ch.,5:花信 - 春の歌 -
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三月初旬。卒業を目前にして、どうしてだか最後の最後、名前は委員会活動に駆り出されていた。
「……ふう、こんなもんかな」
そろそろ終わろうか。はあ、と肩を伸ばしながら、幸村はゆっくりと立ち上がる。まだまだ肌寒いが天気は良く、陽の下で動いているとうっすらと汗ばむほどの陽気だ。名前は袖をまくり上げた腕で自身の額を軽く拭った。
「悪いね、結局最後まで手伝わせちゃって」
「まあ、“雑用係”だし、暇だし。大丈夫」
「そう? 随分と長く君一人に押し付けちゃってたし、後半は俺ひとりでも……と思ってはいたんだけど」
甘えちゃった。口ではそう言いながらも、実際は特段悪いと思っていないのだろう。そんな図太さがうかがえる幸村の笑顔に、名前は必死に高鳴る鼓動を誤魔化 した。線が細いようで、儚いようで──実のところその真逆に座する彼のあらゆる意味を網羅した“強さ”に、名前はいつも胸を打たれている。友人には変わった趣味のように言われるが、まあ、平たく言えばいわゆる“ギャップ萌え”のようなものだ。
「そんなの、気にしなくていいのに」
「そう?」
正直、役得──とは口にせず、名前は幸村の問いかけに「うん」とだけ答える。
幸村が不在の間、名前は彼が担当していた委員会活動の穴埋めをしていた。年度初から空席だったそこを誰がどうするか──その話し合いでぼんやりとしているうちに、いつの間にかそうなっていたのだ。ろくに話も聞かず、ただ座ってぼうっとしていたホームルームの末路だったが、今となっては幸運だったというほかない。幸村が不在だったが故の“心ここに存 らず”のおかげで、今こうして彼とふたりの時間を過ごせているなんて──こんなにも自分に都合良く事 が運んでしまっていいのだろうか。
「……あ。じゃあさ、俺にしてほしいことない?」
「え?」
「もう卒業式まで日もないけど……なんか俺にできることあったら言ってよ。お詫び、じゃないけどさ」
──本当に、いいのだろうか?
夢でも見ているのかと錯覚するような言葉だ。それも、凡 そ幸村の口から出るようなものとは思えない。
「ええ、なんか企んでる?」
「ええ? ひどい言われようだな、俺は純粋にお礼がしたいだけなんだけど」
「……そう?」
「そうだよ」
「……じゃあお言葉に甘えて、考えとく」
うん、と満足気に微笑む幸村の表情は、やはりいつもの──名前の好きなそれだった。
ch.,5 : 花信 - 春の歌 -
「なんか迷うことある?」
一連の流れを名前から聞いた友人・リカは、筆に塗りつけられた絵の具を洗い流しながら間髪入れずにそう答えた。
「付き合って、で良くない?」
「……他人事 だと思って……」
「いやいや。むしろ、他にないでしょ」
卒業式を目前にして、彼女の助言は些 か投げやりにも思えるが──それも仕方ない。名前が幸村に想いを寄せるようになってから、リカは散々名前から幸村に関するあらゆる話を聞いてきた。さっき幸村がね、今日幸村が、幸村は、幸村の、幸村ゆきむらユキムラ。そんなに好きなら告白しろと、それこそ何百回も言ってきたが──答えはいつも同じ。「別に付き合いたいわけじゃないし」。
「それがよくわかんない。好きなんでしょ?」
「うん」
「付き合いたくないの?」
「付き合いたくないってわけでもないけど……片想いで楽しかったからなあ」
「でも、卒業したら今までみたいに会えないんだよ」
「うーん……」
のびてきた陽が、窓から差し込んで濡れたパレットに反射する。水滴がきらきらと輝いて眩しい。校舎の中は人の気配が随分と少なくなってきている。道具がかちゃかちゃとぶつかりあう音、遠くのほうから聞こえてくる運動部の掛け声、そういったひとつひとつの小さな音が重なり合って──どことなく物悲しい気分だ。こうやって友達と部活中に駄弁 るのも、好きな人の話をして盛り上がるのも──もう、今日が最後かもしれない。名前は卒業後、県外の高校へ進学する。持ち上がりでそのまま大学まで進学する生徒が多いものの、高校や大学に上がるタイミングで外部受験するケースはさして珍しくない。そのうえ、名前のそれは自分で決めたことだ。自分で、自分の将来のために選んだこと。……だからさみしくないかというと、そういうものでもないのだが。
「……卒業かあ。卒業したくないな。幸村ともそうだけど……リカとも、みんなとも離れたくないよ」
「名前……」
「……まあ、あんまり実感わかないんだけどね」
へらりと、笑って誤魔化 した。うそではない。本当に、実感はわいていないのだ──この先、幸村がいなかった数か月よりもはるかに長い時間を過ごしていかなければならないなんて、考えたくもない。絵の具の混ざりあったなんとも言えない濁った色が排水溝にのまれていくのを眺めながら、名前は軽くかぶりを振った。
「……ま、考えたくない気持ちはわかるけどね。幸村が入院してたときのあんた、抜け殻みたいだったし」
「はは、笑えん」
「ほんとだよ。部活の時も幸村の絵ばっか描いてたし……どっかのコンクールとかに出すわけでもないのにさ」
「はは! そう聞くとヤバいやつだね、三年にもなってコンクールに出せもしない絵ばっか描いてたの」
「いや、笑ってるけどね? ヤバかったんだって。ほんと」
美術室の廊下に展示された名前の作品の前で、幸村がそれを好きだと言ってくれていたこと。心折れそうなとき、準備室からこっそりのぞき見したそのシーンだけが、当時の名前の拠り所だった。さみしいというよりも心配で不安でどうにかなりそうで、だけど見舞いにいけるような仲でもなかったし──何よりもテニス部の面々を見ていたら、自分が首を突っ込める立場ではないことが痛いほどによくわかった。その疎外感と無力感もあいまって、思い出にすがりつくことしかできず──名前には、あの頃のまともな記憶がほとんどない。残っているのは、テニス部員 には及ばずともそれなりに重苦しい日々だったというものだけだ。
「だからさ。それなりに心配してんの」
「うん、わかってるよ。ありがとね」
「ほんとにわかってる? 高校から新しく立海 に入ってくる子もいるんだよ。幸村だって顔は良いしさあ」
「顔は、って何よ」
「おっと、口が滑った」
「顔もでしょ」
慣れ親しんだやりとりに、リカは道具を拭き上げながら「はいはい」と呆れたように笑った。
「わかってないな。あの、ちょっと気ぃ強いところがいいんじゃん」
「ちょっと……?」
「それに優しいところだってあるんだよ。花とかには超優しいし」
「花とかにはっていうか、花にだけじゃない?」
「いや! そんなことはない」
「はいはい」
幸村は見た目の雰囲気と実際の中身に乖離 がある分、周りの印象が後者に引っ張られている節がある。それもわからなくは、ない。たしかに幸村は厳しい。普段の彼を見ていてもその片鱗はあるし、部活中は殊更だという。だが名前は知っている。幸村は、誰にでも等しく厳しい。誰のことも陰で悪く言ったり、こそこそ笑ったり、嘘をついたりしない──そういうところが好きだ。からかわれたり、振り回されたりするのは日常茶飯事だが、目の前で口先だけ甘い言葉を吐いて、腹のなかで何を考えているかわからないようなそれより、よほど優しいのではないか。
とはいえ、これまでそれを誰にも伝えてこなかったのも事実。理由は至ってシンプル、誰にも言いたくなかったからだ。独り占めしておきたかった──ただそれだけ。
「……まあね。いいんだよ、私だけわかってれば」
「出た。いつもの」
「ライバルなんか少ないに越したことはないんで……」
「ライバルねえ。……あっ、わかった」
「なに?」
「告るの無理なら、ネクタイもらえば?」
「あー……」
「ネクタイいいじゃん、ネクタイにしなよ。うわ、青春っぽい!」
「……そんなにおもしろがられると言いにくいけど、それは正直、ちょっとほしい」
「そらそうでしょ! 私だってもらいたいくらいだよ、ほしい相手いないけど」
「でも、とっくに誰かに予約されてそう」
「そう? 大丈夫だと思うけど。まあ、そん時はどっかのボタンでもブレザーでも、なんでももぎとってやったらいいじゃん」
「んはは!」
「まあ、なにがどうなっても、また話くらいならいつでも聞いてあげるからさ」
「……うん。ありがと」
何も言えなくてごめん──告げるか迷って、名前はそのまま口を噤 んだ。幸村にのぞむこと。青春時代の思い出にネクタイがほしい、なんてかわいいものじゃない。言葉にするには、ひどく浅ましい願いのように思えた。付き合ってほしいとは言わない。告白したいとも思わないし、私のものになんてならなくていい。ただ──ほかの誰のものにも、ならないでほしいのだ。私以外の誰かの絵を、あのときのような優しい表情 で、褒めて、好きだと言わないで。
◇
卒業式当日。
式はつつがなく終了し、生徒たちはあちこちで話し込んだり写真を撮ったりとてんやわんやしている。約束をとりつけていたわけではないし、こんな状況では幸村を呼び出したりするのも難しいか──と、名前は一息ついた。残念なような安心したような、何とも言えない心地だ。付き合いたいわけじゃない。でも──
「あ。いたいた」
「え」
男子にしては少し高めの声に呼び止められ、振り返る。見なくてもわかる声の主に心臓が飛び跳ねるのを必死でおさえつけながら、名前はなんとか平静を装った。
「なんかあった? してほしいこと」
「え……」
「まあ、もうそんなに出来ることもないかもしれないけどさ。とりあえず言ってみてよ」
その胸元からは、真っ白なシャツだけがのぞいている。ネクタイは──ない。
「あ……」
「ん?」
「……いや、なんか……なんでもいいんだけど、なんか思い出になるようなものがほしいなって」
「ええ?」
本当はネクタイがほしかったんだけど、とは言えなかった。もしも制服がブレザーでなかったら。ネクタイと同じように、第二ボタンは無理でも──他のどこかしらのそれや、カフスについているものもあるし、私にまわってくる余裕もあっただろうか。幸村にとっての自分の立ち位置が、あまりに遠いものだと思い知らされたようだった。片想いは楽しかった。世間話や無駄話はもちろん、彼に振り回されるのも満更ではなかったし、伝えなくても、成就しなくてもいいと思っていた。幸村への気持ちは誰にも──幸村にも知られたくない、自分だけの大切なそれだからと、握りしめてしがみついてきた。その感情も嘘ではない。嘘ではないが、結局は保身だったのかもしれない。誰のものにもならないでほしかった──“私のものにならないなら”。
「なんだ、そんなのでいいの? ほら」
「え」
特に躊躇 うそぶりもなく、幸村は自身の手を右ポケットに突っ込んで──差し出されたのは今しがた、本来あるべき場所 にないことで、“諦めろ”と現実を突きつけてきたはずのそれだった。
「……え?」
「さっき、真田が女子にむしりとられて争奪戦になってたからさ。先に隠しておいたんだ」
「真田が……」
「あれで結構モテるからね、真田は」
それ、は、なんとなく知っているが。もはや、それどころではない。
「え……くれるの?ネクタイ ?」
「え。嫌だった?」
「い……嫌とかではなく……」
意味、わかってる?
──喉まで出かかった言葉を、グッと飲み込んだ。わかってないに決まってる。ネクタイも第二ボタンもきっと、男子からすればそんなにたいした意味はないのだ。だって、そうに決まってる。
「……ううん、嬉しい。ありがとう」
受け取ろうと差し出した名前のてのひらは、なぜか空 を掴む。まるで漫画だかコントだかのような空振りだった。おそらく今、この世の誰よりも間抜けな顔をしている自信がある──だっていまこの瞬間、見事な回避によって私を空振りさせた張本人の表情は、見たこともないほどに破顔しているのだから。
「ふ、ははは……っ」
「……楽しそうだね」
「はは、うん、ふふ……っ。はあ、君といると飽きないよ」
「そ……れはどうも。くれるんじゃないの?」
「うん、あげてもいいんだけど」
なんなの、こいつ。今度こそ口から出そうになって、今一度名前は息を深く吸い込んだ。いくらなんでもからかいすぎだ。なんなんだ、と思うのに、あまり強くも出られない──こんなにも楽しそうな幸村は、そうそう見ることができないから。
「俺もほしいものあるんだよね。言っていい?」
「え、なんでよ」
「まあまあ、いいじゃないか」
「『純粋にお礼がしたい』とはいったい……」
「まあまあ。聞いてから考えてくれればいいからさ」
「……まあ、聞くだけなら」
もてあそばれている、そうはっきりとわかるのに──逆らえない。くやしい。惚れた弱みというやつか。これまでもずっとそうだった。幸村は、彼の言動ひとつひとつに一喜一憂してしまう私を見て遊んでいるのだ。……でもそれすらも嬉しいから、余計にくやしいのだが。
「苗字の絵、一枚くれない? なんでもいいから」
「絵?」
「俺、君の絵好きなんだよね。どう?」
「べ……別にいいけど、今日言われてもないよ」
「うん。そうだろうなと思って」
「はい?」
絵をほしがってくれたこと。あの日の思い出が昨日のことのようによみがえって、名前は目の奥が熱くなるのを感じた。潤む視界に、涙がこぼれてしまわないよう必死で瞬きを堪えた。幸村の前では絶対に泣きたくない。想像もできない苦難を乗り越えた彼の前で、絶対にやすやすと涙を流したくはない。
そんな名前を他所 に、幸村は軽く息を吐 いた。眉をさげ、少しだけ呆れを含んだような──だけど優しい表情だった。まるであの日の、ような。
「……だからさ。会う約束をとりつけようとしてるんだけど……わからない?」
「……え?」
「まあ、今まではさ? 俺も楽しんでたし。苗字が全部わかってて振り回されてるのも、見てておもしろかったしね」
「は、はあ……」
「でももしかして君、わかってないの?」
「……幸村が、私で遊んでること?」
「それだけ?」
「え……そ、それだけ?」
「……ふふっ」
そうして、幸村はまた笑いを堪えるよう肩を揺らし始めた──まったく堪えられてはいないが。
「……楽しそうでなにより」
「ふ、はは……っ、まったくだよ。本当に、苗字といると楽しいんだ」
「……また、すぐそうやってからかう」
「嫌だな、言葉どおりの意味だよ。言っただろ、『君といると飽きない』って」
「……え?」
「あ、君の絵が好きなのは本当だよ? 君のことも好きだけど」
聞き流してしまいそうなほどさらりと言われ、脳が処理落ちする。恥とか、照れとかないんかこの男は。逸らしていた視線を少しだけ上げてその顔を見遣 れば、いつもと変わらないいたずらな笑顔で──だけど緩く波打つ髪の隙間からのぞく耳は、ほんのり紅く染まっている。う、うそ、照れ──そう思った瞬間、自分の顔から火が出そうなほど急激に体温があがるのを感じた。
「……そんなに赤くなられると、さすがに俺も恥ずかしいんだけど」
「ご……ごめん……?」
「じゃあ、俺の“お願い”聞いてくれる?」
「ま、まだなんかあるの?」
「いくらでもあるよ。ほしいものも、やりたいこともたくさんあるし」
でもまずは、君にそばにいてほしい。
言いながら差し出された手は、滲んだ視界のなか、少しだけ震えているように見えた。ひと呼吸置き、握り返そうと手を伸ばせば、そのまま掴まれて引き寄せられる。感じる体温があたたかくて心地よくて、堪えていた涙が一粒こぼれ──幸村の上着にぽたりと落ちた。
「……ふう、こんなもんかな」
そろそろ終わろうか。はあ、と肩を伸ばしながら、幸村はゆっくりと立ち上がる。まだまだ肌寒いが天気は良く、陽の下で動いているとうっすらと汗ばむほどの陽気だ。名前は袖をまくり上げた腕で自身の額を軽く拭った。
「悪いね、結局最後まで手伝わせちゃって」
「まあ、“雑用係”だし、暇だし。大丈夫」
「そう? 随分と長く君一人に押し付けちゃってたし、後半は俺ひとりでも……と思ってはいたんだけど」
甘えちゃった。口ではそう言いながらも、実際は特段悪いと思っていないのだろう。そんな図太さがうかがえる幸村の笑顔に、名前は必死に高鳴る鼓動を
「そんなの、気にしなくていいのに」
「そう?」
正直、役得──とは口にせず、名前は幸村の問いかけに「うん」とだけ答える。
幸村が不在の間、名前は彼が担当していた委員会活動の穴埋めをしていた。年度初から空席だったそこを誰がどうするか──その話し合いでぼんやりとしているうちに、いつの間にかそうなっていたのだ。ろくに話も聞かず、ただ座ってぼうっとしていたホームルームの末路だったが、今となっては幸運だったというほかない。幸村が不在だったが故の“心ここに
「……あ。じゃあさ、俺にしてほしいことない?」
「え?」
「もう卒業式まで日もないけど……なんか俺にできることあったら言ってよ。お詫び、じゃないけどさ」
──本当に、いいのだろうか?
夢でも見ているのかと錯覚するような言葉だ。それも、
「ええ、なんか企んでる?」
「ええ? ひどい言われようだな、俺は純粋にお礼がしたいだけなんだけど」
「……そう?」
「そうだよ」
「……じゃあお言葉に甘えて、考えとく」
うん、と満足気に微笑む幸村の表情は、やはりいつもの──名前の好きなそれだった。
「なんか迷うことある?」
一連の流れを名前から聞いた友人・リカは、筆に塗りつけられた絵の具を洗い流しながら間髪入れずにそう答えた。
「付き合って、で良くない?」
「……
「いやいや。むしろ、他にないでしょ」
卒業式を目前にして、彼女の助言は
「それがよくわかんない。好きなんでしょ?」
「うん」
「付き合いたくないの?」
「付き合いたくないってわけでもないけど……片想いで楽しかったからなあ」
「でも、卒業したら今までみたいに会えないんだよ」
「うーん……」
のびてきた陽が、窓から差し込んで濡れたパレットに反射する。水滴がきらきらと輝いて眩しい。校舎の中は人の気配が随分と少なくなってきている。道具がかちゃかちゃとぶつかりあう音、遠くのほうから聞こえてくる運動部の掛け声、そういったひとつひとつの小さな音が重なり合って──どことなく物悲しい気分だ。こうやって友達と部活中に
「……卒業かあ。卒業したくないな。幸村ともそうだけど……リカとも、みんなとも離れたくないよ」
「名前……」
「……まあ、あんまり実感わかないんだけどね」
へらりと、笑って
「……ま、考えたくない気持ちはわかるけどね。幸村が入院してたときのあんた、抜け殻みたいだったし」
「はは、笑えん」
「ほんとだよ。部活の時も幸村の絵ばっか描いてたし……どっかのコンクールとかに出すわけでもないのにさ」
「はは! そう聞くとヤバいやつだね、三年にもなってコンクールに出せもしない絵ばっか描いてたの」
「いや、笑ってるけどね? ヤバかったんだって。ほんと」
美術室の廊下に展示された名前の作品の前で、幸村がそれを好きだと言ってくれていたこと。心折れそうなとき、準備室からこっそりのぞき見したそのシーンだけが、当時の名前の拠り所だった。さみしいというよりも心配で不安でどうにかなりそうで、だけど見舞いにいけるような仲でもなかったし──何よりもテニス部の面々を見ていたら、自分が首を突っ込める立場ではないことが痛いほどによくわかった。その疎外感と無力感もあいまって、思い出にすがりつくことしかできず──名前には、あの頃のまともな記憶がほとんどない。残っているのは、
「だからさ。それなりに心配してんの」
「うん、わかってるよ。ありがとね」
「ほんとにわかってる? 高校から新しく
「顔は、って何よ」
「おっと、口が滑った」
「顔もでしょ」
慣れ親しんだやりとりに、リカは道具を拭き上げながら「はいはい」と呆れたように笑った。
「わかってないな。あの、ちょっと気ぃ強いところがいいんじゃん」
「ちょっと……?」
「それに優しいところだってあるんだよ。花とかには超優しいし」
「花とかにはっていうか、花にだけじゃない?」
「いや! そんなことはない」
「はいはい」
幸村は見た目の雰囲気と実際の中身に
とはいえ、これまでそれを誰にも伝えてこなかったのも事実。理由は至ってシンプル、誰にも言いたくなかったからだ。独り占めしておきたかった──ただそれだけ。
「……まあね。いいんだよ、私だけわかってれば」
「出た。いつもの」
「ライバルなんか少ないに越したことはないんで……」
「ライバルねえ。……あっ、わかった」
「なに?」
「告るの無理なら、ネクタイもらえば?」
「あー……」
「ネクタイいいじゃん、ネクタイにしなよ。うわ、青春っぽい!」
「……そんなにおもしろがられると言いにくいけど、それは正直、ちょっとほしい」
「そらそうでしょ! 私だってもらいたいくらいだよ、ほしい相手いないけど」
「でも、とっくに誰かに予約されてそう」
「そう? 大丈夫だと思うけど。まあ、そん時はどっかのボタンでもブレザーでも、なんでももぎとってやったらいいじゃん」
「んはは!」
「まあ、なにがどうなっても、また話くらいならいつでも聞いてあげるからさ」
「……うん。ありがと」
何も言えなくてごめん──告げるか迷って、名前はそのまま口を
◇
卒業式当日。
式はつつがなく終了し、生徒たちはあちこちで話し込んだり写真を撮ったりとてんやわんやしている。約束をとりつけていたわけではないし、こんな状況では幸村を呼び出したりするのも難しいか──と、名前は一息ついた。残念なような安心したような、何とも言えない心地だ。付き合いたいわけじゃない。でも──
「あ。いたいた」
「え」
男子にしては少し高めの声に呼び止められ、振り返る。見なくてもわかる声の主に心臓が飛び跳ねるのを必死でおさえつけながら、名前はなんとか平静を装った。
「なんかあった? してほしいこと」
「え……」
「まあ、もうそんなに出来ることもないかもしれないけどさ。とりあえず言ってみてよ」
その胸元からは、真っ白なシャツだけがのぞいている。ネクタイは──ない。
「あ……」
「ん?」
「……いや、なんか……なんでもいいんだけど、なんか思い出になるようなものがほしいなって」
「ええ?」
本当はネクタイがほしかったんだけど、とは言えなかった。もしも制服がブレザーでなかったら。ネクタイと同じように、第二ボタンは無理でも──他のどこかしらのそれや、カフスについているものもあるし、私にまわってくる余裕もあっただろうか。幸村にとっての自分の立ち位置が、あまりに遠いものだと思い知らされたようだった。片想いは楽しかった。世間話や無駄話はもちろん、彼に振り回されるのも満更ではなかったし、伝えなくても、成就しなくてもいいと思っていた。幸村への気持ちは誰にも──幸村にも知られたくない、自分だけの大切なそれだからと、握りしめてしがみついてきた。その感情も嘘ではない。嘘ではないが、結局は保身だったのかもしれない。誰のものにもならないでほしかった──“私のものにならないなら”。
「なんだ、そんなのでいいの? ほら」
「え」
特に
「……え?」
「さっき、真田が女子にむしりとられて争奪戦になってたからさ。先に隠しておいたんだ」
「真田が……」
「あれで結構モテるからね、真田は」
それ、は、なんとなく知っているが。もはや、それどころではない。
「え……くれるの?
「え。嫌だった?」
「い……嫌とかではなく……」
意味、わかってる?
──喉まで出かかった言葉を、グッと飲み込んだ。わかってないに決まってる。ネクタイも第二ボタンもきっと、男子からすればそんなにたいした意味はないのだ。だって、そうに決まってる。
「……ううん、嬉しい。ありがとう」
受け取ろうと差し出した名前のてのひらは、なぜか
「ふ、ははは……っ」
「……楽しそうだね」
「はは、うん、ふふ……っ。はあ、君といると飽きないよ」
「そ……れはどうも。くれるんじゃないの?」
「うん、あげてもいいんだけど」
なんなの、こいつ。今度こそ口から出そうになって、今一度名前は息を深く吸い込んだ。いくらなんでもからかいすぎだ。なんなんだ、と思うのに、あまり強くも出られない──こんなにも楽しそうな幸村は、そうそう見ることができないから。
「俺もほしいものあるんだよね。言っていい?」
「え、なんでよ」
「まあまあ、いいじゃないか」
「『純粋にお礼がしたい』とはいったい……」
「まあまあ。聞いてから考えてくれればいいからさ」
「……まあ、聞くだけなら」
もてあそばれている、そうはっきりとわかるのに──逆らえない。くやしい。惚れた弱みというやつか。これまでもずっとそうだった。幸村は、彼の言動ひとつひとつに一喜一憂してしまう私を見て遊んでいるのだ。……でもそれすらも嬉しいから、余計にくやしいのだが。
「苗字の絵、一枚くれない? なんでもいいから」
「絵?」
「俺、君の絵好きなんだよね。どう?」
「べ……別にいいけど、今日言われてもないよ」
「うん。そうだろうなと思って」
「はい?」
絵をほしがってくれたこと。あの日の思い出が昨日のことのようによみがえって、名前は目の奥が熱くなるのを感じた。潤む視界に、涙がこぼれてしまわないよう必死で瞬きを堪えた。幸村の前では絶対に泣きたくない。想像もできない苦難を乗り越えた彼の前で、絶対にやすやすと涙を流したくはない。
そんな名前を
「……だからさ。会う約束をとりつけようとしてるんだけど……わからない?」
「……え?」
「まあ、今まではさ? 俺も楽しんでたし。苗字が全部わかってて振り回されてるのも、見てておもしろかったしね」
「は、はあ……」
「でももしかして君、わかってないの?」
「……幸村が、私で遊んでること?」
「それだけ?」
「え……そ、それだけ?」
「……ふふっ」
そうして、幸村はまた笑いを堪えるよう肩を揺らし始めた──まったく堪えられてはいないが。
「……楽しそうでなにより」
「ふ、はは……っ、まったくだよ。本当に、苗字といると楽しいんだ」
「……また、すぐそうやってからかう」
「嫌だな、言葉どおりの意味だよ。言っただろ、『君といると飽きない』って」
「……え?」
「あ、君の絵が好きなのは本当だよ? 君のことも好きだけど」
聞き流してしまいそうなほどさらりと言われ、脳が処理落ちする。恥とか、照れとかないんかこの男は。逸らしていた視線を少しだけ上げてその顔を
「……そんなに赤くなられると、さすがに俺も恥ずかしいんだけど」
「ご……ごめん……?」
「じゃあ、俺の“お願い”聞いてくれる?」
「ま、まだなんかあるの?」
「いくらでもあるよ。ほしいものも、やりたいこともたくさんあるし」
でもまずは、君にそばにいてほしい。
言いながら差し出された手は、滲んだ視界のなか、少しだけ震えているように見えた。ひと呼吸置き、握り返そうと手を伸ばせば、そのまま掴まれて引き寄せられる。感じる体温があたたかくて心地よくて、堪えていた涙が一粒こぼれ──幸村の上着にぽたりと落ちた。
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