hello solitary hand・番外編
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「あ」
車窓の向こうを流れていく青々とした林地を眺めていた美少女が、不意に声を漏らした。
「どうした鏡花ちゃん?」
「今、林の中に何か居た」
「まぁ、電車の窓からよく判りましたわね!流石鏡花ちゃんですわ。因みに何が見えたましたの?」
「目が丸くて、頭に三角の耳みたいなのがついてて……」
「狐かしら?」
「ううん。色は灰色で腹部が白くて、二
「おいおい、まさか熊じゃないだろうねェ?」
「違うと思う。全体的に丸くて、大きな口で笑いながら片手に傘を持ってたから」
「それトトロじゃね?」
はい。と云う事で、突然ですが現在私は絶賛汽車旅を満喫中でございます。同行者は鏡花ちゃん、晶子ちゃん、ナオミちゃん、綺羅子ちゃんの武装探偵社女性陣一同。目的地は社長の古いご友人が経営されていると云う、秘境の温泉旅館だ。却説、所で何故いきな温泉なのかと云うと、話は数日前に遡る。
以前我が探偵社では、旅館の大掃除を手伝う代わりに一泊二日の温泉旅行が無料になると云うイベントが、男性陣限定で発生していた。だが幾ら労働付きとは云え、仕事以外で遠出なんて滅多に出来ない探偵社女性メンバーは「私達も行きたかったよねぇ〜」と円陣組んで溜息を吐いた。そんな私達の姿を見兼ねて、我らが偉大な社長がもう一度旅館に掛け合って下さった所、旅館側もあっさりと快諾してくれたらしい。ただし、前回同様お手伝いの条件付きで。
お手伝いの内容は接客と料理提供。と云うのも、本日その旅館に三桁レベルの団体様が泊まりに来るのだと云う。しかし、元来土着の親しみ易さと趣を旨とするその旅館には、そんな大人数をもてなす準備も人員も足りて居ない。それを理由に旅館側も一度は断ろうとしたが、代表者を名乗る男は一方的に電話を切ってしまい以後繋がらないのだと云う。そんな時ウチの社長から入ったお伺いは旅館側からすれば正しく地獄に仏であり、“可能な限り優遇するから寧ろ来て下さい”と泣き付かれたそうだ。ともあれ、こうした紆余曲折の末、遂に武装探偵社女子会温泉旅行は決行されたのである。
「皆で旅行なんて、何だかわくわくするわね」
「温泉の前に、件の客を出迎える準備をしなきゃならないがねェ」
「まぁ忙しいのは宴会の間だけだそうですから、皆で頑張りましょう!」
「大丈夫。探偵社員として、仕事は全うする」
「だね。皆でちゃちゃっと片付けちゃって、ご馳走に温泉にパジャマパーティー楽しもうぜ!」
「うふふ、楽しみですわね。嗚呼、これで兄様も一緒ならもっと楽しかったでしょうに。残念ですわ……」
「仕方ないわよナオミちゃん。借りられたのは前回同様一部屋だけなんだもの」
「まぁ、仮に谷崎君が来てくれてたら、それはそれで助かりそうだけどな。あの子料理上手だし、寝る時同室でもナオミちゃんが一緒ならある意味問題無いだろうし」
「菫ちゃん、ちょっとそれは…。ほら私達だけなら兎も角、鏡花ちゃんも居るから…」
「あ、そっか」
「大体アンタと同室に泊まったりしたら、数日の内に谷崎が消されちまうよ」
「嗚呼、それもそうですわね」
「私は呪いのアイテムか何かかな?」
「あんなの殆ど呪いみたいなもんだろう?寧ろアンタこそ、どうやって彼奴引っ剥がして此処に来たんだい?」
「え?普通に今日の事説明して家を出たよ?」
「あら、そうなの?」
「うん。前回男衆が温泉に行った時も、ちょいと何時もよりしつこく絡まれただけで特に問題なく送り出せてたしな。抑々彼、意外とプライベートは束縛して来ないよ?」
「えっ!?そうなんですの!?」
「お、おう。そんな驚く事かい?」
「だって太宰さんの事ですから、常時菫さんの行動をチェックして、自分の預かり知らない出来事を理由に隙あらば如何わしい方向へ持って行こうと画策しているものだとばっかり…」
「私も、持ち物に盗聴器やGPSを付けてでないと外出を許さないタイプかと思ってたわ」
「それか逆に、“私を置いて行くなら死んでやる”って首に縄掛けながら脅してくるかと思ってたんだがねェ」
「皆ウチの太宰を何だと思ってるん?」
「「「だって太宰(さん)だし」」」
「……………」
すまん太宰。ぐぅの音も出ねぇわ。
私は心の中でこの場に居ない最愛の恋人に深く陳謝した。
そんな楽しい汽車旅はあっという間に過ぎ去り、最寄駅からバスに乗り換え辿り着いた其処は、話し通り趣のある落ち着いた雰囲気の旅館だった。出迎えてくれた旅館のご主人に部屋へと案内され、荷物を置いた私達は早速各々の持ち場に着く。お料理係の私と鏡花ちゃんは、料理長から厨房のレクチャーを受けつつ作業に取り掛かった。如何やら件の団体客はとある外資系の警備会社御一同様だそうで、兎に角食べるからと宴会料理も一番物量の多いコースをご所望だ。だが抑々膳や皿そのものの数も間に合わず、旅館側は慌てて追加発注する羽目になったらしい。疲れ切った表情でそう語る料理長に、私は懐に忍ばせていたユンケルをそっと手渡した。
「全く、何処の世の中にもそう云う無茶振りを平気で吹っかけてくる迷惑客ってのは存在するんだなぁ。武力で撃退出来ない分、襲撃犯より厄介だ……」
「塩撒く?」
「お〜。偉いなぁ鏡花ちゃん、昔より提案がマイルドになったなぁ。因みに確認するけど、どの辺狙いで?」
「眼」
「う〜ん……、まぁ死にはしないからセーフ!」
「あ、否…。気持ちは嬉しいが、一応お客さんだしそう云うのは……」
「“日本のおもてなし文化”とか云って誤魔化せませんかね?」
「ん〜……ちょっと無理じゃないかなぁ……」
恐る恐ると云った様に料理長からツッコミを入れられ、私達は『塩撒き作戦』を断念して調理に戻った。幸いな事にご注文の料理は和食のコースだった為、鏡花ちゃんがその腕を遺憾なく発揮してくれた。うん。この子将来善いお嫁さんになるわ。嗚呼本当になんて見事な包丁捌き。しかもよく見たら夜叉白雪との同時進行だあれ。単純に作業スピード二倍だ鏡花ちゃんスゲェ。
「私も負けてらんないな!」
鏡花ちゃんが切ってくれた食材に下味を付けながら、私は時計を確認した。そろそろ例の団体様が到着する時間だ。接客へのヘルプはあの三人が居れば問題無いだろう。あ〜、善いなぁ。中居さん姿の三人に接客して貰えるなんて最高のサービスじゃん。私も今だけその会社の人間に成りた―――
「菫さん!鏡花ちゃん!大変ですわ!!」
その時、頭に思い描いていた中居さん姿のナオミちゃんが突然厨房に駆け込んで来た。
それはもう、なんとも云えない微妙な表情を浮かべて。
****
「ほう、此処がこの国の温泉旅館と云う奴か。話には聞いていたが本当に小さいな!」
「い、いらっしゃいませ。この度はお越し頂き有難う御座います。私、この旅館の主人をしておりま」
「おお!お前がこのホテルの経営者か。出迎えご苦労。予約を入れていたマナセット・セキュリティのフィッツジェラルドだ」
ほわっつ はぷん?
「しかし、随分と飾り気の無いホテルだな。しかも古い。開拓時代の遺産か此処は?」
「は、はは…。何分、祖父の代から受け継いだ旅館でして…」
「まぁ善い。これがこの国の“WABISHABI”と云う奴なのだろう。異国の価値観に然程興味は無いが、“ローマに居る時はローマ人の様に振る舞え”と云うしな。この国に拠点を構える以上、お前達のニーズを把握しておくのも仕事の内だ。さぁ、俺達を案内するが善いオンボロホテルの主人!先ずはこの国の温泉がどれ程のものか見せて貰うぞ!はっはっはっは!!」
いっそ清々しい程の高笑いが通り過ぎて行くのを柱の影から見送った私は、思わず手で顔を覆った。
「ナオミちゃん…。一応聞くけど、これって如何云う状況?」
「その、見た通りと云いますか…。警備会社マナセット・セキュリティ新代表の就任祝いと、エンジニアの勝訴祝い、そして新生
「あー、やっぱそうなんだ……」
おいおい、どうしてこうなった。否確かによくよく記憶を辿れば、外資系の警備会社で店側の話を全く聞かない強引グ・マイウェイなモンスターカスタマーとか合致する情報チラチラ出てたけど、だからって予測出来るかこんなん!武装探偵社員(武力担当)にこんなとんでも展開想定出来るか巫山戯んな!!
「てか抑々、どうやって此処チョイスしたんだよ。この旅館あの人の趣味に一
「『ネットの検索サイトで、この旅館の紹介ページに“電話予約でお通し無料”と表記されていたから、お得な買い物をしてみた』と……」
「おのれ、なんちゃって倹約家が…」
年季の入った柱に爪を立てながら何とも云えない衝動に打ち震えていると、そんな私を宥める様にナオミちゃんがそっと肩に手を掛けた。
「それで菫さん、先程春野さんや与謝野先生と相談したのですけど…。あの方と面識のある私達と鏡花ちゃんは、矢張り顔を出さない方が善いと云う話になりましたわ。接客はお二人に任せて、私達は極力厨房から出ないようにと」
「え、そりゃこっちは助かるけど…。二人の負担がデカ過ぎないか」
「私もそう云ったのですけど、万が一探偵社の者と知られた場合相手がどんな行動に出るか判りません。此処で
多分探偵社員と知られた所で彼が復讐に走る事は無いと思うが、可能な限り面倒事は避けるべきと云う意見には賛成だ。晶子ちゃんと綺羅子ちゃんの負担を増やしてしまうのは心苦しいが、あの新生成金セレブさんの接客は二人に任せて私達はバックアップに従事する。それが現状、最も最適な配置と云えるだろう。
「判った。二人には悪いがお言葉に甘えて私達は厨房に籠城しよう」
「ええ。それと、菫さんは特に注意して下さいね。あの方と鉢合わせて、一番大きなトラブルに発展しそうのは菫さんなんですから」
「ん?………あ〜、そう云やぁそうだった……」
すっかり忘れていたが
「ま、まぁ厨房に籠もってれば大丈夫さ!あの課金セレブが態々バックヤードにまで顔出す筈な―――」
****
「おお、矢張り此処に居たか!ジャパニーズ・TAKUMI!!」
「即落ち二コマかよ」
その日、私は思い出した。元来物語であるこの世界に於いて、フラグとは絶対的な因果発生装置であると云う事を。
「悪ぃ、為挫っちまったよ」
「宴会場に居た作戦参謀の子が、探偵社のメンバーを把握していたみたいで…」
「嗚呼、成る程…」
気拙そうに肩を落とす二人の言葉に、私は事の次第を理解した。
「オルコット君が『従業員の中に武装探偵社の輩が紛れ込んで居る』と報告してきてな。もしやと思いこうしてバックヤードに態々足を運んでみれば、本当にあの時のTAKUMIが居るとは!また会えて嬉しいぞ、…あー……君の名前は何と云ったか?」
「臼井菫です。名前以外は覚えて頂けていた様で光栄です、ミスター・フィッツジェラルド」
「そう!それだ!と云うか、君は言葉が話せたのだな。てっきり言語が通じない手合いの人間かと思っていたぞ」
「あー…、いえ。あの時はちょっと色々ありまして…。それよりミスター。ご用件は何でしょう?ご覧の通り此処は裏方。もてなされるべきお客人が訪れる場所ではありませんよ?」
「ふっ、俺も長居をする心算はない。だが、君の存在と合わせて、もう一つ確かめておきたい事があったからな」
そう云ってフィッツジェラルド氏はグルリと厨房を見渡すと、何か納得した様に頷いて軽やかに指を鳴らした。その途端、何処から湧いて出たのかスーツ姿の一団が厨房へと雪崩れ込んで来た。突然の奇襲に晶子ちゃんや鏡花ちゃんが咄嗟に得物を構える。が、スーツの一団は私達に眼もくれず、瞬く間に去っていった。
漸く片付きつつあった作業台に、どう見てもスーパーじゃ買えない様な高級食材の数々を残して。
「急拵えでこれしか手配出来なかったが、今出ている料理と合わせて考えれば十分だろう」
謎のスーツ集団が置き去って行った食材の中から、一際大きなズワイ蟹を掴み上げ高々と翳すと、嘗てヨコハマの街を焼滅させんと目論んだラスボスは無駄に良い声で高らかに云い放った。
「さぁ、遠慮は要らん!好きな様に調理し、そして俺達に振る舞うが善いTAKUMI!」
「………ぱーどぅん?」
****
「はぁ~。つっ……かれたぁ~!」
全身全霊で吐いた嘆息が仄かに硫黄の香る湯煙に溶けていく。すると、頭上に広がる満点の星空を仰ぐように踏ん反り返った視界に、大小の陶器の光沢が映った。
「お疲れ様菫ちゃん。一杯どうぞ」
「嗚呼もう綺羅子ちゃん大好き!そいじゃ有難く」
恐れ多くも我が社の社長秘書からお酌を賜ると、それを見計らった様に晶子ちゃんがお猪口を夜空に掲げた。
「よし、それじゃあ一丁盛大に乾杯と行こうか!」
「おう!皆お疲れ様!」
「「「お疲れ様!」」」
私と晶子ちゃんは日本酒の入ったお猪口を、綺羅子ちゃんはワインの入ったグラスを。そして未成年のナオミちゃんと鏡花ちゃんはジュースの入ったコップをそれぞれ掲げて、私達は激戦を乗り切った互いを称え合った。
「あ~~染みるぅ~!疲労とストレスが蓄積された体にアルコールが染渡るぅ~~!!」
「うふふ、疲れ様ですわ菫さん」
「本当ね。新生
「全くだよ。こんな模範的なザ・庶民に高級食材の調理なんか出来るかっての!ホント鏡花ちゃんが居て呉れなかったらどうなってた事か」
「ポートマフィアに居た頃、橘堂でよく食べさせて貰ってた」
「それに矢張り、何と云っても今回の立役者は与謝野先生ですわね!」
「フッ。何時もバラしてる連中に比べれば全然歯ごたえ無かったけどねェ」
あの後、数秒の機能停止から辛うじて正気を取り戻した私は、諸悪の根源に再度説明を要求した。その話を要約すると、『前回は安物と陳腐な設備で作られたケーキしか食べられなかったから、今度は高級食材とちゃんとした厨房で作った完成系の料理を食べさせろ』と云うトンデモリクエストだった。
しかし、予約のあったコース料理はもう殆ど仕上がっているし、抑々自分は家庭料理専門でこんなお高い食材など調理は疎かお目に掛かった事すら無い。よってご希望には添い兼ねると懇切丁寧にお断りしたのだが、やれ「俺の新しい部下達は、元軍人ばかりだから問題ない」だの「あんな細々と器ばかり多い料理では酒の摘みにもならん」だの。終いには「寧ろこの儘だと『此処は古いばかりで客を満足させられない三流宿だった』とレビューに書き込む者が続出するぞ」と大変悪どいラスボススマイルで脅迫され、私達は止む無くフィッツジェラルド氏の要求を承諾した。
だが調理しようにも、辛うじて太宰の為にレパートリーを増やした蟹料理が幾つか作れるだけの私は秒で暗礁に乗り上げた。料理長のオジサンに至っては、逆に料理人としての価値観が仇となり食材の高級オーラに泡を吹いて倒れた。そんな私達を救った救世主が、ポートマフィア五大幹部の一角より直々に食育と云う名の寵愛を受けていた鏡花ちゃんだった。事ある毎に連れて行って貰った高級料亭で一級品の味を覚え、更に料理の腕もピカ一の鏡花ちゃんが指揮を執り、私達は何とか調理を開始する事が出来た。きっと彼女が居なければ、私達はメニューすら満足に決められなかっただろう。しかし、美食の女神鏡花ちゃんのお陰で漸く希望が見え始めたその時、彼の魔王が再び絶望を突き付けてきた。
―――
その重量、約四〇〇
運送に手古摺った所為で到着が遅れたとか云うそのクロマグロを前に「この国では“マグロの解体ショー”と云う見世物があるのだろう?さぁ、思う存分披露するが善い!」とか宣い、某寿司チェーン店社長のポージングを決めたフランスシざんまい社長には、恥ずかしながらマジで殺意が沸いた。そんな殺意の波動に目覚めた私を上回る殺意を以って目覚めた最強の戦士。それが我らが探偵社の専属医、与謝野晶子ちゃん大先生である。「そんなに解体ショーが見たきゃ見せてやるよ!」と唸りを上げるチェーンソーで身の丈以上もあるクロマグロをスプラッタ映画さながらにバラしていった晶子ちゃんは、瞬く間に宴会場を歓喜熱狂と一部阿鼻叫喚の渦に叩き込んだ。あの時程チェーンソーを携えた晶子ちゃんが頼もしく思えた瞬間は無い。
かくして、
「あ゛〜〜…、しっかし善いなぁ温泉…。そして露天風呂で飲む酒。まさにこの世の極楽だよ。生きてて善かったぁ〜…」
「おいおい、まさかもう酔っ払ったんじゃないだろうねェ。医者の前で酔って溺死なんて洒落にならないよ?」
「大丈夫大丈夫。確かに血行善くなってる所為か酔いの回り早いけど、今んとこ余裕で許容範囲だよ晶子ちゃん。これはただリラックスしてるだけ〜」
「うふふ、本当に気持ちいいわよね〜。全身の凝りが解れていくみたい…」
「あら。こちらに温泉の効能が書いていますわよ!」
「え?どこどこ?」
「これ」
未成年ズが指差す先には古ぼけた看板があった。私は湯船に浮かべたお盆の上にお猪口を置くと、バチャバチャと湯を掻き分けて二人に並んだ。
「ほほう。冷え性、肩凝り、腰痛、神経痛、筋肉痛、関節痛、うちみ、くじき。わぁ、美肌効果もあるんか!ちょっと桶にお湯張って顔面着け置きしとこうかな」
「そんな太宰さんじゃないんですから…」
「美肌、そんなに欲しいの?」
「そりゃ欲しいさ。今の所まだ実害は出てないけど、年々お肌の曲がり角なるもののプレッシャーが着実に背後でひしひしと…」
「そう?」
コテリと首を傾げた鏡花ちゃんは、不意に私の頬に手を当てた。質感を確かめる様に白く小さな手が私の頬を何度か撫でる。
「……餅」
「ん〜、まぁ弾力に付いてはなぁ。中に詰まってるものの恩恵と云うか…。でも矢っ張り、私も鏡花ちゃんみたいな美肌が欲しいよ」
今度は私が鏡花ちゃんの頬を両手で包みうりうりとさすってやると、其処から得も云われぬ感動的な感触が脳へと伝達された。うん、この世界の男性陣の肌質が善い意味でヤバい事は知ってたが、美少女の肌質はやっぱダンチだわ。そりゃこの世界からロリコンが根絶されない訳だ。否、害悪なロリコンはマジ絶許だけどな。
「はぁ〜、スベスベや〜、プルプルや〜。美少女のほっぺたマジで神」
「酔ってる?」
「えへへ、まだ許容範囲だよぅ。あー、善いなぁスベスベプルプル卵肌。私も欲しいなぁ」
「あら、菫さんにだって鏡花ちゃんにはない強力な武器があるじゃないですか」
「へ?なにぎゃーーー!!」
その瞬間、胸元を撫でた妖艶な指先に私は無様な断末魔を上げマッハで後ずさった。
「まぁ、想像以上の手触りですわね。もう一度触らせて下さいな」
「いやいやいや!ちょ、ま、何!?」
「うふふ、“何”ってそんなの決まっているじゃありませんか。実は私、前々から菫さんのご立派な胸元にはとっても興味がありましたの」
「―――っ!」
まるで兄様をロックオンした瞬間を彷彿とさせる様な眼光と如何わしく蠢く指に、本能的な危険を察知した私は慌てて大人組の元に逃げ込んだ。
「た、助けて綺羅子ちゃん晶子ちゃん!ナオミちゃんのアカン系スイッチがオンにぎゃーーー!!」
安息の地と信じた場所で奇襲に遭った私は、再び情け無い叫びを上げた。しかし私の悲鳴も虚しく、片胸をむんずと掴んだしなやかな手が、その儘感触を確かめる様に揉みしだいていく。
「あー、矢っ張りアンタ前よりデカくなってないかい?まぁた肩凝り悪化するよ?」
「や、ちょ、ま、まって!晶子ちゃ、ストップ!」
「こら逃げんじゃないよ。ただの触診だろう?」
そう云うお医者様の眼は完全に酔いどれのそれだった。自分が虎の巣に逃げ込んでしまった事を察し、私は即座にその場を離脱しようと試みた。が、それはもう片側から絡み付いてきた細く柔らかい両腕に阻まれる。
「うふふ…、ミィちゃぁ〜ん。一緒にお風呂気持ちいいでちゅねぇ〜〜」
「すみません人違いです!ひゃっ!ちょ綺羅子ちゃん駄目、其処は駄目だって!!」
どうやら此方も完全に出来上がってしまっているらしい。しかも身体に回された手が、相手を愛猫と誤認して撫で回してくる為色々と大変な事になってきている。右側に綺羅子ちゃん、左側に晶子ちゃん。普段ならこんな両手に花状態、寧ろ神に感謝の祈りを捧げる所だが今回ばかりはどう考えても拙い。
「ミィちゃぁ〜ん。ミィちゃんのお腹は柔らかいでちゅね〜。もう此の儘食べちゃいたぁい」
「食べないで!お願いだから食べないで!ぁ、ん…っ。ちょ、晶子ちゃんマジで待って!大丈夫だから!私健康体だから!」
「ん〜?いや、これは単に触り心地善いから揉んでるだけだが」
「触診じゃなかったんかお医者様!?ひぅ…っ、や、ホント、駄目だって…」
直に肌に触れる手に嫌悪感はない。寧ろ肌の上を滑るその手に、ゾクゾクと身体が疼き出してきた。その事実に余計羞恥心が込み上げ、困惑と酔いでごちゃ混ぜになった頭が、温泉の熱も相まってあっという間に沸点を超えた。
「もう、二人共駄目だってば!
―――
―――…………。
―――………………沈黙。
それはもう、これでもかと云う程見事な沈黙だった。
聞こえるのはただ温泉の流れる音のみ。
軈て、何処からか響いてきたカポーンと云うあの温泉特有の音が、永遠とも思えた沈黙を破り―――
それと同時に私の中でも何が破れた。
「あああああの!!あの!ちょい逆上せた!!いかんな、温泉ってすぐ酔いが回るな気を付けなきゃな!!って事でごめん皆、先に上がるわ!!!」
誰よりも先に口を開き、返答の隙を一切作らずそう云い切った私は、両サイドの二人が硬直している隙を突いて一気に脱衣所に駆け込んだ。が、勢い余ってすっ転び備品をひっくり返した挙句、盛大に後頭部を強打し悶絶する羽目になった。しかしそれでも脳内大パニックは治らず、暫くの間ドッタンバッタン大騒ぎを繰り広げた末に、私は半ば転がる様に命辛々脱衣所を後にした。
「………彼奴今、“治”っつったかい…」
「云いましたわね……。ねぇ与謝野先生」
「何だいナオミ…」
「……あの…もしかして太宰さん、“菫さんのプライベート迄束縛しない”のではなく、“抑々束縛する必要が無いから自由にさせているだけ”なのでは…?」
「………」
「………」
「ミィちゃん…、行っちゃった……」
「水飲む?」
****
―――失敗した。
失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗したーーー!!!
やっちまったチキショー!本人と二人きりの時なら未だしも、第三者の、しかも共通の職場の仲間内であんな脳みそドロっドロに蕩けた惚気口走るなんて何してんだ私!しかも皆の前で太宰の事“治”っつっちゃった!!あああもうヤダ!これ完全に「あ、二人きりの時は下の名前で呼んでるんだ」って思われちゃってるよ!否、実際当たらずも遠からずだけど!!ああああああああ、クソ数分前の失敗だけ消してぇぇリライトしてぇぇぁああああ!!!
だが、幾ら過去を悔やみ全力疾走をかまそうと、仕出かしてしまった失敗は消えもしなければリライトも出来ない。そうしてただ無為に旅館の廊下を駆け抜けていた私の徒労は、割と久し振りのしかし馴染みのある拒絶音と同時に幕を下ろした。
「ほう、やるな。五千ドルでも尚此処まで飛ばされるか」
「っ!?」
その声に漸く我に返って顔を上げると、其処には一瞬視覚攻撃かと錯覚する様なセレブオーラ、基何かスッゴイ高そうなバスローブを纏ったフィッツジェラルド氏が二、三
「あ、あの、すみません!前方不注意で」
「否、寧ろベストタイミングだ。まさか君の方から現れるとはな」
「はい?」
「小腹が空いて寝付けん。俺に夜食を作れTAKUMI」
「……え、あんなに食べたのに?」
「俺の部下達はな。俺自身は半分も口にしていない」
「何故に?」
「一口目で俺が食すに値すると思えた料理が殆ど無かったからだ」
「…………さいで」
「全く、君ならばもっと俺の度肝を抜く素晴らしい逸品を出して来ると期待していたのだが、拍子抜けもいい所だ。とは云え此処の従業員の中で、俺を失望させない品を出せるとすれば矢張り君くらいだろう。名誉挽回のチャンスを与えられた幸運を噛み締めて、今度こそ俺を失望させるなよTAKUMI?」
「……その、私もうお風呂入って寝る所なんですけど…」
「ほう。では君は、期待を裏切られ満足に食事も摂れず、空腹で夜も眠れぬ客を勤務時間外だからと放置するのか?たった今、自分の前方不注意で五千ドルの損失迄負わせた上で尚、自分だけはスヤスヤと赤子の様に安眠しようと、そう云う」
「判りましたよ!作りゃ善いんでしょ作りゃ!!」
街一番の非合法組織より余程厄介な当たり屋に絡まれた私は、仕方なく彼を連れて厨房へと向かった。とは云え、本日の営業は既に終了している為、これから調理となると結構時間を食ってしまう。その間、この元ラスボスが悠長に待ってくれるとは思えない。
「一応聞きますが、リクエストとかあります?」
「云った所で此処にあるものでは作れん。君に任せる」
「あーはいはい。後で文句云わないで下さいよ?」
「それは君次第だな」
何処からか引っ張り出して来た椅子に腰掛けたフィッツジェラルド氏は、悠々と脚を組み待機の姿勢に入った。とことんマイペースなその振る舞いに溜息を吐いて、私は改めて厨房の食材を確認しつつ考えた。明日の朝食に影響を出さず、且つ最短で仕上げられるもの。使えそうな食材を脳内で組み合わせた私は、軈て出た結果に思わず笑いを漏らした。
「どうした?」
「いえ、何でも。ただ献立が決まっただけです」
怪訝そうに首を捻る返り咲きセレブに微笑んで、私は調理を開始した。明日の味噌汁様に仕込んで置いた出汁を適量小さな鍋に移し、火にかける。その間冷蔵庫にあったご飯をレンジで温め、薬味のネギや大葉、次いで晶子ちゃんが解体したマグロの残りを適度なサイズにカットした。いい匂いのして来た出汁に少し調味料を加え味を整えると、具材を乗せたご飯の上にそれを回し掛ける。更に其処へ海苔とあられ、そして―――
「最後に胡麻を、パラパラっと…。ふふ」
実際に見た訳でもないのに、後輩に好物を作ってあげている彼の姿が眼に浮かんで、またしても笑いが漏れる。相手が相手なのでちょっと豪勢に改良してみたが、数日前にこの場所で彼が同じものを作っていたかと思うと、ただそれだけで何となく心臓がじわりと熱を帯びた。
「お待たせしました。お夜食出来ましたよ」
「何、流石に早すぎるぞ!まさか…、この俺相手に手を抜いた訳ではなかろうな?」
「それはこれを食べてから決めて下さい。さぁどうぞ、
―――マグロの出汁茶漬けです」
湯気の立つ丼を差し出すと、フィッツジェラルド氏は険しい顔をしながらも受け取ってくれた。箸は使い慣れていないだろうからと添えたレンゲで、彼は問題の一口目を口に運ぶ。
「―――っ!」
その瞬間、宝石を嵌め込んだ様な青い瞳が大きく見開いた。何かを考え込む様な沈黙。そして彼はレンゲを丼に戻して口を開いた。
「答えろTAKUMI。俺が預けてやった食材の調理で、君は手を抜いたか?」
「いいえ。恥ずかしながらあれが私の全力です」
「ならば何故、安物の具材が大半を占めるこんな些末な料理の方が美味い?」
私を見据えるその眼に、これ迄の様な不遜や傲慢さは無かった。ただ単純に質問を投げかける一人の人間に、私は苦笑して答えた。
「単にモチベーションの問題ですよ」
「モチベーション?」
「ええ。失礼ながら先刻の宴会では、兎に角目の前の調理に必死で他の事を考える余裕がなかったんです。でも、今貴方が食べているそれはちゃんと“美味しく出来ると良いなぁ”って思って作りました。差があるとすれば其処です」
元から料理は私の数少ない得意分野だった。けれど、それが此処まで上達したのはきっと、何時も「美味しい」と云って残さず食べてくれた彼のお陰だろう。
「“料理は愛情”ってよく云いますが、私の場合それが特に顕著なんです。だから私は料理人に向いてませんよ。少なくとも今の私は、自分が大好きな人と顔も知らない誰かを平等に愛せる程、聖人君子じゃないですから」
苦笑する私に、フィッツジェラルド氏は無言の儘俯いた。その視線の先にあったのは、彼の左薬指だ。
「成る程…。確かにそれでは金にならんな」
薄らと痕が残った何も無い其処に眼を落とし、彼は何処か納得した様に呟いた。そしてまたレンゲを手に取ると、無言の儘茶漬けを食べ進める。彼が再び言葉を吐いたのは、私に丼を突き返した後だった。
「悪くはなかった。が、及第点ギリギリと云った所か。俺がやった食材のお陰で命拾いしたな」
「それはどうも。ギリギリお口に合って良かったです」
「……俺が初めて食べたあのケーキ。あれも君が愛情とやらを込めて作った品だったのか?」
その質問に、私は思わずはにかんだ。ちょっとした懐かしさと照れ臭さと、それから―――脳裏に浮かんだ彼の姿に。
「愛情込めるどころか、愛情ただ漏れでどうしようもない時に作ったケーキです。だから、正直どうやって作ったかも覚えてないんですよ。あの時は好きな人の事以外、何も考えられなくなってましたから」
「………そうか」
珍しく静かに微笑んだフィッツジェラルド氏は、立ち上がると厨房の暖簾を潜った。
「孰れ時が来たら、探偵社には宣戦布告の挨拶に出向く。それ迄、精々貧乏料理でも作りながら束の間の平和を楽しむが善い」
「一昨日おいで下さい。ただ、次にご来社の際はアポをお忘れなきよう。ヘリで乗りつけるのも禁止です」
「フッ。‥…またな、
「ええ、ミスター。また孰れ」
私の返事にヒラリと後ろ手を振って、自分の愛する妻と娘の為に激闘を繰り広げた元ラスボスは厨房を後にした。その背中から自分の手元へと眼を落とした私は、米粒一つ残っていない空っぽの丼を眺めながら独り言ちた。
「今度、ウチでも作ってみようかな……」
****
(……………眠れない)
華麗なるフィッツジェラルド氏の晩餐(食べたの本人だけ)から帰還した私は、滅茶苦茶重たい足を引き摺って借り受けた一室の前に戻った。だが襖の向こうに待っていたのは、酔い潰れて熟睡した綺羅子ちゃんと、飲み過ぎでダウンした晶子ちゃん。そして、帰りが遅くて心配したと駆け寄って来てくれたナオミちゃんと鏡花ちゃんだった。その優し過ぎる世界に私が目頭を押さえ天を仰いだのは云うまでもない。
その後、露天風呂での失言に就いては特に触れられる事なく、アルコールで身を滅ぼさなかった未成年ズとちょっとした雑談に花を咲かせ、今日という日はたった今終わった。布団にくるまった儘気配を探ってみたが、矢張り皆は既に寝てしまった様だ。しかし、一人だけ全く寝付けない私は、ゴロゴロと寝返りの回数ばかりを更新していった。日付も変わり、もう半ば睡眠を諦め掛けた時、そう云えば此処の温泉は夜中でも入っていいと云う話だったと思い出して、私は皆を起こさない様にこっそりと浴場に向かった。
服を脱ぐ前にそっと浴場の様子を伺ってみたが、どうやら無人の様だ。まぁ今日は新生
「はぁ…、やっぱ気持ちいい……」
広い湯船を独り占めして私はのびのびと寛ぐ。自宅の浴槽は狭くて足も伸ばせない為、こんなにゆったりと湯に浸かるのは久し振りだ。石造の縁に後頭部を乗せ、殆ど仰向けに寝そべる形で温泉を堪能していると、開いた視界の先には見事な星空が広がっていた。
「………はは」
―――彼も、この星空を眼にしたのだろうか。
何時の間にかそんな事を考えていた自分に気付いて、思わず笑ってしまった。綺麗な夜空を見上げて最初に浮かんできたのがそれなんて、一体何処のラブソングだろう。嗚呼。でも思い返してみると、今日はずっと似た様な事を考えていた気がする。
別に不満や不承があった訳じゃない。予想外の騒動に多少振り回されはしたが、それも含めて今日は本当に楽しい一日だった。けれど、移動中も、旅館に着いてからも、料理の最中も、皆で温泉に入っていた時も、あの奇妙な晩餐会の時も、皆とお喋りして軈て床に着いたその後も、何時の間にか私は同じ事ばかり考えてしまっていた。
―――“もし此処に、彼が居たら”。
そうして気付けば私の思考の中心は彼で溢れ返っていて、どんなに眼の前の事に集中しようとしても最終的には同じ所に行き着いてしまうのだ。誰かと一緒に居た時は、会話をしたり相手の様子を眺めたりしていたから特に気にはならなかった。けれど皆が寝静まり、する事もなく、口を開く事も無くなったら、じわじわとそれが脳から全身へと回り始めてきた。寝返りを打ってどちら側を向こうと、寝床の中には私しか居ない。フカフカの布団に鼻を押し付けて息を吸い込んでも、洗剤とお日様の匂いがするだけだ。今、自分が感じられる存在は自分独りだけ。そんな当たり前の事実に、何故だが触れる空気が肌寒かった。
原因は明白だ。けれど、流石にそれをすんなりと鵜呑みに出来る度胸はまだ無くて。さりとて時間と共に進行していくその感覚を、夜明け迄我慢する根性も無かった。暖かい温泉に浸かれば少しはマシになるんじゃないか。そんな希望的観測から此処に来てみたが、どうやらそれも浅はかな悪足掻きだったらしい。額に汗が浮かぶ程の熱に身を浸しても、結果は同じだった。
埋まらない。足りない。寒い。
―――君の居ない独りが、寂しい。
「…………」
湯船から上げた手は、熱が籠って薄らと赤くなっていた。それを視界に翳しながらゆっくりと空へ伸ばす。満天の星空に浮かぶ蒼白の月をなぞる様に、あらん限り伸ばした手を冷たい夜風が撫でていった。
「………太宰」
「なぁに?」
濃紺の空に伸ばした私の手は、蒼白の月に届く前に―――包帯だらけの大きな手に捕まった。
「っうぇあああああぁぁ!!?」
「ぎゃぶっ!?」
私は反射的に渾身の背負い投げを決めた。そして投げ飛ばされた相手は、その背面を盛大に湯船に叩きつけられ、それはそれは見事な水柱を生み出し水底に沈んだ。
「……は?」
肋骨をブチ破る勢いで飛び跳ねた心臓を押さえながら、私は改めて眼前の光景を精査した。状況だけ箇条書きで上げると、濁り湯の底に人が沈んでいる。と云うか今私が沈めた。腰にタオルを巻いたメッチャ見覚えのある、って云うか見覚えしかないハーフミイラ。
「………おい、何してんだゴラ」
まるで水死体の様に漂う蓬髪を引っ掴んで、私は其奴を湯船から引き上げた。すると無駄に端正な美貌にダラダラと水滴を滴らせながら、彼は片目を瞑ってペロリと舌を出した。
「てへ、来ちゃった☆」
「死なん程度にもっかい沈むか?」
「そんな…っ、ちゃんと死ぬ迄沈めてよ!菫の意地悪!」
ちゃんと触れる。反応も間違い無い。うん。幻覚の線は消えた。となると色々問題が浮上する訳だが、取り敢えず一番の問題は―――
「なぁ知ってるか兄さんよぉ?此処ってさぁ、
「当たり前じゃないか。女性の君が男湯に居たら大問題だろう」
「今まさに、君自身がその大問題を引き起こしてんだろが」
逆にちょっと驚いた顔で正論を吐いた不法侵入者は、私の頬をそっと撫でながら何故かキメ顔で微笑んだ。
「大丈夫、今此処に居るのは君だけだって事はちゃんと確認済みさ。心配しなくても、私が本気で裸を見たいと思う女性は君だけだよ菫」
「先ず女湯に忍び込んでる時点でアウトだっつってんだよ!他の皆に見つかったら如何すんだ!?」
「ヘーキヘーキ、入り口に『清掃中』って看板を出しておいたから。流石に私も、彼女達の逆鱗に触れるのは避けたいしね」
「なら抑々こんな危なっかしい真似すんなよ。晶子ちゃん辺りにバレたらマジで削ぎ落とされんぞ、色々と」
「仕方ないでしょう?だって私、菫と一緒に風呂で寛いでみたかったんだもの」
「え…」
その言葉を咀嚼するより早く太宰は私の手を引いて、自分の膝の上へ向かい合わせに座らせた。補足しておくと、私はつい先刻迄一人で温泉を満喫していた。よってタオル等は巻いていない。完膚なきまでのマッパである。まぁだからと云って、別に今更太宰相手に隠すものなど何もないか。とか思っちゃってる自分の成長だか諦念だかを噛み締める私と対照的に、太宰は実に嬉しそうなご満悦の表情を浮かべていた。
「うふふ。矢っ張り広い湯船は気持ち良いねぇ。君と一緒でも身体を縮めなくて済むし。あ〜あ、自宅の風呂もせめてもうちょっと広ければなぁ」
「……一応聞くが仕事は?」
「全部国木田君に押し付け、じゃなかった、快く引き受けてくれたよ」
「どんな口八丁で騙くらかしてきた」
「もう酷ぉい。私はただ、想像上の君と小一時間会話して見せただけだよ。そしたら国木田君が“今日はもう帰って休め”って」
「ナニソレ怖っ」
「だって、菫と混浴出来る機会が目の前に転がって居るのに、仕事なんてしてる場合じゃないでしょう?まぁでも、君の云う通り社の女性陣に気付かれたらとんでもない事になるから、身を潜めて機会を伺っていた訳さ」
流石に悪寒が走り震え上がる私に、太宰は悪戯っ子の様に笑った。熱の籠った手で私に触れながら、もう一方の手で更に距離を縮めていく。
「嗚呼、でも本当に素敵だね。何時も部屋の中でしか見られなかったから、凄く新鮮だ」
「おい、ちょっと」
大きな熱い手が頬から顎を伝い、下に降りて水面に出ている胸の上部をするりと撫でた。
「はぁ、綺麗な桃色。それにすっかり熱くなっちゃって…。ふふ、とっても美味しそう…」
直接乳房に触れられている訳ではないが、その官能的な手つきと熱に蕩けた鳶色に私の中で盛大にレッドカードが上がった。
「待て待て、一回待て。そのモザイク必須のエロい手を一旦止めろ」
「ちょっと、人の手を猥褻物みたいに云わないでくれる?」
「善いか太宰君。此処は温泉だ。公共の浴場だ。よってマナーは守らなくてはならない。判るな?」
「判ってるけど?」
「よし、じゃあこの手を離せ」
「ヤダ」
私の懇切丁寧な解説をたった一言で切り捨てた太宰は、更に背中に手を滑らせ撫で回していく。遂には肩に浅く吸い付いて頬擦りまで始めた。
「うぉい!待てってば、ステイ、太宰ステイ!」
「私、犬じゃないからそんなの聞いてあーげない」
「待てって云ってんだろ!こんな他の人も使う様な所で絶対やらないからな私!!」
「何が?」
「何がって…っ!だ、だからあれだよ…。その、何時も、やってる様な…事…」
「何時も?」
「君なぁ!云わせたがりも大概にしろよ!何時も、こ、こう云う格好で…してるだろ……」
太宰の前で肌を晒す事には大分慣れたが、いかんせんその手の用語を口にするのは未だ抵抗がある。結果口籠る私に太宰はキョトンと首を傾げ、軈て何か思い当たった様に「嗚呼!」と声を上げた。
「もしかしてセックスアピールだと思ったの?」
「セっ…!?」
「ははは、違う違う。これは単に君の肌を堪能してただけ」
「否…、それ何処が如何違うんですか…」
「だって私、君の感じ易い所には全然触れてないでしょう?もしその気なら、最初からこの辺とか触ってるよ」
「ひっ…!」
しなやかな人差し指がつつと首筋を伝うと、その瞬間ゾクリと全身が跳ねた。そんな私を見て太宰は満足そうに微笑む。
「ほらね。菫の何処を如何触ってあげれば気持ちよくなるか、私は全部知ってるもの。だから胸に触った時も、感じ易い所は避けてあげた心算だったのだけど…、もしかして気持ちよかったの?」
「ちちち違…っ!ただ、君がメチャクチャ撫で回してくるから、そ、そうかと思って…それで…っ」
「ふふふ、だって今日の菫、何時も以上に触り心地いいんだもの。温泉の所為かな?滑らかでモチモチしてて、凄く癒される…」
「……嗚呼…さいで…」
リラックスした様な柔らかい顔で、太宰は私の頬に頬擦りをする。如何やら本当に癒しグッズ扱いされている様だ。そう判って安堵する一方で、心の何処かに何かが引っかかってモヤモヤする。そんな私に、太宰は「嗚呼、でも」と云い掛けて耳元に口を寄せた。
「菫がしたいなら、此の儘気持ちいい所も可愛がってあげるよ?」
「…っ!い、要らんわボケ!変なトコ触ったらマジで沈めるからな!」
「ふふふ、そう?残念」
愉快そうに笑う太宰は更に私を引き寄せて、とうとうすっぽりと腕の中に収めてまた肌の上を撫でる。対面の儘密着した事であれやこれやと太宰の身体に押し付ける形になったが、此処で変に反応したら今度こそマジで食われると確信した私は、仕方なく彼の肩に顎を乗せて好きにさせてやる事にした。すると温泉の匂いと一緒にふわりと馴染みのある匂いがして、思わず其処に鼻を擦り寄せるとすぐ近くから声が漏れる。
「ちょっと菫、擽ったいよ。ふふ」
「おう、悪い」
口ではそう謝罪しながらも、私は太宰の首筋に顔を埋めた儘、更に左胸の上に巻かれている包帯の隙間に指を差し込んで、ドクドクと鳴る心音を愛でる様に直接撫でた。すると太宰はまた小さく笑って私の太腿を撫でながら囁く。
「矢っ張りしたいの?」
「違わい。何時も以上に触り心地善いから触ってるだけ。君と同じだ」
徐々にしがみ付く様に手足を絡めた私は、完全に頭を太宰の首元に預けて目を閉じた。先刻迄あんなに眠れなくて苦労していたのに、今は身体がポカポカして眠たくて仕方ない。太宰の匂いがする。心臓の音も聞こえる。何時もより熱いけど、あの包帯だらけの大きな手がちゃんと此処にある。
―――太宰が、此処に居る。
「菫?ちょっと菫。流石に風呂で寝たら危ないよ?」
「……ん……寝て、ない…」
「否、完全に半分寝てる反応でしょそれ。眠いなら一回上がろう」
「ヤダ。まだ此処に居る…もっと温泉の効能吸収して帰る……」
「君はスポンジか何かなのかい?」
耳元に水の音と太宰の苦笑が聞こえる。その程度しか外界の事を認識出来ない程、私は既に夢現の状態だった。だからだろう。浮かんだ言葉が思考を介さず、するりと口から滑り出た。
「スベスベ卵肌になったら…太宰、もっと触ってくれるじゃん……」
触れていた左胸の下で、心臓が一際大きく脈打った。子守唄代わりの声が消えて、暫くせせらぎの様な水音が鼓膜を揺らす。しかし私が意識を手放す間際に、もう一度だけ彼の声が聞こえた。
「大丈夫。君の願いは叶うよ」
その言葉に安堵した私は、其の儘微睡みの底に沈んだ。これから先も、この手に触れて貰えると云う幸福に溺れる様に。
―――そして、これは余談だが。
後日フィッツジェラルド氏が今回の温泉旅行の写真をSNSに投稿した結果、チェーンソーを使ったマグロの解体ショー等が海外ユーザーを中心に盛大にバズり、この旅館は一躍大人気旅館の仲間入りを果たした。が、創業始まって以来の集客量に圧殺された旅館から、再び探偵社に悲痛なSOSが届き、社長の指示の下私達は社員総出で旅館のお手伝いに奔走する事となった。そして我が社の天才二大巨頭が花袋君と連携し、情報操作で火消しを完了させ事態が収集する頃には、太宰の云った通り、社長も含めた探偵社員全員がツヤッツヤのスベスベ卵肌に生まれ変わっていたと云う。