12ただいま
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手掛けていた仕事は9日間で全て終えた。あとはすぐにでも日本へ飛び立つ予定だった。
それが寸前になって、現地の警察からまた依頼が来た。
正直そんなもの断ってすぐにでも日本へ帰ろうとしたのだが、内容が内容だった。
ため息をつきながら渋々依頼を受けてみれば、現地の警察のずさんな捜査内容に微々たる情報。
思った以上に時間を取られ苛立ちが隠せなかった。
普段なら、別にここまで苛立つ事などないのだが。
自分で原因はよく分かっていた。少しでも早く日本に帰りたくて必死で9日で仕事を終えたのにまさか延長させられるとは。
2週間と言っていた約束はとうに過ぎてしまった。
元から少ない睡眠を更に短縮させて必死に事件に齧り付いた。
それを見てワタリはなぜか微笑んでいた。
誰かに会いたいなど今まで思った事がなかったため自分自身戸惑った。
離れて気付かされる自分の依存。どれほどあの人に夢中で、あの人の存在に助けられていたのか。
今、何をしてますか。
また辛い食べ物でも食べてますか。
お酒を飲みすぎていませんか。
返事のくることのない疑問を、柄にもなく心で呟いた。
ワタリの運転する車が止まった時、雨はまだ強くボンネットに当たっていた。
「L、傘は」
「いい。また連絡する」
「はい、ごゆっくり」
車から足を下ろすと、強い雨が自分を叩きつけた。しかし足を早める事もなく、見慣れたアパートへ進めた。
すぐに屋根のある場所につき、階段を登っていく。
右のポケットに入った鍵を取り出してみた。彼女から受け取って、まだ一度も使ったことはなかった。
1ヶ月も放置していた。もしかしたらまた目を吊り上げて怒るかもしれない。
それならそれでよかった。怒る彼女を見るのは嫌いじゃない。何より危惧していたのは、こんな生活やはり無理だと終わりを告げられる事だ。
私はLだ。自分の選んだ道で、事件を解決することは自分の生きがいだ。
この仕事を捨てる気は到底ないし、これ以外出来ることはないと思っている。
だからもしあの人が私がLであることを快く思わなければ困ったことになる。
贅沢なのだろうか、仕事も、愛も手にしたいと思うことは。
しかしもし彼女が辛い思いをするならば、自分のわがままに付き合わせるわけには行かないとも思う。
それはエゴだ。全てを手に入れるなんて、おこがましい。
3階分の階段を上り一番端の角部屋に着くと、鍵を翳してふと手が止まる。
なぜかこの鍵を開けることに酷く躊躇した。
1ヶ月もほったらかしにしてた私がこれを使う権利などあるのか。
背後で降り続ける雨の音に混じり、雷まで鳴っていた。荒れた天候、まさに今の心情と同じ。
だがそれでも、すぐに顔が見たかった。
鍵を差し込んで回すと、開いた音がした。
一旦ポケットに仕舞い込み、ドアに指先を掛けてまた手が止まる。
ああそうか、私は怖いのか。
彼女に拒否されるのが。
どんな難事件も凶悪犯も怖くはないし、グロテスクな殺人現場も平気で見れる。怖いなんて感情を持ち合わせない人間だったのだが。
最後の切札が恐れるのは、愛する人からの拒絶だとは。失笑。
なぜこんなにも彼女に心を奪われているのだろう。普段より躍起になって事件解決に臨み、寝る時間すら削って疲労困憊になるほど。
それほどに、私は早くこの部屋に戻ってきたかったのだ。
意を決してドアを開けた。ドアガードは掛かっていない。
もしや外出しているのかと思いながら中を覗くと、電気が付いていた。
ドアを閉めて鍵を掛け部屋の奥を見つめると、ベッドの上でこちらを見ている彼女と目があった。目をまん丸にさせている。
ああ、と安堵感が広がった。その顔を見ただけで。
「すみません、遅くなりました。」
言いたいことは多くあったが出てきたのはそんな言葉だった。彼女は何も言わない。
靴を脱いでそばへと歩み寄った。彼女はベッドに腰掛けたままじっと私を見ていた。
やはり、怒っているのか。
「部屋、綺麗ですね。珍しい」
そんなことを言った自分に呆れた。何をどう切り出していいのか分からなかったのだ。
いつもならむっとした表情で言い返すだろう彼女は何も言わないまま私を見上げていた。どこか、泣き出しそうな顔に見えた。
「事件解決のあとちょっと想定外の事が起こりまして。思ったより長引いてしまいました。怒ってますか」
いいわけを並べた。不格好だと思った。
それでも彼女は決して私を責めず、小さく微笑んでいったのだ。
「……おかえりなさい、竜崎」
その言葉は、私を酷く打ち付けた。
帰る場所もなく常に室内にいる自分には、永遠に言うことのないセリフかと思っていた。
ああ、私は、ここに帰ってきてもよかったのか。
こんな自分勝手な私を、彼女は待っててくれたのか。
こみ上げる胸の苦しさが、なぜか心地よい。
「…ただいま」
華奢な彼女を抱きしめた。
自分の体が冷えてるからか。とても熱く感じた。
会いたかった。
私は誰よりあなたに会いたかった。
ふと彼女の顔を見れば静かに涙を零していて戸惑ってしまった。
しかしそれと同時に、私に会えたことに涙したという事実に喜んでいる自分がいる。これはかなり末期だ。人の泣き顔を見て喜ぶなど。
だが仕方ない。私は自覚しないわけにはいかないほど彼女に心奪われてる。
泣きながらもこれは鼻水だ、なんてことを言う女性なんかに、奪われている。
その減らず口も、滴る涙も、赤くした鼻も、全てが愛しい。
この腕に閉じ込められればいいのにと思った。
ふと気がついた途端、この私が驚きで硬直した。
目の前に彼女の寝顔があったからだ。
そこで自分が昨夜、気を失ったように寝てしまった事を思い出した。急に安堵感に襲われたせいだ。
思えば事件解決を急ぐためいつにも増して寝ていなかった。限界はとうに超えていた。
しかし寝るつもりなどまるで無かったのだが。不覚。
相変わらず口を半開きにして愉快な寝顔なのだが、生憎こちらはそんな女性を愛してしまっている男なので、瞬時に思い浮かぶは下心だった。
狭いベッドで落ちないようにこちらにピタリとくっついてる彼女は参ってしまうほど無防備だ。その温かな体温が恨めしい。
一度ため息をついた。
彼女が過去に辛い出来事があったことは聞いている。本人はもう乗り越えたし男性恐怖症でもないと言ってはいた。確かにその後付き合っていた恋人はいたようだ。…が、そのあとまた更に犯罪者に襲われかけている。
人生で2度もそんな経験をする女性はなかなかいないと思うが、何とも不憫で不運だ。
だが何と言うか、少しそれが分かるような気もする。初めは気付かなかったが、普段女性らしさのカケラもない人なのだがふとした表情がどうも切なげで、いわば艶っぽく見える瞬間がある。
本人も気づいていない魅力だろうか。あの厄介な男に惚れこまれただけはあると思った。
それに毎回気づきながら耐えている自分は勇者だ、と自画自賛する。
こればかりは仕方ない。彼女のトラウマを蘇らせたくはないし、もしその時に彼女に蹴られて拒否でもされたらこちらがトラウマだ。
急いではならない、と常に自分を鎮めてきた。過去の傷を癒すのは間違いなく時間なのだ。
起きようと心を決めた瞬間、パチリと彼女の目が唐突に開いた。
驚いたように目を丸くしている。
「おはようございます」
とりあえず挨拶をした。彼女はみるみる顔を赤くさせてガバッと体を起こした。
「お、おはようございます竜崎!」
その拍子に、彼女は体のバランスを崩した。背後はすぐベッドの淵だという事を忘れていたようだ。
こちらが忠告するまもなく、その人はベッドの下に落下していった。どしんという大きな音が響く。下の階に住む人間は驚いただろう。
上から下を覗き込んだ。痛そうに体を起こす彼女が見える。
「い…たぁ」
その光景につい笑う。本当に見ていて飽きない人だ、と思う。
「すみません。私がベッドを占領していましたね」
「い、いえ…疲れてたんですよね。竜崎が寝てるところ初めて見ました」
頭をさすりながら起き上がる。その髪はやはり寝癖で跳ねていた。
「ええ、寝ずに働いてました」
「ちゃんと寝ないと死にますよ」
「それがあなたに会うために睡眠時間を削ってきた私に言うことですか」
私がそういうと、ぎょっとしたような顔で私を見る彼女。なんとまた、面白い顔をするのか。
「そそ、それは嬉しいですが…!竜崎が早死にするのは困ります!それなりに寝てください!」
照れながらいう彼女を見ると、自分の中の悪魔がやはりこのまま押し倒そうか、などと囁いてくる。
生憎悪魔は住んでいるものの天使は私の中に住んでいない。意地の悪い悪魔を抑えてくれるのはかろうじて働く理性だけだ。いや、これを天使と呼ぶのか?
「肝に命じておきます。」
そう言ってなんとか起き上がり自分もベッドから降りた。彼女はあ、と気がついたように声を上げる。
「確か新品の歯ブラシありました。出しますね」
慌てて洗面所に向かう後ろすがたにゆっくりとついて行く。狭いバスルームに着くと彼女は下の戸棚を漁ってまだパッケージに入ったままの歯ブラシを取り出した。
それを受け取り、すぐ目の前に置いてある白いチューブ型のそれをみて、自然と眉を潜めた。
彼女は不思議そうに私の顔を見る。
「…ミントの味は嫌いです」
「はあ?」
ぽかん、としていた。
「ミントの味は嫌いなんです」
もう一度繰り返す。それくらい私にとっては重要な事だった。
口の中がスースーとするあの感覚、一般的に爽快感と呼ばれ殆どの歯磨き粉に使用されているハーブだが、私にとってはあんなものをなぜ口に入れるかが分からない。
チョコミントなるものを食べた事があるが投げつけたくなった。美味なチョコレートをあれほど台無しに出来る代物も珍しい。
あれを好んで食べるなど信じられない。
「えっ…じゃあなんの味の歯磨き粉使うんですか」
「甘いのです」
「ぶはっ!」
彼女は突然吹き出してお腹を抱えて笑い出した。笑われている事に私は不愉快になる。
「あ、あ、甘い歯磨き粉って!こど、こどもじゃないですかっ…!あははは!こ、こんな大きな大人が!」
「ほっといてください」
「そんなものありませんよ普通…!あ、甘い歯磨き粉って!!」
何がそんなに面白いのか、彼女は苦しそうに息をしながら随分長く笑っていた。
その屈託ない笑顔を見てれば、自然と自分の眉が下がるのが分かった。本当に表情が豊かで忙しい人だ、と。
しばらく笑ってようやくツボから脱出した彼女は涙を拭きながら言った。
「次は買っておきますね。今日は我慢してこれを使ってください」
そう言って私の持つ歯ブラシに歯磨き粉を突然つけた。
次は、という言葉がなぜだが心地良くて堪らなくなったため、仕方なしに私は嫌いなミント味を口に入れた。
それはやはり自分の味覚の好みから程遠い味だった。
少し遅い朝食、と言って彼女が出してきたのはフレンチトーストだった。
今まで食べた彼女特製のものといえば、味はいいもののビジュアルはてんで残念なものだったのだが、フレンチトーストは程よいこげつき方で美しかったのが意外だ。
「意外です。美味しそうです」
「意外ですは余計です」
「チョコレートケーキとチーズケーキを見た後なら素直な感想です」
「ぐっ…今日だけは何も言えない!」
悔しそうに言う彼女を前に一切れ食べてみれば、なるほどこれまた美味だった。
私としては甘味はもっと強い方がよいのだが、そうすればきっとまた体に悪いだとかなんだか怒り始めるに違いない。
「美味しいです」
「あ、よかった!」
へら、と嬉しそうに笑う彼女を見ながら紅茶をすすった。
どこか非現実的な世界だった。
彼女の部屋で目覚め、歯を磨き、向かい合って朝食を食べる。
今まで体験したことのない経験で、ほんの少しだけ心がさざめいた。
「忙しかったんですね」
彼女がふいに尋ねる。
フレンチトーストを食べながら言った。
「元々の依頼は9日で終了したんです。そのあと予想外の依頼が来まして…蓋を開けてみれば情報も限りなく少なく手こずりました」
「へえ」
「あの国の警察は無能ですね。日本は優秀だと思います」
「へえ!」
「まあ依頼を受けた以上情報収集も私の仕事なのですが。それにしても、でした」
私が話すのを、目の前でとてつもない笑顔で聞いている。
やけに嬉しそうなのに面食らって、私は尋ねる。
「顔がにやけてますよ?」
「あっ、なんか竜崎から仕事の話とかあまり聞いたことないから、嬉しくて」
そう言い、顔を綻ばせた。
言われてみれば、たしかにあまりそんな話はしたことがなかった。
彼女は微笑みながら紅茶を啜る。
「もちろん守秘義務もあるだろうから話せないの分かってたんですけど。私ばかりいつも話してたから」
「…あなたにはつまらない話題かと思いまして」
「そんなの私の話だってオチもなにもないつまらない話ですよ」
「確かにオチも起承転結もありませんが」
「急に正直か!」
分かっていない、と思った。彼女の話す内容などさほど重要ではないのに。その日あった事を笑いながら、怒りながら、悲しみながら話すその表情こそが面白いのだ。
私にはない表情。
「つまらなくないですよ、竜崎が話すことなら、私何だって聞きたいです!」
そう笑う人を見て、なぜいつだってこの人はこんなに真っ直ぐで私が欲しい言葉をくれるのかと疑問に思った。
それは優しさなのか、愛なのか。
いつだって私が求めてならない居場所を彼女はくれる。
無意識だとすれば、なんと罪深い人。
目の前のフレンチトーストを見つめながら、私は心の中が温かくなるのを感じた。
「では特殊相対性理論の話でもしますか。有名なのであなたもご存知でしょう。慣性運動する観測者が電磁気学的現象および力学的現象をどのように観」
「あ、あああ…」
(意識が宇宙に飛んだ顔をしてますね)
