揃いも揃ってこれでは仕事にならん」
「え?“揃って”って…?」
その問いに横の方を顎でしゃくって見せると、敦は色硝子に囲まれた接客用のソファーを覗き込み、何とも云えない引き攣った笑みを浮かべた。その視線の先には、ソファーに蹲り悲壮感を声にした様な嗚咽を漏らすもう一人の唐変木の姿があった。
「う…うぅ…。何でさ菫…。私其の儘でいいって云ってるのに…。菫…、菫〜〜……」
「何で太宰さん迄こんな事に……」
「菫が食事制限を始めてからと云うもの、食事を別メニューにされたらしい。習慣だった晩酌も付き合って貰えなくなった上、社内では常時乱歩さんが菫に貼り付いている所為で共有時間が大幅に削られた結果この様だ」
「あ〜…。そう云えば乱歩さん、“お菓子を二人分食べられるから”って最近は菫さんにべったりでしたもんね……」
「私は…私はぁ…!菫と一緒に“美味しいね”って笑い合いながら食事が出来ればそれでいいのに!酒だって…君と飲むのが一番美味しいのに……。なのに…“酒の味思い出すと我慢できなくなるから”って、晩酌中はキスもさせてくれないし!夜は“起きてるとお腹空くから”ってすぐ寝ちゃうし!もうヤダ…菫。スミレ゛〜〜」
悲痛な慟哭を上げる太宰はソファーの肘掛けをバンバン叩きながら嘆く。その姿には、流石の俺も哀れみを禁じえなかった。
「何度も聞くが、菫がああなった原因に本当に心当たりはないのか?」
「無いよ!寧ろ“折角育ってきたのに勿体無い”って止めたよ私!!」
「“何が”とは敢えて聞かんぞ。しかしだとしたら、あのアル中予備軍の甘党が突然ダイエットなど始めた理由は何だ?」
「抑々菫さん。そんな必死にダイエットなんてする必要あるんですか?僕には其処迄太った様には見えませんけど…」
「女性はその辺の定義が男より段違いに厳しいからねぇ…。一、二
「逆にあれだけ毎日飲み食いしておいて殆ど外見に響かん彼奴の身体の構造の方が、俺は不思議でならんがな」
「は?何国木田君、私の菫をそんないやらしい眼で見てたの?よし通報した」
「話を三段抜かしで飛躍させるなこの唐変木が!兎に角だ、原因が判らん事にはこれ以上手の打ちようが無い。何とかして彼奴から聞き出さなくてはな」
「あら!でしたらその役目、私に任せて頂けます?」
その時不意に、軽やかな声音が名乗りを上げた。
****
「すみません菫さん。急にお時間頂いてしまって」
「否、構わんよ。ナオミちゃんからのお誘いなら何時でも大歓迎だ。それで、話って何?」
「実は、菫さんのされているダイエット法についてお話を聞きたくて。同じダイエット仲間同士、情報交換が出来ればとお誘いしましたの」
探偵社屋の一階にある喫茶処。その一角で向かい合う二人の会話に、カウンター裏の影に隠れた俺達は息を潜めながら聞き耳を立てる。探り役を申出たナオミのごく自然な建前に、菫は納得した様に頷いた。
「あ〜、成る程ね。でも私のは単に晶子ちゃんから貰った助言を実行してるだけから、直接本人に聞いた方が早いと思うが…」
「いえいえ、それを実行している菫さんご自身の所感も重要ですわ。因みに効果の程は如何ですの?」
「えっと。最近少し停滞気味だけど、取り敢えず増えちゃった分は何とかリセット出来たかな」
「まぁ凄い!頑張った甲斐がありましたわね」
「有難う。でも、まだまだだよ。せめてあと五
「(はぁ!?そんな無理しなくていいって!菫は其の儘で十分愛くるしいってば!!)」
「(シー!太宰さん静かに!聞こえちゃいますよ)」
「(大人しくせんかこの唐変木が!)」
お互い声は抑えたが、日頃から荒事に対峙している事も在って、僅かな物音を聞きつけた菫が俺達の方へと眼を向ける。だが咄嗟にナオミが「ところで菫さん」と声を上げ、彼奴の意識を引き戻してくれたお陰で何とかバレずに済んだ。
「菫さんがダイエットを始められたのって、矢っ張り
「!」
いきなり確信を突いた質問に菫はビシリと固まった。そんな彼奴に、ナオミは外堀を埋めていく様に言葉を続ける。
「不躾な質問をしてすみません。でもお酒と甘いものが大好きな菫さんが、それを断って迄ダイエットを頑張っていると聞いたら。矢っ張り気になってしまって」
「否…、大丈夫。そうだよな。あれだけ毎日飲み食いしてた奴が急にダイエットとか云い出したら、ビックリするよな…。う~ん、まぁそうだなぁ…。ナオミちゃんの云う通り、太宰絡みなのは認めるけど“太宰の為”って云うのは、ちょっと語弊があるかな…」
「と云いますと?」
「どっちかって云うとこれは
何処か自嘲気味にそう零すと、菫はソーサーの縁を指でなぞりながら更に小声でぼそぼそと言葉を紡ぐ。
「その…前にナオミちゃん云ってたじゃん?少しでも谷崎君に“可愛い”って思って貰える自分で居たい、ってさ…。私もそれに近いっちゃ近いんだけど…。何て云うか、私が“太宰にとって理想的な女性”になりたいって云うか……」
その瞬間立ち上がろうとした馬鹿を、俺は羽交い絞めにして口を塞いだ。ジタバタと暴れる手足を敦が押さえ付け、俺達は息を殺して二人の会話に耳を聳てる。
「太宰さんにとって…理想的な女性?」
「うん。だから、もっと頑張って綺麗にならなくちゃ」
「でも国木田さんなら兎も角、太宰さんに“理想の女性像”なんてありますの?」
「まぁ太宰君だって好みの一つや二つあるさ。現に本人も“美女が好き”って公言してるし。……少なくともこんなマスコットゴリラ女より、細くて儚げで守ってあげたくなる様な美人の方が、太宰も“可愛い”って思うよなぁって……」
「………菫さん。“細くて儚げで守ってあげたくなるような美人が好みだ”と、実際にそう太宰さんが仰いましたの?」
「あ…、否。別に本人がそう云ってた訳じゃないけど…」
「では、何故そんな具体的な例が出てきましたの?何か、そう思い至るきっかけがあったんじゃありません事?」
「っ…!…その…えっと…、ごめん。それは、云えない…」
「太宰さんの為に、ですか?」
「……それも、云えない」
俯いた菫を見て、ナオミがチラと此方に目配せをした。菫の口の堅さは折り紙付だ。真相迄あと一歩の所迄迫ったがどうやらここ迄らしい。しかし、全く空振りだった訳でもない。少なくとも諸悪の根源は特定出来た。
「そら見ろ、矢張りお前が原因だったではないか。しかも“細くて儚げで守ってあげたくなるような美人”が理想の女性像だと?見た目ばかりに気を取られおって、浅はかな。いいか理想の女性と云うのは、心身共に精錬され更に職業や年齢を加味した上で完璧と銘打てる最高の」
「否、云ってないでしょう。誰も“細くて儚げで守ってあげたくなるような美人”が理想の女性像だなんて云ってないでしょう。百歩譲ってそうだとしても、君にだけは文句云われたくないよ」
これ以上の張り込みは無意味と判断した俺は、敦と太宰を連れて裏口から外に出た。後半ずっと取り押さえられていた太宰は、漸く解放された口で開口一番反論を並べ立てると、其の儘大きく陰鬱な溜息を吐いた。
「はぁ~…。もう、どうしてこんな勘違いが発生してしまったのだろう…。まぁ確かに儚げな女性は嫌いじゃないし、寧ろ素敵だなぁとは思うけど。菫とどっちがいいかって聞かれたら、そんなの菫に決まってるじゃなか…」
「だが少なくとも、彼奴はお前がそう云ったタイプの女性を好んでいると思い込んで居る。先刻の会話に何か思い当たる節は無いのか?」
「え~。だって最近は菫を可愛がるのに忙しくって、他の女性とはお茶すらしてないのだよ?」
「実際に会ってなくても、何か誤解を招く事を云っちゃったんじゃないですか?“こう云うタイプが好みだなぁ”とか、“こう云う人は可愛いと思うなぁ”とか」
「あのね敦君。自分の恋人を他人と比べるなんて、そんなデリカシーの無い発言をこの私がする訳ないだろう。と云うか、それほぼ確実に不要な火種になる発言だからね。覚えておき給えよ?」
「あ…はい…」
「当人と比べずとも、他の女性同士を比べたりしていた可能性はないか?」
「もう、国木田君迄…。無いよ。抑々女性同士を比べて甲乙付けるなんて失礼じゃないか。彼女達は皆各々に素晴らしい魅力を持って居るのだよ?細い人もふっくらしてる人も、背が高い人も小さい人も、弱気な人も強気な人も、一人一人が唯一無二の愛らしさを持って居るんだ。女性はね、生まれた瞬間から皆違って皆可愛いのだよ!それを男側の勝手な価値観で測った挙句、“こっちの方が可愛いかな”なんて、ナンセンスもいい所―――……あ…」
「? 太宰さん?」
「おい、どうした太宰?」
その時不意に、くるくると回っていた太宰の口が停止した。と云うか身体全体がピタリと停止した太宰は、大きく眼を見開いた儘何も無い一点を見つめていた。その反応に俺達が首を傾げて居ると、軈て太宰は口元だけを僅かに動かしてぽつりと言葉を零した。
「原因…、判っちゃった……」
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「はぁ…」
ここ最近、溜息の最多記録を着々と更新している気がする。好きなものを我慢すると云う事が、ここ迄精神にくるものだとは。考えてみれば、これ迄痛い事や怖い事を耐える事は多々あったが、好きなものを断って耐えるのは初めてな気がする。寧ろ、ダメージを負ったメンタルを回復させる為に頼っていた酒と甘味を失った今、私には太宰と探偵社の皆、あと猫くらいしか心の拠り所が無い。しかし、前者二つは必然的にご飯やおやつの時などに気を遣わせてしまうから、何となく心苦しくて遠慮してしまう。消去法で残った猫も安定して供給出来る場がなく、帰り道にひたすら猫の溜まり場を覗いて帰ると云いう運ゲーに勤しむ有様だ。その所為で、今日も帰りが遅くなってしまった。私は兎も角、太宰は何時も通りの食生活を続けて居るのだから、早く帰って夕飯を作らなくては。そう思いながらも、借家の錆び付いた階段を上る足は何処までも重い。物理的には軽くなった筈なのにな。と言葉にする代わりに、私の口からはまたもや溜息が漏れた。
「ただいま…」
「嗚呼、お帰り菫!待ってたよ!」
何故か太宰が、何時になく明るい笑顔で出迎えてくれた。だがそれに就いて考える前に、私の意識は鼻腔に流れ込んできた香りに根刮ぎ奪われた。それが顔に出たのだろう、太宰は満足げに笑って私の手を引いた。
「ほら、早く上がって。今日の夕飯は私が作ってあげたから!」
「え…」
されるが儘に連れ込まれた茶の間。其処では見慣れたちゃぶ台の上で土鍋が湯気を立てていた。その周りに二人分の食器と一升瓶が並んでいる。
「鍋なら私でも簡単に作れると思ってね。あと食後のデザートにケーキも用意しておいたよ」
「あの…でも太宰…。私…」
「増えた分は戻ったんでしょう?ならもういいじゃない。これ以上、無理して痩せる必要なんて無いよ菫」
甘やかな声で、甘やかな笑顔で、太宰は私の頭を撫でる。反射的に飲んだ生唾は、一体何に対する渇求だろう。ただ唯一判ったのは、此処でこの誘惑に負けたら、私はまた彼の優しさに甘えてズルズルと元の自堕落な自分に戻ってしまうと云う事だ。
「駄目だ太宰。気持ちは嬉しいけど、私まだ体重落としたいし」
「でもそれ、私に“可愛い”って思われたいからなんでしょう?」
「っ…!」
「前にも云ったけど、もう十分だよ菫。君は今の儘で十分過ぎる程可愛い。だから私の可愛い君が、これ以上辛い思いをするのは見たくないよ」
「太宰…」
するりと頬に滑り落ちてきた手が、其の儘私の顔を固定する。流れる様な動作で、太宰の綺麗な顔が近づいてくる。嬉しい筈のその行為。けれど―――
「駄目だ!」
私は咄嗟に後ずさって太宰から距離を取った。あの儘彼の口付けを受け入れてしまったら、また何時もみたいに全てどうでもよくなってしまいそうで。彼が許してくれるならいいじゃないかと、また甘ったれた考えが蘇ってしまいそうで。
「駄目だよ太宰…。私、綺麗にならなくちゃ…。今の私じゃ駄目なんだ…だから…っ」
「菫は綺麗だよ。寧ろ、今の君の何が駄目なんだい?」
「―――っ!」
嗚呼、駄目だ。
だってそんなの、君が一番判ってる癖に。
「私は綺麗なんかじゃない!君が好む様な美人じゃないだろ…!太宰だって、本当はそう思ってる癖に…。私みたいなのより、もっと細くて綺麗で儚い美人の方が“可愛い”って思ってる癖に…っ!」
鼻の奥がツンとする。自分で吐いた言葉が苦しい。納得した筈の事なのに。飲み下した筈の事なのに。頭がグチャグチャして喉が痛い。嗚呼、厭だ。こんなの厭だ。喩えそれがどうしようもない事実だとしても、太宰の中で私以上に思われている誰かが居るなんて、
―――そんなの、厭だ…。
「君の云う“細くて綺麗で儚い美人”って云うのは、この人の事かな?」
その声に私は思わず眼を見開いた。其処には、困った様に苦笑する太宰の姿。そしてその手に在ったのは、滑らかなサテン生地の下から覗く雪の様に白い肌と、細くしなやかな肢体。まるで触れたら壊れてしまいそうな程に儚く、嫋やかな―――黒髪の美女。
「そ、それ…っ!」
「嗚呼、矢っ張り原因はこれだったんだねぇ。良かった良かった」
一体何が“良かった”のか全く理解出来なかったが、明確な不満が湧き上がってきたのは自覚出来た。その衝動が言葉に変わり口から溢れ出す寸前に、太宰はにっこりと笑って口を開いた。
「これ。ただの下着の見本写真だよ?」
「…………」
「…………」
「…………はい?」
「だから、これは女性用下着の見本写真。菫も自分の買う時に見たりするでしょ?」
謎のカミングアウトをかました太宰は、携帯を閉じて立ち上がると徐に自室の襖を開けた。その暗闇へと消えていった太宰が次に電灯の下へと戻ってきた時、彼の手にはあの写真の女性が着ていたものと同じサテン生地の、ミニ丈ワンピースの様なものが掲げられていた。
「色々迷ったのだけどね。いきなり色気のある下着を選んでもハードルが高いかなぁと思って、逆に隠すエロさと全体的な可愛らしさに極振りしたベビードールを選んでみたのだよ!どう、すっごく可愛いでしょう?」
「…………」
「菫聞いてる?」
「あ…、否…ごめん。その、何て云ったらいいのか…」
言葉を詰まらせる私に、太宰は安堵した様に微笑んだ。
「漸く判ってくれたみたいだね。そう、これは―――」
「安心してくれ太宰。君がどんな趣味嗜好を持っていようと、私はそれを受け入れよう。大丈夫さ!君の美貌をもってすれば、女性用の下着だって着こなせるって!」
「否着るの君だからね」
「は?何で?」
「寧ろ私が聞きたいよ。何で私がこれを着るって発想になる訳?あり得ないでしょ?」
「確かに少数派だが一定数需要は在」
「あー!あー!何も聞こえませーん!」
えっと、これはつまりどう云う事だ?太宰が見ていたのはただの下着の見本写真で?その写真のモデルさんが着ていたのと同じ下着が此処にあって?それは太宰のではなく私ので、って……え?どうしてそうなった?
「ほら、この前云ったでしょう?“私が素敵な下着見立ててあげる”って。あの後どうしてもその事が頭から離れなくてね。居ても立っても居られずネット通販で吟味していたのだよ」
「じゃあ、“こっちの方が可愛い”って云うのは…」
「黒と白だったらどっちがいいかなぁって迷ってて、でも矢っ張り清純さを引き立てる白の方が可愛いかなぁって」
「…………」
「だから、菫が気にする事なんて何もないのだよ?まぁ確かに下着姿の女性の写真を何枚も見続けてはいたけれど、全部脳内変換で君に置き換えてたから、私が見ていたのは実質君の下着姿も同然さ!」
「…………」
「いやぁ、本当は届いて直ぐにプレゼントしたかったのだけどね。ダイエットで菫それどころじゃなさそうだったから、中々云い出せなくて…。でも、今やその原因も綺麗さっぱり解消されたし、晴れて心置きなくこれを君に贈れるよ!あ、そうだ!折角だしご飯食べたらこれ着てみてくれない?絶対似合うから!絶対可愛いから!ね?お願い菫!」
真相を聞かされ、私はその内容を咀嚼しながら改めて正面を見やった。其処には、キラキラと眼を輝かせてフリフリシャランラな下着を私に差し出す愛しの恋人。その曇りなき眼を静かに見据えて、私は漸く口を開いた。
「なぁ太宰君よ。君にこんな事云うのは大変心苦しいんだが、敢えて云わせて貰うよ」
「ん?なぁに?」
「今の君、―――やってる事が育ての親と同じだぞ」
「っっっ!!」
まるで雷にでも打たれた様に、太宰は笑顔を貼り付けた儘ビタリと固まった。心なしか真っ白になった様にも見える彼の横を通り過ぎて、私は自分の茶碗に米を盛ると席に着いて手を合わせる。「いただきます」と小さく零して私は箸を取った。太宰作の鍋を黙々と食し、二週間振りにアルコールを口内へ流し込む。その焼けつく味わいにほっと一息吐くと、私の腹回りに長い両腕が回された。
「うぅ…あんまりだ…、あんまりだよ菫…。どうしてそんな酷い事を云うのだい。よりにもよって、あの人を引き合いに出すなんて……」
「悪いな。お望み通り自分に素直な所感を述べてみた心算だったんだが」
「余計酷いよ!」
「じゃあ素直な所感テイクツー」
「まだあるの!?」
「ご飯作ってくれてありがと。凄く美味しい」
「………」
「あと、勝手に早とちりして……ごめん」
「………ふふ。そうそう、そう云うのが可愛いの」
私の腰元に縋り付いていた太宰は、満足そうに笑うと今度は肩に顎を乗せて背後から私を抱き締める。其の儘耳元に軽く口付けると、直接鼓膜を揺する様に甘ったるい声で囁いた。
「菫。好きだよ菫。大好き、愛してる。もう世界で一番可愛い」
「何だよ急に…」
「うふふ、おまじない。菫がまたありもしない事を心配しない様にね」
「……暗示の間違いだろ」
「似た様なものだろう?それとも、直接身体に教え込まれる方が好みかい?」
「どうぞ其の儘続けて下さい」
「え〜、いいじゃないか〜。社にはもう“明日二人で休みます”って伝えてあるのだし。久し振りに熱く濃厚な夜を過ごそうよ〜」
「否、何勝手に休暇とってんだ君」
「だって徹夜明けで仕事なんて、菫辛いでしょ?」
「しかも寝させる気すらねぇのかよ…」
「ねぇいいでしょ〜?折角可愛い下着も買ったんだし〜」
「……抑々、どうせ全部脱がせるだろう君。そんな下着の可愛さとか意味あんのか?」
「あ、もしかして着けた儘出来るタイプの方がよかっ」
「そう云う問題じゃねぇよ!!」
かくして、私の人生二度目のダイエット生活は二週間で幕を閉じた。だが意外な事に、食生活を意識する習慣はその後も残り続け、危惧していたリバウンドも回避出来た。何ならその影響で、前よりちょっとだけ美容と云うものにも興味を持ち始めたくらいである。
結果として今回の一件は、生まれてこの方不動の初期値を貫いていた私の女子力と、自分自身の容姿に対する価値観を、ほんの少しだけ向上させてくれたのだった。