Your Song
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今でもはっきりと覚えている。あれは、警察学校の入校式から一ヶ月ほど経った日のことだった。たった半年程度の入寮だと言うのに、週に一度は電話をしろとうるさいので、名前はいつものように実家へ電話をした。たったそれだけのことで、自分の人生を大きく変える日になるなんて、誰が想像するだろうか。
「……うん。じゃあ、薫くんにもよろしく言っといて」
ガチャン。雨が窓ガラスを叩く以外は比較的静かな時間帯、受話器を置く音がいやに響いた気がした。今日は朝から一日ずっと曇っていたけれど、いつの間にか屋内にいても分かるほどの本降りになっている。
「結婚することになったの」。姉の声は酷く幸せそうで、どんな笑顔で話しているか、電話越しでもよく分かった。相手は幼馴染の『薫くん』。幼少期から家族ぐるみの付き合いがあったが、二人が恋愛関係になってからももう随分経つ。今度会った時に伝えればいいものを、わざわざ電話で報告してくる姉に、名前は嬉しいような余計なお世話のような、複雑な気持ちだった。「一番に伝えたかったから」なんて、自分には勿体無い言葉だ。
──いつかこんな日が来ることは分かっていた。二人が付き合い始めるよりもずっと昔から、そうなる予感があった。悲しむことはない。悲しんではいけない、悲しみたく、ない。おめでたいことじゃないか。大好きな姉が結婚するのだから。優しくて綺麗で、昔からずっと大好きだった。私にないものをたくさん持っていて、憧れだった。姉も私をたくさん可愛がってくれて、愛してくれた。大好きで大切な、私の自慢の家族。そんな姉が、結婚する。私の好きな人と。
泣いてしまいそうなのを誤魔化すように、名前は雨の中へ飛び出した。空を見上げて目を閉じれば、顔面にうちつける雨が涙より先に頬を濡らす。日が沈んだ後のこの天気では、まだ少々肌寒いくらいだったが、それが名前にはちょうど良かった。
電話したのが入浴時間前で良かった。なんて、どこか冷静な自分とは裏腹に、この雨が片想いも悲しみも何もかも、涙と一緒に流し去ってはくれないだろうかと、非現実的な期待を抱く自分。祝ってあげたいのに、上手く笑えない自分、そんな私が醜くて認めたくない自分。全部ぐちゃぐちゃに溶けて、私ごといなくなってしまえればいいのに。
◇
どのくらいの時間そうしていたのか。……とは言いつつも、実際はそんなに経っていないのだけど。それでも名前にとっては長く苦しい時間だった。それに終わりを告げたのは、雨音の中かすかに混じる、雨粒が何か、地面以外のものにぶつかるような音。それがどういうことかよく考えもしないまま無意識にそちらを向けば、傘をさした誰かがそこに立っていた。
「あ……」
降谷零。伊達から少し話を聞いた程度で、名前は直接話したことはなかった。けれど彼が大変優秀な総代であることは、この警察学校にいる誰もが知っている。……彼に見られたのは、まずかっただろうか。
「……昼間ちょっと落とし物しちゃって。でもこの雨じゃダメですね」
無理のある言い訳を、呆けた頭から何とか捻り出し、名前はヘラリと笑った。何かを探す素振りどころか突っ立ったまま、下を向いてすらいなかったというのに。でもあまり頭が働かない。何も考えたくない。「もう諦めます」と言い捨てて、彼の静止の声も聞かずに名前はその場から逃げ去った。
わざわざもう一本傘、持ってきてくれてたな。どう見ても不気味な光景だっただろうに。優しい人なのだと思った。それが、一番最初。
◇
「あ、苗字さん」
自由時間、自販機前。あの日のように雨は降っていないけれど、時間帯はよく似ている。特に品数が多いわけでもない缶の陳列をボーッと眺めていたら突然後ろから声をかけられ、名前の肩は大きく跳ねた。
「ふ……るや、くん」
「ごめん、驚かせたかな」
「あ、いや、大丈夫……私がちょっと大袈裟にビックリしちゃった」
とはいえ正直、心底驚いた。相手が誰でもそれなりに驚いただろうが、……降谷だったから、尚更のこと。名前は彼の顔と名前こそ知ってはいるものの、ろくに話したこともない。直接言葉を交わしたのはこの前の、あの土砂降りの日だけだった。
「降谷零です」
「ふは、知ってる。苗字名前です」
「体調良くないって聞いたけど、大丈夫?」
「あ……うん。ちょっと疲れてただけだから」
「なら良かった」
出来ることなら、今この瞬間が、初対面の記憶になってはくれないだろうか。もしかしたら、彼からしても雨と暗闇で顔がよく見えなかったかもしれない。
──なんて。せめて私が一方的に降谷くんを知っているだけで、向こうは知らないでいてくれたら、そんな淡い期待も叶ったのかもしれないが。「苗字さん」と名指しで呼ばれては、そんな期待も儚く散った。さすが総代は、他の生徒の顔と名前まで把握しているのだろうか。
「最近乾燥が酷くて、やたら喉が乾くんだ」
「そ、そうだね」
「苗字さんは何飲むの?」
「え……あ、そうだな、カフェラテかな」
「へえ」
僕は炭酸にしようかな、と、少しだけ吟味するような素振りを見せてから、彼は小銭を投入口へ入れ込む。世間話が上手いな、と、名前はぼんやり思った。彼はどうやら、顔や成績だけでなく人当たりもいいらしい。人差し指でラインナップを一通りなぞりながら、彼は何故か炭酸ではなくカフェラテのボタンを押した。
「え」
「はい」
「え、いや、いいよ」
「そんなこと言わずに。お近付きの印だと思って」
変わっている、と思った。どうしてあの日のことに触れないのか。触れないのに、関わろうとするのか。普通はストレートに聞いてしまうか、あるいはなかったことにして、そのまま忘れてしまうか。どちらかではないだろうか。教場も違うのだから、普通にしていればそんなに会話する機会もない筈。ここを卒業してしまえば尚更だ。仲良くなってから聞き出そうとしている、等も考えられなくはないが、それこそ、わざわざそこまでする必要があるのだろうか。……まあ、いいか。今何も触れて来ないのは、きっと彼なりの優しさなのだろう。今は甘えて、その時が来たらまた考えれば良い。名前はそう結論付けて、降谷の差し出すそれを受け取った。
「……じゃあ、ありがたくもらっちゃおうかな」
「そうしてくれると助かる」
「今度は私が何か奢るね」
「それは楽しみだな」
ふ、と笑った彼の顔を見て、本当に整った顔だな、と名前は改めて思った。この風貌で優秀で、そのうえ性格も優しいなんて、きっと皆イチコロだろう。
──私もあんな、土俵にすら上げてくれない相手じゃなく、こういう『学校の人気者』みたいな人を好きになりたかった。小さなことで一喜一憂して、逐一同級生と恋愛トークしたりとかして。そんな風に何でも話せる友達でもいれば、結果的に失恋したとしてももう少しマシだったんじゃないかな、とか。今更どうしようもない、全部たらればの話だけれど。
「……うん。じゃあ、薫くんにもよろしく言っといて」
ガチャン。雨が窓ガラスを叩く以外は比較的静かな時間帯、受話器を置く音がいやに響いた気がした。今日は朝から一日ずっと曇っていたけれど、いつの間にか屋内にいても分かるほどの本降りになっている。
「結婚することになったの」。姉の声は酷く幸せそうで、どんな笑顔で話しているか、電話越しでもよく分かった。相手は幼馴染の『薫くん』。幼少期から家族ぐるみの付き合いがあったが、二人が恋愛関係になってからももう随分経つ。今度会った時に伝えればいいものを、わざわざ電話で報告してくる姉に、名前は嬉しいような余計なお世話のような、複雑な気持ちだった。「一番に伝えたかったから」なんて、自分には勿体無い言葉だ。
──いつかこんな日が来ることは分かっていた。二人が付き合い始めるよりもずっと昔から、そうなる予感があった。悲しむことはない。悲しんではいけない、悲しみたく、ない。おめでたいことじゃないか。大好きな姉が結婚するのだから。優しくて綺麗で、昔からずっと大好きだった。私にないものをたくさん持っていて、憧れだった。姉も私をたくさん可愛がってくれて、愛してくれた。大好きで大切な、私の自慢の家族。そんな姉が、結婚する。私の好きな人と。
泣いてしまいそうなのを誤魔化すように、名前は雨の中へ飛び出した。空を見上げて目を閉じれば、顔面にうちつける雨が涙より先に頬を濡らす。日が沈んだ後のこの天気では、まだ少々肌寒いくらいだったが、それが名前にはちょうど良かった。
電話したのが入浴時間前で良かった。なんて、どこか冷静な自分とは裏腹に、この雨が片想いも悲しみも何もかも、涙と一緒に流し去ってはくれないだろうかと、非現実的な期待を抱く自分。祝ってあげたいのに、上手く笑えない自分、そんな私が醜くて認めたくない自分。全部ぐちゃぐちゃに溶けて、私ごといなくなってしまえればいいのに。
◇
どのくらいの時間そうしていたのか。……とは言いつつも、実際はそんなに経っていないのだけど。それでも名前にとっては長く苦しい時間だった。それに終わりを告げたのは、雨音の中かすかに混じる、雨粒が何か、地面以外のものにぶつかるような音。それがどういうことかよく考えもしないまま無意識にそちらを向けば、傘をさした誰かがそこに立っていた。
「あ……」
降谷零。伊達から少し話を聞いた程度で、名前は直接話したことはなかった。けれど彼が大変優秀な総代であることは、この警察学校にいる誰もが知っている。……彼に見られたのは、まずかっただろうか。
「……昼間ちょっと落とし物しちゃって。でもこの雨じゃダメですね」
無理のある言い訳を、呆けた頭から何とか捻り出し、名前はヘラリと笑った。何かを探す素振りどころか突っ立ったまま、下を向いてすらいなかったというのに。でもあまり頭が働かない。何も考えたくない。「もう諦めます」と言い捨てて、彼の静止の声も聞かずに名前はその場から逃げ去った。
わざわざもう一本傘、持ってきてくれてたな。どう見ても不気味な光景だっただろうに。優しい人なのだと思った。それが、一番最初。
◇
「あ、苗字さん」
自由時間、自販機前。あの日のように雨は降っていないけれど、時間帯はよく似ている。特に品数が多いわけでもない缶の陳列をボーッと眺めていたら突然後ろから声をかけられ、名前の肩は大きく跳ねた。
「ふ……るや、くん」
「ごめん、驚かせたかな」
「あ、いや、大丈夫……私がちょっと大袈裟にビックリしちゃった」
とはいえ正直、心底驚いた。相手が誰でもそれなりに驚いただろうが、……降谷だったから、尚更のこと。名前は彼の顔と名前こそ知ってはいるものの、ろくに話したこともない。直接言葉を交わしたのはこの前の、あの土砂降りの日だけだった。
「降谷零です」
「ふは、知ってる。苗字名前です」
「体調良くないって聞いたけど、大丈夫?」
「あ……うん。ちょっと疲れてただけだから」
「なら良かった」
出来ることなら、今この瞬間が、初対面の記憶になってはくれないだろうか。もしかしたら、彼からしても雨と暗闇で顔がよく見えなかったかもしれない。
──なんて。せめて私が一方的に降谷くんを知っているだけで、向こうは知らないでいてくれたら、そんな淡い期待も叶ったのかもしれないが。「苗字さん」と名指しで呼ばれては、そんな期待も儚く散った。さすが総代は、他の生徒の顔と名前まで把握しているのだろうか。
「最近乾燥が酷くて、やたら喉が乾くんだ」
「そ、そうだね」
「苗字さんは何飲むの?」
「え……あ、そうだな、カフェラテかな」
「へえ」
僕は炭酸にしようかな、と、少しだけ吟味するような素振りを見せてから、彼は小銭を投入口へ入れ込む。世間話が上手いな、と、名前はぼんやり思った。彼はどうやら、顔や成績だけでなく人当たりもいいらしい。人差し指でラインナップを一通りなぞりながら、彼は何故か炭酸ではなくカフェラテのボタンを押した。
「え」
「はい」
「え、いや、いいよ」
「そんなこと言わずに。お近付きの印だと思って」
変わっている、と思った。どうしてあの日のことに触れないのか。触れないのに、関わろうとするのか。普通はストレートに聞いてしまうか、あるいはなかったことにして、そのまま忘れてしまうか。どちらかではないだろうか。教場も違うのだから、普通にしていればそんなに会話する機会もない筈。ここを卒業してしまえば尚更だ。仲良くなってから聞き出そうとしている、等も考えられなくはないが、それこそ、わざわざそこまでする必要があるのだろうか。……まあ、いいか。今何も触れて来ないのは、きっと彼なりの優しさなのだろう。今は甘えて、その時が来たらまた考えれば良い。名前はそう結論付けて、降谷の差し出すそれを受け取った。
「……じゃあ、ありがたくもらっちゃおうかな」
「そうしてくれると助かる」
「今度は私が何か奢るね」
「それは楽しみだな」
ふ、と笑った彼の顔を見て、本当に整った顔だな、と名前は改めて思った。この風貌で優秀で、そのうえ性格も優しいなんて、きっと皆イチコロだろう。
──私もあんな、土俵にすら上げてくれない相手じゃなく、こういう『学校の人気者』みたいな人を好きになりたかった。小さなことで一喜一憂して、逐一同級生と恋愛トークしたりとかして。そんな風に何でも話せる友達でもいれば、結果的に失恋したとしてももう少しマシだったんじゃないかな、とか。今更どうしようもない、全部たらればの話だけれど。
