hello solitary hand・番外編
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「おっはよう〜菫〜。君の愛しい私が逢いに来てあげたよ〜〜〜!」
「今は昼だ!帰れ青鯖ぁぁ!!」
殺意を一気に限界値まで跳ね上げる忌々しい笑顔を浮かべて、事務室の扉を開いた包帯の付属品に繰り出した俺の蹴りは空振りに終わった。デカい図体でちょこまかと動く小賢しい蓬髪が横に飛び退いて止まった。
「うわ最悪、何で居るの中也…」
「そりゃこっちの台詞だ!追い出しても追い出しても湧いて出やがって、蜚蠊か手前は!?」
「はぁ?サイズ的にそれは君の方だろう?小さくて黒くて、おまけにしぶといし」
「んだとコラ!!」
「ねぇ〜、そんな事より菫は何処だい?私は人類指定害虫たる君と話に来た訳ではないのだよ」
「誰が人類指定害虫だ!彼奴なら此処にはいねぇよ、分かったらさっさと帰れ!!」
「え?何々?粗暴な態度と背の低さに遂に愛想を尽かされて出て行かれちゃったの?うわぁご愁傷様中也、今日はお祝いだね」
「選べ糞太宰。撲殺と絞殺どっちがお好みだ?」
「どっちも痛いし苦しいからパス。抑々君に殺されるなんて御免だよ。絶世の美女でも呼んでから出直してくれ給え」
「分かった、今すぐ死ねやこの人間失格野郎」
口を開けば耳障りな文句しか吐かない糞太宰に、俺は指を鳴らしながら距離を詰めていった。あと一歩で射程に入るといったその時、またしても扉が開き事務室に書類の束を抱えた菫が駆け込んで来た。
「すまない中也、もう少し待って…、あれ?また来てたのか太宰?」
「嗚呼菫!会いたかったよぅ〜〜」
「あ!?手前!」
「うぉっと!?」
「ぎゃふん!?」
その姿を見るや否や、両手を広げて飛び付こうとした太宰を菫は身を翻して躱した。その結果着地点を失った太宰は、事務室の扉とその顔面ごと濃厚な口付けを交わし床に没した。
「うぅ…、酷いよ菫〜…。何故避けるのだい…?」
「す、すまん太宰。つい反射的に…」
「私反射で避けられたの!?」
「はっ、ざまぁねぇなスケコマシ。それより大丈夫か菫?どっか彼奴に触っちまってねぇか?」
「あ〜、有難う中也。私は大丈夫だから、どうかその消臭スプレーは仕舞っておくれ」
「おう、なら良いがよ」
除菌効果付きの消臭スプレーを棚に戻して振り返ると、菫は両手で抱えていた書類の束をデスクに下ろした。
「ちっ、こんなにあったのかよ…」
「はは、仕方ないさ。でも各部署回って集めて来たから、もう必要な分は全部揃ったよ」
「ねぇねぇ、その書類の束は何なのだい?中也へのクレーム?それとも配置換えの嘆願書?」
「んな訳あるか!てか、そいつに触んじゃねぇよ糞鯖!」
「今月の未提出書類と不備書類だよ、太宰」
菫の両肩に手を掛けて、太宰が後ろから書類の束を覗き込んだ。そんな奴の問いかけに、律儀にも菫は懇切丁寧な解答を返してやった。
そう。毎月ポートマフィアの事務担当は月末になるとその月の成果を上に報告する為、担当部署の報告書を纏める“月締め”を行なっている。当然、ここの事務方も“月締め”の為に今月の報告書を纏める作業に追われている訳だが、兎に角その量が尋常じゃない。何せ俺が任されている案件や各部署の報告書や関連書類が、全て此処に集まってくるのだから。更に厄介な事に、“月締め”の為に必要な書類の不備だの未提出だのが見つかり作業が滞っていたのだ。
「と云う訳で、未提出や不備がある部署を片っ端から回って必要書類を回収して来たんだよ。そこに太宰が飛び付いて来るから、反射的に躱してしまったんだ。折角仕分けし易いように順番に回収して来たのに、もし取りこぼしてばら撒いちゃったら目も当てられないからね」
「なぁんだそう云う事。それならちゃんとそう云ってよ。私本当に深く傷付いたのだよ?」
「すまない。だが見ての通り、今はこっちが優先なんだ。何せ提出期限は今日迄だからね」
「ええ?でもそれって単にどこかの無能上司の監督不行届じゃないの?」
「んだとコラ!」
「だってそうでしょう?君がちゃんと部下を管理出来ていれば、こんな手間は掛からなかった筈だ」
「ぐっ…」
「太宰。ポートマフィアはどっちかって云うと実動派の人達が多いから、こう云う書類仕事が疎かになりがちなのは君だって知ってるだろ?寧ろ中也は未提出の部署に発破をかけてくれたんだ。そうでなきゃこの書類だって間に合わなかっただろうし」
「もう、菫は中也に甘いよ。私なら抑々未提出も不備も出させないのに」
「そりゃ手前が恐怖政治敷いてるせいだろうが」
「太宰の下で書類不備なんて出そうものなら、何されるか分かったもんじゃないからな」
「うふふふ。書類仕事を疎かにした悪い子がどうなるか聞きたいかい、菫?」
「怪談噺ならまた今度な。それよりそろそろ離れてくれ太宰。フロア中走り回って流石に暑い…」
そう云うと菫はスーツのジャケットを脱ぎ、椅子の背凭れに掛けた。更にブラウスの袖を捲るとデスクの引き出しから髪留めを取り出し、高い位置に髪を一纏めにした。余程暑かったのだろう。その首筋には汗が一筋伝い、黒いチョーカーに染み込んでいった。
「ごめんな中也。すぐ仕上げるからもう少し時間をくれ」
「構わねぇよ。寧ろ何か手伝える事はあるか?」
「有難う、でも大丈夫だ。後は穴空きになってる所を埋めて、これをファイルに纏めるだけだから。私達だけでやった方が早いよ。ね、三尾さん?」
菫の言葉に、向かい側のデスクに座っていた先任事務員の三尾が微笑みながら頷いた。
「分かった。それじゃあ暫く此処で待たせて貰うぜ」
「良いのか?どんなに早くても二三時間は掛かってしまうけど…」
「嗚呼、今は急ぎの用もねぇからな。それに何かあった時の為にも、俺が此処に居た方が都合が良いだろ?」
「………ウチの上司様が今日も世界で一番上司様」
「おい、大丈夫か菫?」
「嗚呼、待っててくれ中也!二時間で片付けちゃうからな!」
「おう、頼んだ」
にっかりと笑って親指を立てて見せた菫は、椅子に座ると早速作業を始めた。俺は適当な所に腰掛けて、お声が掛かるまで待つ事にした。とは云え、手持ち無沙汰でやる事も何も無く、はっきり云って暇だ。結果俺の眼は自然と、デスクに向かって作業に打ち込む菫に向けられた。
髪を上に纏め遮るものが何も無くなったせいで、今はその首元がはっきりと目に映る。本当に血が通っているのか疑ってしまう程白く透き通ったそこに、黒いチョーカーだけが明確にその存在を主張していた。
それを贈ってやった時の、菫の顔を思い出す。
実を云うと、最初は此奴が本当にポートマフィアでやっていけるのか不安だった。比較的安全な事務方とは云え、ポートマフィアは正真正銘の非合法組織なのだから。今まで堅気として日の当たる世界で生きていた此奴が、夜の闇を受け入れられるのか危惧していた。
だがそれも杞憂に終わった。確かに最初の頃はこの事務方の抱える膨大な仕事量に圧殺され、ゴミ箱の中にエナジードリンクの殻を溢れさせていた。しかし今はしっかり時間内に仕事を片付け、ゴミ箱に投げ捨てられる殻の量も半分になった。それどころか、この事務方そのものの作業スピードが格段に上がったのだ。勿論、単に人手が増えたからと云う単純な話ではない。作業の効率化、無駄の削減、各部署との連携。今までただ面倒な書類仕事を押し付けられていただけのこの事務方が、今や率先して業務態勢の改善を行なっているのだ。
私は中也に計り知れない程の恩があるという話です。だから、貴方に救われたこの命を賭して、貴方に頂いたこの場所で、その恩に少しでも報いる事が出来るよう力を尽くしたいと思います
正しくその言葉通り、菫はこの事務方で十分過ぎる程の成果を上げてくれた。正直菫をここに入れたのは、荒事に駆り出す必要も無く、比較的温厚な先任者が居るからと云う理由だけだった。それがまさか、事務方の業務形態をここまで改善してくれるとは夢にも思っていなかったので、此奴には素直に感心しているし、何より感謝している。
デスクに向かい作業を進める菫は、真剣な眼差しで手元の書類を確認していた。普段はパンツタイプのスーツばかり着て来るのだが、今日は珍しくスカートに黒タイツ、足元はパンプスと云う出で立ちだ。何でもクリーニングに出していたスーツを店側が手違いで別の客に渡してしまったらしく、着るものがこれしか無かったそうだ。しかし、そのせいか今日の菫はいつも以上に雰囲気が華やかに見えた。ここがマフィアの事務方である事実を除けば、普通に企業勤めのOLに見える。普段はへらへらと締まりの無い表情を見せるその顔も、今は凛として涼しげな印象すら感じられて。何となく、その姿から眼が離せなくなった。
「「……………」」
不意に隣人と無言が重なる。そしてその相手は、最悪な事にあの人間失格野郎だった。まだ居やがったのかと口を開きかけた時、俺はそのただならぬ雰囲気を感じ取った。
太宰は俺の横に立って同じ様に菫に眼を向けていた。それだけなら今直ぐにでも外に摘み出してやるのだが、その表情は鋭く張り詰めていた。そう、不本意ながら此奴と組んでいる中で何度か目にしてきた表情。誰もが完遂不可能と諦める難局を打破する方法を考えている時の顔。普段のいけ好かない飄々とした空気はそこにはない。目の前にある全てを捉え、見透かし、掌握する様な、悪魔的頭脳を持つ知恵者の眼。組織の誰もが畏怖し、同時に畏敬の念を抱く、冷血無慈悲で怜悧狡猾なマフィアの眼。そんな鋭い視線を菫に向け、太宰は考える様に口元を覆った。その眉間には僅だが確かに、焦る様な険しい皺が浮かんでいる。
「…………っ…これは、拙いね…」
「? おい太宰、一体……」
俺が問いきる前に太宰は菫の方へ歩み寄った。そして、先程の鋭い視線をいつもの間抜けた笑顔に張り替えて菫に声を掛ける。
「ごめん菫。ちょっといいかな?」
「? どうした太宰、今は…」
「うん、忙しいのは分かってる。でもお願い、少しだけ」
「……何だ?」
「その、男の私が女性の君にこんな事を指摘するのはとても心苦しいのだけど………。タイツ、伝線してるよ?」
「え?」
太宰の言葉に目を見開いた菫は自分の足を確認した。見ると確かに右脹脛の内側辺りに小さな穴が空いており、そこから白い肌が覗いていた。
「うわ、マジか。やっちゃったか〜…」
「大丈夫?予備とかって持ってる?」
「まぁ、あるにはあるが…。今はいいよ、こっちのが優先だし。教えてくれて有り難うな、太宰」
「こらこら、仮にも女性が伝線したタイツを放置するものじゃないよ?直ぐに履き替えておいで」
「否、でも、別に急を要する訳でも無いし…」
「はぁ…。菫?部下の身嗜みがなってないと、その上司まで後ろ指を刺されていまうよ。君はそれでも良いのかい?」
「! そ、それは困る!困る…けど…」
慌てた様に立ち上がり菫は向かい側の席を見た。すると視線を向けられた三尾が柔らかく微笑みながら頷いた。それを見た菫は続いて俺の方を伺い見る。何となく、耳を垂れて項垂れる犬の様に見えた。
「別に構わねぇぜ。そんなに時間も掛からないだろ?行ってこいよ」
「有難う中也…。三尾さんも有難うございます。直ぐ戻りますから…」
俺達に頭を下げると、菫はデスクの横に掛けてあった鞄から予備を取り出して駆け足で出て行った。事務室の扉が音を立てて閉まる。その直後、にこやかに手を振って菫を見送っていた太宰が突然
「っ!?太宰!?」
余りに予想外の事態に俺は思わず奴に駆け寄った。事務室の床に膝を着いた太宰は片手で口元を押さえながら俯いていた。よく見るとその顔には汗が伝い、呼吸がやや乱れている。普段殴られたようが蹴られようが余裕の表情を崩す事がない太宰が、こんなにもあからさまに苦悶の表情を浮かべている。どう考えたってただ事ではない。
「おい太宰!一体どうした!?」
「…っ!?…中也…、まさか君は、何も感じなかったのかい……?」
あらん限り眼を見開き苦悶の表情を驚愕に塗り替えた太宰は、“信じられない”と云う様に俺を見た。だが、此奴が何を云いたいのかがさっぱり分からない。『何も感じなかった』?一体何の事だ?まさか敵襲の予兆か…。だとしても何故太宰にだけ影響が出ている?毒
「…中也、よく思い出すんだ。先程の菫の姿を…」
菫の姿?まさか彼奴に何か敵の異能が仕掛けてあたのか。確かに彼奴は異能も含めて他人を弾き返す。どんなに優れた反則的な異能でも、それが人から発生するものである限り彼奴には触れる事すら出来ない。だが、もし敵の異能が“触れる”以外の条件をトリガーとするタイプであるなら、彼奴にもそれを弾く事は出来ない。しかし、だとしたら何故太宰は菫を外に出した?彼奴に敵の異能が掛かっているのなら、直ぐにでも呼び戻さないと彼奴が危ないと云うのに。
否、それとも何か理由があるのか?さっきの会話だって考えてみれば不自然だ。確かに穴の空いたタイツをそのまま放置しておくのは褒められた事じゃないが、彼奴はちゃんと後で履き替えると云っていた。恐らく月締めが終わるまでは彼奴はここを出なかっただろうし、普段ここを出入りする面子はここにいる三人くらいだ。ビル内の誰かに見られる可能性はあまりに低い。それを態々俺を引き合いに出してまで取り替えに行かせたのは、何か考えがあっての事なんじゃないか。まさか、太宰は菫を巻き込まない為に敢えてこの事務室の外に追い出したのか…。
グルグルと思考を巡らせ押し黙った俺に、太宰が向き直った。嘗て無い程真剣な眼差しが俺を射抜く。深刻な面持ちで、太宰が重々しく口を開いた。
「さっきの菫の格好、エロくない?」
太宰の体は床と水平にすっ飛び、壁に直撃して沈んだ。俺は振り抜いた拳を鳴らしながらそこへ歩み寄る。
「遺言はそれで全部か」
「けほっ、待つんだ中也、私の話をきいてくれ」
「必要ねぇよ。即死ね」
「思い出すんだ中也!さっき迄デスクに向かっていた菫の姿を。君も男なら分かる筈だ!」
「分かるか阿呆!珍しく深刻な顔してやがると思ったら何考えてやがんだ手前は!」
「え?何?そんな事聞いちゃうの?ヤダ〜中也君のエッチ〜」
頬を染めクネクネと身を捩る太宰にもう一発拳を振り抜いた。しかし今度は避けられ、横に転がり出た青鯖が深い溜息を着いた。
「全く君には失望したよ中也。心から不本意だが、それでも君ならば分かってくれると思っていたのに…。どうやら君は体だけでなく脳味噌までお子様サイズらしい。君の相棒として、情けなくて涙が出るね」
「何で俺が扱き落とされてんだよ。巫山戯んな死ね」
「いいかい、よく思い出すんだ中也。君の監督不行届で走り回る羽目になった可哀想な菫は、暑さの余りジャケットを脱ぎ腕捲りをし、剰え髪をアップに纏めた。しかも今日の菫はスカートに黒タイツだ。ここまで云えばもう分かるだろう」
「否、手前が阿呆な事以外何一つ分からねぇよ」
「馬鹿な…、信じられない。髪を纏めた事で普段見えない頸、耳、首筋、顎のライン、それどころか開襟のブラウスも相まって鎖骨までのラインが余す事なく白日の元に晒されているのだよ。これを見て何とも思わないとか、もう男を名乗るの辞めた方が良いんじゃない?」
「手前は人間名乗るの辞めろや、死んでバクテリアからやり直せ」
「更にその開襟ブラウスがまた善い。実に善い。普段はジャケットに隠れてハッキリしない体の曲線が見易くなったし、腕捲りをしている所も中々の高ポイントだ」
「何勝手に人の部下採点してんだぶっ殺すぞ」
「ふっ、そうだね。確かにそれに就いては、流石の私も自分の非を認めざるおえないよ」
「あ?」
「正直私は初めて会った時、菫を過小評価していたんだ。私ともあろう者がこんな重要な真実を見破れないとは、我ながら恥ずかしいばかりだよ。だが今回の事で確信した。矢張り私の仮説は正しかったんだ」
「おい、さっきから何の話してんだよ」
「いいかい中也、落ち着いて聞いてくれ」
まるで任務の時の様な真剣な顔で、否、恐らく任務の時以上に真剣な顔で糞くだらない持論を熱弁していた太宰は、不意に俺に向き直った。そして更に訳の分からない事を言い出すと、自分の両手を目の前に掲げてその指に力を込めた。
「菫のバストサイズ、Cは堅い」
「本当に何の話だ!!」
「今迄確信は無かった。目視で推測するにもジャケットが邪魔ではっきりしなかったんだ。正直最初の見立てでは精々Bくらいだと思っていた。だが、今日の様なブラウス姿なら目を凝らせば凡そのサイズを特定する事は可能だ。あれは確実にC以上の…、恐らくD、否頑張ればEに届くのでは…」
「取り敢えずその指の動き止めろ、十指纏めてへし折られてぇか」
自分の両手を凝視しながらほぼ独白に近い見解を述べる太宰。その指はそこに無い何かを確かめる様に蠢いていた。と云うか、実際に触った訳でもあるまいによく目測だけでそこまで分かるな此奴。碌でも無い女遊びの経験値が成せる業だろうか。否、純粋に最低だと云う感想しか湧いてこねぇが。
「そして何より、ここからが一番重要なのだけど…」
「おい、まだ続くのかよ。もういいだろ、口閉じてさっさと死んでくれよ頼むから」
「今日の菫はスカート姿だった」
「嗚呼、普段見えねぇ足が拝めて良かったな死ね」
「ふっ、甘いね中也。“普段パンツタイプのスーツばかり着てくる菫がスカートを履いて来た”。確かにこれは大変貴重な光景だ。だがそれよりも素晴らしい奇跡が起こったじゃないか…っ」
「なぁ、それ話したら満足か?それ聞いたら死んでくれんのか?」
「黒タイツ」
「…………」
「敢えてストッキングではなく、菫は黒タイツを履いて来たのだよ…っ。しかも、あれは恐らく40デニールの黒タイツだ。分かるかい中也?40デニールだよ!?程よい色合いと透け感で女性の足が最も美しく見える40デニールの黒タイツをっ!あの着るものに無頓着な菫が…。あの、下着の上下すら平気でバラバラのものを着て歩く菫が…っ。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぶんだい!?」
「お前今度またストーカー出来たらその話してやれよ。多分秒で撃退出来るぜ」
「しかも…、しかもだよ!?その黒タイツが伝線して、剰え穴が空くだなんて…。あの位置と穴の空き方からして、恐らく慣れないパンプスで走り回り右足を床に取られた際制御を失った左足の踵が右脹脛の内側を擦ったのだろう…」
「気付いてるか糞鯖、ご自慢の脳味噌が今過去最高に無駄遣いされてんぞ」
「嗚呼、まさかこんな事になるなんて…。私としては菫のスカート姿が見られればそれで良かったのだけれど。嬉しい誤算もここまで来るといっそ恐ろしく思うよ」
馬鹿と阿呆と塵屑を足して濃縮還元した様なくだらなさの極地を目の当たりにした俺は、一人でどんどんヒートアップしていく人間失格野郎に怒りを覚える事にすら億劫になってきた。もう勝手に一人で盛り上がってろとぐったり項垂れていると、奴の言葉に妙な引っ掛かりを感じたて思わず顔を上げた。
「おい待て、お前今何つった?」
「え?だから、嬉しい誤算もここまで来ると…」
「そうじゃねぇ、その前だ。お前“何で菫がスカートで出勤するって知ってた”?」
そう、菫は普段パンツタイプのスーツしか着ない。と云うかスカート姿で出勤するなんて寧ろ今日が初めてだ。抑々今日彼奴がスカートを履いてきたのだって、クリーニングに出していた他のスーツを店側が
…………おい、まさか…。
その時脳裏に天啓の如く舞い降りたある仮説に、米神を嫌な汗が伝う。そんな俺をキョトンとした顔で見ていた太宰が、一転ニヤリと笑った。その悪魔の様な忌々しい笑顔が、俺の仮説を立証する何よりの証拠となった。
「クリーニング屋から菫のスーツ持って行きやがったの手前か糞鯖!?」
「うふふふ。私は毎日仕事を頑張っている菫の代わりに、気を利かせてクリーニング店からスーツを受け取ってきてあげただけだよ?ただちょぉっと渡すタイミングに恵まれなかっただけさ。ほら私幹部だから。普通ならアポ待ち一ヶ月の超多忙職だから。中々時間が取れなくてね」
「ならとっとと仕事に戻れや!否、その前に彼奴のスーツ返しやがれ、このストーカー野郎!!」
この馬鹿に人並みの良心や常識などハナから求めてなかったが、まさかここまでやるとは。このポートマフィアで太宰が打ち立てた血のリスト。僅か二年余りで組織を急成長させる程の冷酷無慈悲な悪行の数々。誰もが恐れ慄くその所業を不本意ながら俺は誰よりも近くで見てきた。時には当事者としてその悪魔の所業に一役買った事だって一度や二度じゃない。だが、俺は今日程此奴を脅威に思った事は無い。否、恥を忍んで云えば最早恐怖すら感じている。正直さっきから鳥肌が止まらない。
はっきり云おう。
此奴マジで気ん持ち悪ぃなっ!!
「嗚呼でも、本当に危なかったよ。あれ以上あの姿を見せつけられていたら、きっと私は我慢が利かなくなってしまっただろう。寧ろよく耐えたと自分で自分を褒め称えたいよ……はぁ、本当に無理、あんなの反則じゃないか、破れた黒タイツとかもう……
あそこから指を挿し入れたい…」
「本っ当に気持ち悪ぃなお前!!」
本日最高の悪寒が体を駆け巡り、全身から汗が噴き出した。体中をもれなく鳥肌が覆い、寧ろ自分は今鳥になったのではないかと謎の精神錯乱まで起こした。気温が下がった訳でもないのに体感温度が氷点下すら優に超えた様な錯覚を覚える。そんな嫌悪感と恐怖心で震える俺に、当の悪寒の元凶はつまらなさそうな顔を向けた。
「ちょっと〜、何なのささっきから。そう云う中也はどうなんだい?」
「は?」
「君だっていつもと違う菫の姿をガン見していたじゃないか。私が気づいていないと思っていたのかい?」
「べ、別にガン見はしてねぇよ!適当吹くんじゃねぇ!」
「へぇ。一分以上瞬きもせず、菫の事を蛞蝓らしい粘着質な視線で舐める様に見てた癖に、よく云うよ」
「なっ!?」
「まぁでも、それも仕方の無い事だよね。私達は世間一般で云えば所謂“お年頃”ってヤツなのだから。異性を見てあれこれとイケない想像に想いを馳せても、誰もそれを咎める事は出来ないさ。だって生物としての性がそうさせるのだから。謂わばこれは逆らえない本能なのだよ中也君」
「タイツの穴に指突っ込みてぇとか悶える生物なんざ一匹残らず絶滅しちまえ」
「嗚呼、最初は一本から始めて羞恥に赤く震える表情を愉しみながら二本、三本と少しずつ指を挿し入れて、最後にはあの艶やかな漆黒の下に隠された白雪の様な柔肌を奥へ奥へと暴いてしまいた…」
「だ・か・ら、気持ち悪ぃって云ってんだろうが!一旦黙れ頼むから!!」
「ねぇ中也〜?こんな時だけ良い子ちゃんぶるのは止めなよ。君だって菫のあの姿に何か思う所があって、思春期の男子中学生さながらに彼女をガン見していたんだろう?恥じる事はない。さぁ、君も男なら堂々と宣言してみせるがいい。菫のどの辺が一番エロかったか!!」
「誰が中坊だコラ!俺は別にそんな眼で彼奴の事は見てねぇよ!“仕事頑張ってんな”って感心してただけだ。手前と一緒にすんな!!」
「え?本気?それ逆に大丈夫なの中也?一回首領に診てもらった方がいいんじゃない?」
「手前が頭診て貰えや色ボケ幹部!!」
もう叫び過ぎて喉の奥に鉄の様な味が滲んで来た気がする。コレがこの組織に於いて首領に次ぐ統率権を有していると云う事実に頭を抱えた。抑々今日の菫の格好だってそこまで騒ぐ程のものじゃない。確かに普段より体のパーツが目につき易くなっていたがそれだけだ。別段扇情的な服装をしていた訳じゃない。同じ格好の女なんて、それこそこのビル内を探せば数十人は見つかる。だと云うのに、それだけで此処までテンションを上げられる此奴はどう云う思考回路をしているのか。動物の方がまだ理性的だ。そうだ、ただスカート姿でジャケットを脱いで袖を捲っただけ。髪だって走り回った暑さに耐えかねて上に纏めただけで……。
「…………」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、脳裏を過った。透ける様な白い首筋と、そこに巻き付いた黒いチョーカー。真雪と見紛う白の上を伝い、軈て黒く主張する帯に滲んでいった、一筋の汗。
「………………………」
「? 中也?」
「まぁ、確かに彼奴は色が白ぇから…、チョーカーの黒がよく映えるな……っては…………思ったがよ………」
「…………」
「…………」
「……………うわ、ナニソレ気持ち悪っ」
「手ん前ええぇぁぁ!!」
真顔で一歩引いた太宰の首根っこを引っ掴み、俺は全力で振り回した。
「いやいやいやいや、それはナイ、流石にナイよ中也。つまりそれってさ、菫の首に自分の首輪が着いてるの見てニヤついてたって事でしょ?自分の好きなパーツに態々所有権主張するとか、どんだけ独占欲強いの君。うわ本気で怖い。完全に好きな相手を束縛した挙句監禁とかしちゃうタイプだよ。今後私の半径三
「手前がっ…!手前はっ…!手前にだけはっ…!!」
血の気の失せた顔でナイナイと首を振る糞太宰に、訳が分からなくなる程の憤怒が噴き上がる。鬱陶しい包帯が巻き付いた首をガクンガクンと振り回しながら怒りの咆哮を上げていると、その時不意に事務室の扉が開かれた。
そして、反射的に扉の方を見た俺と太宰は、入室者のその有り様に絶句した。
「…ただいま。すまない、ここってタオルあったっけ…?」
扉を開けて入ってきた菫は、光の消え失せた眼で俺達にそう問うた。その姿は頭の天辺から爪先に至るまで余す所なく水を含んでいる。照明に照らされて艶めいた髪からポタポタと水滴を滴らせ、正に濡れ鼠と呼ぶに相応しいずぶ濡れの菫が忌々しそうにスカートの端を摘んだ。
「何か、謎の幼女が点火した花火振り回しながらビル内を駆け回ってるらしくてな…。火気に反応したスプリンクラーに降られてこの様だ……。タオルが無いにしても、何か拭くものはあっただろうか。これじゃあ仕事にならない…」
その時俺と太宰の頭には、図らずも同じ人物が浮かんでいただろう。俺は直ぐ様自分のコートを手に取ると、そのまま菫の肩に被せた。
「馬鹿かお前!そんな格好でビル内彷徨くんじゃねぇよ!!」
「? 中也?」
不思議そうに菫が首を傾げたのは分かったが、今はそれを見る余裕もない。嗚呼、なんだって今日はこんな事ばかり起きるんだ。
「中也、有難いんだがコートが濡れてしまうよ。確かに私はびしょ濡れだけど、そんなに寒くはないから大丈夫…」
「そう云う問題じゃねぇよ!いいから黙って着とけ弾き馬鹿女!てか、もうお前帰れ!帰って風呂入って飯食って寝ろ!!」
「え?否、何で…!?帰れる訳ないだろ。まだ仕事が…」
「仕事なんざどうでも良いんだよ!んなもん俺が片付けといてやる!!」
「おい、中也…?本当にどうし…」
「ごほっ!!はっ、はぁっ…お、お呼びですか…。太宰さごほっごほっ!!」
「えっ?やつが…じゃなかった。芥川さん!?」
またしても開け放たれた扉。其処から崩れ込む様に、息を乱した芥川が駆け込んで来た。元々肺が悪くよく咳をしているのを目にしていたが、今は咳を通り越して喘息の発作の様に噎せ返っている。
「遅い。五秒の遅刻だ。三十秒以内に来いと云った筈だよ、芥川君」
「げほっ、申し訳、ありまごほっごほっ!」
後ろに居た太宰がパタンと携帯端末を閉じながら冷たい声音で芥川を叱責する。息も絶え絶えになりながらも謝罪を口にしようとした芥川は、そのまま膝を着き本格的に咳き込んだ。
「ちょ、待ってて下さい芥川さん!今水を…」
「おい大丈夫か芥川!?三十秒って、手前一体何処から走って来た!?」
「ごほっごほっ、拷問、部屋から…げほっ」
「地下じゃねぇか!?此処何階だと思ってんだ、寧ろよく来られたな!?」
「だ、太宰さんに…重要任務が、あると、げほっ!」
「その通りだ。芥川君、君に最重要任務を命じる。菫を無事に自宅まで送り届けろ」
「「「は?」」」
咳き込む芥川、その背を摩ってやっていた俺、水の入ったグラスを持って駆け寄って来た菫。三人の疑問符が重なった。しかしそんな俺達の反応を意にも介さず、腕組みをした太宰は芥川に云い放った。
「この事務室から自宅まで、可能な限り人目に付かないルートを選び一切の障害を排除しろ。君を含めて何人たりとも、絶対に、指一本菫に触れさせるな。以上だ。」
「ちょっ、太宰…殿っ!仰っている意味が分かりません。本人を置き去りにして話を進めないで頂きたい!」
「中也の云う通り、今日はもう帰り給え菫。そんな状態じゃあ、もう今日の業務継続は無理だ」
「否、別にただずぶ濡れになっただけですし、タオルや着替え位他のフロアに行けば手に入るで…」
「「駄目だ!」」
「っ!?」
「あ、えっと…そう!駄目だよ菫。服は替えられても髪は乾かせないだろう?こんな濡れた髪を放置して仕事をしたら風邪を引いてしまうよ!ねぇ中也?」
「お、おう、そうだ菫!お前最近月締めに追われてただでさえも疲れが溜まってんだから、もう今日は無理しねぇで帰って休め。な?」
「……分かりました。お二人がそう仰るなら…」
芥川が居るせいか、嘗ての堅苦しい言い回しで渋々了承した菫は帰り支度を始めた。その間、自分が置かれている状況を理解も納得も出来ていないであろう芥川が、その戸惑いをありありと顔に浮かべて太宰を凝視していた。それに気づいた太宰は、芥川の肩に手を置くと普段聞いた事も無いような真剣な声で語りかけた。
「『理解出来ない』と云う顔をしているね、芥川君。君が戸惑うのも当然だ。だが許して欲しい。これは組織の中でも限られた人間にしか明かせない極秘任務の一端で詳細を話す事は出来ないのだよ。けれどこれだけは云える、この任務を任せられるのは君しか居ない」
「っ!?」
「例え血に飢えた悪鬼羅刹が現れようとも君の敵じゃあない。君であれば無事に菫を守り抜き自宅まで送り届けてくれると、そう私は確信している。お願いだ芥川君、今私にとって最も信用出来るのは君だけなのだよ」
「だ、太宰さん…。っ…勿体なき、お言葉…。よもやそこまで
「引き受けてくれるね。芥川君」
「はい…っ!喩えこの身が砕けようと、首だけになろうとも臼井めは
「有難う芥川君。矢張り君に頼んで良かった」
「太宰さん…っ」
「あと、もし道中で菫の姿を目にした男が居たら、迷わず締め落としてしまって良いからね。相手が誰かとか確認する必要は無い。五大幹部の名の下に全て揉み消してあげるから、記憶が消える迄酸素の供給を絶ってやるんだ。良いね」
「はいっ、太宰さんの仰せの儘に!」
目の前で繰り広げられる茶番に、俺は芥川の将来を案じた。割と本気で。て云うかあの野郎、菫の異能力忘れてねぇか?まぁ何にしろ助かった。菫を帰らせるにも、今の彼奴を一人で帰らせるなんて論外だ。だからと云って俺達が送ってやると云うのも問題がある。しかし、太宰の命令を受けた芥川が護衛に着くと云うなら安心だ。彼奴なら変な気を起こす事もないだろう。
すると帰り支度を終えた菫が、おずおずと進み出て俺の袖口を摘んだ。俺にだけ聞こえる様に零す小さな声が鼓膜を揺らした。
「すまない中也。よく分からんが、仕事を途中放棄する事になって…」
「構わねぇって云ってるだろ?お前は何も気にしなくて良い。安心してゆっくり休め」
「うん。あ、そうだ。コート有難う、返すね…」
「そのまま着とけ!絶対に脱ぐな!!」
「…え、否でも、これお高いヤツだろ…。これ以上借りてる訳には……」
「んな事気にしなくていい!寧ろ家の扉潜る迄絶対に脱ぐなよ、絶対に!!」
「お、おう……。分かった。すまない、有難う」
「臼井。支度が整ったなら行くぞ。付いて来い」
「あ、はい。宜しくお願い致します、芥川さん」
最後に俺達に小さく手を振った菫は芥川の後を追って扉を潜った。そして扉がしまった音を合図に、俺と太宰は膝を折って崩れ落ちた。隣で床に頬を預けた太宰が、体内の酸素を全て絞り出す様な特大の溜息を吐いた。
「はぁ〜〜〜…。良かった、やっと出てってくれた……」
「おい、糞太宰…。云いたかねぇが今回ばかりは褒めてやる……。よく耐えた」
「やめてくれない。君に褒められるとか気持ち悪くて鳥肌が止まらないよ。と云うか、君私の事何だと思ってるの?」
「理性蒸発した万年発情野郎」
「自分の首輪が巻かれた首筋見て、はぁはぁしてた君に言われたく無いよ」
「してねぇよ!勝手に捏造すんじゃねぇ!!」
「もぅ、うるさ〜い。黙っててよ中也。今それどころじゃ無いんだから……」
「ちっ、その言葉そっくりそのまま返してやるよ。ったく……」
「…………」
「…………」
「…………あれはいかんよね」
「…………嗚呼、いかんわ」
床に座り直した俺は帽子を目深に被った。身体中から湧き上がる熱が収まらず、脳味噌が沸騰しそうな程熱い。太宰も同じ様で、冷たい床に今度は額をグリグリ押し付けている。不本意だが、此奴も俺と同じものを瞼の裏に見ているのだろう。
濡れて艶を増した髪、そこから滴る雫が伝う頬と首筋。
水を含んだ衣服が纏わりつき、此れでもかと露わにされた全身の曲線。
そして何より、水分と共に透明感を得た薄手のブラウス。その向こうに透けた胸元の―――
ゴン!
物理的に邪念を払おうと床に頭を打ち付けても、クレーターが広がるばかりで脳髄に焼き付いた映像が消えてくれなかった。
ピリリリリリリ!
その時俺の携帯端末が高々と電子音を響かせた。画面に表示された相手を確認して、俺は直ぐに通話釦を押した。
「はい、中原です」
『嗚呼、中也君!助けてくれないかい?エリスちゃんが、エリスちゃんが〜。自分で花火をやってみたいって強請られてやり方を教えてあげたら、花火を持ったまま何処かに行ってしまって……っ。今皆で探しているんだけど、全然捕まらないんだ。お願い、手伝って〜!』
「…………首領?」
電話口の相手を悟り顔を上げた太宰は、過去最もマフィアらしい顔をしていた。一切の慈悲も人の心も持ち合わせない、冷血にして冷酷な氷の貌。そのまま太宰は無言で俺に手を差し出した。俺は首領に一言断って太宰に端末を手渡してやった。
「すみません首領。その前に太宰から話があるそうです……。あと、流石に今回は擁護出来そうにありません…」
『え?ち、中也君?どうしたの?と云うか何故そこに太宰君が…』
「お疲れ様です、幼女探しに精が出ますね首領?」
『だ、太宰君!?』
「知ってますか?貴方の所のエリスちゃんが点火した花火を持って走り回るせいで、今このビル内はそこかしこでスプリンクラーが作動して大騒ぎだ。教えて下さいよ首領。利益と合理性を絶対とする貴方が、一体どんな崇高なお考えをもってこんな空騒ぎを最適解としたのかを」
『あ…、いやぁその…。別にこれはそう云うのではなくてね……』
「へぇ、では首領は何の意味もなく、このビル内を水浸しにさせたわけですか?この組織の長である貴方が?あれだけ常日頃から組織の利益と繁栄の為に身を粉されている貴方が?この何の意味もなく何の利益も無い茶番を繰り広げている訳ですか?」
『…………すみません』
「次に同じ様な事が起きたら私一月仕事放棄して本気で雲隠れしますからね覚えておいて下さい』
一息に云い切ると太宰は通話を切った。そして端末を俺に放って寄越すとゆらゆらと立ち上がった。
「おい。何処に行くつもりだ……」
「エリスちゃん捜しの序に頭冷やして来る。多分未だビル内でスプリンクラーが作動してるだろうし、丁度いい…」
「待て」
「何?心配しなくても、ちゃんと見付けたら首領の所に…」
「俺も行く」
「……良いの?菫のやり残した仕事、今日が提出期限なんでしょ」
「仕事は片付ける。だがその前に水でも被って熱冷まさねぇと、頭が真面に機能しそうにねぇんだよ……」
「……ま、別に私には関係ないし。好きにすれば…」
「嗚呼、そうさせてもさうわ。悪ぃな三尾、そう云う訳でちょっと外す。すぐ戻るつもりだが、其れ迄一人で大丈夫そうか?」
ずっと後ろで静かに着々と月締めを進めていた三尾に声を掛けると、微笑みを湛えた顔で頷かれた。この騒動で一番割を食う事になってしまった先任者に申し訳なく思いながらも、俺は太宰と一緒に事務室の扉を潜った。取り敢えず出来るだけ早く頭を冷やして菫の穴埋めに入らなければ。そう決意して、水の滴る阿鼻叫喚のビル内を元凶たる幼女を探して駆け抜けた。
扉が閉じた音が響き、それきり静寂に包まれた事務室。
その中で一人無言で仕事をこなしていた老年の紳士は、扉を見つめて微笑み―――そして、口を開いた。
「若いなぁ…」
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