18続、惚れたら負け
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惚れたら負け、という言葉をどこかで聞いたことがある。
恋愛における言葉だが、あながち的外れな言葉ではないと思っている。どこの誰が言い出したかは分からないが、うまいことを言ったものだ。
さてその言葉が真実だとしたら、この負けず嫌いな私が完敗であると自覚している。
彼女が顔を見せない日はおのずと機嫌が悪くなり、共に働いているという男の名前が出れば不愉快に陥る。自覚しないわけにはいかないほどの症状。
勿論彼女も私に不器用ながら愛情表現をしてくれる。慣れないお菓子を焼き、触れれば色づいた紅葉のように顔を赤くする。
しかしおそらく彼女は分かっていない。その些細な行動や表情がどれほど私の心を揺さぶっているのか。
全てを正直に表情に出せる彼女と違い、表に出すことが苦手の私の方が重症なのだ。
人に関心など持たず、愛だの恋だのをまるで理解していなかった私がこれほどにさせられるだなんて、一体誰が想像しただろう。
愛するなど知らなかった。親にすら捨てられ、愛される事もせず、ただ謎を解き明かす事にしか喜びを感じなかった。
それなのに、たった一人の女性にこんなにも胸を苦しくさせられる。
眩しい笑顔が。真っ直ぐな言葉が。
全てが、私を苦しめる。
そして不安にさせられる。
こんなくだらない人間が、いつまで彼女に愛して貰えるのかと。
惚れたら負け
その日彼女がやってきて、私におずおずと差し出したのは紅茶のパウンドケーキだった。
珍しく見た目も美味しそうだった。正直にそういうと案の定悔しそうに口を歪めた。
そんな見慣れた表情が見たいがために、いつも憎まれ口を叩いてしまう自分もかなり幼稚だ。
一切れ口に入れると、紅茶の香りが口に広がるなんとも柔らかなお菓子で、思わず唸ってしまいそうだった。
おそらくあまり料理などをするタイプではない彼女は、驚くほどの腕を時々見せつける。(どうやらかなり失敗を重ねているらしいが)
ただ私のために作ってきたという事実だけでも大変なスパイスだと言うのに、さらにこんな美味であっては確かにとんでもないことになる。
素直に美味しいと褒めると、また嬉しそうに笑う。
たったそれだけの事なのにやはり愛しさに溺れる。
食べたら無くなってしまう彼女の菓子に名残惜しさを感じてしまう。愚かな。
満足そうにした彼女は背後にある本棚に気付いて尋ねた。
「わ!竜崎、これどうしたんですか?」
声が弾んでいるのが分かる。私は正直に告げた。
「ワタリに用意させました。あなたの時間潰しになればよいなと」
「え…私?」
驚いたように呟いた彼女に呆れる。
他に誰がいるのか。
どこからどうみても彼女のためのものだ。
あなたの好みを考えてワタリに指示して準備させたのに、まるで鈍感な人だ。
この人と親しくなってから一つ意外に思っているのは、これほど気も強くて言いたい事を言ってきた彼女が、自分の希望や欲望は殆ど言わないという事だ。
思い返してみれば、まだ何の関係でもない頃。口煩いものの確かに彼女は欲しい物などを希望したことはなかった。
この部屋へとやって来ても仕事に追われる私の隣で文句を言うでもなくじっと本を読んだりするのみで空気になろうとしてる様子までわかる。
こちらの電話番号も知らず、私の本名すら知らないのに聞いてこようとはしない。
仕事で1ヶ月連絡もよこさず放置したのにそれを責める事もせず、ほんの簡単なフォローすら今後はいらない、という始末。
詳しくは無いが普通の女性なら呆れかえっているのではないだろうか。いくら一般的な感覚が欠落している私ですら分かる。
本来ならば名を呼びあい、電話をし、頻繁に外に出かけるのが通常なのだろうが。
…彼女はそれを何も求めてはこない。
理解のいい人だ、と一言で簡単に済ませてしまえれば楽なのに、私はそれが不安でならない。
求めることすらしないほど本当は私に無関心なのではないか。
それとも溜まりこんだ不満が爆発しある日突然隣からいなくなるのではないか。
そんな事ばかり考えている。
きっと彼女は知る由もない。私の心の葛藤を。
いつまでもいつまでも私の隣にいて欲しいと思っている心を。
だからあなたに贈ったのだ。多数の本を。
それを読みながらでも、これからも私の隣に座っていて欲しいという希望なのだが。おそらく伝わっていない。
いつも彼女が持ってくる本から傾向を読み、既読したものと被らないよう用意したものたち。
「本当に嬉しいです、竜崎、ありがとうございます!」
振り返れば驚いてしまうほどの明るい笑顔で彼女はそう言った。
一瞬戸惑ってしまうほど。
こんな簡単な贈り物に素直に笑ってくれる彼女にたじろいだ。
なぜ、そんなにも眩しく笑えるのか。無欲にもほどがある。
微笑みながら本を選ぶ横顔を見て自分もつい顔を緩ませた。
パソコンを一台手にし、いつものソファへ移動する。彼女が隣にいなくては、仕事もつまらない。
少し距離をあけて彼女は座り、早速本を開いた。それはそれは楽しそうに微笑みながら。
表情が豊かすぎるこの人はただの本を読んでいるだけでも一人百面相をする。おそらく本人は気がついていない。
そんな横顔が好きで、紅茶を飲むフリをしながら盗み見てる自分がいる。
重症だ。知ってはいたが。
手を伸ばせば届く距離にいる彼女を盗み見て悦ぶなど。
「あなたが読書家とは少々意外でした」
私が声を掛けると、ひょいと肩を上げてこちらを見る。
「結構言われるんですよねそれ。」
「活字苦手そうです」
「遠回しに馬鹿と言ってますね?」
「馬鹿とは言ってませんよ。イメージです」
「どんなイメージなんですか…漫画も好きなんですけどね。小説ってほら、想像力広がるから!楽しいんですよ!竜崎はしません?」
「そんな時間ないので。子供の頃は読んだ事もありますが」
「へえ!何を?」
「シャーロックホームズなど」
「王道の探偵!」
彼女は声を上げて笑う。一体何が面白いのか私には全然ツボがわからないのだが。
「…図書館がね、居場所だったんです」
ポツリと彼女が呟いたのを聞き、隣を見た。
小さな文庫本を握りしめてどこか寂しそうに言う。
「おじさんの家に引き取られた後。どこか馴染めなくて、学校終わった後図書館で本を読んで過ごしたんです」
「……」
「こう見えて小学生の頃は気が弱くて、中々友達も出来なくて。本が友達でした」
小さく笑うその表情には哀愁があり、つい言葉を忘れた。
「だから未だに読書は好きです。友達ですから」
彼女の生い立ちはよく知っていた。
その希望を言わない性格はそこから来ているのではないかと思ってはいた。
私には分からない感覚だった。ワイミーズに入った後からすぐに才能を見出されワタリに好き放題させてもらった。
仲の良くない血の薄い者に引き取られ気を使いながら生活するなど、経験していない。
それにプラスして最後の悪行。
正直普通の人間なら歪んでしまうほどの経験だと思う。彼女がここまで真っ直ぐに育っているのが不思議でならないほどだ。
そう、不思議だ。
この人は不思議なのだ。全てが。
辛い人生を経験しながらも笑い、正直で真っ直ぐで、強いと思えば弱く、脆い。
それがまた私の心を掴んで離さない。
「…辛い事を思い出しませんか」
私が尋ねると、彼女はあっけらかんとわらう。
「まさか!むしろ忘れるんですよ、違う世界に行けますからね!」
「違う世界もいいですが。あなたがいる世界はここですよ。私の隣です。忘れないでください」
ふと彼女の瞳が光る。私と目が合う。
ああ、この真っ直ぐで寂しげな瞳。
どこか苦手でそれでいて、狂おしいほど恋しい。
「忘れませんよ…忘れられませんよ。辛い事も多かったけど、今私はこの世界が最高に幸せですからね」
そんなまさに小説にでも出てきそうな台詞をサラリといいのけた彼女に、愛しさが溢れる。
抱きしめたい衝動を今日ばかりは堪えた。どうもそれ以上の事を我慢出来そうになかった。
私がそんな事を思っているなど、想像もしてないだろうに。
惚れたら、負け。
私は今日も完敗で、白旗をあげるのだ。
