缶詰
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ガチャリ、とノブが回る音に凍りつく。
「―――あ」
汗を吸ったユニフォームを剥ぐように脱いだ時に、ミーティング室のドアが開いて。
現れたマコ先輩の丸くした目と、俺の目とがかち合う。
「え、長太郎、まだ残って…――っと、」
息を呑む間もなく、「ゴメン!」と勢いよく元通り消えていく先輩に、慌てて声を投げる。
「い、いえ!先輩こそまだいたんですね」
「部費の報告書、明日提出なんだけど終わんなくて」
ドアの向こうから、少し大きめのマコ先輩の声。
俺は突然の事態に大きく早鐘を打つ心臓を落ち着けるように、一つ深呼吸をする。
制服のカッターシャツに腕を通しながら、「そうなんっすか」と何でもないふうを装った言葉を返して。
「うん。どうしてか合計が合わなくってさー」
「…手伝いましょうか?」
「……、え…、」
零れた動揺の声を、思わずこの耳は拾ってしまう。
遠慮という意味じゃない、動揺の声。
充分予測していた反応だけど、心臓が潰れるように痛む。
「……いい、の?」
遠慮がちな返答に、俺は善人ぶった声で言う。
「もちろん。先輩が良ければ」
「わ、私はもちろん大歓迎。助かるよ」
気まずい空気になることなんて分かってるのに。
明らかに戸惑ってるのに、笑顔を浮かべてそう言う彼女は嘘つきだ。
そんな優しいあなたに比べて、了承することを読んでいた俺は汚いでしょう。
着替え終わってからミーティング室へ入ると先輩は椅子に座って、電卓とレシートの数々、報告書との睨めっこの最中だった。
先輩は眼鏡を外して、入ってきた俺に申し訳なさそうな笑顔を向ける。
「あ、ごめんね、帰るとこだったのに」
「いいんですよ」
先輩を置いて、俺だけのこのこ帰れるはずがないじゃないですか。
そう言いたいけどそんな言葉はきっとまた先輩を困らせるだけだから、胸の奥でもみ消した。
「それでなんだけど、合計が合わないと思ったら、この前ジローと岳人に買出し行かせた時のレシートが見当たらないんだわ」
「え…あ!もしかして芥川先輩のジャージのポケットに」
先輩は俺に頷いて、立ち上がったかと思えば「探しに行くよ」と俺の背中を押して先を促した。
芥川先輩のロッカーはぐちゃぐちゃで、羊の枕やポッキーなど部活とは関係のない、でも先輩らしいといえば先輩らしい物で溢れ返っていた。
そうして勝手ながらごそごそとユニフォームを取り出して、ジャージのポケットを探る。
すると、カサッと指先に感触。
「!あ、ありましたよ」
「ホント!?」
期待に満ちた声がすぐ側で聞こえて、顔が近くにあることを悟る。
瞬間コロンかなんかのいい匂いが鼻腔をくすぐって、俺の心臓はまた早くなっていく。
「え…っと…ホラ」
ぱっと取り出して、これでしょう?って続けようとしたところで先輩が笑い出した。
「ちょ、違う!よく見てよく見て」
え?と思って手にあるものを一目見れば、それはレシートではなく、ただのガムの包装紙。
「アレッ?す、すいません!」
「しっかりしてよ長太郎―」
ケタケタ笑う先輩に苦笑を返して、すぐに逆のポケットを探る。
すると、またしてもカサッと紙の感触。
今度こそと思い取り出すと、間違いなくレシート。
「あ、ホラ今度こそ、これじゃないですか?」
「ん?…あ、これっぽい!」
取り出したレシートをまじまじと見て、ありがとーって笑顔を見せてくれる先輩に俺も笑い返す。
「あって良かったですね」
「うん、ホント」
この和やかな雰囲気が嬉しくて、この瞬間だけ俺は安堵した。
これをきっかけにまた元通り話ができるかもしれない、あの柔らかな空気を取り戻せるかもしれないと、そう思えて。
「じゃあ、早速戻ってやり直してみましょう」
「そうだね、ごめんね付き合って貰っちゃって」
「気にしないで下さい。俺が付き合いたくてそうしてるんですから」
「…あ、ありがとう」
一瞬のぎこちない返答に、俺はまた先輩が戸惑っていることを悟る。
きっと、あの空気が戻ることを感知しているから。
こんなふうに自然体でいたいのに、笑っておしゃべりをしていたいのに。
先輩、俺があなたに寄せる想いが邪魔で迷惑なものでしかないのなら、きっぱりと拒否してくれればいいのに。
それでもそれをしないのは、あなたが優しすぎるから?
はっきり想いを口にしない俺がずるいから?
持たない間を埋めるかのように、ミーティング室に戻った先輩はすぐにまた電卓と向き合って、作業する彼女を俺は真正面の席から手持ち無沙汰のように眺める。
やっぱりどうしても、昔のような空気は戻らないらしい。
シンとした室内にパチパチと電卓を叩く音が少し響いてすぐ、「合計合致」と呟く先輩。
安心したように眼鏡を外して、「帰ろう」と俺を見る。
その安堵した笑顔の理由は合計が無事に合致したこともあるだろうけど、きっとそれだけじゃない。
「家まで送ります」
俺の申し出に、先輩は顔色を変えて困った様子。
そんなの悪いし…と遠回しに断ろうとする先輩に、俺は譲らなかった。
「もう遅いし遅らせてください」
「…でも、」
「先輩とゆっくり話しながら帰りたいんです」
「、…」
そうして言葉に詰まるのも充分予測できた反応。
明らかに困惑の色が滲む表情に俺は優しい笑顔を取り繕って、「お願いします」と止めを刺す。
「…、じゃあ…お願いしていい?」
「はい、喜んで」
気まずい空気を共有する時間が増えてしまう展開を、先輩は望んでなんかいなかっただろう。
俺は本当にずるいやつだと自分でも思う。
それでも先輩、あなたを恋慕う気持ちは捨て切れないから。
いつも何よりもよっぽど残酷な優しさを、あなたは返してくれるから。
惨めにも期待を捨て切れない俺は、またずるい方法であなたにアプローチをし続けてしまうんだ。
外へと続くドアを開けると、大気中に漂う湿気が流れ込んできて。
あ、と言葉を漏らした俺に先輩も次いで声を上げる。
「やだ、雨?」
降り始めたのはさっきだろう。勢いこそ無いものの、たちまち量を増して地面を黒く染めていく滴。
先輩は「置き傘なかったっけ」、と室内へ戻って行く。
俺もその背中に続こうとバタンとドアを閉じると、その音に先輩が一瞬だけ振り返った。
「俺も探します」
そう声を掛けると、ありがとうとぎこちない笑顔を見せる先輩。
ああ、見て取れる警戒心。
よりによってどうしてこのタイミングなんだと、内心で自分のついてなさを嘆いてるんだろうか、彼女は。
ロッカールームをあちこち調べ回る先輩を横目に、俺は自分のロッカーの鍵を開ける。
見つからなければいいんだ、そんなもの。
そう思いながら俺は自分のロッカーを漁る振りをしながら、念のためと置いている折り畳み傘を奥へと隠して「ありませんね」と声を投げる。
さも申し訳なさそうに、声のトーンを落としながら。
すると先輩がやってきて、俺のロッカーを覗き込む。
「そっかー…」
そう納得したふうに呟く先輩の声のトーンから、半信半疑な思いが窺える。
わざわざロッカーを確認しに覗きに来る時点で、信用なんかされちゃいないってのは分かってるんだ。
だから俺は、とことんずるい男になってやりたい。
俺たちはミーティング室に逆戻りして、雨が止むのをしばらく待つことにした。
もちろんそれを提案したのは俺で、走って帰ると言った先輩は少し惑いながらも笑顔を張り付けて了承してくれた。
さっきと同じように向かい合いながら、俺は話題を探しては先輩に振り続けた。
全部なんでもないような、どうでもいい話。
それなりに弾むものの途切れた会話の後の沈黙が、どうしても重い。
以前ならなんとも思わなかったはずの、沈黙。
俺はこの空気に息苦しさを覚えながらも、進んで先輩との時間を共有しようとする。
先輩をこの缶詰のような、閉塞された息苦しい空間にいつまでも閉じ込めておきたいと願ってしまう。
二人きりで、窒息しそうになっても。
「先輩、落ち着かなそうっすね」
「え…?そう?」
「俺と二人じゃイヤですか?」
確信をつく。
もっともっと息苦しくさせて、閉じ込めてしまいたい、彼女を。
「何言ってんの?そんなこと…」
「じゃあどうして目が泳ぐんですか?」
ビクッと反応して、言葉を探すように目を伏せる先輩。
彼女は嘘が下手なタイプだ。きっと自分が思ってる以上に。
ガタン、と俺は静かに立ち上がって。
先輩は、畏怖を滲ませた瞳を上目遣い。
それでも「え、どうしたの?」なんて無理に吊り上げてる口角。
イライラする。そんな無理に繕った余裕なんて何もならない。
先輩、俺はあなたのそんなところが好きでもあり、大嫌いだ。
そう感情に流されるままに、目の前の細い両肩に手を置く。
ゴウン、と低く呻く雷鳴。
「長太郎…?」
ああ、俺は今どんな表情してるんだろう。
先輩はすっかり怯えきって、口元の笑みも消えてしまった。
「逃げられないでしょう?」
顔を近づけながら問い返す。
焦茶色の瞳に、眉を吊り上げた俺がだんだん大きく映し出されていく。
今この唇にキスをしてしまえば、俺たちの関係は変わりますか?
「ちょ…、」
「好きです、先輩。好きなんです」
「ま、まって」
先輩はまだ抵抗するように下を向いて、俺の想いを避けてしまう。
だから逃げられないように、目を逸らせないように、強引に顔を上向かせて。
「…待ちません」
もう嫌だ、うんざりなんだ。足掻いても止められないんだ。
全部あなたのせい。
俺の真剣な声色に、狼狽えるままに先輩はきつく目を瞑る。
そう、もう限界。
逃げられないように蓋をして、二人で窒息しよう。
震える唇に触れる直前、昔先輩が笑いながら言った言葉がふいに過ぎった。
『いつまでも良い後輩でいてよね』
触れた瞬間、何かが急速に色を変えて、砕け散ったような気がした。
2006.5.27
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