その先は圏外の闇
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セックスというものが分からない。
あんなに怖いこと、みんなどうしてできるんだろう。
好きならば、ただ傍にいられるだけで、軽いスキンシップをするだけでも充分じゃないか。
好きだからこそ、身体の隅々まで見られてしまうのは恥ずかしくて無理だ。
そんなことをお姉ちゃんに言ったら、笑っていた。
「きっとこれから分かるよ」
分かってないな、とでもいいたげな苦笑に近い笑顔。
だけどその時腹立たしいというより、惨めに近い気持ちになったことは記憶に新しい。
その先は圏外の闇
西日の空が薄いグレーを描いていた。
太陽が覆われ、その光が鈍りかけている。
ぽつりぽつりと街灯の灯り始めた住宅路を歩く二人の間に、会話はない。
この居心地の悪い、重い空気を打開する一言がどうしても見つからない。
数歩前を歩く彼から伸びる影を辿りながら、その大きな背中を見つめる。
歩くリズムに合わせてゆっくり揺れるテニスバッグ。
その大きな背中を眺めながら、やるせなさに胸が軋む。
付き合って、もう一年とちょっと。
恋人らしく抱きしめあったりキスをするたびに、私は満たされていた。
今思えば真田の本音も我慢も知らずに、安心しきって甘えていた。
いつかそういう日が来ることは、頭のどこかで分かっていたはずなのに。
セックスを、『幸せな気持ちになれるもの』とお姉ちゃんは言っていた。
私の性に対する知識はもっぱら保健体育で培ったもの。
まさに無垢と呼ぶに相応しかった一ヶ月前、触っていた自宅のノートパソコンに残っていたアクセス履歴。
何気なく見てみたそれに、いくつも残っていた赤裸々な文字の痕跡。
きっとお父さんが消し忘れたんだろうとすぐに推測がつき、眉間に皺が寄る。
そして恐る恐る開いたサイトにいたく受けた衝撃。
だけど、「ほんとう」が知りたい私は、ページを閉じることなく眺めるのを止めなかった。
スクロールするたびに、動画を見るたびに、未知の世界の秘密が少しずつ剥がれて解明されて、そして崩れ落ちて。
保健体育の授業の時、先生は言っていた。
教科書にも書いてあった。
セックスは、宇宙に存在する二つの魂の結合。それは、奇跡的で美しい行為なのだと。
精神を強く結びつける、神聖な行為なんだと。
でもその正体は。
私が見たその正体は、理想の教えとは程遠いただの欲求のぶつけ合いで。
こんなことで愛なんて到底見出せない気がした。
これが美しく神聖な行為だと言うのなら、私の価値観は大きく変わってしまう。
なんて滑稽。
同時にすごく怖くなった。
こんなことをしてるお姉ちゃんも友達も、こんなのものを見てるお父さんも、こんなことをしてる世界中の人が。
お父さんとお母さんがこの行為を行った結果として私が生まれてきた、その事実にさえも吐き気がして、汚らしいものを捨てる心地でページを閉じて履歴を削除した。
次の日は真田の顔をまともに見られなかったのを覚えている。
彼だって健康な男子。
もしかしたら真田もあんなものを、と思うととてつもなく恐ろしくなってしまって。
そして早送りで日々は巡って一ヶ月、恐怖心は色褪せても、無くなったわけじゃない。
あの衝撃が、薄れたわけじゃない。
いっそ風化してくれればいいと思うのに。
ふと、足元の影がぴたりと止まった。
倣って私も立ち止まる。
そっと目を上げれば、振り返らない大きな背中。
「……」
「……」
「……しばらく、距離を置かないか?」
やっと喋ってくれたと思ったら、やっぱり出てきたのはそんな科白。
私に否定権なんてあるわけもなくて。
「……そう、だね」
どうしてこうなってしまったのか。
というか、起こるべくして起きた事態かもしれない。
今日もいつものように真田の部活終了を、橙色に染まった教室で私は一人待っていた。
いつもの時刻、扉を開けて真田が来てくれたから、カバンを手に立ち上がった時。
何故か真田は後ろ手で扉をぴしゃんと閉めて、席から立ちあがった体勢のまま困惑する私に腕を回して、そっとされたキス。
ドキドキしながら目を閉じて受け入れたけど、だけどいつものそれとは違う。
唇を食むような長いキスだったのに、やがて軽く開いた唇から長い舌が侵入してきた。
驚きながらもされるがままになっていると、だんだん頭がぼうっとしてきて、私たちの荒い息遣いがやけに頭に響いて聞こえた。
背中に回された腕の力が強くなり、身体が密着する。
ぼうっとした頭の中で小さく鳴り響く警鐘。
しばらくそうされて離れていく唇から、銀の糸がつうと伝うのが見えて恥ずかしくなった。
瞳を逸らすと耳元に真田の顔が下りてきて。
「マコ…今週末、俺の家に来ないか」
「えっ……」
「旅行で誰もいないんだ」
目を見開く。
ふわふわしていた思考は一気に覚醒し、それまで控えめだった警鐘が大きく脳内で鳴り響く。
真田の意図を察した瞬間、私はその胸を勢いよく押しのけてしまった。
途端に離れた大きな身体は、ガタンと後ろの席にぶつかった。
次の瞬間に見た、彼の滅多に見せない表情に、私は初めて自分のしたことの重大さに気付く。
私は、真田を受け入れまいと拒否したんだ。
切なげに眉を寄せる表情から、深く傷付けたことが分かる。
真田の瞳に映る私は、まるで肉食獣を前に怯える小動物のようだった。
拳を握りしめた彼は、少し俯いて「すまない」とぽつり。
そしてすぐ背中を向けると、「帰るぞ」と私から離れて行った。
扉を開けて、このまま取り残してくれてもいいのに、敢えて付いてこいと。
動けないでいる私をちらと見て、来いとばかりに廊下を歩き出してしまった。
おずおずと着いていくも、いつもより早いペースで歩く真田との距離はどんどんと開いていく。
さながらそれは、開いてしまった私達の心の距離のように思えた。
「ごめんね」
発した声は情けなくも震えてしまった。
教室を出てからずっと背を向けていた真田が振り向く。
街灯に照らされたその顔は、よく通る声に相応しい、いつもの凛々しい真面目な表情。
私が好きな真っ直ぐな瞳。
「真田のこと好きなのに。私まだ、……勇気なくて」
私達はまだ子供なのに、子供も産めない身なのに、どうしてセックスをする必要があるんだろう。
どうしてみんな、セックスをしたがるんだろう?
「謝るな。俺が急いてしまったんだ。……悪かった」
「……どうして真田は、私を抱きたいって思うの」
堪えきれずに口をついてでた直接的な言葉に、真田が一層眉を寄せて、少し目を見開く。
私は、一緒に居られるだけで満たされるのに。
「愚問だな」
「…好きだから?」
「当然だろう。俺はお前に触れ、更にお前を知りたいと思っている」
なのまだどうしてと思ってしまうのは、きっと。
私がまだそこに至っていないから。
「キス…だけじゃダメなの?」
「……悪いが俺も男だ」
「うん……」
「……理性の抑制に限界を覚えてしまうのは、己の精神がたるんでいるせいかも知れんな。すまん」
謝らないでほしい。真田が悪いんじゃない。
きっと人間として、男として当然のことなんだよ。
鼻の奥がツンとしてきて、声には出せずに必死で頭をぶるぶる、と振る。
なのに受け入れることができない。
こんなふうに傷つけて、私、本当は真田のこと好きじゃないんだろうか。
分からない。どうして友達は、満たされたように笑うの。
お姉ちゃんはどうしてあんなにも幸せそうに笑うの。
何もかも分からない。私には幼すぎて。
何も言えなくて俯くと、ぽたぽたっとアスファルトに染みができたのが歪んだ視界で僅かに分かった。
どうしてこんなにも臆病なのか歯がゆくて、強く噛んだ唇が震える。
そっと、遠慮がちに両肩を掴まれる。
大好きな大きくて、熱い手のひら。
顔は上げられない。
「泣かせてしまってすまない」
ほとんど聞いたことのない、ひどく優しい声が降ってくる。
見れないけれど、眉を寄せて困惑した表情が滲む瞼の裏に浮かんだ。
「俺のお前が好きだと言う気持ちはこれからも変わらん。だから……」
「……」
「気持ちの整理がつくまで、待っている。……いいか?」
罪悪感と愛しさがごちゃまぜになって、溢れてくる。
制御不能の感情は涙になって、頷いた勢いでますますぼろぼろ落ちていく。
ごめんなさい、ごめんなさい。
嗚咽混じりに繰り返す謝罪に、真田はいつの間に取り出したのか帽子を被せてくれた。
気に病むな、と一言添えて。
真田の優しさが、ズキズキと胸に痛い。
自らが広げてしまった距離にやるせなくなる。
ごめんなさいとまた呟くと、頭の上にそっと重み。
私が見た真実は偽物で、君がいつか「ほんとう」を教えてくれることを。
お姉ちゃんみたいに私も笑うことができる日を、切実に願う。
この頭に乗せられた大きな温もりは、いつまでも私を待っていてくれるんだろうか。
この気持ちを乗り越えるヒントを掴む、その日まで。
涙の粒はまたひとつ、ふたつ、みっつと、薄暗いアスファルトへと吸い込まれていく。
目を瞑って固まるしかない私に、戸惑い気味にも近付いてくるブレザー。
大好きな匂いと、ダイレクトに伝わる温もりと心音と、大きな身体。
簡単に私を呑み込んでしまうその力強さに、どうしても一瞬身構えてしまう。
……大好きなのは、間違いなくひとつの「ほんとう」なのに、怖いなんて。
こうして、どうしようもない気持ちを持て余すたびに私はまた、真田を困苦させてしまうんだ。
2023.4.16
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