コード・ブルー
今季最大勢力と言われ、各地に強風で大きな被害をもたらした台風が去った。
台風一過、朝から眩しすぎて目も眩むような太陽が青空に鎮座している。ヘリにとっては絶好の日和だが、今日はまだ出動が無い。
フライトスーツを身に纏った藍沢は、病棟の廊下をゆっくりと歩いていた。ホットラインが鳴らなくてもやるべき仕事は沢山ある。ICUの患者の管理や、フェローの指導、煩雑なデスクワークも嫌と言うほど。それでもこんな静かな日は、歩む速度も自然と落ちる。
束の間の平穏に身を委ねつつ救命のスタッフステーションに向かっていた藍沢の前方に、見知った背中が現れた。黒のスクラブに包まれた広い肩の上、ふわりと波打つ髪。足元まで大きく取られたガラスの向こう、中庭を望む窓辺に佇む姿を認めて、藍沢の足はよりゆったりと床を踏み締めた。
声が届く距離を測りながら歩を進める。
だが藍沢の口からその名が発せられるより一瞬早く、男がくるりと振り返った。
「藍沢」
柔らかいテナーで呼ばれる自分の名前が耳に心地よい。燦々と降り注ぐ上午の陽光の中に立つ新海を見つめて、藍沢は僅かに目を細めた。
「おはよ」
「ああ」
「今日は日勤か?」
「そうだ。お前もか?」
「俺は当直明け。やっと帰る所だよ」
肩を竦める新海の傍らで藍沢は足を止める。近くで見れば、その顔には珍しく疲労の色が浮かんでいた。
「何かあったか?」
「いや。急患も急変も無し。何も無さすぎてかえって疲れたよ」
「そうか」
「時間がありすぎるとどうも調子が狂うな。余計なことばかり考える」
ガラスに半身を凭れさせ新海が腕を組んだ。視線は藍沢から離れ、窓の外に移る。
つられるように藍沢も外を見た。
地面を覆う芝生、所々配置された低木、生垣。煉瓦ブロックの花壇には鮮やかな花。いつもは意識せず通り過ぎるだけの景色だ。それを、新海はじっと眺めている。
「……台風でやられちゃったな」
独り言のような呟きに、藍沢は中庭から新海の横顔に目を戻した。
「何が」
「マリーゴールド」
新海が顎で示したのは、窓のすぐ下にある花壇だった。
オレンジ色のその花は、よく見れば茎が折れ曲がり、花弁も歪に開いて哀れな姿を晒している。昨夜の台風による風雨のせいなのは一目瞭然だった。
「勿体ないな。せっかく綺麗に咲いてたのに」
「仕方ないだろう、台風は」
「ああ、そうだな」
にべもない藍沢の言葉に同意しつつも、新海の表情は些か暗い。
いつも自信に満ち溢れている男の常ならぬ顔に居心地の悪さを覚え、藍沢はグ、と拳を握った。
時折背後を通り過ぎる人の気配。感じる視線。それを少しだけ煩わしく思いながら、藍沢は握った人差し指に親指を擦り付けた。
「なあ藍沢、マリーゴールドの花言葉、知ってるか?」
花言葉。
もうすぐ四十路を迎えようとしている男の口から出た可愛らしい単語に、藍沢は面食らう。
「いや」
「だろうな」
僅かに眉を顰めた藍沢を横目に見て、新海がゆるりと口角を上げた。
「マリーゴールド全般の花言葉は『絶望』『悲嘆』『別れの悲しみ』」
「……随分ネガティブだな」
「そう。でもポジティブな花言葉もある」
「……」
「『健康』『生命の輝き』『生きる』。両方病院にぴったりじゃないか? あ、不謹慎かな」
「……詳しいんだな」
「母親が花が好きでさ、頼んでもいないのにいろいろと教えられたんだ」
思い起こせば藍沢の祖母も、毎年猫の額ほどの庭先に花を植えていた。その中にはマリーゴールドもあったような気がする。
藍沢がそう言うと、新海は何故か少しだけ嬉しそうに眉尻を下げた。
「マリーゴールドは虫を寄せつけないからガーデニングには欠かせない花らしい」
「そうなのか」
「母の受け売りだよ。俺はそもそも花にたいして興味は無いんだ」
「俺もだ」
「でもさ、不思議と覚えてるもんだよな、子供の頃に聞いた話って」
どこか懐かしそうな遠い目で、新海は窓下のひしゃげたマリーゴールドを見下ろす。
「花言葉って、同じ花なのに色によっても変わるんだ。このオレンジのマリーゴールドは『真心』」
「……」
「その由来になったのはギリシャ神話らしい」
新海の話はどこに向かっているのか。今、何故自分にそんな話を
するのか。
理解できない藍沢は、けれどそれを止める理由も見つからなくて、ただ黙って新海の声に耳を傾けた。
「クレムノンという美少年が太陽の神であるアポロンに恋をした。毎日太陽を見上げている少年に、やがてアポロンも恋をした。けれど二人の関係に嫉妬した雲の神がアポロンを隠してしまう。見えなくなった太陽を思い続けてクレムノンはやがて死んでしまう。その一途な愛に胸を打たれたアポロンはクレムノンをオレンジのマリーゴールドに変えた」
「……」
「という話だ」
「……それも母親から?」
「そう。子供の頃与えられた絵本はグリム童話よりギリシャ神話の方が多かったよ」
新海の母はなかなか高尚な感性の持ち主だったようだ。新海を見ていると、それも何となく納得がいく。
「藍沢は昔読んだ絵本とか覚えてるか?」
新海の視線は窓の外に向いている。彫りの深いその横顔を目の端に置きながら、藍沢はガラス越しに中庭の遠くを見遣った。
幼少期にあまり良い思い出はない。できれば思い出したくない。なのに藍沢の思考は自然と己の記憶を辿る。
「……俺は、祖母に育てられた。そのせいかどうかは分からないが、子供の頃読んだ記憶があるのは日本の昔話がほとんどだ」
「へえ、そうか」
新海と互いの家族の話をするのは初めてだった。もう七年も同じ科で一緒に働いてきたのに、藍沢が新海について知っているのは美しいオペの技術だけと言ってもいい。
そう気付いて少しだけ寂しさを感じた自分に藍沢は内心戸惑った。同時に、自分の生い立ちを知っても表情を変えない新海に安堵した。
両親が居ないと言えば皆似たような反応をする。沈黙し、或いは口籠り、一様にばつが悪そうな顔で謝罪を口にする。
目の前の男がそんな陳腐な態度を取らなかったことが、素直に嬉しかった。
「可笑しいな、今更こんな話をしてるなんて。でも嬉しいよ、お前のことを聞けて」
どうやら同じことを考えていたらしい新海が、やっと藍沢に顔を向けて笑った。
「なあ藍沢」
「何だ」
「来年お前はトロントに行くし、今だっていつ脳外に戻ってくるか分からない。まだしばらく救命に居るつもりなんだろ?」
「ああ」
「だから言うよ」
どこか吹っ切れたような表情で、新海は真っ直ぐに藍沢の双眸を射抜く。
「藍沢、お前は俺のアポロンだよ」
新海の穏やかな声音が、藍沢の鼓膜を震わせた。
耳には届いたが、咄嗟に意味を理解できない。
この男は何を言っているんだろう。俺がアポロン? さっきの神話に繋がっているのか?
アポロン。太陽。クレムノンが恋焦がれた神。
俺のアポロン。新海はそう言った。
ならば。
「……お前がクレムノンか?」
困惑する藍沢の唇から出たのはそんな言葉だった。
新海の口が文字通りポカンと開く。
「藍沢、お前」
それだけ発して半開きのまま止まってしまった新海の口元を、藍沢は不思議そうに眺めた。
新海のこんな気の抜けた顔は珍しい。いや、初めて見る。自信家でそつがないこの男でも、こんな顔をすることがあるのか。
感心しながらもいつもの無表情な藍沢から、表情を隠すように新海は俯き前髪を掻き上げた。
その面は男の藍沢から見ても
整っている。
幅広の二重、やや下がり気味の大きな目、高い鼻梁、形良い唇。
まるで古代の彫刻の如く。
「アポロンなら、新海、お前の方が似合いだ」
顔立ちといい髪型といい、新海の方がギリシャ神話の神々のような容姿をしていると思う。
真面目な顔でそう言った藍沢に、新海は僅かに目を見張って、それからくしゃりと相好を崩した。
「はは、ほんと、お前って……」
「何がおかしい」
「ごめん、でもさ……全く、藍沢らしいよ。お前全然分かってないだろ」
「……」
「俺がアポロンだとしたら、藍沢、お前がクレムノンになってくれるか?」
「……俺は少年じゃない」
「いや、そこじゃないだろ。お前わざとやってる?」
「何のことだ」
「あー……、参った。一世一代の告白をこう躱されるとは思わなかった」
「躱す……?」
「今分かった。鈍いってことは最強だな」
お前は最強だよ。
さも愉快そうに、けれど何故か少し寂しそうに、新海は肩を竦めて含み笑った。
自分の発言のどこがそんなにおかしかったのか。自分ではよく分からない。鈍感だとはよく言われる。救命の同期の連中からは特に。この上新海からも言われるなら、自分はやはり鈍いのだろう。
ただ、同期の奴らはいい。でも新海に呆れられるのは嫌だと、藍沢は思った。
眉間に力の入った藍沢の様子を見て、新海の眉が下がった。
「ああ悪い。怒らせたいわけじゃないんだ」
「別に怒ってない」
「そうか?」
訝しげな新海の視線を受けながら藍沢は考える。新海の言葉。自分が正しく受け取っていない言葉。
アポロン。クレムノン。オレンジのマリーゴールド。花言葉。真心。嘘偽りのない心。一世一代の告白。
告白。
お前は俺のアポロンだよ。
「ーーじゃあな藍沢。俺は帰るよ」
とん、と肩に置かれた手の感触で、藍沢は我に返った。
振り返れば、新海の背中が遠ざかっていく。
「新海」
咄嗟に呼び止めていた。
駄目だ。このまま離れてはいけない。
「新海」
もう一度呼べば、新海が徐に振り返る。
藍沢の顔を見て、新海は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「俺の言ったこと、分かった?」
「……理解はした、と思う」
「悪い、忘れてくれ」
「……」
「やっぱり言うべきじゃなかった。困らせてごめん」
「困ってない」
脊髄反射のように、藍沢の口から否定の言葉が漏れた。
新海の大きな目がじわじわと一層大きくなっていく。
ああ今日はこいつの珍しい顔ばかり見るな、と、藍沢は思わず口許を緩めた。
見つめ合う二人の側を胡乱な目つきの看護師が通り過ぎていく。
「……藍沢」
「何だ」
「そんなこと言ったら、期待するぞ」
「……」
「いいのか」
「……分からない」
正直にそう答える。
新海が途方に暮れたように肩を落とした。
今は本当に何も分からない。どうしていいのか分からない。自分の気持ちも分からない。途方に暮れたいのはこっちの方だ、と藍沢は思う。
でも。
「分からない。けど、お前ともっと話がしたい」
新海のことを、もっと知りたい。
そう思ったのも、確かな気持ちだった。
「……藍沢」
「新海、明日のシフトは?」
「……え? 午後から、だけど」
「今日の夜は?」
「……空いてる」
「飲みに行こう」
「……おい」
「後で連絡する」
一方的に言い置いて、藍沢は新海に背を向けた。
傷病と同じだ。藍沢は考える。その疾患や外傷のことをよく知れば、対処法も自ずと明らかになる。
新海のことも。
分からないなら学べばいい。理解できるまで、納得できるまで。
アポロンに恋をしたクレムノン。
暗に自分をクレムノンだと言った新海。
恋するということは、ドーパミンが過剰分泌されてセロトニンが不足している状態だ。それによって鬱と同じような症状が出ることもある。いつかどこかの精神科医の著書で読んだ。恋の病という言葉は決して比喩ではない。専門外だが、興味深いと思う。
今、自分が感じているこの微かな高揚も、ドーパミンのせいだろうか。
そうだとしたら。
何が変わる?
鳩尾のざわめきと呼応して、藍沢の足は早くなる。
さっきまでの、新海と顔を合わせるまでの穏やかな時間は、もうどこにも無かった。
確かなのは、これから訪れるかもしれない変化を、それがどんな形であれ、きっと自分は受け入れるだろうということだけだった。
台風一過、朝から眩しすぎて目も眩むような太陽が青空に鎮座している。ヘリにとっては絶好の日和だが、今日はまだ出動が無い。
フライトスーツを身に纏った藍沢は、病棟の廊下をゆっくりと歩いていた。ホットラインが鳴らなくてもやるべき仕事は沢山ある。ICUの患者の管理や、フェローの指導、煩雑なデスクワークも嫌と言うほど。それでもこんな静かな日は、歩む速度も自然と落ちる。
束の間の平穏に身を委ねつつ救命のスタッフステーションに向かっていた藍沢の前方に、見知った背中が現れた。黒のスクラブに包まれた広い肩の上、ふわりと波打つ髪。足元まで大きく取られたガラスの向こう、中庭を望む窓辺に佇む姿を認めて、藍沢の足はよりゆったりと床を踏み締めた。
声が届く距離を測りながら歩を進める。
だが藍沢の口からその名が発せられるより一瞬早く、男がくるりと振り返った。
「藍沢」
柔らかいテナーで呼ばれる自分の名前が耳に心地よい。燦々と降り注ぐ上午の陽光の中に立つ新海を見つめて、藍沢は僅かに目を細めた。
「おはよ」
「ああ」
「今日は日勤か?」
「そうだ。お前もか?」
「俺は当直明け。やっと帰る所だよ」
肩を竦める新海の傍らで藍沢は足を止める。近くで見れば、その顔には珍しく疲労の色が浮かんでいた。
「何かあったか?」
「いや。急患も急変も無し。何も無さすぎてかえって疲れたよ」
「そうか」
「時間がありすぎるとどうも調子が狂うな。余計なことばかり考える」
ガラスに半身を凭れさせ新海が腕を組んだ。視線は藍沢から離れ、窓の外に移る。
つられるように藍沢も外を見た。
地面を覆う芝生、所々配置された低木、生垣。煉瓦ブロックの花壇には鮮やかな花。いつもは意識せず通り過ぎるだけの景色だ。それを、新海はじっと眺めている。
「……台風でやられちゃったな」
独り言のような呟きに、藍沢は中庭から新海の横顔に目を戻した。
「何が」
「マリーゴールド」
新海が顎で示したのは、窓のすぐ下にある花壇だった。
オレンジ色のその花は、よく見れば茎が折れ曲がり、花弁も歪に開いて哀れな姿を晒している。昨夜の台風による風雨のせいなのは一目瞭然だった。
「勿体ないな。せっかく綺麗に咲いてたのに」
「仕方ないだろう、台風は」
「ああ、そうだな」
にべもない藍沢の言葉に同意しつつも、新海の表情は些か暗い。
いつも自信に満ち溢れている男の常ならぬ顔に居心地の悪さを覚え、藍沢はグ、と拳を握った。
時折背後を通り過ぎる人の気配。感じる視線。それを少しだけ煩わしく思いながら、藍沢は握った人差し指に親指を擦り付けた。
「なあ藍沢、マリーゴールドの花言葉、知ってるか?」
花言葉。
もうすぐ四十路を迎えようとしている男の口から出た可愛らしい単語に、藍沢は面食らう。
「いや」
「だろうな」
僅かに眉を顰めた藍沢を横目に見て、新海がゆるりと口角を上げた。
「マリーゴールド全般の花言葉は『絶望』『悲嘆』『別れの悲しみ』」
「……随分ネガティブだな」
「そう。でもポジティブな花言葉もある」
「……」
「『健康』『生命の輝き』『生きる』。両方病院にぴったりじゃないか? あ、不謹慎かな」
「……詳しいんだな」
「母親が花が好きでさ、頼んでもいないのにいろいろと教えられたんだ」
思い起こせば藍沢の祖母も、毎年猫の額ほどの庭先に花を植えていた。その中にはマリーゴールドもあったような気がする。
藍沢がそう言うと、新海は何故か少しだけ嬉しそうに眉尻を下げた。
「マリーゴールドは虫を寄せつけないからガーデニングには欠かせない花らしい」
「そうなのか」
「母の受け売りだよ。俺はそもそも花にたいして興味は無いんだ」
「俺もだ」
「でもさ、不思議と覚えてるもんだよな、子供の頃に聞いた話って」
どこか懐かしそうな遠い目で、新海は窓下のひしゃげたマリーゴールドを見下ろす。
「花言葉って、同じ花なのに色によっても変わるんだ。このオレンジのマリーゴールドは『真心』」
「……」
「その由来になったのはギリシャ神話らしい」
新海の話はどこに向かっているのか。今、何故自分にそんな話を
するのか。
理解できない藍沢は、けれどそれを止める理由も見つからなくて、ただ黙って新海の声に耳を傾けた。
「クレムノンという美少年が太陽の神であるアポロンに恋をした。毎日太陽を見上げている少年に、やがてアポロンも恋をした。けれど二人の関係に嫉妬した雲の神がアポロンを隠してしまう。見えなくなった太陽を思い続けてクレムノンはやがて死んでしまう。その一途な愛に胸を打たれたアポロンはクレムノンをオレンジのマリーゴールドに変えた」
「……」
「という話だ」
「……それも母親から?」
「そう。子供の頃与えられた絵本はグリム童話よりギリシャ神話の方が多かったよ」
新海の母はなかなか高尚な感性の持ち主だったようだ。新海を見ていると、それも何となく納得がいく。
「藍沢は昔読んだ絵本とか覚えてるか?」
新海の視線は窓の外に向いている。彫りの深いその横顔を目の端に置きながら、藍沢はガラス越しに中庭の遠くを見遣った。
幼少期にあまり良い思い出はない。できれば思い出したくない。なのに藍沢の思考は自然と己の記憶を辿る。
「……俺は、祖母に育てられた。そのせいかどうかは分からないが、子供の頃読んだ記憶があるのは日本の昔話がほとんどだ」
「へえ、そうか」
新海と互いの家族の話をするのは初めてだった。もう七年も同じ科で一緒に働いてきたのに、藍沢が新海について知っているのは美しいオペの技術だけと言ってもいい。
そう気付いて少しだけ寂しさを感じた自分に藍沢は内心戸惑った。同時に、自分の生い立ちを知っても表情を変えない新海に安堵した。
両親が居ないと言えば皆似たような反応をする。沈黙し、或いは口籠り、一様にばつが悪そうな顔で謝罪を口にする。
目の前の男がそんな陳腐な態度を取らなかったことが、素直に嬉しかった。
「可笑しいな、今更こんな話をしてるなんて。でも嬉しいよ、お前のことを聞けて」
どうやら同じことを考えていたらしい新海が、やっと藍沢に顔を向けて笑った。
「なあ藍沢」
「何だ」
「来年お前はトロントに行くし、今だっていつ脳外に戻ってくるか分からない。まだしばらく救命に居るつもりなんだろ?」
「ああ」
「だから言うよ」
どこか吹っ切れたような表情で、新海は真っ直ぐに藍沢の双眸を射抜く。
「藍沢、お前は俺のアポロンだよ」
新海の穏やかな声音が、藍沢の鼓膜を震わせた。
耳には届いたが、咄嗟に意味を理解できない。
この男は何を言っているんだろう。俺がアポロン? さっきの神話に繋がっているのか?
アポロン。太陽。クレムノンが恋焦がれた神。
俺のアポロン。新海はそう言った。
ならば。
「……お前がクレムノンか?」
困惑する藍沢の唇から出たのはそんな言葉だった。
新海の口が文字通りポカンと開く。
「藍沢、お前」
それだけ発して半開きのまま止まってしまった新海の口元を、藍沢は不思議そうに眺めた。
新海のこんな気の抜けた顔は珍しい。いや、初めて見る。自信家でそつがないこの男でも、こんな顔をすることがあるのか。
感心しながらもいつもの無表情な藍沢から、表情を隠すように新海は俯き前髪を掻き上げた。
その面は男の藍沢から見ても
整っている。
幅広の二重、やや下がり気味の大きな目、高い鼻梁、形良い唇。
まるで古代の彫刻の如く。
「アポロンなら、新海、お前の方が似合いだ」
顔立ちといい髪型といい、新海の方がギリシャ神話の神々のような容姿をしていると思う。
真面目な顔でそう言った藍沢に、新海は僅かに目を見張って、それからくしゃりと相好を崩した。
「はは、ほんと、お前って……」
「何がおかしい」
「ごめん、でもさ……全く、藍沢らしいよ。お前全然分かってないだろ」
「……」
「俺がアポロンだとしたら、藍沢、お前がクレムノンになってくれるか?」
「……俺は少年じゃない」
「いや、そこじゃないだろ。お前わざとやってる?」
「何のことだ」
「あー……、参った。一世一代の告白をこう躱されるとは思わなかった」
「躱す……?」
「今分かった。鈍いってことは最強だな」
お前は最強だよ。
さも愉快そうに、けれど何故か少し寂しそうに、新海は肩を竦めて含み笑った。
自分の発言のどこがそんなにおかしかったのか。自分ではよく分からない。鈍感だとはよく言われる。救命の同期の連中からは特に。この上新海からも言われるなら、自分はやはり鈍いのだろう。
ただ、同期の奴らはいい。でも新海に呆れられるのは嫌だと、藍沢は思った。
眉間に力の入った藍沢の様子を見て、新海の眉が下がった。
「ああ悪い。怒らせたいわけじゃないんだ」
「別に怒ってない」
「そうか?」
訝しげな新海の視線を受けながら藍沢は考える。新海の言葉。自分が正しく受け取っていない言葉。
アポロン。クレムノン。オレンジのマリーゴールド。花言葉。真心。嘘偽りのない心。一世一代の告白。
告白。
お前は俺のアポロンだよ。
「ーーじゃあな藍沢。俺は帰るよ」
とん、と肩に置かれた手の感触で、藍沢は我に返った。
振り返れば、新海の背中が遠ざかっていく。
「新海」
咄嗟に呼び止めていた。
駄目だ。このまま離れてはいけない。
「新海」
もう一度呼べば、新海が徐に振り返る。
藍沢の顔を見て、新海は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「俺の言ったこと、分かった?」
「……理解はした、と思う」
「悪い、忘れてくれ」
「……」
「やっぱり言うべきじゃなかった。困らせてごめん」
「困ってない」
脊髄反射のように、藍沢の口から否定の言葉が漏れた。
新海の大きな目がじわじわと一層大きくなっていく。
ああ今日はこいつの珍しい顔ばかり見るな、と、藍沢は思わず口許を緩めた。
見つめ合う二人の側を胡乱な目つきの看護師が通り過ぎていく。
「……藍沢」
「何だ」
「そんなこと言ったら、期待するぞ」
「……」
「いいのか」
「……分からない」
正直にそう答える。
新海が途方に暮れたように肩を落とした。
今は本当に何も分からない。どうしていいのか分からない。自分の気持ちも分からない。途方に暮れたいのはこっちの方だ、と藍沢は思う。
でも。
「分からない。けど、お前ともっと話がしたい」
新海のことを、もっと知りたい。
そう思ったのも、確かな気持ちだった。
「……藍沢」
「新海、明日のシフトは?」
「……え? 午後から、だけど」
「今日の夜は?」
「……空いてる」
「飲みに行こう」
「……おい」
「後で連絡する」
一方的に言い置いて、藍沢は新海に背を向けた。
傷病と同じだ。藍沢は考える。その疾患や外傷のことをよく知れば、対処法も自ずと明らかになる。
新海のことも。
分からないなら学べばいい。理解できるまで、納得できるまで。
アポロンに恋をしたクレムノン。
暗に自分をクレムノンだと言った新海。
恋するということは、ドーパミンが過剰分泌されてセロトニンが不足している状態だ。それによって鬱と同じような症状が出ることもある。いつかどこかの精神科医の著書で読んだ。恋の病という言葉は決して比喩ではない。専門外だが、興味深いと思う。
今、自分が感じているこの微かな高揚も、ドーパミンのせいだろうか。
そうだとしたら。
何が変わる?
鳩尾のざわめきと呼応して、藍沢の足は早くなる。
さっきまでの、新海と顔を合わせるまでの穏やかな時間は、もうどこにも無かった。
確かなのは、これから訪れるかもしれない変化を、それがどんな形であれ、きっと自分は受け入れるだろうということだけだった。
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