hello solitary hand・番外編
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「ねぇ菫、私にもっと教えて?」
「っ…太、宰…」
放熱する顔面を両手で覆う私の耳元で、くつくつと笑う低い声がまた鼓膜を擽る。その声に息を飲むと、顔を覆った手の上に柔らかい唇が触れてその隙間からチロリと覗いた舌が僅かに皮膚を舐める。防御壁と呼ぶには余りに頼りない両手の甲に熱い吐息を吐きかける様にして、声の主がまたしても“質問”を投げかける。
「どうして隠すの?“私にキスされるのは厭かい”?」
口を開けば終わりだ。それが判っているのに、
「……“厭じゃ、ない”」
「じゃあ、その可愛い顔を見せて?君が満足する迄何度だってキスしてあげる」
「だ、太宰…。もう…、やめてくれ…」
「駄ぁ目、
「だからって…、こんな使い方…」
「ふふ、これ以上ない程の有効活用じゃないか。それより、“菫はどんな風にキスされるのが好き”?」
「―――っ!」
「ねぇ、教えて…?」
最早呼吸すら止めているのに、尚も私の口は音を紡ごうとする。当然だ。今太宰は私に“質問”をしたのだから。よって私はそれに答えなければならない。嘘偽りの無い、
「“食べられる…みたいに…、緩く、噛みつかれるの…が、好き…”」
もうマジで顔から発火しそうだ。否寧ろ発火してくれ。私は灰になりたい。今すぐに。だと云うのに未だ私の顔面に火の手は上がらず、代わりに嗜虐的に弧を描く鳶色の奥に燻っていた火種が勢いを増した。
「嗚呼…、私もそう云うの大ぁ好き…」
脳内で読む辞世の句はこれで幾つ目だろう。そろそろ本にして出版できるくらいは溜まったかも知れない。尤も、私が生きて今宵を乗り切れればの話だが。そんな事を考えながら私は何度目になるか判らない現実逃避に、今朝迄の平和な日常をまた思い返した。
****
「私は菫を甘やかしたいの!!」
太宰は激語した。必ず、かの愛しき最愛の人をデロンデロンに甘やかさねばならぬと決意した。
「判った。さぁ来たれ!」
「違うそうじゃない!!」
私には太宰の云う事がよく判らぬ。太宰は、私の恋人である。勤労を怠り、同僚で遊んで暮らしていた。けれども、私に対しては人一倍に過保護であった。正直云って十分過ぎる程甘やかされていると思っていたが、如何やら太宰的には足りないのだと云う。しかし両手を広げて私が“さぁ来たれ”と云うのに、太宰は何故かちゃぶ台を叩くばかり。何とかしてやりたいが、その方法がてんで見当つかぬ。
「と云う事でどうしたら善いですかね?」
「何でそれを僕に聞くんだお前は」
通された応接室で机を挟んだ向かいに座る職場の先輩は、思いっきりうげぇ…と云った顔で返した。
「いえ、若しかしたら凡人には判らない天才の発想に基づくものなのかと思いまして」
「否、普通にそのまんまの意味だろう。寧ろお前が馬鹿なだけだ」
「ん~…。でも私は十分甘えさせて貰ってると思うんですけどねぇ…。夕飯の残りで翌日の朝食我慢して貰ったりとか、出かける序にお遣い頼んだりとか、疲れた時にハグさせて貰ったりとか、あと一緒の布団に寝かせて貰ったりとか…。その上で“甘やかしたい”と云われた所で、これ以上何をお願いすれば良いのか…。あ!お風呂掃除当番を太宰にお願いすれば納得しますかね?」
「あ~、太宰がちゃぶ台を叩きたくなる訳だ…」
「え?何か違いましたか乱歩さん?」
「根底から食い違ってるな。ご愁傷様」
「えぇ…そんなぁ…。何が問題なんですか?教えてください名探偵さ~ん」
「知らないよ。大体名探偵の頭脳は難事件を解決する為に在るんだ。そんな小学生でも判る様な痴話喧嘩を解説する為に在るんじゃない」
臍を曲げてしまったのか乱歩さんは、腕を組んでそっぽを向いた。ちょっとウザ絡みし過ぎてしまったかなと反省して、ご機嫌取りに鞄からラムネの瓶を取り出そうとすると、「抑々さぁ…」とまた声を掛けられた。顔を上げると呆れたように頬杖を突いた乱歩さんが、珍しく翡翠の瞳を此方に向けていた。
「お前は何時も太宰を甘やかしてるだろう。なら単純に、其れと同じ事を太宰に要求すればいいじゃないか」
「太宰にしている事と同じ事…」
「うん」
「………否無理でしょう」
「は?」
「だって、多分家事とか三日と保ちませんよ。抑々太宰に早起きは無理です」
「…………」
「…………」
「……はぁ~~~っ…、お前って本っっ当に馬鹿だな…」
保有している酸素を全て吐き出す様な勢いで、乱歩さんは深い深い溜息を吐いて卓上に突っ伏した。
「よく判りませんがすみません。ラムネ飲みますか乱歩さん?」
「……飲む」
「おお、待たせて済まなかったな名探偵」
「あ!お疲れ様です箕浦刑事。今回もご依頼有難う御座います」
仕事前にテンションを回復してもらう為乱歩さんにラムネを差し出すと、依頼人の箕浦刑事が扉を開けて入って来た。
「嗚呼、こっちこそご足労感謝する。所で…」
「はい?」
「その…。何かあったのか、名探偵?」
「ぶぇつにぃ~~~?後輩の馬鹿さ加減に疲れただけ~~」
「すみませんでした乱歩さん。でも、お仕事ですから!ね?もうちょっとだけ頑張って下さい」
「だけどさぁ、抑々今回の依頼は“尋問”なんでしょう?それって名探偵の仕事としてどうなの?」
「悪いな。だがどうしてもお前の力が必要なんだ」
今回乱歩さんに来た依頼は、“容疑者の取り調べ”だ。とある犯罪組織の一人を捕縛したは良いが、持ち物から組織に繋がる情報は得られず、本人も“自分は無関係だ”の一点張りで捜査が難航している。だからこそ、乱歩さんと引き合わせる事でその容疑者が犯罪組織の人間で在ると云う確たる証拠を引き出し、組織について可能な限りの情報を入手しようと云う訳だ。とは云え、本人も云う様に乱歩さん的には余り乗り気ではない依頼の様だったが、本件は一部の政府関係者も関わっている様な割と大きな案件で社長からの勅命も在り何とかオーケーして貰ったのだ。
「失礼します!指示通りお茶をお持ちしました!」
「おお、ご苦労。って、何で一つしかないんだ?客人は二人だぞ?」
その時突然若い警官さんがお盆に湯のみを乗せて入室してきた。だが其処にポツンと一つだけ乗っている湯呑を見て、箕浦刑事の顔が曇る。しかし当の本人は眼を丸くして首を傾げるばかりだ。
「あれ?でも確かに“一つ”と…」
「ったく誰だ?茶を用意させるのは結構だが、ちゃんと人数分頼めってんだ」
「まぁまぁ箕浦刑事。お気持ちだけで有難いですから。ではそのお茶は乱歩さんに」
「僕要らなーい。今ラムネ飲んでるし。それにお茶は甘くないんだもん」
「あ~…、それなら私が頂きましょう。お気遣い頂き有難う御座います」
私はお盆から湯呑を受け取ると少し吹いて口を付けた。落ち着いた渋みが口内に広がる。が、仄かに甘く感じるのが気になった。見た所ただの緑茶の様だが何処の銘柄だろうか。
「取り敢えず、茶を飲んだら取調室に来てくれ。それと、これが容疑者の資料だ。中身は殆ど無いに等しいが、それでも秘密厳守の重要書類でな。現場渡しになって悪い」
「何云ってるの?そんなの関係無いよ。何せ僕に掛れば、資料を渡された瞬間にその場で即解決なんだから!」
「はは、本当に頼もしいな」
「ふふん、当然です!何せ乱歩さんは世界一の名探偵ですからね!」
「こら菫。凄いのはあくまで僕だぞ?“何でお前迄得意げなんだ”?」
「だって、“普段我儘な癖に、何だかんだで面倒見の良いお兄ちゃんみたいな先輩をもっと自慢したいんですもん”」
「…………は?」
「…………あれ?」
****
太宰は激語した。
「菫を滅茶苦茶に甘やかして、デロンデロンに可愛がりたい!!」
「敦、報告書は未だか?期限は今日の正午の筈だぞ」
「すみません。もう少しで上がりますから…」
「ねぇ聞いてる!?」
「喧しい!!」
此方を一瞥もする事無く本日の業務を熟す同僚にしがみ付くと、其の儘一本背負いされた。汚れたものに触れた後の様に、パンパンと両手を払いながら国木田君が口を開いた。
「勝手にやってろと何時も云っているだろうが!俺達に迄一々惚気を振りまくな!!」
「酷いよ国木ぃ~田くぅ~ん。私は今真剣に悩んでいるのに…」
「知るか。甘やかしたいなら好きに甘やかせば善いではないか。お前達は今やそれが許される間柄だろう」
「私もね…、そう思っていたのだけど…」
「何かあったんですか、太宰さん?」
「嗚呼、敦君!悩める先輩の話を聞いてくれるのかい?君は何て出来た後輩なんだ!」
「ええ、報告書作りの片手間で善ければ」
「あ…そう…。ゴホン、いやねぇ…。この前私達、遂に長い紆余曲折を経て漸く恋人同士になったじゃない?これで晴れてあ~んな事や、こ~んな事をしても許される間柄になったと、私凄くウキウキしていたのだけれど…」
「あ、そう云うのは善いので簡潔に結論だけ云って下さい」
「……国木ぃ~田くぅ~ん。最近後輩達が私に冷たぁい…」
「自業自得だ。聞いて貰えるだけ有難く思え」
最近冷たい後輩達に負けないくらい同僚も冷たかった。仕方なく私は現在抱えている問題を可能な限り簡潔に纏めて、改めて口を開く。
「菫の包容力と自立力が高過ぎて困ってます」
「「は?」」
「ほら、菫って基本私生活を完全に一人で熟しちゃうだろう?しかも私が手伝わなくても全然怒らないし、偶にちょっと手伝っただけで凄くお礼云ってくるし」
「良い事ではないか。何が問題なのだ?」
「私は!もっと菫に頼られたいの!“太宰、これ手伝って~”とか“太宰が居ないとこれ出来ないの~”とか云われて、“ええ、どうしよっかなぁ?”みたいな意地悪を云った上で最後には“ごめん嘘だよ”って包み込んであげたいの!」
「太宰さんって凄く面倒臭い人なんですね」
「敦君!?」
「正論だな。抑々、菫の自立力とやらに全身全霊でぶら下がっている奴が今更何を云って居る」
「だから、それすら当然だって思ってるあの包容力が問題なんだって…。だって私、“太宰さん”だよ?素敵で無敵な天才ミステリアスお兄さんだよ?それなのに彼女ったら然も当たり前の様に私を甘やかして来るんだもの…っ。昨日なんて、“君を甘やかしたい”って云ったら彼女どうしたと思う?両手を広げて“さぁ来たれ!”だよ!?違うでしょ!?自分は私の事あんなに甘やかしといて、本当に何なのあの人!?」
「太宰さんは菫さんに甘やかされるの、厭なんですか?」
「そんな訳無いだろう!最っ高だよ!最っ高だけど其れは其れとして、私は菫を翻弄して縋り付かせてお強請りされたいの!!」
「敦、市警に通報を」
「判りました」
「ちょっと待って!最後迄話を聞いて!!」
「続きは署の方でお願いします」
「だから待ってって!男として愛する女性を愛でたいと思うのは当然の感情だろう?」
「お前の場合、それが一般論と犯罪者思考の間を綱渡りしているだろうが」
「何て事云うんだい国木田君!私はただ、菫にもっと求められたいだけだよ!私は菫に、自分から甘えてきて欲しいの!その上でちょいちょい意地悪をして泣き出す一歩手前をキープしながら、延々と菫を猫可愛がりしたいの!!」
「あ、もしもし。ヨコハマ市警さんですか?」
「敦くーん!?」
「ただいまー」
その時、探偵社事務所の扉が開き茶色のハンチング帽が室内に現れた。市警の依頼に行っていた名探偵のご帰還だ。っと云う事は―――
「おかえりなさい乱歩さん。菫もおかえり!」
「あ!こら貴様…っ!」
背中に国木田君の声が掛かったが、今はそれよりも帰って来た恋人を出迎えるのが先だ。すぐ様扉に駆け寄り乱歩さんの後ろを覗くと案の定小柄な体躯が其処に佇んでいた。
「………」
「菫?」
しかし、何やら様子がおかしい。菫は乱歩さんの肩掛けを握りしめて俯き、私の方を見ようともしない。名前を呼んでみると、何故か菫ではなく乱歩さんが私に応えた。
「太宰、取り敢えず物は試しだ。此奴に触ってみろ」
「え?」
「いいから早く」
「あ、はい…」
云われた通りその肩に触れると、乱歩さんは菫に振り返って口を開いた。
「もう一度聞くぞ菫。お前、“僕の事をどう思ってる”?」
「乱歩さん?」
すると、その乱歩さんの何とも唐突な問いかけに、蚊の鳴くような小さな声で菫が答えた。
「“普段我儘な癖に、何だかんだで面倒見の良いお兄ちゃんみたいな先輩”です…」
その瞬間、事務所内にブリザードが吹き荒れた様な錯覚を起こした。菫の返答にその場の誰もが呼吸すらも凍り付かせる中、唯一乱歩さんだけが深い深い溜息を吐いた。
****
「“自白の異能”、ですか?」
「そう。箕浦君が僕に依頼を出したのと入れ違いで、他の人が政府筋にも協力を要請したらしい。その結果、異能特務課で管理管轄している異能力者が派遣された。その異能力者が手を加えた食べ物や飲み物を口にすると、“相手の質問に必ず真実で答える”って性質を付与さるらしい」
「それが、手違いで取調室ではなく乱歩さん達が居る応接室に届いちゃったと…」
「成程。菫の異能はあくまで自分に触れる他人とそれに付随する異能力にのみ効果を発する。“手を加えた物を食する”と云うのが異能の発動条件では、流石のお前でも拒絶しようが無かったと云う訳か?」
「“その通りです”」
「しかもこれが中々厄介でさぁ。質問されたら絶対に答えなきゃいけなくなるらしくて黙秘も出来ない。お前なら異能無効化で治せると思ったけど、駄目っぽいしな」
「恐らく、異能の根源となるの物が菫の体内あるか、或いはその自白の異能力者自身が所有して居るのでしょう。それに触れて消さない限り、私でもお手上げですね」
「その異能力者を太宰に会わせる事は出来ないんでしょうか?」
「無理だな。掛け合ってみたけど、既に帰った後だった。今回派遣されたのも、あの案件が政府機関も一枚噛んでる大きなヤマだったからだ。本来なら、そう簡単に出てくるような相手じゃないんだって」
「でも…、此の儘じゃ菫さんが…」
「だ、大丈夫だ敦君。幸い効果は時間制限付きらしくて、少なくとも一日以内には元に戻るんだって。だからちょっと不便だけど、今日一日の辛抱さ」
そう云って菫は敦君に苦笑して見せた。その姿は多少ぎこちないが普段と明確な差異は無い。だが―――
「菫、菫?」
「何だ太宰?」
「“私の何処が好き”?」
「“顔”」
「え?」
真顔で返された第一声に思わず頬が引き攣った。だがその先に言葉を繋げる前に、菫の口から次々と言葉が溢れ出して来る。
「“声、匂い、フワフワの蓬髪、綺麗な鳶色の眼、高めの身長、長い手足、表情がくるくる変わる所、恰好良い所、頼りになる所、私に優しい所、可愛い所、甘えたな所、寂しがり屋な所、ちょっと子供っぽい所、あと男とは思えない程肌の手触りが良い所と…”」
「もういいもういい!判ったから!」
此の儘喋らせておくと同僚の前でとんでもない事を口走りそうで、私は慌てて菫の口を塞いだ。だが私の手の中で尚も菫の口は動き続ける。
「成程。“相手の質問に必ず真実で答える”って云うのは本当みたいですね」
「お陰で依頼を済ませた後、寄り道も出来ずに戻ってくる事になったよ。あ~あ、あんみつ食べて帰りたかったのに」
「まぁまぁ乱歩さん。でもこの状態だと菫さん、もう今日の仕事は無理なんじゃ…」
「確かに、探偵社では国家機密に準ずる情報も多分に扱っている。もしそれが漏れれば、社の信用問題だからな。菫」
「むごむご、むご、むごご」
「まさか、まだ続いとるのか此奴…」
「みたいだねぇ…。うん、流石に私も驚いてる…。此の儘だと何時終わるか判らないし、私も一緒に帰って善い?」
「は?別にお前は関係ないだろう?」
「もう何を云って居るんだい国木田君!得体の知れない異能力に掛ってしまった菫を独りにするなんて、そんな可哀想な事が出来る訳ないじゃないか!」
「……まぁ、それはそうだが…」
「太宰」
「何です乱歩さん?」
その呼びかけに振り向くも、乱歩さんはそれ以上何も云わず私の顔をじっと見る。その様子に首を傾げると、乱歩さんは深い溜息を吐いて国木田君を呼んだ。
「おい国木田。喋られるのが問題なら口に何か詰めておけば、普通に仕事させられるんじゃないか?」
「乱歩さん!?」
「今日の依頼の報告書作りもあるし、口さえ塞いじゃえば問題ないだろう?」
「え…、否、流石にそれは…此奴も一応は女性ですし…。それなら未だ太宰に任せた方が…」
「そうですよ乱歩さん。其処まで無理して働かせなくてもいいじゃないですか…」
「…ふぅん。まぁ、お前達がそれでいいなら善いけど」
「「え?」」
「では乱歩さん?改めまして、菫は私と早退と云う事で構いませんか?」
「嗚呼、好きにしろ。僕は別に其奴の“お兄ちゃん”じゃないし、“我儘な先輩”は後輩の世話を焼いてやる義理なんて無いからな」
「やったー!さぁ菫、早く帰ろうねぇ〜?私がずっと着いててあげるから安心するといいよ!」
「むごむご、むごご」
「お疲れ様です太宰さん、菫さん」
「全くこう云う時だけ行動が早いな…。おい!任せたからな太宰!」
敦君と国木田君に見送られて、私は菫の口に手を当てた儘事務所の扉を潜った。そんな私達を見送った後、乱歩さんが零した「あ〜、本当に面倒臭い」と云う呟きは、小さ過ぎて誰の耳にも届く事は無かった。
****
この世界に来てから他人の異能力の影響を受けた事は割と少ない。許容した人達を除けば殆ど無いと云って善い。何せ大体の異能力は弾いてしまえるからだ。とは云え、自分の異能が万能でない事も理解していた心算だった。のだが、まさかこんな形で人様の異能力に掛かる日が来るとは。まぁ、命に別条が無かっただけましではあるけど。
「むご、むごごむご」
「ん?嗚呼、もしかしてやっと止まった?」
「むご」
「それじゃあはい。ごめんね、急に口塞いだりして」
「はぁ…、否、寧ろ助かった…。あの儘放っといたら、多分人様に聞かせられない事迄口走っちゃってただろうし…」
「おや?私の好きな所に中には、人に云えない様な内容も含まれているのかな?」
「“うん”」
「へ…?」
「あ…、だからその…、余り質問しないでくれ太宰…」
「やれやれ、君も随分おかしな異能に掛かってしまったものだね…」
「全くだよ…。まぁでも、仕事早引き出来たのはラッキーだったかな。下手したら、私が違う世界から来たって事も口走りかねんもの…」
「うふふ、私の前なら幾らでも口を滑らせてくれて良いからね、菫?」
「ん~…それもそれでどうなんだ…?」
そんな会話をしている内に、私達は慣れ親しんだボロアパート…基趣ある借家へと帰り付いた。玄関で靴を脱ぎ直ぐに台所に立つと、私はヤカンを火にかけた。太宰はもうお昼を済ませていると云って居たので、取り敢えず茶を淹れるくらいで善いだろう。ただ、先刻の今で緑茶を飲む気にはなれず紅茶とマグカップを用意した。すると不意に肩から背中にかけて重力が増した。その理由は振り返らなくても判る。
「太宰君?火ぃ使ってる時は危ないから急に抱き着くなってば」
「ええ酷ぉい。私は数時間振りの菫を補給したかっただけなのに」
「それ自体は構わんが、せめて補給所に一声かけてくれ。火傷したら危ないだろ?」
「そして冷たぁい…。“菫は私と離れてる間寂しくなかったの”?」
「“寂しかったから、出来るだけ君の話をして凌いでたよ”」
「え…?」
「あ…」
思考するより先に口を突いて言葉が出る。反射的に口を押えてみても後も祭りだ。紡いだ言葉は取り消せない。その事実に固まっていると、私に絡みついていた腕がそっとコンロの火を消した。
「だ、太宰…さん…?」
「へぇ…、そうなんだ…」
ヤバい。これはヤバい。久し振りに脳内でエマージェンシーコールが鳴り響いている。待て落ち着け。動揺を悟らせるな。落ち着いて対処すれば何の問題も―――
「そうだよね…。君は今、
その声と共に、無情にも肩に絡んでいた手が私を振り返らせた。其処にはアカンスイッチがオールグリーンになった太宰君が、それはそれは愉快そうな笑顔で立っていた。
「ねぇ菫、本当の事もっと教えて…?」
「待ち給えよ太宰君…、一回落ち着こうじゃないか…」
「やだなぁ…、私はこの通り落ち着いているよ?寧ろ菫こそ、“どうしてそんなに震えているの”?」
「―――っ!」
咄嗟に両手で口を堅く塞いだが、其の封は両方とも大きな包帯だらけの手によって呆気なく破られた。必死に口を噤もうと力を込めても、その意思に反して顎が、舌が、唇が、勝手に言葉を紡ぐ。
「“ ドキドキして、恥ずかしい…。太宰が…、意地の悪い顔して見下ろすから……”」
口にした事で更に悪化した羞恥に俯いた顔は、けれど直ぐに長い指に捉われて影を落とした鳶色の前に引き摺り出される。まるで口付けを交わす様に近づいた太宰の唇から、囁く様な“質問”がまた紡がれる。
「“意地悪な私は嫌いかい、菫”?」
「っ…“嫌い…じゃない…”」
「じゃあ“私に意地悪されるのは、好き”?」
「〜〜〜っ!」
「…ん…っ!」
自分の口からこれ以上とんでもない言葉が漏れる前に、近場のもので物理的に塞いだ。だがその代わり、ずるりと滑り込んだ舌が吐く言葉ごと奪い取る様に私の舌に絡み付く。自分の意思と無関係に動こうとする私の口を、太宰は顎から掴んで無理矢理開かせた。そのお陰で入られた彼の舌を噛まずに済んだが、其の儘台所の壁に追い込まれて完全に逃げ場を失った。もう“質問”への回答は終わっているのに、尚も執拗に太宰はキスを繰り返す。ある程度慣れたとは云え、太宰に本気を出されたら私に勝ち目なんて無い。それを判っている癖に、それでも太宰は私の唇を食み、甘く噛みつき、舌で口内を舐る。軈てもう立っても居られなくなって、膝が落ちかけた頃に漸く太宰は唇を離した。
「は…、はぁ…っ、しつ、こい……っ」
「ふふ、先に仕掛けたのは君じゃないか。それに、私に意地悪されるの“好きだ”って云うから…」
「いいい云ってないだろ、そんなん!」
「そう?じゃあ、もう一度云わせてあげようか」
「っ!」
あ、詰んだ。太宰の後ろで真っ黒な嗜虐癖がメラメラ云ってる幻覚が見える。
久し振りに見るドロドロと熱を帯びた鳶色を前に、私は本日の平穏に別れを告げた。最早足に力も入らずへたり込んだ私に太宰はふわりと笑んで、優しく優しく髪を梳いて撫でると其の儘背中と膝の下に手を入れて私を抱き上げた。そして、一度私の耳元に口付けると直接鼓膜を揺らす様に掠れた声を紡ぐ。
「ねぇ菫、私君にずっと聞きたかった事があるんだ」
その声音だけで、絶対碌でも無い“質問”が来ると判ってしまった。そしてその予想通りの言葉が、うっとりする程美しい声音によって形を得る。
「“君は私に、本当はどうして欲しいの”?」
****
自分が強欲な人間だと云う事はとうの昔に理解していた。
“これで十分”と云う境界線を、私は今迄何度踏み破ってきただろう。そして今回も、私はその薄っぺらい境界線を踏み破って彼女に求めた。つい数ヶ月前に比べたら天国と地獄程の落差があると云うのに、つくづく強欲な私は尚も彼女に求めた。“求められる事を求めた”。しかもそれは、少なくとも一度は達成された筈なのだ。互いの想いを認め合い、互いに身体を重ね合い、互いの居ない世界では生きていけないと再認識した。そして今、“恋人同士”と云う関係を得た彼女は、明らかに前より私を求めてくれている。寄り添い合う事も、口付けを交わす事も、時間を共有する事も、身体を重ねる事も、今は彼女から私に求めてくれる。
―――それでも、まだ足りない。
まだ欲しい。もっと欲しい。
君の懇願が、熱望が、渇求が。
まだまだ欲しい。もっともっと欲しい。
君の執着が、依存が、拘泥が。
だから、もっともっともっと―――
「教えて、菫。君が欲しいもの、全部」
そう囁けば、真っ赤に染まった耳元がまた熱を上げる。私の腕の中で羞恥に震える小さな体躯が愛らしくて愛おしくて堪らない。
「太宰さん…、後生です…もうお許し下さい…」
「おや?おかしな事を云うね。私は君に怒ってなどいないのに」
「そうじゃなくて…。もう無理…、羞恥で爆発する…」
「わぁ素敵。それで死ねたらきっと最高だろうね」
「チキショー!どうしてこうなった!」
私の胸板に額をくっつけた菫は真下にそう吠えた。そんな彼女を頭から順に撫でながら、今度は私が詠う様に答えた。
「だってこうでもしないと、君は私にお強請りしてくれないんだもの。…嗚呼でも、
「っ!」
頭から撫でつけた手が下腹部に至ると、更に彼女の体が強張った。その反応に沸きかけた欲望を飲み下して、私はあくまで優しく彼女の耳に語り掛ける。
「大丈夫。流石に今の君を脱がせたりはしないよ。君を抱くのはとても素敵だけど、あくまで私の目的は君を愛でる事だ。そして今なら君の身体に聞かなくても、ちゃんとこの口が教えてくれる。君が本当は何を望んでいるか、何を求めているか、私にどうして欲しいかをね」
指先を顎に添えてそっと上を向かせれば、羞恥と混乱で潤んだ宝石の様な瞳が私を映す。私の求めるものを何でも答えて呉れる桜色の上を親指でなぞって、私は眼下の宝石に微笑みかける。
「とは云えそんな眼をされてしまうと、こうしてうっかり君に意地悪をしてしまいたくなる。だから菫の元気が出る様に、また
「―――っ!や、やだ…。もういい…、もういいから…」
「ふふふ、遠慮はいらないよ」
「頼む太宰…、あれは、あれだけは……っ」
「大丈夫。さぁ、全部私に委ねて…」
まるで狼を前にした哀れな子羊の様に震える彼女に、私は口の端を吊り上げて手を伸ばす。絹糸の様な髪を梳いて、私は優しく彼女の頭に手を滑らせた。
「はい。よしよしよぉし、菫ちゃんはいい子だねぇ!」
「~~~っ!勘弁してくれ頼むから…っ」
「嘘は駄目だよ。菫が云ったんじゃないか。“頭を撫でられたい”、“抱っこして貰いたい”、“いい子って褒められたい”って」
「もうやだ…、いっそ殺せ…」
「いいじゃないか。凄く愛らしいお願いだと思うよ。まるで小さい子供みたい」
「私はもう大人だ馬鹿!」
「だから?」
「大人のするお願いじゃない…。それに、私の方が年上なんだぞ…」
「はぁ、そんな事気にしてるの?私、子供扱いは嫌いだって云わなかったっけ?」
「別に君を子供扱いしてるから厭なんじゃない。でもこんなん、大人が大人にお願いする事でも無いじゃないか…」
私の膝の上で俯く菫は、本当に小さな子供の様だった。直ぐにでも大声で泣き出したいのに、服の裾を掴んで息を殺している子供。だから私は、そんな子供をより抱き締めて、頭を撫でて、優しく語り掛ける。
「菫はいい子だねぇ」
「…だから、もう…」
「何時も真面目に働いて、何時も仲間を気遣って…」
「……」
「家の事全部やってくれて、美味しい料理を作ってくれて、晩酌に付き合ってくれて、同じ布団で寝て呉れて」
「……」
「私が君を困らせても、怒らせても、泣かせても、最後には何時も許してくれて。ずっとずっと、私の手の届く所に居て呉れて、私に手を伸ばしてくれた」
「……」
「一生懸命で、頑張り屋さんで、優し過ぎるくらい優しくて…。そんな“いい子”は、幾つになっても褒められて善いと私は思うよ」
腕の中で震えてい居た子供は、すっかり大人しくなっていた。その頭に頬を寄せて。何時もして呉れる様に、小さな背中をぽんぽんと叩く。
「菫。“今恥ずかしい”?」
「……“恥ずかしい”」
「“私にいい子って撫でられるのは、厭”?」
「……“厭じゃない”」
「じゃあ、“今嬉しい”?」
「………“阿呆みたいに嬉しい”」
「ふふ、それは善かった」
「太宰…」
「ん?」
「面倒臭くないか…」
恐々と向けられた瞳は、先刻より更に所在無さげで。けれど先程の様に嗜虐心が疼く事は無かった。寧ろ代わりに、どうしようもない庇護欲が私を満たす。
「面倒臭いから、可愛いんじゃあないか」
そう証明するように、魔法の掛った唇を緩く食む。彼女が望んだ通りに、軽く歯を立てて舌で撫でて味わう様に口付ける。すると今迄縮こまっていた小さな手が、私の胸元に縋り付いた。催促するように唇を押し当てる様はまるで鳥の雛の様で、増長する庇護欲に心臓が灼け付きそうだ。
「ん、…はぁ…っ」
「は…、ふふ、漸く素直にお強請りしてくれたね…」
「……どの道“質問”で吐かされるからな…。なら、自主的な方が未だマシだ…」
「人聞きが悪いなぁ。それじゃあ私が君を虐めてるみたいじゃないか」
「みたいってかズバリそうだろうが」
「ええ、酷いよ菫。私は誠心誠意真心を込めて君を可愛がっていただけなのに」
「完全に虐めっ子の顔してた奴が何云ってんだ」
「だって、“意地悪な私の顔はドキドキするんでしょう”?」
「っ…“すっごいドキドキする”。おい、太宰!」
「嗚呼ごめんごめん。ついうっかり。よしよし、いい子だからこれで許してね~」
「…………」
「菫?」
「…………足りない…」
「え?」
「もっと、ぎゅってして…」
少し拗ねた様に俯いて上目遣いに請われたその要求に、膨大な情報量を一瞬で処理する私の頭脳が三秒程止まった。そのたった一言を漸く咀嚼した私は、云われた通り彼女の頭を胸元に包み込むように抱き締める。
「もっと…」
「え?ええと…、これくらい?」
「もっと…」
「こう?」
「もっと…」
「否でも…、流石にこれ以上は菫も痛いでしょう?」
「“
今度こそ本当に思考が止まった。其処に追い打ちを掛ける様に、私の中に抱き込まれた菫が、少し息を詰めながら続けた。
「痛くてもいいから。君が欲しい」
「………」
「だから…、もっと頂戴…」
加減なんて出来る訳が無かった。まるで自分の体に取り込む様に、軋む程強く小さな体躯を抱き締める。余りに近過ぎて聞こえない程小さな吐息ですら判る。だから自分の顔のすぐ下で彼女が小さく笑うのも、聞こえなくたって判った。
「太宰」
「何?」
「面倒臭い事聞いて良い?」
「うん、いいよ」
「私の事、好き?」
ドクドクと鼓動が聞こえる。けれどそれが自分のものか彼女のものかすら判らない。まるで、あの夜の様だ。
「好きだよ。君が好きだ菫」
「大好き?」
「勿論。先に云っておくと、今迄出会ったどんな女性より君が大好きだ」
「先読みするなよ」
「だって君の口から“今迄の彼女より好きか”?なんて、云わせたくもないもの」
「そっか、ごめん。じゃあ代わりに聞くが、君は私の何処を好きになってくれたんだ?」
思わず苦笑が漏れた。何時の間にか立場が逆転している。でも悪くない。“君が私の答えを欲してくれる”。たったそれだけの事。けれど、未だ肥大化し続ける私の強欲を満たすには、たったそれだけの事実で十分だった。
「お人好しで、お節介で、単純で、怖がりな癖に意地っ張りで、中身は子供の癖に大人振ってて、純粋で無垢で、だからこそ残酷で、でもその分責任感が強くて、痛ましい程に優しい。君のそんな所が好きだよ」
「え?割と序盤から欠点祭りじゃね?」
「はは、人の事云えた口かい?君だって昔、私に散々な評価を付けた上で好きだって云った癖に」
「あれは事実だから仕方がないだろ」
「私だって事実だよ。云っただろう。面倒臭いから可愛いんだって。君が云うその欠点が、どうしようもなく愛くるしく思えてしまったんだ。本当に…自分でも呆れ果てる程にね…」
「何と云うか…、変わった趣味をお持ちで…」
「ふふふ、君程じゃあないさ。まぁ…、だから私の前で変に恰好を付ける必要は無いよ。君が醜態だと思っているそれも、私にとっては甘い蜜と同じなんだから」
「前言撤回。矢っ張り君は悪趣味だ」
「“本当はどう思ってるの”?」
「っ!……“これからは、もう少し…、駄々捏ねてみよう…”」
「ぷっ!君ねぇ!本心迄意地っ張りなのかい。そう云うのは“駄々を捏ねる”じゃなくて“甘える”って云うんだよ?」
「うっさい!どっちでもいいだろ!」
「ははは、…嗚呼、好き。本当に好き。愛してるよ菫。菫。可愛い私の菫」
「そんなんじゃ誤魔化されないぞ…」
「別に何も誤魔化す気なんて無いさ。思った事を其の儘云っているだけ。今の君と同じだよ」
「………ありがと…」
「ふふ、どういたしまして。それじゃぁお礼に、もう一つ私に本当の事を教えてくれるかい、菫?」
少し名残惜しく思いながら、腕の力を緩めて菫に上を向かせた。大きく息を吸いこんだ彼女の額に口付けて、私はもう一度“質問”を口にする。
「“私の事、好き”?」
一瞬見開かれた瞳は、しかし次の瞬間には苦笑に変わっていた。すっかり熱の移った小さな両手が私の頬を包み込む。
「“世界で一番好きだよ”。馬ぁ鹿」
****
ここ最近、彼女と歩く事が増えた夕空の帰り道。けれど悲しいかな、今日は真っ暗な夜空の下を一人寂しく家路に着く。それが何とも退屈で、仕方が無いから時間潰しに携帯端末を開いて、先日架けた履歴に発信する。それをきっちり三コールで取った電話の主に、私は軽快に第一声を発した。
「やぁお疲れ様!その後元気にしてたかい?」
『お疲れ様です。ご心配頂かなくても、貴方のお陰で久し振りの帰宅予定がパァになりましたからね。順調に徹夜の最長記録を更新していますよ。それで、ご用件は?』
「なぁに、ただの暇潰し…、じゃなかったお礼の電話だよぅ。例の件に就いてのね!」
『嗚呼…。構いませんよ。報酬の件さえ守って頂ければ、此方はそれで十分ですので』
「勿論、約束は守るよ。今後私に異能特務課からの依頼があった際は、一件だけ無償で全面協力しよう」
『………太宰君』
「何かな?」
『貴方の要求は、我々の管轄下にある“自白の異能力者”をヨコハマ市警が受け持つとある重要案件の調査協力の為に派遣し、異能発動のトリガーである飲料物を指定の時間に応接室へと運ばせる事。そうでしたね?』
「それが?」
『この取引に、貴方がそこまでの対価を我々に支払う価値が在ったのですか?』
「在ったよ」
私は即答した。端末越しに嘗ての友人が息を飲むのが判った。
「寧ろ、それ以上を対価にしても足りない程だ。普通に過ごしていたら、……恐らく一生聞けなかっただろうからね」
確かに“恋人同士”と云う免罪符を得てから、彼女は以前より私に要求を出す事が増えた。だが、元々の彼女は他人に何も求めない人間だった。誰にも頼らず、期待せず、求めない。嘗て“幽霊”と紛う程に希薄で、孤独で、たった独りで確立されていた彼女。恐らくその性質が、彼女のあの異様な迄の自立性を育て上げたのだろう。そう。考えてみれば幾ら恋人になったからと云って、彼女の骨格とすら云えるその性質が高々数ヶ月程度で変わる筈が無かった。そしてそれを確信したのは、“君を甘やかしたい”と彼女に伝えた時だ。両手を広げて待つだけだったその姿を見て私は理解した。
抑々菫は、甘え方が“判らない”のだ。
するしないの問題ではなく抑々それ以前の問題なのだから、幾らお願いした処で的外れな返答以外返ってくる道理がない。だから私は在る試みを企てた。異能特務課が管理管轄する異能力者リストを独自に洗い出し、その中から適任者を見つけ出した。そして古い伝手を使って、秘密裏に彼女に“相手の質問に必ず真実で答える”と云う異能を掛けた。
彼女自身に自覚がなくとも、その異能力で聞き出せば彼女が本当に求めているものが判る。後はそれを実際に実行してやれば善い。そしてその都度自分の本心を吐かせて、“自分が他人にされて嬉しい事が何か”を理解させる。多少荒療治ではあるが、この方法なら彼女も云い逃れは出来ないだろう。
(それにしても、“抱っこして”、“頭を撫でて”、“いい子って褒めて”…。か…)
今になって思えば、彼女が私を子供の様に甘やかすのはその裏返しだったのかもしれない。自分がされて嬉しい事を他人に施して、同じものが返ってくるのを彼女はずっと待っていた。それこそ、その起源すら忘れ果ててしまう程、ずっと―――
『太宰君?聞いていますか太宰君?』
「ん?嗚呼、何?」
『はぁ…、いえ。念を押しておきますが、今回の様な突飛な取引はこれっきりにして下さいよ。一晩で許可申請を出すなんて、本来は物理的に不可能なんですからね…』
「はいはい。肝に銘じておくよ」
『…太宰君』
「ん?」
『自白の異能を掛けた相手……、若しかして臼井さんですか?』
「………」
「もう無理…、羞恥で爆発する…」
「うふふふふ。ひ・み・つ」
『……はぁ…、まぁ善いです。それでは、僕はこれで』
「嗚呼、じゃあね安吾」
私は携帯端末を閉じて錆び付いた階段を上る。明りの点いた磨り硝子越しに小さな影が揺れていた。予定通り、夕飯時には間に合ったらしい。
「ただいま菫~。遅くなってごめんね?」
「おかえり太宰。仕方ないさ、仕事長引いたんだろう?」
「そうなのだよぅ。国木ぃ~田くぅ~んったらね、捜査現場の廃棄されたトンネルにビビりまくっちゃって…。お陰ですっかり日が暮れてしまったよ」
「あちゃ~、そりゃ本当に仕方ないヤツだな。取り敢えず、手ぇ洗って席ついてて。夕飯あとちょっとで出来るから」
「判った。所で今日の献立は?」
「浅蜊の味噌汁とほうれん草の胡麻和え、揚げ出し豆腐とイワシの梅煮。後晩酌用の日本酒が一升」
「流石菫!今日も栄養バランスよく酒に合う夕飯だね!」
「…………」
「……?…菫?」
大袈裟に両手を叩いて賞賛の言葉を送ると、何故か菫が黙り込んでしまった。数秒の沈黙の後、菫はコンロの火を止めると私の前まで進み出た。そして無言の儘、小さく礼をする様に頭を垂れる。
「…え?」
「どうせ褒めるなら…。ちゃんと褒めてくれ…」
その小さな声以外、何も拾えなくなった。眼下で私の手をじっと待つ彼女は、今どんな顔をしているのだろう。少し気になったけれど、そんな好奇心すら直ぐに塗り潰されてしまう程、血の巡る心臓に他の何かが満ちていく様に感じた。
「偉いね菫。いい子いい子」
「……っ」
「おっと!」
お望み通り優しく頭を撫でてやれば、殆ど体当たりの様な勢いで菫が私の胸に飛び込んできた。先刻見下ろした時よりもずっと近くで、先刻迄撫でていた頭が私の胸板に預けられる。まるで留守番でもしていた子供の様な彼女を抱え直して、また頭を撫でながら私は“質問”を投げた。
「ねぇ菫。今、嬉しい?」
「……嬉しい、…から、もっと撫でて…」
「ええ、どうしよっかなぁ?」
「っ!!」
「ふふ、ごめん嘘だよ」
一瞬不安げな顔をした彼女が怒りだす前に、苦情を吐きかけた口を塞ぐ。近くにあった体をより深く抱き締めて、つま先立ちになった彼女がバランスを崩さない様にしっかりと支える。何度かその唇に食らい付いて、名残惜しむ様に離すと口付ける前より少し赤くなった不満顔が私を仰ぎ見た。
「私、撫でてって云ったんだが…」
「嗚呼ごめん。いっぱい働いたらお腹空いちゃって」
「ならさっさと席に着く」
「もう、怒らないでよぅ。菫だって私に食べられるの好きでしょう?」
「勝手に過去の発言を改竄するな!」
「はいはい怒らない怒らない。ね?いい子だから」
「…君なぁ…、取り敢えずそれ云っときゃ善いと思うなよ……」
「おや、じゃあもうやめようか?」
そう云って両手を上げて見せると、赤い不満顔が余計に渋くなる。今や彼女にあの異能の効果は無い。私の“質問”に真実で答える必要は無いし、抑々無視だって出来る。それでも―――
「…………もうちょい…」
「ふふ、仰せの儘に」
不貞腐れた顔でそれでも頭を差し出す彼女に恭しく返事をして、私は再び手を滑らせる。彼女が今迄望んだ分を清算するように、枯渇し軈て乾きさえ感じなくなってしまった其れを満たす様に、余りに幼く他愛ない駄々を捏ねる大人の成り損ないを、甘やかに優しく、私は愛でる。
「嗚呼、本当に
―――菫は甘えん坊さんだね」