hello solitary hand・番外編
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カウンター席で項垂れる男は、憂いに満ちた声を漏らした。
「嗚呼、この世界は何故かくも無情なのだろう…」
だがその嘆きは誰にも受け入れられる事なく、閑散とした店内の陰に溶けて消えた。それでも尚、男は油と紫炎の染みついた暗い天井を仰ぎ、まるで呪詛を紡ぐ様に言葉を続ける。
「人々の平等と安寧を世界の幸福と謳いながら、その実、個人の苦しみなんて見向きもしない。そればかりか、不幸のどん底を彷徨う迷い人にすら、普段と変わらない働きを強要してくる。我々は世界と云う大きな装置を循環させるちっぽけな歯車の一つでしかないのだ。そんな生に一体どれ程の価値がある?己の意思を蔑ろにされ、擦り減らされるだけの人生なら、こんな錆かけた無情な世界とは一思いに決別するべだろう!君もそう思わないかい、国木田君?」
「思わんな」
目ぼいし店を片っ端からあたり、十四軒目に辿り着いた小さな居酒屋。その手狭な店内を冠水させんばかりに垂れ流される同僚の嘆きを一刀両断して、相も変わらず理想とは程遠い己の現実に頭痛を覚えながらも、俺は努めて冷静に口を開いた。
「いいか太宰。俺達の今日の仕事は軍警内で発生した窃盗事件の調査。そして今は勤務時間ド真ん中だ。即刻会計を済ませ、俺と共に調査を再開し、速やかに依頼を完遂させる。それが今、お前がすべき事の全てだ」
「いーやーだー!私今そんな気分じゃないー!」
「気分で依頼を放り出す奴があるか!無駄に長ったらしい能書を垂れている暇があるなら働け、この社会不適合者‼︎」
「もぅ、私は今絶賛傷心中なのだよ?それを承知で仕事しろだなんてあんまりじゃないか!」
そう年甲斐もなく頬を膨らませた二十二歳児は、そっぽを向いて手元の酒盃を一気に飲み干し、全く悪びれる素振りもなく尚も芝居掛かった嘆きを垂れ流す。
「嗚呼、菫…。私の可愛い菫…。君の身に起きた悲劇を考えるだけで胸が張り裂けそうだ。最近メキメキと向上している戦闘力に油断していた自分が情けない…。喩え襲いくるマフィアを撃退しようと、飢えた熊を一本背負で沈めようと、荒ぶる龍の額を殴り砕こうと、君が可憐でか弱い一人の女性だと云う事実に変わりは無かった筈なのに…っ」
「貴様は一度辞書で“か弱い”の意味を調べて来い」
「矢張り、喩え僅かな間でも彼女を独りにさせるべきじゃなかった。恋人である私が常に傍で彼女の身を守っていればあんな事には…。否、抑々こんな危険溢れる世界で彼女を生活させて居る事自体間違いなのでは…?そうだ、あんな繊細で無邪気で無垢な天使、何時何処で悪漢に襲われるか判らないじゃないか!今からでも遅くない…っ。早急に安全なシェルターを用意して監き…、じゃなくて避難して貰えば私も安心だし、菫は名実共に私無しでは生きていけなくなる!おお、我ながら何て素晴らしいアイデア、これぞ正しく一石二ちいだっ⁉︎」
「やめんかこの犯罪者予備軍!これ以上公共の場で探偵社の看板に泥を塗る様な真似は許さんぞ!」
仮にも街の平和を守る武装探偵社員にあるまじき、香ばしい犯罪臭のする発言の数々に思わず眩暈がする。だがそんな俺を他所に、当人は性懲りも無く空の杯に酒を注ごうとする。俺はその手から徳利を取り上げ一括した。
「いい加減にしろ!あの程度の事で一体何時迄不貞腐れている心算だ!」
「酷い国木田君!私にとって菫はこの世の何よりも大切な最愛の恋人なのだよ⁉︎そんな彼女を、何処の馬の骨とも知れない暴漢に
「“傷もの”ってお前なぁ…っ
コンビニ強盗を捕まえた時に、髪が数
事の発端は数時間前。備品の買い出しに行っていた菫が、帰りに遭遇したコンビニ強盗だった。
とは云え、持ち込まれる依頼の多くが“灰色の厄介事”である探偵社員にとって、この手の荒事は日常茶飯。しかも犯行現場に通り掛かったのは、俺の指南を受け、この一年で社内でも上位に食い込む戦闘力を獲得した菫だ。当然、強盗犯は即座に捕縛され市警に引き渡された。そんな出来事を説明しつつ、買い揃えた備品を所定の位置に補充していく姿には特にこれと云った怪我もなく、その場に居た面々は菫の無事に安堵していた。のだが、その時偶々席を外していた太宰が事務所内に足を踏み入れるなり、何故か真っ青な顔で菫に駆け寄った。
「どうしたんだい菫⁉︎その髪…っ」
「ん?髪?髪に何か着いてるか?」
「違う、逆だ!髪が切られてるじゃないか!」
「何処?」
「ほら此処!」
「………ごめん、ホント何処?」
「判らないのかい⁉︎此処だよ此処!買い出しに行く前より五
「何だそのウォーリーも苦笑するレベルの間違い探し…」
「そんな事より、一体何があったんだい⁉︎誰が君にこんな酷い事を…」
「えぇ…、そう云われましても…。強盗犯の攻撃なんて一発も食らってない筈なんだが……。あ。そう云えば、苦し紛れに乱発した銃弾が一つ顔の横飛んでったような…。もしかしてそん時…、オイ待て太宰君、何処に行くのかね?」
「大丈夫だよ菫。君の綺麗な髪を焼き切った罪は、それに見合うだけの報いをもって私が償わせてあげる」
「気持ちは嬉しいが明らかに過剰請求なんで取り敢えず落ち着こうぜダーリン」
「何度も云うが、今回の件で菫には擦り傷一つ無かった。つまり菫は強盗犯を無傷で捕縛し帰還したのだ。寧ろお前は喜ぶべきだろうが」
「喜べる訳ないだろう⁉︎私の全く預かり知らない所で、菫の身体の一部が欠損してしまったのだよ?君達は『たかが髪くらい』と云い捨てるけれど、その焼き切れた髪の分、私の愛する恋人がこの世界から減ってしまったのだよ?何より、私が丹精込めて綺麗に切り揃えた毛先を銃弾なんかで焼き飛ばすなんて…。私が刻み込んだ切り口の上から、彼女に自分の痕跡を残すなんて、絶対に許さない……っ」
「………」
古来より人の髪には念が籠りやすいとされ、怪奇現象の一例として度々取り上げられる部位と聞くが、しかしそれとは別の意味で、どうやら菫の髪にはとんでもない念が籠っているらしい事を、俺は直感的に理解した。取り敢えず、今後不用意に彼奴の髪には触れるまいと誓いを立てていると、不意に店の引き戸が開き、差し込む陽光と共に二人の人影が手狭な店内へ足を踏み入れた。
「はいはいお邪魔するよ〜。…ああ、ちょっと其処の兄ちゃん。悪いけど一緒に来てもらおうか?」
「?…私?」
男の一人が制服の懐から警察手帳を取り出した。それを見て思わず目を見開く俺達に、男はまるで世間話でもする様な調子で続ける。
「先刻、匿名のタレ込みがあってねぇ。“包帯塗れの不審な男が、異様な形相で『報復』だの『監禁』だのブツブツ云ってておっかないから何とかして”欲しいってさ。まぁ、それだけならこっちも“別の店に移動してくれ”で済むんだが、断片情報だけでもかなり具体的かつ悪質な内容だったもんでさ…。取り敢えず、ウチの交番で詳しいお話聞かせてくれるかい?」
その瞬間、店の隅でこちらの様子を伺っていた男が慌てた様に新聞を広げ顔を隠す。次から次へと巻き起こる予定外の出来事に、頭痛のみならず胃痛迄併発してきた。だがそんな俺を他所に、もう一人の警官がカウンター席に座る太宰の腕を掴み立ち上がらせる。仕方なく俺は食い縛った口で大きく溜息を吐き、警官達の前に立ちはだかった。
「待ってくれ。こんな状況で明かすのは恥ずかしい限りだが、俺達は武装探偵社の者だ。不要な騒ぎを起こしてしまい誠に申し訳ないが、此処は俺に任せてくれ。此奴には厳重注意の上、きっちり反省させると約束しよう」
この迷惑製造機と組むようになって早二年。悲しい哉こう云ったトラブルには慣れ切っていた。この街の警察関係者であれば、武装探偵社の名を知らぬ者は居ない。そして誠に遺憾ながら、我が社は街の守護者としての功績と共に、俗に云う“変わり者集団”として広く認知されている。よって社の人間、…と云うか、主に太宰が問題を起こした際は、武装探偵社の人間である事を説明し、場を納めてきた。その経験に基づき、俺は探偵社員の証明である社員証を提示するべく、懐の内ポケットに手を入れた。
「………ん?」
だが、手を入れた内ポケットの中には何も無い。目視で確かめてみたが矢張り無かった。其の儘他のポケットをひっくり返し、果てには緊急時に備えて手帳の切れ端を入れている腰ポケットの縫い付けすら破ってみたが、どんなに探しても武装探偵社の社員証が見つからない。
「どうしたんだい国木田君?」
「……太宰。お前今、社員証は持っているか?」
「イヤ?この前入水した時に無くしちゃって今再発行中だけど?……もしかして社員証無いの?」
「………」
その問いを黙殺した俺は、閉口した儘目の前に警官に視線を送る。だがそんな俺を見据えながら、警官は困った様に溜息を吐いて首を捻った。
「まぁあの武装探偵社の人間ってんなら、アンタの云う通りこの場は任せて退散したい所なんだけど…。証拠が無いんじゃあねぇ…」
擦れ違い様にポンと俺の肩を叩いた警官は、太宰の空いている方の腕を掴み、もう一人の警官と共に店の外へと連行していく。俺も慌てて後に続いたが、太宰は既にパトカーの後部座席に詰め込まれていた。
「待ってくれ!俺達は本当に武装探偵社の調査員だ!社に連絡すれば裏付けが取れる…!」
「悪いが、こっちも其処迄暇じゃなくてね。そう心配しなさんな。ちょっと交番で話聞くだけだから。用が済んだらすぐに釈放するって」
「し、しかし…っ」
「ごめんね国木ぃ〜田君。なんかそう云う訳だから私今日仕事出来ないや!依頼頑張ってね!」
「お前はもっと危機感を待て当事者‼︎」
「はいはい。危ないからちょっと離れてね?それとも、公務執行妨害でアンタもしょっ引かれたいかい?」
「っ…!」
俺の力が一瞬緩んだ隙に、太宰を乗せたパトカーは走り出し、程なくして俺の視界から消えた。理想に反した予定外は常々起こる事だが、それでもこれは質が悪い。調査の遅延、同僚の補導、社員証の遺失。一体何処から手を付けたものかと頭を抱えて俯いた俺は、自分の足元にある物を見つけた。
二つ折りの黒いケース。その中には自分の写真と武装探偵社員である事を示す文面。―――先刻、俺が必死に探していた社員証だ。
「…………」
その瞬間、俺は思い出した。
本日の職務を放棄し、俺の再三の説得にも応じず、頑なに仕事を拒否していた相棒の手先が―――創作小説の怪盗並みに器用である事を。
「あっ……の、唐変木がーーー‼︎」
****
「ほら!このアレンジなんか菫さんにお似合いかと」
「お、おう…。でも、ちょいと可愛さに振り過ぎじゃないかな…」
「あら、そうですか?う〜ん、それなら…。こう云うのは如何でしょう?華やかでありつつ落ち着いた大人っぽさもあって、とても素敵ですわ」
「ああ、確かにこれはいいかも。視界も遮らないし、動きやすそうだ」
「楽しそうだねぇ、二人でお洒落の相談かい?」
武装探偵社が看板を掲げる
「ん〜、まぁそうっちゃそうなんだけど…。どっちかって云うと“お洒落”の方は副産物かな…?」
「“副産物”?」
「実は菫さん、お昼前にコンビニ強盗を捕まえた際、髪を切られてしまったらしくて」
「まぁ私的には全然気にしてないし…、てか寧ろどの辺が切られてんだが未だに判んなんいんだけど…。何か太宰君が結構ガチめにヘコんじゃって…。どうしたもんかと考えてたら、ナオミちゃんがアドバイスしてくれたんだ」
「菫さんの髪が切れてしまった事で太宰さんが落ち込んでいるなら、一先ずその切れた毛先を隠してしまったらどうかと思いまして」
「成程ねぇ。それで仲良くヘアカタログを見てた訳かい」
「ええ。二人で菫さんに似合う纏め髪アレンジを相談していましたの。折角手を加えるなら、素敵に仕上げて差し上げたくて!」
「ご存知の通り、私はこの手のジャンルについてはマジで珍紛漢紛だからね。ナオミ先生の助言が頂けるのは本当に頼もしい限りだよ」
「うふふふふ。そう云って頂けると、俄然やる気になってしまいますわね。事務所に戻ったら、春野さんもお呼びして早速実践してみましょう。菫さんがこの髪型でお出迎えすれば、きっと落ち込んだ太宰さんも舞い上がって喜ぶ筈ですわ」
「そう…かな…。へへへ…、そうだといいな…」
「うんうん。いいねぇ若い子は。何だかこっち迄若々しい気持ちになるよ」
そんな和気藹々とした様子をテーブル席から眺めていると、ケーキを食べていた鏡花ちゃんが徐に口を開いた。
「楽しそう」
「うん、そうだね。あとは、これで本当に太宰さんが落ち着いてくれるといいんだけど…」
「どうかなぁ?太宰さん、菫さんの事となると普通に倫理観を外れて過保護になるから」
「それは敢えてボケてるのか谷崎?」
隣の乱歩さんから鋭いツッコミを受けた谷崎さんは、しかし意味を理解していないのか不思議そうに首を傾げていた。先輩達のそんなやり取りに苦笑する僕の隣で、鏡花ちゃんがまたポツリと呟く。
「強盗犯。消されないといいけど…」
「えっ⁉︎否、流石に太宰さんでも其処迄はしないって。ですよね?」
「いやぁ、ちょっと断言出来ないかなぁ…?確かに命迄は取られないと思うけど、その他は…ねぇ乱歩さん?」
「少なくとも社会的に抹消される覚悟は必要だな。実際、表沙汰になって無いだけで過去に何人か犠牲者は出てるし」
「えぇっ⁉︎」
共感を求めて視線を向けた二人の予想外の発言に、僕は全身から血の気が引いた。けれど徐に眼を開いた乱歩さんが、大きなパンケーキを口いっぱいに詰め込んだ儘「まぁでも」と続ける。
「
「え?」
―――カン、カラカーン
「失礼。此処に名探偵が居るって聞いたんだが…」
すると、まるで僕達の会話を断ち切るように来店を知らせるベルが響き、コートを着た壮年の男性が顔を覗かせた。それを見た乱歩さんは、パッと顔を輝かせて嬉しそうに手を振る。
「やぁ、箕浦君じゃないか!なになに?また僕の力が必要になったの?」
「ああ。しかも緊急の用件でな。出来れば今すぐ来てもらいたいんだが、頼めるか?」
「やれやれ仕方ないなぁ〜。まぁ、これも世界一優秀な名探偵の性だ。君達の可哀想な頭で解き明かせない謎を、赤ん坊でも判るくらい懇切丁寧に紐解いてやれるのは、この僕だけだからね!」
「はは、毎度助かるよ。現場迄は此方で送ろう、車は表に停めてある」
「よぉし!と云う事で行くぞ菫。準備しろ」
「了解です乱歩さん!ごめんナオミちゃん、“纏め髪作戦”はまた後でな」
「はい。お気をつけていってらっしゃいませ!」
乱歩さんの高らかな号令に敬礼で応えた菫さんは、僕達にも軽く手を振って乱歩さんと共に店内を後にする。そんな先輩に振り返した手を杯の取っ手に掛けた僕は、ふと、先刻の会話が気になった。
(そう云えば、結局アレってどう云う意味だったんだろう…)
乱歩さんが最後に云っていた言葉を思い返しながらふと隣を見ると、鏡花ちゃんも何か考える様に空いたカウンター席を見つめていた。それで気づいた。“
「? どうしたの二人共?」
「あ、いえ、何でもありません!」
そう何かを誤魔化して、僕は杯の中身を飲み干した。自分でも正体の判らなかったその“何か”は、ただ漠然とした違和感として、すっかり冷め切ったお茶と共に喉の奥へとすべ落ち、数分後にはそんな違和感を抱いた記憶すら、跡形もなく消えてしまった。
****
「あの。髪、どうかされたんですか?」
「へ…っ」
助手席に座っていた婦警さんのその問いに、隣の菫が間抜けな声を上げた。
「いえ、先刻からずっと窓越しに毛先を気にされていた様だったので…」
「ん?何だ嬢ちゃん。散髪で失敗でもされたか?」
「あ、いやぁ、その…」
「強盗犯に髪を撃ち飛ばされたのを、恋人に看破されたのが嬉しくてニヤついてるんだよ。なぁ菫?」
「乱歩さん⁉︎」
すると菫は、今度は茹蛸みたいな顔色で固まった。餌を欲しがる鯉みたに口をパクパクさせる菫をバックミラー越しに見た箕浦君が、怪訝そうな顔で首を捻る。
「何だそりゃ?どう云う事だ?」
「だ〜か〜ら〜。好きな相手に危ない目に遭った自分を心配して貰えたのと、自分でも気付かなかった変化に気付いて貰えたのと、それで相手が思いっきり落ち込んでるのを見て、此奴は今スッゴく上機嫌な訳。より判りやすく云うと、“嗚呼、私こんなに大事にされてるんだぁ、し・あ・わ・せ「乱歩さぁあん‼︎お願いですからもう何も云わないで下さい!ほら!持ってきたオヤツ好きなだけ食べていいですから‼︎」
途端に煩いくらいに声を上げた菫は、僕の口元に板チョコを突きつけて言葉を遮ると、鞄の中からありったけのお菓子を僕の膝に積み上げた。正直話しを邪魔されたのはムカついたけど、突きつけられたチョコの美味しさに免じて許してやる事にした。
「あ〜、その…。でもほら!意中の男性に髪型の変化とか気付いて貰えると嬉しいですよね!判りますよ!ね?箕浦さん?」
「おっ⁉︎おう!まぁアレだ。女のそう云う細かいトコに気付けるってのは大事な事だしな!俺の周りの連中なんて嫁さんの不機嫌の原因が判らん儘、気付いたら別居の危機なんてよく聞くしなぁ」
「箕浦さん。それはちょっと話が違うんじゃないかと…」
「なっ⁉︎おい、じゃあ一体どう云う話なんだ?」
遂にはヒソヒソと話し合いを始めた二人。そんな会話をBGMにお菓子を堪能していると、隣から何とも恨みがましい視線が送られてきた。出所は云わずもがな、僕の隣で真っ赤に沸騰した顔を両手で覆いながら俯く菫だ。
「なぁに?本当の事だろう?」
「だからって、バラす事無いじゃないですか…」
「あれ〜?お前“好きなものは公言していく派”なんじゃなかったっけ?」
「……それとこれとは、何か違うんです…。そりゃあ…、仕事中に惚気てた私が全面的に悪いですけど…。私だって一応、“頭切り替えなきゃ”って努力はしてたんですよ…?」
いじけた子供みたいボソボソ云って、菫は僕と反対方向を睨む。その幼稚な反応に僕は溜息を吐いて、今度は飴玉の袋を開けながら続けた。
「別にいいんじゃない?まぁ確かに“趣味悪いなぁ”とは思うけど、抑々お前の趣味なんてどうでもいいし。嬉しいなら今の内に好きなだけ浸ってなよ
―――どうせ、すぐに浮かれてなんか居られなくなるから」
「え……?あの、それってどう云う」
―――ピリリリリ!
その時、お菓子を出し切って薄くなった菫の鞄から、着信を知らせる電子音が鳴り響いた。
「あ、すみません。ちょっと失礼します。……もしもし、国木田君?どうした?…うん。今乱歩さんと依頼に出てる所。……うん」
電話口に相槌を打つ横顔から視線を逸らし、僕は飴玉を口に放り込んで反対側を向いた。窓硝子の向こうを流れていく景色を眺めながら、これから起こるだろう事を改めて順番に推理する。とは云え、再考してみた所で当然辿り着く結論は変わらない。先刻迄ミジンコ程度に残っていた淡い可能性も、たった今国木田からの入電で綺麗さっぱり消えてしまったのだから。
「……え…」
ほんの一瞬間、菫が息を止める。その表情を見た僕は、口内の飴玉に歯を立てて噛み砕いた。そう。これは当然の結果だ。
本人は押し込めようと努めていたみたいだけれど、それでも僕は此奴が今回の件をどうしようもなく“喜んでしまっている”と云う事を見抜いた。そして僕が見抜いたそれを、四六時中此奴の事ばかり考えているあの男が―――見落とすなんてあり得ない。
「あーあ、本当に面倒事臭い…」
****
湿り気を含んだ闇が、カビ臭い空気に溶けて肺を満たす。まるで時間の流れから取り残された様な灰色の壁。黒ずんだ天井。罅割れた床。視界に入ってからと云うもの、微塵の変化もないそれらに退屈の余り欠伸が出る。だが不意に、変わり映えのしない暗闇を、まるで希望の光とばかりに安っぽい人工灯が無遠慮に切り裂いた。数時間ぶりに視界を焼く真面な照明に眼を細めて、暗闇の中から現れたその人影に私は笑顔で声を掛けた。
「やぁ。先刻振りだね。今度は貴方が私の話相手をして―――っ‼︎」
私の朗らかな挨拶は、しかし云いきる前に喉の半ばで詰まる。鳩尾に的確な蹴りを見舞われ、縛り付けられていた椅子が私諸共床を打ち、コンクリート上で耳障りな音を立てた。物理的に呼吸が阻害された所為で噎ぶ私の髪を掴み、無理矢理顔を上げさせたその男は実に忌々しそうに口を開く。
「お前、彼奴等に一体何をした?」
「ケホ…っ、彼奴等?ああ…先刻迄私の見張りに付いていた二人の事かい?別に何も?彼等は勝手に泣き出して、勝手に殴り合って、貴方達はそれを勝手に引き摺って行った。私はただ、あまりに暇だったから“ちょっと為になる話”を聞かせてあげただけだよ」
「……参ったねぇ。こっちもそれなりに警戒はしていた心算だったが…。腐っても“この街の闇そのもの”なんて恐れられるだけはある。―――流石だよ、
「へぇ…。其処迄調べをつけたのかい?凄いね。“堕落した元ヒーロー、しかして培った業は尚衰えず”って訳だ。―――流石だよ、《
「⁉︎」
受けた賞賛を同等の賛辞で返すと、途端に男の目付きが変わった。だが私はそれに構わず、再び朗らかな笑顔を貼り直して、自分をこの場に拉致した
「地方の巡査。不名誉除隊になった特殊部隊員。逮捕後出所した汚職警官。
その瞬間、驚きに見開かれていた男の目に怒りの業火が宿った。髪から掴み上げていた私の頭を罅割れた床に叩きつけて、彼は怨嗟に満ちた声で唸る。
「どの口がそれを云う…っ!俺達を壊滅させたのはお前等ポートマフィアだろうが。仲間の大半は消され、残った連中も命惜しさに組織を捨てた。事実上、《48》はヨコハマから一掃されたも同然だ…!」
「それはご愁傷様。でも当時君達の粛清を命じたのは、首領に次ぐ統率権を持つ五大幹部の一人。理由はどうあれ、そんな奴に目をつけられる様な真似をした君達の自業自得だ」
「っ…!ああ、そうだ…。当時、仲間の誰かがそんなとんでもねぇヘマをやらかしちまったんだろう…。ヨコハマの裏社会を生きる以上、ポートマフィアの機嫌を損ねたらどうなるかなんて理解してる。……だが、それでも俺達は生き残った。あれから時間を掛けて新しい仲間を取り込み、頭数も揃いつつある」
「へぇ、それはおめでとう!じゃあ最近発覚した軍警の武器倉庫内での窃盗事件も、その新しい仲間達の活躍かな?」
口内に広がる鉄の味を味わいながら、視線だけ寄越してそう問いかけると、私の頭を床に押し付けていた手の力が僅かに緩んだ。そのお陰で多少可動域が広がった私は、縛り付けられた椅子ごとゴロリと仰向け寝返りを打って、呆け面を晒す男に微笑み掛ける。
「公に武力行使を容認された軍警の武器倉庫は、裏社会以上に厳重な管理体制が敷かれている。そんな所で人知れず武器弾薬を盗み出せるとしたら、内部犯以外にあり得ない。この件に君達が関わっている事は、軍警から窃盗事件の調査を依頼された時から想定していたよ。
だから私は、こうして招かれてあげたんだ。
涙ぐましい努力でコツコツと仲間を増やし、武器を蓄え、再起が現実的になってきた君達にとって、次に必要となるのは組織を維持するに足る財力。その為に、“
身動きの取れない手負いの優男を見下ろす元警官は、まるで深淵に住まう怪物でも見る様な顔をしていた。しかし、冷静さを取り戻そうとする様に浅い呼吸を繰り返す彼は、最後に深く息を吐いて引き攣った口の端を無理矢理吊り上げた。
「名探偵気取りの所悪いが、一つだけ見落としてるぜ兄ちゃん。確かに俺達の次の目的は“
そう云って男は倒れた椅子を起こした。必然的に、縛り付けられている私の身体も道連れとなる。頭を打ち付けられた時に裂けた額から、滴り落ちた血が顔を伝って膝の上に落ちた。
「武装探偵社について調べてる時になぁ…、お前の写真を見て騒ぎ出した奴が居たんだよ。其奴は例の粛清で、ポートマフィアに襲撃されたアジトから逃げ延びた唯一の生存者でな。あれから毎夜お前等の悪夢に魘された挙句、“ポートマフィア”の名を聞こうもんなら半狂乱で泣き喚くようになっちまった可哀想な奴だ。其奴がお前の写真を見た途端、悲鳴をあげて命乞いを始めたんだ。まるで、夢ん中で自分を追い回す悪魔が現実に現れた様に。
なぁお前、―――あの粛清に参加してただろ?」
ああ、それで此奴等は私が元ポートマフィアである事に行き着いた訳だ。ならば私の過去の犯罪歴も、未だ公的な記録から抹消された儘と考えていいか。孰れにせよ、この場で果たすべき用件は一通り達成した。頭の片隅でそんな事を考えていると、徐に腰から警棒を引き抜いた男がニヤリと凶悪犯の様な笑みを浮かべた。
「ポートマフィアに復讐なんて考える程、俺達も莫迦じゃあない。だがその加護から外れ、のこのこ表を出歩く阿呆が居るってんなら話は別だ。お前がどんなヘマをして組織から逃げ出したかは知らないが、気を抜くならせめてこの街の外に逃げてからにするべきだったな。
…ああ、安心しろ。頭と口だけは最後迄残しておいてやる。お前には、“
警棒で顎先から顔を上げさせられた私は、その先で憎悪と歓喜、そして僅かな恐怖を宿してギラつく双眸に、今迄と変わらずにこやかに笑いかける。
「それはそれは。お心遣い感謝するよ。じゃあその寛大な心を見込んで、もう一つお願いしてもいいかな?」
「………何だ」
怪訝そうな顔で一拍間を置いて応えた男に、私は少し困った様に眉根を寄せて、照れ臭そうに視線を逸らしながら願い出た。
「どうかこれ以上、私の顔を傷つけないでくれ。私の最愛の恋人が、きっと悲しんでしまうから」
空を切った警棒が私の頬を打った。その勢いに任せて倒れ掛けた椅子を捕まえて、男は元通りに立て直す。脈打つ様に熱と痛みがジワリと広がる頬を、乾き切った無骨な手が掴み上げた。
「なら、最後にこの顔は念入りに潰しておいてやるよ。お前の死体とご対面したその女が、絶望して発狂するくらい惨たらしくな」
「……嗚呼…可哀想に…」
「ははは!ああ、全くだ。だが仕方ない、それこそ自業自得って奴だろう?抑々お前みたいな三下の小悪党に引っ掛かっちまう様な節穴女だ。どの道、碌でもない人生を送って―――」
「違うよ。可哀想なのは君達だ」
「……は?」
―――ドォォオオオオン‼︎
その疑問符を合図に、薄暗い室内を吹き荒ぶ爆炎の光が照らし出した。
****
「ただいまー」
「あ、おかえりなさい乱歩さん!…あれ?」
事務所の扉を開け放ち、帰還を告げた乱歩さんを出迎えると、その後ろには何故か国木田さんが立っていた。しかも何となく疲れているような、と云うかうんざりしている様な、兎に角そんな顔で眉間に皺を寄せている。
「どうしたんですか国木田さん?確か今日は太宰さんと調査に出てた筈じゃ…」
「その調査中に太宰が失踪した…」
「あ〜、成程……」
その一言で、国木田さんの眉間の皺の理由を察した僕は、ふとある事に気づいて首を捻る。
「所で菫さんは?一緒じゃないんですか?」
すると何故か二人は揃ってあからさまにゲンナリと、深い溜息を吐いた。その反応にどう返したらいいか判らなくて固まっていると、二人は各々僕の横を通り過ぎてながら面倒臭そうに答える。
「菫なら早退きした。で、明日も欠勤だ」
「そう云う訳で、彼奴が残していった業務があるなら全て俺に寄越せ。代わりに片付けてやる」
「あの…もしかして菫さん、また太宰さんを回収しに漁港にでも行ってるんですか?」
「「…………」」
「国木田さん?乱歩さん?」
「まぁ大体そんな所だ。それより事務員の誰かに、明日は二名欠勤すると伝えておけ。菫が休む以上、芋蔓式にあの唐変木もサボるだろうからな。頼んだぞ敦」
「全く、太宰の奴…。やるならもっとタイミングを考えて欲しいよね…。今日は偶々箕浦君が送迎してくれてたから良かったけど、普段通りだったら僕帰れなくなる所だったじゃないか…」
「?」
そんな明らかに辟易とした先輩方を不思議に思いながらも、僕は国木田さんに言われた通り明日の欠勤連絡の為、小走りでその場を後にした。
****
その感覚は、久し振りに感じたものだった。
耳を劈く銃声の嵐。次々と湧いてくる殺意満々の敵兵。挙句、壁を吹き飛ばした時に使った爆薬が燃え広がり、室内は然ながら焦熱地獄だ。
けれどそんな情報の濁流は、脳に行き着いた途端一瞬で凪ぐ。
無駄な情報は生き絶えた様に意識の底へ沈み、必要な情報だけが驚く程綿密に脳内を巡っていく。
煙を上げる様な勢いで自分の頭が回っているのが判る。それに比例して自分の身体がどんどんスピードを増していく。
この世界に迷い込んでから、幾度となく直面した正真正銘本物の“命の危機”。
それらを切り抜ける度、精度を上げていったこの感覚の正体は恐らく―――“生存本能”だ。
「何なんだ此奴⁉︎一体何処から湧いて出た⁉︎」
「クソ!ちょこまかと…っグハッ⁉︎」
「何してる⁉︎相手は一人だ‼︎早く殺せ‼︎」
電話実況で乱歩さんから侵入経路の手解きを受けた私は、序でに武器庫の場所も割り出して頂き、其処から拝借した爆薬で目的地である監禁部屋の壁を吹き飛ばす事に成功した。お陰で巣を落とされた蜂の様に、建物内に居た敵勢力がこぞって監禁部屋に殺到する事態となったが、これも名探偵の推理通りだ。そう。喩え末端の下っ端であろうと、この件に関わっている奴は
―――一人残らずぶっ潰す。
「はぁ〜…素敵だ…。この地獄の様な光景の中に在って尚、君は変わらず綺麗で愛らしい…。嗚呼!その姿はまさに小さく嫋やかな菫の花の様…」
「………」
「あれ?おーい菫ー!私の賞賛ちゃんと聞いてるー?ねぇってばー」
「……うっさい。帰ったら晶子ちゃんに眼球蘇生して貰え莫迦」
「ありゃりゃ。これは本気でご機嫌斜めみたいだね。珍しい」
口ではそう云いつつニヤニヤと笑うその顔を見て理解した。矢っ張り此奴確信犯だ。そう判った途端堰を切った様に溢れ出したフラストレーションを上乗せして、私は半分以下に減った敵兵を淡々と的確に擦り潰していく。多勢に無勢でも、それが対人戦闘であるなら私の独壇場だ。向かってくる敵も、地に伏した敵も、全員が私の異能を発動させるトリガーとなる。相手もそれなりに訓練を受けた手練れ達だろうが、対人拒絶の推進力による変則的な高速移動と、その勢いの儘繰り出される攻撃に対応しきれていない。これなら物理拒絶を使わなくても制圧出来るだろう。
「止まれ‼︎此奴を殺すぞ‼︎」
「………」
私が足を止めた事で、銃火器の演奏会が打ち切られた。阿鼻叫喚地獄の余韻が硝煙臭い空気に溶けていく。私に銃口を向ける敵勢力は、今や五人だけとなっていた。その引き攣った表情を順に眺めてから、最後に一際引き攣った顔の男を見遣る。距離は十
「そ、そうだ…。その儘大人しくしてろ…。少しでも動いたら…」
「だってさダーリン。どーするよ?」
男の声を遮って問うと、太宰は血が伝い落ちる口元をへの字に曲げて、何ともあざとさ香り立つ困り顔を披露した。
「ん〜、どうしようねぇ?幾ら君でも、この距離じゃ引き金を引く方が早いのは明らかだ。その場合、当然私は頭を撃ち抜かれて死ぬだろう。でも云う通りに大人しくしていたら、此奴等は君を撃ち殺す。その後私も拷問の末に殺されて終わり。孰れにせよ、私の死は確定だ」
「おい!誰が会話を許可した⁉︎そんなに撃ち殺されたいか‼︎」
「ははは、それはやだなぁ。どうせ撃ち殺されるなら、
自分の瞼が大きく開いたのが判った。見開かれた私の眼球を鳶色の双眸が穏やかに見詰め、少ししてゆっくりと視線が下っていく。其処に宿った彼の意思を読み取った私は、溜息を吐いて腰に差していた拳銃を引き抜いた。
「確かに、こんな連中に君をむざむざと殺されるくらいなら、自分の手で終わらせた方がマシかもしれないな」
「は…?おい、お前何云って…」
「嗚呼、嬉しいよ菫。君ならきっと判ってくれると信じてた…」
「こっちの台詞だ。ありがとう太宰。安心してくれ、私もすぐにいく」
「お前等巫山戯てんのか!下手な茶番も大概にしろ!本当に撃つぞ‼︎」
「ふふ、待ってる。それじゃあ最後にもう一つだけ」
「何?」
「さよなら、愛してるよ菫」
「ああ…。私も愛してる、さよなら太宰」
―――ドォン‼︎
銃声。硝煙。そして、胸に銃弾を受けた太宰が、鈍い音を立てて椅子ごと後方へと倒れた。
「なっ……」
鬼気迫る表情で私を脅迫していた男は、その光景を前に硬直している。だから落ち着いて慎重に狙いを定め、両足の膝を続け様に撃ち抜く事が出来た。残念なら射撃の精度についてはまだまだ修行中の身なので、的が静止してくれていたのはありがたかった。まぁお陰で、一緒に呆けていた残存兵五人が、膝から崩れ落ちた仲間の悲鳴に正気を取り出してしまったけれど。
「このイカレ女‼︎お前、彼奴を助けに来たんじゃなかったのか⁉︎」
「ああ。だからもう此処に用は無い。まだ何かあるならさっさと済ませてくれ。早く彼の所にいかなきゃならないんだ」
そう云って両手を上げると同時に、私は持っていた拳銃を手放した。私が動いた事で、周囲を取り囲んでいた男達は、反射的に各々銃火器の引き金を引く。弾丸が弾き出される轟音に支配された空気の中で、私は小さく“その名”を呼んだ。
「異能力―――『独楽園』」
刹那。凶弾が掻き鳴らす轟音は、稲妻が落ちた様な破裂音に一掃され、それに紛れて小さな呻き声がした。コンクリート張りの床を見渡すと、武器を投げ出した男達が各々傷口を抑えながら蹲っている。どうやら致命傷を負った者は居ない様だ。実に運がいい。
そんな事を考えながら浅く息を吐いて、私はぼやけた感覚と先刻迄の記憶を頼りに足を踏み出す。それを見たリーダー格と思しき男が、床に転がっていた拳銃を拾って近づいて来るわたしに発砲。私はそれを赤い花の痣が浮かび上がった手で後方に弾く。流石にこれ以上抵抗されるのは面倒だ。そう思うと同時に、私は空気拒絶で男の目の前に一瞬で移動し、その儘回し蹴りを叩き込んで部屋の壁迄弾き飛ばした。
晴れて障害を排除し、序でに目的地に辿り着いた私は其処で倒れ伏した哀れな拉致被害者に視線を落とす。椅子の背凭れに縛り付けられた儘仰向けに倒れている彼は至る所傷だらけで、額や口元からは鮮血が伝い落ちている。私はそんな彼の胸倉を掴んで、―――薄く開いた唇に噛み付いた。
「ん゛っ!っ〜〜〜‼︎ちょ、痛い流石にそれは痛い‼︎あ、待って其処弄らないで‼︎殴られた時に口の中切れて、んづっ‼︎」
血塗れの柔い唇に私の歯が食い込んだ瞬間、私の身体に浮かび上がっていた赤い花の痣が霧散する。が、異能解除と云う目的を果たしても腹の虫が治らなくて、拘束されているのをいい事に、濃厚な血の味に満ちた口内に舌を捻じ込み、見つけた傷口に態と舌先をグリグリ押し込んでやった。そうやって暫くお灸を据えてから、私は口元に赤い糸を引いて血腥い唇から漸く顔を上げた。
「却説、目覚めのキスも十分くれてやった所で、何か私に云う事あるかい白雪姫?」
「………」
「おい。何だその顔。何で君がむくれてんだ。傷抉られる様な事した君の自業自得だろ」
「違う。そっちじゃない…」
「じゃあ何だ」
「……態々物理拒絶を使わなくても、解決出来ただろう」
「単純に君への腹いせ」
「うわ何それ。流石に悪質が過ぎるよ…」
そう云って、太宰はあからさまに不服そうな顔でそっぽを向く。今日一番の“お前が云うな”案件に溜息を吐いた私は、倒れた椅子の縁に腰を下ろして足元の色男を見下ろした。
「文句云うのは勝手だが、取り敢えず後で国木田君に礼云っとけよ?君が補導された後、ヨコハマ中の交番に片っ端から電話して釈放を願い出てくれたお陰で、君を連れてった警官が偽物だってすぐに発覚したんだからな」
「だろうね。当然国木田君は君に連絡する。連絡を受けた君は、十中八九乱歩さんに助言を求めるだろう。私の身に何が起こったか、何処に囚われているのか、そして私の目的も含めて、あの御仁なら暴き出すのは簡単だ。それを知っていたから君も、態々“あんなもの”を用意して来たんだろう?」
その言葉に、私は背後を振り向いた。床に転がる怪我人と銃火器。その中心にポツンと鎮座する拳銃。国木田君の異能力“独歩吟閣”で具現化してもらった―――即ち、異能力で構成された太宰にのみ無効な拳銃だ。
「其処迄読んだ上でやらかしたんなら、愈々抒情酌量の余地がねぇな」
「仕方ないじゃないか。だって、“癖”になったら困るもの」
パチン!と指を鳴らす軽快な音が反響し、拘束を失った包帯塗れの大きな手が伸びてくる。
「長い間苦労して、自分を大切にするよう折角教え込んだのに。今回の事に味をしめた君が私の気を引きたいが為に、また自分を蔑ろにし始めたら困るじゃないか。だから、私がどれだけ心を痛め、胸の張り裂ける思いでいたか、君にもちゃんと理解させておきたくて」
その手は私の顔の横に垂れ下がった髪を掬うと、血の滲んだ指で不格好に千切れた毛先を弄ぶ。
「“相手の気持ちになって考えなさい”なんて、これ程莫迦げた教訓はない。体験に紐付けられた感情を想像だけで補完するなんて不可能だ。本当に理解させたいなら、同じ感情を抱く様な体験をさせるのが一番確実だろう?」
もう一方の手が私の口元に触れる。口の端にこびり付いた自分の血を親指でそっと擦りながら、彼は緩やかに微笑んだ。
「ねぇ菫。今どんな気分?」
口付けを交わす様な距離で下された問い。その答えを黙考して、私は思った儘の答えを返した。
「メッチャ最悪」
「うん。なら良かった!判ってくれて嬉しいよ菫!」
渾身の顰めっ面を至近距離で喰らって尚、我が愛しの恋人殿は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。その顔を見ていたら本当に色々莫迦らしくなってきた。其処へトドメとばかりに異能の副作用も重なった私は、ボロボロの肩に額を預けて凭れ掛かる。すると当然の様に長い両腕が私を抱き込んで優しく頭を撫でた。ただ、この儘絆されて有耶無耶にされるのもそれはそれでムカつくので、取り敢えず意識が飛ぶ迄思いつく限りの文句を垂れ流してやる事にした。
「太宰の莫迦、阿呆、唐変木。貴重な美貌を粗末にするとか何考えてんだこの腹黒お騒がせイケメン……」
「酷いなぁ。私だって苦渋の決断だったのだよ?でも、君は云って聞かせるより体験させた方が早い典型的なタイプだからね。こう云うのが一番効果あると思って」
「だからって、たかが髪切られたくらいで此処迄やるか…。そりゃ浮かれてた私も悪いけどさぁ…」
「だって菫、最近私に構われる為なら手段を選ばなくなってきてるだろう?まぁそう云う所も可愛いのだけど、いき過ぎて自分から誘拐されたりなんかしたら大変だからね」
「何処かの誰かさんじゃあるまいし…、んなメンヘラじみた事せんて……。……多分」
「矢っ張りまだ教育が足りなかったかな?」
「勘弁してくれ。もう十分、身に染みて…判った…から……」
段々重くなっていく瞼に耐えきれず、とうとう目を閉じた私を、太宰が抱き上げてくれるのが何となく判った。
「やれやれ。まさか“過去の不始末”がこんな所で役に立つとはね…。でも流石に今回は“例の場所”に寄る訳にもいかないな……」
その声は何処か懐かしそうで、
でも、何となく寂しげで、
その顔に何とか触れようとなけなしの力を振り絞ってみたけれど、腕は疎か舌を動かす事すら叶わない。肝心な時に全く云う事を聞いてくれない自分の身体に、内心で悪態を吐きかけたその時、
ふと、私の額に柔らかで温かいものが降りてきた。
「今度はもう間違わない。君だけは、必ず…」
額の上で鳴った小さなリップ音の後に、ポツリとそんな声が聞こえた。その言葉が何を意味しているのか、私には判らなかったけれど、私を抱える腕の力が少しだけ増したのは判った。結果、彼の腕の中にしっかりと抱き込まれた事で、すっかり何時もの様に安心しきってしまった私は、コツコツと一定のリズムを刻む靴音を聞きながら、
長い長い一日に幕を閉じたのである。
****
―――以上が、軍警武器倉庫窃盗事件の顛末である。
制圧したアジトから発見された武器弾薬は、全て窃盗被害に遭ったもので間違いないと判明。元警察関係者のみで構成された犯罪組織、通称《48》はその後多くの構成員が摘発され、再びヨコハマの裏社会から姿を消した。だが警察機関の闇を払拭しない限り、《48》は三度この街に返り咲くだろう。そして現状、それを未然に防ぐ事は限りなく不可能に近い。如何に清廉潔白な正義を理想に掲げようと、規模が巨大であればある程、組織の末端には影が差す。願わくば、その影にいち早く気づき照らし出す同士の多からん事を―――
「あの…国木田さん…」
「何だ」
「えっと…。何かあったんですか、あのお二人?」
「嗚呼、菫。私の可愛い菫。その髪型とっても素敵だね!留まる事を知らない君の愛らしさに、今にもこの心臓が止まってしまいそうだよ!」
「晶子ちゃん先生ー。プリーズAED」
「電気椅子ならあるけどねェ」
「おお、それはいい!感電死には前々から興味があったのだよ!菫、是非君が起動ボタンを!」
「ご自分でどーぞー。あ、因みに心肺停止したら二分後に0.5秒で君死給勿コースな」
「もう菫のいけず!でもそんな素っ気ない君も好き!」
「私も好きー。よってそう簡単に死なせて貰えると思うなよー。悪魔に魂押し売りしてでも延命させてやるから覚悟しとけー」
「もう、私ってば本当に愛されてるぅ!ありがとう菫、私も絶対君より長生きしないように頑張るね!」
「……何時も通り頭の捻子が外れた莫迦っプル共が惚気ているだけだ。気にするな」
「え…っ、イヤでも…。惚気と云うには何か物騒と云うか…」
「気にするな。正直奴等のやり取りは見るに耐えんが、傍観に徹している限り此方に害が及ぶ事は無い」
「え?…ああ。まぁ確かに太宰さんは菫さんが関わると物凄く怖いですけど」
「………」
「国木田さん?」
「はぁ…。いい。少なくとも俺達身内は、余程の事が無い限り安全だろうからな。だが間違っても深入りはするなよ。自ら進んで虎の尾を踏みに行くなど、それこそ蛮勇のする事だ」
そう云って俺は、不思議そうに首を傾げる敦から卓上のパソコンへと眼を落とした。たった今完成したばかりの報告書をざっと見返し、不備がない事を確認して“保存”の二文字にカーソルを合わせる。
が、僅かに黙考して、俺はそのカーソルを再び報告書に合わせた。
それは、傍迷惑な同僚達の痴情の縺れにまたしても巻き込まれた事への皮肉か、将又駆け付けたアジトに転がっていた元警察関係者達の有様に対する同情か。
孰れにせよ、職務上の提出書類である報告書に於いて、明らかに蛇足と云えるその一文を
それでも俺は末尾に付け足した。
尚、本件で長期入院を余儀なくされた容疑者達を戒めとし、虎の尾を踏み抜く蛮勇が今後二度と現れない事を、この場を借りて切に願うものとする。
資料番号: 號-61-74-伊
報告者:武装探偵社調査員 国木田独歩