hello solitary hand・番外編
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僕は名探偵・江戸川乱歩。
後輩で案内役の臼井菫と遊園地へ捜査に行って、 黒ずくめの男の怪しげな取引現場を目撃した。取引を見るのに夢中になっていた僕は、背後から近づいてきたもう1人の仲間に勿論気付いていたけど、僕より早く菫が反応して相手が振り下ろした鉄パイプを受け止めたので、その間に依頼主の箕浦君に連絡して事情を説明。直ぐに駆け付けるよう指示を出して、後ろを振り返ったら―――
「菫が縮んでいた」
「最高ですか」
瞳孔の開き切った眼でそう呟いた太宰は、僕の膝を瞬きもせずに凝視する。其処に居るのは、世界一の名探偵の膝を独占し、更には肩掛けの中に隠れる様にしがみ付いている一人の幼女だ。
「襲ってきた連中の中に異能力者が居たんだけど、それが“殴った相手の時間を奪う異能”とかでさ」
「嗚呼成る程。確かに“殴った相手”が効果対象じゃ、菫の異能でも拒絶出来ませんからね。因みに、この様子だと今迄の記憶は…」
「無い。何なら異能力も消えてる。今回奪われた時間は二十年分らしいから、その間に培ってきたものがごっそり抜き取られてるんだろう。まぁそう云う訳だから、さっさと戻してやって」
「……何故?」
僅かな間の後にそう首を傾げた太宰の眼には、一点の曇りも無かった。
「折角幼少期の菫とご対面出来たんですし、もうちょっとこの姿を堪能してからでもいいのでは?」
「でもどの道お前が触った時点で異能解けるじゃん」
「っ!!そんな…、あんまりだ…。こんな愛らしい天使に触れる事すら許されないなんて…。折角菫のランドセル姿、制服姿、果てにはスク水姿迄この眼に納め、尚且つ今より積極でちょっとエッチなお姉さんに育て上げる絶好の好機が訪れたと云うのに……っ」
「何でもいいから早く戻してくんない?」
くだらない妄言を吐いて蹲る後輩を一言で切り捨てて、僕は大人用のロングパーカーを着込ませた菫を隣の椅子に移動させた。それを見て心底残念そうに溜息を吐いた太宰は、先刻の醜態が嘘の様に爽やかな笑顔を浮かべて、椅子に座る幼女に手を差し出す。
「こんにちは菫ちゃん。私は太宰治。探偵だ。宜しくね」
「〜〜〜っ!…っ!」
しかし太宰が少し首を傾けて笑みを深めたその瞬間、菫はビクリと肩を揺らして隣に座っていた僕の腹にしがみ付いた。何かを拒否する様に何度も首を横に振るその反応に、手を差し出した体制の儘浮かべた笑顔ごと太宰が固まる。
「え?何でお前嫌われてるの?」
「嫌われてませんよ!!」
僕の言葉に全力で反論するも、その顔は今迄見た事もない程明確に“絶望”の二文字を表していた。流石の僕もこれには少し驚いて目を見開く。だがそんな小さな謎は、ダブダブのパーカーの隙間からチラリと覗く真っ赤な耳ですぐに解けた。
「あー…、成る程…。善かったな太宰。此奴、単にお前の顔見て照れてるだけだ」
「ら、ラン兄ちゃん!?何で!?」
「ラン兄ちゃん!?」
「何?何か文句ある?」
「…あ、いえ…別に…」
「ほら大丈夫だって菫。別にそんな照れる程大した人間じゃないから」
「だって…このお兄ちゃん、キラキラしてて…王子様みたいで…。見られると、頭の中…熱いし、グルグルするんだもん……」
バターン!
残像を生み出す程の滑らかな軌道を描いて太宰が倒れた。
「え…、お、お兄…ちゃん…?お兄ちゃん大丈夫!?」
「!?」
突然の出来事に羞恥心がすっ飛んだのか、菫は慌てて太宰に駆け寄る。だが、この上ない程安らかな顔で昏倒した太宰を揺する菫は、相変わらず
「待たせたな名探て…うお!?何だこりゃ!?」
「嗚呼、お帰り箕浦君。それは気にしなくていいよ。ただの自然死だ。それより、例の異能力者は?」
軽いノックと共に現れた箕浦君は、驚愕の色を引き摺りながらも僕の質問に答える。
「予想通りだ。連中が関わってた取引は、厄介な内容の案件がちらほら混ざってるらしい。申し訳ないが、アンタ等探偵社の人間が面会出来るのは、それをある程度整理してからになりそうだ」
「って事は、少なくとも其れ迄、此奴は此の儘って事だな…」
「どう云う事だ?アンタの後輩に頼めば、嬢ちゃんは元に戻るんじゃなかったのか?」
「それが丁度今失敗した所だ。此奴の異能無効化に例外は無いけど、稀にこう云う“抜け道”みたいなのが在ったりするんだよねぇ。まぁ異能力者本人に触れれば流石に元に戻ると思うし、その間このちびっ子は僕らで面倒見てや」
「それなら私にお任せください!」
すると、つい先刻迄仏の様な顔で倒れ伏していた太宰が、逆再生でもする様に起き上がって名乗りを上げた。
「お兄ちゃん…、大丈夫?」
「うん!それより菫ちゃん、何処か行きたい所とかしたい事は無いかい?今日一日、この私が君の願いを何でも叶えてあげよう」
「したい…事…?何でも…?」
「そう、何でも!何せ王子様は、可愛いお姫様のお願いを何でも叶えてあげるものだからね!」
「何云ってんだあの兄ちゃん」
「気にしなくていいよ。寝言と同じくらい無価値な内容だから」
僕達の冷ややかな視線を物ともせず、寧ろ態と僕達が視界に入らない様に菫を抱き上げた太宰は、いけしゃあしゃあと爽やかな好青年の皮を被って微笑む。そんな外観だけは完璧にでっち上げられた自称王子様に、猜疑心も真面に形成されていない四歳児の瞳は徐々に希望の光を宿していった。
「じゃあ、じゃあ…。あのね、私ね、会ってみたい動物がいるんだけど」
「わぁ、どんな動物さんかな?ライオンさん?それともヒョウさんかな?あ、もしトラさんならすぐにでも会わせてあげられるけど」
「ううん。あのね、
「「「…………なんて?」」」
意を決した様に幼女が云い放ったその言葉に、奇しくもその場に居た大人達の心が一つになった。
****
「ほら菫ちゃん、見て見て。色んなお魚さんが沢山居るよ?」
「……綺麗…っ」
一面を覆う水槽に張り付いて大きく眼を開く天使。基、天使の様な四歳児は、子供らしいフリフリのワンピースに身を包み、何時もより長い髪を高い位置でツインテールにしている。云う迄も無いが、コーディネートとへアセットは全て私が手掛けた。自分のセンスと器用さに内心で盛大な拍手喝采を送りながら、私はその成果を記録すべくカメラのシャッターを切る。
幾つもの水槽に多種多様な魚が群れを成して舞い遊び、水を通した冷たい照明が薄暗い空間を彩る。人が模倣した人口の海中。―――水族館。
その一角で、私は何時もより小さくなってしまった恋人と、一風変わった
「わぁ、何か小さいのがパタパタしてる」
「うふふ。これはね、クリオネさんって云うんだよ〜」
「くり…?」
「クリオネさん。“流氷の天使”って呼ばれていて、寒い海に居る貝の仲間なんだって」
「貝?貝殻無いのに?」
「ね?不思議だねぇ?でも、人間だって善い人そうに見える人が実は悪い人だったり、悪い人そうに見える人が想像を超えて悪い人だったりするし。見た目と本質は必ずしも同じとは限らないって事さ」
「ダザ兄ちゃんの話、よく判んない…」
「嗚呼ごめんね。菫ちゃんにはちょっと早かったね。でも大丈夫。菫ちゃんの事は私が守ってあげるから、安心していいよ」
「これよりクリオネのお食事タイムでーす!興味のあるお客様は是非前へ!」
「さぁ菫ちゃん、次行こうか」
「お食事タイム、見なくていいの?」
「世の中には見ない方が幸せなものもあるんだよ〜。恋人の携帯とかSNSの裏アカとかね」
「何それ?」
「菫ちゃんは一生知らなくていい事♡それよりほら。彼処の水槽、サメさんが泳いでるよ?」
「!…今度はホオジロザメ居るかな?」
「う〜ん…、そうだねぇ。居ると…いいね……」
キラキラと宝石よりも眩い輝きを放つ瞳。その輝きに私は内心で何度目なるか判らない溜息を吐いた。
記憶の大半を失ってしまった彼女と手っ取り早く距離を縮める為、何でも願いを叶えてやると豪語したはいいが、幼児の自由な発想を少々見縊り過ぎていた。何せこの小さなレディがご所望のホオジロザメは、その捕獲と飼育の難しさから日本は疎か世界でも展示している水族館は存在しない。まぁでも相手は四歳の子供だし、それなりに大きな鮫を見せて「ホオジロザメだよ〜」と云えば納得してくれるだろうと、私は安易な気持ちで彼女を近場の水族館に連れて来た。のだが―――
「わぁ、見て菫ちゃん。あのサメさん大きいねぇ!菫ちゃんが探してたのってあのサメさんじゃないかな?」
「ううん。多分アレは“シロワニ”。色が茶色いし、同じ大きさのセビレが二つあるでしょ?ホオジロザメのセビレは一つだもん」
「へ、へぇ〜…。そう、なんだ〜…」
この通り、このおチビさん矢鱈鮫に詳しい。他の魚に就ては殆ど無知なのに、何故か鮫に就いてだけ異様に博識だ。実際、此処迄の道すがら鮫が展示されている水槽は全て回って来たが、その悉くが看破されている。そしてたった今、最後の水槽迄もが菫の鑑識眼に敗れ、私は愈々以って背水の陣に立たされてしまった。
「凄いね菫ちゃん…、本当にサメさんが好きなんだね…」
「………」
「?…菫ちゃん?」
私との会話にも徐々に慣れ、漸く綻び始めていた幼い顔。けれど、その顔が不意に陰った。魚の泳ぐ水槽に向けられていた瞳が僅かに歪み、徐々に下へと落ちていく。
「……あのね…ホントはね、猫とか犬とかフワフワしてる生き物の方が好きなんだ…。でも、ぬいぐるみはすぐ無くなっちゃうから…」
「“無くなる”…?」
「うん…。ぬいぐるみやオモチャはね、皆大好きだからすぐ持ってかれちゃうんだ。図鑑もね、ライオンとかオオカミとか、カッコいい動物が出てくるのは人気あるから…。何時も残ってるのは海の図鑑だけでね…。でもサメの所だけは凄く面白かったから、ずっとそこだけ見てたんだ……」
「………」
「そしたらね…。皆私の事、“変だ”って…。お母さんも…、“読むならもっと女の子らしいのにしなさい”って……。でも、他に遊べるもの…残ってないし……」
「……ぬいぐるみやオモチャで、一緒に遊んでくれるお友達は居なかったのかい?」
「……私泣き虫だから、ダメなんだって。すぐに泣く子は赤ちゃんだから…、オママゴトも、ヒーローごっこも、まだ早いんだって…」
拙い言葉が、幼い子供の口からポロポロと零れる。すっかり下を向いてしまった顔からは、何時の間にか鼻を啜る音が漏れ出していた。それを堪える様に私の服を固く握り締める小さな手は、真っ白になって震えている。そんな彼女の姿を見つめながら私は暫し考えを巡らせた。そして―――
「ねぇ菫ちゃん。私に云ったあのお願いは、菫ちゃんの本当のお願い?」
私の問いに、小さな頭は俯いた儘僅かに首を縦に振った。それを見届けた私は彼女を抱き上げて、真っ赤になった耳元に内緒話でもする様に囁く。
「そう。なら、何の問題もないね」
「え…?」
漸く顔を上げた幼い少女に、私は態と明るく頼もしく笑ってみせた。
****
気付いたら知らない場所に居て、知らない人達がどんどん集まってきて、訳が判らなかった。でも、今やっと判った。―――きっとこれは夢だ。
だって“何でも願い事を叶えてくれる王子様”なんて、本当の世界にいる訳ない。だからこれは夢だ。
……でも夢なら、
ちょっとくらいホントの事云ってもいいかな。
「ほら見て菫ちゃん!お待ち兼ねのホオジロザメさんだよー!」
私の願い事を叶えてくれるって云ってくれた王子様のお兄ちゃん。タザ兄ちゃんは、そう云って私の前にそれを差し出す。ギザギザの歯、黒くて丸い眼、フワフワな身体の、大きな大きなホオジロザメのぬいぐるみ。
「凄い!おっきい!」
「ふふふ。店で一番大きなぬいぐるみなんだって。菫ちゃんくらいなら、背中に乗れちゃうね!ほら、遠慮せずに触ってごらん。すっごくフワフワだよ〜」
ダザ兄ちゃんにそう云われて触ったぬいぐるみは、毛布みたいに柔らかかった。それに我慢できなくなって思わずぎゅっと抱き着く。クッションより柔らかくて、あったかくて、身体の中がじんわりした。
「気に入ってくれた?」
「うん!本物じゃないけど、本物みたいに可愛い!」
「かわ…?え、本物が…?」
「うん!本物のホオジロザメもね、ドーンっておっきくて、丸くてコロコロしてて、お目々くりくりで可愛いもん!」
「あー…。どうりで君の“可愛い”の基準が未だに謎な訳だ……」
「え?」
「ううん。何でもない!それより私、菫ちゃんにもう一つプレゼントがあるのだけど」
「プレゼント?」
「はい。これ!」
また目の前にギザギザの歯が出てきた。でも、今度は今抱きついてるのよりずっと小さい。私でも抱っこ出来そうな大きさの、同じサメのぬいぐるみ。
「可愛い!」
「そっちのサメさんは大き過ぎて流石に無理だけど、こっちの小さいサメさんなら連れて帰って善いって。だから、今日からこの子は菫ちゃんのお友達だよ」
「友達……。私の…?」
「うん!“仲良くしてねぇ〜菫ちゃ〜ん”」
変なダミ声で喋るサメのぬいぐるみを受け取って、抱きしめてみた。矢っ張り大きい方がずっとフワフワだったけど、でも、私でも抱っこ出来て、一緒に連れて歩ける。それが嬉しくて頬擦りしてたら、大きな手が私の頭を優しく撫でてくれた。見上げたらすぐ近くでダザ兄ちゃんが笑ってた。
「……ダザ兄ちゃん」
「ん?」
「何でダザ兄ちゃん迄笑ってるの?」
「うふふ。それはねぇ、菫ちゃんが喜んでくれたのが嬉しいからだよ」
「……何で?」
ダザ兄ちゃんは色々な話をしてくれるけど、私には半分も判らない。でも、聞き返してみたら長い指が私のほっぺたを撫でて、近付いた茶色い眼が私の顔を覗き込みながら、柔らかく笑った。
「―――君が好きだから」
「…………え…」
ダザ兄ちゃんの云っている事がやっと判った。
判ったけど、判らなかった。
だって、そんな事ある筈ない。なのに―――
「つい笑顔になってしまうのも、喜んで貰えて嬉しくなるのも、お願い事を叶えてあげたいと思うのも当然だ。だって君は、私の“一番好きな人”なんだもの」
「―――っっっ!!!???」
顔が熱い。頭が熱い。身体の中がグルグルする。
私に判ったのはそれだけ。
後はなんにも判らなくなって。判る様になった時には、一人でベンチに座ってはぁはぁ息をしてた。
先刻迄お土産屋さんにいた筈なのに、今居る場所は大きな水槽の前。ダザ兄ちゃんも居ない。きっと夢だから勝手に場所が変わったんだ。身体が熱いし、息が苦しいし、足も頭もフラフラする。ホントに変な夢。でも、抱き締めてたサメのぬいぐるみがフワフワなのは、夢でもちゃんと判った。
「ねぇ、ちょっとそこ退いて」
声が聞こえて顔を上げたら、お姫様が立ってた。眼が青くて、髪が金色で、可愛い服を着たお姫様。嗚呼、良かった。じゃあ矢っ張りこれは夢なんだ。だって本当の世界にはこんな綺麗なお姫様は居ない。あんな優しい王子様も居ないんだから。
「ちょっと、私の話聞いてるの?」
「あ…ご、ごめんなさい…っ」
慌てて立ち上がると、お姫様は私が座っていたベンチに座った。その時お姫様もぬいぐるみを抱っこしてるのに気付いた。
「ジンベイザメ…」
「え?」
「あ、その、お姫様のぬいぐるみ…ジンベイザメだなって…思って……」
「お姫様?」
「っ!ご、ごめんなさい…っ!あの、お姉ちゃん、お姫様みたいに綺麗だから…、それで…その……」
どうしよう。思ってた事、そのまま云っちゃった。きっと、ダザ兄ちゃんにホントの事ばっかり云ってたせいだ。
「お姉ちゃん…、綺麗…」
でも、お姫様は不思議そうに丸く眼を見開いて、独り言みたいに呟いた。
「ねぇ貴女、ここに座って」
「え?」
「いいから早く」
急に隣をポンポン叩いてお姫様はそう云った。びっくりしたけど取り敢えず云われた通りに座ったら、お姫様は凄く嬉しいそうな顔で私に話しかけた。
「私、エリスって云うの。貴女、名前は?」
「え…、あの、ウスイスミレ」
「スミレね!私の事はエリスお姉ちゃんでいいわよ!さぁ、呼んでみて!」
「? エリス…お姉ちゃん?」
「〜〜〜っ!可愛い!」
「うわっ!?」
急に抱き締められて、私はどうしたらいいか判らなくなった。でもエリスお姉ちゃんは、そんなのお構いなしに私に頬擦りする。
「可愛いわスミレ!私、“お姉ちゃん”なんて呼ばれたの初めて!」
「そ…そう…?」
「ええ!あ、そうだわスミレ!貴女も私達と一緒に遊びましょう。貴女ならリンタロウも善いって云う筈よ!」
「リン…タロウ?エリスお姉ちゃんのお友達?」
「え?…ん〜、そう云う訳じゃないけど…。でもリンタロウはロリコンだから、きっと貴女の事も大歓迎してくれるわ」
「ロリコン?」
「小さい女の子が好きな変態の事よ」
「ヘンタイ…?その人、変なの?」
「変に決まってるじゃない。だっていい歳した中年の癖に子供の女の子が好きなんて、おかしいでしょう?」
「っ!」
「エリス嬢!」
その時、後ろから男の人の声がした。振り向くとオレンジ色の髪をしたお兄ちゃんが、私達の方に走って来た。それを見て、エリスお姉ちゃんが嬉しそうに手を振る。
「あらチュウヤ。遅かったわね」
「急に姿を晦ませないで下さい。お陰で首領が涙目で狼狽され……」
チュウヤと呼ばれたお兄ちゃんは、私達の前で立ち止まると大きく眼を見開いた。その色は薄暗い水族館の中でも、青空みたいに綺麗だった。
****
やってしまった。
最近は大分改善されていたが、考えてみれば元々の彼女は論理的根拠が無い限り“他人から向けられる好意”と云うものを一切理解出来ない人間だった。其処へ突然ド直球の好意を叩き込まれたら、処理が追いつかず混乱するのも無理はないだろう。真っ赤な顔で甲高い奇声を上げながら走り去っていった小さな背中を思い描いて、私はガシガシと乱雑に頭を掻く。当然彼女が今何処に居るかは既に当たりを付けているが、あの後店員に捕まって事情聴取とぬいぐるみの支払いに時間を食ってしまったのは少々拙い。
何しろこの水族館は、展示用の魚以外にも色々と“善くないもの”を仕入れている。
此処へ足を踏み入れてすぐ、その事には気づいていた。とは云え直接此方に害があるものではないし、後で社に報告すれば良いだろうと素通りしてきたが、それはあくまで私が菫の傍に付いている事が大前提での判断だ。兎に角、面倒事に巻き込まれる前に早く彼女と合流を―――
「っ!?」
その時、大きな水槽の前に設られたベンチに、予想通り小さな影を見つけた。が、明らかに数が多い。私が探し求めていた愛くるしい影の他に、まるで西洋人形の様な幼女の影と、一目見ただけで気分の下がる小さい影。
「「っっ!!!?」」
「だ、ダザ兄ちゃ」
「エリスちゃぁぁああんん!!」
忌々しい青と目が合った瞬間、悲しいかな私達はほぼ同時に驚愕を露わにして息を詰める。そんな私を呼んでくれた愛らしい声は、しかし遥か遠方から飛んできた悲痛な中年男性の声に掻き消された。
「酷いよエリスちゃん!私の事置いて、一人で居なくなっちゃうなんて!」
「だってリンタロウ、私の写真ばっかり撮って魚の写真一枚も撮ってないんだもん!折角スイゾクカンに来たのに!」
「ご、ごめんよエリスちゃん…。でも、ほら見て!ちゃんと入口迄戻って魚の写真沢山撮って…ん?エリスちゃん。その子は?」
「嗚呼!この子はね、スミレって云うの!可愛いで」
―――ダッ!!
刹那。私の足は、己が持ち得る身体能力の全てを駆使して疾走した。擦れ違い様に金髪幼女の手から菫を掻っ攫い、其の儘振り向きもせず館内を駆け抜ける。背後に響く幼女の非難の声を突き放す様に速度を上げる私の足は、普段では考えられない程の俊敏性を発揮していた。まず間違いなく、明日は地獄の様な筋肉痛に見舞われるだろうが、今はそれどころじゃない。
最悪だ。考え得る限り最悪の事態だ。明らかに違法な品々を至る所に隠した水族館。其処に現れたお忍び姿のポートマフィア。となれば、恐らく彼等の目的は敵情視察。否、中也連れで森さん迄態々出てきていると云う事は、恐らく牽制の意味も含まれているのだろう。どうやら私が報告する迄もなく、この水族館は閉館に追いやられる事になりそうだ。そんな事を片隅で考えながら、メインの思考は現状の打開策を猛然と組み立てていた。これが敵情視察兼牽制なら、他にも人員を配置している可能性が高い。恐らくは幹部以下の、しかし腕の立つ構成員に別路を辿らせている筈。其処迄考え至った私は、荒れた呼吸器系を更に酷使して大きく息を吸った。
「芥川くーーーん!!!」
―――ガッ…、ドッ…、ドン…、ドン!!
「はいっっ!!」
階段沿いの吹き抜けを突っ切って、上の階から尋常ならざる気迫を迸らせた痩躯が飛び込んできた。うん。否、確かに来て欲しいから呼んだんだけど。何て云うか…。本当に来るとは…。
「ハッ!太宰さん!?何故此処に!?」
しかも無意識だったらしい。ほんの少しだけ、過去の指導内容に就いて反省した。しかしそんな事はすぐに思考の外に放り捨てて、私は抱えていた菫を芥川君に受け渡す。
「よく来てくれた芥川君!早速だけどこの子お願い!」
「はい?なっ…、太宰さん!?」
「事情は後で説明する!兎に角私が迎えに行く迄、この子を守り抜いてくれ!頼む芥川君!君だけが最後の希望なんだ!!」
「っっ!!!」
まるで稲妻に打たれた様なその硬直を以って彼の承諾を確信した私は、今にも泣き出してしまいそうな顔でサメのぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた少女に微笑みかける。
「ごめんね、ビックリしたよね。でも大丈夫。必ず迎えに行くから、このお兄ちゃんと一緒に少し待っててね」
「で、でも…」
その時、背後からカツン…カツン…と、鉄製の階段を踏み鳴らす音が聞こえた。私は最後に彼女の頭を一度撫でて、硬直している芥川君に声を上げた。
「行け!早く行くんだ!」
「は、はい!!」
私の号令を合図に、芥川君は下の階へと一気に降下した。多少不安は残るが、流石の彼も幼児化した菫相手に斬りかかる事はないだろう。それよりも、今最優先に対処すべきなのは―――
「だぁ〜ざぁ〜いぃ〜くぅ〜〜ん……」
まるで墓の底から昇って来た様な不気味な声が私を呼んだ。鼓膜を揺するその悍ましさにやむなく振り向くと、背筋が凍りつく程に穏やかな笑みが私を出迎える。
「酷いじゃないか。急に逃げ出すだなんて。せめて挨拶くらいはしてくれても善かったんじゃないかい?」
「森さん…っ」
「まぁ、だがいい…。今はそれよりも先に、君に云うべき事がある」
その言葉に身構えた私に両手を広げた森さんは、まるで我が子を誇る父親の様な顔で微笑んだ。
「ようこそ。
最後迄聞くに耐えなくて食い気味に切り捨てるも、森さんは何処迄も嬉しそうに一歩また一歩と此方へ近づいて来る。
「そう隠す事は無い。私と君の仲じゃないか」
「そうですね。過去の犯罪歴と共にその悪縁も抹消しておくべきだったと、今心から後悔しています」
「安心し給え太宰君。確かに私の守備範囲は十二歳以下だが、未来ある花の蕾迄手折る無粋な幼女愛好者ではないよ。見た所あの子は四歳三ヶ月二十一日目。最も美しく咲き誇る四、五年後迄は、大切に慈しみを込めて見守っていくとも」
「抑々ウチの子はどの時分を切り取っても常時最高に愛くるしいですが、それを差し引いても一切不要なお心遣いです。早急にお引き取り下さい」
「そうはいかない。君も見ただろう?あの素晴らしい光景を…」
不意に森さんが足を止めた事により、一瞬の隙が生まれた。だが、“今なら逃げられる”と判断を下した脳とは裏腹に、私の足はその場に縫い付けられた様に動かなくなった。何故なら、目の前に佇むその影から臓腑まで震える様な得体の知れない何かを感じたからだ。
「エリスちゃんより年下の、しかも同じ髪型の幼女…。そんな二人が仲睦まじく寄り添い合っていたら…
―――エリスちゃんが幼女なのにお姉さんっぽく見えて、最っっっ高じゃないか!!!!」
(―――駄目だこいつ…早くなんとかしないと……)
身の毛もよだつ最低最悪なロリコン発言に私の中で何かのスイッチが入ったその時、覚えのある殺気を捉えて私は咄嗟に頭を下げた。それとほぼ入れ違いに、私の頭上を黒い物体が薙ぎ払う。射程圏内から即座に転がり出て距離を取ると案の定、其処には忌々しい短身が此方を睨みつけていた。
「やぁ、随分可愛らい武器じゃないか。とっても似合ってるよ中也」
「煩ぇ。手前、誰に向かって殺気飛ばしやがる。鯖の水槽に沈めんぞ糞太宰」
真横から襲い掛かって来たのは、大きなシャチのぬいぐるみを担いだ中也だ。何故そんなものを振り回して居るのかに就いては一切興味無いが、相変わらずの首領至上主義に本心から落胆の溜息が漏れる。
「君にはほとほと呆れたよ中也。あの子が誰か判っていて、それでも君は森さんに味方すると云うのかい?」
「下らねぇ事聞いてんじゃねぇよ。何時如何なる時だろうと、ポートマフィアの人間にとって首領の命令は絶対、だっ!」
再度跳躍した中也は私に向かって鋭い蹴りを繰り出した。それを躱した所で間髪入れずに例のぬいぐるみを振り下ろされ、私はあえなく床に叩きつけられる。彼の攻撃は間合いも呼吸も把握しているが、本気で繰り出される攻撃となると此方の反射速度が追い付かない。鈍い痛みに歯を食い縛り立ち上がろうとするも、其れより先に柔らかい何かが私の首に巻き付いた。ぬいぐるみの尻尾の所を私の首に掛けた中也が、締め上げる様に私を無理矢理立たせる。
「(おい…、其の儘聞け糞鯖)」
「!?」
ファンシーなぬいぐるみをまるで暗器の様に扱う戦闘狂は、私を締め上げつつも耳元で小さく言葉を紡いだ。
「(今から手前が躱せる程度に加減してやるから、出来るだけこの場を長引かせろ。そうすりゃあ、騒ぎを聞きつけて警備員が飛んで来る。流石の首領も、そんな状況で個人的な趣味には走らねぇ筈だ…)」
「(中也…、君は…)」
「(勘違いすんなよ。エリス嬢だけなら兎も角、堅気の、しかもあんな小せぇガキに手ぇ出したとなりゃあ首領の評判にも関わってくる。幹部として、見過ごす訳にはいかねぇ。それだけだ)」
「(……。ふふ、そうかい。なら、そう云う事にしておいてあげよう。―――信じるよ、相棒)」
「(チッ。気色悪い事云ってんじゃねぇ…、よっ)」
そして私達は互いに弾かれた様に距離を取り、再び互いに向かって走る。先刻同様、攻撃の手数は明らかに中也の方が多い。だが、此方の反応速度を超えた攻撃は一撃も無い。と云っても、躱せるギリギリの速さで打ち込まれているので、ちょっとでも気を抜けばそれなりの一撃を食らう事になるが。あの森さんを欺く以上、これくらいのリアリティは必要だろう。
「おらおらどうした!躱してばっかじゃ、勝てねぇぞ!」
「あ、そう。なら遠慮な、くっ!」
確かに回避しているばかりでは怪しまれるかもしれないと、挑発に乗った流れで私は拳を振り被り、中也の顔面に向かって打った。固く握った拳が中也の顔にめり込む。
―――が、
「―――へ?ぐふぁ!?」
そう認識した瞬間、大経口の弾丸に撃ち抜かれた様な衝撃が私の顔面に直撃した。首が引き千切れるんじゃないかと思う程の勢いで後方に吹っ飛ばされた私は、背後の壁に叩きつけられ漸く止まる。突然の事に満足な呼吸も儘ならず、反射的に打撃の打ち込まれた個所を手で押さえる。そんな私が歪む視界の中漸く視認したのは、自分が仕出かした事をたった今認識したかの様な惚け面で拳を握るミニチュアゴリラの姿だった。
「あ、悪ぃ。何か手前に殴られたら、身体が勝手に…」
「もう本っっっ当に君、大っ嫌い!!!!」
****
『―――で、其の儘普通の喧嘩になったと』
「厭だなぁ乱歩さん。極真っ当な文明人である私が、思考回路迄筋肉で出来てる野蛮人と同じ土俵に立つ訳が無いじゃありませんか。常識ある大人として、実に理性的に、紳士的に、“君が先日購入した自宅用ワインセラーの設定温度を二十度引き上げるぞ”と提案して大人しく引き下がって貰いました」
『お前はお前で的確に陰湿だな』
「はは、せめて狡猾と云って欲しいですね。…まぁ、その後森さんを引かせるのにちょっと手間が掛りましたが、私達の論戦に飽きたエリスちゃんがケーキ屋に行きたいと騒いでくれたお陰で、何とか事なきを得ましたよ」
『それで、菫は無事だったんだろうな?預けたお前の元部下、彼奴の事かなり嫌ってた奴だろう?』
矢張りこの人も、何だかんだで菫が心配なのだろう。少しだけ真剣味を増したその声に、しかし私はつい数十分前に見た光景を思い返し、吹き出すのを堪えながら答えた。
「否、それがですねぇ…。芥川君ったら小さくなった菫を私の隠し子か何かと誤解していた様で、妹の銀ちゃんと一緒に随分丁重に持て成してくれてたみたいです。正直、菫が芥川君を怖がって泣き出すんじゃないかと心配しましたが、普通に仲良くしてくれてて安心しました。まぁ、その後事情を知った芥川君が意識を飛ばして卒倒しましたけど」
『……はぁ。無事に切り抜けられたんならいいや。じゃあ、菫とは合流出来たんだな?』
「ええ。今は私の隣でぐっすり眠っています。流石に疲れたんでしょう。今日一日で色んな事がありましたから…」
そう電話口に返しつつ、私は自分の膝を枕に寝息を立てる小さな恋人の頭を軽く撫でる。例の水族館を後にしてすぐ眠そうに眼を擦り出した彼女は、近くの公園のベンチに座った途端電池が切れた様に寝こけてしまったのだ。毛布代わりに掛けてやった私の外套に包まるその寝顔は余りにもあどけなくて、けれど案外元の寝顔と大差が無い事に思わず笑みが漏れた。
「それで。乱歩さんから連絡を下さったって事は、例の異能力者との面会はもう?」
『嗚呼、箕浦君達が急いでくれたお陰でな。だからお前も、何時迄も遊んでないで早く戻って来いよ』
「いやぁ、そうしたいのは山々なんですけど、先刻云った通り菫は今お昼寝中でして。無理に起こすのも可哀想ですし、後もう少しだけ待ってて貰えませんか?」
『……おい、太宰』
「大丈夫ですよ。眼が覚めたらすぐに向かいますから」
『お前、
小さな頭を撫でていた手が止まる。一瞬で消えた表情を一秒の間も無く貼り直して、私は笑い混じりの声で電話口に答えた。
「何故、そんな事を?」
しかし電話越しの名探偵はその問いに答えず、先刻よりも硬い声音で更に問いを重ねる。
『彼奴がその姿になった時さ、最初に何て云ったと思う?』
「……さぁ?普通だったら“此処は何処?”とか、“お父さんとお母さんは?”とかでしょうけど、何しろ菫ですからねぇ。“どうしてこうなった”とかで」
『“ごめんなさい”』
「……………」
『“ごめんなさい”だ。理由を聞いたら、“勝手に知らない所に居たから”だってさ。挙句、“お仕事の邪魔になっちゃうから、お父さんとお母さんには云わないで”って云い出すんだもん。
…ホント、まだ四歳の癖にそうなんだから、そりゃあんな面倒事臭い大人になるよ』
伸びでもしているのだろう。詰まった様な声は、しかし緩んだ後もまだ硬い。其処にはほんの僅かに、隠しきれない憤りの様なものが滲んでいた。
「……菫を元に戻したく無いのは、貴方の方なんじゃないですか。乱歩さん」
『馬鹿云うな。僕はただ気に入らないだけだ。あんな判り易い違和感に、彼奴の周りの誰も彼もが気づかなかった。……否、気づいたとしてもそれを軽んじた。多分一番近くに居た両親でさえ、真面に取り合ってやらなかったんだろう…』
「………」
『でもだからって、此の儘で善いなんて僕は思わない。心底気に入らないけど、そう云う経験をして此処迄生きてきたのが、僕の知っている臼井菫だ。
―――お前だってそうだろう』
硬かった声が、ほんの一瞬和らいだ気がした。そして乱歩さんは、それ迄の会話が嘘の様に何時もの調子で明るく傍若無人に云い放つ。
『まぁ、そう云う事だから、寄り道しないでさっさと戻って来いよー。どうせ逃げたって、僕が居る限り見つけ出されてお終いなんだからさ。じゃあ、またねー!』
云うだけ云って、乱歩さんは一方的に電話を切った。まるで嵐が去った様に静かになった夕暮れ時の公園で、その静寂を飲み込んだ私の口から力ない苦笑が漏れる。
「……嗚呼全く…。本当にあの人には敵わないな…」
その時、膝の上にあった頭がもぞりと動いた。見ると、安らかな寝息を立てていた幼子がぽやんとした顔で私の方を見上げていた。
「やぁ、お早う菫ちゃん。よく眠れたかい?」
「………」
「……?菫ちゃん?」
私の言葉に答える代わりに、起き上がった菫は何かを確かめる様私の顔をペタペタと触り出した。寝ぼけているのだろうかと内心首を捻っていると、不意に目の前の眠惚けまなこがやんわりと弧を描いた。
「善かった…。ダザ兄ちゃん…、まだ居た…」
「……っ…」
短い腕が私の首元に巻き付いて、狭い額が頬を擦る。無意識に抱き返して居た身体は酷く柔らかくて、余りに小さかった。
「……菫ちゃん」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「うん!すっごく楽しかった!ラン兄ちゃんとお菓子食べて、ダザ兄ちゃんと水族館行って、あー君とギン姉ちゃんとペンギンショー見て、こんな楽しかったの初めて!」
初めて会った時、眼も合わせてくれなかった彼女は、今満面の笑顔で今日を“楽しかった”と語る。その笑顔は矢張り、私のよく知る恋人のそれで。けれどそのよく知る笑顔で彼女が笑う事は、きっとこの世界に迷い込む迄そう多くは無かったのだろう。
今日一日、彼女と一緒に居て改めて理解した。
この子は熟く、生きるのが下手だ。人間社会に向いて居ない。乱歩さんの云う通り、こんなにも幼い時分からあの調子では、他人との関わりを恐怖し拒絶するのも当然だろう。何より質が悪いのは、これは他人からの悪意や暴力によってではなく、誰もが信じて疑わない“普通”と云う基準の元に起きた悲劇だと云う事だ。
きっと彼女が怯えるそれらは、“普通”なら大した事は無いものだったのだろう。だから、涙するに値しないそれらに泣き噦る彼女を、誰も理解出来なかった。そしてそれは、どうしようもない事だ。“普通”を基準として回る社会に適応しきれなかったのは、彼女の方だったのだから。物差しの基準値からはみ出した者を、社会は何時だって無自覚な儘置き去りにする。だが、それでも彼女は其処に居続けようとしてしまったのだろう。“普通”と云う物差しからはみ出したものを切り落とし、その痛みに泣き叫びそうなる自分を作り笑いの下に押し込めて、あんな純粋で歪な願いを抱く様になる迄、ずっと―――
「ねぇ菫ちゃん…」
「なぁに?」
私がこの異能を解かなければ、この先に確約された痛みと恐怖から、この無垢な少女を守ってやれる。あんな痛ましい大人の成り損ないになってしまう前に。孤独を希う独りぼっちの幽霊に成り果ててしまう前に。引っ込み思案で、泣き虫で、ちょっと変わった、ただの女の子の儘生きられるチャンスを、彼女に与えてやる事が出来る。
けれど、
それでも、私は―――
「早く、大人になってね…」
それでも私は、君に君の儘で居て欲しい。
喩えそれがズタズタに引き裂かれ、叩き割られ、砕け散った後に残った残骸だとしても。死ぬ事すら選べない地獄の中で藻掻き、のた打ち、泣き方すら忘れた成れの果てだったとしても。あの暗闇の海で私の手を取ってくれたのは紛れもなく、そうやって生きてきた君なのだから。
「……私、大人になって…いいの?」
「え…?」
予期せぬ返答を受けて、私は思わず疑問符を上げる。だが、私が注釈を求めるよりも先に、彼女は申し訳無さそうに肩を落として続きを紡いだ。
「だってダザ兄ちゃん、“ロリコン”なんでしょ…?」
「違うよ!!?」
反射的に彼女の肩を掴んだ私は、全身全霊本気の否定を表明した。そんな私に、面食らった様な顔で彼女は僅かに首を傾げる。
「でもエリスお姉ちゃんが、大人なのに小さい女の子が好きな人は“ロリコン”って云うんだって…」
「否、違うから!私は別に君が幼女だから好きな訳じゃないし!何ならお婆ちゃんになっても全然好きな自信があるし!抑々私が君を好きなのは……っ―――」
「ダザ兄ちゃん?」
其処迄云って、言葉が途切れた。咄嗟に出掛かった言葉を一度飲み込んで、理解して、私は改めてそのどうしようもない事実を口にした。
「私が君を好きなのは、
君が私に、“大丈夫”だと云ってくれたからだよ」
勢いで掴んでしまった狭い肩に、私はあの時の様に額を預ける。鼻腔を満たすその匂いは矢張り甘くて、でも何となく何時もより幼い匂いがした。
「ねぇ、菫ちゃん。君はきっとこれから、沢山痛い思いをする。沢山泣くし、怖い思いも沢山する。でもね。そうやって大きくなった君は、誰よりも優しい大人になる」
「優しい…大人…?」
「そう。無責任に人の孤独を踏み荒らして、根拠も無く“大丈夫”だなんて頭を撫でて。どんなに酷い眼に遭っても…“大好きだよ”なんて笑って、この手を離さずに居てくれる。そんな、呆れるくらい優しい大人だ」
そうだ。些細な事で簡単に傷つくからこそ、彼女は人より多くの痛みを知っている。理解されない痛みを。理解出来ない痛みを。救われない痛みを。それらを吐き出す事すら出来ない痛みを、彼女は知っている。だから彼女は、あんなにも優しいのだ。呆れる程に、痛々しい程に、優し過ぎる程に優しいのだ。
それこそ、生まれながらに人間の道理を外れた人でなしですら―――恋に落ちてしまう程に。
「約束するよ。君に刻まれた痛みも、傷も、全部忘れるくらい振り回してあげる。君が忘れてしまったものをひとつ残らず拾い上げて、一から教え込んであげる。自分に絶望する暇なんて無いくらい、誰よりも何よりも、呆れるくらい君を一番に愛してあげる。だから、
早く大人になって私に逢いに来て。菫」
顔を上げた先にあった柔い頬は、まるで夕焼けを閉じ込めた様に真っ赤になっていた。理解が追いつかないと云わんばかりに揺れ動く丸い瞳に、思わず苦笑が漏れる。何時の間にか互いの顔しか見えないくらいに近づいていた距離を広げて、私は湯気でも登り出しそうな小さい頭を撫でる。
「ごめんね。矢っ張り今の君にはちょっと早かったね」
「あ、あの…っ!」
震える手が私の袖を掴む。けれどそれは、恐怖からでも、不安からでもなく、己を奮い立たせようとする様な力強いものだった。
「ダザ兄ちゃんの話、矢っ張りよく判んない…っ!判んないけど…、でも、ダザ兄ちゃんが好きになってくれる様な大人になれるなら…、私、頑張って早く大人になるから。だから、また私の夢に出て来てね!」
拙く未熟な言葉。けれど、私を映す宝石の様な瞳が余りに真っ直ぐで。何時もなら口付けで応えるだろうその衝動を、ただ抱き上げるだけに留めた私は、自分より少し高い目線に居る幼い少女に微笑んだ。
「勿論。その時は、今度こそ帰してあげないんだから」
善人の皮を被った悪い大人にそう告げられた子供は、それを知ってか知らずか、けれど嬉しそうに照れ臭そうに笑っていた。
****
一枚、また一枚と写真の束を繰っていると、不意に其処へ薄い影が落ちる。顔を上げると、ラムネを携えた名探偵が何とも暇そうな顔で、私の手元を覗き込んでいた。
「またそれ見てるの?飽きないねぇお前も」
「いやぁ、何て云うか…中々に興味深くて」
長方形の画角に収められているのは、可愛らしいワンピースを着たツインテールの幼女。実に見慣れたその顔は、しかし初めて見る表情に彩られていた。物陰に隠れる恥ずかしそうな顔、巨大な水槽に張り付いて眼を輝かせる顔、マスコットキャラクターと握手しながら嬉しそうにはにかむ顔。それはまさしく、年相応の子供が見せる表情だった。
「正直驚きました。私ってこんな顔出来たんですね」
「どんな感想だ」
「否だって、ホント酷かったんですよ?私の幼少期の写真。眼ぇ瞑って口を“いー”ってしてる顔ばっかで。“あれ?此奴表情一択しかないのかな?”って我ながら空笑いを禁じ得ませんでしたもん」
だが今手元にある写真に、そんな表情は一つとして無かった。単にカメラマンの腕が善かったのか、将又別の理由か。ただ、本当の幼少期を収めた写真が、もし最初からこんな絵ばかりだったなら、私の写真に対する苦手意識も少しは緩和されていたかもしれない。
「……惜しい事したって、思ってるか?」
私の机に腰掛けていた名探偵が、コロリとラムネのビー玉を揺らしながら問うた。僅かに姿を表した翡翠を見上げながら、私は肩を竦めて苦笑する。
「はは、まさか。折角此処迄必死こいてステージクリアして来たのに、セーブデータ全消しされたら堪りませんって。おまけに、十六年も禁酒しなきゃいけないなんて普通に拷問ですよ」
「……。はぁ…、あーはいはい。お前はそう云う奴だったな」
呆れた様に深く溜息を吐いた乱歩さんは、そう云って残りのラムネを一気に飲み干した。それでも受けた気遣いが嬉しくてニヤついていると、その空気を掻き消そうとする様に乱歩さんが「そう云えばさ」と声を上げる。
「何でホオジロザメだったんだ?」
「はい?」
「だってお前、結局は猫とか犬とかの方が好きだったんだろ?なのに何で太宰に願い事を聞かれた時、“ホオジロザメに会ってみたい”なんて云ったんだよ」
「あー…、否、残念ですが私、その時の事覚えてないので……」
「でも見当はついてるんだろ?」
「……笑いません?」
「面白かったら笑ってやる」
そう云いつつもバッチリ聞く体制を取る乱歩さんに、私は観念して気恥ずかしさに頬を掻きながら口を開く。
「えっと…、保育園でよく読んでた図鑑にね、書いてあったんですよ。ホオジロザメは“人喰い鮫”なんて呼ばれてるけど、本当は普段食べてるアシカとかと間違って偶に人間を襲っちゃうだけだって。でも“危険だ”ってイメージが強過ぎて、人間に怖がられて、嫌われて、数を減らされちゃったんだって…。
しかも其処に、泣いてるホオジロザメのイラスト迄添えられてるんですもんですから、子供ながらに思う所がありましてね…。だから多分、“君の事を好きな人間も此処にいるよ”って云いたかったんじゃないかな…って……」
幼少期の絵空事とは云え、その余りのファンシーさに耐えられなくなった私は思わず眼を覆う。正直自分が鮫にハマっていた事なんて、今回の件を聞かされる迄すっかり忘れていた。無論その頃に詰め込んだ鮫の知識も、今は殆ど覚えていない。あんなもの、所詮は子供の一時的なマイブームだ。
ただそれでも、
幼児向けにデフォルメされた鮫の絵と一緒になって泣いたあの時の感覚だけは、二十年後の今も何故かすんなりと思い出せた。
「……三子の魂なんとかって云うけど…。お前って本当に筋金入りの物好きだったんだな…」
「ちょっと乱歩さん、それどう云う意味ですか?」
「あっはっは!そんなに怒ってたら頭が火山になっちゃうよ国木ぃ〜田君!」
「喧しい!今日と云う今日は許さんぞこの唐変木が!」
その時、ドタバタと騒がしい音を立てて、それ以上の喧騒が事務所内に雪崩れ込んで来た。ヘラヘラと笑う太宰とガミガミ怒る国木田君。そんな武装探偵社の日常風景を指差して、乱歩さんが私に尋ねる。
「説明要る?」
「いえ。寧ろ何も云わないで下さい」
「ああん!助けて菫、国木田君が虐める〜」
「はいはい。今日は一体何しでかしたんだ太宰君?」
「おい菫!その阿呆を甘やかすなと何度云えば―――」
そうして何時もの様にその日常風景の中に加わっていく私を、頬杖を着いた名探偵が見送る。空になったラムネの瓶を置いたその手が、卓上に置かれた写真を一枚拾い上げ、目の前の風景に重ねる様に翳した。其処に写っていたのは、鮫のぬいぐるみを両手で抱えて満面の笑顔を浮かべる幼い子供。
「何だ、矢っ張り何時もと大差ないじゃないか」
騒がしい日常の中で同じ顔をして笑う後輩を眺めながら、誰にともなくそう独り言ちて
―――名探偵は小さく微笑んだ。