hello solitary hand・番外編
名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
吾輩は猫である。名前は臼井菫。
どうしてこうなったのか頓と見當がつかぬ。
だって私の記憶が正しければ、抑々私は猫ではなく人間だった筈だ。
そう。今日の私は、可愛い後輩の鏡花ちゃんが個人的に請け負ってきた“迷い猫探し”の依頼に精を出していた筈。捜索対象は太々しい白くまん丸なお顔に、鋭く座った青い目、その右側には古い傷が刻まれた如何にも歴戦のボス猫感溢れるお猫様だ。だが、「無事保護した暁には是非モフらせて貰おう」とか考えながらルンルンと足取りも軽く探し回っていた迷い猫を見つけた場所は道路のド真ん中。しかもご丁寧にハイスピードで迫り来るダンプカー付き。
その何とも既視感溢れるシチュエーションの中、私はお得意の空気拒絶で加速し猫を救出。見たか。今の私はもう嘗ての私ではないのだふはははは。と内心高笑いを決めて反対側の歩道に着地。と云うか、歩道に面した建物に激突して強制停止。それでも腕の中の猫は守り切ったと安堵したのも束の間、歩道に取り残された鏡花ちゃんが張り詰めた声で叫ぶ。その声に頭上を見上げると、まるで紙吹雪の様にバラバラと大きな鉄骨が降り注いでいた。
「ヤッベ…」
その呟きを最後に私の人間としての記憶は途切れた。
そして現在。再び眼を覚ました私の視界に飛び込んできたのは、白くしなやかな尻尾と小さな前足。そして―――
「ふふ……良かった。やっと起きた…」
見るからに不健康そうな痩身パッツン男性の、薄暗い笑顔だった。
「フシャーーー‼︎」
反射的に上げた叫びは口から外へ出た瞬間、よく知る猫の鳴き声へと変わる。その奇想天外な現象に、私は己が身に起きた異変に気付いた。序でにこれ迄エンカウントしてきた野良猫の多くに、割とガチで拒絶されていたのだと云う事実にも気付いた。地味に後者のダメージの方が深刻な気がする。あ、いやいやそうじゃなくて…
「そんなに興奮すると傷口が開くよ?…って猫に云っても無駄か…。どうしよう…」
おいおい。何だこの状況?よく判らんがすっごいクラクラするし、右目が何かで覆われてるのか視界が不安定だ。せめて安定した視界だけでも確保しようと、私は自分の右目を覆っている何かを剥ぎ取りに掛かる。だが伸ばした私の手…と云うか前足が顔に届く前に、私の体は突然空中に浮き上がった。
「おやおや。遂に獣医免許迄取得したんですか
第一声から判る洗練された発声と美しい音色に私は宙吊りの儘頭を回す。其処には残っている左目の視力が軒並み消し飛んでしまいそうな超絶美人と、右目に傷のあるスーツ姿の男性が立っていた。因みに空中浮遊の原因は、このスーツ姿の男性に首根っこを摘み上げられた所為らしい。
「そんな無駄な事はしない。私が救いたいのはあくまで人間の命。動物の命を幾ら救っても、神には近づけないから」
「では何故此処に子猫が?」
「ああ…、それはね……」
「なっ…⁉︎何で…手前らが此処に……っ」
その時、続け様に加わった第四の声に謎の三人が眼を向けた。だが残念な事に私だけは、例のスーツ男性が影になって何も見えない。それでも、三角形に形を変えた私の耳に飛び込んで来た声を聞いた瞬間、脳より先に身体が動いた。くるりと身を翻して自分を摘み上げる大きな手に取り付くと、私はその腕をよじ登って広い肩の向こう側を覗き見る。其処に居た彼に思わず声が出たが、矢張りそれは猫の鳴き声にしかならなかった。けれど、言葉を話せなくなった私の代わりに、
「おかえり。頼まれた通り猫は治しておいたよ―――
小柄で引き締まった身体。癖のある丹色の髪。そして快晴の空を映した様な碧い双眸。其処に在ったのは間違いなく。私の命の恩人にして理想の上司終身名誉会長。中原中也の姿だった。
****
却説。云いたい事は色々あるが、何をおいてもまずこれだけは云っておかねばなるまい。
おい。どうしてこうなった。
と云った所で、口から漏れるのは相変わらず「ニャー」一択な訳だが、それは兎も角として一先ず状況を整理しよう。
どうやら私が目覚めた此処は、ヨコハマ最大の非合法組織ポートマフィアの施設。棚に並んだ医薬品や等間隔で並んだベッドから見て、医務室の類いである事は一目瞭然。其処に明らかに患者サイドの風貌をした白衣の医師と、脳内でキラキラのエフェクトが自動補完される絶世の美人と、登場時から一言も発さず壁際に佇むスーツの男性がそれぞれこちらを見ている。より正確に云うなら、私を膝の上に乗せて彼等にガンを飛ばす―――小柄な少年を。
「そう臍を曲げないで下さい中也さん。折角の整った造形が台無しですよ?」
「アンタに云われても嫌味にしか聞こえねぇよ
そう云って中也はそっぽを向いてしまったが、
「うおっ⁉︎お前、何だよ急に…っ。もしかして傷に触っちまったか?」
「うにゃ、にゃうにゃ」
「イヤ…、んなにゃーにゃー云われても判んねぇよ…」
「なぅん。……ごろごろ」
「中也君、随分懐かれてるね…。私の時はあんなに錯乱してたのに…」
「まぁ、動物にとって医者は天敵みたいなものですからね。飼っているペットを病院に連れて行く際の苦労話はよく耳にしますし」
「それで、此奴の怪我はもう問題ねぇんだな
「うん。一番大きな傷は額の右側から目元に掛けての裂傷だったけど、眼球自体は無事。失明の心配はないよ。傷は残るかもしれないけど…」
「そうか…」
少しホッとした様な顔で中也は私の背中を一度だけ撫でる。立て続けに投下される異常事態の中、見知った彼の登場は私にとってまさしく暗闇に差した一筋の光だった。のだが、どうやら事態は其処まで単純な話ではないらしい。
包帯に覆われていない左目で見上げた彼の顔は、矢張り私が知るより幾分か幼い。何時も左側に流されている髪も後ろで一本に束ねられており、トレードマークたる黒帽子も被っていない。彼のこの姿から考えるに、恐らく此処は過去の世界。しかも、私がこの世界に迷い込んだ“黒の時代”よりも更に前。太宰と中也の少年時代―――所謂“青の時代”だろう。
「それにしても運のいい猫。通り掛かったのが他の構成員だったら、気にも留められずに衰弱死だったろうね…ふふ…」
「確かに。それどころか、最悪海に蹴り落とされていたかもしれません。見つけてくれたのが中也さんで本当に良かったですね」
「俺は自分の仕事しただけだ。ウチの密輸ルートを狙ってる連中は五万と居る。何奴も此奴も、“何か足を引っ張れるネタが落ちてねぇ”かと粗探しに必死だ。そのど真ん中に血塗れの毛玉が落ちてたら、片付けんのは当然の事だろうが。気色悪ぃ勘違いしてんじゃねえよタコ共」
「仮にそうなっても、君なら証拠ごとまとめて叩き潰しそうだけど…」
「あ゛あ゛?」
「しー。いけませんよ
「オイ、聞こえてんぞ。つーか手前、態とやってんな?」
明らかに隠す気の無いヒソヒソ話に、引き攣った笑顔で指を鳴らす中也。でもその雰囲気は別に険悪と云う訳でもない。多分この人達は、中也にとってそれなりに気を許せる間柄なのだろう。そんな事を考えていると、不意に低く落ち着いた声が会話の中に降って湧いた。
「中也。まさかとは思うが、この儘其奴を飼う心算か?」
「はぁ?んな訳ねぇだろ。傷が塞がったら適当に飼い主探して引き取らせる」
「つまりそれ迄は、お前が其奴の面倒をみる訳だな」
「……だったら何だよ。アンタには関係ねぇだろ
その瞬間、緩やかだった中也の空気が僅かに張り詰めた。鋭い碧が睨め付ける先に居たのは、登場以降無言を貫き遂には壁際の棚と同化する迄に気配を消していたスーツの男性だ。どうやら彼の名は
「なら取り敢えず、其奴の首に襟巻きを巻いておけ」
「………は?襟巻き?」
その唐突な指摘に、中也は勿論その場の全員がポカンとした顔で首を捻る。だが数秒後、「ああ、そう云えば」と指を鳴らした美人さんによってその沈黙は破られた。
「以前猫好きの知人から送られてきた写真の中に、襟巻きの様なものを巻いた猫が写っていましたね。ちょっと待って下さい。…ああ、あった。ほら、これです。何でも動物は自分の傷を舐めたがるので、その防止策だとか」
「否…、ほらって云われてもよぉ…。こんなもん俺が持ってる訳ねぇだろ。お前持ってるか
「無い…。此処は動物病院じゃないからね…」
「もしよければ、知人に詳細を聞いて私の方で手配しますよ。一時的にとは云え、子猫の世話をするなら餌やケージなんかも必要でしょうし」
「………」
「そう警戒しないで下さい。実はとある仕事の都合で、その知人とは懇意にする必要がありましてね。丁度、連絡の口実を探していたんです。何しろ、“相手の好きなものについて教えを乞う”と云うのは、心の距離を縮めるのにとても有効な手段ですから」
美人さんの提案に若干表情を固くした中也だったが、その後にツラツラと並べられた弁舌を聞いて呆れた様に頬杖をついた。
「ったく、流石は本職の映画俳優様だぜ。そのよく回る口で一体何人手球に取って来た?」
「ふふふ。却説、何の話でしょうか?」
口元に指を当てて微笑むその美貌に眼を焼かれながら私は確信した。この人絶対太宰と同じカテゴリーのイケメンだ。女性は疎か、下手したら男性ですら見惚れてしまうだろうその微笑みに心底辟易とした視線を投げて、中也は私を片手で抱き上げると席を立つ。
「お節介は結構だが、俺も暇じゃねぇんだ。寄越すならさっさとしろよ」
「判りました。可能な限り早急に、中也さんの部屋にお届けしましょう」
「またね中也君。今度は人間の患者を頼むよ…」
「へいへい」
見るからに適当にひらひらと手を振りながら、中也は医務室を後にした。それを見送った三人は各々顔を見合わせる。
「少しは打ち解けてきた…かな…?」
「まぁ少なくとも、医者としての貴方の腕は信用されてるみたいですね。そうでなければ、彼が子猫の治療なんて頼む筈ありませんから」
「そう…。ふふ…なら私は十分…」
「それに比べて、私と貴方はもう少し掛かりそうですね…」
「自分を殺そうとした相手を警戒するのは当然だ。彼奴の俺への反応は何も間違っていない」
「それは彼が《羊》の王だった頃の話でしょう?今の彼はポートマフィアの一員であり、若手会のメンバー。つまり我々の仲間だ。仲間の信頼を得たいと願うのも至極当然の事です。貴方は違うのですか?」
「………」
その問い掛けに返答は無い。が、それでも彼は仲間の内心を読み取ったらしい。完璧な曲線を描く美貌を満足げに綻ばせて、彼は医務室の扉に目を向ける。不器用で何処か危く、しかし強い信念と志を持った―――新たな仲間の姿を追う様に。
「………所で
「何だ」
「もしかして貴方、結構な猫好きだったりします?」
「…………」
****
その部屋には何も無かった。
否、一応ベットだとか机だとか小さな本棚だとか、そう云った最低限の家具は備えられている。けれど、逆にそれ以外は何もない。壁に埋まっている金庫だとか窓に掛かったカーテンだとか、そう云ったものをカウントすれば字面上はもう少し充実して見えるかも知れないが、それでも実際に視覚を通して見るその部屋は、矢張りどう足掻いても“殺風景”と云う形容詞以上に相応しい表現が見つからなかった。
「却説と…。取り敢えずは
そう云って中也はまた私の背中を撫でる。恐らく傷の事を気にして、顔や頭には触れない様にしてくれているのだろう。麻酔の効果が切れてきたのか、実は先刻から地味に顔の右側がジクジクしていたからこの気遣いは有難い。
そんな事を考えながら、私は床の上に丸まって彼の顔を覗き見る。この場に猫一匹しか居ないお陰か、彼の表情はとても穏やかだった。うん普通にとんでもねぇベストショット拝んじまったわ。何時もと違う髪型や服装も相まって実に眼福です。敢えて云おう、猫になって良かった。そう云えば、何だかんだ彼に撫でてもらうのは随分久し振りだな。相変わらず小振りで、固くて、とても暖かい手。人間だった時の様にワシャワシャと掻き回す様な撫で方ではなく、そっと労わる様に優しく撫でてくれるから、こちらも段々と眠くなってきた。まぁでも傷が治る迄は中也が面倒みてくれるらしいし、少なくとも当面の安全は確保されてる訳だし。ならちょっとくらい寝落ちしてもいいか―――ピンポンピンポンピンポーーーン‼︎
「ちゅーうーやーーー‼︎お届けものだよーーー‼︎ハンコもサインも必要ないから早く出て来ーーーい‼︎」
ダンダンピンポンピンポンダンダダダンピンポーンと、けたたましいチャイムとノックに乗って何とも陽気な声が玄関の扉を貫通してくる。え?何コレ、新手のリズムゲー?パリピの間ではこんなん流行ってんのヤダ怖い。
突如ログインした玄関凸の達人(難易度:鬼)に微睡の淵から叩き起こされた私は、咄嗟に安全地帯である中也の膝に駆け登る。が、彼は私を抱き上げて再び床に戻すと、小さく舌打ちをしてズカズカ大股で玄関へ向かった。
「中也ー!なぁ中也ってばーーー!ま〜だ〜?早く開けないと、ドア蹴破って突入しちゃぶべっ‼︎」
「うるっせぇんだよ‼︎ギャーギャードカドカピンポンと‼︎せめて一つに絞れや
部屋に取り残された私の耳に中也が怒声が届いた瞬間、玄関の扉が開け放たれる音と派手な衝突音が喧騒のハーモニーを奏でる。しかし、どうやらそれはただの前奏に過ぎなかった様だ。遮蔽物が取り払われた事でより明確に、先程の陽気な声が室内に反響する。
「えー。だってこれくらいしないと居留守使われるじゃん。日頃の行いってヤツだよ中也君?」
「人が寛いでる時に勝手に部屋乗り込んでクソ遠方の戦闘地帯に放り込んだ挙句、置き去りにして帰りやがる厄介事の種なんざ居留守使われて当然だろうが。手前こそ日頃の行い見直せ莫ァ迦」
「あ!それより猫拾ったんだって?どんなヤツ?」
「なっ…⁉︎何で手前がそれを…」
「何でって、
「あ…っんの野郎…っ!」
「なぁなぁ、それより猫は?折角だし見せてよ!」
「おい!手前、何勝手に!」
そんな声と迫り来る足音に、私は氷上を滑るペンギンの様にベッド下の隙間へと滑り込んだ。否、中也の反応からして悪い人じゃないって事は何となく判るんですよ。判るんですけどね。先刻から本能的な警報が頭ん中でワンワン云ってんですよ―――距離感ブッ壊れフレンドリー陽キャの接近警報がな‼︎
「あれ?猫居ないじゃん。どう云う事中也?」
「はぁ?何云ってんだ、其処の床に毛玉が転がって……居ねぇな」
「どっかに隠れてんのかな?おーい何処だ猫ー。遊んでやるから出て来いよー!」
イヤ無理。絶対無理。申し訳ないが彼からは「遊ぼう」と称して笑顔で動物を玩具にするワンパクボーイの匂いがプンプンする。捕まったら間違い無く揉みくちゃ抱っこぶん回しの刑に処される。イヤだ。そんなん絶対にイ「あ!見ーつけた!「ニギャーーー‼︎」
しかしそんな私の細やかな抵抗は、ベッドの隙間をひょこりと覗くグラサンによってあえなく破られた。思わず全力で毛を逆立て声を上げるも、彼はそんなのお構いなしでベッドを退かし私を引き摺り出そうとする。
「よーしよしよしよし。怖くないぞー。あ!逃げんなって、ほらこっち来いよいでっ⁉︎」
「やめろ、傷が開いたらどうすんだ!変に刺激すんじゃねぇ莫迦野郎‼︎」
壁際に追い詰められ最早死を覚悟した私は、しかして中也がグラサン君の頭をぶん殴ってくれたお陰で難を逃れた。この隙を見逃すまいと私はグラサン君の足の下を潜り抜け、一目散に中也の足にへばりつく。
「なぅん!なぁ、うにゃぁ!」
「だから…、んな鳴かれたってお前の云いてぇ事なんざ……。まぁ此奴を拒否ってんのはなんとなく判るが、取り敢えず落ち着け」
「ひっど!勝手に決めつけんなよ中也。きっと腹減ってるだけだって。そうだ、そうに違いない!早速僕が持ってきてやった粉ミルクの出番じゃないか。よし、そうと決まれば作ろうぜ中也!」
「何が『作ろうぜ』だ。もう用は済んだだろが。さっさと帰りやがれ」
「いいや!僕の用はまだ済んでないね!僕も此奴に餌やりたい‼︎」
「否、それは無理だろ。見ろ此奴の顔、猫とは思えねぇ程判りやすく『勘弁してくれ』って顔してんぞ」
「元々そう云う顔なんだろ?ほら、所謂ブサカワってヤツ」
その底抜けのポジティブ発言に奇しくも私と中也は同時に胡乱な表情を浮かべた。だがこのグラサン君、どうやら引き下がる気など微塵もないらしい。それは中也も判っているようで、これでもかと溜息を吐いて彼は厨房へと向かった。何やらメモの束を見ながら、中也は適当な大きさの鍋を取り出し調理に取り掛かかる。流石に猫を抱えた儘では作業が出来ないので、床に下ろされた私は彼の邪魔にならないよう少し離れた所から様子を伺っていた。のだが、“厨房に立つ中原中也”と云う神シチュエーションに見惚れていた私はすっかり忘れていた。私の背後を虎視眈々と狙う、例のグラサン君の存在に。
「とったどーーー‼︎」
「ブニャーーー⁉︎」
今迄のマシンガントークが嘘の様に気配を消したグラサン君に隙を突かれ、私は某ランオンサクセスストーリーのオープニングがごとく高々と抱き上げられた。うん。あの
「へへへっ!やっと捕まえたぞ此奴め。うわ、スッゲェふわふわ。ん〜…でも怪我してる所為かやっぱ血の匂いはするなぁ。あ、そう云えば!確かこの襟巻き巻いてれば治るんだっけ?よしよし、これでオッケー!…ぶっ、あっはっはっ!」
「おい
「ちょ、中也見ろよこれ!何か変な生き物になったぞ!はははは!」
「煩ぇ…、やめろ。こっち見せんな…くくっ…」
「否、中也も笑ってんじゃん。まぁでもこれで治るらしいから感謝しろよ白毛玉〜?」
こうして、ちょっと小洒落たデザインのエリザベスカラーを装着された事により、まるでポンデライオンの様な姿にされた私は、もう心を無にしてやり過ごそうと決意した。だがそれはそれとして、今後こんな感じで嫌がる猫にグイグイ絡む輩を見つけた際には全力で粛清してやろうと思いますチキショー。
そんな誓いを立てている間に、中也は鍋の中身を深皿へ移し床に置いた。どうやら私のご飯が完成したらしい。それを見たグラサン君が「ほーら飯だぞー」と云いながら、私を皿の前に下ろす。一応中身は人間の儘なので若干の不安はあったが、試しに一口だけ頂くと身体が猫になっている所為か案外いけた。一つだけ改善点を上げるとしたら、食事中の私の背中をワシャワシャしてくるグラサン君の手くらいだろうか。
「おー!飲んでる飲んでる。よしよし、いっぱい食って大きくなれよ白毛玉〜」
「だからやめろってんだよ。飯くらいゆっくり食わせて」
―――ピリリリリ!
刹那、唐突に鳴り響いた電子音に二人の表情が一瞬で変わった。胸元から取り出した携帯を耳元に当てた中也は、二、三回短い返事をして最後に「判った」と締め括り通話を切る。
「急用?」
「ああ。ウチの密輸宝石を狙った莫迦共の襲撃だ。まぁ、其処迄は何時もの事だが…今回は異能力者が紛れ込んでるらしい」
「おお、良いねぇ。楽しそうじゃん僕も行く!」
「はぁ?要らねぇよ。これは俺の仕事だ。手前の出る幕じゃねぇ」
「まぁまぁ、遠慮するなって!普段僕の仕事を手伝って貰ってるお礼だよ。てか異能力者相手の戦闘なんて、そんな楽しそうなの独り占めなんて許さないぜ中也!で?場所は何処だ?この僕が最短最速で連れてってやるからさ!」
「手前、何勝手に…!押すな、おい、押すんじゃねぇよ!」
そんなやり取りをしながら、まるで嵐の様に少年達は殺風景な部屋を後にした。そしてまたしても一人取り残されてしまった私は、今度こそ訪れた平穏に猫らしくペタリと床に伏せる。
しかしこれからどうしたものか…。
猫の姿で過去にタイムスリップと云うこの状況。原因として真っ先に考えられるのは異能力の影響だが、敵異能力者の襲撃だとしたらコストと被害の大きさが釣り合っていないし、偶発的な事故だとしても思い当たる節が無い。私が人間として最後に見た光景は、何時ものヨコハマの街と焦った顔で私を呼ぶ鏡花ちゃん。そして腕の中で目を丸くする猫の顔と、真上から降り注ぐ鉄骨の雨だ。少なくとも、こんな不思議現象に見舞われる様な要素は何処にも無かった筈だ。
(……となると…、残る可能性は…)
其処迄考えて、私は意図的に思考を止めた。
止めたかった。
だがそれでも、当人の思いに反して思考は考察を続けていく。
そうだ。異能力以外に、この現象の原因として考えられる可能性が一つある。何せ私は、
(ゲームオーバーで、今度は猫からリスタートってか…)
そう。それならこの状況も納得はいく。常識的に考えれば実に荒唐無稽な空論だが、その空論を実際に現実として突き付けられた経験者からすれば、十分あり得る話しだ。少なくとも単発の物理拒絶では、あの鉄骨の雨を防ぎきれない。生きて凌ぐには花の痣を発現させる必要がある。それを躊躇った事で物理拒絶が間に合わなかったのだしとたら、―――私はあの儘
―――ガチャリ
その時、玄関の方でドアノブの回る音がした。中也はつい先刻急用で出かけたばかりだし、ポートマフィアが管理する建物を空き巣の類が狙うとは考えづらい。だとしたら同じ組織の人間だろうか?そう云えば中也がグラサン君と部屋を後にした時、バタバタしていて鍵を閉め忘れていたような気がする。もしかして、それに気づいた中也が近場の知人に戸締まりを依頼したのかもしれない。
だがそんな私の推理とは裏腹に、ドアノブの回った扉はその儘開き、次いでコツコツと硬い革靴の音が簡素な床に刻まれる。まるで自分の城が如く迷いなき足取りで室内へと踏み入った靴音の主は、殺風景な室内を一望して小さく首を傾げた。
「あれ?誰も居ない…。鍵はかかっていなかった筈だけど……。まぁ、どうでもいいか」
そう独り言ちた来訪者は、本当にどうでも良さそうな顔で手元の端末に目を落とす。
その姿を、私は呼吸すら忘れて魅入っていた。少しサイズの大きい上物のスーツ。柔らかそうな黒の蓬髪。そして包帯に覆われていない大きな鳶色の左目が、何かを探す様に辺りを見回し、軈て私を映して止まった。
「……猫?」
「―――っ!」
その声に、言葉が喉元で詰まった。今すぐ駆け寄りたいのに身体が固まって動けない。そんな私に彼は珍しいものでも見る様な顔で歩み寄ると、目の前に跪いてまじまじと覗き込む。
「え〜…と…。待てよ?って事は…。え?うわ…嘘でしょ…」
何やら私と手元の端末を見比べる彼。しかも見比べる度に整った顔立ちがどんどん歪んでいく。軈てあからさまにゲンナリと肩を落とした彼は、胸のポケットから携帯を取り出し耳元に当てた。
「もしもし森さん?…うん。見つけた。けど、ちょっと面倒な事になってるみたい。…ああ、それは大丈夫。予定通りでいいよ。…うん。それじゃあ、人選はそっちに任せるね。……はぁ、却説と…」
淡々と通話を終えて携帯を仕舞うと、彼は大きく溜息を吐いて私に手を伸ばす。そして未だ身動きの取れない私を抱き上げると、少しだけ目を開いてまた首を傾げた。
「手負いの獣は気が立ってるって聞くけど、君は随分大人しいね。まぁこっちとしては好都合だけど…」
そう云って私を左手に抱え直すと、彼は中也の部屋を出た。家主の許可なく外へ出るのは拙いと頭では判っているのに、それでも矢張り身体は動かない。最早ぬいぐるみの様にされるが儘の私は、それに相応しい愛情も優しさも無い無機質な手に抱かれて、まさしくぬいぐるみの様に運ばれていく。ふと気まぐれに降り注いだ鳶色の視線が、ほんの少しだけ同情した様に細められた。
「それにしても、熟く面倒な事に巻き込まれてしまったね…。君も、僕も…」
よく知る声で紡がれた言葉は何処までも無機質で、向けられた鳶色はすぐに正面を見据えてしまった。
それでも。ほんの僅かでも其処に宿って見えた感情と、抱えられた左胸の奥で刻まれる心音に、漸く身体の動かし方を思い出した私は、鼻腔を満たすその匂いを求めて、
未だ幼い最愛の人の胸元に鼻頭を擦り寄せた。
****
「よぅし、残るはあの異能力者一人だ!もう一度確認するけど、“先に倒した方が勝ち。負けた方は今日の夕飯何でも奢る”って事で文句ないよな?」
「ああ、今の内に財布の準備しとけよ
「それはこっちの台詞さ。後で払えないなんてナシだよ中也!」
―――ピリリリリ!
「ああっ⁉︎誰だこんな時に…っ!」
「っしゃあ隙あり!悪いね中也、この勝負僕がもらったぁ‼︎」
「なっ…、手前セコイ真似してんじゃねぇぞ
―――おい。そりゃあどう云う事だ」
****
まぁ私も、悪かったと反省はしている。
“大切な人達との約束を守れない儘、自分は死んでしまったのではないか”。そんな仮説にうっかり絶望していた所に今一番会いたかった人が現れて、碌な行動も起こさない儘惚けていた事はマジで悪かったと反省している。
だがその上で。己の愚行を反省した上で尚、厚顔無恥の汚名を背負う覚悟で云わせてもらおう。
「おいおい、何だよ此奴。こんなひょろっちい餓鬼迄採用するたぁ、天下のポートマフィア様も落ちたもんだなぁ?」
「「「ははははは!」」」
説明しよう。現在私は少年時代の太宰君に抱えられ、港の片隅で明らかに堅気じゃない集団に囲まれております。
ねぇ、何してんのこの虚無フワ美少年。
「気を付けて下さい。腐っても相手はあのポートマフィア。それに、現首領の森と云う男は先代暗殺の噂もある謀略家です。この少年も何か罠が仕込まれているのかも…」
すると現代版海賊みたいな集団の中から、眼鏡を掛けた細身の男が額に汗を浮かべて小さく進言する。それを聞いた一際ガタイの良い男は、面倒臭さそうな表情を隠しもせずボリボリと頭を掻いた。
「ったく、頭でっかちの科学者先生はこれだからいけねぇや…。ちったぁ自分が雇った傭兵の腕を信じて欲しいもんだねぇ」
「ああ。それじゃあ、矢っ張り其処の眼鏡の人が雇い主なんだね。良かった。貴方には聞きたい事が沢山あったから」
自分より遥かに屈強な大人達に囲まれて尚、その少年の声は背後に広がる海の様に凪いでいた。思わず見上げた先で、黄昏に染まった幼い美貌が笑顔の形に歪んでいる。私がその顔に手を伸ばすより先に、無骨で大きな手が彼の胸倉を掴み上げた。
「おい、誰が喋って良いって云った?手前自分の状況判ってんのか餓鬼?」
「やれやれ…。先刻雇い主から“気を付けろ”と忠告されたばかりなのに、もう忘れてしまったのかい?貴方も飛んだハズレを引いてしまったね…」
「待て!矢張りその少年、何かある。迂闊に手を出すな‼︎」
「煩ぇ!ビビり過ぎなんだよアンタは!こんな餓鬼に何があるってんだ。爆弾でも隠し持ってるってのか、っいっでぇ!」
慌てて叫ぶ雇い主の静止をせせら嗤う男の声が一転、悲鳴へと変わる。理由は簡単。男の手に私が噛み付いたからだ。子猫のか細い爪と小さな牙でも、本気で行使すれば結構痛い。少なくとも、幼気な美少年の胸倉を掴んだ手を離してしまうくらいには。
「クソっ!離せ此奴‼︎」
それでも、矢張り筋骨隆々の大男に振り払われれば呆気のないもので。固いコンクリートに叩きつけられた子猫の体は、呼吸すら儘ならずに動かせなくなった。元の人間の体ならこんな奴ら、太宰に触れさせる事もなく制圧出来たのに。まさか此処迄自分の体と異能力を惜しむ日が来るとは思ってなかったな。そんな事を考えている間に、黒く大きな影が私の真上から覆い被さっていた。
「ちっ…、痛ぇなぁクソ!薄汚ぇ毛玉が…。人間様に楯突いた事をあの世で後悔しやがれ‼︎」
嗚呼。これは駄目だ。避けられない。全く、一日で二度も死を覚悟しなきゃならんとは飛んだ厄日だ。
でも、これで…。もしかしたら、今度は人間でリスタート出来るかもしれない。そうだと良いな。
そうしたら、喩え其処が何時の時代だったとしても、
また君に逢いに行ける。
また君と話が出来る。
それで、また君と―――
「やめろ‼︎」
―――スパンっ!
自分の臓物が飛び散る音を予想していた私の耳を、正反対の鋭利な音と誰かの叫びが通り抜けた。眩む左目をめい一杯開いた先で、首から上を失った巨体が崩れ落ちる。後に残っていたのは、少し驚いた様な顔で私を見下ろす蓬髪の少年と、白黒の服を潮風に踊らせた長身の青年だった。
「流石は首領直轄の秘密部隊を指揮する期待のルーキー。動物の調教もお手のものって訳か?」
「なら、最初から人間を使ってるよ。動物より人間を調教する方がずっと簡単だからね」
その返答に白黒服の青年は僅かに顔を顰めた。だがそんな彼の表情を視線一つで流した太宰は、未だ事態を飲み込めない儘立ち尽くす荒くれ者達の中から、真っ青な顔で震えている眼鏡の男を指差す。
「それより、例の小型カメラの開発者はあの人らしい。後は雇われただけの傭兵みたいだから、判断は貴方に任せるよ」
「はぁ…全く…、今なら私の
溜息と共に吐き出されたその言葉に、今度は太宰が顔を顰める。それを見た青年が“してやったり”と云う表情で一回転する頃には、身体と繋がっている首は三つだけになっていた。
「私の“
「お見事。貴方はまさしく職人の鏡だピアノマン。流石は首領の催促さえ黙殺して納期を踏み倒すだけある。全く関係ないのに後始末を押し付けられた僕も、これにには感動を禁じ得ないよ」
「ああ…それはどうも」
パチパチと緩い拍手と共に今日一抑揚の死んだ声で称賛を送る太宰。そんな彼に負けない程死んだ笑顔を返した青年は、夕日と返り血で真っ赤に染まった生存者に手を伸ばす。三度目にして漸く見えた彼の袖から伸びる光の糸。否、あれはワイヤーか?兎も角あれが相当の硬度を誇っているのは確かだ。それこそ、人間の首を跳ね飛ばし、命からがら駆け出した哀れな逃亡者を拘束するくらいには。
「助けてくれ!私は“
「命乞いならもう少しマシな台詞を吐くんだな。お前らが独自開発した小型カメラを使って、私の工房を盗撮した事は調べがついてる。何も知らない訳が無いだろう」
「嘘じゃない、本当なんだ!あのカメラは、移動ギミックを組み込めるギリギリ迄最小化した所為で撮影枚数が限られているし、本体を回収しないと撮影データも確認出来ない!だから…っ」
「だから貴方は、慌てて『やめろ』と叫んだんだよね?漸く戻ってきた撮影データが、踏み潰されそうになったから」
目視も困難な鋼線に身動きを封じられながら必死に訴える眼鏡の男。その言葉の先を紡いだ太宰は、コンクリートの上で転がっていた私を拾い上げると、懐から取り出した端末を翳して見せる。
「貴方達が作った小型カメラは、特殊な電波を使って遠隔操作出来るよう設計されている。それを利用して、カメラの位置を逆探知する端末を作らせたんだけど。この通り、位置情報はずっと此処を指し続けてる」
「おい…。どう云う事だ?…まさか」
太宰の話に振り返った青年は、引き攣った顔で言葉の続きを飲み込む。だがその先は、またしても太宰の平坦な声音によって形を得た。
「そうだよピアノマン。貴方の大事な“
「はぁっ(にゃぁっ)⁉︎」
思わぬカミングアウトに、ピアノマンと呼ばれた青年と私の叫びが重なる。だが当の太宰は相変わらず面倒臭さそうな顔をして、逆探知用の端末とやらで私の腹を軽く突きながら続けた。
「話によると、カメラの大きさは五
「な…、何故そこ迄……っ」
「云っただろう?カメラの位置を逆探知する端末を
まるで人形の様に無機質で整った顔が、ここにきて漸く表情らしいものを浮かべる。甘くあどけない、まさしく地獄に堕ちてきた罪人を歓迎する悪魔の様な笑顔。それを目にした男は、絶望と恐怖に臓腑から蝕まれてしまったかの様に顔を歪め、軈て動かなくなった。だが今も昔も、ポートマフィアと云う組織は敵対者に慈悲など無いらしい。
「おっと、腑抜けるにはまだ早いぞ。聞いての通り、お前には吐かせたい情報が山程あるんだ。来い。ウチの幹部殿直下の拷問班が、首を長くしてお待ちだ」
「ちょっと。忘れ物だよ」
黒い外套に覆われた背中を呼び止めた太宰は、私の首根っこを摘んで差し出した。それを見て彼は何とも云えない微妙な笑みを浮かべる。
「改めて確認するが。本当にカメラは此奴の腹の中なのか?」
「残念ながらね。まぁでも、先刻この人が云った通り、本体を回収しない限り撮影データを目にする事は出来ない。さっさと取り出して破壊すれば、貴方の大事な重要機密は守れる筈だよ」
「やれやれ…。此奴を引き渡したら、
「その必要は無い。もうすぐ迎えが来る筈だから」
「ん?迎え?」
「おい‼︎手前やっと見つけたぞ糞太宰ィィェア‼︎」
その時、真っ赤な夕空を引き裂いて芸術的なシャウトが響き渡たった。反射的に振り向いた私達の目に映ったのは、鬼の様な形相で土煙を上げながらかっ飛んでくる中也の姿だった。
「手前この糞鯖!人の部屋に勝手に上がり込んだ挙句猫迄強奪しやがってぶっ殺すぞゴルァ‼︎」
「と云う訳で、猫の事なら中也に任せればいいよ」
「全く、末恐ろしい男だ…。まぁいい。今回はそのお陰で助けられたからな。じゃあ、その猫は中也に渡しておいてくれ。序でに事情の説明も頼む」
「は?何云ってるんだい?首領から云い渡された任務はたった今完了した。僕にはもう手を貸す理由なんて」
「おーい中也ー!悪いがこの猫を
「ちょっと、何勝手な事云って…⁉︎」
「悪いな。だが、私はこれからこの男を拷問班に引き渡さなければならない。それに…」
そう云って言葉を切ったピアノマンさんは、太宰に摘まれて宙ぶらりんになった私の頭を一度だけ撫でると、今日一番の笑顔で悪戯っぽくウィンクを決めた。
「引き剥がすなんて可哀想だろう?あんな大男相手に向かって行く程、此奴はお前を好いているのに」
「はぁ⁉︎何それ!全然笑えない。本当に
「ははは!そうとも。この腐った
「退けピアノマン‼︎取り敢えずその莫迦死なす!話はそれからだ‼︎」
「おお怖い怖い。それじゃあ頼んだぞ指揮官殿」
「待ってって!ああもう!何奴も此奴も‼︎」
そんな絶叫を聞きながら、私は安堵に瞼を閉じる。色々と…、本当に色々とあったけど、どうやら一件落着したらしい。そう理解した瞬間、どっと体の力が抜けた。喧々囂々と云い争う彼等の声すら、まるで子守唄の様で。ふわふわと揺蕩う意識を今にも取り落としそうになる。
嗚呼、でも。この様子なら今度こそ眠ってしまっても大丈夫かな。未だ問題は山積みで、考えなければならない事も、調べなければならない事も沢山ある。それでも
この二人が一緒なら、何も心配は要らない。だから、これで―――
「これで、借りは返したぞ。小僧共」
「………え?」
聞き覚えのある声で目が覚めた。誰の声かはすぐに判った。声の主は私。そして、開いた視界は左右両方揃っていて、その視界一杯に映っていた美丈夫がホッとした様に息を吐いた。
「太宰…?」
「嗚呼、全く君は…。相変わらず困った寝坊助だね…」
そう云うや否や、太宰は私を抱き締める。状況が掴めず辺りを見回すが、其処は知らない部屋で、私は何故かフカフカのベッドに横たわっていた。すると不意に扉が開く音がして、一瞬だけ動きを止めた赤い着物が次の瞬間私の上に飛び込んできた。
「ぐふぉ⁉︎えっ、ちょ…鏡花ちゃん⁉︎」
「良かった…。起きた…」
「え?」
「ああ、良かった!中々目を覚まされないので心配していたんですよ」
そう云って鏡花ちゃんの後から現れた女性は、とても綺麗で優しそうな人だった。改めて話を聞いた所、その人は件の迷い猫の飼い主さんで。そして私はあの後、鏡花ちゃんが夜叉白雪で降り注ぐ鉄骨を一本残らず切り捨てた事により命を拾ったらしい。ただ、傷ひとつ負わなかったにも関わらず私は意識を失ってしまい、近所にあった依頼人宅で介抱して貰っていたそうな。そして、私の身に起こった事を聞きつけて太宰が到着。その半刻後に私が目覚め現在に至る。
「本当に有難う御座いました。お二人にはどうお礼をしたらいいか…っ」
「いえいえ。私はただ気絶していただけですから。猫探しの依頼を受けたのも、猫を守ったのもこの子ですよ」
「探偵社員は街の平和を守る。だから、これは当然の事」
「ふぁーーー!偉いぞ鏡花ちゅあん!自慢の後輩が日々立派に成長してくれて、お姉さんすっごく嬉しいよーーー‼︎」
「はいはい。嬉しいのは判ったから落ち着いて菫お姉さん。鏡花ちゃんが折れ曲がりそうになってるから」
「ほらクリスティーヌ。貴方もお姉さん達に“有難う”って」
「なうん」
すると飼い主の腕一杯に抱えられたビッグサイズの白猫は、その巨大にふさわしい威厳ある声で鳴いた。てかこの子女の子だったんか…。脳内で勝手に“ボス”って渾名付けてたわごめん。
「立派な猫ですね。さぞ大切にされてきたんでしょう?」
「ええ。実は私、前に少しだけ映画の仕事をしていた事がありまして…。この子は共演者だったとある俳優さんから譲り受けた大切な猫なんです。残念ながら数年前に亡くなられてしまいましたが、まだ新人で、右も左も判らない私にも、とても親切に声を掛けて下さった優しい方でした…」
「失礼ですが…それはもしや、六年前に亡くなった銀幕
「まぁ、ご存じなんですか?嬉しい!最近は覚えている方も随分と減ってしまっていて…。嗚呼でも、ちゃんと忘れないでいて下さった方も居たんですね…。良かった…」
「ええ…。勿論です。忘れる筈がありませんよ」
嘗ての思い出に薄く涙を浮かべて微笑む彼女に、太宰は小さくそう答えた。その後もう少しだけ世間話をして、序でにクリスティーヌちゃんもモフらせて頂いて、本日の仕事を終えた私達は夕暮れの街を自宅に向かって歩く。
「しっかし凄いなぁ!あんな沢山の鉄骨を全部切っちゃうなんて。流石は鏡花ちゃんだな!」
「………」
「鏡花ちゃん?」
「あの時、鉄骨が遅くなったの…」
「え…?」
「判らないけど、私にはそう見えた。貴女を助けられたのは、―――そのお陰」
「………」
「……ごめんなさい。変な事云って…」
「ううん。そんな事ないよ。大丈夫。鏡花ちゃんが見たものは、きっと本当だ」
小さな肩を抱き寄せながらそう笑って見せると、俯いていた鏡花ちゃんは安心した様に微笑み返してくれた。
「あ!そうだ。折角だから今日はウチで夕飯食べてかないか?助けてくれたお礼に、鏡花ちゃんが好きなもの何でも作ってあげよう!勿論、敦君も一緒にね」
「本当?」
「うんホント!さぁ鏡花ちゃん、食べたいもの遠慮せずに云ってご覧?」
「湯豆腐!」
「安定の豆腐好き美少女!だがそれが良い!じゃ、この儘一緒に材料買って帰ろうか」
「あっちに美味しいお豆腐屋さんがあるの。着いてきて」
「はいよ。おーい太宰。君も早く来ないと…」
その先の言葉は、けれど夕空に霧散した。
珍しく一人離れて後ろを歩いていた太宰の顔に、瞼に焼き付いた少年の虚ろな笑顔が重なって見えたからだ。
「…ごめん鏡花ちゃん。ちょっとだけ待ってて」
不思議そうに首を傾げた鏡花ちゃんがそれでも頷いてくれたのを見届けて、私は黄昏の街に溶けゆく彼に向かって走る。獣の四つ足ではなく、人間の二本足で走る。そして意志の通じない鳴き声ではなく、確かな人間の言葉で彼に呼び掛けた。
「―――太宰!」
「っ⁉︎」
私の声に黒い蓬髪の合間から覗いた鳶色が大きく見開かれた。其処に映った私の姿は当然ながら人間で、二本の腕をめい一杯突き出して、青いループ帯が輝く彼の胸にダイブする。
「うわ⁉︎ちょっと、何!どうしたの菫?」
私の突然の奇行に、太宰は当然ながら困惑の声を上げた。しかし敢えてその声を無視した私は、しっかりと私を映すその鳶色の双眸を引き寄せて、大きく深く頷いて見せる。
「うん。矢っ張り今の君はすっごく素敵だな!」
「……は…」
言葉の意味が判らないと云う様に疑問符を漏らす太宰。そんな彼の首元にしっかりと両手を回して、掛かった髪を少し避けてやった耳元に私は内緒話をする様に語りかける。
「だから。大丈夫だ太宰。君はちゃんと変われてる。少なくとも今の君は、―――昔よりずっと“佳い人間”だ」
「っ……」
その呼吸一つで、私の云いたい事はちゃんと伝わったのだと確信出来た。だから私は彼から体を離して、改めて手を差し伸べる。
「さぁ、一緒に行こう太宰」
その手を見て、次に私の顔を見て、あの時と同じ様に黄昏に染まった彼は、あの時よりずっとずっと人間らしい顔で眩しそうに笑う。
「うん。そうだね。一緒に行こう」
そう云って重ねられた手は、大きくて、綺麗で、冷たくて。けれどあの時よりずっと優しく私の手を包む。その手をしっかりと握って、私は夕暮れに沈むヨコハマの街を歩く。今この時、彼の恋人として、彼の手を当たり前に握れる幸福を噛み締めて歩く。
そんな人間達の姿を、古傷の刻まれた青い眼が高台に聳える豪邸の窓際から静かに見つめていた。
「さぁ、おいでクリスティーヌ。今日は久し振りに、あの人の映画を沢山見ましょう」
「なうん」
主人の呼び掛けに応えた猫は、軽やかな足取りで窓枠を飛び降りる。その一瞬、赤々と燃える空に染まった窓の中を、フワリと二本の尾が揺れた。だが、各々の人生に手一杯の人間達は、そんな些細な事に気付きもしない儘、何時終わるともしれない人生を
―――今日もただひたすらに、謳歌する。