ふたり
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静かな部屋。
ジー…とセミの鳴き声が、鼓膜に心地いい。
このまま迫り来る睡魔に素直に意識を預けてしまいたいけど、そうもいかない。
学生にとっては少しの延滞料も痛手だし。
それに俺はそういうことはちゃんとしとかないと気が済まない性質だし。
俺はのっそりとベッドから身体をはがして、レンタルビデオ店のケースに手を伸ばす
時間の針は20時30分を回ろうとしてる。
外は、暗い。
(めんどくさいけど…)
伸びをして、部屋を出る。
玄関に並んだスニーカーに足を突っ込む。
外と玄関の温度差はなく、まとわりつくような暑さにちょっとウンザリする。
チャリを連れ出して、足を引っ掛けて出発。
ゆっくりとペダルを漕ぎ始めると、温い風が涼しく思えていくらか気持ちよかった。
近場のビデオ屋にはほどなくして着いて、駐輪スペースで停める。
降りる際にギイ、と軋む俺の愛車。…そろそろ限界かもしれないな、といつもこの瞬間に思う。
まだ3年の付き合いだというのに、この3年の間に俺の身長が大幅に伸びたせいで今やサドルを最高に上げても足がべったりとついてしまう小ささ。
重量のせいで、乗り降りの際はいつも車体が悲鳴を上げる。
ストッパーが頼りなく支える自転車からカギを抜き取り、安定したのを確認してから俺は背を向けた。
ふ た り *
「ありがとうございましたー」
簡潔なやり取りのあとの、定員のお決まりの挨拶を合図に踵を返す。
さて、と。どうしようか。
このまま帰るのは味気ない気がして、雑誌でも立ち読みしようかと階段を降りる。
このレンタルビデオ屋はチェーン店で、店内はそれなりに広く、書籍の類もそれなりに充実している。
店内のBGMのどこかで耳にしたような音楽を何となしに聴き流しながら、CDコーナーを横目に俺はスポーツ雑誌のコーナーを目指す。
「南?」
と、声を掛けられ足が止まる。
この声には聞き覚えがある。
まさかと振り返ると、今まさに頭を過ぎった磯野が驚いたように笑っていた。
「やっぱりー」
「あ、え、磯野…あれ、お前、ここ近所だっけ?」
「ん?いや遊んだ帰りでね、ちょっと寄ったんだ」
不意打ちだったせいもあり、心臓がスピードを上げていく。
こんな偶然があっていいものだろうか。
もしかしてラッキーなあいつのおこぼれが俺に巡ってきたのかもしれない、なんて情けない考えが浮かんで消えていく。
「南は近所なんだ?」
「ああ、家もそう離れてないんだ」
「ふうん…あ、もう帰るの?」
「いや、雑誌パラ見しようと思って」
「そっか」
笑って俺を見上げる磯野に、「お前は?」と同じことを聞き返す。
すると、何故か目を少し逸らして「私も本の立ち読み目当てで」と笑う。
「そっか」
「うん……それじゃ。私あっち見てくるね」
「あ、…」
言うなり背を向けて行ってしまう磯野を引き止める言葉を発しかけて、寸前で呑み込む。
もっと話がしたいなんて、身勝手な願い。
こういう時、千石だったらポンポンと気の利いた言葉を投げ掛けて引き止めることができるんだろうな。
まああんな軽さはいらないが、と思いつつも奴が少しだけ羨ましい。
少しのぎこちなさをその場に残して、腑甲斐なさを噛み締めながらテニス雑誌をパラパラめくる。
と、開いてすぐ特集ページが目に飛び込んできた。
『快挙!青春学園中等部 全国制覇』
鮮やかな、決勝戦のワンショット。
大変な熱戦だったことが数々の写真からも窺えて、思わず息を呑む。
雑誌を持つ指に知らず力がこもる。
次のページでは、あの一年が青学の面々に胴上げされている模様が大きく取り上げられていた。
溢れんばかりの歓喜の笑顔が並ぶ中で、涙を流す面々もチラホラ。
その中に大石の顔を見つけて、少しだけ笑んだ。
堂々とはためく校旗に刻まれているのは、青学の校章。
ああ、鮮やか過ぎて眩しいくらいだ。
眩しいくらいの勝利の画だ。
俺達はやりきった。充分に燃え尽きた。後悔なんてない。
そうかっこいいことを言いたいのに、沸き上がってくる気持ちの処理が追い付かない
もっとやれたんじゃないか。まだまだ上に行けたんじゃないか。
俺は部長して、ちゃんとやれたんだろうか。結果として、本当にその器に相応しかったんだろうか。
こんなふうに自分を責めることを、良くやったと労ってくれた東方も千石も良しとしないだろう。
だけど鮮やかで残酷な現実に、じわじわと悔しい思いが滲むように広がっていく。
今更悔やんだところで受け入れる他ないのは頭で分かってるんだけれど、心が理解してくれない。
収縮していく心臓。
俺たちの終わってしまった夏は、もう戻らないのに。
「――み、南」
ハッとして雑誌を閉じる。
慌てて隣を向くと、磯野がぎこちなさそうに俺を見ていた。
「な、何だ?」
「あ、邪魔してごめんね。前にオススメしてくれた参考書なんだけど…タイトル忘れちゃって」
「ああ、あれは…もっとでかい店じゃないとないかもな」
「そうなんだ。ごめん、真剣に読んでたとこ」
「いや、気にしなくていいよ」
と、そう言うと磯野が柔らかく笑ったから、俺は一瞬ハテナマークを浮かべることになる。
「本当にテニス大好きなんだね」
そんな台詞を、しみじみとした調子で言われる。
どう返せばいいのか分からなくて、俺はただ曖昧に笑った。
テニスは俺の世界の総てで、がむしゃらに打ち込んできたただ一つのもの。
高みを目指してひたすらに走り続けてきたもの。
何にも代えがたい、大切なもの。
俺はテニスが好きで仕方ないからこそ、今こんなにも悔しい。
焼きつくようなコート、地を蹴り上げたつま先、ほとばしる汗、力いっぱいふり抜いたラケット。
呑み込まれてしまいそうなほどの声援。差し出された汗まみれの手を、固く握った掌。
走る走馬灯。
実力の差に何度も押し潰されてしまいそうになりながらも、決して諦めなかった。
「見に行ってさ、本当に思ったよ。みんな一つになって精一杯頑張ってて」
「はは…そっか」
「うん。全力出し切るために精一杯楽しんでる感じがして眩しかったよ。贔屓目かもしんないんだけど、他のどこよりも輝いてた」
「そ、そうか?」
「そう見えたよ。信頼の置ける部長がみんなをまとめて、千石くんが引っ張ってさ」
でも千石くんも、土台がしっかりしてたからあそこまでみんなを引っ張ることができたんだと思うよ。
そう柔らかく笑う磯野に俺は「…あ、そ、そうか」とつい動揺するけど、磯野は変わらない表情で頷く。
二人の必死の攻防も、ラケットの切っ先を目前に逃げていったボールも、滲んだ涙も全部。
悔しくないはずはなかった。
ただ彼女の言葉は少しだけ、美しい思い出として整理する他ないのに未だ手付かずの俺の背中を、軽く押してくれた気がする。
たとえ安っぽい、気休めからの言葉でもよかった。でもそれとは違うと思わせる、彼女の優しい目。
温かい言葉で部長としての俺の働きを、プレーの一つ一つを、まるで深い心で認めてくれたような思い。
…言葉の力って、思ったよりも偉大らしい。(まあ多分磯野への特別な感情も働いてるんだろうけど)
やっぱり、所詮俺も盲目的で現金な子供なんだろうな、なんて思って。
「はは…」
雑誌を棚に戻しながらつい自嘲してしまって、慌てて誤魔化すように手の甲で口を隠す。
そして、わざとらしい咳払いを一つして、隣でハテナマーク浮かべて俺を見上げてる目を見て。
「あ‥ありがとう」
「え?」
「いや、少し気が楽になったんだ」
「え?そ、そう?」
少し驚きながらも、依然ハテナマークは消えてないって表情。
磯野にしたらきっとただの感想を述べただけだから、無理もない反応だよな。
でもその何気ない言葉が少なからず救いになった気分だから。
感謝の意、今これだけは伝えておきたかったんだ。
「…よく分かんないけど、少しでも役に立てたんなら私も良かったよ」
そんなふうにはにかむ磯野に気持ちが弾けて、俺は勢い半分、意を決して切り出した。
「じゃあ今度は俺が役に立ちたいんだけど…」
「え?」
「歩き…だよな?」
「あ、‥うん」
「ボロいチャリで良ければ、帰りは家まで送らせてくれないか?」
「や…、いいよいいよ悪いし。そんな気遣わないで」
「じゃなくて…その、俺が………」
ただ一緒にいたいだけなんだ。
なんて言えるはずもなく、台詞は喉の奥で燻るばかり。
キョトンとした面持ちで言葉の続きを待つ磯野に、「と、とにかく遠慮はいいから」と強引に仕切り直す。
「でも…ホントにいい、の?」
「ああ」
「ていうか私まで乗ると重いよね?大丈夫?」
「運動部だし体力には自信あるけど」
「…や…、自転車がって意味なんだけど」
「あ…(しまった!)」
瞬間固まる俺に反して、磯野はアハハと笑いだした。
「ううん、主語ださなかった私が悪いね」
「いや…悪い」
「謝ることないって、実際私重いだろうから色々心配だよ」
あっけらかんと笑ってるけど、その裏で傷付いてたらどうしよう。
そう思って慌てて「いや、細いし実際軽いだろお前」と言ってみた。
すると、磯野の笑顔が微妙に引きつる。
「お世辞はいいって」
どうやら逆効果?女心って難しいな…。
こういう時、女の子の扱いに疎い自分が嫌になる。
まあ、この年で聡いのもどうかって話だけどな。
「あ、ところで南は他に見たいところある?」
困惑顔をしてしまっていたのか、磯野が気を効かせて話題転換してくれる。(俺、ホントだめだ)
「あ、いや、もうないけど。お前は?」
「私もないかな…」
「じゃあ‥、行くか」
「あ……その、」
「ダ、ダメか?」
つい、そんな情けない自分勝手な問い掛けが口をつく。
マジな顔して見つめる俺に、磯野は一瞬見開いた目を下に伏せて、軽く首を振る。
口元が、笑ってる。
「じゃあ…お世話になります」
見上げてニコッと頬を綻ばせる磯野に、心臓がギューッと締まる。
同時に耳の辺りが熱くなってきて、…参ったな。
「ああ、了解」
店内のクーラーで火照りを冷ましつつ、あまり悟られないようにと数歩先に出口へと向かう。
背中で、彼女の柔らかく笑うくすぐったい気配を感じながら。
*
「!?ワッ」
「!っ悪い、平気か?」
歩道から外れた際の段差の衝撃で、俺の自転車は更にギシギシと軋む。
こんなに高さのある段差があるとは思わなくて、慎重に進んでたつもりが迂闊だった。
一旦引いたブレーキで自転車と磯野の状態を確認。
「うん、ちょっとケツにきたけど平気…ていうかこのチャリが心配」
「……じゃあ、そこの坂を下りたら歩くか」
「あ、うん。そうだね」
「悪い」
「謝んないでってば。嬉しいし助かってるよ?」
「そ、そっか」
俺のわがままを押しつけてるんじゃなくて良かった。
安堵して、付いた片足で地面を蹴りだしてゆっくりとペダルを踏む。
「しっかり掴まってろよ」
「うん」
お腹に回る手に少し力が込められたのを確認すると、やっぱりどうにも照れ臭い。
照れ臭いけど、それだけで嬉しくなってしまう。
間もなく緩い坂道に差し掛かり、身体に受ける空気が柔らかく勢いを増していく。
何も通らない道路の真ん中を陣取って、悠々と突っ切る。
「南ーい」
背中から、問い掛ける少し大きめの声。
そういえば目の前に広がる薄いネイビーを塗りたくったような空は、部屋で見たものよりも星がでてる気がする。
「何だ?」
聞こえるように、俺も大きめの声で返事する。
両側の住宅からはあちこち生活の気配がして、風を切りがらも聴覚は開いた窓からはしゃぐ子供の声を一緒に拾う。
「…やっぱ何でもなーい」
「?なんだよ」
「へへへ」
と、何だか背中に何か当てられる感触がして、気になって振り向きたい衝動に駆られる。
「南の背中ってでかいねー」
喋る時の吐息が背中で妙にこそばゆくて、そこで気付く。
磯野が背中に頬をくっつけてること。
また顔が熱くなってきてしまうから困るものの、嬉しくないはずがない。
きっと千石に言わせれば、このシチュエーションは「おいしい」んだろうな…。
って、何でここでアイツの顔なんか思い浮べてんだ俺。台無しじゃないか…
「そ、そうか?まあ、この身長だしな」
「ははっ、確かにね」
かかる吐息のくすぐったさにドキドキしてしまう。
それでも動揺を悟られまいとする俺を、彼女はどういう目で見てるだろう。
彼女は俺を、どう思ってるんだろう。
期待したいけど、空回った時のダメージを考えると…
なんてぐるぐると考えてるうちに道はなだらかになり、T字路に出る。
ここからは歩くことになってるから、ブレーキでスピードを落としていく。
と、ここで予想外の展開。
「あ、地下鉄走ってるんだ」
T字路を少し歩いた先に、地下鉄の出入り口を示す看板が光っている。
「あの、あと一駅分はかかりそうだし…ここでいいよ」
「えっ…」
言うなり自転車を降りてしまう磯野に、俺は戸惑いを隠せない。
ギシッと、一人分の重みが減って僅かに高さを取り戻す自転車。
制止の言葉は掛けられない、引き止めることはできない。
磯野の気持ちが分からない以上、これ以上は本当にわがままの押しつけになってしまう気がして。
彼女を困らせてしまう気がして。
「そうか…分かった」
「わざわざこんなとこまでありがとね‥ホント」
「いや、気にすることないからな」
言いながら降りると、また軋んで更に軽さを取り戻す俺の愛車。
「……壊れない?」
「こんなんだけど、そう簡単に壊れるほどヤワじゃないぞ」
「ならいいんだけど…私が乗ったせいでおじゃん、とかなったら嫌だからさ」
「はは、だからそんなヤワじゃないって」
楽しい時間が過ぎるのは、どうしてこうも早いんだろう。
ラケットを握っていたこの二年と半分と同じくらいに、光速のスピードだ。
今目の前にある笑顔も、すぐに過去へと追いやられてしまうんだろうか。
「………じゃあ、私そろそろ行くね」
「あ……磯野」
「ん?」
しまった。
あまりに名残惜しくて、つい引き止めてしまう。
俺の口は思ってたよりも素直みたいだ。
「えっと……」
頭で話題を探すよりも先に、直感のように思う。
今、言ってしまおうか。
抱いてきた気持ちを。
「あのさ、俺……」
じっと俺を見て、続く言葉を待つ磯野。
さっきのビデオ屋でのシチュエーションとが、重なる。
言ったら、この関係はどう変わるだろう。
磯野はどんな表情をして、なんて言うんだろう。
―――怖い、かもしれない。
「…俺、……」
あともう少しなのに、絞りだせない声。
臆病者の突っ掛かりが、喉の奥で邪魔をしている。
道路の端に間隔を置いて植えてある木から、セミのジー…という鳴き声がやけに耳に響く。
ハンドルを握る手のひらが汗ばむ。
「……、…」
情けなさに、奥歯を噛む。
居たたまれなくて、どうしようもなくなって、地面を見下ろしながらポツリ。
「…悪い…、何でもない」
俺はここまで根性なしだったか。
片手で意味なく髪を掻きながら、脱力したようなため息を一つ。
磯野は不思議な、不審そうな目で俺を見てることだろう。
そう思って、恐々とした気持ちでチラ、と視線を上げてみた。
「……そっ、か」
微笑みながらも、どこか泣きだしてしまいそうで危うい、そんな表情。
予想とまったく反した磯野の反応に驚いて、顔を上げる。
「えっと…また自転車の後ろに乗せてよね」
「…え、」
「それじゃ!」
笑って走りだしてしまう背中に、声が投げられない。
腕を伸ばせない。
その表情の意味は、言葉に含まれた意味の真意はなんだろう。
手っ取り早くチャリで走って引き止めて、聞き出せることもできる。
だけど、呆然と突っ立ったままただ遠くなる背中を眺めることしかできない。
磯野が建物に消えてから、俺は力なく愛車に跨るけどペダルを踏む気力も湧かない。
ぐったりとハンドルに凭れながら、今度は肺の底から大きなため息を吐き出した。
「…分かんねえ…」
期待と不安と、恋しさと動揺。
まぜこぜの感情に揺らぎ悩む日々で、ふたり曖昧な距離で笑う。
がむしゃらな想いが臆病な少女と少年を繋ぐ日まで、あともう少し。
2006.4.29
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