hello solitary hand・番外編
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―――「鉄板ネタ」。
鋼鉄が如き硬度を誇る人気で多くの支持を受け、凡ゆる創作者達の衝動を駆り立て、その恩恵を希う支持者達を歓喜熱狂の渦へと叩き込む。まさに人間の思考が編み出せし究極の至宝。
『と云う事で、現在その扉の向こうは現実世界から切り離された特異点と化しています。扉の向こうにある部屋は外部と隔絶され、内部からの凡ゆる干渉を受け付けません。脱出方法はただ一つ、設定されたミッションをクリアする事のみです』
「あー、つまり“出られない部屋”ですね。理解しました」
目の前にある某何処でも行ける系秘密道具風の扉。それを眺めながら発した自分の声は思いの外乾いていた。そんな私の耳に嵌ったインカム越しに、此度の依頼人―――坂口安吾さん少し戸惑った様にその名を復唱する。
「出られない…部屋?」
「いえ、どうぞお気になさらず」
数多の異能力者が溢れ、毎日の様に奇々怪々な出来事が生まれ落ちる魔都ヨコハマ。その真っ只中に新たなる怪事件が巻き起こったのは、つい数時間前の事だ。
何でもとある異能犯罪者と、それを追っていた特務課のエージェントがこの街で衝突。派手なドンパチを繰り広げた結果お互いの異能力が鬩ぎ合い、勢い余って特異点が発生してしまったらしい。おいおい、そんな“手が滑った”みたいな軽いノリで発生して良いんか特異点。
『異能の詳細も含め、不明点の多いターゲットを捕縛する為、我々は汎用性を優先し“対象を密室に閉じ込める”異能力者を派遣しました。しかし、いざ対峙して判明したターゲットの異能は、“ある一定の条件を達成する事で凡ゆる場所からの脱出を可能とする”能力だったのです…』
「…で、“絶対閉じ込める異能”と“条件クリアすれば絶対出られる異能”がホコタテした末に爆誕したのが、このご都合特異点と…。所で、此処にウチの社員が閉じ込められてるって云うのは、間違いないんですよね?」
『……はい』
沈痛な重みを含んだ肯定に、私は苦笑しながら頭を掻く。
この“出られない部屋”と云う名の特異点には、発生時周囲に居合わせていた人間が取り込まれている。被害者数は合計五名。そしてその中には、本件で特務課の応援要請を受け現場に駆け付けた国木田君と敦君も居るそうだ。
『先程も云いましたが、この特異点は外部と完全に隔絶されています。しかし彼らが囚われている部屋は異能空間ではなく、異能が掛けられたごく一般的な部屋が一つの特異点として連なっているだけの様です。つまり…』
「拒絶の異能力を持つ私なら、その部屋に掛かった異能を弾いた一瞬に侵入の隙を生み出せる。って事ですね」
『ええ。ただしその拒絶の異能をもってしても、恐らく貴女一人が特異点内を行き来するので限界でしょう。囚われた人間と共に脱出すると云うのは現実的ではありません。よって貴女には、各部屋に設定されたミッションの攻略を補助して頂きたいのです』
「成程…」
依頼人から丁寧かつ簡潔な状況説明を受けた私は、それらを順に咀嚼しながら改めて思考を巡らせる。この異常事態が発生して既に五時間。未だ脱出成功者は居ない。それ程の難題が脱出条件として提示されているとも考えられるが、私は断然“一人ではクリア出来ないお題が突き付けられている”説を提唱する。こう云うのって大体二人一組で閉じ込められるのが定番だし。だとすれば、彼等の補助に私を送り込むと云うのは、案外有効な解決手段になるかもしれない。
『実は…。貴女の他にもう一人、本件を指一本で解決出来る最適任者が依頼候補に上がっていたのですが。困った事に彼とは全く連絡が取れず…』
「あ、いえいえ。寧ろ肝心な時に行方晦ませてこっちがすみません。今日は暑かったし、多分納涼序でにどっかの川を流れてるんだと思います」
インカム越しに謝罪しながら、私は今日も今日とて自殺に勤しむ愛しき恋人殿の顔を思い浮かべた。まぁ彼が今更入水如きで死ぬ事は無いだろうし、何時もの様に海まで流れ着けば馴染みの漁師さんから引き取り願いの連絡が来るだろう。とは云え、それ迄このトンデモ現象を放置しておく訳にもいかない。国木田君と敦君以外の被害者三人については、運悪く傍に居ただけの民間人が取り込まれてしまった可能性だってあるのだ。
「状況は把握しました。太宰の様に指一本でとはいきませんが、可能な限り迅速に依頼を達成出来るよう尽力させて頂きます」
『有難う御座います。それと…お仲間を巻き込んだ挙句、難題を押しつける形になってしまって、本当に申し訳ありません…』
「安吾さんが謝る必要なんて何もありませんよ。探偵社員はこう云うの慣れっこですし、人命救助は何よりも優先するべき最重要任務です」
『臼井さん…』
「それに、
『はい?』
すると、申し訳なさそうに頭を下げる姿がありありと思い浮かぶ様な安吾さんの声が、純粋な疑問符を浮かべた。それを右から左へ流しつつ、私は黄昏の空を眺めて乾いた笑いを漏らす。
「いやぁだって、性別逆転やって?幼児化やって?御伽噺パロやって時を駆けて猫になって犬になってラッコ鍋ですし。後やってないのなんて、出られない部屋と入れ替わりネタくらいでしたから、うん…。つまりこれは必然、孰れ来るべき約束されたディスティニーだったのですよ安吾さん。ははははは」
『……臼井さん…』
「何ですか」
『人の事を云えた立場でないと重々承知の上で云わせて貰いますが。……貴女、ちゃんと休養取れてます?』
「あ〜…はい、大丈夫です。ただ、近頃この手のトンチキイベントが立て続けに重なりまして…。ちょっと精神汚染気味なだけですご心配なく…」
『………』
「………」
『臼井さん…』
「はい…」
『政府御用達の優秀なカウンセラーやセラピストを何人か知っているので、宜しければ後程ご紹介します』
「………助かります」
同情と共感の入り混じった様な声に心からの感謝を述べた私は、気合い入れ序でに軽く肩を回す。そして肺に残った空気を全て吐ききり、新たな空気を吸うと同時に顔を上げた。
「っし!それじゃあ行って来ます!」
態と景気の良い声を発して自分自身に喝を入れた私は、その勢いに乗ってドアノブに手を伸ばす。大丈夫。今迄だって数多の二次創作御用達案件を乗り越えてきたじゃないか。その間にちょいちょい挟まってきた明らかに年齢制限必須のエグイネタに比べたら、こんなん全年齢向けの健全且つ良心的なミッションだ。故に恐るものなど何もない。覚悟を決めろ私。出られない部屋、なにするものぞ!…でも出来ればお題の難易度はハグ耐久戦くらい迄にしといて欲しいな。そんなヘタレ思考で最後を締め括ると同時に、私の手はドアノブに触れ定番の破裂音を立てる。其の儘間髪入れずに扉を開け放った私は、持ち得る瞬発力をフルに使って問題の部屋へ飛び込んだ。
「〜〜〜っつぁ!あっぶな!これ気ぃ抜いたら私でも締め出し食らうな」
「菫さん!?」
「やぁ敦君。無事かい?」
前提条件の時点で本作作戦が意外とハイレベルな案件だった事を物理的に痛感していると、耳馴染みのある声が驚愕一色に染まって私の名前を呼ぶ。その声の方へ眼を向けると案の定、救助対象である後輩君が眼をまん丸に見開いて固まっていた。見た所目立った不調もなさそうだ。良かった良かった。そう内心で安堵しつつ、私は敦君に現在の状況をザックリと説明した。
「―――えっと…。じゃあ
「お!“矢っ張り”って事は脱出条件を知ってるのかい?なら話が早い。さっさとクリアして外に出ようぜ敦君」
「だ…駄目です!菫さんにそんな事、僕出来ません‼」
突然そう叫ぶと、敦君は固く口を噤んで俯いてしまった。まるで罪悪感に怯える様なその反応に先刻のささやかな願いが神に届かなかったらしい事を悟った私は、丸まった白い背中をそっと撫でて諭すように云い聞かせる。
「なぁ敦君。君が私の事を気遣ってくれるのは嬉しいが、他に方法が無いんだ。大丈夫。此処であった事は絶対口外しないって約束する。だから一緒に協力して外に出よう。ね?」
「菫さん…。でもアレ…」
「アレ?」
金色に縁取られた紫水晶を不安そうに揺らして、敦君は怯える様に私の背後を指さした。無意識にその軌道を辿った視線の先には、私が飛び込んできた扉と対になる様に同じデザインの扉が設えられており、その上には異様に眼を引く電工飾の額縁がデカデカと主張していた。が、問題は其処ではない。その額縁に無駄に達筆な字で綴られた
「“お互いの厭な所を云わないと出られない部屋”」
うぉいい‼︎私の知ってる出られない部屋と違うぞこれぇぇ⁉︎え?何で⁉︎こう云うのってもっとキャッキャウフフなお題が投下されるんじゃねぇの⁉まぁ純情少年敦君相手にあんま年齢制限掛かる様なお題出されても困るが。せめて逆にしろよ!“お互いの好きな所を云わないと出られない部屋”とかにしとけよ!それなら少なくとも私は秒でクリア出来るからさ‼
「っ…!矢っ張りできません‼大体、菫さんに厭な所なんてある訳無いじゃないですか‼」
「敦君…っ」
その言葉に不覚にもジンと来てしまったが、今はそれどころじゃないと私は気持ちの切り替えに努めた。初手から想像以上の、…と云うか想像から斜め四十五度突き抜けた難題にぶち当たってしまったが、最優先事項が敦君をこの部屋から脱出させる事であるのは変わらない。であれば、助っ人として派遣された自分がするべき事はただ一つだ。
「え…っと…。なぁ敦君?君がそう云ってくれて私は凄く嬉しい。うん。凄く嬉しいんだが…。そんな遠慮しなくて大丈夫だぞ?自分の欠点なんて滅茶苦茶自覚してるし。別に気を悪くしたりしないから」
「何云ってるんですか!菫さんは初めて会った時からずっと優しくて、仕事でも凄く頼りになるし、給料日前でお金が無い時は必ず“作り過ぎたから”って差し入れをくれるし。そんな何時もお世話になってる先輩の何処に厭な所を見付けろって云うんですか⁉︎」
「………」
「……菫さん?」
「あ、いやすまん…。その…私って想像以上に君に好かれてたんだなって思って…」
「あああ!否、あの…確かに菫さんの事は好きですけど、其れはあくまで尊敬する先輩としてで…っ。と、兎に角僕から菫さんの厭な所を云うのは無理なので、菫さんの方からお願いします」
「ん〜そう云われてもねぇ…。敦君に不満が無いのは私も同じだし…」
「え?いやいや、菫さんこそ遠慮しなくていいですよ。僕の駄目な所なんて沢山あるじゃ無いですか。臆病だし、要領も悪いし、何時も皆さんに助けて貰ってばかりだし…」
「それ云ったら私だって君に負けないくらいビビりの豆腐メンタルだぞ?しかも人の顔色ばっか伺う癖に肝心な所はてんで判んないし。その所為で修羅場ばっか引き起こすし」
「修羅場?」
「えっと主に太宰とか太宰とか太宰とか。後は君が入社したばっかの頃に
「太宰さんは兎も角、芥川については気にする必要なんて一切ないですよ。どうせ彼奴が勝手に苛立って暴れただけですから」
「ホント芥川君には容赦ないな敦君」
「だって彼奴自分勝手で短絡的だし。取り敢えず邪魔なものは切り刻めば解決すると思ってるし。すぐに暴れ出さない分、芝刈り機の方がずっと利口ですよ」
「お、おぅ…。そーかー。うん。じゃあその調子で私にも一言」
「それは無理です」
「えー其処をなんとか。ほら、何ならもう私を芥川君だと思って!」
苦し紛れにそう吐いた刹那、金縁の紫水晶が獰猛な光を宿した。まさしく野性の猛虎さながらの気迫に思わず身構えるも、それより早く黒い指抜きのグローブが私の両肩を掴んだ。
「貴女は…っ、何でそうやってすぐ自分を軽んじるんですか!よりによって芥川なんかと同じに思えだなんて…、いくら菫さんのお願いでも、そんなの僕絶対に
―――ピンポーン!
「「…………」」
恐らく初めて見るであろう敦君の本気の剣幕に、硬直した私の真後で早押しクイズ番組御用達の効果音が上がった。反射的に音源へと目を向けると、例の電光飾の額縁が半分だけ赤く輝いている。
「あ、もしかしてコレ敦君いけたんじゃね?」
「え?…っ!いやその、違うんです菫さん!今のは菫さんが厭だったんじゃなくて!あくまで僕が厭なのは芥川で…」
「ああ、うん。大丈夫大丈夫。判ってるからまずは落ち着こう。な?」
先刻迄あった猛虎の眼光は何処へやら。途端にワタワタと慌てふためいた敦君は、シュンと肩を落として縮こまってしまった。
「すみません菫さん…僕…」
「気にしないで良いってば。私も別に怒ってないし。てか、寧ろ君のお陰で攻略法も判ったしな」
「へ…?」
その言葉に不思議そうな顔でこちらを見上げる後輩君に、私は片膝を折って視線を合わせると不揃いな白髪をワシャワシャ掻き回した。
「実は私もな、君の自己評価の低さには常々もの申したいと思ってたんだ。まぁ確かにその謙虚さは君の長所でもあるが、何度も云うように君は私の自慢の後輩君な訳だし。そんな後輩君に低評価を付けられるのは、喩え当人からだったとしても―――私は
―――ピンポーン!
「わっ⁉︎」
二度目の効果音と共に残り半分の額縁が赤く点灯すると、初っ端から散々私達を悩ませてくれた難題は光に包まれて見えなくなった。軈て光の中から浮かび上がってきたのは『ミッションクリア』の一文。そして同じ光が今度は敦君の身体を包み込んでいく。
「おお!どうやら上手くいったみたいだな。良かった良かった。私はまだ依頼の途中なんで、すまんが先に帰っててくれるかい敦君?」
「判りました。気をつけて下さいね」
「うん、有難う」
「それと…」
「ん?」
光に消えゆく中、敦君は再び私の眼を見据える。不安気な揺らぎも無く、猛獣の様な荒々しさも無く、暖かく穏やかな双眸が少し照れ臭そうに弧を描いた。
「その…、菫さんが云ってた事…。なるべく気をつけてみます…。だから菫さんも…、先刻僕が云った事少しで良いから覚えておいて下さい」
「!……。ああ、肝に銘じておくよ」
その身を包む光に負けないくらい眩い笑顔を最後に、敦君は一つ目の部屋から消えた。ジワリと心臓に滲む温度を確かめる様に胸に手を当てた私は、一度深呼吸をして前を向く。
第一の被害者である敦君は救出出来た。残るは後四人。自慢の後輩にあれ程の賞賛と激励を受けた以上、それに恥じぬ働きをしなくては。そして私は敦君に極限迄上げて貰ったモチベーションに任せて第二の扉を開けた。
****
異常と日常が入り混じり、混沌渦巻くこの世界にストレイドッグスして早四年。その間数多の怪事件珍事件に直面し、異常事態に対する耐性も大分鍛えられてきた自負はある。うん。あるんだが、その上で尚云わせて貰おう。
―――どうしてこうなった。
「まさかお前が来るとは…、これも因果と云う奴か…」
降り注ぐライトに逆光する眼鏡をクイと上げて、私に武術の何たるかを叩き込んだ恩師は、見事な正方形を描くリングの上で静かに呟きを零す。その真後ろには、一つ目の部屋で見たものと同じ電光飾の額縁が吊り下がっており。一つ目の部屋で見たものと同じ無駄に達筆な字が綴られていた。
【一本取らないと出られない部屋】
「と云う事だ。来い菫。久し振りに相手をしてやる!」
「だ・か・ら!私の知ってる出られない部屋と違う‼︎」
まるで歴戦のチャンピオンの様に立ちはだかる国木田君を前に、私は渾身のフルスイングでリングに拳を叩きつけた。
「何なんだよチキショー!否別に敦君や国木田君とキャッキャウフフしたいとかそう云うんじゃねぇけど!だからってコレはねぇだろ‼︎こんな物理特化した出られない部屋何処に需要があんだよ巫山戯んな‼︎」
「嘆くのは構わんが取り敢えず早く立って構えろ。此処に閉じ込められた所為で今日の予定が滅茶苦茶なのだ。早急に此処を脱出し、遅れを取り戻さなければならん」
「あーもう、マジかよ。ホントどーしてこーなったー!」
またしても突きつけられた斜め四十五度のお題に、情けないかな本気の嘆息が漏れた。が、それは国木田君の方も同じ様で、私達は心底ゲンナリとした視線を交わし合いながらゆっくりと構えを取る。
「始める前に一応云っとくが、“粘り過ぎ”とか云って怒らないでくれよ?」
「ああ。お前こそ、変な気を回して手を抜くなよ。武術に於ける“一本”とは、“完全に技が決まる”事を指すのだからな」
その会話を最後に、私と国木田君は互いに向かって拳を繰り出す。しかしそれは双方ギリギリの所で回避され、ここに本格的な闘いの火蓋が切って落とされた。
持ち前のリーチとパワーを活かした国木田君の攻撃は、一撃一撃が重い上に範囲も広い。異能による身体強化に頼らず、純粋な体術で武装探偵の武闘派に数えられるその戦闘能力は伊達じゃ無い。もしこれが半年程前の出来事なら、きっとこの勝負は一瞬で終わっていただろう。しかし残念な事に現在の私は度重なる死線を潜り抜け、劇的なレベルアップを果たしてしまっている。その結果、現在の私と国木田君が手合わせをした場合、数分其処らで勝敗が付かない程の接戦を繰り広げる羽目になってしまうのである。
「ああもう!強くなり過ぎるってのも考えもんだなぁ!」
「阿呆。お前などまだまだひよっこだ。そう云う台詞は社長レベルの達人になってから吐け!」
「否、流石にあの高みには行ける気しないわ。まぁ銃弾とか刀で叩っ切れたらカッコいいとは思うけど、さ!」
「―――っ⁉︎」
一際大振りの鉄拳が繰り出されたその瞬間、私は国木田君の腕と身体の隙間を縫う様に一瞬ですり抜け背後に回る。こちらにアドバンテージがあるとすれば、それは凡そ一年に渡る組手稽古の経験と互いの体格差だ。喩え埋められない技術差が在ろうと、攻撃のパターンさえ掴んでいれば一瞬の隙でも逆転の奇襲を掛けるに十分。そして私は、姑息な戦法で捉えたガラ空きの背中に蹴り上げた踵を振り下ろした。
「だからお前は“ひよっこ”だと云うのだ」
「うわっ⁉︎」
―――ズテーン‼︎
奇襲が決まったと確信したその瞬間、国木田君は上半身を半回転させその儘私の足首を掴むと、回転の勢いに任せ真下に放り投げた。その結果リングの上に仰向けに転がった私を、国木田君は軽く手を払いながら見下ろす。
「全く…。ああもあからさまな隙に嬉々として喰い付く奴があるか。奇襲を仕掛ける際は攻撃が決まる迄油断するなと教えただろう。まして、自分の手の内を把握されている相手なら尚更だ」
「あちゃ~…、って事はあれフェイクか…。くっそ~悔しいなぁ、注意してたのになぁ~」
「力量差のある相手に回避行動で時間を稼ぎ、相手が集中力を欠いて単調になった攻撃の隙を突くと云う戦法自体はものになっている。後は先刻の様な誘いに引っ掛からぬよう注意を怠らん事だ」
「はぁい先生~」
何時もの様に反省点をフィードバックしながら、国木田君は私に手を差し伸べる。その手を取って立ち上がると、不意に私の視界に不可思議なものが映り込んだ。そう、例のギラギラ電工飾が施された額縁に綴られた―――【一本取らないと出られない部屋】の一文である。
「イヤ何で⁉」
「っ⁉おい、どう云う事だ⁉確かに俺はお前から一本取ったぞ‼」
お互い時間の無い中全力の手合わせを演じたにも関わらず微塵も変化の無いお題。その絶望的な光景に私と国木田君は共にリングの縁で抗議の声を上げる。しかしそんな私達の叫びも虚しく、状況は相変わらずの平行線。おいおいマジでどう云う事だ?これじゃ国木田君が永遠に挑戦者を待ち続けるシロガネ山の初代主人公さん的ポジションに…っ!
「…ん?」
八方塞の脳味噌がお得意の現実逃避に入りかけたその時、私はリングの下にある物を見つけた。具体的に云うと、折り畳み式の長机にヘルメットだの鼻眼鏡だのアフロのヅラだの、この場にそぐわない珍妙なアイテムが並んでいる。そしてその横には『どうぞご自由にお使いください』と云う小さな立て看板が一つ。
「なぁ国木田君。何だあれ?」
「む?…ああ、アレか。俺にも判らん。この部屋に閉じ込められた時からあるものだが。『ご自由に』も何も…。あんなパーティーグッズ、一体何に使えと云うのだ…」
「……あ」
まるでお助けアイテムの様に並べられた戦闘に全く関係の無いパーティーグッズ。それを眺めていた私の脳裏に一つの仮説が閃いた。
「なぁ国木田君。悪いが私が良いって云う迄眼ぇ瞑っててくんない?」
「は?何だいきなり…」
「いいから。な?頼むよ」
両手を合わせて懇願すると、国木田君は怪訝な顔をしつつも云う通り眼を瞑ってくれた。それを見届けた私はリングを降りると例の長机に駆け寄る。バラエティ豊かに摂り揃られたパーティグッズを一つ一つ吟味し、その中に小麦粉の袋と霧吹きを見つけた私はその二つを持って国木田君の所に戻った。
「おい菫…。お前先刻から何を…」
「ん~、ちょっとした実験…?よし、こんな感じかな!有難う国木田君。もう眼ぇ開けていいよ」
「はぁ…。全く一体なん…っ―――⁉」
呆れとボヤきを半々に織り交ぜた溜息を吐く国木田君の口は、しかしそれから呼吸の一切迄止まった。代わりに理知的な眼鏡の奥の双眸だけがこれでもかと大きく見開かれ、そんな熱い視線を一身に受けた私は自分の前髪を真ん中で掻き分けあらん限り白目を剥く
―――小麦粉のへばり付いた
「夜叉白雪」
「ぶふっ‼」
―――ピンポーン!
規則の鬼、真面目の擬人化、武装探偵社に於いて最も冗談の通じない男、国木田独歩君。そんな彼の超絶レアな噴き出し笑いと共に、不変を貫いていたお題が軽快な音を立てて『ミッションクリア』に転じた。
「おおやった!これで君も帰れるぞ国木田君!」
「おい待て!何だこれは⁉と云うか何をしとるんだお前は⁉」
だが折角念願叶ったと云うのに、当の国木田君は怒りと羞恥と笑いで顔を真っ赤にさせて怒号を上げる。まぁそれも仕方ないと、私は霧吹きの水分で顔に張り付いた小麦粉をはたき落としながら説明した。
「なぁに。お題通り一本取っただけさ、国木田君から」
「は?……おい、と云う事はまさか…」
「うん。どうやら脱出条件は『戦って一本取る』じゃなくて『笑いで一本取る』だったらしい」
「はぁ……っ⁉︎」
「ははっ。まぁこれは仕方ないって。こんなあからさまにリングが設置されてたら誰だって“バトルするんだなぁ”って思うさ。いやぁでも国木田君が笑ってくれてホント良かったよ!これある意味バトルで一本取るより難し、うわっ⁉」
暗礁に乗り上げたかに思えた難問は、しかし蓋を開けてみれば何とも拍子抜けな珍事実だった。ともあれこれで第二関門突破と安堵していると、何とも云えない顔で奥歯を噛み締めていた国木田君が私の顔を引っ掴みハンカチで拭い出した。と云うかもうこれハンカチで顔面削ってるって云った方が合ってる気がする。
「ちょ、痛い痛い、顔の皮千切れるって国木田君‼」
「喧しい!いい歳した大人が何だこの様は。もっと社会人としての自覚を持てと何度云えば判る!」
「えー。だって国木田君笑わせるにはあれくらい体張らんと無理じゃん」
「だからと云って仮にも女性が小麦粉塗れの顔で白目を剥くな阿呆‼」
「大丈夫!あんな顔晒そうと思えるのは多分国木田君くらいだから!」
「全く嬉しくないわこの唐変木二号がーーー‼」
かくして九割の不要な戦闘と一割の茶番の末に、第二の被害者国木田君の救出に成功した私は、彼の退去が完了する迄定番のお説教を聞きながら延々顔面を拭われ続ける事となったのだった。
****
此度の依頼人・安吾さんの話によると、このトンチキ特異点に取り込まれてしまった被害者は敦君と国木田君を含めて五名。そして現在残っているのは運悪く巻き添えを食った詳細不明の被害者が三名だ。仲間の救出は勿論大切な任務だが、ヨコハマの平和を守る武装探偵社の一人として一般市民の救出は更に優先すべき重要任務。此処からは今迄以上に気を引き締めて救助にあたらなくてはならない。
そう己に云い聞かせ、気持ちも新たに第三の扉を開いた私を出迎えたのは―――鋭い牙を剥いて襲いくる
「出ていけ。さもなくば死ね」
「どうしてこうなったーーー⁉」
魂を振り絞る様な私の嘆きはバチバチと鳴り響くけたたましい拒絶音に掻き消された。現在の状況を説明すると、満面の営業スマイルで『こんにちは武装探偵社でーす!貴方を助けに参りました。もう大丈夫ですよー!』と第三の部屋に乗り込んだ所、完全に殺ル気スイッチオンになった
「なぁ芥川君!頼むから話だけでも聞いてくれ!ちょっとでいいから!ほんのちょっとだから‼」
「黙れ!貴様の扶けなど要らぬ!疾く失せよ‼」
まるで玄関先に爪先捻じ込んで粘る宗教勧誘宜しく会話を持ちかけてはみるものの、取りつく島が全くない。普段の彼なら気持ちもうちょっと会話に応じてくれるような気がしないでもないが、それも今は致し方ない事なのだろう。そんな諦めの境地にも似た心境で、私は彼の背後に掛かったお題に眼を向ける。
【お互いの好きな所を云わないと出られない部屋】
……うん。確かに逆のお題寄越せとは思ったけど。今だけは来て欲しくなかったな。
「斯様な屈辱…、断じて認めぬ!喩え空言であろうと貴様への賞賛を口にするくらいならば、今此処で己が舌を切り捨ててくれよう!」
却ぁ説、どうしたものか。この面子で【お互いの好きな所を云わないと出られない部屋】なんて、私は兎も角芥川君にとっては難易度踏み絵レベルだ。千歩譲って仮に成功したとしても、その後証拠隠滅で私が消されかねない。アレレ〜おかしいなぁ〜。これって本来もっと甘酸っぱいムズキュンな展開に発展するお題の筈なんだけどなぁ〜。どう足掻いても凄惨な血の海しか生み出さないの何でなん?
「取り敢えず一回羅生門止めよう!な?大丈夫、君が私の事大っ嫌いなのはよく判ってるから!好きな所なんてどう捻り出しても出てこないのは重々承知だから‼︎」
「当然だ!
「デスヨネー!腑抜けの裏切り者なんて好く奴居る訳ないデスよねー!判る判る!」
「抑、仮に貴様が未だ組織に組していたとしても、
「ハイサーセン!その節はマジで反省してます!でも
「貴様…この後に及んでまだ世迷言を…っ!太宰さんの評価さえなければ、その舌から削ぎ落としてやる所だ。下らん妄言を紡ぐ暇があるなら、
―――ピンポン!ピンポーン‼︎
その瞬間、芥川君の背後で『ミッションクリア』を告げる効果音が鳴り響き、主人があらん限り目を見開いて硬直した事により羅生門の猛攻が漸く止んだ。が、先刻の会話から何が条件達成に該当したかを推測した私は、その後待ち受ける修羅場を予見して出来るだけ静かに次の扉に向かい、そしてその企ては目の前に突き立てられた黒刃によってあえなくご破産となった。先刻の罵詈雑言とは比べ物にならない程の圧をもって織られた声音が、地獄の底から滲み出る様に私の鼓膜を揺らす。
「おい…。これはどう云う事だ…。何故条件を達成した事になっている…。
「…………えっと…、自覚が無いなら深堀りしない方が良いんじゃないかなぁ…。知ったら君の場合、多分自己嫌悪で胃に穴が空くと思うぜ?」
「構わん。云え。云わねば殺す」
否、多分云っても結果は同じだと思うんだけどなぁ。とか内心で考えつつも、次の扉が異能の超加速で移動出来る範囲にある事を確認した私は、本日で最も深い溜息を吐いてその問いに答えた。
「そのな…、先刻君、自分に寄越した様なお菓子を太宰に作ってやれ…的な事云ったじゃん?私にはそれ以外の価値無いだろって…」
「それがどうした。
「うん。それ。多分それが達成条件に引っ掛かったんだと思う」
「……は?」
その疑問符が漏れる一瞬の隙に、私は異能で空気を弾き四つ目の扉に飛び付いた。そして、条件達成によって部屋からの退去が始まった芥川君に、私は苦笑しながら残りの答えを開示する。
「君は私の事大っ嫌いなんだろうけど、私の料理…、ってか、私が作る無花果パイは気に入ってくれてて。その上で“価値がある”って公言してくれたから、“好きな所”としてカウントされたんじゃないかな?」
「―――っ!?」
「あ、ついでに私のは君の一人称について言及した辺りが引っ掛かったんだと思うが、正直な話、君の好きな所は他にも沢山あるんだぜ?きっと怒られるだけだから云わないけどな」
最後にそう捨て台詞を吐いた私の背後で閉まる扉。その向こうから物凄い破砕音が聞こえたけれど、不思議と私の口角は暫く上がったままでいた。
****
『地獄に仏』、と云う諺がある。
読んで字の如く“ 地獄のような厳しい状況で仏様のような救い主に出会う事”を指す言葉だ。そして今、私はその諺を聖書に刻まれた祝詞の如く噛み締めている。
「これが“地獄に仏”…。否寧ろ“地獄に
「お前が何云ってるかサッパリ判らねぇが、取り敢えずご苦労だったな」
そう云ってトンチキ特異点と云う地獄に舞い降りた
「―――つまり、この部屋を出るにはその脱出条件を達成しなきゃならねぇって訳か」
「ああ。今迄の三部屋は達成と同時に自動で部屋から出られてたから此処も同じだと思う。って事で問題の脱出条件なんだけど、わぶっ⁉︎」
中也と云うセーフティゾーンのお陰で漸く心の安寧を取り戻した私は、脱出条件のお題が記された額縁が在るであろう部屋の奥に眼を向ける。が、そのお題を確認する前に私の視界は黒一色に塗り潰された。
「え?何?中也どうしたん?」
「………」
頭から視界をすっぽりと覆うその感触とふわりと微かに香る香水の匂いから、中也の帽子を被せられた事はすぐに判った。のだが、その理由が皆目見当つかない。呼び掛けてみるも、中也は私に帽子を被せた儘黙っている。中也の意図が判らず其の儘暫く考えあぐねていると、不意に肺の酸素を全て吐き出してしまったかの様な特大の溜息が私達の間を満たした。
「ち、中也?あの…大丈夫?」
「何でもねぇよ。それより菫…」
「うん。何?」
「其の儘動くな。顔も上げるな。すぐ終わる」
「へ?…ああ、うん。判った」
謎の指示を受けた私は俯いた儘、取り敢えず自分の爪先を眺める。そんな視界の外で中也が一歩下がったのが気配で判った。けれど他の事は何も読み取れなくて、少し後に微かな衣擦れの音が聞こえたと思った瞬間に此処に来て四回目の軽快な効果音が鳴り響く。
―――ピンポーン!
「は⁉︎え⁉︎何⁉︎」
思わず顔を上げた私の目に飛び込んで来たのは、ド派手に輝く『ミッションクリア』の額縁と最後の扉。そして何故か疲労感と安堵を滲ませた表情で、私の頭から取り上げた帽子を被り直す中也の姿だった。
「中也、一体何したんだ?」
「大した事じゃねぇよ。それよりまだ閉じ込められてる奴が残ってんだろ?早く行ってやれよ」
「う、うん…。その、有難う中也。よく判らんがすぐに解決して貰って助かったよ」
「別に…。抑々お前が来なけりゃ俺も出られなかったんだ…。これでお互い貸し借り無しだぜ」
「って事は、やっぱ脱出条件は一人じゃ達成出来ない内容だったのか?」
「………」
「中也?」
「終わった事だ。もういいだろ。それより早く行け探偵社。ウチから様子見に来たのは俺と芥川だけだ。堅気の救助はお前らの仕事だろ」
「ああ、判ってる!ホント有難うな中也!」
何故か視線を合わせようとしない中也に少し違和感を感じたが、最後の一人が探偵社でもポートマフィアでもない以上、今度こそ通りすがりの一般人が閉じ込められているかもしれない。だとしたら中也の云う通り、一刻も早く救助に向かわなくては。そう頭を切り替えて私は最後の扉に手を掛ける。扉を潜る直前、漸く目が合った中也に軽く手を振って私は最後の部屋へと向かった。それを見送った中也は、退去の光に包まれながら僅かに顔を上げる。その視線の先には、未だ電光飾の額縁がギラギラと輝いていた。
「“助かった”なんざこっちの台詞だよ。ったく…」
心底疲れた様にそう零して【キスしないと出られない部屋】を投げキスで攻略したポートマフィア五大幹部は、静かに部屋を後にした。
****
まぁ正直な話『ちょっと残念』と云う思いが無かったと云えば嘘になる。
二次創作御用達の鉄板ネタ―――“出られない部屋”。
恥を偲んで、不謹慎承知で白状すると、そう云うシチュエーションに遭遇した相手が、もし“彼”だったらと。
だが抑々そんなシチュエーションが都合良く起こり得る可能性なんて限りなく零で。喩え起こり得たとしても、それは“異能力”と云う超常の力在りきの現象で。そして“彼”はその異能力を無効化する“反異能力者”だ。
だから、こう云うシチュエーションを“彼”と共に迎えるのは無理だと云う事は判っていた。
そしてだからこそ、
私は目の前の
「え……?」
遂に辿り着いた最後の“出られない部屋”。
そこで最初に私の眼を捉えたのは、ふわりと揺れる黒い蓬髪だった。
「嘘…、だざ…」
私の声に気付いた彼がこちらを振り返る。そして私の顔を見るなり、まるで帰り道を見つけた迷子の様にその整った貌を安堵と歓喜に輝かせて、こちらへと駆け寄ってきた。愛くるしい、まるでぬいぐるみの様な
―――
「菫君!もしかして助けに来てくれたであるか⁉︎嗚呼良かった、突然変な部屋に閉じ込められて吾輩どうなる事かと―――?どうしたであるか?」
「イエ。ナンデモアリマセン」
硬く冷たい床の感触を額にヒシヒシと感じながら、私は黒い蓬髪を揺らすポオ氏に何とかそう云い切った。否、別にガッカリしてねぇし。一瞬だけでも期待とかしてねぇし。抑々太宰と出られない部屋とか、結果的に年齢制限必須になりかねねぇし。うん、これで良い。これで良かったんだ悔しがるな私。ポオ氏に失礼だろうが。それに喩え面識があるとて、今の彼は
「しかし助けが来て本当に良かった!これで漸くこの
「キュー!」
「悪趣味…?」
「ああ、この部屋に設られた調度品の事である。女性である菫君に見せるのも気が引けるのであるが…」
珍しく明確な嫌悪感を滲ませたポオ氏は、まるで汚物でも見る様な目で
―――現実世界に帰る為の唯一無二の条件を。
【エロい事をしないと出られない部屋】
「全く、あんな下卑た額縁を部屋の中央に掲げるなど信じられぬ。喩え悪巫山戯だとしてもセンスがないのである」
「…………」
気力と決意で無理矢理抉じ上げた視線が、秒で元の床へと帰っていった。
否何でだよ‼︎何で此処に来てド直球に出られない部屋の本領発揮してんだよ企画者誰だ面出せそして一発殴らせろチクショー‼︎
そんな思いを拳に込めて耐え忍ぶ私の頭上に、おろおろと伺う様に影が落ちた。
「あの…菫君?本当に大丈夫であるか?もし体調が優れぬなら、吾輩の救助は少し休んだ後からでも…」
黒い蓬髪の合間から覗く深い色の瞳は、その声と同じく何とも不安そうだった。けれど其処には確かに心配そうな色も滲んでいて、それが自分に向けられた色だと理解した私は自分の頬を両手で叩いて今度こそ真っ直ぐに顔を上げた。
「有難う御座いますポオ氏。ですがご安心を!武装探偵社員の名に掛けて、貴方は私が必ずお助けします!」
全身全霊の虚勢で繕った自信満々の笑顔を浮かべて、私は守るべき無辜の民に誓いを立てる。
そうだ、私は武装探偵社員。この街の平和を守るのが私の仕事。喩えどんなゲスいお題を突き付けられようと、―――陰キャの同胞、ポオ氏のピュアハートは私が守る!
****
我が名はエドガー・アラン・ポオ。
米国の探偵にして知の巨人。そして世界の宝、人類が最も驚嘆し賛美すべき名探偵、江戸川乱歩君の仇敵!…否、
「どうしよう…カール…?」
「キュー」
あ、因みにこちらはカール。吾輩にとって唯一無二の味方である。
ゴホン、却説話を戻そう。
現在吾輩は謎の異能空間に閉じ込められている。お陰で食事会を口実に乱歩君を我が屋敷に招く計画が台無しになってしまった。読者を小説世界に引き摺り込む異能を持つ吾輩が、他者の異能空間に閉じ込められてしまうとは何とも皮肉な噺だが、完全に希望が潰えた訳でもない。難攻不落に思われたこの異能空間に助けが来たのだ。しかも乱歩君の後輩にして、吾輩の数少ない話し相手であるあの菫君が。これで一安心、後は彼女にこの部屋から助け出してもらうだけ!―――と、思ったのであるが…。
「“エロい事”って他の意味とか無いかな…。関西方面では“えろうスンマセン”とか云うし…。なら意味合い的に位の高いものも“エロい”と云えるのでは……」
頼みの綱の彼女は、先刻からずっとこうして一人思考を繰り返している。曰く、この異能空間を脱出する為には部屋に掲げられた額縁のお題をクリアせねばならぬそうで、そしてこの部屋の額縁には【エロい事をしないと出られない部屋】と記されていた。故に彼女は今、その文章の突破口を模索している。因みに今は“エロい事”を性的な意味以外に置き換えられないか考察している様である。
「抑々何処から何処までがエロい事になるんだ…。脱げばエロか?全裸はエロか?しかし全裸の肖像画とか彫刻には芸術として公認されてるものもあるし…」
一人思考の迷宮で苦悩する彼女に沸々と罪悪感が込み上げて来る。考えてみれば抑々菫君は吾輩より四つも年下で、しかも相思相愛の恋人を持つ身。そんな幸せ真っ只中のうら若きご婦人を、こんな下卑た思考に耽らせるなどあって善いものか…。
―――いいや、断じて否である!
「…っ!」
そして吾輩は決意の一歩踏み出した。戦闘行為ならいざ知らず、理論勝負ならば寧ろ吾輩の領分。一人の探偵として、否紳士として、彼女を苦しめる難問はこの吾輩が解き明かしてみせる‼︎
「あ、あの…菫君…。此処は吾輩が…っ」
「エロいは善か将又悪か。或いはそれらを超越した価値観こそがエロいの真髄…」
しかし、思考の迷宮に囚われた菫君に吾輩の声は届かなかったらしい。仕方なく吾輩はもう一歩彼女に歩み寄り、丸まった背中に声を掛ける。
「も、もしもし…菫君?ちょっと話を」
「あれ?てかエロいって何だっけ…。エモいと何が違うんだっけ?どんな字書くんだっけ…」
だが吾輩の奮闘も虚しく、菫君は未だ俯いた儘頭を抱えている。こうなればと吾輩は彼女に今一歩近寄る。自分の小さな声が漏れない様に口元を両手で囲い、苦悩する彼女に出来るだけ安心感を与えられる様、余裕と落ち着きのある声音を心掛けて、吾輩は真っ白な耳元に三度呼び掛けた。
「――― 菫君?」
「っ〜〜〜!!???」
―――ピンポーン!
その瞬間軽快な効果が鳴り響き、例の悪趣味な額縁に『ミッションクリア』の文字が躍り出る。だが、今の吾輩にはそんな事を確認する余裕もなかった。何故なら、助け舟を出そうと呼び掛けた菫君が突然倒れてしまったのだ。
「菫君⁉︎一体どうしたであるか⁉︎」
慌てて声を掛けるもそれ以上どうしたら善いか判らない。拒絶の異能を持つ彼女に吾輩は触れる事が出来ないからだ。否、仮に異能が無かったとしても、恋人持ちの女性に気安く触れるべきでは無いと思うが…。兎も角目の前の緊急事態に何も出来ずに狼狽えていると、吾輩に呼び掛けられた方の耳を両手で抑えた菫君が半ば虫の息で呻いた。
「……ダメ…至近距離囁き帝王ボイス…死んじゃう……」
「へ……?」
謎の譫言を漏らす彼女に思わず疑問符を上げると、例の額縁の下に設られていた扉が勝手に開いた。
「おや…、安吾にせっつかれて来てみれば…。随分と楽しそうじゃないか菫?」
「っ⁉︎」
その声を聞いた瞬間、熱を浴びて赤く染まっていた菫君の顔から一気に血の気が引いていく。凡そ人間のものとは思えない無機質な笑顔を浮かべたその人物の名を、彼女は引き攣った喉を鳴らして紡いだ。
「太…宰…さん…」
「いやだなぁ。最愛の恋人相手にどうしてそんな他人行儀な呼び方をするんだい?何時もみたいに蕩ける様な甘い声で呼んでおくれよ菫?」
「な、なななな何で…此処に…」
「うふふ、先刻云っただろう?安吾にせっつかれてこの愉快な特異点を消滅させに来たのさ」
そう云って彼は菫君の前に跪くと、震える彼女の輪郭をなぞる様に指を滑らせる。
「所で、この特異点には各部屋毎に脱出する為の条件が定められていると聞いたのだけど…。君達は二人で一体どんな条件を達成したのかな?」
「「っ‼︎」」
「ねぇ菫?君はつい先刻迄床に倒れ伏していたよね?どうしてか教えてくれるかい?」
「あ…否あの…、別に大した事は…。その、ちょっと近くで呼び掛けられただけで…」
「ふぅん…。“ちょっと近くで呼び掛けられただけ”ねぇ…?あんな熱の籠った顔で、まるで感じ入ったみたいに息を乱していたのに?」
「語弊しかない云い方をするな‼︎」
「菫」
「っ‼︎」
恋人の物言いに菫君は声を荒らげたが、自分の名前を紡ぐ彼の声音に一瞬で沈黙してしまった。最早氷点下すら下回るのではと錯覚する様な光の無い双眸が、真っ青な顔でカタカタ震える彼女一点だけに注がれる。
「ねぇ菫。菫は私の事好き?」
「ハイ。僭越ナガラコノ世ノ凡ソ万物万象ノ中デ最モ愛サセテ頂イテオリマス有難ウ御座イマス」
「そう…。なら、証明して」
「へ…」
「君が私の事を一番に愛してるって、証明して。今すぐに」
「今…ッスカ…」
「うん。今。だって此処は条件を達成しないと出られないのが売りなんだろう?
―――私の気が晴れる迄、外に出られるなんて思わないでね」
震える小柄な体躯を取り込む様に抱き締めたその声に、初めて感情の色らしいものが滲む。が、それは“色”と呼ぶにはあまりに色彩に乏しく、まるで布の下から滲み出してくる様な得体の知れないそれに、思わず息を飲んだ吾輩の喉が引き攣った。
「おや、どうされたんです?特異点は既に消滅し、貴方はもう自由の身だ。さぁ、遠慮せずどうぞ外へ」
ふと思い出したかの様に振り返ったその表情は確かに笑顔だった。しかし、それは吾輩が今迄見てきた中で最も表情の無い笑顔だった。その異質さに目を逸らした先で、砂色の外套に抱き込まれた菫君と目が合う。愛しい恋人の腕に抱かれている筈の彼女は、まるで斬首台を前にした死刑囚の様な笑顔で吾輩に頷いて見せた。
促される儘数時間ぶりに出た部屋の外は清々しい青空の代わりに濃紺の夜空が広がっていた。その中に浮かぶ血の滴る様な紅月が網膜に焼き付いた鳶色と重なる。その所為で怖気の走った背中を丸めながら、吾輩は“今後はもう少し大きな声で話せる様に頑張ろう”と誓いを立てた。それと同時に恋人を持つ事の大変さを噛み締めつつ、吾輩は相棒カールと共に心からの敬意と羨望を抱ける仇敵兼