here comes my love
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四月にしては少し冷たい風を感じながら、名前は広がる空の下で四限開始のチャイムを聞いた。
確かに急に決まった転校ではあったが、名前の手元には一週間経っても教科書が一冊も届いていなかった。最初こそ謙也に借りたりもしていたが、それも面倒になってしまったし、隣の席の男子──名前は確か白石くんと言ったか──に毎回見せてもらうのも億劫だった。彼は親切だったけれど、だからこそ尚更嫌だったのだ。……と言い訳を並べてはいるが、詰まるところただのサボりである。
名前が以前通っていた学校では屋上を開放していたが、四天宝寺はそうではなかった。昼休みのみ開放されていて、それ以外の時間帯は施錠されている。名前が今ここにいるのは、ビニール部分が剥がれ骨が剥き出しになった、見るからに本来の役目を果たせそうにないボロボロの傘のおかげだった。──運良くその辺に捨てられていたから試してみたが、こんなに簡単にピッキング出来てしまうなんて、何事もやってみるものだな。
普段施錠してあるという事実に、名前は酷く安心感を覚えていた。施錠してあることを誰もが知っているから、入って来るどころか近付く者もいないのだ。名前は謙也のおさがりであるウォークマンの音量を上げながら、気休め程度に持参している前の学校の教科書を取り出すべく、スカートの下にジャージという不恰好な脚を投げ出して鞄に手を伸ばした。確か次は数学だったはず。
「……あ」
いつもより嵩張 った鞄には二人分の弁当包みが入っている。名前は今朝、「遅刻や!」と慌ただしく朝練へ飛び出して行った謙也の分も万里子に持たされたことを思い出し、項垂れた。
──あのアホ、授業が終わったら届けてやるしかないか。
しかしどうも、名前は謙也のクラスへ顔を出すのは気が進まなかった。どこにいても付き纏う、転入生に対する好奇の目……というよりも「謙也の従姉」に対するそれに、この一週間でほとほと疲れ果てたのだ。謙也は友人も多いが、女子にも人気があるらしい。モテへんモテへんとブツクサ言っていたのは何だったのかと、名前は溜め息を吐 いた。謙也の人当たりの良さを思えば人気があるのは納得ではあるが、幼い頃から知っている謙也のそういう一面を改めて突き付けられると、何だか不思議な気分だ。
モテると言えば、と、名前は隣の席の男子を思い返した。白石──下の名前は忘れてしまったが、彼も相当、あるいは謙也以上に人気らしかった。担任が席を指定した時の女子のどよめきは、今生で耳にする中で一番凄まじいものだったかもしれない。さして周りに興味を持っていない名前ですら、「右も左も分からないうえに、態度すらも良くない自分にさえもそれなりに世話を焼いてくれる、親切な人」という印象を抱いていた。顔もすごく整っていたし、完璧とは彼のような人間のことを言うのだろうな、と名前はぼんやり思った。
数学の教科書をぱらつかせ、再度鞄に突っ込む。同時に、とてもじゃないが人前では出来ないような、顎が外れそうな程の大欠伸が出た。昨夜もあまり眠れなかった。ここ二ヶ月くらいはずっとそうだ。急激に襲ってきた眠気に抗うことなく、枕には少々低く硬い鞄に頭を預け、名前はゆっくりと目を閉じた。
◇
ついこの間やってきた転入生について聞かれれば、一言「変わっている」、そう答えるだろう。白石は他に何か答えられるほどの交流を彼女としていなかった。──正確には、名前は白石に限らず他の誰とも交流していないのだが。
隣の席になった彼女とは軽い挨拶をした程度で、ごく一般的な隣の席同士の、あるいは、転入生とのやりとりくらいしかしていない。謙也の従姉だという彼女は顔立ちこそ、……いや、顔立ちもさして似てはいないが、性別が異なるという前提を加味しても、それ以外の雰囲気から立ち振舞いから表情から何もかもが謙也とは似ても似つかなかった。それでいて他の女子とも雰囲気が違っているようで──何がと言われると、筆舌に尽くし難いのだが。
彼女が四天宝寺にやってきた、よく晴れた始業式の日。白石は放課後、彼女が学校脇の道端でボロボロの傘を拾う姿を見た。不思議な光景ではあったが、特に声はかけなかった。彼女も白石には気付いていなかった。
その翌日。授業初日だが、まだ彼女の手元には教科書が届いておらず、逐一謙也に借りているようだった。借りられなかった時には授業初めに「ごめんね」と、遠慮がちに机を寄せてくる仕草が印象的だった。それでいていざ授業が始まると窓の外を眺めてみたり、船を漕いでみたりと、あまり真面目に授業を受けている様子ではなかった。だが、指名されれば難なく受け答えしていた。音読やら設問の解答やらで教科書を手元に必要とする時、逐一申し訳なさそうにしていた。彼女が悪い訳ではないのに。図太いのかそうでないのか、よく分からなかった。
さらにその数日後。彼女はついには教室から消えた。全ての授業というわけではないが、気付けばふらりといなくなるようになったのだ。特に昼休みに関してはずっとそうだった。謙也曰く弁当を持参しているらしいが、白石は彼女を教室でも、学食でも一度も見たことがない。
……とまあ、交流というよりはさながら一方的な観察日記──教室にいないことも多いので、観察すら碌 に出来ていないのだが。掴みどころのない、少し変わった転入生というのが総評である。
「で、なんで俺が探しに行かなならんねん」
「頼むて!」
謙也は顔の前で手を合わせ、白石に懇願した。忘れた弁当を名前が持ってきてくれているから、彼女を探し出してきてくれと言う。とは言っても、白石には名前の行く宛など検討もつかなかった。
「自分で探しや」
「俺今から委員会やねん、せやから名前に弁当放送室持ってくるよう言うてや!」
「放送で呼び出したったらええやん」
「いやいやいや、そんなんやったらシバかれるて。俺かてまだ死にたないわ」
「なんやそれ。んなこと言われてもなぁ……せめて心当たりとかないん」
「うーん……自慢やないけど、全く分からん!」
「ドヤ顔すな」
謙也に分からないのに、自分に分かるはずもない。断るのも気が引けるが探し当てられる保証もなく、白石がどうすべきか迷っていると、謙也の肩越しに、今まさに渦中の人物が現れた。
「あ」
「あ、ちょうど良いところに」
「おお、名前!」
「はい」
「おおきに! 今日財布も忘れてん、助かったわ」
「アホじゃん」
「うっさいわ! でもほんまおおきに、白石もすまんかったな! ほな!」
「お、おん」
喋るだけ喋ると、謙也は行ってしまった。スピードスターと名乗るだけあって、謙也はいつも忙しない。会話に巻き込まれただけで特にまだ何もしていないが、何故だか疲れた。「何やねん」と白石が軽く溜め息を吐くと、ほぼ同時に、同じように息を漏らす音が彼女からも聞こえた。思わず目が合うと、その変わった転入生は小さく「じゃ」とだけ言った。謙也がいなくなった途端に強張 る表情、引き攣 る口元。──こんな絵に描いたような愛想笑いは、見ようと思っても滅多に見られないだろう。
「え、どこ行くん」
「え」
「いっつも自分ふらっとおらんくなるやん。食堂でも見かけんし、どこで飯食っとるん? 授業もサボりよるし」
そう聞いたのは、ただの気紛れだった。深い意味など一切なく、聞いてどうするつもりもない、ただ何というか流れというか世間話というか。さしておかしな疑問でもないはず。何となく気になったから聞いた。それだけ。だから。
「……や、関係ない……でしょう」
──だから、こんな答えがかえって来たところでまったくその通り、俺には関係のない話なのだ。
確かに急に決まった転校ではあったが、名前の手元には一週間経っても教科書が一冊も届いていなかった。最初こそ謙也に借りたりもしていたが、それも面倒になってしまったし、隣の席の男子──名前は確か白石くんと言ったか──に毎回見せてもらうのも億劫だった。彼は親切だったけれど、だからこそ尚更嫌だったのだ。……と言い訳を並べてはいるが、詰まるところただのサボりである。
名前が以前通っていた学校では屋上を開放していたが、四天宝寺はそうではなかった。昼休みのみ開放されていて、それ以外の時間帯は施錠されている。名前が今ここにいるのは、ビニール部分が剥がれ骨が剥き出しになった、見るからに本来の役目を果たせそうにないボロボロの傘のおかげだった。──運良くその辺に捨てられていたから試してみたが、こんなに簡単にピッキング出来てしまうなんて、何事もやってみるものだな。
普段施錠してあるという事実に、名前は酷く安心感を覚えていた。施錠してあることを誰もが知っているから、入って来るどころか近付く者もいないのだ。名前は謙也のおさがりであるウォークマンの音量を上げながら、気休め程度に持参している前の学校の教科書を取り出すべく、スカートの下にジャージという不恰好な脚を投げ出して鞄に手を伸ばした。確か次は数学だったはず。
「……あ」
いつもより
──あのアホ、授業が終わったら届けてやるしかないか。
しかしどうも、名前は謙也のクラスへ顔を出すのは気が進まなかった。どこにいても付き纏う、転入生に対する好奇の目……というよりも「謙也の従姉」に対するそれに、この一週間でほとほと疲れ果てたのだ。謙也は友人も多いが、女子にも人気があるらしい。モテへんモテへんとブツクサ言っていたのは何だったのかと、名前は溜め息を
モテると言えば、と、名前は隣の席の男子を思い返した。白石──下の名前は忘れてしまったが、彼も相当、あるいは謙也以上に人気らしかった。担任が席を指定した時の女子のどよめきは、今生で耳にする中で一番凄まじいものだったかもしれない。さして周りに興味を持っていない名前ですら、「右も左も分からないうえに、態度すらも良くない自分にさえもそれなりに世話を焼いてくれる、親切な人」という印象を抱いていた。顔もすごく整っていたし、完璧とは彼のような人間のことを言うのだろうな、と名前はぼんやり思った。
数学の教科書をぱらつかせ、再度鞄に突っ込む。同時に、とてもじゃないが人前では出来ないような、顎が外れそうな程の大欠伸が出た。昨夜もあまり眠れなかった。ここ二ヶ月くらいはずっとそうだ。急激に襲ってきた眠気に抗うことなく、枕には少々低く硬い鞄に頭を預け、名前はゆっくりと目を閉じた。
◇
ついこの間やってきた転入生について聞かれれば、一言「変わっている」、そう答えるだろう。白石は他に何か答えられるほどの交流を彼女としていなかった。──正確には、名前は白石に限らず他の誰とも交流していないのだが。
隣の席になった彼女とは軽い挨拶をした程度で、ごく一般的な隣の席同士の、あるいは、転入生とのやりとりくらいしかしていない。謙也の従姉だという彼女は顔立ちこそ、……いや、顔立ちもさして似てはいないが、性別が異なるという前提を加味しても、それ以外の雰囲気から立ち振舞いから表情から何もかもが謙也とは似ても似つかなかった。それでいて他の女子とも雰囲気が違っているようで──何がと言われると、筆舌に尽くし難いのだが。
彼女が四天宝寺にやってきた、よく晴れた始業式の日。白石は放課後、彼女が学校脇の道端でボロボロの傘を拾う姿を見た。不思議な光景ではあったが、特に声はかけなかった。彼女も白石には気付いていなかった。
その翌日。授業初日だが、まだ彼女の手元には教科書が届いておらず、逐一謙也に借りているようだった。借りられなかった時には授業初めに「ごめんね」と、遠慮がちに机を寄せてくる仕草が印象的だった。それでいていざ授業が始まると窓の外を眺めてみたり、船を漕いでみたりと、あまり真面目に授業を受けている様子ではなかった。だが、指名されれば難なく受け答えしていた。音読やら設問の解答やらで教科書を手元に必要とする時、逐一申し訳なさそうにしていた。彼女が悪い訳ではないのに。図太いのかそうでないのか、よく分からなかった。
さらにその数日後。彼女はついには教室から消えた。全ての授業というわけではないが、気付けばふらりといなくなるようになったのだ。特に昼休みに関してはずっとそうだった。謙也曰く弁当を持参しているらしいが、白石は彼女を教室でも、学食でも一度も見たことがない。
……とまあ、交流というよりはさながら一方的な観察日記──教室にいないことも多いので、観察すら
「で、なんで俺が探しに行かなならんねん」
「頼むて!」
謙也は顔の前で手を合わせ、白石に懇願した。忘れた弁当を名前が持ってきてくれているから、彼女を探し出してきてくれと言う。とは言っても、白石には名前の行く宛など検討もつかなかった。
「自分で探しや」
「俺今から委員会やねん、せやから名前に弁当放送室持ってくるよう言うてや!」
「放送で呼び出したったらええやん」
「いやいやいや、そんなんやったらシバかれるて。俺かてまだ死にたないわ」
「なんやそれ。んなこと言われてもなぁ……せめて心当たりとかないん」
「うーん……自慢やないけど、全く分からん!」
「ドヤ顔すな」
謙也に分からないのに、自分に分かるはずもない。断るのも気が引けるが探し当てられる保証もなく、白石がどうすべきか迷っていると、謙也の肩越しに、今まさに渦中の人物が現れた。
「あ」
「あ、ちょうど良いところに」
「おお、名前!」
「はい」
「おおきに! 今日財布も忘れてん、助かったわ」
「アホじゃん」
「うっさいわ! でもほんまおおきに、白石もすまんかったな! ほな!」
「お、おん」
喋るだけ喋ると、謙也は行ってしまった。スピードスターと名乗るだけあって、謙也はいつも忙しない。会話に巻き込まれただけで特にまだ何もしていないが、何故だか疲れた。「何やねん」と白石が軽く溜め息を吐くと、ほぼ同時に、同じように息を漏らす音が彼女からも聞こえた。思わず目が合うと、その変わった転入生は小さく「じゃ」とだけ言った。謙也がいなくなった途端に
「え、どこ行くん」
「え」
「いっつも自分ふらっとおらんくなるやん。食堂でも見かけんし、どこで飯食っとるん? 授業もサボりよるし」
そう聞いたのは、ただの気紛れだった。深い意味など一切なく、聞いてどうするつもりもない、ただ何というか流れというか世間話というか。さしておかしな疑問でもないはず。何となく気になったから聞いた。それだけ。だから。
「……や、関係ない……でしょう」
──だから、こんな答えがかえって来たところでまったくその通り、俺には関係のない話なのだ。
