11おかえりなさい
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「仕事でしばらく海外へ飛ぶことになりました」
以前ホテルを訪ねた時、竜崎は唐突に言った。
角砂糖を吐き気がしそうなほど紅茶に放り込んで、軽くかき混ぜながら。
「2週間ほどかと見てますが、断言は出来ません。ここのホテルも一度引き払います」
話し方のトーンもそぶりもいつも通り。
仕事で海外へ飛ぶことがある、とは聞いていた。別段驚くこともなく、私は分かりました、と返事をした。
何度も使用した黒いルームキーを竜崎に返して、私はその部屋を後にした。
雨が降っていた。
それは朝から土砂降りで、風も強い日だった。
少し涼しさが出てきた季節の雨と強風は、体感温度を低くさせる。今日は肌寒い日だった。
仕事は休みで、更に友達とも何も予定を入れておらず、私は1日部屋に篭っている。
朝から夜まで、家の中にいるとカビが生えそう。
かと言って出かけるのめんどくさい。行きたいところもない。
買い物したいけど行くのは嫌だ。晩ご飯は面倒だから冷凍うどんでいいや。
めんどくさがりの頂点な考えをめぐらせながらふと携帯を見る。
ずっと着信のないその電話に今日の日付が表記されていた。
竜崎にルームキーを返してから、もう1ヶ月近く経っていた。
「んー天気悪いし、やることないなぁ」
ベッドにゴロゴロと転がり、テレビをつける。特に目ぼしいものは何もやってないし、録画してたものは見尽くした。
やろうと思えば掃除したり、勉強したり、料理の練習したりと沢山思い浮かぶんだけど、そういうことじゃないよね。
分かってた。今はきっと私は何もしたくない。
ここ最近の休みはほとんどを竜崎のそばで過ごしていた私は、彼と言う存在がいなくなった今、これほど時間を持て余してしまうんだと呆れた。
1ヶ月。
1ヶ月、竜崎からは連絡すらない。
今、彼がどこで何をしてるのか、私に知る術はない。
あんなにしょっちゅう会っていた人とこれだけ会わずにいると、どうしても心は冷たくざわめく。
ほんとはね。本当は。
友達との約束だってあえて取り付けなかった。外出だって必要最低限のコンビニとスーパーにしてる。
あなたが突然、帰ってくるかもと思って。
ベッドのすぐそばに置かれたガラスのテーブルには、自分でいれた紅茶が置いてあった。
前は、彼がそこに座り、あのカップで紅茶を飲んでいた。
今は誰もいないその空間に、私はその人の幻を見た。
『もしある日突然私がいなくなり、電話もかけてこず、あなたの家にも訪れなくなったら。
あなたは決して私を待たず、前を向いてください』
以前竜崎が突然そう言った日のことを、私は忘れない。
忘れたくても忘れられない。
あの時の竜崎の顔は、見たことない顔だった。
辛そうに言ってくれればまだよかった。悲しそうに言ってくれた方がずっとよかった。
私が焼いた不細工なチーズケーキを食べながら、
彼は今まで見た中でもとびきり、優しい笑顔で言ったのだから。
胸が苦しくて死んでしまうかと思った。
優しい顔で、優しい声で、竜崎が言うせいで。
普段能面のくせして何でこんな時だけ優しくするのよ、と怒ることが出来たなら、まだ良かったんだけどな。
気づいてた。あれは竜崎の最大の気遣いと思いやりだと。
もし万が一竜崎が死んだとして、私が悲しんで生きていかないように考慮してくれた言葉。
竜崎の事を忘れて、いっそのこと新しい恋愛をして前を向いてくれと彼は言っていたんだ。
それは彼が私を大切に思ってくれる何よりの証拠だと思った。
「今、何してるかなぁ…」
初めに言ってた2週間はとうに過ぎてしまった。
仕事以外、彼専用の携帯を常にそばに置いて過ごした。
きっと、難しい事件なんだろう。もしかしたら、解決後に新たな事件が発生したのかもしれない。
だからきっと遅れてるだけなんだ。
枕に顔を乗せながら、シンプルな携帯電話をただただ見つめた。
…世界のLと親密になるとは、こう言うことなんだと初めて思い知った。
頭では理解していたつもりだった。警察のトップで解決した事件は数知れず。恨みを買う数も膨大だろう。一般人とはあまりに違いすぎる。
だから常に住居を転々として、本名すら人に教えず生きている。
でもやっぱりどこか現実離れしていたんだ。彼が死ぬ可能性がある、だなんて。ドラマの世界みたいに感じてた。
実際はドラマでも小説でもなく、現実にあり得ることなのに。
離れて初めてそれを理解するだなんて。
「…いつ、帰ってくるんですか…」
今。どこにいるんですか。
その国のお菓子でも食べてますか。
もしかして寝てたり。
ねえ、まさか。
…死んだりしてないよね。
とうとう溢れた涙は静かに枕に落ちていった。
茶色の女らしくない枕カバーがシミを作る。
ああ。なんて私らしくない。
今の私を見たらきっと竜崎もそう思うだろう。
いつだって明るく強くありたいと思っていた。これまでの人生、決して楽しい事ばかりじゃなかった。
ある日突然両親を亡くし、施設に入れられ、その後引き取られた家族には乱暴されかけた。
人生の絶望を知っている。
それでも私は笑っていたかった。強くありたかった。
なのに、今はすぐにでも心が崩れてしまいそうだ。
竜崎、竜崎。
あなたを失うかもしれないという恐怖が、私を不安定にさせる。
これほどあなたを好きだったなんて、もう笑っちゃうよ。
前も言ったけどね、竜崎。
もしあなたが帰って来なくても私は他の男なんか見ずに永遠に待つんだから。安っぽいセリフでごめん。
きっとあなた以上に愛せる人なんて、存在しないから。
雨が地面に当たる音が響く。
遠くでは雷が鳴っているのが微かに聞こえた。相変わらず風は強くてこの小さなアパートを揺らしている。
鳴らない電話を握り締めたまま、うとうととベッドの上で目を閉じていた。
寝てるのか、起きてるのか、それすら曖昧な瞬間。寝たいけど寝たくない、中途半端な感覚。
そのまま眠気に任せて夢の世界へ飛び込んでしまおうかと思ったとき、背後でガチャリと音が響いた。
夢の世界に片足突っ込んでいた私は一気に現実に引き戻される。目をかっと開いて、頭を起こした。
…音が。聞こえた。
それは紛れもなく鍵が開く音に聞こえた。私は上半身を起こして遠くに見える玄関の扉を見つめた。
でもその扉は開く気配はなくて、残念ながらあれは夢の中の音だったのかな、なんて思う。
それでも私は動かないまま扉を見つめ続けた。
彼がこの部屋の鍵を使ったことは未だかつてなかった。
でも、もし。
もし、彼なら。
息するのも忘れて見つめていた時、そのドアノブは微かに下がりドアがゆっくりと開いた。
遠くに聞こえていた雨音と雷の音が急に身近に聞こえる。
白い服が、見えた。
「……りゅ……」
声をかけようとしたのに出なかった。息が漏れるだけ。
猫背のその人は中に入り、扉を閉めるとしっかり鍵とドアガードをした。
振り返った竜崎と私の目が合った。
いつもとなんら変わらない彼が私を認識すると、少しだけ口を緩めて言った。
「すみません、遅くなりました。」
その白い服は少しだけ雨に濡れていた。竜崎が初めてここへ来て私を待ってくれていた日を思い出す。
ようやく体の自由がきくようになった私はゆっくりと起き上がってベッドから足を下ろした。
竜崎は靴を脱いでのそのそと上がってくる。
1ヶ月ぶりに見るその顔があまりに愛しくて恋しくて、苦しくなった。
声を掛けたいのに声が出せない。
竜崎は短い廊下を歩いて部屋に入り、私の近くまで来ると優しい目で見下ろした。
「部屋、綺麗ですね。珍しい」
いつもなら言い返すその憎まれ口は、今はただただ私の心を揺さぶっただけだ。
竜崎が。帰ってきた。
無事に、私のところへ。
彼は相変わらず親指の爪を噛むと言った。
「事件解決のあとちょっと想定外の事が起こりまして。思ったより長引いてしまいました。怒ってますか」
怒ってなんかない。怒る訳ないよ。
そう言いたかったけどそれすら言えなかった。
ただ彼に向かって笑顔を作った。
「……おかえなさい、竜崎」
ようやく言えた一言。竜崎は一瞬目を開いたけれど、すぐにまた微笑んだ。
「…ただいま」
そう呟いてしゃがみ込むと、座ってる私をそのまま抱きしめた。
竜崎からは雨の匂いがした。
冷たく冷えた白い服は次第に温かなぬくもりと変化し、私と竜崎の隙間を埋めた。
彼の広い胸を、私は力一杯抱きしめた。
「泣いてませんでしたか」
「泣いてなんかいませんよ」
「ご飯ちゃんと食べてましたか」
「それ私の台詞です」
「お酒飲みすぎてませんか」
「まずまずです」
「会いたかったですか」
「…………」
竜崎はゆっくり私を離すと、顔を覗き込む。
そして笑った。
「嘘が下手ですね」
すでに涙を溢していた私の顔を、白い袖で拭き取った。
「これは涙じゃないです、鼻水です」
「あなたは目から鼻水流すんですか」
「ええ。素敵な体質でしょう」
「勘弁してください。私の服が鼻水まみれではないですか」
竜崎はそういいながら私をまた抱きしめてくれた。それは会えなかった1ヶ月分を何とか埋めようとしてるように見えた。
いつもあまり私に触れる事もしないのに珍しいな、なんて。
嬉しさで顔が緩む。
「大丈夫ですか。こう言った事が頻繁にありますよ。そんなに泣いてては持ちません」
「ですから泣いてないですよ。平気です。竜崎いなくてもちゃんと毎日楽しんでました」
「それはそれで癪ですね。」
「あはは!」
嘘だよ。あなたがいない日々はつまんなくて物足りなくて堪らなかった。
会いたくて堪らない、なんて、今までの人生で経験したことなかったのに。
「ところで私はあなたに言いたい事があります」
「え!何ですか」
「ちゃんとドアガードは掛けなさい」
「…(それか)」
竜崎が私の元へ帰ってきて、ただいまと言ってくれた。
それだけで。この上ない幸せがここにある。
あなたがどこへ行ったとしても、最後は必ずここに帰ってきて。
この狭いワンルームで、私は待ってるんだから。
しばらく私を抱きしめた後、やけに竜崎の体が重くのしかかって来た。
細身であるとは言え男性の体重を支え切れず、私はそのまま後ろに倒れ込んでしまった。
二人分の体重でぼふんとベッドが軋むのを感じて驚く。
「りゅうざ…!」
慌てて声を掛けて自分の上に乗る竜崎を見てみればこれまた驚き。
彼は安らかに眠っていたのである。
唖然とした。
…え。ちょっと待って。
寝てる?あの竜崎が。寝てるだと??
もう一度竜崎の顔を見てみれば、確かにその目を閉じて寝息を立てている。
目の下にはクッキリと黒いクマを作っていて痛々しい。
未だかつて私は竜崎の寝てる姿なんて見た事なかった。初の寝顔である。
…こりゃすごいもんを見た。流れ星見た気分。
とりあえず重いのでそっと抜け出すも、それでも竜崎は起きる事なく死んだように眠っていた。
…もしかして。
私のためにいつもより更に眠らず頑張って来たのかなぁ、…なんて、都合のいい想像しちゃうね。
普段の憎たらしさはまるでなく子供のような安らかな寝顔に微笑むと、私はそっと布団を掛けて、自分も隣に寝転がった。
狭いベッド、二人はキツいけどさ。
幸せだから、許す。
おかえりなさい、竜崎。
