hello solitary hand・番外編
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年に一度訪れるその日は、私にとっての厄日だ。
否、別にその日行われる行事の全てが嫌いな訳じゃない。
無条件で他人から贈り物を貢がれ、ご馳走を振舞われるのは役得だと思う時もある。
だが、それらとセットで付いて来るその言葉が嫌いだった。
何故なら、私にとってそれは人生最大にして最初の大失敗なのだから。
凡そ万象を成すと誰もが信じて疑わない私が、唯一挽回する事の出来ない最大のミスを犯した日。それが今日だ。
だから私は嫌いだった。
喩え相手に善意しか無いとしても、そんな事は関係ない。自分の失敗を嬉しそうに祝福されるなど、皮肉以外の何だと云うのか。
それなのに、誰も彼もが其れを“正しい事”だと信じて疑わない。
まぁ、実際それは間違いなく正しいのだ。
自分でも判っている。
それでも、これが人間として正しくないと理解した上で尚、
私は―――
「“誕生日おめでとう”と云う言葉が、嫌いなのだよ」
酒杯の氷を指で沈めながら、私は真底うんざりとそう云い捨てた。
「それは…、何とも貴方らしい見解ですね」
呆れた様な、それでいて少し困った様な溜息が左隣から漏れた。
「じゃあ今日は災難だっただろう」
何時もと変わらない調子で、何時もと変わらない声が右隣から尋ねてきた。
「そうなのだよ!首領なんて、私が嫌がってるの知ってて祝宴迄企画するし…」
「だからって主役が当日に失踪しないで下さい。此処に来る途中、巨大な誕生日ケーキの前で首領が意気消沈していましたよ…」
「知らないよ。大体あの無駄に巨大なケーキの所為で、私は散々な目に遭ったのだよ?」
「何だ?散々な目って?」
「……あれをウエディングケーキと誤解した蛞蝓に正装姿で祝辞を述べられた…。嗚呼、今思い出しても鳥肌が立つ。此処迄酷い誕生日は生まれて初めてだよ…」
「嗚呼…、それは…何と云いうか……。ご愁傷様です」
何ともぎこちない慰労を受けながら、私は蘇った怖気を洗い流す様に酒杯を煽った。
「はぁ…抑々当の本人が不要だと云っているのに、何故誰も彼も口を揃えて同じ事ばっかり云ってくるのだろうねぇ。九官鳥の方が未だ気の利いた言葉を吐くよきっと。嗚呼ヤダヤダ、憂鬱だ。早く死にたい」
憂いを漏らしながら傾けたグラスの中で、丸い氷が冷たい音色を奏でる。その寂し気な旋律に、隣から同様の音色が重なった。
「太宰。じゃあお前は、もし俺が―――」
****
「なぁ太宰。君、何か食べたいものとかあるか?」
「え?食べて良いの?じゃあ頂きまー」
ドスッ!
悪巫山戯の心算で口を開きながらゆっくり距離を詰めると、小さな鉄拳が寸分の狂いなく私の鳩尾に叩き込まれた。
「私は食用じゃねぇよ。お前は何処のMM氏だ、ああん?」
「ごめん、何の話?」
「何でもない。それより、何か食べたい料理とかあるか?人間以外で」
「否、別に私食人の趣味とか無いから。と云うか、如何したんだい急に?」
すると彼女は少し難しい顔をして押し黙ると、暫くしてぼそぼそと言葉を吐いた。
「君、今月誕生日だろ?だから、何か食べたいものあったら作ろうかと思って…」
彼女が其れを知って居る事に、別段驚きはしなかった。本人に確認した訳ではないが、彼女が私に就いて多くの“知識”を有して居る事は確実だ。私がどう云う人間で、何が好きで何が嫌いで、何を望んでいるか。そして、恐らくは未来に待ち受ける出来事迄も。そんな彼女が私の誕生日を知って居たとしても何ら不思議ではない。けれど―――
「何で?」
「あ、否…。本当は何かプレゼントでも用意したかったんだが、今の所外に出られるのは君だけだし。私に出来る事と云ったら、君が食べたいものを作ってやるくらいしか出来んかなって…。だから、もしリクエストが在ったら云ってくれ。材料の調達を君に任せちゃうのは申し訳ないが、出来る限り手は尽くすからさ」
ポートマフィアを抜け、地下に潜って数か月。未だ追手の影が地上を彷徨いている以上、なんの訓練も受けていない彼女を外に出す様な危険は冒せない。だから、食料や必要品の調達は専ら私か、時折私達の元を訪れる特務課のエージェントからの配給に頼っていた。つまり、現在菫は私を通してでないと欲しいものが手に入らないのだ。―――だが、私が聞きたかったのはそんな事じゃない。
「…太宰?」
「……菫は…私の誕生日を、祝いたいの?」
「? 嗚呼、まぁそうだけど…?」
肯定を口にした彼女はしかし次の瞬間、何かに気付いた様に口を噤んだ。そして気拙そうに肩を竦めると、窺う様に私の顔を仰ぎ見る。
「あのさ…太宰。もしかして君、誕生日とか祝われるの……嫌いなタイプだったりする?」
切れ切れに紡がれた問いは、後になるにつれ薄く成り最後の方は殆ど消えいってしまった。別段確信に触れる発言をした訳ではないが、恐らく持ち前の洞察力、或いはその“知識”故に思い至ったのだろう。
生きるなんて行為に意味など無い。
自分が生まれてきた事自体が間違いだったのだ。
そんな自論を謳い、人生の幕引きを希う私が、自分の生まれたその日を―――一体どの様に認識しているのか。
「…………」
口を噤む私を見上げる彼女は、まるで虎の尾でも踏んでしまった様な顔をしていた。当然だ。“他人に疎まれる”。たったそれだけの事が、この大人の成り損ないにとっては絶対無比の耐え難い恐怖なのだから。その顔を眺めながら一二秒黙考した後、私は返答を決めて口を開く。それも、これでもかと云うくらい満面の笑みを態と張り付けて。
「うん。大っ嫌い」
「っ!す、すまん太宰!私余計な事云ったな。今のはナシで」
「でも、無条件で貰える贈り物や振舞われるご馳走自体は好きだよ」
「え…。あ…、じゃあつまり?」
「君が私の食べたいものを作ってくれるって云うなら大歓迎さ。まぁ、自分で材料を調達しなきゃいけないのは面倒だけど、必要経費として眼を瞑ってあげる」
「そ、そっか…。はぁ、なら善かった…。有難うな太宰」
本当に心底安堵した様に、彼女は喉元に詰めていた空気を吐き出した。余程不安だったのだろう、珍しくその口元は本当に気の抜けた様に弧を描いていた。そんな情け無くも柔らかい表情が何処か愛らしく思えて、僅かに温度を失っていた胸にじわりと熱にも似た悪戯心が灯る。
「嗚呼でもなぁ…。矢っ張り贈り物の方も欲しいなぁ、折角だし」
「えっ…。でもほら、私は今外に出られんし、抑々無一文だし…。悪いが君にあげられるものなんて何も…」
「おや、そうかい?」
そっと伸ばした指先で白い首筋をつつと撫でると、私は態と甘い声で囁いた。
「此処にリボンを巻いて、君が贈り物になってくれても善いのだよ?」
その瞬間、触れて居た首筋迄真っ赤に染まる程彼女は熱を上げた。
「ば、ばばば馬っ鹿じゃねぇの!?誰がんな古のテンプレやるかボケ!調子乗んなこの色魔!」
「はは、残念。それじゃあ仕方ないね」
私はワタワタと狼狽する彼女の横を通って部屋の扉に向かった。が―――
「嗚呼、そうだ菫」
「あ?何だ―――」
振り返ったその顔を片手で軽く引き寄せて、私は細い髪の上から彼女の額に口付けた。
「仕方ないから、これで我慢してあげるね」
「~~~っ!巫山戯んなお前!何してくれとんだゴラァ!!」
「わー、怖い怖い。逃げろー!」
怒号を上げる彼女を難なく躱して、私は自室に駆け込み鍵を掛ける。暫く部屋の前に彼女の気配がしていたけれど、諦めたのか軈て足音がコツコツと廊下の奥に消えていった。それを確認して、私は深く息を吐き出す。
「誕生日…か…」
その献身に免じて多少なりとも妥協はしてやったが、彼女に云った言葉は全て揺るぎない事実だ。誕生日を祝われるのは嫌いだ。だが結果として得られる利益はその限りではない。ただそれだけの事。私の考えは何も変わってない。
―――私は、「誕生日おめでとう」と云う言葉が嫌いだ。
「君、今月誕生日だろ?だから、何か食べたいものあったら作ろうかと思って…」
「あのさ…太宰。もしかして君、誕生日とか祝われるの……嫌いなタイプだったりする?」
「そ、そっか…。はぁ、なら善かった…。有難うな太宰」
「本当に……残酷な人…」
結局その年の誕生日に、彼女は私のリクエスト通りのものを作ってくれた。二人きりの食卓で、終始私の様子を伺う様な視線が少し気になったけれど、それでも酒杯を交えた時はぎこちなくも嬉しそうに
―――彼女は笑っていた。
****
「わぁ、随分本格的だね」
「おい、重いから寄っかかるな。身長が縮む」
後ろから抱き締める様に凭れ掛かると、彼女はお馴染みの苦言を呈した。その肩越しに覗き込むと、調理台の上に苺の乗ったやや小振りのホールケーキがあった。窓すらない閉塞的な厨房の中で、生クリームの白が一際鮮明に主張している。
「はぁ…、今年もまた死ねなかった」
「そりゃご愁傷様。まぁ、今年は完全に上げ膳据え膳してやるから元気出せよ」
このケーキを含めて今年のご馳走の材料は、全て彼女が調達したものだ。時と共に追手の数が減り、更にこの一年で私の指導を受けた彼女は、もう一人でも問題なく外を出歩けるようになっていた。とは云え、これ迄は私が毎度同伴していたので、本当に彼女が一人で外出したのは今回が初めてになる。それも頑固な彼女に根負けして、渋々外出を許可した様なものだったけれど。
「ねぇ。それより今年は贈り物くれないの?首にリボンして」
「誰がやるか。いい加減諦めろ」
「もう、菫のケチ」
「否、どう考えても誕生日プレゼントに人身譲渡要求してくる方に問題があるだろ」
「仕方ない。じゃあ今年もキスで我慢してあげ」
「何ナチュラルに全く妥協になってない妥協案採決してんだ。却下だ阿保。ほら、これやるから大人しくしててくれ」
唇を尖らせすぐ横にある頬に寄せると、その間に別の何かを差し込まれた。口に押し込まれたそれが歯にぶつかり潰れて、溢れ出した甘酸っぱい液体にそれがトッピング用の苺だと理解した。仕方なく其れを咀嚼しながら再び作業台を覗き込むと、彼女はチョコプレートに私の名前を書き込んでいた。だが今年成人を迎える男に、可愛らしい丸文字で「太宰治くん」とは流石に如何なものだろう。そう内心で首を捻りはしたが、作業に没頭する彼女の顔は真剣そのもので、それが自分の為だけに形作られた表情だと思えば存外悪い気はしなかった。
「―――!」
だが次の瞬間。彼女が続けて書き出した言葉を察して、私は反射的にその言葉を指で
「ちょ、何すんだよ!折角良い感じに書けてたのに」
「いらない」
批難の声は一瞬で止まった。私の方を振り向いた彼女が、大きく眼を見開く。無惨に潰れたチョコレートの文字から指を上げて舐め取ると、甘酸っぱさに満たされていた口内がべたつく甘味に塗り潰された。
「嫌いなのだよ、その言葉…」
彼女が真剣な顔で綴っていた文字。私の名前と、私の嫌いな言葉。自分でも驚く程、彼女にその言葉を送られるのが―――厭だった。
「……ごめん…」
謝罪の言葉を零して、彼女は俯いた。本当なら自分の厚意を無下にした私に怒りをぶつけても善い筈なのに、彼女はただ謝罪だけを口にした。
判っている。彼女はそう云う人だ。
―――痛ましい程に優しい臆病者。
だから、内心私を不快にさせないか怯えつつも、彼女は私の誕生日を祝おうとする。そしてそれを判っていて尚、私は彼女からのその言葉を受け入れられない。きっとこの平行線は永遠に交わりはしないだろう。
ならば私達には、それこそ
「……菫」
名前を呼ぶと、薄い肩が僅かに揺れた。それでもちゃんと顔を上げた彼女は、何も云わずに私の言葉を待って居た。凪いだ水面の様なその表情は、けれど唯一瞳の奥だけが不安げに騒めいていた。だから私は、丁度一年前と同じ様に満面の笑顔を作って口を開く。
「許してあげるからキスしてよ、菫」
「はぁっ!?」
思った通り、静まり返った水面は盛大に波打った。けれど私はそれに構わず、自分の額をトントンと指で叩いて彼女の目線迄屈む。
「はいどうぞ、此処にして」
「待て、どうしてそうなった!?」
「あれ、知らない?額へのキスには“祝福”の意味があるのだよ。だから此処にキスして。それなら大人しく祝われてあげる」
「お前なぁ…っ」
先刻迄の静けさが嘘の様に、苦虫でも噛み潰した様なその顔は今にも火を吹き出しそうだった。そんな彼女に、私はニヤリと笑って最後のトドメを刺す。
「あれあれ?先刻の謝罪は口だけかい?それとも、本当は私の誕生日なんて然程目出度いとも思っていなかったのかな?」
「っ~~~!!判ったよ、やってやんよ!推しへの愛嘗めんなチキショー!!」
彼女は盛大に気炎を吐くと、私の顔を両手でガッチリと挟み込んだ。もうちょっと丁寧に扱って欲しかったけれど、すぐ目の前にある表情が余りに愉快過ぎて、その苦情は喉の奥に押し戻した。
まるで注射を受ける子供みたいにぎゅっと眼を瞑って、彼女は私の額に唇を寄せる。普段は冷たい筈の小さな手に熱が籠って、いっそ熱いくらいだった。軈て、焦れったい程時間を掛けて私の額に触れた唇は、何時かの路地裏の時と同じ様に一瞬の間もなく離れた。
「っ…!ど、如何だ…っ、これで満ぞ」
耐え切れないと云う風に顔を覆った彼女が云い切る前に、今度は私がその額にキスをした。当然、しどろもどろになっていた彼女の言葉は一気に断末魔に変わった。
「はい。今年も御馳走様でした」
「マジで一辺痛い目に遭えよお前!!」
洗い場に重なっていた調理器具を手当たり次第に投げつけながら、彼女は今日一番の怒号を上げた。その後一緒に食べたケーキは真ん中にぽっかりと空白が空いていたが、とても美味しかったのを覚えている。けれど、最後に彼女と半分こした前衛美術の様な有様のチョコプレートだけは、余りに甘過ぎて、その所為で一瞬だけ、ほんの少しだけ、
―――「来年もまた」なんて、
危うくそんな気の迷い迄、起こしかける所だった。
****
「さぁ、思う存分飲め!食せ!今夜は無礼講じゃい!!」
「随分ご機嫌だね菫」
仁王立ちで低い天井に高々とお猪口を掲げた菫は、それを一気に飲み干すと私の隣に腰を下ろした。
「当たりじゃないか。やっとこうして真面な誕生会が開けるんだぞ?食材も好きなもの買えるし、酒が足りなくなったら補充出来るし、最高じゃん!」
二年の地下暮らしで経歴の洗浄を終えた私達は、満を持して武装探偵社への入社を果たし、漸く表の世界で生きていく為の生活基盤を手に入れていた。晴れて自由の身となり、私達を取り巻く環境もガラリと一変した。だが、その中でも最も大きな変化と云えば―――矢張り
「ごめんな、ホントはこう云うの嫌いなのに…。でも毎年付き合ってくれて凄く嬉しいよ。有難う太宰、愛してる」
未だ其処迄酔っぱらっても居ない筈なのにこの調子だ。否、と云うか酒の有無に関わらず最近の彼女はずっとこうだ。ニコニコと私に笑い掛けて、なんの恥じらいも無く私に抱きついて、まるで子供でも褒める様に頭を撫でる。入社試験の一環で解決した事件を契機に、私への接し方を考え直し改めた結果がこれだそうだ。否、別に私もそれに就いて不満は無い。寧ろ彼女から積極的に構ってくれるのは、正直云って嬉しい。嬉しいのだが…、地下での共同生活からは想像もつかない様なその変貌振りに、流石の私も戸惑いを隠せずに居た。
「あ、そうだ太宰!今年はな、ちゃんと贈り物も用意したんだぜ。ほら!」
「あ、有難う菫…」
「へへへ。君の事だから中身は既にご存じかも知れんが、善かったら開けてみてくれ」
得意げに彼女が自室から持ち出してきた箱は、華やかな包装に包まれていた。きっと手製だろう。何故なら彼女の云う通り、私は既にその箱の中身が何かを知って居て、そしてそれは、こんな贈り物用の包装をされる事など先ず無いものだからだ。
「色々迷ったんだがな、普段使う必需品とかなら間違い無いかなって思ってさ」
ご要望通り箱を開くと、其処には真っ白な包帯がぎっしりと詰まっていた。その内の一つを取り出して、私の反応を伺う様に目を向ける彼女に笑顔を作る。
「有難う菫。凄く嬉しいよ」
「そりゃ善かった。じゃあ、ほい。もう一つの方もどうぞ」
「え…?」
「誕生日、何時もキスしてたじゃん。だからどうぞ?」
「っ…!」
キョトンとした顔で首を傾げながら私に向かって両腕を広げる彼女に、何故かドクリと心臓が跳ねた。過去の自分の行いに今更後悔なんて無い。抑々あんな飯事の延長線みたいなものの、一体何処に羞恥心を感じる必要があると云うのか。なのに、いざこうして然も当然の様に受け入れられると、正体不明の何かが脳内を掻き乱して思考が纏まらない。
「如何した太宰?」
「あ、嗚呼、否…、今年は…いい…」
「え?何で?」
「ほら、今年はちゃんと贈り物を貰ったから。流石にそう幾つも貰うのは申し訳ないよ」
「そうか?遠慮せんでも善いんだぞ?」
「有難う菫。でも、本当に大丈夫だから」
「おう…。まぁ、君がそう云うなら」
そう云って両手を下ろした彼女に内心ホッとして、手元の贈り物を見る振りをして俯いた。あのまま彼女を直視して居たら、何か取り返しのつかない墓穴を掘ってしまいそうな気がしたからだ。しかし、そんな私の想いとは裏腹にたった今視界から外したばかりの彼女が、再び私の視界に映った。それも、先刻よりずっと近くで。
「―――!」
膝立ちになった彼女は、私に顔を上げさせると其の儘前髪を掻き上げて直接額にキスをする。しかもそれは一瞬で離れるものではなく、本当に祝福を施す様な丁寧な口付けだった。
「ほい。こっちはただのお祝いだからノーカンだよな?」
まるで悪戯が成功した子供の様にニヤリと笑った彼女は、其の儘そっと私の頬を撫でる。皮膚に触れるその感触の一つ一つが、異様な程に心臓を逸らせて。いっそ此の儘心不全で死んでしまえないだろうかと、彼女の姿から眼を離せない儘、私はそんな事を考えていた。
****
暗闇の中、冷たい電子光とバイブ音で眼が覚めた。手探りでベッドサイドに置いていた携帯を探り出し開く。画面から漏れ出す灯りに眼を細めて確認すると、メールの通知だった。送り主の名前に思わず表情が硬くなる。それなのに指が勝手に動き、受信したメールを開封した。
『今週末、もし帰ってくるなら連絡を下さい』
たったそれだけの、短い文章。けれどこの一文を送る迄、彼女がどれだけ時間をかけて、どれだけ文面を考えて、どんな思いで送信釦を押す決心をしたのかは、想像する迄も無い。
「ねぇ、如何したの?」
私は瞬時に携帯を閉じた。するりと背後から蛇の様に絡みついて来た両腕に手を重ね、精巧に作り上げた微笑みを張り付けて振り返る。
「何でもないよ。ごめんね、起こしてしまったかな?」
「ふふ、平気。私、太宰君がモテるって知ってるもの」
「そんなんじゃないよ。ただの仕事のメールさ」
「仕事なんてサボっちゃえばいいのに。私、太宰君の為なら何でもするよ?」
熱に酔いしれる様なその眼を見ながら、私はこの人が酷く羨ましく思えた。いっそ自分もこんな風に、彼女への熱情に酔いしれる事が出来たらと。
「有難う。それじゃあ、今週末も此処に泊まって善いかな?」
「ええ、勿論よ。太宰君の好きなもの、何でも作ってあげる」
「本当かい。ふふ、…それは、嬉しいな……」
重ねて、重なる。
その声に、その姿に、その感触に、彼女を重ねる。
重ねて、偽って、誤魔化して、彼女じゃない誰かに吐き出す。
彼女に云えない事を、彼女に出来ない事を、気休めと知りながら繰り返す。
重く、熱く、凝ったこの醜い欲で、彼女を汚して仕舞わない様に。
それが喩え、―――君を傷つけるだけだとしても。
****
宵闇の海で彼女と出会い、早四年。
その間私達の関係は眩暈を覚える程の紆余曲折を経て、漸く一つの結論に落ち着いた。だが、二転三転と屈曲を重ねるジェットコースターの様な日々に振り回されたお陰で、嘆かわしくも私は今日迄一向に死ぬ事が出来ずに居た。
そうしてうかうかしている内に、刻一刻とにじり寄ってきた彼の忌まわしき厄日は今年、よりにもよって最も愛しい人の口から、最も最悪な形で告げられる事となった。
「って事で、三日後『㊗太宰治生誕祭』を行う。場所は武装探偵社事務所。社員全員参加だ。無論主役たる君の欠席は認めない。以上」
「どうしてそうなるのだい?」
雄々しい仁王立ちで腕を組み、異論も反論も挟む隙すら無くそう云い切った彼女に、私は心からの疑問を呈した。
「去年は君の家出騒動で祝い損なってただろ。だから今年は例年の倍祝う。事務所をキラッキラに飾り付けて、君にトンガリ帽子と“本日の主役”って襷掛けて、皆でクラッカー一斉射撃した後、ハッピーバースデーの歌合唱して男子校のバレンタイン宜しく贈り物を突き付けてやるから覚悟しろ」
「それ“生誕祭”じゃなくて“公開処刑”の間違いじゃない?」
「いいか太宰。正直に云うとな、私は過去四度に渡る君の誕生日に一度たりとも満足して居ない。そして色々と吹っ切れた今、これまでの様に君の様子を伺って祝う気は無い。よって出し惜しみは無しだ。全力で祝う。完膚なき迄に、徹底的に、無慈悲な迄に祝う」
「それ祝い事の意気込みじゃないよ菫。完全に敵拠点を襲撃する時のマフィアの意気込みだよ」
「最愛の恋人殿の誕生日だぞ。それくらいの意気込みで当然だろ」
「ワァ、私愛サレテルー」
「あ、云っとくがバックレようとしても無駄だからな。既に乱歩さんを含め、社の皆はこちら側だ。万が一逃げたら、是が非でも見つけ出して一週間KUNIZAPの強化合宿を受けて貰うぞ」
「くにざっぷ…?」
「文豪国木田独歩先生の名著『㊙俺の理想の真面目で勤勉な太宰にする方法』に倣い、国木田君に一週間泊まり込みで秒刻みの更生カリキュラムをご指導頂く。勿論君の逃亡防止の為、私も全面協力するぞ」
「何その地獄!!」
悲痛な声を上げると、菫は元上司にも引けを取らない見事なヤンキー座りで私の顔を覗き込んだ。
「判ったら逃げんなよ?今回の私は
「ねぇ、君本当に祝う気あるの?」
かくして、今年の厄日を何故か完全に喧嘩腰の恋人から盛大に祝われる事が確定し、私は顔を引き攣らせながら『当日何処かの犯罪組織が襲撃に来ないかなぁ』と、結構本気で祈った。
****
パンパンパーン!
「「「太宰(さん)お誕生日おめでとう(ございます)!!!」」」
「……‥…ウン。アリガトウ、ゴザイマス…」
本当に社の全員からクラッカーの一斉射撃で祝福された私は、お誕生日席に座した儘無我の境地に至っていた。大人組は悪ノリした乱歩さん以外割と適当だったが、未成年組のテンションが兎に角高く、「僕、今日の為に誕生日の歌練習してきたんです!ね、鏡花ちゃん?」とか自己申告してきた敦君の眩い笑顔に、危うく眼を潰される所だった。まぁ、何処ぞの檸檬爆弾魔顔負けのテンションで、尚且つ的確に司会進行を務めていた菫の熱量に比べれば皆可愛いものだったが。
「よし、では此処でお待ち兼ねのプレゼントタイムだ!太宰に贈り物がある人は前へどうぞ」
すると早速敦君が照れ臭そうにしながらも、いの一番に私の前に駆け付けた。それに続いて鏡花ちゃん、賢治君、谷崎君とナオミちゃんが続々詰めかける。
「太宰さん!改めてお誕生日おめでとうございます!これ僕と鏡花ちゃんからのプレゼントです」
「おめでとう」
「僕はこれです。今朝収穫してきたので新鮮ですよ!」
「僕とナオミからはこれを。大したものじゃありませンけど」
「おめでとうございます太宰さん。どうぞ菫さんとご一緒に召し上がって下さい」
敦君と鏡花ちゃんはペアの切子グラス、賢治君はカゴいっぱいの野菜、谷崎君とナオミちゃんは紅茶の詰め合わせセットをくれた。次々に贈り物を渡され、私は腕いっぱいのそれらに苦笑しつつも、先輩思いの後輩達に返礼を述べた。
「皆、有難う。こんなに沢さ」
パシャ!
不意にそんな音がして眼を向けると、少し離れた所で菫がカメラを構えていた。
「はい、もう何枚かいくよー。皆気にせず自然体でどうぞー」
「ちょっと、菫!?」
「無駄だ太宰。今日の彼奴は何があっても止まらないよ」
私の声を完全に無視して、更に何度かシャッターを切る菫。そんな彼女に注釈を付ける様に現れた乱歩さんは、私が抱える贈り物の箱にことりと小さなゴム人形を置いた。
「駄菓子のおまけ。ミイラはもう持ってるからお前にあげる」
「は、はぁ…有難う御座います…」
何と云うか、乱歩さんらしいと云えばらしい贈り物に生返事を返すと、それを追う様に次々と視界に酒瓶が並んだ。シャンパン、蒸留酒、日本酒。そしてその差し出し主達が各々口を開く。
「お誕生日おめでとうございます太宰さん。これ、事務員一同からの贈り物です」
「
「味は私が保証する。今後も探偵社員として、健闘を期待しているぞ」
「わぁ凄い!有難う御座います。うふふふふ、帰ったらどれから開けようかな、あいた!」
春野さん、与謝野先生、社長から順に受け取った酒瓶は、どれも一目で上物と判る品々だった。しかし、大人組からの普通に嬉しい贈り物に少し上がった気分は、横合いから頭を襲った打撃に物理的に叩き落とされる。
「ちょっと何するのさ国木ぃ〜田君…」
「喧しい。善いか太宰。お前が浮かれて善いのは、あくまで誕生日である今日だけだ。飲んだくれて明日の仕事を遅刻する様な真似は絶対に許さんからな」
「だからって遅刻する前から叩く事ないじゃない。ほら、私は今日の主役なのだよ。もっと敬い給え」
「ふん。俺としては、逃亡したお前を鍛え直してやるのを楽しみにしていたのだがな。しかし、来てしまったものは仕方がない。酷く遺憾だが仮にも同僚の一人である以上、年に一度の誕生日くらいは祝ってやるべきだろう。よって俺からもお前に贈り物をや」
「いらない」
「おい、未だ何も見せとらんだろうが!!」
「だって国木ぃ〜田君の事だから、例の禍々しい計画書のコピーか何かを押し付ける心算でしょう?」
「誰が態々そんな手間の掛かる事をするか。俺の贈り物はこれだ」
すると国木田君は、懐から一冊のノートを取り出して私に差し出した。一見何の変哲もないそのノートからは、何か怨念めいた異様な気配が滲み出ていた。
「……一応聞くけど何これ」
「お前が逃亡した時用に準備していた、一週間分の更生課程を纏めたノートだ。これに記された通りに生活していれば、失格人間のお前も必ずや理想的な真人間に」
「うん。本気でいらない」
「なぁ皆々様。折角だしこの儘集合写真も撮らせて貰って善いかな?」
「あら、善いわね」
「わぁ!僕、集合写真なんて初めてです!」
「僕もだよ。何だか緊張するなぁ」
「私はある。前の職場で任務を失敗した構成員を一箇所に集めて、処分の前に証拠写真を」
「集合写真ってそう云うのじゃないから!」
「うふふ、兄様の隣は勿論ナオミが頂きますわ!」
「じゃあ僕は社長の隣ー!」
「おい唐変木、このトンガリ帽が邪魔だ。社長が映らんだろう。さぁ社長、もう少し中央へどうぞ」
「うむ」
「これで全員映りそうかい菫?」
菫の提案で私を中心に並んだ探偵社の面々。そんな彼らにカメラを向けて、彼女は位置を調節し始めた。
「―――っ…」
その背後に一瞬、色褪せたセピア色の光景が重なって見えた。
「よし、全員バッチリだ!そいじゃ行くぞー。五、四、三」
カウントを取りながら、彼女は両腕一杯の贈り物を抱えて職場の同僚に囲まれる形になった私の横に滑り込んだ。無意識に視線が彼女を追う。
「二、いーち!」
パシャ!と軽快な音を立ててシャッターが切られた。ちゃんと撮れたかなとか、眼を瞑ってしまったとか、皆は各々に感想を漏らす。そんな中彼女は、するりと私の隣を離れてカメラの元に戻る。
「却説、後は現像してからのお楽しみだな。それじゃあ皆々様、引き続きパーティーを楽しんでくれ!あ、飲み物足りなくなったら遠慮なく云ってな」
そう云って彼女は、カメラを片手に宴会場と化した事務所内をクルクルと動き回る。酒を酌み交わし、料理に眼を輝かせ、互いに笑い合い、楽しそうに今日を祝う皆の姿に、彼女は次々とシャッターを切っていった。
「あ、そうだ!よかったら太宰さんにもお注ぎしましょうか?……太宰さん?」
「え…?」
不意に意識を呼び戻され隣を見ると、敦君が酒の瓶を持って私の顔を覗き込んでいた。その事に全く気付かなかった己の不覚を誤魔化す為に、私は早急に笑顔を貼り付けてグラスを差し出す。
「嗚呼うん、有難う。それじゃあもう一杯貰おうかな」
「はい!ではどうぞ。…わっ!?」
「おっとと!危ない危ない」
「す、すみません…。勢いが着き過ぎました…」
「ふふ。いいよ、寧ろ一杯で沢山飲めてお得だもの。それにしても随分楽しそうだねぇ敦君。私よりずっと楽しそうだ」
「あ、すみません!これは太宰さんの誕生会なのに…っ」
「別に謝る事はないさ。ただ、私の誕生会なんてそんなに楽しい事かなぁ…、って思って」
態と茶化す様に云って、私は並々と注がれた酒盃を啜り水位を調節した。すると視界の端で、酒瓶を持つ敦君の手が僅かに力を増したのが見えた。
「…あの、実は僕、誕生会とか初めてなんです。孤児院にいた頃は、誰かの誕生日をこんな風に皆でお祝いしたりしなかったから…」
硬く冷たい何かを見る様に、彼は手元の酒瓶に眼を落とす。だがチラと私に視線を移すと、金色に縁取られた紫水晶がジワリと温もりを宿して緩んだ。
「だから僕、今凄く楽しいし…
その眩い笑顔に疑念を抱く余地など微塵もなかった。あるのは紛れもない敬意と、感謝と、祝福。お陰で私の心臓は、チリチリと得も云われぬこそばゆさに襲われる羽目になった。そんな私に、敦君は容赦なく笑顔で無自覚の追撃を仕掛ける。
「あ、でも僕達の中で今日を一番喜んでるのは、矢っ張り菫さんだと思いますよ」
「……何故、そう思う…」
「何故って…、当たり前じゃないですか!だって菫さん、今日の為に飾り付けのプランとか、料理のメニューとか色々考えてくれてて。皆がちゃんと参加出来る様にって、急ぎの仕事も全部請け負ってくれたんですから」
それはどれも初めて聞く情報だった。彼女の行動は、常日頃からチェックしていた筈なのに。或いは、乱歩さんから何か知恵を借りて、私のマークを掻い潜ったのだろうか。孰れにしろ、彼女の本気宣言は紛う事なき事実だったらしい。
「菫さん、凄く張り切ってたんですよ?太宰さんの事『厭って云う程祝い倒してやるんだ』って!」
敦君が代弁した台詞が、私の頭の中でいとも容易く彼女の声に変換される。無意識に向いた視線の先には当然の様に彼女が居て、和気藹々と楽しそうに語り合う仲間達の写真を撮っていた。
「………そうか…。…そうなんだ……」
そんな彼女の横顔に、先刻の光景が重なる。
カメラのレンズに指を二本立てて、私と肩を組む様に腕を回した彼女は、まるで一等賞を取った子供の様な顔で
―――にっかりと笑っていた。
****
「“写真に撮られるのは苦手”なんじゃなかったの?」
社の皆から貰った贈り物を眺めながら、私は台所の方に問いを投げた。すると、賢治君から貰った野菜を冷蔵庫にしまい終えた菫が、ちゃぶ台の前に腰を下ろして口を開く。
「苦手だよ?でも、皆との集合写真に私だけ入れないのは寂しいじゃないか」
「だったら別に、態々写真なんか撮らなくても善かっただろう」
「……怒ってるか?」
「別に。ただ、君がらしくない事をするから、少し気になっただけ…」
自分の眼が細められたのが判る。頬杖を突いて真意を探る様にジッと見つめると、彼女は困った様に苦笑した。
「先ず説明しておくと、私が写真に撮られるのが苦手なのはな、写真を撮る時は笑わなきゃいけないからだよ」
その返答に私は沈黙を以って先を促した。それを汲み取った彼女は、何処か自嘲する様に笑って続ける。
「私さ、元々自分の笑った顔が好きじゃなかったんだ。違和感って云うのかねぇ…。内心ビビりまくってる癖に、造形ばっか無理矢理笑顔に寄せてて。だから、其れを態々形にして残される写真が厭だったんだよ。自分が吐いた嘘の証拠を、突きつけられてるみたいでさ」
まるで古傷に触れる様に、彼女はカメラを撫でた。けれどその眼には、苦痛よりは寧ろ懐かしさの様な色が滲んでいた。
「でも少なくとも今は、元の世界に居た頃よりはマシな顔で笑えるようになったと思う。……そう思えるくらいには、自分を許容出来るようになった。この世界に来て、君達と出会えたお陰でね」
「そう…。それは、善かった…」
本心からの祝辞だった。彼女は照れ臭そうに笑う。その表情は本人の云う通り、嘗て彼女が他人に向けていた笑顔よりずっと血が通って見えた。
「で、本題に戻るが。私が今日一日写真を撮ってたのは
そう云って彼女は、鞄の中から一冊の冊子を取り出した。差し出された其れを開くも、綴られた厚手の頁は真っ新な白紙だ。けれど、これが何に使われる冊子かは一眼で判った。
「此れが、君からの贈り物かい?」
「嗚呼、今日やった誕生会の“アルバム”。完成版はもう少し掛かるけどな」
「…………」
「はは。やっぱ君的には、嬉しくはないよな」
黙ってその冊子に眼を落とす私に彼女は苦笑する。彼女の云う事は正しい。愛しい人からの贈り物と云う絶大な贔屓目を以って見ても、私は此の贈り物を喜べる気がしなかった。その理由も、彼女は十分理解している筈だ。けれど、それでも尚彼女は私に此れを贈った。私にとって厄日とも云える―――今日と云う日の断片を。
「まぁ、君が今抱いているであろう不平不満の類は大方想像つくよ。でもさ、私としてはやっぱ、今日の事を形に残しておきたかったんだ」
「………私は今日が嫌いなのに?」
「嗚呼。君が今日を嫌いでもだ」
はっきりと云い切って、彼女は私の手に自分の手を重ねる。冷たくて小さな白い手が、ぎゅっと私の手を握る。
「君がどんなに今日を嫌ってようが、関係ないんだよ太宰。君は確かに自堕落で、悪戯好きで、女垂らしで、すぐ死のうとするどうしようもない人間だけどな。
それでも私にとっては……否、
君の生まれた日は間違いなく、祝うべき目出度い日なんだからさ」
彼女は断言した。
私の手を両手で握って。
まるでそれがこの世の真理だとでも云う様に。
その自信満々の顔に、似ても似つかない素朴な表情が重なった。
「太宰。じゃあお前は、もし俺が誕生日を迎えたら何て云う?」
誕生日を祝われるのが嫌いで、“誕生日おめでとう”と云う言葉が嫌いだった。
それでも尚、周囲の人間は口を揃えてその言葉を口にする。その事に「何故」とボヤいた時、彼は私にそう問うた。そして問われた私は、ただ口を噤んで眼を逸らす事しか出来なかったのだ。
そんな私に彼は云った。
「つまり、
そう云った彼の口元は、珍しく弧を描いていた。居合わせたもう一人も、苦笑混じりの溜息を漏らしていた。私だけが何となくむず痒くて、喉の奥に痞えた答えを押し流す様にグイと酒盃を煽った。そんな私に、彼らはそれ以上何も云わなかった。
けれど―――
「なぁ太宰、君がこの手の話を心底厭がるだろうって事は重々承知の上で云わせて貰うがな。私は君に出逢えて最高に幸せだし、君が生まれてきてくれた事に心の底から感謝してる。今日探偵社の皆が集まってくれたのだって、君の生まれた日に祝うだけの価値があると思ってるからだ。君が今日をどう思おうが、自分の事をどう思おうが、その事実は変わらない」
けれど残念な事に、私の最愛の人はそんな温情もデリカシーも持ち合わせていないらしい。罵詈雑言の方がまだマシだと思える様な情け容赦ない祝福を並べた彼女は、その上やれやれとでも云いたげに肩を竦める。
「ただ、それを言葉で説明した所で、賢過ぎる捻くれ者の君は理屈を捏ねて認めようとしないだろ?なら、一眼で判るくらい明確な物証を突き付けるしか無いと思ってな。あれこれ考えあぐねた末に、写真って云う形に残して君に押し付けてやる事にした訳さ。
勿論、今更考え方を変えろなんて無茶振りは云わないし、寧ろ文句や苦情なら幾らでも聞いてやる。まぁその代わり、
―――返品と受取拒否だけは絶対に認めないがな」
「―――…っ……」
嗚呼。これは駄目だ。
その笑顔を見て、私はそう察した。
写真を撮ったあの時と同じ、まるで子供の様な屈託のないにっかり笑い。この四年で厭と云う程思い知らされた事実。彼女がこんな風に笑う時は、大体何をやっても覆せない。情け無く白旗を振って、降参するしかない。だからせめてもの腹いせに、私は苦し紛れの反撃を口にする。
「君、本当にいい性格になったよね…」
「そんな私でも、君は好きでいてくれるだろ?」
いとも容易く倍返しを食らって、私は思わず口を噤んだ。私を見つめるその瞳に、不安や疑念の色は微塵もない。寧ろ何処か期待する様な光に、今度こそ完全敗北を認めざるおえなくなった私は力無くちゃぶ台に突っ伏した。
「…………はいはい、いっそ憎らしいくらい好きですよ」
「うん。なら何の問題もないな。私も大好きだぞ太宰!」
握っていた私の手を引き寄せて頬擦りをする彼女は、それはそれは満足げに笑んでいた。私が知らない頃の彼女が好きになれなかったと云うその笑顔。しかし私の眼に映るそれは、無論只々愛おしく見えるばかりだった。
「………」
―――とは云え。やられっぱなしと云うのは、矢張り性に合わない。
「……ねぇ菫。そのカメラ、まだフィルム残ってる?」
「ん?…嗚呼、残ってるけど?」
「じゃあ最後にもう一枚だけ、私と一緒に写真を撮ってくれないかい?」
空いている方の手を彼女の手に重ねて、私は態と上目遣いに覗き込みながら眉根を下げる。彼女がこの角度からのこの表情に弱い事は知っていた。そして案の定頬を染めた彼女に、私はトドメの追撃を仕掛ける。
「だって四年も一緒に居るのに、君と二人で撮った写真なんて一枚も無かっただろう?それに幾ら私に拒否権が無いとしても、貰う側の希望を完全無視した贈り物なんてあんまりじゃないか」
「お、おう…」
「ね?だからお願い菫。せめてそのアルバムの最後だけは、私にとって最も幸せな瞬間で飾ってくれないかい?折角君がくれた贈り物を心から喜べない儘なんて、そんなの
―――寂し過ぎるよ……」
一切の隙なく、一切の漏れなく、彼女の好みを全て押さえた嘆願。その効果の程は、彼女の表情を見れば一目瞭然だ。
「〜〜〜っ…!あーもう!そんな顔しなくたって君とのツーショットくらい幾らでも撮ってやるよ、この甘えん坊の寂しがり屋くんめぃ!」
ちゃぶ台から身を乗り出した彼女は私の頭を抱え込む様にして抱き締め、わしゃわしゃと髪を掻き回す。必然的に彼女の死角に入った私は、柔らかな胸元の感触を堪能しながらニヤリと笑った。“計画通り”と。
「よし!じゃあ太宰其処座って。カメラの位置合わせるから」
「有難う菫。この辺りで善いかな?」
「バッチリだ。ちょっと待ってろよ〜?」
ウキウキとカメラの準備をする菫を見守りながら、私は全力で清らかな微笑みをキープし続けた。今にも崩れ出しそうな口元を必死で固め、『まだだ。まだ笑うな』と己に云い聞かせる。軈てカメラの設置を終えた菫が、ご機嫌な様子で私に声を掛ける。
「うん、こんな所だろう!準備は善いか太宰?」
「勿論、何時でも善いよ菫」
私の返答に頷いて、彼女はカメラのタイマーを回した。畳に座った儘両腕を広げて見せると、その意図を察した彼女が迷う事なく私の膝の上に収まる。柔く小さな身体に腕を回し更に近くへと引き寄せて、私達は互いに寄り添いながらカメラのレンズに眼を向けた。
「菫」
シャッターが切られる迄残り一秒未満。その刹那に、私は彼女の名前を呼んだ。反射的に私の方を見上げた顔に指を滑らせ、もう少し上を向かせる。不意を突かれ見開かれた瞳に、勝ち誇った様に笑う自分の姿が映っていた。そして、無防備に薄く開いたその桜色に、私は最後の反撃を落とす。
パシャ!
軽快な音を立てて、シャッターが切られた。
「………」
柔らかな桜色が私に触れる。
反撃を企てた私の唇にではなく、
―――前髪を掻き上げられた
「一つ、間違いを訂正するぞ太宰。
君は今年も一年死に損なって、また次の誕生日を迎える。来年も、再来年も。これから先、私が君の傍に居る限りずっとだ。だからこれは最後じゃない。
―――これが“最初の一枚”だよ」
まるで寝物語でも語る様な柔らかな声音が、そう告げた。奇襲攻撃にすらカウンターを返してみせた菫は、呆然と固まる私に両手を広げる。
それこそ嘗て私が彼女に見せた様な、満面の笑みで。
「却説。やる事やって私はもう満足したし、
二度もの完敗を喫した私の口元が自然と吊り上がる。しかしそれは、笑顔と呼ぶには些か雑味の多い引き攣り笑いだった。
「贈り物ならせめて、リボンで飾るくらいはしてくれない?」
「悪い悪い、来年の誕生日はそうするよ」
「………この性悪」
「はは、知ってる」
一向に減らないその口をいっそ物理的に塞いでやろうかとも思ったが、それはそれで彼女の思惑に乗せられてしまう様な気がして、結局私は例年通り彼女の額にキスをした。そこから米神、瞼、頬、鼻と手当たり次第に口付けを落とす。散々人を弄んでくれたお礼に、今日はたっぷりと焦らして自分から縋り付かさせてやろう。そんな事を考えつつ耳に口付けると、擽ったそうに身を捩った彼女が其の儘私の耳元に口を寄せた。
「誕生日おめでとう。愛してるよ、治」
「―――……!」
甘い。
甘い甘い祝福が、鼓膜を直に溶かす。言葉を理解した脳すら、蜂蜜の様に蕩かしていく。それこそ、思考の奥、揺らぐ筈の無い絶対の事実に迄染み込んで。
「……っ…」
―――嗚呼、だから厭だったのに。
君にそんな事を云われたら、危うく錯覚しそうになる。
あんなに忌まわしかった今日も、
生まれてきてしまったと云う間違いも、
“暗闇の中を永遠にさまよう”と、無二の友人が云い遺した私の一生も、
「もしかしたら」、…なんて。
「…ん、っ…」
それ以上麻薬の様な甘露が吐き出される前に、私は今度こそ柔らかな桜色を塞いだ。
―――まんまと乗せられた。
頭の中でそんな自分の声がしたけれど、喩えそうだとしても今更この幸福な甘美を手離す気になれなくて、慈しむ様に背中を摩り、愛でる様に頭を撫でるその優しい手に、呼吸すら忘れて溺れていく。
何度手に入れても、何度貪っても足りない。
欲しい。愛しい。手離したくない。もっと、君と―――
そうやって欲にどんどん輪を掛けて、蟻地獄の様な深みに嵌って、
理不尽な程に優しいその手を離せずに、一日、また一日と―――私は死に損なっていくのだろうか。
「………本当に、なんて残酷な人…」
真っ平御免な心底笑えない未来。
けれど悪態を吐いた私の口元は、安堵に緩んで情け無い弧を描いていた。