hello solitary hand・番外編
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「はぁ〜…っ、美味い!もう瞼の裏に爽やかな葡萄農園が見える様だよ」
「そりゃ善かったな。所で、こっちとさっき飲んだ奴だと、どっちが美味かった?」
「え?ん〜…どっちかって云ったらこっちかな?フルーティーで飲み易いし」
「成る程な、んじゃこっちの銘柄にするか…」
「何が?」
「部下に今月誕生日の奴が居んだよ。最近女が出来たって浮かれてやがったから、どうせなら一緒に楽しめるヤツを贈ってやろうと思ってな」
「中也。君はもう理想の上司の御本尊を名乗って善いと思うわ」
「何だそりゃ。これくらい上司なら当然だろうが」
「もう君の語録をカレンダーにして、世のブラック上司共のデスクにアロンアルファで貼り付けたい」
「やめろ。糞鯖野郎に悪用される未来しか見えねぇよ」
呆れた様に溜息を吐いた上司の鏡は、グラスのワインを煽ると今度はニヤリと笑った。
「云っとくが、俺の部下である以上お前の誕生日も例外じゃねぇからな。今の内に欲しいモン決めとけよ?」
「えぇ!?否、私は別に…」
「煩ぇ、上司である俺の命令だ。部下に拒否権はねぇよ。黙って祝われとけ」
「何その優しさしかないパワハラ…」
「はっ。俺からすりゃあ、お前が生まれた日を祝わねぇ方が如何かしてる」
然も当然の様に彼は云う。
何時もそうだ。何時だって彼は、私と云う人間を価値があるものの様に扱う。私自身が自分に付けた値札の上からその何百倍もの価値を貼り付けて、それが当然なのだと云って退ける。
いっそ横暴と云っても善いくらい優しい―――私の最高の上司様。
「なら、私も中也の誕生日が来たら全力で祝福させて貰うよ」
「何だよお前、俺の誕生日知ってんのか?」
「これでも君直下の事務員だぞ?資料に眼を通してれば、上司の誕生日くらい判るって」
本当の事だった。尤も、資料で眼にするよりもずっと前から、彼の誕生日は把握していたのだけど。
「まぁ、とは云え私じゃあ君みたいに凄いものは贈れないだろうから、今からあんま調子の善い事は云えないんだけどね…」
「馬ぁ鹿、俺がんな器の小せぇ上司に見えんのか?お前が俺の為に選んで寄越したモンなら、何であれそれで十分だろうが」
「えっと…、でもやっぱ本人の希望も大事だしさ。中也的には何か貰って嬉しい物とかあるかい?」
最早理想通り越して聖人の領域に達しつつ有る尊き上司様は、考え込む様に視線を落としてワイングラスを傾けた。
「“貰って嬉しい物”ねぇ…。まぁ、強いて云やあ―――」
結局の所、その会話はただの“たられば”で終わってしまった。彼が私の誕生日を祝う事も、私が彼に誕生日プレゼントを贈る事も無かった。何故なら、互いの誕生日が来る前に私はポートマフィアを抜けて、
―――以来、彼の許に戻る事はなかったからだ。
****
「全員居ますね」
薄暗い司令室に集まった面々を見渡し、私は背筋を伸ばして部下達に告げた。
「単刀直入に云います。昨日、武装探偵社の調査員より取引を持ち掛けられました」
「武装探偵社の奴が?」
「ええ。“あくまで個人的なものであり、武装探偵社は関係ない”と本人は主張していますが、それも何処まで本当かは判りません」
「それで、その取引とやらの内容は?」
「その探偵社員が保有している“とある重大な情報”と引き換えに、ポートマフィアに就いて聞きたい事があると。詳しい内容は実際に会ってからとはぐらかされました」
「はぁ?何だよそれ、嘗めてんのか其奴」
「確かに、随分曖昧な取引内容だ。“罠”、と云う可能性もある。何せ向こうには謀のプロが居るからな」
「はい。私もそれは考えました。しかし、その探偵社員が提示してきた対価は見過ごせません。あれを敵組織だけが保有しているのは、余りに危険です」
「そんなにヤバいのか、その“重大な情報”ってヤツは…」
固唾を飲む部下に、私は重々しく頷いた。場の空気が更に固く張り詰める。昨日電話で云い放たれた事を思い出して、無意識に私は拳を握り締めていた。
「もし万が一、あれを探偵社に利用されれば―――奴等に
「「「!?」」」
「情け無い話ですが、そんな物を前にして冷静な状況判断を下せるかどうか、自分でも自信がありません。否、寧ろ彼女は其れすら見越して私にこの取引を持ち掛けたのかも……。首領の命令で我々が手を出せないこの機に乗じ、私の動揺に付け込んでポートマフィアの内部情報を探る為に……」
事の重大さを理解した部下達が放つ気配は、先刻迄の緊張感とは比べ物にならない程に鋭く研ぎ澄まされていた。否、既にそれは“緊張感”などと云う生温いものではなかった。部下達の本気を確信した私は意を決して云い放つ。
「貴方達に重要任務を命じます。明日、探偵社員との取引に赴き、件の“重大な情報”を確保して下さい。手段は問いません。全ての責任は私が取ります…っ!」
「承知した。所で問題の取引相手は、探偵社の誰なのかね?」
組織の中でも古株に数えられる壮年の部下に問われ、私の脳裏にその姿が浮かび上がる。何も考えていない様なヘラヘラとした気の抜ける笑顔。そうかと思えば、不意に強く芯のある光を宿す奇妙な眼。敵組織の人間である自分に、何故か一方的に親しげな振る舞いを繰り返す理解不能なその変人の名を、私は紡いだ。
「武装探偵社調査員。そして、元ポートマフィアの―――臼井菫です」
****
おい、どうしてこうなった。
「……………」
「はっ!マジで単身乗り込んでくるとはなぁ。随分余裕じゃねぇか」
「御足労感謝する。では早速、此方の質問に答えて貰おうか」
現在の私の状況を説明すると、無人の廃倉庫で刃物と拳銃を両サイドから突き付けられております。相手はポートマフィアの武闘派実働部隊『黒蜥蜴』の皆さんです。うん。ホント何で?
「え〜…っとぉ…。初めまして。武装探偵社の臼井菫です」
「承知している。それより、随分早い到着だったな。指定の時間まで、まだ二十分もあるが」
「あ〜、否まぁ、何と云うか。楽しみ過ぎてつい…」
「どうだかな。俺達を嵌める為に罠でも仕掛けに来たんじゃねぇのか?」
「いや〜〜、って云うか、抑々私樋口ちゃんと待ち合わせしてた筈なんですけどぉ…。何故黒蜥蜴の皆さんが此処に?」
おかしい。私は確かに一昨日樋口ちゃんに電話をして、樋口ちゃんも私の申し出を承諾してくれた筈だ。ポートマフィアの人にちょっと聞きたい事があるから、会って話したいって。勿論、忙しい樋口ちゃんに時間を割いて貰うのだからと、相応のお礼を用意すると約束した。そして私は今日樋口ちゃんと一緒にお茶する為に静かな喫茶店迄探して、ちょっとスキップ混じりに足取り軽くこの待ち合わせ場所にやって来た。その筈だ。なのに、待ち合わせ場所に来て見れば其処に彼女の姿は無く、代わりに私を出迎えたのは文句無しの凶器と明らかな殺気を携えたポートマフィアの武闘派集団。おいおい、マジでどうしてこうなった。
「残念だが彼女は此処に来ない。代わりに我々が貴君との取引に応じよう」
「と、取引?何の事ですか…」
「惚けても無駄だぜ。芥川の兄貴の弱みと引き換えに姐さんを揺すろうなんざ、正義の探偵社様が随分悪どい事考えるじゃねぇか」
「芥川君の、弱み…?」
「貴君が今回の取引で対価として提示した情報は、我々の上司を掌握し得る危険なものだと聞いた。此方としても事を荒立てるのは本意ではないが、条件次第ではそうも云っていられなくなる。先ずは、貴君が今回の取引を持ち掛けた目的を話して貰おうか」
「…………」
黒蜥蜴の面々が告げた断片的なワードと、一昨日樋口ちゃんに電話した際交わした会話。その二つを猛スピードで照合していった脳味噌が結論を導き出し、私は理解した。
盛大にアンジャッシュ起きてる。
私はただ樋口ちゃんに聞きたい事があってお茶に誘ったつもりだったが、どう云う訳か彼等に通達される迄の間に私が樋口ちゃんを脅迫した事になってしまった様だ。おいおい何でだよ。たった三ターンの伝言ゲームで一体どんだけの大事故が起きたんだ。加工済みのアイコン写真以上に話が盛られまくってんじゃねぇか。否まぁ、確かに敵対してる組織の奴からお茶誘われたら勘繰るのは当たり前かもしれないが、勘繰り過ぎだろ。てか抑々私にそんな謀略とか心理戦とか無理だから。寧ろそんなスキル私が欲しいわ。
とは云え、今の黒蜥蜴御一同様に私が真実を話したら、それはそれで彼等の不満が樋口ちゃんに向くかもしれない。折角
「あの…目的と云いますか、ポートマフィアの方にお聞きしたい事がありまして…」
「何だよ、武器倉庫の暗証番号か?それとも癒着してる政治家のリストか?孰れにしろんなもん」
「皆さん、貰って嬉しいものとか…ありますか……?」
「「…………は?」」
想像通り返って来た疑問符に、私は必死に笑顔を貼り付けて見せた。まぁ自分でも判る程ぎこちない引き攣り笑いになったが。それでも口火を切ってしまった以上後には引けず、私は尚も言葉を続けた。
「えっと…、ポートマフィアの皆さんが贈られて嬉しいものって云うか…。そう云うの聞きたくて、私は樋口ちゃんに取引を持ち掛けたんです……」
「そんな事聞いて、一体どうする心算だよ」
「何と云うか…個人的に必要な情報でして…。その、勿論ポートマフィアに害はありませんし、対価として樋口ちゃんに提示していた情報もお渡しします。なので、宜しければ教えて貰えませんか?」
最後に頭を下げて沙汰が下るのを待つ。私の頭より少し高い所で、彼等が顔を見合わせるのが気配でわかった。一応この場に居る面子は全員知識としては知っているが、実際に会うのは銀ちゃん以外初めてだ。否、仕事モードの銀ちゃんに会うのは今回が初めてなので、事実上全員初対面みたいなものだろう。予備知識があるとは云え、正直三対一と云うこのアウェイ感と殺伐とした空気は地味に堪える。何でも良いから早く返事をくれないだろうかと内心で戦々恐々していると、不意に落ち着いた声が空気を震わせた。
「貴君の要求は、本当にそれだけなのだな?」
「はい。お忙しい皆さんに御足労頂いた上で大変恐縮ですが、それだけです」
「………ふむ。良いだろう。そんな世間話程度の質問に答えるくらいならば問題あるまい」
「っ!有難う御座います!」
安堵と感謝で思ったより大きな声が出た。そんな私に多少面食らった様に眼を見張った黒蜥蜴百人長、広津柳浪さんは仕切り直す様に咳払いをした。
「却説それで、貴君が聞きたいのは“我々が貰って嬉しいもの”だったか?」
「はい。あ、出来れば銀ちゃんの意見も聞きたいな。これ良かったら使って」
私は鞄から手帳とペンを取り出すと、喉元にナイフを突き付ける銀ちゃんに差し出した。銀ちゃんは少し戸惑った様だったが、軈てナイフを下ろして手帳とペンを受け取ってくれた。その反応に少し緊張が解けて来た私に未だ拳銃を突きつけた儘、鼻の上に絆創膏を貼った青年、立原道造が考える様に唸った。
「ん〜、貰って嬉しいものか…。やっぱ優秀な部下かねぇ。仕事が楽になるしな」
「ふん。部下の能力に頼り切りでは先が知れるぞ立原」
「んだと!そう云うジイサンはどうなんだよ!?」
「私は仕事後の一服さえあれば十分だ」
「ちっ、年寄りは欲がねぇな。おい、銀はどうだ?何か欲しいもんあるか?」
『空気清浄機』
「はぁ?んなもん貰ってどうすんだよ?」
「ぐすっ」
「何でアンタは目頭抑えてんだ」
「いえ、お気になさらず。…あ〜…でもその、今のお話も大変参考になるのですが、出来れば皆さん個人ではなく“ポートマフィアの人的に貰って嬉しいもの”を教えて貰えませんでしょうか?」
すると三人は再び顔を見合わせ、暫しの黙考の末口を開いた。
「そりゃ普通に金と地位だろ」
「信頼のおける協力者、手堅い流通経路。どちらも組織の繁栄に欠かせないものだ」
『襲撃先の警備情報』
「えっと…、出来れば物でお願いしたいんですが…」
「注文多いな」
「すみません…」
「まぁ、物だったら最新型の銃器とかか?」
「腕の良い職人が拵えたスーツや装飾品なども良いだろう。ポートマフィアを名乗る以上、安物を身に付けて嘗められては話にならん」
『敵の首』
「あ〜…、はい。成る程…」
うん。如何しよう。思った以上にインポッシブルな内容ばっか飛び出してくるぞ。否、多少覚悟はしてたけどさ。今の所唯一実現可能なのが『敵の首』なんだが、マジ如何しよう。
「……もしかしてアンタ、ポートマフィアの奴に何か贈り物でもする気なのか?」
「っ!?え、な、何で」
「否、此処まであからさまに聞かれたら誰だって判るわ。なぁジイサン、銀?」
呼び掛けられた二人が静かに頷くのを見て、私は自分が知らない内に墓穴の底にいた事を知った。
「あっ…、否あの、たたた大変参考になりました!もう十分です、お答え頂き有難う御座いました!」
「な、おい!?」
「ここここれ!約束の情報!これ以外に記録は無いし、私も他言しないから安心してって樋口ちゃんに伝えて下さい!!ではこれで!」
樋口ちゃんに渡す心算だったノートを銀ちゃんに押し付けて、私は単発の物理拒絶で一気に廃倉庫の外に飛び出す。その後方で案の定静止の声が掛かったが、私は振り向きもせずに脱兎の如くその場から離脱した。
「クソ!如何する、追うか!?」
「必要無いだろう。彼女の職場と住所は判っている。それより今は、例の“重大な情報”とやらを改めるのが先だ」
「てか、どっからどう見てもただの大学ノートだが、本当にそれで合ってんだろうな?……ん?無花果五〇〇
「洋菓子を作る手順書の様だが…、何かの隠語か?」
「…………」
「銀?」
『これで合ってます』
「合ってるって…。何でお前にそんな事判るんだよ?」
ピリリリリ!
「失礼、私の携帯だ。―――っ!」
「如何したジイサンまで?」
「否、何でもない。………少し、外させて貰うぞ」
****
「はぁ〜〜〜…」
やってしまった。久々に盛大に完膚無き迄にやってしまった。
今日の為に見つけておいたガラガラの喫茶店。その窓際にある隅っこの席で私は蹲る様に突っ伏した。店内を満たすピアノの静かな旋律が、逆に悲壮感を助長させる。何時もなら心踊る筈の芳しい紅茶の香りでさえ、私の憂鬱を上書きしてはくれないかった。幾らアウェイで緊張していたとは云え、ああもすんなりと襤褸を出してしまうとは。しかも、慌てて逃げたからお礼に就ての説明が不十分だった。矢っ張り中身確認されちゃったよな…。嗚呼クソ、せめて『これは内容を秘匿する為に暗号化されています』とか誤魔化して逃げれば良かった。大丈夫かな樋口ちゃん。
(しっかし…、
今日のお茶会で、私が樋口ちゃんへの返礼に提示したもの。それは、私を嫌う
「はぁ…。結局、無駄に皆を振り回しただけだったなぁ……」
「随分慈悲深いのだな。この期に及んで敵の心配かね」
卓上に落とした筈の独り言に返事を返され反射的に顔を上げると、其処には髭を蓄えた壮年の紳士がモノクル越しに眼を細めていた。
「えっ、広津さん!?何で!?」
「店内では静かに。見た所他の客は居ない様だが、この趣ある空気を壊すのは余りに無粋だ」
「あ…、はい。すみません…」
マフィアにご尤もな注意を促され、私は静かに座り直した。広津さんは私の向かい側の席に座り、それを見計ったかの様に湯気の立つ珈琲が届けられる。見た所他の二人は居ない様だが、突然の相席者に私の脳内は大混乱に叩き込まれた。しかし広津さんはそんな私にお構い無く、実に落ち着いた動作で珈琲を口に運ぶ。その姿が何処か、嘗てお世話になった前任者さんに似ていた。
「善い店だな。味わい深く静かで、店主の腕も悪く無い。まぁ若者が好むには、些か落ち着き過ぎるとは思うがね」
「あ、有難う御座います。…その、広津さん。私の事…、追ってきたんですか?」
「そうだと云ったら?」
「えっと…。約束の情報は、本当にあのノートに記載されているものです。まぁ一見ただのお菓子のレシピですが、実は内容を秘匿する為に編まれた暗号文章でして」
「その件はもういい。あれが目的の品だと確認は取れている。君は確かに、我々に対価を支払った」
「は、はぁ。では何故此処に…?」
「我々に対価を支払っておきながら、君が何も受け取らずに立ち去ったからだ。これでは取引として成立しない」
「否…でも、皆さんからはちゃんとお話聞かせて頂けましたし、私としてはもう十分で」
「十分?君はまだ必要な情報を、何一つ引き出せて居ないと云うのにかね?」
年季の入った鋭利な視線に、思わず口が止まった。そんな私を観察する様に見やった広津さんは、軈て小さな溜息を吐いて続きを紡いだ。
「毎年各部署で資金を出し合い、二ヶ月前から下調べをして贈り物を協議するのが部下達の恒例行事らしい。個人的に贈り物を用意するのは首領や紅葉君くらいだが、それも彼の立場や財力に見合うだけの逸品に限られる。君の参考にはならんだろうな」
「え…」
「君が聞きたかったのはこう云う情報だろう。だが生憎と、ポートマフィア内で交わされる贈り物は最低限箔付きのものに限られる。況して、
「―――っ!」
明確に核心を一突きされ、今度は呼吸が詰まった。それを気にする気配もなく、落ち着いた声は尚も朗々と語る。
「何、探偵でなくとも判る簡単な推理だ。君がポートマフィアの人間に贈り物をしようと画策しているのは明白。となれば、それは君が組織に在籍して居た時に交流のあった人物だろう。その中で考えられる最有力候補は、君の元上司であり誕生日が間近に迫っている中也君をおいて他に居ない」
「…………」
「一つ、聞いても善いかね」
「………何ですか…」
「君がポートマフィアを抜けたのは四年前。その間彼と接触を測った事はない。そうだな?」
「はい…」
「何故今になって、誕生日の贈り物を?」
「…………」
―――“
本当にその通り過ぎて、思わず自嘲が漏れた。
今日あの待ち合わせ場所に辿り着く迄、何度も自分で自分に問い掛けた言葉だ。四年間音信不通だった奴が。それも、何度も衝突を繰り返す様な敵対組織に所属してる奴が―――
あの優しい手を取る事を選ばなかった奴が。
一体今更どの面下げて誕生日プレゼントなんか贈ろうと云うのか、と。
私と太宰が探偵社に所属しているとポートマフィアに知れて、身辺の情報管理を今迄程徹底しなくてもよくなった事とか。束の間の休戦状態で、ポートマフィアからの刺客を警戒する必要が無くなった事とか。きっかけは色々ある。でも正直云って本当の理由は、
来年の今頃、この物語は私の知識の枠を超えてしまっているからだ。
だから、彼の誕生日を平穏無事に祝えると確定した今年を、―――如何しても見逃す事が出来なかった。
「昔、酒の席で口走っちゃったんですよ。彼に、『誕生日が来たら全力で祝福させて貰うよ』って」
「では、嘗て為し得なかった約束を果たそうと?」
「はは、そんな大層なものじゃ無いですよ。あんなの、私が勝手に宣って、勝手に保留にして…。その事に、勝手に引っ掛かり続けてただけです」
今、自分が人生最大の幸せを謳歌している事に疑いは無い。怯えずに笑い合える仲間、人間らしく振る舞える場所、そして―――自分を誰よりも愛してくれる恋しい人。
ポートマフィアを離れ、武装探偵社に入り、賢く我儘でどうしようもないあの寂しがり屋の手を取った事を、私は後悔して居ない。後悔などする筈がない。これ迄もこれからも。それは断言出来る。
それでもこの四年、一度だって彼の存在を忘れる事が出来なかったのも事実だ。もっと善い手は無かったのかと、彼と変わらず笑い合えるあの時間を守り続ける方法は無かったのかと、そんな不毛な“もしも”を呆れる程に想い描いた。けれど、何時だってそれは何処か破綻して居て、結局絵空事の枠を越える事はない。それでも往生際の悪い願望が、何度云い聞かせても沸き上がって来るのだ。
それこそ、こんな愚行を犯す程に。どうしようもなく。
「成る程。話は大体理解した。それで、彼に何を贈るかは決められそうかね?」
「正直まだ迷走中です、…否、寧ろどん詰まりですかね。判ってはいましたが、私の出資出来る予算じゃどう足掻いても彼に贈れる様な品には届かない。貴方のお話で、それが確定しましたから」
「君は料理を得意としていると噂に聞いた。何か作って贈るのはどうだ?それなら予算が無くても実現可能だろう」
「あー…。最初はそれも考えましたが、既に却下してます」
「何故かね?」
「贈り主が私だって一発でバレますから」
「何か問題でも?」
「ん〜、何て云うか…。凄く面倒臭い事云いますが、プレゼントは贈りたいけど、贈り主が私だって知られたくはないんです」
誤魔化す様に苦笑を浮かべてみたが、矢張り熟練のマフィアには通じなかったらしい。私を見やる広津さんの眼に、見える筈のない文字がありありと見える。“此奴何云ってんだ”と。
「否…、当初の計画では今日樋口ちゃんに話を聞かせて貰って、プレゼントを調達して、それをポートマフィア内の誕生日プレゼントに紛れ込ませて貰うよう彼女にお願いする心算だったんですけど…」
「はぁ…驚く程に計画性の無い計画だな。どれだけ樋口君に頼りきる心算だったのだ」
「返す言葉もありません。ただ、他に頼れる伝手が無くて…」
ビビり全盛期時代の私がポートマフィアで築いた人脈は、両手が在れば余裕で事足りる程度だ。しかもその半分くらいはもう組織に居ない。組織に在籍していたとしても、一人は連絡の取りようが無く、もう一人にはお願い出来る事柄じゃない。最後の一人に至っては、多分接触を測った時点でレディ・ファイトだ。だからと云って、この件で“彼”の手を借りる訳にはいかない。
頼れる筈がない。
今の“彼”は、私の我儘を受け入れてくれる。いっそ喜んですらくれる程だ。けれど、他の男に焦がれる女を四年もの間見限らず傍に居てくれた“彼”に、そんな甘え方はしたくない。
そしてそれは、四年もの間焦がれておきながら、一度はこの身を許し掛けてすらおきながら。何度も何度も自分を助けてくれたその手を最後には離してしまった、あの人にも云える事だ。
「抑々これは私の我儘です。ただの自己満足です。だから、知って貰えなくて善いんです。知ったらきっとあの人はまた
―――私に、何かしてくれようとするから」
私がどんな陳腐な贈り物をしようと、きっとあの人は受け取ってくれるだろう。“有難う”と笑ってくれるだろう。そして、何時もみたいに然も当然とでも云う様に、何倍もの返礼を私に返してくれる。
あの人はそう云う人だ。
だから、知って貰わなくて善い。何も想われなくて善い。あの声も、笑顔も、想いのひとつだって返ってこなくて善い。返されては意味が無いのだ。
何故ならこれは、私の身勝手なエゴなのだから。
自分にそんな資格は無いと理解して尚押し通そうとしている、ただの我儘なのだから。
全てを失い暗闇の海に放り出された私を、守り続けてくれた。望みを抱く事すら出来なかった私に、多くを与えてくれた。数え切れない程の失敗と身勝手を繰り返した私を、それでも許し見送ってくれた。
そんなあの人が生まれた日を。何度も私を救ってくれたその奇跡を、どうしても祝福したい。
ただ、私がそうしたい。
それだけなのだから―――
「臼井君」
名を呼ばれ、何時の間にか俯いて居た顔を上げると、卓上で指を組んでいた壮年の紳士が静かに続けた。
「私も老獪振って若者に講釈を垂れる心算はない。が、それなりの人生経験の中で学んだ教訓を、ひとつだけ述べさせて貰っても善いかね」
「………何ですか」
「人とは須く“利己的”なものだ。世に云う善人、聖人の類は、単に己の利と他人の利が偶々合致しているだけに過ぎん。他人の為に動き、尽くし、与えるのは、突き詰めればそれで自分が満たされるからだ」
「はぁ…。まぁ、それは判りますけど…」
「そう。君はそれを理解している。君の言う通り、贈り物の本質は“自己満足“だ」
「……!」
「君の立場、君の主張は十分判った。だが中途半端な気遣いなど彼に対する不義にしかならん。自己満足の為に彼を利用する以上、粗品しか用意出来ない不甲斐無さも、過分な返礼を受ける心苦しさも、君には負う責任がある。裏切り者の身でありながら図々しくも彼に贈り物をすると決めたのなら、最後迄その厚顔無恥を貫き給え。その方がまだ誠実と云うものだ」
最後に珈琲カップを口に運んで、社会の裏側を長年生き抜いてきた壮年の紳士はそう締め括った。彼が空になった杯をソーサーに戻す迄の間、たった今賜った言葉と嘗ての記憶がごちゃ混ぜになって私の脳内を渦巻く。それらを改めて咀嚼し飲み込んだ上で、私は漸く決断を下した。
「広津さん」
「何かね?」
「―――早速図々しいお願いさせて下さい」
今度は自らの意思で顔を上げ、背筋を伸ばし真っ直ぐに目を向けた。そんな私に、再び指を組んだ広津さんが僅かに口の端を吊り上げる。
「聞こう。何しろ私の今日の仕事は、君との取引だからな」
****
扉を開けたその先には、埃っぽい暗がりが閉じ込められて居た。一気に劣化した空気に軽く咳払いをして、俺はその中に足を踏み入れ扉を閉める。まるで外界から切り離された様に時を止め、外の時間が進む毎に頽廃していくこの部屋に嘗ての色は無い。それでも尚定期的に此処の扉を開き続けてきたのだから、自分の女々しさにいっそ笑えてくる。
だがそれも、―――今日で終わりだ。
ポツンと残された机に凭れ、グルリと室内を見回した。俺の昇進に伴い事務方の人員が増え、この部屋が事務室から物置に変わって大分経つ。と云っても、今や此処に収められていたものの殆どは片付けられ、残っているのは陰気臭い影を収めた空っぽの棚とこの机だけだ。疎らながらもこの部屋を埋めていた段ボール箱や家財道具やデカい猫のぬいぐるみだのは……、
―――
「こんな広かったんだな…此処…」
彼奴が戻ってくるなんて、そんな都合の善い事を本気で期待していた訳じゃない。
それでも、もし。仮に。万が一。
そんな根拠も無い“もしも”を見限れず、俺は彼奴が残していった私物を全て此処に押し込んだ。
彼奴が此処に戻りたいと願った時、あの遠慮がちな手を引いて“お前の居場所は変わらず此処に在る”と、そう云ってやる為に。
それがただの詭弁だったと気付いたのは、ついこの前だ。
四年振りに彼奴に会って、話をして、彼奴の居場所は此処じゃないと理解した。此処に在るものは彼奴に必要無い。それを理解した後ですら、俺はこの部屋にあったものを棄てられずにいた。それで漸く気付いた。俺が残しておきたかったのは“彼奴の居場所”なんかじゃなかった。俺が残しておきたかったのは、“彼奴の名残り”だ。
「我ながら往生際が悪ぃったらねぇな……」
見苦しくしがみついていた、彼奴が此処に居た証。それを今度こそ手離す決心をして、俺は昨日此処に重ねていた箱を四年振りに開いた。女物のスーツと革靴、店先で“オススメ”と広告されていた恋愛小説、当時流行っていた育成ゲーム、デカい猫のぬいぐるみ。一つ一つ手に取り分別して袋に詰めながら、俺はもう一つの事実に気付いた。
彼奴の服も、靴も、本も、ゲームも、ぬいぐるみも―――全部、俺がくれてやったものだった。
彼奴の名残と、後生大事に仕舞っておいたその箱の中に、彼奴自身のものは一つたりとも無かった。この四年間、俺が棄てられずにこの部屋に押し込んでいたものは全て、
―――結局の所、俺のものだった。
「哀れな君が勘違いをしない様に云っておくけど、彼女はもう其方側では生きられない。君が何を与えようと、
―――“君の許に彼女の幸福は無い”」
「知ってる」
あの人間失格野郎に云われなくても、知っていた。
本当はとっくの昔に気付いていた。
誰も味方が居なかった彼奴を守り続けて。何も望まなかった彼奴に次々ものを押し付けて。ちょっとした失敗に、我儘に、この世の終わりみてぇな顔をする彼奴を、当たり前の様に許し見送った。
その全ては、俺が俺の為にした事だ。
彼奴を守っていたのは、俺が彼奴を失いたくなかったから。彼奴に与えていたのは、俺がそれで満たされたから。彼奴を許し見送ったのは、俺が彼奴にみっともねぇ姿を見せたくなかったから。感謝も、敬意も、況してや好意を望む資格も無い。
何故なら俺が彼奴にしてやっていた事は全て、俺の為でしかなかったのだから。
「……後は此奴で終わりだな」
嘗て彼奴が使っていた机。四年間変わらず此処に放置されていたが、別段痛んでいる訳でもないので物資が足りないと嘆いていた部署にくれてやる事にした。今日、此奴を其処へ届ければ晴れて片付けは完了だ。事務室、物置と表札をとっかえひっかえされていたこの部屋は、明日から別の奴が管理する事になっている。何に使われるかは知らないが、もう此処に足を運ぶ心算も無いので別段気にはならなかった。香り立つ珈琲と華やかなケーキが山と積まれた書類と共に並んでいた卓上には、今やペンの一本すらも残って居ない。埃っぽい暗闇に沈むその卓上を一度だけ撫で、俺は目を閉じると深く息を吐いた。
「っし、とっとと片付けるか」
態と威勢よく声を上げ、俺は異能を使って最後の荷運びを始めた。何時迄も感傷に浸っている時間はない。特に
「……ん?」
その時不意に、取り残された椅子の上に何かを見つけた。
それは茶色の紙袋だった。昨日片付けに来た時、こんな物無かった筈だ。首を傾げつつ紙袋を手に取ると、中には黒いリボンの掛けられた酸塊色の小箱が入っていた。一度机を床に降ろし、俺は紙袋からその箱を取り出す。重量を確かめ、軽く耳元で振ってみたが、如何やら爆弾の類では無さそうだ。包装からして贈り物の様に見えるが、誰かの忘れ物だろうか?だがこんな場所に好んで出入りする奴なんて、自分以外に心当たりがない。紙袋をひっくり返してみたが、他には何も入って居ないようだ。仕方なく俺は、掛けてあったリボンを解いて包装紙を開いた。持ち主に許可なく開くのは多少気が引けるが、他に手掛かりを得る手段はない。いざとなればもう一度誰かに包装し直して貰おう。そんな事を考えながら、俺は包み紙の中から出てきた箱の蓋を開けた。
「―――……」
リボンと包みが小さな音を立てて床に落ちる。
それでも、その箱だけは落とさなかった。
シンとした室内が空気すら失った様に音を消した。
聞えるのは自分の内側の音。
ドクドクと脈打つ、自分の心臓の音だけだ。
ふと、呼吸をするのを忘れる程に凝視していた手元の
明らかな印刷で綴られた短い文章。誰が書いたかなんて判りゃしない。
その筈だ。
それなのに何故か、俺の脳内でその文章に形を与えたのは
―――彼奴の声だった。
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「それで、私は今回どの様な謀略の片棒を担がされたのかね?」
野外に設られた喫煙所で煙草を吹かしつつ問うと、電話の相手はお道化る様に明るい声で答えた。
『やだなぁ広津さん。愛しい恋人を謀略に陥れる様な卑劣な真似、この私がするとでも?』
「するだろう。何せこの件に於けるもう一人の中心人物は、君がこの世で最も忌み嫌う元相棒だ。寧ろ、地獄の鬼も震え上がる程悪辣な謀略を嬉々として編む所だ。少なくとも、私が知って居る君ならね」
血と屍に彩られた数々の功績を、まるで遊び尽くしたゲームでも熟す様に平然と積み重ねていったあの無明の眼。幸か不幸か、その傍らに何度か立った経験者とては当然の解答だ。すると電話越しに、昔より幾分か温度の感じられる様になった声が返って来た。
『残念だけど、今回のお願いに裏なんてないよ。私の目的は“菫が用意した誕生日プレゼントを中也に届けてやる事”。本当にただそれだけだ』
「………意外だな。君が彼女に抱く独占欲は、かなり深刻なものだと耳にしていたが」
『ちょっと、それ誰からの情報?』
「黙秘する」
『まぁいいや。どうせ紅葉の姐さんか森さん辺りでしょう?』
「重ねて黙秘する。それより、私にはどうしても君の返答が腑に落ちないな。臼井君から中也君に贈り物をさせて、君に一体どんな利があると云うのだね?」
『簡単な事だよ。―――“未練”は人を死ぬ迄縛るからさ』
再び電話口から、温度のある笑い交じりの声が届いた。だがその声は、先刻の様な人肌のものではなかった。まるで焦熱地獄の一端を移した様な底知れぬ何かが、人の声と云う器の奥底に蠢いて居る。そんな錯覚から思わず煙草を取り落とした私に、嘗て裏社会にその名を轟かせた異端児は世間話でもする様に続けた。
『幾ら断ち切った所で、果たされなかった“未練”は消える事なく心に食い込み残り続ける。けれど、叶ってしまった“未練”はただの“思い出”だ。そして思い出は、ただ美しいく輝くだけで人の心を縛りはしない』
「………成程。つまり君は、彼女にとっての中也君を“未練”から“思い出”に降格させたかったと云う訳か」
『ふふふ、人聞きが悪いなぁ広津さん。“思い出”だって価値ある立派な心の財産だよ。
ただ、“彼女を縛るのは私だけでいい”。それ以外は必要ない。
それが喩え、
私は彼とのこの会話が電話越しで在る事を心から感謝した。嘗て誰もが恐れた、計り知れない無限の空洞をその眼に宿した虚な少年。だがそれよりも、今電話の向こうで恋人に想いを馳せ微笑んでいるだろう青年の方が、ずっと深く得体の知れない混沌を宿していると確信したからだ。
「ごほん…、まぁ、何と云うか…自分の恋人に熱を上げるのは結構だが。……その、程々にな」
『ご忠告はご尤もだけど、生憎私の愛しい恋人は自己肯定が大の苦手でね。寧ろ、多少キツめに愛してあげるくらいが丁度善い。嗚呼もう菫ったら本当に手の掛かる困った人。うふふふふ』
「嗚呼…。成る程……。まぁ、それで問題無いのなら…善いが……」
『まぁそう云う訳だから、“臼井菫は私に溺愛されながら仲睦まじく蜜月の日々を送っているのでご安心を”って、
「!…やれやれ、相変わらず君には何でもお見通しか」
『ふふ。広津さんも有難うね。
「何、私もまた自分の利の為に動いただけだ。君達と同じ様にね」
最後に電話口から聞こえた笑みは、再び人肌の温度に戻っていた。軽く挨拶を済ませて電話を切り再び煙草を咥えると、不意に火の着いたマッチが口元に現れた。
「そう云う訳で、如何やら彼女は至極大事にされているらしい。まぁ色々と不安は感じるが、少なくとも彼が臼井君を棄てる事はないだろう」
煙草に火が付くと、贈り物を届ける役を全うしたもう一人の協力者は何時もの様に微笑み、通話中ずっと眺めていた紙片に再び眼を落とした。其処に綴られているのは実に短い祝辞。読むのに一秒と掛からないそれを、彼はこうして今朝から今迄何度も何度も読み返している。
「お前から聞いた通りだったよ。生真面目で道理を重んじ、謙虚な割に他人の為に動く時の行動力は人一倍。あれは確かにマフィア向きではない。…ただ、一点だけ訂正を求める」
「?」
「今の彼女は話で聞いていたよりもずっと、図々しいぞ」
一瞬見開いた老年の双眸は、柔らかに弧を描くとまた紙片の文字を目で追った。彼女に頼まれ、共に吟味し選んだ味のあるデザインの珈琲カップ。私が託されたもう一つの贈り物に添えられていた『遅くなってすみません。三尾さん、五大幹部付き事務主任昇進おめでとうございます』と云う、たった二行の祝辞を。
「やれやれ…。老いゆく己を嘆く訳ではないが、こうも変わりゆく姿を鮮やかに見せ付けられると、些か羨望を禁じえんな」
二本目の煙草を吹かしながら、私は賑わいと輝きを放つ窓の向こうに目を向ける。絢爛な装飾、豪華な食事、陽気な音楽、祝杯を掲げる大勢の同志達。毎年眼にし続けてきた光景。その中心で祝福を受ける主役の顔に、ここ数日見られた陰りはもう無い。如何やら此方の思惑も巧くいった様だ。そんな安堵に小さな笑みを零すと、何時の間にか自分と同じ光景に目を向けていた旧友が穏やかに呟いた。
「若いなぁ…」
「いや、全く」
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「中也的には何か貰って嬉しい物とかあるかい?」
誕生日を祝ってやると宣言した筈の奴に何故か贈り物の希望を問われ、俺は酒の回ってきた頭で暫し黙考した。
「“貰って嬉しい物”ねぇ…。まぁ、強いて云やあ
―――“コレ”だな」
持っていたグラスを軽く掲げる俺を見て、不思議そうに首を傾げる彼奴に視線で手元のグラスを示す。その意図を察して彼奴がグラスを手に取ると、俺は自分のグラスを其処にかち合わせた。
「俺の誕生日に何かしてくれるってんなら、こうやって乾杯してくれよ。俺はそれで十分だ」
「え…いやいやいや!流石にそれはナイだろ。てかそんなん当たり前じゃん。お弁当に箸付けるくらい必須事項じゃん!」
「そうか?寧ろ俺には、―――其方の方が重要なんだがな」
半ば独り言ちる様に零すと、狼狽えていた彼奴は途端に静かになった。何故か急に息を詰まらせた様に固まる彼奴に、何時もの俺なら“シケた面してんじゃねぇ”と頭を掻き回してやる所だっただろう。だがあの時は酔いの所為かその儘口が滑り続けて、気付けば小っ恥ずかしい自分語りが勝手に溢れ出していた。
「初めて誕生日を祝われた時な、意味が判らなかったんだよ。“俺が生まれた日”。ただそれだけの日の、一体何がそんなに目出度ぇんだって。
でもな、毎年毎年しつけぇくらい“おめでとう、おめでとう”って贈り物押し付けられて……ある時思った。少なくとも、此奴等にとって俺が生まれた日は目出度ぇ日なんだって。俺の周りの連中は、俺が生まれた事を目出度ぇ事だって思ってくれてんだ…ってよ。
それからは、誕生日祝わって貰えんのが妙に有難くってな」
嘗て自分と同じ境遇に苦しんだ兄に云った通り、俺は自分が生まれてきた事を“間違いだった”だなんて思わない。だが同時に、自分が生まれてきた事を“喜ばしい事”だとも思わなかった。思えなかった。人智を超えた特異点の怪物を宿し、人間かどうかも定かじゃない自分を、誰かに祝福される様な大層な生き物だと思い切れなかった。だからこそ、その言葉に救われた。俺の周りの連中が笑って繰り返す“おめでとう”と云う言葉が―――何より嬉しかった。
「だから、贈り物の中身なんざ本当に何でも善いんだよ。其奴が俺の誕生日を祝ってくれたってだけで、俺が生まれた事を祝ってくれたってだけで、贈り物としちゃあ十分だ」
口を噤んだ彼奴の顔は、先刻より更におかしな事になっていた。何かを堪える様なその顔を見兼ねて、今度こそその頭をぐしゃぐしゃと掻き回してやる。するとへの字を描いていた口元が不恰好ながら弧を描き、僅かに顔を上げた彼奴はまるで誓いでも立てる様に告げた。
「なら私も、君の誕生日は贈り物を押し付けて乾杯するよ。何度でも乾杯する。君が酔い潰れて寝ちゃう迄“誕生日おめでとう”って乾杯して、
君が生まれてきてくれた幸せを祝うよ、中也」
「はっ、誰がそう簡単に潰されてやるかよ馬ぁ鹿。寧ろお前が潰れる迄とことん祝わせてやる。覚悟しとけよ、菫」
「―――であるからして、つまり幼女こそ現代を戦う我々にとってのオアシスであり」
「これ、主題がすげ変わっておるぞ首領殿。中也の晴れの日を変態趣味の演説で汚すでない。真面に祝辞も述べられぬのなら早々に乾杯の音頭を取らぬか」
「もう、酷いなぁ紅葉君。私を叱るならせめてもう十五歳程若返ってから」
「この子の誕生日を命日にされたいかえ?」
「さぁ諸君!各々グラスを持って!早く、もう夜叉が直ぐ其処まで来てるから早く!!」
真っ青な笑顔を浮かべる首領の号令で、宴の出席者達がグラスを手に取る。その時俺の目線の下から、鈴を転がす様な歓声が上がった。
「あら!チュウヤのグラス、赤くてキレイね!」
「おお!確かに中々洒落た一品!しかしこんなグラス会場にありましたぎゃあ!」
「此奴は俺の私物だ。今表面を反重力でコーティングしてあっから、不用意に触ると吹っ飛ぶぞ梶井」
「反重力!?何故!?」
「……ただの傷防止だ」
「そ、そんなに大事な物なら、寧ろこんな所に持参しない方が善かったんじゃ…」
「煩ぇな。善いだろ別に。今日は此奴で飲みたい気分だったんだよ」
正論を強引に黙らせ、俺はそのグラスを掲げた。台座から持ち手に掛けて透き通る様な緋色を閉じ込めたそれは、ボウルの表面に薄く模様が彫り込まれている。その中に注がれた上物の葡萄酒が、会場の照明を受けて宝石の様に輝いていた。
「それでは諸君。親愛なる我等が同志、中原中也君の生誕と健闘を祝して―――乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
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一瞬、賑やかな歓声と薄い硝子がかち合う音が、波の音に紛れて聞こえた気がした。
このヨコハマで最も大きな橋。その上部に設られた作業用の踊り場で、私は一人月夜にグラスを掲げる。幾ら掲げても届かないと判り切った祝辞を繰り返す形骸的で不毛な恒例行事。この四年、夜空に掲げてきた祝杯は何時も、身体に空いた空洞を潮風が吹き抜けていく様な寂寥と共に私の温度を奪っていった。
でも、今年は違う。
端末に送られてきた一報にまた眼を落とし、私は酒盃を煽る。『取引成立』と云う表題で一枚だけ添付された写真には、華やかなパーティー会場で祝宴を上げるマフィア達の姿が写っていた。その中心で、本当に太陽みたいな眩しい笑顔を浮かべた本日の主役様は、仲間達と共に高々と酒盃を掲げている。広津さんを数時間引っ張り回して選んだ、四年越しの贈り物だ。
祝辞は届いた。届けて貰えた。完全に押し付けだけど。それでもやっと、―――届けられた。
「……ふふ」
誰も居ない濃紺の中で私は笑う。自分の満足を形にする。そう。あれだけビビりまくっていた癖に、いざ事が為されてしまった今、私はただ満足していた。一方的に、身勝手に、自分のエゴを押し付けただけ。そう理解していても、あの人の生まれた日をちゃんと祝えた事が嬉しくて。この笑顔を眼に出来た事が幸せで。自分が何かを貰うより、ずっと満ち足りた。
だから私はまた、溢れそうになるそれを形にする。
全ての始まり。この濃紺の夜空に高々と酒盃を掲げて、彼に贈った祝辞を―――声にした。
「誕生日おめでとう、中也。
君が生まれ、共に過ごせた幸せに―――乾杯」