信じる先はどちらか
そう願った瞬間、ゆいの体は突然呪縛が解けたように自由になる。いきなりの事だったこともありゆいはその場に思わず手をついてしまう。
カサッ
大きな音だっただろうか。葉っぱが音を立てて崩れる。幸いというべきなのか、ゆいは声を出さなかった。
しかし、その瞬間、遠くにあったはずの気配がどんどん近付いてくるのを感じる。
「……む、無理……」
思わず諦めの声が出る。あの目は一体どこに付いているのだろうか。
あれは頭?あれが胴体?あれは何なのだろうか。ゆらゆらと蠢くその物体は実体を持つのか持たないのかもわからないほどにぼんやりと映し出される。
この前はよくわからなかったけれど、物の怪ってこういうものなのか、なんて。まるで狙われているのが嘘みたいに客観視していた。
(だめ……逃げなきゃ)
足をどうにか立ち上がらせようとするが震えて上手く立ち上がれない。
一度立ち上がった後また倒れ込んでしまったゆいのほんの数歩先に口を裂かせながら近付いてくる物の怪には気付かなかった。
そう、ほんの数歩先。
「い、いや……っ……!」
か細い悲鳴を上げるとゆいは咄嗟に落ちている木の棒を拾って物の怪に投げつける。しかし、それは物の怪を遠ざけるどころかスピードを早めている行為と何ら変わりない。
ほんの数歩先にいた物の怪がゆいのほぼ目の前に立ちはだかった時、流石に諦めを覚えた。
(もう本当におしまいだ)
あぁ、神様。
この世に未練がないとは言い切れないけれど最後に出会えた彼女達はとても優しくて不可解な存在でも信じてみたくなりました。
なんて心の中で最期の言葉のように芝居じみた台詞を唱えると突然脳内に知らない女の人の声が響く。
『高宮ゆい。君は神に愛されし聖なる少女。ここで死ぬ選択肢を選んでも儂は困らんが残された人々の気持ちを考えたらどうかな?』
「っそんな事言われたって……!どうしたらいいかわかんないよ……!」
誰だかもわからない人物の台詞。だけど。何故だか聞いたことがあるような気がして。そう、あれは確か。
ーーーあれ?
何だったかな。とっても大切なことだった気がするのにどうしても思い出せない。
「ひっ……!」
そうだ。考え事をしている場合じゃなかった。
何処か不気味な雄叫びを上げると物の怪はゆい目掛けて今にも襲い掛かろうとしている。何が起こっているのかも把握出来ずただただぼんやりとその様子を眺めるしかなかった。
「悪いけど消えてくれないかな……っ!!」
目を瞑って覚悟を決めた時だった。
突然場にそぐわない可愛らしい声と物の怪の悲鳴が耳に響く。
恐る恐る目を開けると特徴的なミントグリーンの髪をツインテールに結った吸血鬼。
「……レティシア、ちゃん……?」
そのままゆいを守るように目の前に立ちはだかるとレティシアは髪をなびかせながら振り返る。そのまま流れるような動きでゆいの体をふわりと持ち上げるとレティシアは微笑む。何も怖いことはないんだよ、と言われているような。思わず見蕩れてしまうような微笑みだった。
「えへへ、遅れちゃった。ゆいちゃんの霊力辿りやすくてよかったぁ。本当にぎりぎりだったから見つけた瞬間どうしようって思っちゃった」
バツが悪そうにはにかむレティシア。今だけは霊力があってよかったと感じる、今だけは。レティシアはぴょんと飛び上がると宙に浮く。あまりに突然の事だったせいで舌を噛みそうになった。
というか、噛んだ。
「……さて。こいつら、何体くらいかなぁ。えへへ、ちょっとは私のこと楽しませて、ね?」
突然レティシアの視線が鋭くなる。先程までの可愛らしい雰囲気は何処へ。今の彼女の目は獲物を狩る狩人そのものだった。
微笑みこそ消えていないものの目は完全に死んでいたしずっと眺めていたら殺されそうなそんな気がしてしまう。
「のあのあ来ないしゆいちゃん抱きかかえたままじゃないと厳しいか〜。えっへへ!でもこの人数ならさぁ…“殺れる”よね?」
そう呟くとレティシアは突然物の怪の方に飛びかかる。一瞬何が起きたのかわからず目の前がちかちかしてしまう。
「あっははははっ!!とっても綺麗に、周りが羨んじゃうくらい残酷に!殺してあげるね!!」
レティシアは心から楽しそうに短剣(のようなもの?)で物の怪の目と首のあたりを狙って刺していく。物の怪はこの前のリンリンの時同様、声になっていない叫び声を上げながら消滅していく。
器用に物の怪からの返り血は全てゆいに被せないように向きを変えてくれている、が。その気遣いはとても有難いとは思うのだがこの状況でそこまで気が回るのは少し異常だとは思う。
「……何こいつら。血の匂いが異臭過ぎて飲む気にもなれないよ」
あからさまに舌打ちをすると、チェーンを胸元から引っ張り出して短剣にくっつける。そして、そのチェーンをくるりと大きく一回転させると目の前にいた複数の物の怪に向かって巻き付かせる。
「……。ゆいちゃん、目瞑っててね」
瞼のあたりを優しく押さえつけられる。視覚が使えないとなると、嗅覚と聴覚だけが頼りになる。目を瞑っててと言われるくらいだからあまり良くないことが起こるのだろうか。予想が出来ないだけに少し怖かった。
カラカラカラ
チェーンとチェーンがぶつかり合う耳に痛い音が響く。そして、何かがぐちゃぐちゃになるような耳障りな音。近くでは聞きたくないような音が殆ど耳元で不協和音を奏でる。
「あぁ、やっぱり。きったないなぁ」
そして、レティシアの感情の篭らない冷たい声。声にならない叫びとその音らが混じりあって耳を塞ぎたくなる。
「じゃあ、さようなら!」
その言葉を合図に周りの重苦しい空気が軽くなる。何があったのかは何もわからない。想像も出来なかった。そもそも、教室で見たレティシアと今のレティシアの雰囲気が全く異なっている。あまりの恐怖と自分でも何に対してなのかわからない不快感にレティシアの手が瞼から離されたことにすら気付かなかった。
地上に下ろされてふわっとレティシアに微笑まれてからようやく全てが終わったと理解した。初めて会った時のレティシアだ。
「大丈夫?だったかな?」
「あっ、はい……。あ、ありがとうございました」
「ううん!これが私のお仕事みたいなものだから!もしかして何か幻覚みたいなものとか見た?気付いたら教室にいなかったからドキドキしちゃった〜!」
向日葵の花のようにぱっとキラキラした微笑みにドキッとしつつも、先程のレティシアを思い出す。完全に目には生気が感じられず、強い憎悪の念すら感じられた。
「……んん?どうかした?」
顔に出ていたのだろう。レティシアは困った顔でゆいの顔を眺める。
やはり、先程のレティシアは自分の妄想だろうか?もしかしたら、物の怪には現実とは違うものを見せる能力があるのかもしれない。
「い、いえ!何でも……ないです」
「……えへへ、おかしなゆいちゃんだなー!じゃあ、桜子さんのお家まで送るね。私にはみぃちゃんみたいに手を繋ぐと気配を消せる能力とかないけど、手繋いだほうがいい?安心出来るかな?」
そう言うとレティシアはゆいに向かって手を差し伸べる。
しかし、さっきの事を思い出すと震えが止まらないくらい怖くなる。いつ何処で彼女がああなってしまうのかがわからない。
ゆいが教室を出て行ってから随分と時間が経っていたのだろう。
夕陽で辺り一面が真っ赤に染まっていた。
優しく微笑みながらゆいの反応を待機しているレティシアはとても愛らしかった。それこそ、現実味がまるでなくて恐ろしいくらいに。
(やっぱりさっきのは妄想、なのかな)
ゆいは数秒悩んだ結果、レティシアの善意に甘えることにした。
「あ、えっと、お願いします……!」
「うん!いいよー!というか、やっぱり私もゆいちゃんと仲良くなりたいから!……る……け」
はて、最後はなんと言ったのだろう。突然レティシアは小声で何かを呟いた。あまりにも小さな声だったせいで聞き逃してしまったがレティシアは微笑みを崩さない。
(見間違い……かな)
「なぁに?そんなに見つめられると照れちゃうな〜」
にこっと微笑むとレティシアはそのまま前を向く。真っ赤な瞳に映る景色がどのようなものなのかはわからない。
だけど。今優しくしてくれてるのが本物じゃないんだとしたら。
(それはとっても寂しいな)
なんて。それはただのわがままなのだけれど。