The tale from here
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その日、私は部費の計算でモタついて長い時間電卓と戦っていた。
やっとの思いで顧問に提出し終わって部室まで戻ってくると、真田は席を立つなり私に告げた。
「送って行く」
私の返事を待つ間もなく「3分で支度しろ」と言い残して部室を出て行ってしまう。
しばらく固まって、ギギギ、と見上げた掛時計の針はもう19時を回ろうとしていた。
我に帰って大急ぎでペンケースにシャーペンや消しゴムをしまって、机に散らばったプリントや部誌を片付ける。
あの人が3分と言ったら1秒たりともロスは許されない。
もうなんていうか、怖い。
さっきまでの息が詰まりそうな空気感を思い出す。
私の手元をじっと見て、迷うと助け舟を出してくれる彼の顔は終始しかめっ面だった。
あの威圧感が未だに苦手な私は“送っていく”という彼の申し出が、正直素直に喜べずにいる。
鞄をひっつかんで急いでドアを開けると、真田は壁に寄りかかっていて腕時計と私の姿を確認してから鍵をかけた。
超スピードで支度をしたからきっと時間内に間に合ったんだろう。
ほっと胸を撫でおろす。
「行くぞ」
「あ、うん」
着いてこいとばかりに背を向けて歩き出す。
私も何を話すでもなく、その背中にただ付いていく。
大きな背中でテニスバッグが歩調に合わせて揺れている。
それを何となく眺めながら思わずつきそうになるため息を飲み込む。
……あぁ、なんだかなあ。
微妙な居心地の悪さを感じながら着いた駅で、学校を出てから私は初めて彼に話し掛けた。
「真田は確か上り方面だったよね?私下りだから逆方面だし……」
と、改札を通る前にそれとなく言ってみる。
彼に話し掛ける内容といえば部活のことと、こんな必要最低限のことくらいだ。
一人で帰りたい本心を遠回しに伝えてみるけれど、彼はそんな思いに気付く素振りはなく。
「何だ、送って行くと言った以上きちんと家まで送り届けるのが当然だろう」
「いや、悪いからいいよ。一人で大丈――」
「駄目だ」
きっぱりと言い切られた。
この人、結構鈍感なんだよね。しかも強引。
こうなったら何も言えなくて、渋々申し出を受ける他なかった。
「最寄り駅はどこだ?」
「あ……△△駅。ここから5つ目」
「近いな」
そんな会話をしながら、改札をICカードを通して潜って行く。
あぁもうなんでこうなるんだろう。
いや、確かに女生徒1人で帰るには充分遅い時間だし、有難くはあるんだけども。
作業が終わるのをずっと待ってて、遠回りになる上に電車賃を払って送っていこうなんて、彼の義務感の強さを甘く見ていた。
それからホームで電車を待ってる時も、電車に乗り込んでからも何を話すでもなく、ただただ流れていく景色だけを見ていた。
電車が遅れていたせいか途中の駅で大勢の人が乗り込んできて、車両の中は一気にすし詰めになった。
押されて押されて、私はドアの端っこに追いやられる。
『手荷物を引いてください』と呼びかける忙しない車掌の声。
ピーッっと汽笛が鳴ってドアが閉まる。
ぎゅうぎゅうに身体が圧迫されて、腕は痛いし軽く呼吸困難。
あぁ、もうこれ以上押されたら死ぬかもしれない。
……今日って厄日なのかな。
なんて周囲のOLやサラリーマン同様にうんざりしていたら、ふと身体の圧迫が和らいだ。
あれ、と思って見上げると、真田が私の背後にある手すりを握って、その大きな体で少しの隙間を作ってくれているのが分かった。
さっきまで窮屈だったのに、呼吸がしやすい。
『この先電車が揺れます。手すりやつり革にお掴まりください。』
アナウンスの後に車両が大きく揺れた時、真横に伸びた腕に大きな力が込められたのが分かった。
もしかしてもしかなくても、私が潰されないように?
真田は表情一つ変えずにいつもの凛々しい顔をまとって、目線は真っ直ぐ先を見ている。
さもこうするのが当然だと言わんばかりの行動に、なんだか調子が狂う。
こんなに窮屈で、真田だって苦しいはずなのに。
何だかちょっと顔が熱くなってきた気がして、慌てて俯く。
俯いた先には長い脚が触れそうな距離にあって、初めてこの至近距離を恥ずかしく思った。
部活での「副部長」しか知らなかったけど、この人は思ってたより怖い人じゃないのかもしれない。
初めてそんなふうに思った。
やがて着いた最寄り駅で降りる時も、「失礼」と言いながら私の腕を掴んで人波をかき分けてくれて。
無事に下車できたことにホッとして息を吐き出すと、
「磯野、平気か?」
「……」
振り返って、そんなことを聞いてくる。
一見いつもと変わらない生真面目な表情に見えるけど、その瞳の奥に案じているような色が見て取れて。
思わず目を見開いてしまってから、私は初めて真田に笑いかけた。
「うん、ありがとう。助かった」
「気にするな。いい腕の鍛錬になった」
口角を上げて少し自慢げに、何てことはないように言う。
あぁ……ひょっとして今日は厄日じゃないのかもしれない。
すぐに離れて行った大きくて熱い手のひらの感触が、まだ腕に残る。
気恥ずかしさからそこを触りながら、恐る恐るもう一度確認をとることにした。
「……本当に家まで送ってくれるの?歩いて15分くらいかかるけど」
「無論だ。案内してくれ」
「うん、分かった。」
「ご両親にも帰宅が遅くなったことを謝らないといけないしな」
「えぇっ、いいよそんなの。遅くなったの私のせいだし」
「それはそうだな。お前がもう少し俺を頼っていればこんな時間にはなっていなかっただろう」
「……」
その科白にまじまじと真田の顔を見つめてしまう。
目の前にあるのは、さっきまで部室でしていたあのしかめっ面。
その表情の裏には、もっと頼ればいいものを、という率直な思いが隠されていたのだろう。
じっと見上げる私の視線を気にする素振りもなく、まぁそれはそれだ、と続けて。
「磯野のご両親には副部長として挨拶をしていく」
「……ふふっ」
「……?何を笑っている?」
「ううん、何でもない。分かった」
怪訝な顏で見下ろされながらも、上がった口角はしばらく戻りそうにない。
私はこの人のことを誤解していたようだ。
怖いどころか……いや怖いけど、それ以上に可愛いじゃないか。
気が付けば、さっきまでの居心地悪さはだんだん薄れてきている。
街灯が灯る道を二人並んで歩く帰路で、私たちは初めて部活以外の話をした。
友達の話、クラスメイトから聞いた噂話、おすすめの勉強法や個性的な先生の話。
主に私がぎこちなく喋る方だったけど、真田はきちんと話を聞いて、そうかと頷き、たまに少し笑ってくれる。
彼のことをもっと知りたいなぁなんて思いがこの時から密かに、でも確かに芽吹きはじめて。
この日から少しずつ少しずつ、何かが変わり始めた。
2023.3.14
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