鮮やかな世界
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「何してんの?」
頭上からかけられた声に、私は必要以上に驚いてしまった。
走らせていたシャーペンの文字が、間抜けに歪んでしまう勢いで。
見下ろされる気配は察知しても、どうせ一瞬のことだろうって思ってた。
まさか声をかけられるなんて。
「…あ、えー、と、理科の問題集、を」
緊張しつつ、少し顔を上げて答える。
どうしよう、うまく喋れない。
「へえ。急いでる様子見ると、提出期限今日まで?」
そんなどこか怪しい私の様子を気にするでもなさそうに、そう返してくる先輩。
「あ、はい、苦手で、あと少しなんですけど‥」
自分の手元に広げられた問題集を眺めながら、ぎこちない言葉を返すことで精一杯。
どうしよう。先輩と話すのは久しぶりなせいか、どうにもアガってしまう。
福士先輩とは同じ美化委員で、今日は月に一度の集会の日。
それも終わってこの教室に招集をかけられた面々は、今ぞろぞろと解散していくところ。
私はといえば残していた解読不能の問題を片付けるためにギリギリ、この集会の時間を活用してたというわけだ。(もちろんバレないように)
偶然、隣の列に座った先輩もこのまま帰るんだろうと思ったのに。
掌が汗ばんでいくのを感じながら、私は何とかシャーペンを走らせる。
2問目が終わって3問目に取り掛かるも、とうとうペンは止まってしまう。…集中なんてできるはずないって。
問題文は脳みそに行き渡らずに、ただ頭の中で反芻していくだけ。
困ったなって思いながら下唇を噛むと、先輩の気配が動いたことに気付く。
次の瞬間、ギキィ、と少し耳障りな音。
顔を横に向けると、先輩は座っていた席の椅子をこちらに持ってきて、
「しょーがねえなあ。俺が教えてやる」
仕方なさそうに言われてしまった。
ペンを動かせない私の様子が、問題に詰まったと解釈されてしまったんだろう。
ホントどうしよう、これはさらに困る事態に陥ってしまったと頭を抱えるべきか、それともラッキーだと前向きに捉えるべきか。
「え、でも、悪いですよ」
「いいのいいの、理科だろ?得意なんだよ」
「あ…えと、でも、じゃあ、」
結局、感情はどっちつかずだけれど。
曖昧で緊張丸出しな私の返答に、先輩はククッと笑う。
「何よ、迷惑?」
「あ、いや!あのじゃあ是非、お願いします」
素直にお願いしながら、心の中では深呼吸、深呼吸。
肩が触れそうな距離に、心臓の音が聞こえそうで不安になる。
それでも意識を、なんとか問題へと向けていく。
最初は正直、先輩のことは苦手だった。
一番初めの集会の時、福士先輩の姿を見た時は「ゲッ」なんて思っちゃったし。
テニス部の部長という肩書きを持ってるのに、たまに耳にする悪評がマイナスイメージを抱かせていた。
見た目もちょっとガラ悪そうだし、つるんでる人たちもそんな感じで、お行儀が良さそうな性格には見えない。
そんなふうに、上辺だけのイメージで勝手な苦手意識を作り上げていた。
「どう解いたら…」
「これはあれだ、引っかけだなあ」
「え、引っかけ?」
「ヒントはまずこの二つが凝結したら何になるか、ってことだな」
ある地域美化活動の日に初めて私は先輩と話した。
仕事は公園での空きカン拾いと、落ち葉の収集。
拾ったビンが割れていたのに気付かず、私が手を切ってしまった時。
ちょうど側にいた先輩が異変に気付いて、大丈夫かよ?って心配してビンを取り上げたかと思いきや、彼もまた同じように手を切ってしまった。
先輩の印象が、ガラ悪いけどアホな人に変わった瞬間。
「……あ、霧、ですか?」
「そう。だったら後は分かるだろ?」
「はい、‥多分」
「多分かよオイ!」
「あはは」
そのあと水道で血を洗い流した後に、手ぇ出してって添えてくれたティッシュペーパー。
聞けば、ずいぶん前に貰ったポケットティシュがたまたまズボンのポケットに入っていたようで。
自分の傷はお構いなしに、先に私の止血をしてくれた。
先輩の印象が、アホだけど思ったよりいい人に変わった瞬間。
「次で最後…」
「これは簡単だろ?」
「えー‥と…、難しいんですけど」
「化学反応の基礎が分かってれば出来るはずなんだけどなーーーあ」
「アハ、じゃ私は基礎のキの字も分かってないってことに…」
「…しょうがねえなあ。この心優しい福士先輩がみっっちり教えてやるから、耳かっぽじいてよーっく聞けよ」
「もちろんです!」
そう、なんだかんだで優しい人なのだ。
現に今だって、こうして丁寧に問題を教えてくれてる。
先輩はどうやらジャンケンに負けたためにこの委員に属してるようで、活動中の気だるげな態度は今も変わらない。
それでも、先輩がサボったことはなかった。
実際に接してみると見えなかったものがたくさん見えてくる、多分それはすべての事柄に言えることなんだろうけど。
ただ、先輩の場合はそれが顕著だった。そう思えるほど私には、新鮮な驚きが詰まっていたんだ。
今なら分かる。
評判や上辺で彼のイメージを決め付けていた自分を省みた時から、きっともう、淡く世界が色づき始めていたことに。
先輩は時々私の目を見て、問題集に書き込みながら説明をしてくれる。
私もなんとかそれにちゃんと応えて、先輩の目を見て、内容をしっかりと脳みそに押し込んでいく。
「…なるほど。先輩の説明って意外と分かりやすいですね」
「意外とってなによ」
「あ!いやすいません!(つい本音が!)」
「ブッ、ハハハハ」
固まる私に先輩はおかしそうに、まあいいけどって笑う。
そんな先輩につられて笑ってしまいながら、教えてもらった説明を基に、問題を解きにかかる。
…そういえば、こんなふうに笑ってる先輩って珍しいかも。
新しい一面に嬉しくなりながら、ペンを進ませていく。
「…あ、すごい。解けそうですよ」
「要領押さえりゃ簡単だろ?」
「ホント。ちょっと見直しました先輩のこと」
「オーイ!だからちょっとは余計だっての」
「アハハ」
ちょっと調子に乗ってしまうことで会話が弾んで、取り巻く空気が和やかなものに変わった気がする。
私、少しだけ、先輩と打ち解けられた気がする。
優しさをもらえる以上、多少は気を許してもらえてる気がする。自惚れかもしれないけど。
とにかくこの機会はラッキーだったことに変わりない。
問題を解きながら、そういえばとずっと気がかりだったことを尋ねてみることにした。
「そういえば先輩ってどこ受けるんですか?」
「?ああ、俺、北星」
「あー‥」
北星高校といえば、この辺りではそこそこに有名な学校だ。
銀華の3年生の大半は、たいてい北星へ受験して流れていく。
というのも、
「近いですもんね」
「そう、近けりゃどこでも良かったんだよねー」
「見知った先輩もけっこういますしね」
「ああ、そうそう。気楽だし」
北星かあ…もう少し勉強頑張れば、私も行けるかもしれない。
そう思って、いつの間にか止まっていてしまった左脳とペンを働かせていく。
・・・・・・・・・・・・・
「お、終わった…!」
「お疲れちゃーん。さっさと出してくれば?」
「そうですね、先輩あの、ホントありがとうございました!助かりました」
「いーからいーから。ホラ…っと、落ちたぜ」
「!あ、ありがとうございます」
片付けながらで、いつの間に消しゴムが落ちてしまったことにも気付かなかった。
ペンケースに仕舞って、急いで身支度を整える。
そして鞄ひっつかんで、出て行こうとするけれど。
「―――…」
また委員会がある一ヵ月後まで会えないのかなあ、なんて思ってしまうと。
せっかく打ち解けた空気も、一ヶ月経てば元通りになってしまうのかなあ、なんて思うと。
…頭は急かすのに、足が動いてくれない。
今になって先輩といられるこの時間が、本当にかけがえのないものだったと実感する。
先輩と会えるのはあと何回だろう。こうして話せる機会はあとどれくらいあるだろう。
なんて、指折り数えるのも怖い。
窓から広がる、濃いオレンジ色の夕日に染められた先輩が、じっと私の言葉を待ってる。
喉まで出掛かってる願望はある。
だけどそれは勝手な、本当に勝手な望みだから。
「…先輩あの、――また、一ヵ月後に!」
「ん、ああ‥、じゃあな」
その言葉を受けて、背を向けた。
大丈夫、一ヶ月なんてきっとあっという間。なんて言い聞かせて。
ダッシュで職員室に向かって、問題集は見つけた先生に無事提出することができた。
職員室のドアを背に、息を整えながらのろのろ歩いていると
「提出間に合った?」
突然掛けられた声に驚く。
見れば、ちょうど階段から降りてくる福士先輩と目が合う。
「あ…、はい」
少し混乱気味になりながら、返事を紡ぐ。
もう一ヶ月後まで話すことはないと思ってたから、肩の力が抜けつつも嬉しかった。
「先輩がいてくれなかったら、きっと間に合わなかった」
「まあ、そうかもなあ」
先輩は階段を降りきって、私の前に立つ。
外からは相変わらず濃いオレンジ色が差し込んでいて、先輩も私もオレンジに染まってる。
何だろう。
この瞬間が鮮やかすぎて、どうしてか切なくて、胸の奥がキュンと鳴く。
「次の中間、期待してるぜ」
先輩は薄く笑いながら、私の頭をポンポンと叩いてきた。
いきなりのことに心臓が爆発しそうになりながらも、くすぐったくて、嬉しくて。
「は、はい!期待しててください!へへ」
先輩の手は間近で見た通り大きくて、男の人の感じがした。
好きな人に頭触られるのって照れ臭いながら、けっこう気持ちいいんだなあとまた一つ新しい発見。
「――ん、お前ら何やってるんだ?早く帰りなさい」
「!!?っあ、あ~そうだな!ホラ磯野、帰るぞコラァ!」
いきなり現れた先生に動転して、乗せていた手を神速でズボンにつっこんでしまう先輩。
…あれ、もしかして先輩も、少なからず気恥ずかしかったのか。
そんなことに気付いて、ずんずん離れていく背中につい笑ってしまった。
すると反応した先輩が振り返ると同時、ちょっとスネ気味の声が投げられる。
「何笑ってんだあ?」
「いえ、っなんでも!」
「…ホラ、送ってってやるからちゃんと並んでくれよ」
言いながら、顎で隣を指し示す先輩。
一秒でも二秒でも、少しでも長く話せるだけで充分な私にとってこれは、ビッグサプライズ。
「…エッ?あ、…!ありがとうございます!」
だけどいつか、贅沢な願望をいえば当り前のように先輩の隣を歩ける日が来るといい。
後輩の女の子としてじゃなく、いつか特別な女の子として、頭を撫でてもらえる日が来るといい。
少しハネてた髪の毛を手櫛で整えながら、私は祈るように駆けた。
(鮮やかな世界を、もっと教えて)
2009.11.29
back
1/1ページ