hello solitary hand・番外編
名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
※本作はパロディです。設定は本編とは異なりますが、登場人物、主人公のキャラ付けは其の儘です。
苦手な方はご遠慮下さい。
問題なければご閲覧下さい。
****
―――小説家。
物語を生む者。剣よりも強いペン先から無尽蔵に広がる別世界の創造主。幾千幾万の文字を綴り、その中で生きる人の軌跡を。人間はどう生きて、どう死ぬべきかを。
人間を書く人間。
そんな彼等を支え導くのが僕の、“編集者”の仕事だ。
「おい敦。お前が此処を出る時、俺が云った事を覚えているか?」
「…えっと」
「『これ以上は待てん。どんな手を使ってでも、奴から残り半分の原稿を巻き上げて来い』俺はそう云ったな?」
「……はい」
「では改めて聞くが、持ち帰れた文章はまた これだけか?」
目の前に突き付けられた一枚の原稿用紙に、言葉どころか呼吸すらも喉の奥に引っ込んだ。均一に敷き詰められた正方形を完全に無視して、でかでかと走り書きされた文面を、固く重い声が音にしていく。
「『お腹が空いたのでご飯食べてきます。その内帰ります』」
「……其れを見つけてからここ三日程、毎日お宅に様子を見に行ったり、あっちこっち探し回ったりもしたんですけど…」
「…………」
「……く、国木田…さん…?」
「だあぁ!あんの放蕩作家がああああ!!」
怒号を上げた先輩は原稿用紙をビリビリに破いて紙吹雪にすると、続け様に僕の胸倉を掴みぐわんぐわん揺さぶる。
「お前もお前だ!毎度同じ手に引っ掛かりおって!彼奴の家には二十四時間体制で張り込んでいろと云っただろうが!!」
「む、無理ですよそんなの…!それに幾ら張り付いてても、あの人何時の間にか居なくなっちゃってて…」
「そう云う時の為に、奴の行きつけの酒場リストをお前に渡しておいただろうが!!」
「行きましたけど!店の人皆口を揃えて『先刻迄其処で飲んでたんだけどねぇ』って…。もうあれ、店側が口裏合わせて匿ってるとしか思えませんよ…!」
「おのれ…。あの迷惑作家が…っ」
国木田さんが両手で自分の頭を抱えた為、漸く解放された僕は歯軋りし乍ら唸る先輩をただ見守る事しか出来なかった。すると横合いからほろ苦い匂いがして、眼を向けるともう一人の先輩が珈琲の入った紙コップを差し出してくれた。
「お疲れ様敦君。大変だったね」
「あ、有難う御座います谷崎さん。すみません。僕今回も…」
「いや~、敦君はよくやってる方だと思うよ?あの先生の担当になった人は今迄何人か見て来たけど、男は大体途中で『やってられるか!』って匙投げちゃうから…」
「ふん。原稿を上げられなければ、結果的には変わらん…」
「まぁまぁ。あの人を受け持つ大変さは、国木田さんだってよく判ってるでしょう?敦君ばっかり責めたら可哀想ですよ」
谷崎さんの助太刀に口を噤んだ国木田さんは、軈て苦々しい顔で溜息を吐いた。その様子に僕と谷崎さんは互いに苦笑して、足元に散らばった紙吹雪を拾い集める。
“文豪出版社”。此の街の書物を一手に預かるこの出版社に入社して早数か月。遂に僕は、ある作家先生の担当編集に任命された。しかも相手は我が社の看板作家の一人で、新作を世に出せばあっと云う間に初版は完売。重版に重版を重ねる超売れっ子だ。そんな凄い先生の担当が、僕の様な新人に務まるのかと不安もあった。だが矢張り、未来の名著を形作る過程に立ち会い、その手助けが出来るなんて貴重なチャンスを見逃す事など出来ず、二つ返事でその任を拝命した。……そう、拝命してしまったのだ。
「まさか…、有名作家の担当編集が此処迄大変だなんて……」
「否…。抑々作家が逃げ出さない様に見張るなんて、本来担当編集の仕事じゃないンだけどね…」
「ええ!?そうなんですか!?」
「当たり前だろう。締め切り前に逃亡するなど、あの唐変木くらいなものだ」
「お陰であの人に着いた担当は、皆長続きしないンですよねぇ…」
「ま、まさか僕が先生の担当に選ばれたのって…」
「まぁ…有体に云えば、皆が断るから他に誰も居なかったと云うか…」
「そんなぁ~…」
「とは云え、流石に敦一人ではもう限界だな。締め切りもこれ以上は伸ばせん。何か策を考えねば…」
それっきり腕を組んで口を噤んだ国木田さんの眉間には、深い皺が時間の経過と共に増えていく。すると暫くして、谷崎さんが恐る恐ると云う様に手を上げた。
「あの…、矢っ張りここは“あの人”にお願いするしか無いンじゃないですか?」
「むぅ…。しかしなぁ…」
「あの人?」
谷崎さんの提案に、国木田さんは難しい顔で考え込む。一人状況を理解出来ず、先輩達が結論を出すのを待って居ると、軈て国木田さんは意を決した様に僕を見た。
「敦。お前に助っ人を派遣してやる。明日、其奴と共にあの唐変木作家から、脱稿した原稿用紙を今度こそ回収して来い。期限は三日だ。」
「三日って…!でも、先生気分が乗らないとかで、新作の半分から先は全く手を付けてないんですよ!?幾ら何でも…」
「彼奴が一緒なら十分可能な筈だ。だが、此れは正直苦肉の策。諸刃の剣と云っても善い。よってお前には、もう一つ業務規定外の任務を与える」
「へ…?」
そして国木田さんは、逆光に輝く眼鏡のブリッジを上げて口を開いた。
****
「やぁ初めまして。これから三日間、君の助っ人を勤めさせて頂く臼井菫だ。話は国木田君から粗方聞いてる。宜しくね、中島敦君」
待ち合わせ場所の喫茶店に現れたその人は、そう自己紹介して僕に手を差し出した。その手を握り返しながら、僕は彼女の姿をそっと観察する。
臼井菫さん。
僕が担当して居る先生の三代前の担当編集であり、あの自由奔放な先生に安定して締め切りを守らせたと云う偉業を成した人物。実際にあの人の担当となり、振り回された僕から云わせれば、それは文字通り神業でしかなかった。
何せあの人、兎に角だらしない。凡てに於いてだらしない。仕事に就いては云うまでも無いが、私生活についてもそれは同じで、部屋は散らかり放題であちらこちらに酒瓶が転がり、家で口にするものと云えば出来合いの品か缶詰ばかり。お湯を沸かす事すら面倒だと耳にした時、心底あの人の生活力の無さを思い知った。だから食事は専ら外食で、しかも女の人が沢山居るお店で飲み食いしては、支払いを出版社に押し付けて好き勝手に遊び惚けている。その所為で国木田さんなんかは、よく先生を“社会不適合者”と呼んで文句を云っているけど、筆を取らせれば大ヒット作品を打ち出すので、ある程度の我儘は暗黙の内に容認されているらしい。
そんな先生と一対一で仕事をしなければならない担当編集は、日々無理難題と戦い続けなくてはならない。何時だってやる気のない先生の背中を押し、机の前に座らせ、ペンを握らせられれば上出来だ。大体はその前に隙を突いて逃げられる。おまけに男の担当者が付くとやれ華が無い、味気ないと文句を云う。けれどそれでお望み通り女性の担当者を付けると、今度は担当者を口説くのに夢中になって結局仕事をしない。挙句口説き落とされた女性担当者が、先生の云いなりになって締め切りを守らなくなってしまう始末だ。
どう転ぼうと八方塞。編集部が頭を抱えていたその問題を解決したのが、今僕の隣を歩いて居るこの人。…と云う事らしい。
「しっかし、幾ら引き受け手が居ないからって、弊社きっての問題児をまさか新人君に押し付けるとは…。本当に申し訳ない…」
「いえ…。最終的に引き受けたのは僕ですし。それに、先生の著作は僕も幾つか持ってて、正直光栄にすら思ってたくらいで…」
「おお!そりゃ嬉しい。嗚呼、でも今回ので逆に夢壊しちゃったかな…」
「はは…。まぁ、思い描いていたものとの誤差は在りましたけど。でも、矢っ張りあの人が書くものが凄いのは変わりませんし」
「そっか。……有難うね」
「え?」
「いやさ、腐ってもあの人の元担当編集としてはね…。あの人の作品を評価して貰えるのは嬉しいって云うかさ」
そう云ってはにかむ菫さんは、何処にでも居そうな普通の人だった。昨日国木田さん達から彼女の話を聞き、勝手に想像していた人物像とは矢張り程遠い。
「あ。因みに敦君は、どの作品が好きなんだ?私はな、犬嫌いが犬に懐かれてごちゃごちゃ云い訳しながら、結局情が移っちゃう話とか好きだぞ」
「えっと、僕は定番かもしれませんけど、矢っ張り主人公が親友の為に走るお話が好きです。主人公が約束を守ろうと苦難を乗り越え走る姿が、とても感動的で……」
「嗚呼、あれなぁ!ふふ、確かにあれは先生にしちゃあ珍しく前向きな話だったもんな。まぁ、当の本人は旅行先で“金を取りに帰るから”って親友を店に残して逃亡した挙句、本当に帰って遊び惚けてたりしてたけど」
「え゛?」
「いや~、旅館のご主人が邪知暴虐の王じゃなくて本当に良かったよねぇ。じゃなかったらそのご友人、民衆の面前で公開処刑されてたよ」
「そ、そんな事が…」
「まぁ、あの主人公は正しく先生とは真逆のタイプだからねぇ…。寧ろあの人、都合の善い云い訳並べてやりたい放題やった挙句、首が回らなくなったら周りを丸め込んで同じ事繰り返す駄目男の部類だし」
「嗚呼…、そう云えば先生作品、よくそう云う人出てきますよね…。最近出した本も確か、主人公の旦那さんがそう云う感じの人でしたし…」
「絶対実体験だからねあれ。しかもそれが案外劇的と云うか、眼が離せないんだよねぇ…。困った事にさ」
「…………」
そう苦笑しながらも、彼女の目元は柔らかな弧を描いていた。困ったと口にしながら、其れすら慈しむ様に桜色の唇が笑む。その様から何故か、眼が離せなかった。
「まぁ、其れが許されるのはフィクションの中だけだけどな。現実世界における駄目男は、それ以上でもそれ以下でもない。況してや締め切りを守らず遊び惚けて居る作家に慈悲は無い」
「あ、はい…」
しかしその笑みは、一瞬で絶対零度の氷の面へと切り替わった。心なしか吐く言葉にすら冷気が滲んでいるように感じる。思わず手に力が入った所為で、片手に提げていたビニール袋が一際大きく音を立てた。それに気付いた菫さんが、今度は気遣う様に僕の手元に眼を向けた。
「あ、ごめんな。矢っ張り重かったか?」
「嗚呼いえ。大丈夫です!菫さんこそ大丈夫ですか?僕、そっちも持ちますよ?」
「いやいや。それは流石に申し訳ないよ。こんなに買い込んだのは私なんだし。片方持って貰えてるだけでも大助かりさ」
そう云って菫さんは自分の持って居るビニール袋を少し掲げて見せると、また僕に笑い掛ける。その中には野菜、肉、魚、蟹、その他諸々。僕が持って居る袋には小さいがお米の袋迄入っている。彼女が待ち合わせ場所の喫茶店を訪れた時から提げていたものだ。
「でもこれ、如何するんですか?先生は料理なんてしませんよ?」
「うん。だから買って来たんだよ」
「え?」
「お!見えた見えた。わぁ、懐かしい!」
瞬きをする僕を他所に、菫さんは前方の古ぼけた一軒家に眼を輝かせる。少し歩調を速めた彼女は一人敷地に入ると、迷う事無く庭の方へと回った。僕も慌てて後に続くと、菫さんは既に敷石に靴を脱いで縁側へと上がっていた。
「先生ー。居ますかー。原稿取り立てに来ましたよー!」
「菫さん!流石に勝手に入ったら…っ」
少し声を張りながら、菫さんは縁側に面した一室の襖を勢いよく開け放った。先生が仕事部屋にしている部屋だ。しかし、其処に在ったのは敷きっぱなしの万年床、枕元に並ぶ酒瓶、脱ぎ散らかされた着物、丸まった原稿用紙。そして仕事用の机の上には空の缶詰がうず高く積まれていた。
その惨状に思わず仰け反った。昨日来た時よりも明らかに悪化している。どうやら先生は僕が居ない間に一度帰宅された様だ。だが、肝心の本人が何処にも居ない。まさか、僕等の動きを先読みして早々に逃げられてしまったのだろうか。
「ど、どうしましょう菫さん…」
情けない哉、早速助っ人の先輩に指示を仰ぐと、菫さんは深く溜息を吐いてビニール袋を下ろし、懐から手帳を出して書き留めるとそれを破って僕に渡した。
「敦君。悪が此処に行って先生を連れ戻してくれ。こっちは私が何とかするから」
「え?先生の居場所、判るんですか!?」
「今の時間なら多分其処に居る。居なかったら連絡くれ。他の候補地教えるから」
「でも…。仮に先生が此処に居たとしても、お店の人が先生を匿うんじゃ…」
「嗚呼、だからな―――」
****
メモに記されていたのは、国木田さんに貰ったリストの中にもあった酒場だ。先生を捜して何度か覗いてみた事がある。が、今迄一度も其処で先生を見つけられた事が無い。しかもこの店の営業は夕方からで、今は未だ真昼間だ。現に辿り着いた店先にも『準備中』と書かれた看板が出ている。けれど、他に手掛かりがないのも事実で、仕方なく僕は半信半疑の儘店の引き戸を滑らせた。
「ご、ごめんくださーい…」
「あら。何だい、今は営業時間外だよ?」
「あ、えっとその…」
当たり前だが店内に客の姿はない。居るのはこの店の女将さんだけだ。どうやら今日の仕込みの最中らしく、包丁片手に怪訝な眼を向けられて思わず体が強張った。
「ん?アンタ確か、出版社の…。生憎先生なら居ないよ。悪いが営業時間中に出直してくれるかい?」
御尤もな切り返しに二の句が喉に詰まる。けれど、僕は菫さんに云われた事を思い出して、一度深呼吸をするとその勢いに任せて声を上げた。
「『臼井菫さんが来てますよ』!!」
「えぇ!本当!?」
―――居た。
店とバックヤードを仕切る暖簾から、眼を輝かせて顔を出したのは他でもない。僕がこの数日間探し回っていた担当作家だ。
「菫さんが来たの!?何処何処?」
「やっと見つけましたよ、太宰先生!!」
是迄溜まった疲労やら不満やらが一緒くたになって口から溢れた。この人こそ我が出版社の看板作家にして屈指の問題作家。社会適合性と引き換えに、神から文才を与えられた男。―――太宰治先生その人だ。
「ちょっと太宰ちゃん。アンタから出てきて如何するんだい?」
「嗚呼、ごめん女将。でも決して聞き逃せない言葉の羅列が耳に飛び込んでつい…。ねぇ敦君!菫さんは私の自宅かい?」
「は、はい…」
女将さんの胡乱な目に苦笑を返して、先生は暖簾を潜ると足取りも軽く店の戸を開けた。
「じゃあね女将。お腹が空いたらまた来るよ」
「はいはい。アンタも早く嫁さん貰いな」
「ん~。考えとく」
「あ、待って下さい先生!」
僕は女将さんに一礼すると、慌てて先生の後を追い掛けた。その足取りは軽やかを通り越して、最早スキップでもしそうな勢いだ。漸く追い付いた先生の顔を覗き見れば、整った容姿が嬉しそうに綻んでいる。確かに先生は女性に目が無いし、視界に美女が映ればすぐ様口説きに行く人だ。けど、それを差し引いても、これは浮かれ過ぎな気がする。単に女性の担当者が来たからと云う訳では無く、来たのが菫さんだから此処まで上機嫌なのだろうか。と云う事は矢っ張り、国木田さん達から聞いた話は―――
「たっだいまー!」
「っ!?」
ぐるぐる考え事をしている内に、いつの間にか先生の自宅に着いていたらしい。勢いよく玄関を開け放ち帰宅を告げた先生に続いた僕は、しかし視界に広がる光景に足が止まった。
「これって…」
あれだけ混沌を極めていた室内が、ものの見事に片付いている。心なしか、家中に蔓延していた空気すらも浄化された様に感じた。そんな劇的変化を遂げ生まれ変わった室内から、エプロンに三角巾、マスクとゴム手袋を付けた菫さんが、箒片手に僕らを出迎えてくれた。
「やぁ、おかえり敦君。先生連れ帰ってくれて有難うね」
「菫さん…、え?まさかこれ、菫さんが…?」
「あんなゴミ屋敷じゃ仕事以前の問題だからね。取り敢えず此処と仕事部屋と、後は」
「菫さぁーん!会いたかったよぅ!」
その瞬間、歓喜の声を上げた先生が両手を広げて菫さんに駆け寄った。が、―――
「ぷぎゃ!」
目的の人物にヒラリと身を躱された先生は、見事に両腕で空を掻き勢い其の儘につんのめった。その様を呆れた様に見下ろした菫さんは、マスクを外して深い深い溜息を吐く。
「お久し振りです太宰先生。微塵もお変わりないみたいですね」
「うぅ、酷いよ菫さん。此処は互いに熱い抱擁で再会を喜ぶ所でしょう?」
「その場合、自動的にセクハラで司法に訴えられるルートが確定しますが、宜しいですか?」
「もう、菫さんったら〜。相変わらず照れ屋さん」
酷い温度差を保ちながら、何故か会話はつつがなく成立している。そんな奇妙なやり取りに閉口していると、菫さんが諦めた様に僕に目を向けた。
「ごめん敦君。私他の部屋も掃除してくるから、先生仕事部屋に押し込んどいてくれるかい?」
「あ、はい。判りました」
「え〜!菫さん着いてきてくれないの〜?」
「今日の私は単なる助っ人です。貴方の担当はあくまで敦君でしょう?」
「やだやだやだ〜。菫さんも来てくれないと仕事したくない〜」
「先生…」
自分より年上の、しかも大の大人が、五歳児の様に床に転がって手足をバタバタさせている。そんな目を覆いたくなる様な光景に微塵も動じず、菫さんは先生の前にしゃがみ込むと淡々と答えた。
「成る程。では今日は夕飯抜きと云う事で善いですか?」
「え?夕飯?菫さんが作ってくれるのかい?」
「ええ。その心算でしたけど、先生が仕事をして下さらないなら仕方ありませんね。折角奮発して蟹なんかも買ってきてたんですが」
「蟹…っ!」
「……逃げ出さずに、ちゃんと仕事して下さいますか?」
「………そしたら、今日は蟹?」
「そうです」
「……菫さんも、一緒に食べてくれる?」
「はい」
「……お酌もしてくれる?」
「ええ、勿論」
床に這いつくばる先生の問いに、菫さんはニコニコと答える。すると徐々に先生の眼は輝きを宿し始め、漸く立ち上がると僕に声を投げた。
「敦君!仕事しよう!今すぐに!」
「え…、ええ!?」
「あ、夕飯君の分も作っとくから安心して先生に付いててくれ。頼んだよ、敦君」
「あの…」
「さぁさぁ、早く早く!」
あの先生の口から、『仕事しよう』なんて言葉が飛び出したと云う現実を受け止めきれずにいると、先生は僕の背中をぐいぐい押して仕事部屋へと向かった。つい数刻前迄、足の踏み場も無かった惨状がまるで幻の様にきえさり、小ざっぱりとした畳の部屋が其処にはあった。
「本当に…、綺麗になってる…」
「まぁ、菫さんに掛かればあれくらい楽勝さ!」
諸悪の根源、基先生は何故か得意げに胸を張って机に着いた。そして宣言通り筆を取ると、本当に執筆を始めた。ちゃんと仕事してる。しかも鼻歌迄歌いながら。立て続けに突き付けられる信じられない光景に、頭が追いつかない。担当編集に任命されてからと云うもの、僕は先生に筆を取って貰う為にあれこれと手を尽くしてきた。だが、その殆どは徒労に終わり、巧くいったとしても先生は直ぐに筆を止めてしまう。少なくとも、先生が自分から机に向かうだなんて僕の知る限り片手で数える程度しか無かった筈なのに。
「あの…、太宰先生…」
「ん〜?何だい?」
呼び掛けても先生は視線を手元から外さない。その事にまた驚きながらも、僕は恐る恐る尋ねた。
「菫さんって、先生の元担当編集だったんですよね?」
「うん。そうだよ」
「何で、担当変わっちゃったんですか?」
すると、スラスラと紙面を滑っていた筆が止まった。今度こそ僕の方を振り向いた先生は、不思議そうに首を捻る。
「あれ、国木田君辺りから何か聞いてないの?」
「あ、………いえ、何も」
僕の返答に先生は少しだけ眼を細めた。しかし直ぐに机に向き直ると、またペンを動かしながら後ろの僕に言葉を投げる。
「そっか~、でも残念。実は私も詳しい理由を知らないのだよね」
「そう…なんですか…?」
「うん。ある日いきなり出版社の方から別の担当を付けるって云われて、それっきり。私としては、ずっと菫さんに担当で居て欲しかったんだけどねぇ…」
「えっと、その原因に何か心当たりとかは…」
其処迄口走って、僕は反射的に口を噤んだ。いけない。国木田さんにも十分注意するよう云われていたのに。流れに乗って、つい余計な詮索をしてしまった。しかし、自分の失態に内心頭を抱える僕を他所に、先生は実に軽い調子で返事を返す。
「ん~。特に思い当たる事は無いけどなぁ。先刻云った通り、菫さんに不満を感じる事なんて殆ど無かったし。寧ろ私の執筆を支えんとする彼女の献身には、本当に助かっていたのだよ?締め切り間近の追い込み期間とかも、泊まり掛けであれこれと尽くしてくれたし」
「と、泊まり掛け!?」
そのワードに、思わず声が裏返ってしまった。当の先生はキョトンとした顔で首を傾げているが、僕はそれ処じゃない。今の発言で、愈々もって国木田さん達の話が真実味を帯びてきた。“必要以上に深入りするな”と釘は刺されていたが、此処迄聞いてしまった以上、見て見ぬ振りは出来ない。覚悟を決めろ中島敦。末端であれども社の一隅として、事の真相を確かめなければ―――!
「だ、太宰先生…、付かぬ事をお伺いしますが……」
「ん?何だい?」
「その…、菫さんが泊まり掛けで、あれこれ尽くしてくれたとは……、えっと、具体的には如何云う……」
切れ切れに、しかし確かに、僕はそれを先生に尋ねた。正しく断腸の思いで問うたその質問に、先生は数度瞬きをして、軈て記憶をたどる様に顎に手をやった。
「具体的に…?まぁ、云ってしまえば“女性ならではの事”…、と云うか…」
「女性ならではの…事……?」
「そう。碌に外にも出られない、自由を制限された窮屈な毎日で蓄積され浮世の憂さ。それを解消してくれる唯一の楽しみを、彼女は私に与えてくれたのさ」
「それって…、いいい一体……」
「ふふふ。それはね―――」
「お疲れ様です先生。お茶をお持ちしましたよ」
「わーい!待ってましたー!」
その時突然障子が滑り、お盆を持った菫さんが現れた。すると先生は諸手と共に歓喜の声を上げる。
「取り敢えず紅茶にしましたが、問題在りませんでしたか?」
「勿論!久し振りに君が淹れてくれたお茶だもの。紅茶でも珈琲でも抹茶でも大歓迎だよ!」
「否、抹茶は苦いっつって嫌がるでしょう貴方」
「え、あの…」
「嗚呼、敦君も休憩がてらどうぞ」
「おお。良かったね敦君!菫さんの淹れてくれるお茶は絶品だよ?執筆の疲れも綺麗さっぱり忘れてしまう程さ!」
「お褒めに預かり光栄ですが、未だ机に向かって一時間も経ってないでしょう?寧ろこれは、これから頑張って頂く為の先払いですよ」
「太宰先生?若しかして、先刻仰ってたのって…―――これの事ですか?」
菫さんの持つお盆を指さすと、先生は何故か人差し指を振りながらチッチッと舌を鳴らす。その反応に内心ちょっとだけイラっとした僕に、先生はまた得意げに踏ん反り返って高らかに云い放った。
「フッ、甘いよ敦君。菫さんの実力はこんなものじゃない。三食の食事に始まり、小休憩のお茶、小腹が空いた際の軽食、果てには酒の摘み迄、彼女が作る料理はどれも一級品!お陰で私は胃袋をガッチリと掴まれ、メイド・イン・菫さん以外の食事では満足出来ない体にされてしまったのさ!」
「人聞きの悪い事云わないで下さい。大体、私の後任はその辺もしっかり考慮された上で選出されたんですよ?先生へのリスペクトは弊社随一。やる気も熱意も満々。おまけに本人もお茶好きだし、少なくともお茶への拘りは私より上だった筈ですけど」
「だって私…男が淹れたお茶より、女性に淹れて貰ったお茶の方が断然善いもん」
「それ絶対に本人に云わないで上げて下さいね。只でさえも先生の担当外された後、暫く彼にガン飛ばされた挙句無視され続けたんですから私」
「じゃあ、その…、先生が菫さんを気に入ってた理由って…。単に“料理が上手だから”…?」
「そんな事無いよ敦君!掃除とか洗濯とか、面倒な家事も全部やってくれる所だって、私は大いに買ってるんだからね!」
「もう家政婦さん雇ったらどうですか…?」
本当に心外そうな顔で頬を膨らます先生に、菫さんは疲れた様に溜息を吐いた。そんな二人の遣り取りに、思わず口元が引き攣る。つまり、菫さんが泊まり掛けで尽くしてくれたと云うのは、本当に文字通りでそれ以上でもそれ以下でも無かったのだ。……否、担当編集本来の仕事内容から考えれば、ある意味それ以上の仕事をしていた事になるけど……。
「ねぇねぇ菫さぁん。折角だから今日も泊まっていってよ~。前みたいに菫さんが夜食作ってくれたら、私もっと頑張っちゃうかもしれないよ?」
「残念ですが、担当外の先生に其処迄肩入れする訳にはいきません。“あくまで助っ人に徹するように”と、上からも釘差されてるんですから」
「え~、菫さんのケチー。少しくらいいいじゃない」
「一応冷凍庫に小分けのおかずをストックしていく心算ですので、それで妥協して下さい」
「う~ん、もうひと声!」
「はぁ…。じゃあ、明日の朝食も作り置きしておきますよ…」
「やったー!有難う菫さん!」
「本気で家政婦さんの雇用を検討して貰えませんか…」
まるで子供の様にはしゃぐ先生と、呆れたように溜息を吐く菫さん。自由奔放な我儘作家に振り回される編集者。普段の自分と同じ筈のその光景は、けれどそれにしては何処か―――
「…………」
二人の姿を黙って眺めながら、僕は菫さんに淹れて貰ったお茶を一口啜った。多少温くなってしまっていたが、確かに先生の云う通り美味しかった。
****
玄関先で太宰先生に見送られ、僕と菫さんは帰途に就いた。ヒンヤリとした夜風に頬を撫で付けられながら、僕は今日の出来事を思い起こす。助っ人に来てくれた菫さんの顔。悩みの種だった先生の顔。そんな二人の遣り取りを―――
「敦君?」
「へ…。あ、はい!何でしょうか!?」
不意に隣から声を掛けられて我に返る。つい先刻迄脳裏を回っていた先輩の顔が、思いの他近くにあって反射的に数歩後ずさった。すると彼女は、眉をハの字にして心配そうに瞳を揺らす。
「ご、ごめんな。脅かす心算は無くて、その、大丈夫…か…?」
「え?」
「否、何て云うか…。先生極端って云うか…、性別女性なら無条件であんな感じだから、その…別に君のやり方が悪かった訳じゃないと思うんだ。寧ろ、男の子にしては気に入られてる部類だと思うし……」
「あ…、いえ!別に僕、そんな事気にしてた訳じゃ…。否、確かにちょっと思う所は在りましたけど、でも、それも納得って云うか…」
菫さんの云わんとしている事を察し、僕は慌てて両手を振りながら否定した。確かに今日彼女は、僕がずっと躓いていた問題を一瞬で片づけて見せた。でも、それが長年の経験と信頼の成せる業と云う事も理解している。寧ろ自分の無力さを思い知ったのと同じくらい、沢山の事を学ばせてもらった。
「今日は菫さんの仕事振りを見て、凄く勉強になりました!付いてきて下さって、本当に有難う御座います」
「お…おう?そうか…。それなら、善いんだけど…」
少し驚いたように眼を丸くした菫さんは、しかし直ぐに目元を緩めると、其の儘手を伸ばして僕の頭をそっと撫でた。
「有難うな敦君」
「え?」
「あんな我儘で自由人で如何しようも無い先生を、今日迄見捨てないでくれて」
思わず見開いた目で、すぐそこに居る先輩を見やった。その顔は言葉通り感謝と賞賛と、何故か別の何かが少しだけ混じって居る様に見えた。けれどその正体が判らなかった僕は、見て取れた其れだけに微笑んで言葉を返す。
「はい。僕は太宰先生の担当編集ですから」
そう笑んだ僕に微笑み返し頭をもう数度軽く撫でると、菫さんは再び歩き出す。けれど踵を返した一瞬、正体の判らなかった其れが今度こそ彼女の顔を覆い尽くしていた様に見えた。
「菫さん…、あの…」
「君は、善い編集者になるよ」
僕の言葉を遮る様に、彼女は笑みを湛えて言葉を吐く。だから僕はそれ以上何も云えなくて、彼女と並んで夜道を歩いた。軈て別れ道に辿り着き、笑顔で手を振る菫さんに別れを告げて、僕は自宅へと足を踏み出した。けれど、数歩進んでもう一度後ろを振り返る。今日一日、魔法の様な偉業を成し遂げ、僕を助けて呉れたその背中は、信じられない程に小さく、先刻見た時と同じ様に何処か―――寂しそうだった。
「…………」
僕は来た道を引き返し、出版社へと向かった。この時間なら未だ、国木田さんも残っている筈だ。今日一日、僕が見たもの、感じたもの、それを報告する事もまた、先生の担当編集としてするべき事だと、そう思ったから。
****
ピンポーン
呼び鈴が鳴り席を経つ。来客の予定は予め把握していたが、思っていたより少し早い。玄関の扉を開けると、白髪の若者が所在無げに肩を窄めて佇んでいた。
「あ!初めまして。僕、中島敦と云います!」
「嗚呼、聞いてる。新しい担当編集だろう?」
「はい!あの…、すみません…。ちょっと早かった…ですよね…」
「構わない。俺は其処迄時間に細かい方じゃないからな」
見るからに緊張した様子で此方を見上げる若者を家に上げると、俺は椅子を進めて厨房に立った。すると彼は慌てたように荷物を椅子に掛け、俺を追って厨房へと入って来た。
「気にせず寛いでいてくれ。俺も客人に茶くらいは淹れられる」
「あの…、でも僕、今日から先生の担当編集ですし、善ければ僕に淹れされて貰えませんか?」
たかが茶を淹れるだけだと云うのに、彼は意を決した様に俺を見上げる。その光を数秒見下ろして、軈て俺は軽く厨房内の説明をして自席に戻った。如何やら新しい担当も、随分生真面目な奴らしい。そんな評価を付けながらも、内心助かったと胸を撫で下ろす自分が居た。何せ以前の担当が淹れてくれる茶が矢鱈上手い所為で、すっかり自分で淹れる茶に自信が無くなってしまっていたのだ。
「………美味かったな…、彼奴の淹れた珈琲は…」
ポツリと、口から零れた言葉が潮騒とカモメの声に溶ける。窓から流れ込む潮風が僅かに卓上の原稿を躍らせ、その向こうで見慣れた青い海が陽光を反射してキラキラと輝いていた。その時不意に、芳しい香りが鮮明に鼻腔を満たした。覚えのあるその香りに思わず目を向けると、例の若者が矢張り緊張気味に杯を差し出した。
「如何ぞ」
「……嗚呼、有難う」
少し戸惑いながらも、杯を受け取った。矢張り勘違いではない。この香りは今迄彼奴が出してくれたものと似ている。ジッと黒い水面に眼を落として、その謎について考えていると、居た堪れなった若者が先に答えを開示した。
「あの、珈琲の淹れ方は菫さんに教えてもらいました。全然、あの人には敵わない儘ですけど…」
「!」
苦笑を浮かべてそう零した彼に眼を見開いて、俺はもう一度黒い水面に眼を落とす。二三日前まで当たり前に嗅いでいたその匂いを懐かしく思いながら、俺は漸く杯に口を付けた。
「………どう、でしょう…?」
「……嗚呼、美味いよ」
「はぁ~~~…っ、善かった~~~」
心底安堵した様に息を吐く若者に、何故かこちらもホッとした。口内に広がるその味は、確かに多少違和感があったが、それでも自分で淹れるよりは余程マシな代物だった。締め切り前の繁忙期に、この味を気軽に味わえるのは正直有難い。
「仕事の引き継ぎはもう終わってるのか?」
「はい。菫さんと同じ様には出来ないと思いますけど、精一杯頑張ります」
「別に、彼奴の遣り方をなぞる必要はないさ。お前はお前の遣り方で、一緒にやっていってくれれば善い」
「有難う御座います。あ、でも菫さんから先生の事は色々とお聞きしていて、とっておきの秘密兵器も教えて貰いました!」
「秘密兵器?」
「“咖喱”の作り方です!締め切り前に咖喱を出すと、先生は俄然やる気が出るからって菫さんが」
「…………そうか」
条件反射と云うべきか、此処には居ない彼奴の「そうです」と云う声が聞こえた気がした。ともあれ、これで今回の配置換えに於ける一番の問題は解決された。厨房の鍋に残っている咖喱が最後の晩餐にならずに済む事を確信した俺は、椅子から立ち上がると目の前の若者に手を差し伸べた。
「挨拶が遅れて済まない。改めてこれから宜しく頼むよ、中島敦」
すると新しい担当編集は、嬉しそうに顔を綻ばせて俺の手を強く握った。
「はい!こちらこそ宜しくお願いします。織田作之助先生!」
****
「はい、確かに…。では、これにて本作の出版に就ての業務は全て終了です。お疲れ様でした、太宰先生」
「ん〜、やっと終わった〜!あ〜、これで暫くゆっくり出来るねぇ」
大きく伸びをした弊社の看板作家は、其の儘ぐだりと仕事机に凭れた。あの後、問題の原稿は無事三日で脱稿。編集部全員が安堵の溜息を吐いた。其処まで来れば後は此方の仕事。諸々の出版準備を終え、たった今見本も確認して貰った。後は、この本の発売日を待つだけだ。
「あ、そうだ。この見本、敦君にも一冊あげていいですか?」
「え?」
「否ほら、事実上これはあの子が担当した先生の作品な訳ですし。彼にとっての初仕事の成果ですから。あ、勿論、発売日迄は黙秘して貰いますので」
「嗚呼、善いよ。今回の件で、彼には何かお礼をしたいと思ってたからね。その先払いだ」
「有難う御座います。きっと喜びますよ」
「彼、その後元気にしてる?」
「ええ、偶に社内で見かけますけど、順調そうですよ。まぁ、何処かの問題作家先生と違って、あの人は締め切り前に逃げたりしませんからね」
「酷いなぁ、あれでも彼の事はそれなりに気に入っていたのだよ?あの冴え渡るツッコミスキル、国木田君に引けを取らない逸材だ。お陰でパッとしない毎日が、少し賑やかになったよ」
「それはそれは、お気に入りの担当が外れちゃって残念でしたね」
「おや、もしかして妬いてる?」
不覚にも付け入る隙を見せてしまった私に、先生は机に頬杖を付きながらニヤニヤと笑う。だから私は態と平然とした顔を作って、畳に広げた資料を鞄に仕舞いながら続けた。
「と云うよりヘコみました。私が担当外れた途端、あんな面白い話を次から次に出版されるんですから。お陰で“私、実は先生の担当に向いてなかったんじゃないか”って頭抱えて、暫く飲酒量が増えましたよ」
「はっはっは!まさか!私の担当に君以上の適任者は居ないよ。私、何時もそう云っていた筈だけど?」
「執筆に快適な環境と、作品を生み出す環境は違います。貴方は何方かと云えば、浮世の憂いを傑作に昇華するタイプでしょう?それを理解した上で私は貴方に、執筆に快適な環境だけを整え続けた。これはそのツケなんだろうなぁって、貴方の新作を読んで腑に落ちました」
「…………だから、私と逢ってくれなくなったのかい?」
思いの外近くで声がした。膝の上の置いた鞄に掛かっていた影が広がる。その所為で顔を上げられずにいると、米神から輪郭をなぞる様に長くしなやかな指が伝った。軈て顎へと至ったその指に、上げられそうになる顔をグッと押し戻して、私は下を向いた迄口を開く。
「駄目です先生」
「何故?」
「仕事中です」
「私の仕事はもう終わったよ」
「私が、未だ仕事を終えてません」
「でもそれ、明日でも十分間に合うでしょう」
「それでも、駄目です」
「…………。………私との関係を疑われたら、“また”担当を外されるから?」
「っ……!判ってるなら」
嗚呼、やってしまった。顔を上げればどうなるかなんて、判っていたのに。
「ん、…だ、め。駄目です、せんせ…っ」
拒否の言葉は、形になる前に柔い唇に封じられる。押し返そうとした手は、逆に指を絡める様に捕まって引き寄せられた。徐々に体重をかけられて、耐え切れずに畳に背を預けると、漸く先生は顔を上げた。魅入られるだけで内側から溶け出してしまいそうな、重い熱を帯びた鳶色が影を負って私を見下ろす。
「酷い人だ…、連絡の一つも寄越さないで、散々私を放ったらかしにしておいて、この上未だ私に“駄目”だなんて云うのかい…?」
「………」
「君は単に、立場を利用した私から家政婦代わりに扱き使われていただけ。敦君の証言を元に国木田君達が上にそう報告して、君の潔白は証明された。もう私達が憚るべきものなんて何もない筈だ」
「“潔白”…?はは、純粋な若者にそう思い込ませて、誤魔化しただけでしょう。こんな“真っ黒”の下手人捕まえて、“潔白”だなんて笑えませんよ…」
「“真っ黒”だって自覚があるなら、今更くだらない綺麗事に首を垂れる必要なんて無いだろう」
「……っ…」
暗い影と一緒に柔らかな蓬髪が額に落ちて、軈て互いの額が重なった。真上で浅く繰り返される呼吸が唇を撫で、絡め捕られていた手は更に強い力で握られる。これ以上眼を開けて居られなくて固く瞑るも、暗闇の中で尚も彼は言葉を紡ぐ。
「それでも未だ、君は“間違っていた”と云う心算かい?あれだけ言葉を重ねて、あれだけ口付けを重ねて、あれだけ身体を重ねて求め合っておきながら…、君はそれすら“間違っていた”と云い捨てるのかい?
私に“愛している”と告げたその想いも、君は“間違っていた”と―――」
「―――っ!違う、そんな事…、……!」
―――嗚呼。否定、してしまった。
決めていた筈だったのに。敦君の助っ人を請け負い、もう一度この人に逢うと決心した時。あれだけ自分に、云い聞かせていた筈なのに……
手遅れの言葉を切った口に、また柔い熱が降りて来る。深く深く、味わう様に唇を食む。
「…っ…、先…生…」
「駄目だよ」
誘惑に負けて薄く開いた視界に、またあの鳶色が映り込む。必死に掛けていた自己暗示を溶かして、嘗ての様に私の奥底へと染み込んでくる。最後の砦を崩す様に、甘く熱っぽい声が落ちた。
「此処には私と君しか居ない。二人きりの時は何て呼べば善いか、教えただろう?
―――菫」
「……っ…太宰…」
****
その人事異動を云い渡された時、特に理由は告げられなかった。誰も何も云わなかった。けれど、周囲の空気で察しは付いた。
私が“間違っていた”からだ。
判り切ったタブーを犯して、仕事に私情を持ち込んだ。明らかなルール違反。寧ろ人事異動だけで済ませてくれた上に、私は心から感謝するべきだろう。或いは、彼の巧みな小細工が功を奏し、明確な証拠を掴めず公に処分を下せなかっただけかも知れないが。何にしろ、先に襤褸を出してしまったのはきっと私だ。
だから、私は彼に逢う事をやめた。
元来女性関係にだらしない彼の事だ。きっとこの件も“何時もの悪癖が出たのだ”と皆は流すだろう。私が余計な事さえしなければ、自然治癒する問題だ。だから、彼からの連絡も全て無視した。もうそれ以外考え付かなかった。彼が変わらず筆を取り続けられる様に。作家として物語を世に送り出していける様に。それが、ただの女に成り下がった元担当編集の、最後の矜持だった。
――― その筈だったのだ。
日の当たる縁側でまた頁を繰る。すると不意に後ろから影が差して、新しく開いたばかりの書面が頭上へと消え去ってしまった。
「またこれを読んでいたのかい?君も好きだねぇ」
「君の書く話は大なり小なり皆好きだよ」
偉大なる作者は肩を竦めると、隣に腰を下ろして私から取り上げた本をペラペラと捲る。それを横から覗き込んで、私は何度目になるか判らない溜息を吐いた。
「矢っ張り眼が離せないんだよなぁ…。ホント狡い…」
「またその話?」
「だって何度読み返しても、明らかに私が担当外れた後の作品の方が出来栄え善いんだもんさ。特にこれ。あ~、善いな~敦君…。こんないい本の出版に携われるなんて…」
「君の嫉妬するポイントって本当に独特だよね」
「当たり前だろう。私は君の大ファンだぞ?好きな作家の傑作を自分の手で世に送り出せるなんて、最高の栄誉じゃないか。しかもこれ、面倒臭くて、理屈っぽくて、自尊心高い癖に甘ったれた寂しがり屋感が惜しみなく詰まってて、太宰の持ち味全開じゃん」
「うん、君よくそれで私のファンを自称出来たね」
「私なりの大絶賛だぞ?」
「あっそ…」
何故か拗ねた様に口を尖らせた太宰は、パタンと裏表紙を閉じると私に本を突き返す。しかし私がそれを受け取ると、其の儘膝の上で頬杖を付いて彼はニヤリと口の端を吊り上げた。
「それじゃあ君は、その面倒臭くて、理屈っぽくて、自尊心高い癖に甘ったれた寂しがり屋感が惜しみなく詰まった話の続きが待ち切れなくて、のこのこ此処に現れた訳だね?」
「へ?」
「だって私の担当を外された後も、社に持ち帰られた私の新作原稿、君こっそり盗み読みしてただろう?」
「なっ!?え?何で知って…っ」
慌てて口を塞いでも自分で掘った墓穴は埋まらず、太宰はより一層ニヤニヤ笑いを深めていく。
「昔からそうだったじゃないか。私が何か書き始めると、『続きは如何なるんだ』って子供みたいに眼を輝かせちゃって。お陰でこっちは話を書き切るまで筆を置けやしない。そんな君が、私の新作を大人しく発売日迄待てる訳ないもの」
「おい…、まさかこの本の原稿が半分しか上がってなかったのって…」
「勿論、君を焦らす為だよ。そして締め切り直前迄続きを上げずに居れば、業を煮やした国木田君達が君に泣きつくだろう?かくして大義名分を得た私の大ファンは、大手を振って我が家に原稿取りにやって来た。私の筋書き通りにね」
「〜〜〜っ!…おのれ、回りくどい真似を…」
「生憎、ストレートに書いた恋文は全く返事が返って来なかったから」
態とらしく首を振って、彼は私との距離を詰める。長くしなやかな指が、私の髪を絡め取って直ぐ其処にある口元へと当てがった。
「最初はその本の主人公みたいに、自分から逢いに行く事も考えたんだ。でも、そんな事をしても君に追い返されるのが目に見えていたから、逆に君が居ても立っても居られない話を書いて引き摺り出す事にした。君が担当を外れて以降、私の書く本の出来が善くなっていったのは、単にモチベーションの問題だよ」
「うわぁ…、何だよそれ、すっごい複雑…」
「ふふ。だって私、君の云う通り浮世の憂いを骨組みに話を書く作家だもの。愛しい恋人に逢えず、挙句無視され続けるなんて悲劇のどん底に叩き落とされたら、傑作の一つや二つ否が応でも書き上がるってものさ」
「自分の悲恋を元に失恋ソング書き上げる女性シンガーか君は」
「ちょっと、別に私失恋なんてして無いでしょう?こうして愛しい恋人と、また蜜月の日々を送れてるんだから」
「はぁ…、こっちはまた同じ事にならないか、気が気じゃ無いんだがなぁ…」
「ならいっそ、出版社辞めて私の所にくれば?」
「却下。目の前で別の誰かが君の担当してるの見てるだけなんて、金輪際御免だ」
「ぷっ、何それ。私と私の作品、どっちを取られた事に嫉妬してるの?」
「両方」
少し頬を膨らませて零すと、彼は笑いながらその膨らんだ頬を指で小突く。しかし何時の間にかその指は優しく頬を撫で、誘われる儘に視線を上げれば、柔らかに細められた鳶色とかち合った。
「じゃあ寂しい想いをさせたお詫びに、今度は君の為に一作書き上げてあげようか」
「ホントか!」
「うん。書き上がったら一番最初に見せてあげる。どんな話が良い?」
願ってもない最高の申し出に、私は頭をギュンギュン回してリクエストを考えた。喜劇か、悲劇か、随筆なんかもありだなと悩みに悩んで、軈て私は答えを出した。
「よし!じゃあ、“太宰”を書いてくれ!」
「え?」
「君の手で君を書いてくれ。君と云う人間を綴った本を私にくれ。私は、“君の物語”が欲しい」
私の返答に太宰は口を噤んだ。大きく見開いた双眸は、だが軈て困った様に緩んで苦笑へと変わった。
「きっと、酷く拗れた話になるよ?」
「うん。それでいい。それがいいんだ、私は」
「…後悔しても知らないからね」
「生憎、君の名作を他人に任せる以上の後悔なんて、私には有り得ないよ」
そう微笑んだ口元に柔い唇が重なる。触れるだけで離れたそれは、けれど直ぐ近くで言葉を紡いだ。
「じゃあお望み通り、私と云う人間の話を君にあげよう。物好きな君が咽せ返る程生々しく、私の中身を抉り抜いて、厭と云う程詰め込んであげる。
そうだなぁ、表題 は―――」
苦手な方はご遠慮下さい。
問題なければご閲覧下さい。
****
―――小説家。
物語を生む者。剣よりも強いペン先から無尽蔵に広がる別世界の創造主。幾千幾万の文字を綴り、その中で生きる人の軌跡を。人間はどう生きて、どう死ぬべきかを。
人間を書く人間。
そんな彼等を支え導くのが僕の、“編集者”の仕事だ。
「おい敦。お前が此処を出る時、俺が云った事を覚えているか?」
「…えっと」
「『これ以上は待てん。どんな手を使ってでも、奴から残り半分の原稿を巻き上げて来い』俺はそう云ったな?」
「……はい」
「では改めて聞くが、持ち帰れた文章は
目の前に突き付けられた一枚の原稿用紙に、言葉どころか呼吸すらも喉の奥に引っ込んだ。均一に敷き詰められた正方形を完全に無視して、でかでかと走り書きされた文面を、固く重い声が音にしていく。
「『お腹が空いたのでご飯食べてきます。その内帰ります』」
「……其れを見つけてからここ三日程、毎日お宅に様子を見に行ったり、あっちこっち探し回ったりもしたんですけど…」
「…………」
「……く、国木田…さん…?」
「だあぁ!あんの放蕩作家がああああ!!」
怒号を上げた先輩は原稿用紙をビリビリに破いて紙吹雪にすると、続け様に僕の胸倉を掴みぐわんぐわん揺さぶる。
「お前もお前だ!毎度同じ手に引っ掛かりおって!彼奴の家には二十四時間体制で張り込んでいろと云っただろうが!!」
「む、無理ですよそんなの…!それに幾ら張り付いてても、あの人何時の間にか居なくなっちゃってて…」
「そう云う時の為に、奴の行きつけの酒場リストをお前に渡しておいただろうが!!」
「行きましたけど!店の人皆口を揃えて『先刻迄其処で飲んでたんだけどねぇ』って…。もうあれ、店側が口裏合わせて匿ってるとしか思えませんよ…!」
「おのれ…。あの迷惑作家が…っ」
国木田さんが両手で自分の頭を抱えた為、漸く解放された僕は歯軋りし乍ら唸る先輩をただ見守る事しか出来なかった。すると横合いからほろ苦い匂いがして、眼を向けるともう一人の先輩が珈琲の入った紙コップを差し出してくれた。
「お疲れ様敦君。大変だったね」
「あ、有難う御座います谷崎さん。すみません。僕今回も…」
「いや~、敦君はよくやってる方だと思うよ?あの先生の担当になった人は今迄何人か見て来たけど、男は大体途中で『やってられるか!』って匙投げちゃうから…」
「ふん。原稿を上げられなければ、結果的には変わらん…」
「まぁまぁ。あの人を受け持つ大変さは、国木田さんだってよく判ってるでしょう?敦君ばっかり責めたら可哀想ですよ」
谷崎さんの助太刀に口を噤んだ国木田さんは、軈て苦々しい顔で溜息を吐いた。その様子に僕と谷崎さんは互いに苦笑して、足元に散らばった紙吹雪を拾い集める。
“文豪出版社”。此の街の書物を一手に預かるこの出版社に入社して早数か月。遂に僕は、ある作家先生の担当編集に任命された。しかも相手は我が社の看板作家の一人で、新作を世に出せばあっと云う間に初版は完売。重版に重版を重ねる超売れっ子だ。そんな凄い先生の担当が、僕の様な新人に務まるのかと不安もあった。だが矢張り、未来の名著を形作る過程に立ち会い、その手助けが出来るなんて貴重なチャンスを見逃す事など出来ず、二つ返事でその任を拝命した。……そう、拝命してしまったのだ。
「まさか…、有名作家の担当編集が此処迄大変だなんて……」
「否…。抑々作家が逃げ出さない様に見張るなんて、本来担当編集の仕事じゃないンだけどね…」
「ええ!?そうなんですか!?」
「当たり前だろう。締め切り前に逃亡するなど、あの唐変木くらいなものだ」
「お陰であの人に着いた担当は、皆長続きしないンですよねぇ…」
「ま、まさか僕が先生の担当に選ばれたのって…」
「まぁ…有体に云えば、皆が断るから他に誰も居なかったと云うか…」
「そんなぁ~…」
「とは云え、流石に敦一人ではもう限界だな。締め切りもこれ以上は伸ばせん。何か策を考えねば…」
それっきり腕を組んで口を噤んだ国木田さんの眉間には、深い皺が時間の経過と共に増えていく。すると暫くして、谷崎さんが恐る恐ると云う様に手を上げた。
「あの…、矢っ張りここは“あの人”にお願いするしか無いンじゃないですか?」
「むぅ…。しかしなぁ…」
「あの人?」
谷崎さんの提案に、国木田さんは難しい顔で考え込む。一人状況を理解出来ず、先輩達が結論を出すのを待って居ると、軈て国木田さんは意を決した様に僕を見た。
「敦。お前に助っ人を派遣してやる。明日、其奴と共にあの唐変木作家から、脱稿した原稿用紙を今度こそ回収して来い。期限は三日だ。」
「三日って…!でも、先生気分が乗らないとかで、新作の半分から先は全く手を付けてないんですよ!?幾ら何でも…」
「彼奴が一緒なら十分可能な筈だ。だが、此れは正直苦肉の策。諸刃の剣と云っても善い。よってお前には、もう一つ業務規定外の任務を与える」
「へ…?」
そして国木田さんは、逆光に輝く眼鏡のブリッジを上げて口を開いた。
****
「やぁ初めまして。これから三日間、君の助っ人を勤めさせて頂く臼井菫だ。話は国木田君から粗方聞いてる。宜しくね、中島敦君」
待ち合わせ場所の喫茶店に現れたその人は、そう自己紹介して僕に手を差し出した。その手を握り返しながら、僕は彼女の姿をそっと観察する。
臼井菫さん。
僕が担当して居る先生の三代前の担当編集であり、あの自由奔放な先生に安定して締め切りを守らせたと云う偉業を成した人物。実際にあの人の担当となり、振り回された僕から云わせれば、それは文字通り神業でしかなかった。
何せあの人、兎に角だらしない。凡てに於いてだらしない。仕事に就いては云うまでも無いが、私生活についてもそれは同じで、部屋は散らかり放題であちらこちらに酒瓶が転がり、家で口にするものと云えば出来合いの品か缶詰ばかり。お湯を沸かす事すら面倒だと耳にした時、心底あの人の生活力の無さを思い知った。だから食事は専ら外食で、しかも女の人が沢山居るお店で飲み食いしては、支払いを出版社に押し付けて好き勝手に遊び惚けている。その所為で国木田さんなんかは、よく先生を“社会不適合者”と呼んで文句を云っているけど、筆を取らせれば大ヒット作品を打ち出すので、ある程度の我儘は暗黙の内に容認されているらしい。
そんな先生と一対一で仕事をしなければならない担当編集は、日々無理難題と戦い続けなくてはならない。何時だってやる気のない先生の背中を押し、机の前に座らせ、ペンを握らせられれば上出来だ。大体はその前に隙を突いて逃げられる。おまけに男の担当者が付くとやれ華が無い、味気ないと文句を云う。けれどそれでお望み通り女性の担当者を付けると、今度は担当者を口説くのに夢中になって結局仕事をしない。挙句口説き落とされた女性担当者が、先生の云いなりになって締め切りを守らなくなってしまう始末だ。
どう転ぼうと八方塞。編集部が頭を抱えていたその問題を解決したのが、今僕の隣を歩いて居るこの人。…と云う事らしい。
「しっかし、幾ら引き受け手が居ないからって、弊社きっての問題児をまさか新人君に押し付けるとは…。本当に申し訳ない…」
「いえ…。最終的に引き受けたのは僕ですし。それに、先生の著作は僕も幾つか持ってて、正直光栄にすら思ってたくらいで…」
「おお!そりゃ嬉しい。嗚呼、でも今回ので逆に夢壊しちゃったかな…」
「はは…。まぁ、思い描いていたものとの誤差は在りましたけど。でも、矢っ張りあの人が書くものが凄いのは変わりませんし」
「そっか。……有難うね」
「え?」
「いやさ、腐ってもあの人の元担当編集としてはね…。あの人の作品を評価して貰えるのは嬉しいって云うかさ」
そう云ってはにかむ菫さんは、何処にでも居そうな普通の人だった。昨日国木田さん達から彼女の話を聞き、勝手に想像していた人物像とは矢張り程遠い。
「あ。因みに敦君は、どの作品が好きなんだ?私はな、犬嫌いが犬に懐かれてごちゃごちゃ云い訳しながら、結局情が移っちゃう話とか好きだぞ」
「えっと、僕は定番かもしれませんけど、矢っ張り主人公が親友の為に走るお話が好きです。主人公が約束を守ろうと苦難を乗り越え走る姿が、とても感動的で……」
「嗚呼、あれなぁ!ふふ、確かにあれは先生にしちゃあ珍しく前向きな話だったもんな。まぁ、当の本人は旅行先で“金を取りに帰るから”って親友を店に残して逃亡した挙句、本当に帰って遊び惚けてたりしてたけど」
「え゛?」
「いや~、旅館のご主人が邪知暴虐の王じゃなくて本当に良かったよねぇ。じゃなかったらそのご友人、民衆の面前で公開処刑されてたよ」
「そ、そんな事が…」
「まぁ、あの主人公は正しく先生とは真逆のタイプだからねぇ…。寧ろあの人、都合の善い云い訳並べてやりたい放題やった挙句、首が回らなくなったら周りを丸め込んで同じ事繰り返す駄目男の部類だし」
「嗚呼…、そう云えば先生作品、よくそう云う人出てきますよね…。最近出した本も確か、主人公の旦那さんがそう云う感じの人でしたし…」
「絶対実体験だからねあれ。しかもそれが案外劇的と云うか、眼が離せないんだよねぇ…。困った事にさ」
「…………」
そう苦笑しながらも、彼女の目元は柔らかな弧を描いていた。困ったと口にしながら、其れすら慈しむ様に桜色の唇が笑む。その様から何故か、眼が離せなかった。
「まぁ、其れが許されるのはフィクションの中だけだけどな。現実世界における駄目男は、それ以上でもそれ以下でもない。況してや締め切りを守らず遊び惚けて居る作家に慈悲は無い」
「あ、はい…」
しかしその笑みは、一瞬で絶対零度の氷の面へと切り替わった。心なしか吐く言葉にすら冷気が滲んでいるように感じる。思わず手に力が入った所為で、片手に提げていたビニール袋が一際大きく音を立てた。それに気付いた菫さんが、今度は気遣う様に僕の手元に眼を向けた。
「あ、ごめんな。矢っ張り重かったか?」
「嗚呼いえ。大丈夫です!菫さんこそ大丈夫ですか?僕、そっちも持ちますよ?」
「いやいや。それは流石に申し訳ないよ。こんなに買い込んだのは私なんだし。片方持って貰えてるだけでも大助かりさ」
そう云って菫さんは自分の持って居るビニール袋を少し掲げて見せると、また僕に笑い掛ける。その中には野菜、肉、魚、蟹、その他諸々。僕が持って居る袋には小さいがお米の袋迄入っている。彼女が待ち合わせ場所の喫茶店を訪れた時から提げていたものだ。
「でもこれ、如何するんですか?先生は料理なんてしませんよ?」
「うん。だから買って来たんだよ」
「え?」
「お!見えた見えた。わぁ、懐かしい!」
瞬きをする僕を他所に、菫さんは前方の古ぼけた一軒家に眼を輝かせる。少し歩調を速めた彼女は一人敷地に入ると、迷う事無く庭の方へと回った。僕も慌てて後に続くと、菫さんは既に敷石に靴を脱いで縁側へと上がっていた。
「先生ー。居ますかー。原稿取り立てに来ましたよー!」
「菫さん!流石に勝手に入ったら…っ」
少し声を張りながら、菫さんは縁側に面した一室の襖を勢いよく開け放った。先生が仕事部屋にしている部屋だ。しかし、其処に在ったのは敷きっぱなしの万年床、枕元に並ぶ酒瓶、脱ぎ散らかされた着物、丸まった原稿用紙。そして仕事用の机の上には空の缶詰がうず高く積まれていた。
その惨状に思わず仰け反った。昨日来た時よりも明らかに悪化している。どうやら先生は僕が居ない間に一度帰宅された様だ。だが、肝心の本人が何処にも居ない。まさか、僕等の動きを先読みして早々に逃げられてしまったのだろうか。
「ど、どうしましょう菫さん…」
情けない哉、早速助っ人の先輩に指示を仰ぐと、菫さんは深く溜息を吐いてビニール袋を下ろし、懐から手帳を出して書き留めるとそれを破って僕に渡した。
「敦君。悪が此処に行って先生を連れ戻してくれ。こっちは私が何とかするから」
「え?先生の居場所、判るんですか!?」
「今の時間なら多分其処に居る。居なかったら連絡くれ。他の候補地教えるから」
「でも…。仮に先生が此処に居たとしても、お店の人が先生を匿うんじゃ…」
「嗚呼、だからな―――」
****
メモに記されていたのは、国木田さんに貰ったリストの中にもあった酒場だ。先生を捜して何度か覗いてみた事がある。が、今迄一度も其処で先生を見つけられた事が無い。しかもこの店の営業は夕方からで、今は未だ真昼間だ。現に辿り着いた店先にも『準備中』と書かれた看板が出ている。けれど、他に手掛かりがないのも事実で、仕方なく僕は半信半疑の儘店の引き戸を滑らせた。
「ご、ごめんくださーい…」
「あら。何だい、今は営業時間外だよ?」
「あ、えっとその…」
当たり前だが店内に客の姿はない。居るのはこの店の女将さんだけだ。どうやら今日の仕込みの最中らしく、包丁片手に怪訝な眼を向けられて思わず体が強張った。
「ん?アンタ確か、出版社の…。生憎先生なら居ないよ。悪いが営業時間中に出直してくれるかい?」
御尤もな切り返しに二の句が喉に詰まる。けれど、僕は菫さんに云われた事を思い出して、一度深呼吸をするとその勢いに任せて声を上げた。
「『臼井菫さんが来てますよ』!!」
「えぇ!本当!?」
―――居た。
店とバックヤードを仕切る暖簾から、眼を輝かせて顔を出したのは他でもない。僕がこの数日間探し回っていた担当作家だ。
「菫さんが来たの!?何処何処?」
「やっと見つけましたよ、太宰先生!!」
是迄溜まった疲労やら不満やらが一緒くたになって口から溢れた。この人こそ我が出版社の看板作家にして屈指の問題作家。社会適合性と引き換えに、神から文才を与えられた男。―――太宰治先生その人だ。
「ちょっと太宰ちゃん。アンタから出てきて如何するんだい?」
「嗚呼、ごめん女将。でも決して聞き逃せない言葉の羅列が耳に飛び込んでつい…。ねぇ敦君!菫さんは私の自宅かい?」
「は、はい…」
女将さんの胡乱な目に苦笑を返して、先生は暖簾を潜ると足取りも軽く店の戸を開けた。
「じゃあね女将。お腹が空いたらまた来るよ」
「はいはい。アンタも早く嫁さん貰いな」
「ん~。考えとく」
「あ、待って下さい先生!」
僕は女将さんに一礼すると、慌てて先生の後を追い掛けた。その足取りは軽やかを通り越して、最早スキップでもしそうな勢いだ。漸く追い付いた先生の顔を覗き見れば、整った容姿が嬉しそうに綻んでいる。確かに先生は女性に目が無いし、視界に美女が映ればすぐ様口説きに行く人だ。けど、それを差し引いても、これは浮かれ過ぎな気がする。単に女性の担当者が来たからと云う訳では無く、来たのが菫さんだから此処まで上機嫌なのだろうか。と云う事は矢っ張り、国木田さん達から聞いた話は―――
「たっだいまー!」
「っ!?」
ぐるぐる考え事をしている内に、いつの間にか先生の自宅に着いていたらしい。勢いよく玄関を開け放ち帰宅を告げた先生に続いた僕は、しかし視界に広がる光景に足が止まった。
「これって…」
あれだけ混沌を極めていた室内が、ものの見事に片付いている。心なしか、家中に蔓延していた空気すらも浄化された様に感じた。そんな劇的変化を遂げ生まれ変わった室内から、エプロンに三角巾、マスクとゴム手袋を付けた菫さんが、箒片手に僕らを出迎えてくれた。
「やぁ、おかえり敦君。先生連れ帰ってくれて有難うね」
「菫さん…、え?まさかこれ、菫さんが…?」
「あんなゴミ屋敷じゃ仕事以前の問題だからね。取り敢えず此処と仕事部屋と、後は」
「菫さぁーん!会いたかったよぅ!」
その瞬間、歓喜の声を上げた先生が両手を広げて菫さんに駆け寄った。が、―――
「ぷぎゃ!」
目的の人物にヒラリと身を躱された先生は、見事に両腕で空を掻き勢い其の儘につんのめった。その様を呆れた様に見下ろした菫さんは、マスクを外して深い深い溜息を吐く。
「お久し振りです太宰先生。微塵もお変わりないみたいですね」
「うぅ、酷いよ菫さん。此処は互いに熱い抱擁で再会を喜ぶ所でしょう?」
「その場合、自動的にセクハラで司法に訴えられるルートが確定しますが、宜しいですか?」
「もう、菫さんったら〜。相変わらず照れ屋さん」
酷い温度差を保ちながら、何故か会話はつつがなく成立している。そんな奇妙なやり取りに閉口していると、菫さんが諦めた様に僕に目を向けた。
「ごめん敦君。私他の部屋も掃除してくるから、先生仕事部屋に押し込んどいてくれるかい?」
「あ、はい。判りました」
「え〜!菫さん着いてきてくれないの〜?」
「今日の私は単なる助っ人です。貴方の担当はあくまで敦君でしょう?」
「やだやだやだ〜。菫さんも来てくれないと仕事したくない〜」
「先生…」
自分より年上の、しかも大の大人が、五歳児の様に床に転がって手足をバタバタさせている。そんな目を覆いたくなる様な光景に微塵も動じず、菫さんは先生の前にしゃがみ込むと淡々と答えた。
「成る程。では今日は夕飯抜きと云う事で善いですか?」
「え?夕飯?菫さんが作ってくれるのかい?」
「ええ。その心算でしたけど、先生が仕事をして下さらないなら仕方ありませんね。折角奮発して蟹なんかも買ってきてたんですが」
「蟹…っ!」
「……逃げ出さずに、ちゃんと仕事して下さいますか?」
「………そしたら、今日は蟹?」
「そうです」
「……菫さんも、一緒に食べてくれる?」
「はい」
「……お酌もしてくれる?」
「ええ、勿論」
床に這いつくばる先生の問いに、菫さんはニコニコと答える。すると徐々に先生の眼は輝きを宿し始め、漸く立ち上がると僕に声を投げた。
「敦君!仕事しよう!今すぐに!」
「え…、ええ!?」
「あ、夕飯君の分も作っとくから安心して先生に付いててくれ。頼んだよ、敦君」
「あの…」
「さぁさぁ、早く早く!」
あの先生の口から、『仕事しよう』なんて言葉が飛び出したと云う現実を受け止めきれずにいると、先生は僕の背中をぐいぐい押して仕事部屋へと向かった。つい数刻前迄、足の踏み場も無かった惨状がまるで幻の様にきえさり、小ざっぱりとした畳の部屋が其処にはあった。
「本当に…、綺麗になってる…」
「まぁ、菫さんに掛かればあれくらい楽勝さ!」
諸悪の根源、基先生は何故か得意げに胸を張って机に着いた。そして宣言通り筆を取ると、本当に執筆を始めた。ちゃんと仕事してる。しかも鼻歌迄歌いながら。立て続けに突き付けられる信じられない光景に、頭が追いつかない。担当編集に任命されてからと云うもの、僕は先生に筆を取って貰う為にあれこれと手を尽くしてきた。だが、その殆どは徒労に終わり、巧くいったとしても先生は直ぐに筆を止めてしまう。少なくとも、先生が自分から机に向かうだなんて僕の知る限り片手で数える程度しか無かった筈なのに。
「あの…、太宰先生…」
「ん〜?何だい?」
呼び掛けても先生は視線を手元から外さない。その事にまた驚きながらも、僕は恐る恐る尋ねた。
「菫さんって、先生の元担当編集だったんですよね?」
「うん。そうだよ」
「何で、担当変わっちゃったんですか?」
すると、スラスラと紙面を滑っていた筆が止まった。今度こそ僕の方を振り向いた先生は、不思議そうに首を捻る。
「あれ、国木田君辺りから何か聞いてないの?」
「あ、………いえ、何も」
僕の返答に先生は少しだけ眼を細めた。しかし直ぐに机に向き直ると、またペンを動かしながら後ろの僕に言葉を投げる。
「そっか~、でも残念。実は私も詳しい理由を知らないのだよね」
「そう…なんですか…?」
「うん。ある日いきなり出版社の方から別の担当を付けるって云われて、それっきり。私としては、ずっと菫さんに担当で居て欲しかったんだけどねぇ…」
「えっと、その原因に何か心当たりとかは…」
其処迄口走って、僕は反射的に口を噤んだ。いけない。国木田さんにも十分注意するよう云われていたのに。流れに乗って、つい余計な詮索をしてしまった。しかし、自分の失態に内心頭を抱える僕を他所に、先生は実に軽い調子で返事を返す。
「ん~。特に思い当たる事は無いけどなぁ。先刻云った通り、菫さんに不満を感じる事なんて殆ど無かったし。寧ろ私の執筆を支えんとする彼女の献身には、本当に助かっていたのだよ?締め切り間近の追い込み期間とかも、泊まり掛けであれこれと尽くしてくれたし」
「と、泊まり掛け!?」
そのワードに、思わず声が裏返ってしまった。当の先生はキョトンとした顔で首を傾げているが、僕はそれ処じゃない。今の発言で、愈々もって国木田さん達の話が真実味を帯びてきた。“必要以上に深入りするな”と釘は刺されていたが、此処迄聞いてしまった以上、見て見ぬ振りは出来ない。覚悟を決めろ中島敦。末端であれども社の一隅として、事の真相を確かめなければ―――!
「だ、太宰先生…、付かぬ事をお伺いしますが……」
「ん?何だい?」
「その…、菫さんが泊まり掛けで、あれこれ尽くしてくれたとは……、えっと、具体的には如何云う……」
切れ切れに、しかし確かに、僕はそれを先生に尋ねた。正しく断腸の思いで問うたその質問に、先生は数度瞬きをして、軈て記憶をたどる様に顎に手をやった。
「具体的に…?まぁ、云ってしまえば“女性ならではの事”…、と云うか…」
「女性ならではの…事……?」
「そう。碌に外にも出られない、自由を制限された窮屈な毎日で蓄積され浮世の憂さ。それを解消してくれる唯一の楽しみを、彼女は私に与えてくれたのさ」
「それって…、いいい一体……」
「ふふふ。それはね―――」
「お疲れ様です先生。お茶をお持ちしましたよ」
「わーい!待ってましたー!」
その時突然障子が滑り、お盆を持った菫さんが現れた。すると先生は諸手と共に歓喜の声を上げる。
「取り敢えず紅茶にしましたが、問題在りませんでしたか?」
「勿論!久し振りに君が淹れてくれたお茶だもの。紅茶でも珈琲でも抹茶でも大歓迎だよ!」
「否、抹茶は苦いっつって嫌がるでしょう貴方」
「え、あの…」
「嗚呼、敦君も休憩がてらどうぞ」
「おお。良かったね敦君!菫さんの淹れてくれるお茶は絶品だよ?執筆の疲れも綺麗さっぱり忘れてしまう程さ!」
「お褒めに預かり光栄ですが、未だ机に向かって一時間も経ってないでしょう?寧ろこれは、これから頑張って頂く為の先払いですよ」
「太宰先生?若しかして、先刻仰ってたのって…―――これの事ですか?」
菫さんの持つお盆を指さすと、先生は何故か人差し指を振りながらチッチッと舌を鳴らす。その反応に内心ちょっとだけイラっとした僕に、先生はまた得意げに踏ん反り返って高らかに云い放った。
「フッ、甘いよ敦君。菫さんの実力はこんなものじゃない。三食の食事に始まり、小休憩のお茶、小腹が空いた際の軽食、果てには酒の摘み迄、彼女が作る料理はどれも一級品!お陰で私は胃袋をガッチリと掴まれ、メイド・イン・菫さん以外の食事では満足出来ない体にされてしまったのさ!」
「人聞きの悪い事云わないで下さい。大体、私の後任はその辺もしっかり考慮された上で選出されたんですよ?先生へのリスペクトは弊社随一。やる気も熱意も満々。おまけに本人もお茶好きだし、少なくともお茶への拘りは私より上だった筈ですけど」
「だって私…男が淹れたお茶より、女性に淹れて貰ったお茶の方が断然善いもん」
「それ絶対に本人に云わないで上げて下さいね。只でさえも先生の担当外された後、暫く彼にガン飛ばされた挙句無視され続けたんですから私」
「じゃあ、その…、先生が菫さんを気に入ってた理由って…。単に“料理が上手だから”…?」
「そんな事無いよ敦君!掃除とか洗濯とか、面倒な家事も全部やってくれる所だって、私は大いに買ってるんだからね!」
「もう家政婦さん雇ったらどうですか…?」
本当に心外そうな顔で頬を膨らます先生に、菫さんは疲れた様に溜息を吐いた。そんな二人の遣り取りに、思わず口元が引き攣る。つまり、菫さんが泊まり掛けで尽くしてくれたと云うのは、本当に文字通りでそれ以上でもそれ以下でも無かったのだ。……否、担当編集本来の仕事内容から考えれば、ある意味それ以上の仕事をしていた事になるけど……。
「ねぇねぇ菫さぁん。折角だから今日も泊まっていってよ~。前みたいに菫さんが夜食作ってくれたら、私もっと頑張っちゃうかもしれないよ?」
「残念ですが、担当外の先生に其処迄肩入れする訳にはいきません。“あくまで助っ人に徹するように”と、上からも釘差されてるんですから」
「え~、菫さんのケチー。少しくらいいいじゃない」
「一応冷凍庫に小分けのおかずをストックしていく心算ですので、それで妥協して下さい」
「う~ん、もうひと声!」
「はぁ…。じゃあ、明日の朝食も作り置きしておきますよ…」
「やったー!有難う菫さん!」
「本気で家政婦さんの雇用を検討して貰えませんか…」
まるで子供の様にはしゃぐ先生と、呆れたように溜息を吐く菫さん。自由奔放な我儘作家に振り回される編集者。普段の自分と同じ筈のその光景は、けれどそれにしては何処か―――
「…………」
二人の姿を黙って眺めながら、僕は菫さんに淹れて貰ったお茶を一口啜った。多少温くなってしまっていたが、確かに先生の云う通り美味しかった。
****
玄関先で太宰先生に見送られ、僕と菫さんは帰途に就いた。ヒンヤリとした夜風に頬を撫で付けられながら、僕は今日の出来事を思い起こす。助っ人に来てくれた菫さんの顔。悩みの種だった先生の顔。そんな二人の遣り取りを―――
「敦君?」
「へ…。あ、はい!何でしょうか!?」
不意に隣から声を掛けられて我に返る。つい先刻迄脳裏を回っていた先輩の顔が、思いの他近くにあって反射的に数歩後ずさった。すると彼女は、眉をハの字にして心配そうに瞳を揺らす。
「ご、ごめんな。脅かす心算は無くて、その、大丈夫…か…?」
「え?」
「否、何て云うか…。先生極端って云うか…、性別女性なら無条件であんな感じだから、その…別に君のやり方が悪かった訳じゃないと思うんだ。寧ろ、男の子にしては気に入られてる部類だと思うし……」
「あ…、いえ!別に僕、そんな事気にしてた訳じゃ…。否、確かにちょっと思う所は在りましたけど、でも、それも納得って云うか…」
菫さんの云わんとしている事を察し、僕は慌てて両手を振りながら否定した。確かに今日彼女は、僕がずっと躓いていた問題を一瞬で片づけて見せた。でも、それが長年の経験と信頼の成せる業と云う事も理解している。寧ろ自分の無力さを思い知ったのと同じくらい、沢山の事を学ばせてもらった。
「今日は菫さんの仕事振りを見て、凄く勉強になりました!付いてきて下さって、本当に有難う御座います」
「お…おう?そうか…。それなら、善いんだけど…」
少し驚いたように眼を丸くした菫さんは、しかし直ぐに目元を緩めると、其の儘手を伸ばして僕の頭をそっと撫でた。
「有難うな敦君」
「え?」
「あんな我儘で自由人で如何しようも無い先生を、今日迄見捨てないでくれて」
思わず見開いた目で、すぐそこに居る先輩を見やった。その顔は言葉通り感謝と賞賛と、何故か別の何かが少しだけ混じって居る様に見えた。けれどその正体が判らなかった僕は、見て取れた其れだけに微笑んで言葉を返す。
「はい。僕は太宰先生の担当編集ですから」
そう笑んだ僕に微笑み返し頭をもう数度軽く撫でると、菫さんは再び歩き出す。けれど踵を返した一瞬、正体の判らなかった其れが今度こそ彼女の顔を覆い尽くしていた様に見えた。
「菫さん…、あの…」
「君は、善い編集者になるよ」
僕の言葉を遮る様に、彼女は笑みを湛えて言葉を吐く。だから僕はそれ以上何も云えなくて、彼女と並んで夜道を歩いた。軈て別れ道に辿り着き、笑顔で手を振る菫さんに別れを告げて、僕は自宅へと足を踏み出した。けれど、数歩進んでもう一度後ろを振り返る。今日一日、魔法の様な偉業を成し遂げ、僕を助けて呉れたその背中は、信じられない程に小さく、先刻見た時と同じ様に何処か―――寂しそうだった。
「…………」
僕は来た道を引き返し、出版社へと向かった。この時間なら未だ、国木田さんも残っている筈だ。今日一日、僕が見たもの、感じたもの、それを報告する事もまた、先生の担当編集としてするべき事だと、そう思ったから。
****
ピンポーン
呼び鈴が鳴り席を経つ。来客の予定は予め把握していたが、思っていたより少し早い。玄関の扉を開けると、白髪の若者が所在無げに肩を窄めて佇んでいた。
「あ!初めまして。僕、中島敦と云います!」
「嗚呼、聞いてる。新しい担当編集だろう?」
「はい!あの…、すみません…。ちょっと早かった…ですよね…」
「構わない。俺は其処迄時間に細かい方じゃないからな」
見るからに緊張した様子で此方を見上げる若者を家に上げると、俺は椅子を進めて厨房に立った。すると彼は慌てたように荷物を椅子に掛け、俺を追って厨房へと入って来た。
「気にせず寛いでいてくれ。俺も客人に茶くらいは淹れられる」
「あの…、でも僕、今日から先生の担当編集ですし、善ければ僕に淹れされて貰えませんか?」
たかが茶を淹れるだけだと云うのに、彼は意を決した様に俺を見上げる。その光を数秒見下ろして、軈て俺は軽く厨房内の説明をして自席に戻った。如何やら新しい担当も、随分生真面目な奴らしい。そんな評価を付けながらも、内心助かったと胸を撫で下ろす自分が居た。何せ以前の担当が淹れてくれる茶が矢鱈上手い所為で、すっかり自分で淹れる茶に自信が無くなってしまっていたのだ。
「………美味かったな…、彼奴の淹れた珈琲は…」
ポツリと、口から零れた言葉が潮騒とカモメの声に溶ける。窓から流れ込む潮風が僅かに卓上の原稿を躍らせ、その向こうで見慣れた青い海が陽光を反射してキラキラと輝いていた。その時不意に、芳しい香りが鮮明に鼻腔を満たした。覚えのあるその香りに思わず目を向けると、例の若者が矢張り緊張気味に杯を差し出した。
「如何ぞ」
「……嗚呼、有難う」
少し戸惑いながらも、杯を受け取った。矢張り勘違いではない。この香りは今迄彼奴が出してくれたものと似ている。ジッと黒い水面に眼を落として、その謎について考えていると、居た堪れなった若者が先に答えを開示した。
「あの、珈琲の淹れ方は菫さんに教えてもらいました。全然、あの人には敵わない儘ですけど…」
「!」
苦笑を浮かべてそう零した彼に眼を見開いて、俺はもう一度黒い水面に眼を落とす。二三日前まで当たり前に嗅いでいたその匂いを懐かしく思いながら、俺は漸く杯に口を付けた。
「………どう、でしょう…?」
「……嗚呼、美味いよ」
「はぁ~~~…っ、善かった~~~」
心底安堵した様に息を吐く若者に、何故かこちらもホッとした。口内に広がるその味は、確かに多少違和感があったが、それでも自分で淹れるよりは余程マシな代物だった。締め切り前の繁忙期に、この味を気軽に味わえるのは正直有難い。
「仕事の引き継ぎはもう終わってるのか?」
「はい。菫さんと同じ様には出来ないと思いますけど、精一杯頑張ります」
「別に、彼奴の遣り方をなぞる必要はないさ。お前はお前の遣り方で、一緒にやっていってくれれば善い」
「有難う御座います。あ、でも菫さんから先生の事は色々とお聞きしていて、とっておきの秘密兵器も教えて貰いました!」
「秘密兵器?」
「“咖喱”の作り方です!締め切り前に咖喱を出すと、先生は俄然やる気が出るからって菫さんが」
「…………そうか」
条件反射と云うべきか、此処には居ない彼奴の「そうです」と云う声が聞こえた気がした。ともあれ、これで今回の配置換えに於ける一番の問題は解決された。厨房の鍋に残っている咖喱が最後の晩餐にならずに済む事を確信した俺は、椅子から立ち上がると目の前の若者に手を差し伸べた。
「挨拶が遅れて済まない。改めてこれから宜しく頼むよ、中島敦」
すると新しい担当編集は、嬉しそうに顔を綻ばせて俺の手を強く握った。
「はい!こちらこそ宜しくお願いします。織田作之助先生!」
****
「はい、確かに…。では、これにて本作の出版に就ての業務は全て終了です。お疲れ様でした、太宰先生」
「ん〜、やっと終わった〜!あ〜、これで暫くゆっくり出来るねぇ」
大きく伸びをした弊社の看板作家は、其の儘ぐだりと仕事机に凭れた。あの後、問題の原稿は無事三日で脱稿。編集部全員が安堵の溜息を吐いた。其処まで来れば後は此方の仕事。諸々の出版準備を終え、たった今見本も確認して貰った。後は、この本の発売日を待つだけだ。
「あ、そうだ。この見本、敦君にも一冊あげていいですか?」
「え?」
「否ほら、事実上これはあの子が担当した先生の作品な訳ですし。彼にとっての初仕事の成果ですから。あ、勿論、発売日迄は黙秘して貰いますので」
「嗚呼、善いよ。今回の件で、彼には何かお礼をしたいと思ってたからね。その先払いだ」
「有難う御座います。きっと喜びますよ」
「彼、その後元気にしてる?」
「ええ、偶に社内で見かけますけど、順調そうですよ。まぁ、何処かの問題作家先生と違って、あの人は締め切り前に逃げたりしませんからね」
「酷いなぁ、あれでも彼の事はそれなりに気に入っていたのだよ?あの冴え渡るツッコミスキル、国木田君に引けを取らない逸材だ。お陰でパッとしない毎日が、少し賑やかになったよ」
「それはそれは、お気に入りの担当が外れちゃって残念でしたね」
「おや、もしかして妬いてる?」
不覚にも付け入る隙を見せてしまった私に、先生は机に頬杖を付きながらニヤニヤと笑う。だから私は態と平然とした顔を作って、畳に広げた資料を鞄に仕舞いながら続けた。
「と云うよりヘコみました。私が担当外れた途端、あんな面白い話を次から次に出版されるんですから。お陰で“私、実は先生の担当に向いてなかったんじゃないか”って頭抱えて、暫く飲酒量が増えましたよ」
「はっはっは!まさか!私の担当に君以上の適任者は居ないよ。私、何時もそう云っていた筈だけど?」
「執筆に快適な環境と、作品を生み出す環境は違います。貴方は何方かと云えば、浮世の憂いを傑作に昇華するタイプでしょう?それを理解した上で私は貴方に、執筆に快適な環境だけを整え続けた。これはそのツケなんだろうなぁって、貴方の新作を読んで腑に落ちました」
「…………だから、私と逢ってくれなくなったのかい?」
思いの外近くで声がした。膝の上の置いた鞄に掛かっていた影が広がる。その所為で顔を上げられずにいると、米神から輪郭をなぞる様に長くしなやかな指が伝った。軈て顎へと至ったその指に、上げられそうになる顔をグッと押し戻して、私は下を向いた迄口を開く。
「駄目です先生」
「何故?」
「仕事中です」
「私の仕事はもう終わったよ」
「私が、未だ仕事を終えてません」
「でもそれ、明日でも十分間に合うでしょう」
「それでも、駄目です」
「…………。………私との関係を疑われたら、“また”担当を外されるから?」
「っ……!判ってるなら」
嗚呼、やってしまった。顔を上げればどうなるかなんて、判っていたのに。
「ん、…だ、め。駄目です、せんせ…っ」
拒否の言葉は、形になる前に柔い唇に封じられる。押し返そうとした手は、逆に指を絡める様に捕まって引き寄せられた。徐々に体重をかけられて、耐え切れずに畳に背を預けると、漸く先生は顔を上げた。魅入られるだけで内側から溶け出してしまいそうな、重い熱を帯びた鳶色が影を負って私を見下ろす。
「酷い人だ…、連絡の一つも寄越さないで、散々私を放ったらかしにしておいて、この上未だ私に“駄目”だなんて云うのかい…?」
「………」
「君は単に、立場を利用した私から家政婦代わりに扱き使われていただけ。敦君の証言を元に国木田君達が上にそう報告して、君の潔白は証明された。もう私達が憚るべきものなんて何もない筈だ」
「“潔白”…?はは、純粋な若者にそう思い込ませて、誤魔化しただけでしょう。こんな“真っ黒”の下手人捕まえて、“潔白”だなんて笑えませんよ…」
「“真っ黒”だって自覚があるなら、今更くだらない綺麗事に首を垂れる必要なんて無いだろう」
「……っ…」
暗い影と一緒に柔らかな蓬髪が額に落ちて、軈て互いの額が重なった。真上で浅く繰り返される呼吸が唇を撫で、絡め捕られていた手は更に強い力で握られる。これ以上眼を開けて居られなくて固く瞑るも、暗闇の中で尚も彼は言葉を紡ぐ。
「それでも未だ、君は“間違っていた”と云う心算かい?あれだけ言葉を重ねて、あれだけ口付けを重ねて、あれだけ身体を重ねて求め合っておきながら…、君はそれすら“間違っていた”と云い捨てるのかい?
私に“愛している”と告げたその想いも、君は“間違っていた”と―――」
「―――っ!違う、そんな事…、……!」
―――嗚呼。否定、してしまった。
決めていた筈だったのに。敦君の助っ人を請け負い、もう一度この人に逢うと決心した時。あれだけ自分に、云い聞かせていた筈なのに……
手遅れの言葉を切った口に、また柔い熱が降りて来る。深く深く、味わう様に唇を食む。
「…っ…、先…生…」
「駄目だよ」
誘惑に負けて薄く開いた視界に、またあの鳶色が映り込む。必死に掛けていた自己暗示を溶かして、嘗ての様に私の奥底へと染み込んでくる。最後の砦を崩す様に、甘く熱っぽい声が落ちた。
「此処には私と君しか居ない。二人きりの時は何て呼べば善いか、教えただろう?
―――菫」
「……っ…太宰…」
****
その人事異動を云い渡された時、特に理由は告げられなかった。誰も何も云わなかった。けれど、周囲の空気で察しは付いた。
私が“間違っていた”からだ。
判り切ったタブーを犯して、仕事に私情を持ち込んだ。明らかなルール違反。寧ろ人事異動だけで済ませてくれた上に、私は心から感謝するべきだろう。或いは、彼の巧みな小細工が功を奏し、明確な証拠を掴めず公に処分を下せなかっただけかも知れないが。何にしろ、先に襤褸を出してしまったのはきっと私だ。
だから、私は彼に逢う事をやめた。
元来女性関係にだらしない彼の事だ。きっとこの件も“何時もの悪癖が出たのだ”と皆は流すだろう。私が余計な事さえしなければ、自然治癒する問題だ。だから、彼からの連絡も全て無視した。もうそれ以外考え付かなかった。彼が変わらず筆を取り続けられる様に。作家として物語を世に送り出していける様に。それが、ただの女に成り下がった元担当編集の、最後の矜持だった。
――― その筈だったのだ。
日の当たる縁側でまた頁を繰る。すると不意に後ろから影が差して、新しく開いたばかりの書面が頭上へと消え去ってしまった。
「またこれを読んでいたのかい?君も好きだねぇ」
「君の書く話は大なり小なり皆好きだよ」
偉大なる作者は肩を竦めると、隣に腰を下ろして私から取り上げた本をペラペラと捲る。それを横から覗き込んで、私は何度目になるか判らない溜息を吐いた。
「矢っ張り眼が離せないんだよなぁ…。ホント狡い…」
「またその話?」
「だって何度読み返しても、明らかに私が担当外れた後の作品の方が出来栄え善いんだもんさ。特にこれ。あ~、善いな~敦君…。こんないい本の出版に携われるなんて…」
「君の嫉妬するポイントって本当に独特だよね」
「当たり前だろう。私は君の大ファンだぞ?好きな作家の傑作を自分の手で世に送り出せるなんて、最高の栄誉じゃないか。しかもこれ、面倒臭くて、理屈っぽくて、自尊心高い癖に甘ったれた寂しがり屋感が惜しみなく詰まってて、太宰の持ち味全開じゃん」
「うん、君よくそれで私のファンを自称出来たね」
「私なりの大絶賛だぞ?」
「あっそ…」
何故か拗ねた様に口を尖らせた太宰は、パタンと裏表紙を閉じると私に本を突き返す。しかし私がそれを受け取ると、其の儘膝の上で頬杖を付いて彼はニヤリと口の端を吊り上げた。
「それじゃあ君は、その面倒臭くて、理屈っぽくて、自尊心高い癖に甘ったれた寂しがり屋感が惜しみなく詰まった話の続きが待ち切れなくて、のこのこ此処に現れた訳だね?」
「へ?」
「だって私の担当を外された後も、社に持ち帰られた私の新作原稿、君こっそり盗み読みしてただろう?」
「なっ!?え?何で知って…っ」
慌てて口を塞いでも自分で掘った墓穴は埋まらず、太宰はより一層ニヤニヤ笑いを深めていく。
「昔からそうだったじゃないか。私が何か書き始めると、『続きは如何なるんだ』って子供みたいに眼を輝かせちゃって。お陰でこっちは話を書き切るまで筆を置けやしない。そんな君が、私の新作を大人しく発売日迄待てる訳ないもの」
「おい…、まさかこの本の原稿が半分しか上がってなかったのって…」
「勿論、君を焦らす為だよ。そして締め切り直前迄続きを上げずに居れば、業を煮やした国木田君達が君に泣きつくだろう?かくして大義名分を得た私の大ファンは、大手を振って我が家に原稿取りにやって来た。私の筋書き通りにね」
「〜〜〜っ!…おのれ、回りくどい真似を…」
「生憎、ストレートに書いた恋文は全く返事が返って来なかったから」
態とらしく首を振って、彼は私との距離を詰める。長くしなやかな指が、私の髪を絡め取って直ぐ其処にある口元へと当てがった。
「最初はその本の主人公みたいに、自分から逢いに行く事も考えたんだ。でも、そんな事をしても君に追い返されるのが目に見えていたから、逆に君が居ても立っても居られない話を書いて引き摺り出す事にした。君が担当を外れて以降、私の書く本の出来が善くなっていったのは、単にモチベーションの問題だよ」
「うわぁ…、何だよそれ、すっごい複雑…」
「ふふ。だって私、君の云う通り浮世の憂いを骨組みに話を書く作家だもの。愛しい恋人に逢えず、挙句無視され続けるなんて悲劇のどん底に叩き落とされたら、傑作の一つや二つ否が応でも書き上がるってものさ」
「自分の悲恋を元に失恋ソング書き上げる女性シンガーか君は」
「ちょっと、別に私失恋なんてして無いでしょう?こうして愛しい恋人と、また蜜月の日々を送れてるんだから」
「はぁ…、こっちはまた同じ事にならないか、気が気じゃ無いんだがなぁ…」
「ならいっそ、出版社辞めて私の所にくれば?」
「却下。目の前で別の誰かが君の担当してるの見てるだけなんて、金輪際御免だ」
「ぷっ、何それ。私と私の作品、どっちを取られた事に嫉妬してるの?」
「両方」
少し頬を膨らませて零すと、彼は笑いながらその膨らんだ頬を指で小突く。しかし何時の間にかその指は優しく頬を撫で、誘われる儘に視線を上げれば、柔らかに細められた鳶色とかち合った。
「じゃあ寂しい想いをさせたお詫びに、今度は君の為に一作書き上げてあげようか」
「ホントか!」
「うん。書き上がったら一番最初に見せてあげる。どんな話が良い?」
願ってもない最高の申し出に、私は頭をギュンギュン回してリクエストを考えた。喜劇か、悲劇か、随筆なんかもありだなと悩みに悩んで、軈て私は答えを出した。
「よし!じゃあ、“太宰”を書いてくれ!」
「え?」
「君の手で君を書いてくれ。君と云う人間を綴った本を私にくれ。私は、“君の物語”が欲しい」
私の返答に太宰は口を噤んだ。大きく見開いた双眸は、だが軈て困った様に緩んで苦笑へと変わった。
「きっと、酷く拗れた話になるよ?」
「うん。それでいい。それがいいんだ、私は」
「…後悔しても知らないからね」
「生憎、君の名作を他人に任せる以上の後悔なんて、私には有り得ないよ」
そう微笑んだ口元に柔い唇が重なる。触れるだけで離れたそれは、けれど直ぐ近くで言葉を紡いだ。
「じゃあお望み通り、私と云う人間の話を君にあげよう。物好きな君が咽せ返る程生々しく、私の中身を抉り抜いて、厭と云う程詰め込んであげる。
そうだなぁ、