シャーロック
その真紅の瓶を手に取ったのは、懐古と感傷と悔恨が胸を過ったからだ。
連日流れていたCMや、きらびやかなディスプレイ、『本日解禁!』のポップな文字に踊らされたわけではない。
そして、今うちにはもう一人酒の飲める人間がいるという現実(全くもって不本意だが)に、飲み余す可能性は低いと気が緩んだわけでもない。
あいつと一緒にワインを飲みたいなんて、決して、ひと欠片も、思っちゃいないぞ、俺は。
ただあいつが飲みたいと言うならグラス1杯、いや2杯くらいは分けてやってもいい。中途半端に残して風味が抜けてももったいないだろう。
などと虚しい言い訳を頭の中で反芻しながら帰宅した俺は、施錠されていない玄関に大きな溜め息を落とした。
俺が買い物に出る前に誉はふらりとどこかへ出掛けて行った。存外早く帰ってきたらしい。ドアが閉まっているだけマシだ。そう無理矢理自分を納得させて部屋に入る。
「……ただいま」
重いエコバッグを抱え直しながら開けたリビングのドアの向こうに誉の姿はなかった。自室に籠っているのだろうかと気配を窺うが、いつも聴こえる金属音やバーナーの音はしない。代わりにバスルームの方から微かな水音が聴こえた。
窓からは冬のぼんやりした西日が差し込んでいる。こんな時間にシャワーかよ、と俺は再び嘆息しつつキッチンに入った。
大抵の人間はある程度決まったルーティーンの中で生きている。朝起きて、一日三回食事をし、夜は風呂に入り、寝る。誉獅子雄という男にはそれが無い。眠くなって頭が働かなくなるからと食事を摂らず、眠りたいと思わないからと睡眠を取らない。
だが全く食べないわけでも寝ないわけでもない。気紛れに食事を要求してきたり、気付けば糸が切れた人形のようにベッドに転がっていたりする。
そして今のように、まだ明るいうちから突然シャワーを浴びたりする。規則性も脈絡もない誉の生活は、俺には理解できないものだった。
誉との不本意な同居生活で俺が理解できたのは、この男を理解しようとすることが愚行だという虚しい事実だけだ。
ニットの袖を捲り上げて、買ってきた食材を取り出す。今から調理する鶏肉と室温に戻しておいた方が良いチーズは残し、他は冷蔵庫へ。エコバッグの重量を普段の三割増しにした赤ワインも、ちょっと考えて冷蔵庫に入れた。確かこれは冷やした方が美味いとネットに書いてあった。
まだ晩酌には早いが、鶏肉の下拵えは済ませておこう。といっても俺はそんなに凝った料理は作れない。普段は誉に文句を言われる炭水化物メインの単品料理だ。なので鶏肉もただ切って下味をつけておくだけ。後は食べる時に醤油と味醂を絡めて焼くだけ。チーズは切るだけ。
それでも久々に飲むワインに少しだけ気分が浮わついていた。別にワインが特別好きなわけでもないのに。ただ、昔が懐かしくて。
鶏肉をパックから取り出し包丁を握る。
これを初めて俺に飲ませてくれた男の顔が脳裏に浮かぶ。今は亡き親友。学生時代の他愛もない思い出。
「ワインを買ってきたのか」
ビクリ、と肩が強ばった。息も止まった。包丁を落とさなかったのは奇跡だ。
ここ数か月嫌と言うほど聞き慣れたバリトンボイス。
恐る恐る首を回すと、傍若無人な同居人が半裸で立っていた。
「……っ、おい、気配消して近づくのやめろ!」
俺が声を荒げると、誉は気障ったらしく濡れ髪を掻き上げながら鼻で笑った。
「気配とは電気だ、若宮ちゃん」
「はぁ!?」
「生物の体の中では常に微弱な電気が生じている。人間の脳波、心電図、筋電図等はそれぞれその部位に流れる電気信号を可視化したものだ。生体内で生じるこのような微弱な電気は重なり合い体外に滲み出てベールのように生体を包み込んでいる。これを準静電界という。気配の正体の一部はこの電気の膜だと言われている。但しこれは非常に弱いものなので意図的に感知するのは難しい。だが鮫など一部の動物はこの準静電界を鋭敏にキャッチできるロレンチニ瓶という器官を持っている。このセンサーは視覚や聴覚よりも原始的な器官だ。そしてこのロレンチニ瓶に似た器官が人間にも存在する。元医者の若宮ちゃんなら知ってるよな?」
「……」
「おや、知らない? ああ、若宮ちゃんは偽医者だったな」
「に、偽医者言うな!」
俺の抗議など意に介さず、誉は芝居がかった仕草で右手の人差し指を立てた。
「答えは内耳だ。鮫のロレンチニ瓶の奥には毛の生えた細胞、有毛細胞が数多く存在し、これらが微弱な電界を察知すると考えられている。人間の内耳にある蝸牛という器官にも有毛細胞があり、外から入ってきた音を電気信号に変えて神経に伝えている。内耳は人体の中で一番高い電圧が生じている器官だ。脳や心臓よりも高い。つまりこの内耳がロレンチニ瓶の名残で、人間も無意識に準静電界を察知できていると考えられる。ここまではOK?」
ピッ、と長い人差し指を鼻先に突き付けられて、俺は思わず頷いてしまった。
「では話を少し戻そう。人間は生きている限り電気を纏っている。喋らなくても、動かなくても、生命活動で電気は生じる。さすがの俺でもそれを消すことはできない。できたら死んでる」
「そ、れは、そうだけど」
「なのに若宮ちゃんは俺に気配を消すなと言う。気配イコール電気は死ななきゃ消えないのに。すなわち若宮ちゃんのロレンチニ瓶は俺の準静電界に鈍感になっている。何故か?」
「……」
「それは若宮ちゃんの体が俺を受け入れているからだ!」
「は!? ちょ、変な言い方すんな! てか早く服着ろよ!」
怒鳴る俺を華麗に無視し、誉は大仰に腕を広げた。
「若宮ちゃんは俺が側に居ることを無意識に当然のことと思っている。最初はあんなに警戒してたのになぁ。毛を逆立てた猫みたいで面白かったのに」
「ふざけんなっ」
片方の口角だけを器用に上げてニヤリと笑う誉に有効な反論など思いつくはずもなく、俺は眉間にグッと力を込めた。
「とにかく服を着ろ!」
再度言い捨て、上半身を晒したままの誉から目を逸らし、まな板の上の鶏肉に乱暴に包丁を入れる。
背後で、ふ、と空気が揺れる。振り向かなくても誉がまた笑ったのだと分かる。俺の内耳は誉の準静電界の揺らぎをちゃんとキャッチしている。俺は鈍くない。受け入れてなどいない。
徐に、誉が冷蔵庫を開ける音がした。
「ほら正解だ。若宮ちゃんも案外ミーハーだな」
誉がルビー色の瓶を手に取るのを横目で窺いながら、小さく舌打ちをする。
どうして俺がワインを買ってきたことがすぐバレたのか。それを聞いたらこの男はまた偉そうに己の推理を披露するだろう。絶対に聞いてやるものか。
というか早く離れてほしい。
いつも隙のない服をきっちり着込んでいる男が、無防備に肌を晒して俺のパーソナルスペースを侵している。しかも無駄に筋肉質で彫刻のような体だ。正直居心地が悪いし、目の遣り場に困る。
俺は無心で包丁を動かした。
鶏もも肉の余分な脂を取り除く。一口大に切り分ける。黙々とバットに並べる。
だいたいこの誉という男は、普通の人間が持っている普通の感覚が全て欠落しているのだ。むしろ、遠慮だとか羞恥だとか謙遜だとか我慢だとか、そういう人として大切だと思われるものを小馬鹿にしている節がある。
いつだったか、捜査での誉の振る舞いがあまりに奔放すぎて、俺は堪らず懇願したのだ。頼むから少し空気を読んでくれ、と。
その時の誉の返事は、
「空気は吸うものだろ、若宮ちゃん」
だった。俺は心底脱力した。
今日何度目かの溜め息を吐いて2枚目の鶏肉に包丁を当てた時、不意に刃ががくりと揺れた。
同時に、右肩と背中に重み。
「普段鶏もも肉は高いからと滅多に買ってこない吝嗇家の若宮ちゃんが、もも肉のみを料理しようとしている。傍らには醤油と味醂。確実に照焼きだろう。それからこの出しっぱなしのカマンベールチーズ。室温に戻そうとしているということは今晩食べる気だ。そして今日は11月21日。甘辛いチキンと重くないチーズは軽いワインに合う肴だ。そこに11月の第3木曜とくれば、そう、ボジョレー・ヌーヴォーだろ?」
俺の右肩に顎を乗せたまま、誉が流れるように囁く。
耳殻を擽る生温い吐息と、肩に伝わる振動、背中を覆う筋肉の張り。
カッと頬が燃えて、俺は慌てて身を捩った。
「刃物持ってんだぞ危ないだろ!」
「おっと」
振り上げた俺の右手には包丁が握られたまま。だが誉はそれを難なくかわし、一歩下がってわざとらしく形良い眉を顰めた。
「危ないなぁ」
「あんたが言うな!」
包丁を突き付けて誉を睨む。
「若宮ちゃん、どうどう」
「俺は馬じゃない!」
けれどいくら本気の怒りをぶつけても、目の前の男には暖簾に腕押
し、糠に釘。
「どうしてボジョレーなんだ?」
「あ?」
「常から倹約を心掛けている若宮ちゃんがボジョレーを買ってきた理由。それが分からない」
倹約せざるを得なくさせてるのはどこのどいつだよと喉まで上がった言葉は、誉のやけに真剣な眼差しを受けて腹の中に落ちていった。
「……」
この男の目が苦手だ。いや苦手なのは目だけじゃないけれど。それこそ全てが苦手と言ってもいいくらいだけど。
でも、この目は特に。
黒々として、深くて、静謐な。
どうしてそんな目で俺を見る?
「……別に。ちょっと、思い出しただけだ」
「何を?」
当然のように突っ込んでくる誉から目を逸らし、俺は再びキッチンに向き直る。
「赤羽のことを」
零した途端に、後悔が押し寄せた。きっとまた笑われる。もう既に死んだ人間を、自分の預かり知らぬ所で勝手に絶望し自ら死を選んだ人間を思うことを、この男は陳腐だと言うだろう。
それならそれでもいいか。笑えよ。俺はあんたと違って平々凡々な人間だ。あんな最期を迎えた友人との思い出に浸って、彼を悼みたいと思った。普段買わないワインや肉やチーズでほんの少し贅沢をして。それは俺の中ではごく普通の感覚なんだ。
それが愚かだと言うなら笑えばいい。
誉の嘲笑を覚悟して俺は自嘲気味に頬を歪めた。
けれど、誉から返ってきた言葉は「ふぅん」という素っ気ない一言だけだった。
「じゃあ今夜は一緒に飲もう、若宮ちゃん」
「……え?」
「準備ができたら呼んでくれ」
言い置いて、誉はあっさりと踵を返す。
「ちょっ……、あんたの分まで作るなんて言ってねーし!」
「若宮ちゃんは一人で鶏肉2枚も食べるのか?」
「……っ」
声を張った俺に一瞥もくれず、誉は自室に向かって歩いていく。
型板ガラスの填まったドアの向こうに消える背中を、俺は呆然と見送ることしかできなかった。
実家からくすねてきたんだと破顔して、ボジョレー・ヌーヴォーを携えた赤羽が俺のアパートにやって来たのは、確か大学3年の冬。
当時苦学生だった俺はサークルの飲み会にも頻繁には参加できなかったので、赤羽が酒を持って遊びに来てくれることがままあった。
裕福な家庭に育った赤羽は、もしかしたら俺を憐れんでいたのかもしれない。でもきっとそれは無意識にだ。恵まれた境遇を赤羽が鼻にかけることはなかった。そういう男だった。だから俺も彼に心を開けたのかもしれない。
初めて飲んだ赤ワインは大して美味いとは思わなかったけれど、他愛もない話をしながら赤羽とダラダラ酒を飲み交わした夜は、苦しかった大学生活の中で数少ない穏やかな思い出だった。
「まあ、それだけのことだよ」
そう締め括って、俺はグラスの底に残った最後のボジョレーをぐいと呷った。
鶏肉2枚分の照焼きも既に互いの胃袋に消えている。
皿の上に残っているのは、付け合わせに添えたパセリと乾きかけのチーズが数切れ。
テーブルを挟んで座る誉は、どこからか出してきたウイスキーをロックで飲んでいた。
ワインはほとんど俺が飲んだような気がする。誉も2杯は飲んだはずだけど、その掌中のグラスの中身はいつの間にかウイスキーに変わっていた。マジシャンかよ、と心の中で突っ込んで、俺は一人悦に入った。
つまり今、俺は酔っている。
久々に飲んだワインは予想以上に美味くて、想像以上に効いた。頭がフワフワして、何だか気分が良い。
「あんたにはつまんない話だったろ?」
チーズを一切れ口に放り込みながら、目の前の男に向かって言った。
先程まで、ボジョレーとボージョレはどちらがよりフランス語に忠実なのかとか、単なる試飲用に作られる新酒のボジョレー・ヌーヴォーをこれほど持て囃す日本人の国民性だとか、販売促進の為に企業が仕掛けたイベント―― ボジョレー然り、バレンタイン然り、他にもホワイトデーやクリスマス等々―― に踊らされる愚かさだとかを饒舌に語っていたのに。
今、誉は僅かに目を細めて、静かにグラスを傾けている。
無駄に絵になるその仕草に釣られて、俺はウイスキーのボトルに手を伸ばした。
「なあ、俺も飲んでいい?」
「やめておけ。二日酔いになるぞ」
「大丈夫だって。……多分」
「せめて水割りにしろ」
誉の忠告を無視して、グラスにウイスキーを注ぐ。
「そういえば初めて飲んだウイスキーも赤羽が持ってきたやつだったな。全っ然美味いと思えなくてさ、それでも粋がって飲んで、次の日見事に吐いて……うわ……」
昔を語りながら口に含んだ強い酒はやっぱり美味くも何ともなく、俺は盛大に眉を顰めた。
「きっつ……」
「……そうやって、肉体を失っても赤羽栄光は若宮ちゃんの中で生きていくんだな」
カラン、と、誉のグラスの中で氷が鳴った。
「……妬けるな」
誉が低く呟く。
俺は誉の顔をまじまじと見つめた。耳に入った言葉の意味を理解するまで、数十秒かかった。
「……は? なんであんたが妬くんだよ」
ウイスキーの入ったグラスを、無造作にテーブルに置く。
「嘘つけ。俺なんてどうでもいいくせに」
琥珀色の液体が指先を濡らし、ああもったいない、と頭の片隅で思った。
「俺なんてただの運転手だろ? あんたにとっては、タイミング良く現れた都合の良い人間なんだろ?」
睨みつけても、誉は眉ひとつ動かさない。
「他にもっと役に立つ人間がいたら、どうせあんたはそっちに行くんだ」
置いたグラスを再び持ち上げて、強い酒を喉に流し込む。熱い。
「置いていくなら、期待させんな」
グラグラと視界が歪んで、俺はソファーの背凭れに背中を投げ出した。
そうだ。この男もいつか俺の前から消える。
お前だけが頼りだとか甘い言葉で煽てておいて散々こきつかって振り回して、そして、俺を置いていく。
俺の中に、消えない痕を残して。
「……若宮ちゃん」
ソファーがぎしりと軋む。
酔いが回った重い頭をゆるゆる持ち上げると、傍らに座った誉が俺の手からグラスを奪っていった。
「……なに?」
「自己評価は低いくせに、承認欲求が強い。矛盾してるな」
誉の目が、黒曜石のようなそれが、俺を見ている。
吸い込まれそうだ、と、ふと思う。
「……全く、タチが悪い」
アルコールに濁った視界の中で誉の唇が歪むのを、俺はぼんやりと眺めていた。
その手に握られたグラスが口元を隠すのを、ただ見ていた。
男の顔が徐に近づいてきても、動けなかった。
「……っ」
鼻を突くアルコールの匂い。
弛緩した唇に触れる熱。
口移しでウイスキーを注がれたのだと認識すると同時に、粘膜を焼く刺激に体が強張る。
飲み下せなかった液体が口端から溢れて、顎を伝って首筋を擽った。
「……ん、……ぅ」
追い討ちをかけるように厚い肉が口腔に差し込まれ、ざらりと上顎をなぞって出て行く。
「……なんで」
焦点がぼやけるほど近距離で、誉がまたウイスキーを呷る。
再び唇を重ねられ、俺は反射的に目を閉じた。
温いアルコールが容赦なく口腔内に流れ込んでくる。
舌が痺れる。独特のスモーキーな香りが鼻腔を抜けていく。
唇を塞がれたまま吐き出すこともできず、否応なしに喉に送り込まれる刺激物をごくりと飲み下した。
ゆっくりと誉の舌が侵入してくる。
アルコールに焼かれ感覚の鈍くなった粘膜を熱い肉が縦横無尽に嬲り、唾液を掻き混ぜる。
くちゅり、と耳を塞ぎたくなるような水音が聞こえて、俺は反射的に誉の胸元を押した。
「……っ、……ふ」
誉の舌も、唾液も、呼気も、ウイスキーの味がする。
擦り合わせた舌先の痺れが、遅効性の毒のように全身に広がっていく。
頭がぐらぐらする。舌を絡め取られるたび、脳までぐちゃぐちゃにされているような感覚。
―― 気持ちいい。
「…………ぁ、」
口蓋を擽るように舐めた後、誉の舌はするりと俺の中から出て行った。
目蓋を上げると、揺れる視界の中で誉がじっと俺を見ていた。
あの目で。
深く、静謐で、凪いだ湖面のような。
「……なん、で」
駄目だ。もう目を開けていられない。
喘ぐように、大きく息を吐き出す。
こんなに酔ったのは初めてかもしれない。
体が、重い。
「……上書き、かな」
落ちていく意識の片隅で、誉の低い囁きを聞いたような気がした。
見慣れた天井。カチャカチャと耳障りな、聞き慣れた金属音。
ああ朝か、と思う。
のそのそと布団から這い出して、途端襲ってきた頭痛に俺は思わず呻いた。
「いってぇ……」
そのまま枕に逆戻りする。
痛みのおかげで思考がはっきりしてくる。
そうだ、これは二日酔いだ。昨日久々に酒を飲んだんだった。思い出すと同時に吐き気も込み上げてきた。
ベッドの上で背を丸めながら、靄がかかったような記憶を辿る。気紛れでワインを買って、つまみを作って、誉と一緒に飲んで、それから。
あれ、いつベッドに入ったんだっけ。
「若宮ちゃん、コーヒー」
不遜な声が思考を断ち切る。
反射的にがばりと体を起こし、俺は偉そうな同居人に向かって怒鳴った。
「それくらいやれよ! ……痛っ」
頭が割れそうなほど痛い。自分の声で自分にダメージを与えてどうするんだ、俺。
呻く俺に見向きもせず、誉はいつものように何かの基板を弄っている。
何を言ってもこの男が動かないのは分かっているので、俺は仕方なくベッドから立ち上がった。誉にも聞こえるように盛大に溜め息を吐きながら。
体が鉛のように重い。一歩歩く度に頭がガンガンと痛む。鳩尾の辺りから何かがせり上がってくる。最悪だ。
漸くキッチンまで辿り着き、コーヒーを手に取った所で、また声が飛んできた。
「だから言ったんだ、やめておけと」
「は!? あんたが無理矢理飲ませたんだろ!?」
言ってから、しまったと思った。
誉がゆっくりと振り返る。
俺は慌てて視線を落とした。
昨夜の記憶はしっかりと俺の中に残っていた。消えてくれて良かったのに。いや、消えてほしかったのに。
誉がこちらを見ている。俺は顔を上げられない。コーヒーメーカーに水を入れ、ペーパーフィルターをセットし、二人分の粉を量る。
ふ、と笑う気配がして、再び金属音が鳴り始める。
詰めていた息をそっと吐いて、俺はコーヒーメーカーのスイッチを押した。
何も変わらない、いつもの朝。
あんたが言わないなら、俺も黙っておく。
この胸のざわめきは、二日酔いのせいにしよう。それが正解かは、分からないけれど。
答えはまだ、出したくなかった。
連日流れていたCMや、きらびやかなディスプレイ、『本日解禁!』のポップな文字に踊らされたわけではない。
そして、今うちにはもう一人酒の飲める人間がいるという現実(全くもって不本意だが)に、飲み余す可能性は低いと気が緩んだわけでもない。
あいつと一緒にワインを飲みたいなんて、決して、ひと欠片も、思っちゃいないぞ、俺は。
ただあいつが飲みたいと言うならグラス1杯、いや2杯くらいは分けてやってもいい。中途半端に残して風味が抜けてももったいないだろう。
などと虚しい言い訳を頭の中で反芻しながら帰宅した俺は、施錠されていない玄関に大きな溜め息を落とした。
俺が買い物に出る前に誉はふらりとどこかへ出掛けて行った。存外早く帰ってきたらしい。ドアが閉まっているだけマシだ。そう無理矢理自分を納得させて部屋に入る。
「……ただいま」
重いエコバッグを抱え直しながら開けたリビングのドアの向こうに誉の姿はなかった。自室に籠っているのだろうかと気配を窺うが、いつも聴こえる金属音やバーナーの音はしない。代わりにバスルームの方から微かな水音が聴こえた。
窓からは冬のぼんやりした西日が差し込んでいる。こんな時間にシャワーかよ、と俺は再び嘆息しつつキッチンに入った。
大抵の人間はある程度決まったルーティーンの中で生きている。朝起きて、一日三回食事をし、夜は風呂に入り、寝る。誉獅子雄という男にはそれが無い。眠くなって頭が働かなくなるからと食事を摂らず、眠りたいと思わないからと睡眠を取らない。
だが全く食べないわけでも寝ないわけでもない。気紛れに食事を要求してきたり、気付けば糸が切れた人形のようにベッドに転がっていたりする。
そして今のように、まだ明るいうちから突然シャワーを浴びたりする。規則性も脈絡もない誉の生活は、俺には理解できないものだった。
誉との不本意な同居生活で俺が理解できたのは、この男を理解しようとすることが愚行だという虚しい事実だけだ。
ニットの袖を捲り上げて、買ってきた食材を取り出す。今から調理する鶏肉と室温に戻しておいた方が良いチーズは残し、他は冷蔵庫へ。エコバッグの重量を普段の三割増しにした赤ワインも、ちょっと考えて冷蔵庫に入れた。確かこれは冷やした方が美味いとネットに書いてあった。
まだ晩酌には早いが、鶏肉の下拵えは済ませておこう。といっても俺はそんなに凝った料理は作れない。普段は誉に文句を言われる炭水化物メインの単品料理だ。なので鶏肉もただ切って下味をつけておくだけ。後は食べる時に醤油と味醂を絡めて焼くだけ。チーズは切るだけ。
それでも久々に飲むワインに少しだけ気分が浮わついていた。別にワインが特別好きなわけでもないのに。ただ、昔が懐かしくて。
鶏肉をパックから取り出し包丁を握る。
これを初めて俺に飲ませてくれた男の顔が脳裏に浮かぶ。今は亡き親友。学生時代の他愛もない思い出。
「ワインを買ってきたのか」
ビクリ、と肩が強ばった。息も止まった。包丁を落とさなかったのは奇跡だ。
ここ数か月嫌と言うほど聞き慣れたバリトンボイス。
恐る恐る首を回すと、傍若無人な同居人が半裸で立っていた。
「……っ、おい、気配消して近づくのやめろ!」
俺が声を荒げると、誉は気障ったらしく濡れ髪を掻き上げながら鼻で笑った。
「気配とは電気だ、若宮ちゃん」
「はぁ!?」
「生物の体の中では常に微弱な電気が生じている。人間の脳波、心電図、筋電図等はそれぞれその部位に流れる電気信号を可視化したものだ。生体内で生じるこのような微弱な電気は重なり合い体外に滲み出てベールのように生体を包み込んでいる。これを準静電界という。気配の正体の一部はこの電気の膜だと言われている。但しこれは非常に弱いものなので意図的に感知するのは難しい。だが鮫など一部の動物はこの準静電界を鋭敏にキャッチできるロレンチニ瓶という器官を持っている。このセンサーは視覚や聴覚よりも原始的な器官だ。そしてこのロレンチニ瓶に似た器官が人間にも存在する。元医者の若宮ちゃんなら知ってるよな?」
「……」
「おや、知らない? ああ、若宮ちゃんは偽医者だったな」
「に、偽医者言うな!」
俺の抗議など意に介さず、誉は芝居がかった仕草で右手の人差し指を立てた。
「答えは内耳だ。鮫のロレンチニ瓶の奥には毛の生えた細胞、有毛細胞が数多く存在し、これらが微弱な電界を察知すると考えられている。人間の内耳にある蝸牛という器官にも有毛細胞があり、外から入ってきた音を電気信号に変えて神経に伝えている。内耳は人体の中で一番高い電圧が生じている器官だ。脳や心臓よりも高い。つまりこの内耳がロレンチニ瓶の名残で、人間も無意識に準静電界を察知できていると考えられる。ここまではOK?」
ピッ、と長い人差し指を鼻先に突き付けられて、俺は思わず頷いてしまった。
「では話を少し戻そう。人間は生きている限り電気を纏っている。喋らなくても、動かなくても、生命活動で電気は生じる。さすがの俺でもそれを消すことはできない。できたら死んでる」
「そ、れは、そうだけど」
「なのに若宮ちゃんは俺に気配を消すなと言う。気配イコール電気は死ななきゃ消えないのに。すなわち若宮ちゃんのロレンチニ瓶は俺の準静電界に鈍感になっている。何故か?」
「……」
「それは若宮ちゃんの体が俺を受け入れているからだ!」
「は!? ちょ、変な言い方すんな! てか早く服着ろよ!」
怒鳴る俺を華麗に無視し、誉は大仰に腕を広げた。
「若宮ちゃんは俺が側に居ることを無意識に当然のことと思っている。最初はあんなに警戒してたのになぁ。毛を逆立てた猫みたいで面白かったのに」
「ふざけんなっ」
片方の口角だけを器用に上げてニヤリと笑う誉に有効な反論など思いつくはずもなく、俺は眉間にグッと力を込めた。
「とにかく服を着ろ!」
再度言い捨て、上半身を晒したままの誉から目を逸らし、まな板の上の鶏肉に乱暴に包丁を入れる。
背後で、ふ、と空気が揺れる。振り向かなくても誉がまた笑ったのだと分かる。俺の内耳は誉の準静電界の揺らぎをちゃんとキャッチしている。俺は鈍くない。受け入れてなどいない。
徐に、誉が冷蔵庫を開ける音がした。
「ほら正解だ。若宮ちゃんも案外ミーハーだな」
誉がルビー色の瓶を手に取るのを横目で窺いながら、小さく舌打ちをする。
どうして俺がワインを買ってきたことがすぐバレたのか。それを聞いたらこの男はまた偉そうに己の推理を披露するだろう。絶対に聞いてやるものか。
というか早く離れてほしい。
いつも隙のない服をきっちり着込んでいる男が、無防備に肌を晒して俺のパーソナルスペースを侵している。しかも無駄に筋肉質で彫刻のような体だ。正直居心地が悪いし、目の遣り場に困る。
俺は無心で包丁を動かした。
鶏もも肉の余分な脂を取り除く。一口大に切り分ける。黙々とバットに並べる。
だいたいこの誉という男は、普通の人間が持っている普通の感覚が全て欠落しているのだ。むしろ、遠慮だとか羞恥だとか謙遜だとか我慢だとか、そういう人として大切だと思われるものを小馬鹿にしている節がある。
いつだったか、捜査での誉の振る舞いがあまりに奔放すぎて、俺は堪らず懇願したのだ。頼むから少し空気を読んでくれ、と。
その時の誉の返事は、
「空気は吸うものだろ、若宮ちゃん」
だった。俺は心底脱力した。
今日何度目かの溜め息を吐いて2枚目の鶏肉に包丁を当てた時、不意に刃ががくりと揺れた。
同時に、右肩と背中に重み。
「普段鶏もも肉は高いからと滅多に買ってこない吝嗇家の若宮ちゃんが、もも肉のみを料理しようとしている。傍らには醤油と味醂。確実に照焼きだろう。それからこの出しっぱなしのカマンベールチーズ。室温に戻そうとしているということは今晩食べる気だ。そして今日は11月21日。甘辛いチキンと重くないチーズは軽いワインに合う肴だ。そこに11月の第3木曜とくれば、そう、ボジョレー・ヌーヴォーだろ?」
俺の右肩に顎を乗せたまま、誉が流れるように囁く。
耳殻を擽る生温い吐息と、肩に伝わる振動、背中を覆う筋肉の張り。
カッと頬が燃えて、俺は慌てて身を捩った。
「刃物持ってんだぞ危ないだろ!」
「おっと」
振り上げた俺の右手には包丁が握られたまま。だが誉はそれを難なくかわし、一歩下がってわざとらしく形良い眉を顰めた。
「危ないなぁ」
「あんたが言うな!」
包丁を突き付けて誉を睨む。
「若宮ちゃん、どうどう」
「俺は馬じゃない!」
けれどいくら本気の怒りをぶつけても、目の前の男には暖簾に腕押
し、糠に釘。
「どうしてボジョレーなんだ?」
「あ?」
「常から倹約を心掛けている若宮ちゃんがボジョレーを買ってきた理由。それが分からない」
倹約せざるを得なくさせてるのはどこのどいつだよと喉まで上がった言葉は、誉のやけに真剣な眼差しを受けて腹の中に落ちていった。
「……」
この男の目が苦手だ。いや苦手なのは目だけじゃないけれど。それこそ全てが苦手と言ってもいいくらいだけど。
でも、この目は特に。
黒々として、深くて、静謐な。
どうしてそんな目で俺を見る?
「……別に。ちょっと、思い出しただけだ」
「何を?」
当然のように突っ込んでくる誉から目を逸らし、俺は再びキッチンに向き直る。
「赤羽のことを」
零した途端に、後悔が押し寄せた。きっとまた笑われる。もう既に死んだ人間を、自分の預かり知らぬ所で勝手に絶望し自ら死を選んだ人間を思うことを、この男は陳腐だと言うだろう。
それならそれでもいいか。笑えよ。俺はあんたと違って平々凡々な人間だ。あんな最期を迎えた友人との思い出に浸って、彼を悼みたいと思った。普段買わないワインや肉やチーズでほんの少し贅沢をして。それは俺の中ではごく普通の感覚なんだ。
それが愚かだと言うなら笑えばいい。
誉の嘲笑を覚悟して俺は自嘲気味に頬を歪めた。
けれど、誉から返ってきた言葉は「ふぅん」という素っ気ない一言だけだった。
「じゃあ今夜は一緒に飲もう、若宮ちゃん」
「……え?」
「準備ができたら呼んでくれ」
言い置いて、誉はあっさりと踵を返す。
「ちょっ……、あんたの分まで作るなんて言ってねーし!」
「若宮ちゃんは一人で鶏肉2枚も食べるのか?」
「……っ」
声を張った俺に一瞥もくれず、誉は自室に向かって歩いていく。
型板ガラスの填まったドアの向こうに消える背中を、俺は呆然と見送ることしかできなかった。
実家からくすねてきたんだと破顔して、ボジョレー・ヌーヴォーを携えた赤羽が俺のアパートにやって来たのは、確か大学3年の冬。
当時苦学生だった俺はサークルの飲み会にも頻繁には参加できなかったので、赤羽が酒を持って遊びに来てくれることがままあった。
裕福な家庭に育った赤羽は、もしかしたら俺を憐れんでいたのかもしれない。でもきっとそれは無意識にだ。恵まれた境遇を赤羽が鼻にかけることはなかった。そういう男だった。だから俺も彼に心を開けたのかもしれない。
初めて飲んだ赤ワインは大して美味いとは思わなかったけれど、他愛もない話をしながら赤羽とダラダラ酒を飲み交わした夜は、苦しかった大学生活の中で数少ない穏やかな思い出だった。
「まあ、それだけのことだよ」
そう締め括って、俺はグラスの底に残った最後のボジョレーをぐいと呷った。
鶏肉2枚分の照焼きも既に互いの胃袋に消えている。
皿の上に残っているのは、付け合わせに添えたパセリと乾きかけのチーズが数切れ。
テーブルを挟んで座る誉は、どこからか出してきたウイスキーをロックで飲んでいた。
ワインはほとんど俺が飲んだような気がする。誉も2杯は飲んだはずだけど、その掌中のグラスの中身はいつの間にかウイスキーに変わっていた。マジシャンかよ、と心の中で突っ込んで、俺は一人悦に入った。
つまり今、俺は酔っている。
久々に飲んだワインは予想以上に美味くて、想像以上に効いた。頭がフワフワして、何だか気分が良い。
「あんたにはつまんない話だったろ?」
チーズを一切れ口に放り込みながら、目の前の男に向かって言った。
先程まで、ボジョレーとボージョレはどちらがよりフランス語に忠実なのかとか、単なる試飲用に作られる新酒のボジョレー・ヌーヴォーをこれほど持て囃す日本人の国民性だとか、販売促進の為に企業が仕掛けたイベント―― ボジョレー然り、バレンタイン然り、他にもホワイトデーやクリスマス等々―― に踊らされる愚かさだとかを饒舌に語っていたのに。
今、誉は僅かに目を細めて、静かにグラスを傾けている。
無駄に絵になるその仕草に釣られて、俺はウイスキーのボトルに手を伸ばした。
「なあ、俺も飲んでいい?」
「やめておけ。二日酔いになるぞ」
「大丈夫だって。……多分」
「せめて水割りにしろ」
誉の忠告を無視して、グラスにウイスキーを注ぐ。
「そういえば初めて飲んだウイスキーも赤羽が持ってきたやつだったな。全っ然美味いと思えなくてさ、それでも粋がって飲んで、次の日見事に吐いて……うわ……」
昔を語りながら口に含んだ強い酒はやっぱり美味くも何ともなく、俺は盛大に眉を顰めた。
「きっつ……」
「……そうやって、肉体を失っても赤羽栄光は若宮ちゃんの中で生きていくんだな」
カラン、と、誉のグラスの中で氷が鳴った。
「……妬けるな」
誉が低く呟く。
俺は誉の顔をまじまじと見つめた。耳に入った言葉の意味を理解するまで、数十秒かかった。
「……は? なんであんたが妬くんだよ」
ウイスキーの入ったグラスを、無造作にテーブルに置く。
「嘘つけ。俺なんてどうでもいいくせに」
琥珀色の液体が指先を濡らし、ああもったいない、と頭の片隅で思った。
「俺なんてただの運転手だろ? あんたにとっては、タイミング良く現れた都合の良い人間なんだろ?」
睨みつけても、誉は眉ひとつ動かさない。
「他にもっと役に立つ人間がいたら、どうせあんたはそっちに行くんだ」
置いたグラスを再び持ち上げて、強い酒を喉に流し込む。熱い。
「置いていくなら、期待させんな」
グラグラと視界が歪んで、俺はソファーの背凭れに背中を投げ出した。
そうだ。この男もいつか俺の前から消える。
お前だけが頼りだとか甘い言葉で煽てておいて散々こきつかって振り回して、そして、俺を置いていく。
俺の中に、消えない痕を残して。
「……若宮ちゃん」
ソファーがぎしりと軋む。
酔いが回った重い頭をゆるゆる持ち上げると、傍らに座った誉が俺の手からグラスを奪っていった。
「……なに?」
「自己評価は低いくせに、承認欲求が強い。矛盾してるな」
誉の目が、黒曜石のようなそれが、俺を見ている。
吸い込まれそうだ、と、ふと思う。
「……全く、タチが悪い」
アルコールに濁った視界の中で誉の唇が歪むのを、俺はぼんやりと眺めていた。
その手に握られたグラスが口元を隠すのを、ただ見ていた。
男の顔が徐に近づいてきても、動けなかった。
「……っ」
鼻を突くアルコールの匂い。
弛緩した唇に触れる熱。
口移しでウイスキーを注がれたのだと認識すると同時に、粘膜を焼く刺激に体が強張る。
飲み下せなかった液体が口端から溢れて、顎を伝って首筋を擽った。
「……ん、……ぅ」
追い討ちをかけるように厚い肉が口腔に差し込まれ、ざらりと上顎をなぞって出て行く。
「……なんで」
焦点がぼやけるほど近距離で、誉がまたウイスキーを呷る。
再び唇を重ねられ、俺は反射的に目を閉じた。
温いアルコールが容赦なく口腔内に流れ込んでくる。
舌が痺れる。独特のスモーキーな香りが鼻腔を抜けていく。
唇を塞がれたまま吐き出すこともできず、否応なしに喉に送り込まれる刺激物をごくりと飲み下した。
ゆっくりと誉の舌が侵入してくる。
アルコールに焼かれ感覚の鈍くなった粘膜を熱い肉が縦横無尽に嬲り、唾液を掻き混ぜる。
くちゅり、と耳を塞ぎたくなるような水音が聞こえて、俺は反射的に誉の胸元を押した。
「……っ、……ふ」
誉の舌も、唾液も、呼気も、ウイスキーの味がする。
擦り合わせた舌先の痺れが、遅効性の毒のように全身に広がっていく。
頭がぐらぐらする。舌を絡め取られるたび、脳までぐちゃぐちゃにされているような感覚。
―― 気持ちいい。
「…………ぁ、」
口蓋を擽るように舐めた後、誉の舌はするりと俺の中から出て行った。
目蓋を上げると、揺れる視界の中で誉がじっと俺を見ていた。
あの目で。
深く、静謐で、凪いだ湖面のような。
「……なん、で」
駄目だ。もう目を開けていられない。
喘ぐように、大きく息を吐き出す。
こんなに酔ったのは初めてかもしれない。
体が、重い。
「……上書き、かな」
落ちていく意識の片隅で、誉の低い囁きを聞いたような気がした。
見慣れた天井。カチャカチャと耳障りな、聞き慣れた金属音。
ああ朝か、と思う。
のそのそと布団から這い出して、途端襲ってきた頭痛に俺は思わず呻いた。
「いってぇ……」
そのまま枕に逆戻りする。
痛みのおかげで思考がはっきりしてくる。
そうだ、これは二日酔いだ。昨日久々に酒を飲んだんだった。思い出すと同時に吐き気も込み上げてきた。
ベッドの上で背を丸めながら、靄がかかったような記憶を辿る。気紛れでワインを買って、つまみを作って、誉と一緒に飲んで、それから。
あれ、いつベッドに入ったんだっけ。
「若宮ちゃん、コーヒー」
不遜な声が思考を断ち切る。
反射的にがばりと体を起こし、俺は偉そうな同居人に向かって怒鳴った。
「それくらいやれよ! ……痛っ」
頭が割れそうなほど痛い。自分の声で自分にダメージを与えてどうするんだ、俺。
呻く俺に見向きもせず、誉はいつものように何かの基板を弄っている。
何を言ってもこの男が動かないのは分かっているので、俺は仕方なくベッドから立ち上がった。誉にも聞こえるように盛大に溜め息を吐きながら。
体が鉛のように重い。一歩歩く度に頭がガンガンと痛む。鳩尾の辺りから何かがせり上がってくる。最悪だ。
漸くキッチンまで辿り着き、コーヒーを手に取った所で、また声が飛んできた。
「だから言ったんだ、やめておけと」
「は!? あんたが無理矢理飲ませたんだろ!?」
言ってから、しまったと思った。
誉がゆっくりと振り返る。
俺は慌てて視線を落とした。
昨夜の記憶はしっかりと俺の中に残っていた。消えてくれて良かったのに。いや、消えてほしかったのに。
誉がこちらを見ている。俺は顔を上げられない。コーヒーメーカーに水を入れ、ペーパーフィルターをセットし、二人分の粉を量る。
ふ、と笑う気配がして、再び金属音が鳴り始める。
詰めていた息をそっと吐いて、俺はコーヒーメーカーのスイッチを押した。
何も変わらない、いつもの朝。
あんたが言わないなら、俺も黙っておく。
この胸のざわめきは、二日酔いのせいにしよう。それが正解かは、分からないけれど。
答えはまだ、出したくなかった。
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