hello solitary hand・番外編
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自分の生まれた日。誕生日。
一般社会において基本的に祝い事として位置づけられるその日は、人によっては死した後も記念日に昇華され、知人他人問わず世界中の人間から祝福され続ける。問答無用、文句なしの祝日。
と云っても、当の本人がその日をどう思うかについては、実は各々ばらつきが在ったりする。普通に喜ぶ人も居れば、逆に厄日だと云ってテンションを下げる人も居る。まぁ、後者が圧倒的少数派のレアケースである事は云う迄も無いが、比率はどうあれ誕生日には賛成派と反対派が確実に存在するのだ。
―――“では、お前は如何なのか?”
仮にそう問われたとしたら、私は秒で賛成派の札を上げる事だろう。捻りもへったくれも無くて大変申し訳ないが、私には自分の誕生日を忌み嫌う理由が存在しないのだ。
自分の為に用意されたご馳走と贈り物。バースデーソングと共に現れる、自分を祝福する文言が飾られたホールケーキ。その蝋燭を吹き消す、たったそれだけの事で湧き上がる拍手喝采と賛美。そして、誰もが口々に告げる“誕生日おめでとう”の言葉。
その祝辞は私にとって、一日限りの魔法だった。
社会一般に於ける問答無用、文句なしの、自分が主役の祝日。
その日だけは、誰もが無条件で私が存在する事を肯定してくれる。大した関りの無い誰かさん迄もが、まるで挨拶の様に“おめでとう”と云ってくれる。自分が此処に生きて居る事を、―――許してくれる。
私にとって自分の誕生日とは、年に一度だけ訪れる
「―――その筈だったんだけどなぁ…」
声帯を申し訳程度に震わせて吐いた独り言は、すぐ其処に在る天井に届きもせず黒に溶ける。今のでまた無駄に酸素を消費してしまっただろうか。息苦しさがそろそろ脳味噌に迄影響を出してきた。此の儘判断力が職務放棄して、無駄に大声で歌い出さないと善いなぁ。とか考えている時点で、既に自分の思考能力が虫の息である事を悟った。
「………」
ふと顔を横に向けてみるが、相変わらず其処に在るのは暗闇だけ。最後に光を眼にしてからどれくらい経っただろう。何も見えない暗闇で、聞こえるのは自分から発生する音のみと云いうこの状況では、流石に正確な時間経過は判らない。あー、でもウチの天才二大巨頭ならこの状況でも正確な時間とか云い当てそうだなぁ。あと国木田君も此の手の難題には強そう。なんか体内時計とか超正確そうだし、「今は何時何分何十秒に決まって居るだろう」とか秒単位で看破しちゃうかもしれない。完全に偏見だけど。
「はは…」
今の思案は果たして余裕と呼ぶべきか、それとも思考放棄と呼ぶべきか。だが
「嗚呼全く…、どうしてこうなった……」
性懲りもなくまた残存酸素の無駄遣いをしてしまった私は、再び目を閉じて今日の出来事を順に思い返す。途中から“まるで能動的に走馬灯でも見てるみたいだ”と笑いそうになったけれど、三度目は流石に声にせず口元だけを吊り上げて、私は穏やかな数時間前の出来事を思い返した。
****
「おや?」
同僚に頼まれた買い出しを終え、帰り付いた煉瓦造りの
「こんにちはポオ氏」
「っ―――!?あ…、嗚呼、菫君であるか…」
「脅かしてしまってすみません。カール君もこんにちは」
「キュー」
声を掛けられた長身の男性。基、乱歩さんのご友人たるポオ氏はビクリと更に身を縮めたものの、相手が私だと判ると安心した様に深く息を吐いた。
「今日はウチに…、って云うか乱歩さんに御用ですよね」
「うむ。新しい推理小説が書き上がったので、持ってきたのである」
「嗚呼それはいい。今日は乱歩さん、依頼が無くて暇してましたから、きっと喜びますよ」
「本当であるか!」
「ええ。大したお構いは出来ませんが、どうぞゆっくりしていって下さい」
私はポオ氏を中に案内し、共にエレベーターで四階へと向かった。先刻ポオ氏にも云ったが、今日の名探偵は依頼も無く暇を持て余している。突発的な事件でも舞い込まない限りは、友人との遊興に耽って居ても問題ないだろう。そんな事を考えている間に昇降機は四階に到着し、私は“武装探偵社”の表札が掲げられた扉に手を掛けた。
「ただいま~。乱歩さん、お客様です…よ…」
扉を開け放ち帰還を告げた私は、眼前に広がる光景に絶句した。其処には、見慣れた仕事場の風景と見慣れた同僚達の姿があった。唯一何時もと違ったのは、その同僚の一人が床の上に
「国木田君!?」
「こ、これは一体…っ」
「フッ…。矢張り名探偵と云うのは、ただ其処に居るだけで事件を引き寄せてしまうのか…。“悲しき
「乱歩さん!?」
床に広がる黒い水溜まりと無惨に転がったマグカップ。力無く倒れ伏した国木田君。その惨状を見下ろし悲歎を零す名探偵。おいおい何だこれは。まさか名探偵を極め過ぎてウチの乱歩さんも某江戸川さんの様に、ただ其処に居るだけで殺人事件を呼び寄せる“死神スキル”を獲得しちゃったのか!?
「あ、お帰り菫~。買い出しお疲れ様~」
その時、事務室の奥から飄々とした声が私を呼んだ。声の方へ眼をやると、黒い蓬髪の美丈夫がエプロン姿で此方に駆け寄って来た。―――異臭を放つ黒い液体が揺らめく容器片手に。
「あー、死神のノートの方だったか…」
「え?何が?」
「何でもない。所で太宰君。一応聞くけど、君国木田君に何したん?」
「何って…。国木田君が『偶には人様の役に立つ事をしろ』って云うから、日頃の感謝を込めて珈琲を淹れてあげただけだよ?ただ、普通にインスタント珈琲を淹れても芸が無いから、私流に色々と改良してみたんだ。名付けて“覚醒珈琲”!一口飲むだけで三日三晩寝ずに働ける究極の」
「太宰君。君の創作料理は劇物九割、鈍器一割なの早く自覚しような?」
「え~。でも菫、“料理で一番大事なのは愛情だ”って云ってたじゃない」
「君の場合、その愛情に漏れなくデスソース味の悪戯心が付加されてんだろうが」
「あの…、取り敢えず彼を医者に見せた方が善いのでは…?」
おろおろと様子を見ていたポオ氏に至極真っ当な意見を提示され、国木田君は賢治君によって晶子ちゃんの許へと搬送された。普段鉄板でも入っているのではと疑う様な彼の背筋は、液状化した猫レベルにぐにゃんぐにゃんになっていた。うん。ドンマイ国木田君。
「あ、でもどうしましょう。軍警に依頼されていた案件について、僕と国木田さんでこれから情報屋に話を聞きに行く事になってたンですけど…」
「ぎゃああああああ!!」
思い出したようにそう云い掛けた谷崎君の声は、悲痛な断末魔によって掻き消された。意図せずその場に居た全員が扉の向こうに眼を向ける。私達はもうある程度耐性が付いているが、初心者のポオ氏は蒼白い顔を更に真っ青にしてカール君と抱き合い震えていた。
「今からは無理だね…」
「ですよね…」
「しゃあない。じゃあ代わりに私が着いて行こう」
「え、いいンですか?菫さん、今帰ってきたばかりでしょう?」
「いいのいいの。今日は私も暇してたし。あ、そうだ乱歩さん。ポオ氏が新作の推理小説持ってきてくれたそうですよ」
「わぁい!どれどれ見せて!もう今日は退屈で退屈で死にそうだったんだよ!」
そう云うや否や、乱歩さんはウキウキとポオ氏を接客用のソファーに案内した。それを見届けた私はナオミちゃんにハンドサインでお茶二つをお願いすると、買い物袋を置こうと自席に向かった。が、直ぐ背中に重量が加算され、私の歩みはたった一歩で止まった。
「ねぇ菫、また行っちゃうの〜?」
「元はと云えば君が蒔いた種だろう?こっちは私が請け負うから、君は大人しく仕事しててくれ」
「ん〜、菫がご褒美くれるなら考えてあげても善いよ?」
「云いつけ守れたら考えてやるよ。ほら、手始めにコレ仕舞っといて。行こう谷崎君」
「はい」
臆面もなくそう宣い、態とらしく尖らせた唇を寄せてくる太宰を手の平でガードし、深く溜息を吐いた私は代わりに買い物袋を押し付けて踵を返した。その後を谷崎君が駆け足気味に着いてくる。
「じゃあ行ってきまーす。あ、ポオ氏。なんか忙しなくてすみません。どうぞ気にせず寛いでいって下さいね」
「うむ。いってらっしゃいである」
「二人共、気をつけてねー」
「おう」
「はい」
太宰の言葉に手を振って応えた私は、扉を開けて廊下に出た。だから後ろの谷崎君が扉を潜る直前、太宰達と目配せした事など微塵も気づく事は無かったのだ。
****
「却説皆、もう善いよ」
エレベーターが閉まる音を確認した私は、軽く手を叩いて許可を出した。すると、自席で様子を伺っていた敦君達が、机の下に隠しておいた色紙や風船を再び卓上に広げていく。それを見て、乱歩さんのお客人はキョトンと首を傾げた。
「む?あの…、あれは一体…」
「嗚呼、あれはですね」
「待った太宰。折角だポオ君。偶には君が謎を解いてご覧よ」
「!そ、それは…、乱歩君からの挑戦と云う事であるか!?」
「嗚呼、そうだとも。まぁこの程度の謎、君なら一分足らずで解けると思うけどね」
珍しく翡翠の瞳を覗かせて不敵に笑う乱歩さんに、お客人は隈の滲んだ眼を黒髪の奥で輝かせる。だがその光は次の瞬間には瞼の裏に隠れ、一眼で見て取れた歓喜が嘘の様に静まった。軈て彼は乱歩さんの云う通り、一分足らずで眼を開き解答を紡いだ。
「彼等が取り出した紙製の輪飾や造花、風船の類は、パーティーで部屋を飾る為のもの。量や完成度合いから考えて、恐らく使用予定日は明日。場所はこの探偵社事務所。そして、菫君は先刻迄買い出しに行っていて、更に今別の社員と再び外出する事になった。これらが意図的に仕組まれた事であるならば、導き出される答えはただひとつ。
“明日は菫君の誕生日で、君達はそのサプライズパーティーの準備をしている”。
其処の少年が広げている垂れ幕の『誕』と云う文字が動かぬ証拠である!」
「正解!文句無しの百点満点をあげよう」
「いやはやお見事。流石は乱歩さんのお客人だ」
「え、えへへ…。それ程でも」
「まぁ僕ならこれくらい、一秒で解けちゃうけどね」
「ら、乱歩く〜ん…。あ、いやしかし、それで合点がいったである」
「何が?」
「先刻倒れていた社員である。幾ら何でも珈琲を振舞われただけで、人が泡を吹いて失神するなどおかしいと思っていたのである。危うくこの知の巨人が一杯食わされる所であった。彼もまた、菫君を外出させる為の仕掛け人だったのであるな!」
「あ。あれは本当だよ?」
「…………へ?」
長い静止の末疑問符を漏らしたお客人に、乱歩さんは私の方を見て言外に促した。それに応えて、私は持って居た珈琲のボトルを軽く掲げて微笑む。
「最初は体調不良と云う体で彼が一芝居打つ予定だったんですが、余りに演技がぎこちなかったので緊張を解そうと一服盛って…、淹れてあげたんですよ」
「……………」
まるで猟奇殺人鬼でも前にしたかの様な顔で、彼は再び連れのアライグマを抱き締めて静かに震え出す。そんな彼の肩を乱歩さんがポンと叩いた。
「気にするなポオ君。此奴はこう云う奴だ」
「あ。宜ければ貴方も飲みますか?」
「けけけ結構である!!」
****
「―――ハッ!」
「? どうしました菫さん?」
「否…、今何か同胞の悲鳴が聞えた様な気がして……」
「何ですかそれ」
その時ボーっと船の汽笛が海の向こうから鼓膜に届いた。港沿いの倉庫街。私達の様な人種がよく密談や取引に利用する場所だ。指定の倉庫に向かいながら、私は隣を歩く谷崎君に問うた。
「そう云えばさ、今更で悪いけど“軍警に依頼されていた案件”って、例の“市庁舎監視カメラ乗っ取り事件”の事でいいのかな?」
「はい。その通りです」
“市庁舎監視カメラ乗っ取り事件”とはその名の通り、正体不明の何者かによってヨコハマ市庁舎内に設置された監視カメラが乗っ取られていたと云う事件である。
事件発覚は一週間前。異変に気付いたのは最新鋭の人物識別システムを導入する為市庁舎を訪れた、某外資系警備会社のエンジニア御一行様だ。無論、監視カメラは常に二人以上の警備員が常時確認していたし、その間不審な映像が映り込む事は無かった。それこそ、平穏無事そのものだったと云う。だからこそ、誰もカメラの制御権が乗っ取られている事に気付かなかったのだ。もし件の警備会社が市庁舎を訪れなければ、この儘誰も気づかなかったかもしれない。その点についてのみ論じるなら、彼の課金セレブに礼の一つでも述べなければならない所だが。ともあれ現在我が武装探偵社には、下手人を確保し犯行の目的を突き止めて欲しいと軍警から依頼が入っていたのだ。
「しっかし、監視カメラの乗っ取りねぇ…。谷崎君はどう思う?」
「ん~…、普通なら窃盗、暗殺、脱獄の手引きなンかの為に一時的に映像を挿げ替えたと考える所ですけど…。場所が場所ですからねぇ」
「それな」
今回事件が発覚したのは“市庁舎”だ。金目のものが無い訳ではないが、窃盗ならコスパが悪い。暗殺に値する要人も居ないし、勿論どこぞの凶悪犯が拘留されている訳でもない。監視カメラ乗っ取りと云う結構難易度の高い下準備に対して、市庁舎は犯罪行為のターゲットにするには余りに中途半端なのだ。
「仮に市庁舎が管理してる個人情報なんかが欲しかったんなら、最初からそっちジャックすれば良いしなぁ…。ん~、判らん」
「今から会う情報屋に、何か有力な話を聞けるといいンですけどね…」
「その情報屋さん。ウチの常連さん?」
「いえ、実際に会うのは今日が初めてです。だから、今日は僕と国木田さん二人で行く事になってたンですよ」
「成程な。じゃあやっぱ、私が付いてきて正解だったね」
探偵業と情報屋は切っても切り離せない間柄だが、お互いに信頼関係が結べる迄は油断できない。特に新規さん相手の場合は何らかの罠である可能性もある為、出来るだけ攻守共にバランスの取れた二人組で出向く事になって居るのだ。まぁ谷崎君の細雪は隠密行動に特化しているから、有事の際でも離脱するだけなら問題ないと思うけれど。
「着きました。此処です」
そうこうしている内に、私達は倉庫街の外れにある一際小さな廃倉庫に辿り着いた。丁度人が通れるくらいに上がっていたシャッターを潜り、私達は中へと足を踏み入れる。まだ外は日が高いと云うのに寂れた倉庫内は薄暗く、上部に備え付けられた小窓から僅かに差し込む陽光の中をキラキラと埃が舞い遊んでいた。
「貴方がたが、武装探偵社の調査員さんですか」
声のした方を見ると、フードを目深に被った人影が放棄された積荷箱の陰から現れた。声と背格好から見て恐らく男性だろう。見定める様にその人影を注視していると、私の横をすり抜けて谷崎君が一歩前に進み出た。
「ええ、そうです。そう云う貴方は、連絡のあった情報屋で間違いありませンね?」
「いかにも。本日はご足労頂き感謝致します」
「“市庁舎監視カメラ乗っ取り事件”について、情報提供頂けるとの事でしたが…」
「はい。ですがその前に報酬を…」
催促するように差し出された情報屋の手は浅黒かった。まぁ、この街では外国人の情報屋も別段珍しくはないが、何となく情報屋の醸し出す雰囲気が引っ掛かった私は谷崎君に目配せをした。それを察してくれた谷崎君から報酬の入った封筒を受け取り、私は顔も見えない情報屋の前に進み出た。
「おや?そう云えば、今日いらっしゃるのは男性が二人と聞いていましたが…」
「申し訳ありません。もう一人は不慮の事故に巻き込まれてしまいまして。私は代理で参った者です」
「そうでしたか…。それは、お大事に…」
「有難う御座います。では、此方をどうぞ」
「……ええ、確かに」
封筒の中身を確認した情報屋は、私にA4サイズの茶封筒を差し出した。それを受け取り眼を通す。
「―――っ!?」
だがその資料を頭が認識していくにつれて、どんどん心音ばかりが大きく聞こえ出した。それこそ、私の肩に手を掛けた谷崎君の存在にすら気付かない程に。
「菫さん?…菫さん、どうしたンですか?」
「市庁舎じゃなかった…」
「え…」
「目的は市庁舎じゃなかったんだ…。犯人の目的は、
―――
―――バンッ!
その時、私の視界に赤い雫が飛び散った。私の隣に居た谷崎君が驚愕に眼を見開き膝を付く。
「谷崎君!!っ―――!?」
咄嗟に彼を受け止めようとしたが、その瞬間足の力が抜けた。否、足だけじゃない。体中の筋肉をごっそりと削り取らたかの様に力が入らない。結果谷崎君と共倒れする形で膝を付いた私は、足元に持っていた茶封筒の中身をぶちまけた。
「っ…、菫…さん…」
「嗚呼…矢張り、お前がウスイ・スミレか…」
痛みに顔を歪めた谷崎君が私の名を呼ぶと、情報屋は何か納得したように呟いてポケットに手を入れた。その途端、背後で耳障りな可動音が響き、私達が入って来た出入り口のシャッターが閉まり始めた。
「っ!谷崎君、掴まれ!!」
谷崎君が私の腹に腕を回してしがみ付いたのを確認して、私は無理矢理腕をこじ上げると前に伸ばした。バチン!と大きな拒絶音が響き、空気を拒絶した推進力で私達は一気に後方へかっ飛んだ。ギリギリでシャッターの隙間を掻い潜り廃倉庫の外に出た私達は、向かい側の倉庫に衝突して停止する。
「ぅ…、ごめん谷崎君…。無事か…?」
「ゲホっ、ゲホっ…。ええ、何とか…。菫さんは…?」
「身体の自由が利かん以外は大丈夫…。クソ、あの書類に何か塗られてたかね…」
「兎に角、早く此処を離れましょう…。ぐっ…!」
「谷崎君…っ」
見ると彼の手が押さえ付けているその下で、真っ赤な染みが腹部にジワジワと広がっていた。仮に臓器が傷付いて居なくとも、早く処置しなければ出血多量で手遅れになる。だがその時、再び鈍い稼働音が鳴ると、閉じていた廃倉庫のシャッターが開き出した。
「……谷崎君。君一人で逃げろ」
「なっ…!何云ってるンですか!?そんな事…」
「云っただろ。私は今腕一本上げるのでやっとだ。幾ら細雪で姿を消しても、その傷で人一人抱えて離脱するのはリスクがデカ過ぎる」
「だからって、菫さんの事置いて行ける筈ないでしょう!?」
「今は一秒も惜しいんだ!早く社の皆に知らせないと、手遅れになる!!」
珍しく眉を吊り上げて怒鳴る後輩君は、しかし私の声に事態の深刻さを察したのか、打って変わって慎重な声音で尋ねた。
「……どう云う、事ですか…」
「乗っ取られてたのは、市庁舎のカメラだけじゃなかったんだよ。誰も気づかなかっただけで、ヨコハマ中で同様の事件が繰り返されてた。その目的は“設置作業”だ」
「設置って…一体何を…」
私の脳裏に、つい先刻眼にした資料が蘇る。
最初の数頁は使い込まれた奇妙な表だ。
美術館、遊園地、赤レンガ倉庫、中華街、軍警や市警の本庁舎迄記載されたその表の一番下には、例の市庁舎の名が綴られていた。その隣には日付と数字の羅列。私もそれだけならば、この表が意味しているもの迄判らなかっただろう。けれど、その後に重なっていた写真を見て、―――私は理解した。
まるで実験記録か何かの様に、沢山の機材と、何らかの薬品が並ぶ薄暗い部屋の写真が何枚も続いていた。今迄何度か仕事で立ち入った事がある。その施設が何の為のものなのか、私は知って居た。
「犯人はヨコハマ中に爆弾を仕掛けてる。それも一つ二つじゃない…。少なくとも
「っ―――!?」
その時シャッターが止まり、乾いた足音が廃倉庫の中から徐々に此方へと近づいて来た。タイムリミットを察した私は、もう一度谷崎君に眼を向けて云い放つ。
「行け谷崎君!探偵社員としてするべきことをしろ!」
「っ!!」
錆び臭い闇の奥から、フードの男が顔を出した。だがその視界に映って居るのは、壁面を背にして力無く座り込んでいる女の姿だけだ。細雪で姿を消した谷崎君は、既に離脱した後なのだから。
「仲間を見捨てて逃げたか」
「単に役割分担しただけだ。アンタの相手は私一人で十分だからな」
「ほう、立ち上がれぬ身でよく吠える」
「取り敢えず確認しとくけど、これって致死性の毒だったりする?」
「否、ただの筋弛緩剤だ。即効性はあるが、致死量は塗布していない」
「はは、そりゃ助かる。だが、となるともう一つ疑問が出てきたな…」
私を行動不能にした忌々しい毒が塗布されていた資料。あまりにインパクトのある内容の所為で気付くのが遅れたが、冷静に考えればあれは情報収集で得られる領分を優に超えていた。相手が凄腕の情報屋であるならば或いは可能かも知れないが、この状況を鑑みるにあれは犯人自らが使用していた作戦書の一部と考えた方が自然だろう。つまり、この男は―――
「殺す心算が無いなら、今日此処に私達を呼び出した目的は何だい?
「目的…。ふふふ…、目的ねぇ…」
「……何?私そんな面白い事云った?それとも箸が転がっても笑えちゃうお年頃ってヤツかい?」
「目的は今達成された。それも、
「っ、ぁ…!」
不気味に笑むフードの男は、次の瞬間私の首元に何かを押し当てた。それと同時に毒とはまた違う痺れが全身を駆け巡る。恐らくスタンガンの類だろうと其処迄考えた辺りで、私の意識は今度こそ完全に闇の中に落ちた。
****
その日は何時も以上に平和な日だった。
危険な依頼も無く、大きな事件も無く、明日に迫ったサプライズパーティーに胸を弾ませながら、僕達はその準備に夢中になっていた。
その筈だったのに―――
「谷崎さん!!」
在らん限り張り上げた声が、錆びついた壁面に反響する。連絡を受けて駆け付けた場所に彼の姿は無かった。先刻迄点々と続いていた血痕も、此処でぱったりと途切れている。きっと敵に追跡されない様に異能で隠してるんだ。なら、必ずこの近くに居る。
「谷崎さん、何処ですか!谷崎さん!!」
「…ぁ…しく……」
「っ!谷崎さん!」
今にも消えてしまいそうな弱々しい声を拾って、僕は反射的に振り返った。すると、倉庫の影から真っ青な顔をした谷崎さんがフラフラと現れた。
「谷崎さん!しっかりして下さい谷崎さん!」
「ごめん…、僕は大丈夫…。それより早く菫さんを…」
「今、太宰さんと賢治君が一緒に探してくれてます。それより早く与謝野先生の所へ…」
「敦さん!谷崎さん!」
「賢治君!」
その時、手分けして谷崎さん達を探していた賢治君が此方へ駆け寄って来た。
「谷崎さん見つかったんですね。良かった」
「賢治君、菫さんの方は?」
「ダメです…。この辺一帯は探してみたんですけど、何処にも居ません…」
「賢治君…。僕達が襲撃されたあの廃倉庫は?彼処なら、何か手掛かりが残ってるかもしれない…」
「あ!其処は今太宰さんが調べてくれてます」
「……僕も行ってみる。もしかしたら、虎の力で匂いを追えるかも」
「判りました。谷崎さんは僕が社に連れて帰ります」
「二人共ごめん…。まさか、こんな事になるなんて…」
「謝らないで下さい谷崎さん。悪いのは二人を襲撃した犯人なんですから」
「そうですよ。さぁ、僕の背中にどうぞ」
「有難う賢治君。敦君、菫さんをお願い…」
「はい」
僕は噛み締める様に返事をすると、二人が襲撃された廃倉庫へ走った。何時も以上に心臓が煩くて、空気の通り抜ける喉が痛い。どうして。何で。そればかりが頭の中をぐるぐると渦巻く。つい一時間前に見た何時もの先輩の姿が、指の間からすり抜けてしまいそうで。そんな縁起でもない不安を振り払う様に、僕は更に速度を上げた。
「太宰さん!」
駆け込む様に足を踏み込んだ其処は、昼間だと云うのに何処か生気のない陰に満ちていた。埃っぽい空気が酷使した気管支に入り込み、危うく咳き込みそうになる。それを堪えて呼吸を整える僕を、暗がりに浸った砂色の背中が振り返った。
「敦君…。谷崎君は見つかったかい?」
「あ、はい…。だから、早く菫さんも見つけないと。虎の力を使えば匂いとか、人間じゃ見えないものとかが見えるかも」
「無理だよ敦君」
「…………え…」
それは確かに人の声だった。けれど、逆に云えばそれ以外の全ての要素が欠落した様な声だった。感情どころか、温度も、鼓動も、呼吸すら感じられない。そんな声だった。
「菫は既に連れ去られた後だ。それも、何か移動用の入れ物に押し込まれたらしい。君の異能でも今から追跡するのは不可能だよ」
「そんな…、だって菫さんは異能で他人に触れられないのに、どうやって」
「意識を失わせた状態でなら、そう難しい事じゃないよ。現に菫は、昔ゴミ箱に詰め込まれて拉致された実例もあるしね」
「ゴミ箱!?」
「兎も角、菫はもうこの場所には居ない。先刻現場の写真を何枚か乱歩さんに送ったから、そろそろ」
ピリリリリ!
「ほら来た」
まるで見計った様なタイミングで鳴り出した携帯を、太宰さんは当たり前の様に取って話し始めた。その横顔は矢っ張り何処か作り物の様で、人間らしさを丸ごと取り落としてしまったみたいだった。
「矢張りそうですか。……へぇ、それはそれは…。判りました。私達も一度社に戻ります」
「あの…、乱歩さんは何と?」
「凡そ私の見解通りだったよ。菫は無事だ。
そう言葉を切って、太宰さんは自分の携帯を僕の目の前に差し出した。其処に並んだ文字を僕の眼が反射的に辿る。そして、その内容を理解した瞬間、僕の頭は呼吸ごと止まった。
「……そんな…、これって……」
****
却説。此処は何処だ。
余りに視界が真っ暗だったので、自分が眼を開いていると自覚する迄大分掛った。手で触ってみた所目隠しの類がされている訳ではないし、単にここが真っ暗なだけみたいだが起き上がろうにも身体が動かない。否、一応毒の効果は切れたみたいで、もう自由に手足は動かせるのだが、動かせる程のスペースが無い。起き上がろうとするも低過ぎる天井に頭をぶつけて、其れ以上体を起こす事が出来ないのだ。無論、横に手を伸ばしてもすぐ行き止まりにぶつかる。しかも、何やら左手首は床に固定されていている様だ。何だコレ。マジでどう云う状況。え?若しかして此処棺桶?まさかの“早過ぎた埋葬”?あ、でもそれだと墓地のカードはフィールド上に特殊召喚されるか…。まぁ何でも善いが取り敢えず“死者蘇生”プリーズ。
などと一人で脳内与太話を繰り広げていると、不意に視界を眩い光が焼いた。突然のブルーライトに適応しきれなかった眼球が、反射的に拒否反応を起こす。が、この意味不明な状況に文字通り差した光を無視する訳にもいかず、私は無理矢理瞼を抉じ開けて光源の方を見た。光っていたのは左側の壁面。否、正確には左側の壁面に取り付けれていた電子画面だ。左手が動かせなかった為必然的に左側は余り調べられていなかったが、明かりが灯った事で私は“其処に在ったもの”に漸く気が付いた。―――拳銃だ。
「…………」
冷たい電子光に照らし出された鉄塊に留まっていた眼を、私は改めて電子画面へと向けた。映し出されていたのは文章だった。それを眼で追い、最後まで読み終わって、私は再び左側に置いてある拳銃に眼を落とす。
「はは…。やってくれる…」
意外な事に一番最初に浮かんできたのは、文句なしの賞賛だった。嗚呼全く、見事な程に余念が無い。此処迄来るといっそ清々しさすら感じる。悠長にそんな事を考えながら、私はその文章を再び読み返した。
『武装探偵社諸君
多忙極める中、我が便りをご一読頂き感謝する。
却説、有能なる探偵社諸君等は既に御承知の事と拝察するが、我が芸術の数々をこのヨコハマ各所に設えた。また、貴社からお預かりした社員は現在市内某所にて、我が最高傑作と共に遇している。これより八時間後。明日を迎えると同時に我が芸術は花開き、地に堕ちた日輪が如き白光と消えぬ炎がこの街の全てを包むであろう。
これは偉大なる芸術の父へ送る手向け、そして諸君等が犯した罪禍への報いである。
だが如何に咎人であろうとも、己が結末を選ぶ自由は侵されるべきではない。何より、我が偉大なる芸術の父は破壊と自由を重んじていた。よって此処に、諸君等が相対する事実を改めて記す。
一つ。我が芸術に対し解体、移動、破壊を行えば、明日を待たずして終焉の時は訪れる。
一つ。社員に取り付けたものを含め、我が芸術は一つでも花開けばそれに呼応し全ての芸術が目覚める。
一つ。社員の命が消えたと確認された時にのみ、全ての芸術は眠りに付く。
以上を加味した上で、自ら辿るべき結末を選択されたし。街の守護者たる諸君等に相応しい、聡明な判断を期待する』
****
無骨な手が薄い紙切れにクシャリと皺を刻んだ。其処に印刷されてい居るのは、つい先刻探偵社に匿名で送り付けられてきた脅迫文だ。鋭い双眸が下へ下るにつれ更に鋭さを増していく。無理もない。此の街の平和と自らの部下を何よりも重んじるこの御仁にとって、その文面は唾棄すべき宣戦布告に他ならないだろう。そして、その眼がもう一度俺に向けられる頃には、鋼鉄の様な表情の端々に明確な怒りと嫌悪が滲み出していた。
「状況は?」
「軍警から依頼があった案件について、情報屋に話を聞きに行っていた菫と谷崎が、その情報屋に襲撃されました。谷崎の話によると、件の“市庁舎監視カメラ乗っ取り事件”の犯人は、同様の手口でヨコハマ中の監視カメラを操作し、各所に爆弾を設置していたとの事です。菫が確認した資料が本物であるなら、その数は三十を超えると。谷崎の方は既に救助し、現在医務室で与謝野先生が治療にあたっています。菫の方は……」
「誘拐現場から五
「乱歩さん!?」
突然現れた乱歩さんは、其の儘真っ直ぐに社長の前へと進み出た。
「社長。海外諜報機関のデータベースに侵入して、情報を取る許可を頂戴」
「なっ!?乱歩さん何を…」
「犯人は中東の爆弾テロリストだ。日本の犯罪者リストには情報が載っていない」
「「!?」」
その言葉に俺と社長は息を飲んだ。乱歩さんは、それに答えるように淡々と言葉を続ける。けれど、姿を現した翡翠は社長と同様の色に染まっていた。
「本来国木田と谷崎で行く筈だった取引で、拒絶の異能を持つ菫が誘拐された。つまり相手は社員の顔と異能力の詳細迄把握している。設置された爆弾の準備と合わせて考えると、相当前から計画を練っていた筈だ。そして、極めつけがこの脅迫状の文章」
社長の手から脅迫文の写しを取り上げると、乱歩さんは俺に向かって序文の一節を指さした。
「『明日を迎えると同時に我が芸術は花開き、地に堕ちた日輪が如き白光と消えぬ炎がこの街の全てを包むであろう』。国木田。この一節、お前は覚えがあるんじゃないか?」
「―――!」
その時、俺の脳裏に古い記憶が蘇って来た。確かあれは―――
「『太陽が落下したかのような白光と消えぬ炎。居並ぶ建物は根こそぎ崩れ、人々は焼けながら逃げ惑い、路面は融解し、吹き飛んだ車輛が建物に刺さって燃え盛り―――』」
「っ…!乱歩さん…、まさかこれは…」
「嗚呼。二年前、探偵社に送られて来た脅迫文と同じ描写だ。そして此処、『これは偉大なる芸術の父へ送る手向け、そして諸君等が犯した罪禍への報いである』。此処迄来れば、お前でも判るだろう」
そうだ。何故気付かなかった。二年前、俺は同じ事件に相対している。結果的に大多数の人間を救い幕を閉じたあの事件。けれど、事件に関った全員を救えた訳じゃない。初期に誘拐された被害者。犯罪に手を染めた容疑者。裏で糸を引いていた首謀者。それを撃った幼い協力者。そして―――
「二年前の《蒼の使徒》事件。その際に爆弾を仕掛け、そして首謀者に消された海外の犯罪者。爆弾魔、ザキエル・アラムタ。犯人はその狂信者だ」
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「………却説…どうしたもんかねぇ…」
自尊心と厨二病でこれでもかとデコレーションされたあの文章を和訳すると、犯人の目的はヨコハマへの爆テロ、動機は探偵社への怨恨。街中に仕掛けられた爆弾は、ちょっかい出そうものなら他の爆弾諸共一斉起動する仕掛けで、刻限は午前零時。
「で、止めたきゃコレで頭ぶち抜けって事ね…」
右手を伸ばして掴んだ拳銃を電子画面の灯りに翳しながら、私は一つづつ状況を整理する。文章の内容や宛名から考えても、あれは私だけに宛てられたものではないだろう。恐らく今頃、探偵社の皆もこれと同じ文章を眼にしている筈だ。乱歩さんなら爆弾の場所はすぐに特定出来る。だが問題はその数だ。あの資料の通り三十を超える爆弾が仕掛けられていて、しかも下手に手を出せば一斉起爆するなんて鬼畜設定じゃ、幾ら探偵社でも対処しきれない。軍警に協力を仰いだとしても、一般人が爆弾に触れない様確保するのがやっとだろう。そこに来て最悪なのが私のこの現状だ。
三十以上ある爆弾の内、一つでも対処を間違えれば爆死。だからと云って爆破予定時刻を迎えても爆死。そして黒焦げエンドを回避する方法は自決一択ときた。どのルートを選んでも最終的にはデッドエンド。生きて返す心算が微塵もない。今の所、可能な限りのスペースで結構動いてるにも関らず私がまだ生きてるって事は、その最高傑作とやらはこの棺桶の外に取り付けられているのだろうか。此処からの脱出だけなら最悪異能でゴリ押し出来ない事も無いが、その時点でヨコハマの街は火の海と化す。外の状況が判らない儘無闇に動くのは悪手だ。せめて外部と連絡が取れればいいのだが、電子画面は矢張り此方から操作出来ないらしい。てか抑々、私が死んだってどうやって確認する心算だろうか。暗視カメラ?熱源感知?あ、それとも此れか?左手の此れか?
左手を床に固定している枷を触って確かめてみたが、目視も叶わない触覚頼りでは何も判らなかった。試しに大声も上げてみたが、当然自分の声が狭い空間に反響するだけ。結局の所判ったのは、今自分とヨコハマがとんでもない危機に瀕している事。そして、
―――ヨコハマの危機だけなら、私の行動一つで回避出来ると云う事。
「まぁ…、本来は迷う迄もないんだろうけどねぇ……」
腹の上に置いた拳銃を撫でながらぽつりと零す。
それと同時に冷たいブルーライトを灯していた電子画面は消え、再び私の視界は溶暗の中に沈んでいった。
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国木田さんが社長に状況を報告しに行って、一体どれくらい経っただろう。否、実際大して時間が経って居ないのは判っている。それでも、時間の進みが異様に早く感じて直ぐにでも駆け出したい足が焦れったく疼く。
「大丈夫?」
「え?…嗚呼、うん。ちょっと、落ち着かなくて…」
心配そうに僕を覗き込む鏡花ちゃんに辛うじて苦笑を返したけれど、それが今出来る精一杯の虚勢だった。直ぐに視線は落ち、面白みも何も無い自分の足元を映す。けれど不意に、その面白みも何も無い視界の中に白い球体が飛び込んできた。
「お一つどうぞ。買いたてほやほやですよ」
思わず顔を上げた僕に、賢治君は尚もそれを差し出した。湯気の立つ球体の正体は豚まんだったらしい。
「え…、でも、今はそんなの食べてる場合じゃ…」
「でも敦さん達は僕と違って、お腹が空くと力が出ないでしょう?だから、食べられる時に食べておいた方が善いですよ。はい、どーぞ」
「むぐっ!」
そう云うや否や、賢治君は笑顔で僕の口に豚まんを押し込んだ。熱々の豚まんが口の中に広がって悶絶する僕に、賢治君はニコニコと続ける。
「社長からの指示が出たら、きっと大忙しに成ります。だから、何時でも動けるようにして置いた方が善いです。僕達にしか出来ない事だって、在るかもしれませんから」
「けほっ、げほっ…。賢治君…」
「大丈夫ですよ敦さん。生きて居ればこういう事も在ります。それでも、僕達がする事は何一つ変わりませんよ」
「する事…」
「“生きる事”です。どんなに酷い事があったとしても、生きて居る限りその先はあります。だから一緒に乗り越えましょう。その先にきっと、また皆で笑える時間が待って居る筈です」
その笑顔に一切の迷いはなかった。確信より更に明確な何かが見えて居る様に、賢治君は笑う。まるで、不安がる僕を励ましてくれる時の、あの人みたいに。
「ねぇ賢治君。菫さんは、大丈夫かな…」
「敦さん…?」
「酷い事されてないかな…。痛い思いとか、怖い思いとか…してないかな……」
敵に連れ去られる恐怖を、僕は知っている。逃げ出す手段が見つからない時の絶望を、僕は知っている。助けが来るかどうか判らない時のあの不安を、僕は知っている。もしあの人が今、そんな思いをしているとしたら―――
「大丈夫」
直ぐ隣で、鈴の様な声が僕の言葉に応えた。
「あの人は強い。強い先輩。だから大丈夫」
「鏡花ちゃん…」
「豚まん。私にも頂戴」
「はい、どうぞ!」
賢治君から豚まんを受け取ると、鏡花ちゃんは小さな口でもぐもぐと食べ勧める。その表情は何時もの様に余り動かなかったけれど、大きな蒼い瞳は何時になく真剣な光に満ちている様に見えた。
「私達は武装探偵社。だからこの街を救う。あの人の事も助ける。あの人は私に、そうしてくれたから」
「―――っ!」
そうだ。そうだった。武装探偵社は、あの人は、僕を、彼女を、助けてくれた。何度も何度も、傷を負い血を流しても、あの人は僕達に手を伸ばす事をやめなかった。なら、今度は―――僕達の番だ。
「賢治君」
「はい?」
「豚まん、もう一つ貰っていい?」
「ええ、勿論!」
二つ目の豚まんを頬張りながら、僕は顔を上げた。菫さんは絶対に助ける。爆弾だって全部何とかしてみせる。今の僕にはその力がある。傷を負っても倒れない体、動物の持つ俊敏さ、強く鋭い爪。それは大事なものを守れる力だと、他でもない
あの人がそう教えてくれたんだから。
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数千人の命と一人の命、どちらを優先すべきか。
世間では度々この手の難題が論争の種になってきた。そして一般的にこの論争は、『どちらを選んでも正しい答えではない』と云う何とも収まりの悪い結論に至る事が多い。確かに数千人を選んだ方が救われた人数が多い分、数の上では圧倒的英断と云える。だが生憎と、『人命は何よりも尊ぶべきものであり、また数の大小で比較するべきものではない』と云うのが、一般的な正しい思考だ。故に、喩え数千人が救われたとしても、たった一人の人命を犠牲にした瞬間から、その判断は“正しさ”を剥奪される。
だがその論争に満場一致の正解を生み出す方法が一つだけある。それは、犠牲になる一人を“自分自身である”と仮定した場合だ。
多少の建前はあれど、その仮定が投下された途端多くの人間は『数千人を救う方が正しい』と答える。理由は簡単だ。人助けは“善行”であり、自己犠牲は“美徳”である。何より、大概の人間は数千人の犠牲と云う重圧を負って迄己が生存を望める程強くない。それが普通で、それが正しい選択だ。逆に数千人の命を犠牲にしてでも己の生存を譲らない者は、必ずと云って善い程批難の的となる。「臆病者」、「卑怯者」、「他人の事を考えない身勝手な利己主義者」。顔も知らない誰かでさえそうした罵詈雑言を当たり前に浴びせかけ、そして当人に反論の権利は存在しない。全く考えただけで死にたくなる生き地獄だ。
だったら、その死を称えられる内に死んでしまった方が善いに決まって居る。
自ら命を絶ち数千と云う人の命を救えば、向けられるのは間違いなく賞賛だ。誰もがその尊い犠牲を称え、崇高な人物として祀り上げるだろう。誰にも迷惑が掛からない、寧ろ他人に肯定される、誰かの為に自らを殺す“自己犠牲”。
昔。自身の消滅を希うに至るより更に昔、そんな風に死んでしまえたらと何度も夢見た、この世で唯一
―――世界に許された自殺法。
「まさかこんな所でチャンスに恵まれるとはねぇ…」
爆破予定時間が決まっているとは云え、街に仕掛けられた爆弾は何時連鎖爆発してもおかしくない。出来るだけ早期に解除しなければならないのは明白だ。そして私には、それを選ぶ権利がある。此処で何もしないで待つか、自ら命を絶ち爆弾を停止させるか。そして正しい選択は、考える迄も無く後者だ。何故ならそれで出る犠牲は私一人で、そして私は武装探偵社員なのだから。この街の平和と秩序を守るのが、今の私の役目なのだから。だからきっと、
私は此処で死ぬのが正しいのだ―――
「するべきことをしろ…。か…」
最後に自分が後輩君に命じたその言葉。それをもう一度繰り返して私は拳銃に手を掛ける。米神に銃口を突き付け、其の儘ゆっくり眼を閉じた。そして―――