ch.,1:麗日 - うらうらら -
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春は出会いと別れの季節。卒業、入学、それ以外にいくらでも──この世の中にありふれたそれは誰にでも、私にも同様にやってくる。
ch.,1 : 麗日 - うらうらら -
川縁 に座り込んだまま、大きなくしゃみを一度して、名前は洟 をすすった。今日はよく晴れているが、まだほんのりと肌寒い。どのくらいの時間そうしていただろうか、時折強く吹く風にからだが冷えていくのを感じながら、名前は桜の花弁がぱらぱらと舞って水面に落ちていくさまを眺めていた。きれいだ。今まで住んでいた家の近くには川も、桜並木もなかった。でも、だから、きれいだけど──さみしい。膝に顔を埋 め、名前はぼやけた視界を閉じた。このくしゃみも鼻水も、目からあふれる涙も──花粉か、あるいは冷たい花風の所為 。……だったら、よかったのに。
──帰ろう。お母さんが心配する。
名前は今日、母親と愛犬とともに祖父母の家へ越してきた。両親が離婚したのだ。その原因について名前は詳しく聞かされていないが、どうやら不倫だとか不仲だとか、そういうものではないらしい。父親とだって会いたい時に会っていい、誰の許可も必要ない、母ははっきりとそう言ったし、その隣で父も頷いていた。切なげな笑顔ではあったが、追い詰められたそれではなかったように思う。だからきっと──悲しいのもさみしいのも今だけだ。祖父母の家は元居た家の隣の区にあり、学校も転校することなくギリギリ通い続けられる距離であったし、父親とだってこの先一生会えないわけじゃない。自分は恵まれているほうだ。
思いつくあらゆる励ましを自分に言い聞かせ、名前は袖で強めに目元を拭う。立ち上がりボトムについた砂埃をぱたぱたと払うと、それに紛れて少し違う音──砂利を踏み締めるような──が、すぐ後ろから聞こえた。
「あ」
「え」
「あ、いや……具合でも悪いのかなって」
見知らぬ男の子が戸惑った様子でそこに立っていた。今まさに、私に声をかけようとしたところだったらしい。
「あ、すみません……大丈夫です」
「……そう?」
絞りだした声は自分で思うよりもかすれていて、まるで大丈夫じゃないそれに、名前は思わずこぼれそうになった苦笑をなんとか嚙み殺した。じっと見られ、気まずくて目をそらしたが──泣いていたと、気付かれてしまっただろうか。だが彼は、それ以上何も聞いては来なかった。
「ならいいけど」
「……」
「あ。そうだ、これあげるよ」
彼はおもむろにカバンを漁 りだす。差し出されたそのてのひらには飴玉がひとつ転がっていた。よくあるフルーツアソートのうちのひとつのようだ。
「これは……」
「俺の今日のラッキーアイテムなんだ」
「は、はあ……」
じゃあね、とだけ言い残し、彼は行ってしまった。風に揺れるオレンジ色の髪の毛が、陽の光に反射してきらきらとまぶしかった。
◇
ご機嫌な愛犬を連れ、名前はいまだ見慣れない道を歩いていた。昨日ほどではないが、今日も比較的よく晴れている。春休みの部活終わり、長くなった通学時間の分、着替えるのもより一層面倒で──ジャージのまま家でだらだらと過ごし、挙句そのまま犬の散歩に出てきてしまった。午前中はそれほどでもなかったが、陽が随分とのびてきた夕方の時間帯はもう長袖のそれでは暑いくらいだ。季節の変わり目にもかかわらず、ここのところ天気も気温も安定している。自分の精神状態のほうがよほど不安定なのではないかと、名前は袖をまくり上げながらひとり自嘲した。そんな名前に構うことなく、愛犬・ナナ──またの名をお姫様、あるいは天使──は、初めて歩く道のなにもかもに興味津々で、てくてく歩きながらきょろきょろと辺りを見渡し、その間も休むことなく尻尾をぶんぶんと振り回し続けている。
今日も今日とて川の方をぼんやり眺めながら歩いていると、リードがぴん、と突っ張った。どこからか転がってきたテニスボールに気を取られたらしいナナの尻尾は先ほどまでよりも激しく左右に動かされ、もげてしまいそうな勢いだ。
「……あ」
「あ。昨日の」
そこにいたのは、昨日の彼だった。いつの間にか昨日よりも幾分遠くまで来ていたらしい。同じ川沿いを歩いてきたはずなのに、彼の後ろに広がる景色は昨日のそれとは随分違うもののように見えた。じゃれるナナを軽く静止しながらボールを拾い上げ、彼に手渡す。
「あ、ごめんね。ボールありがとう」
「や、こちらこそ……昨日はどうも」
「……それ、どこの学校のジャージ?」
「え?」
「この辺であんまり見ないなあって」
彼は自己紹介代わりか、胸元のジッパー下に書かれた“山吹中”の文字をこちらに見せるよう、自身のユニフォームの裾を広げて引っ張った。緑色に濃いめの黄色いラインが入ったなかなか印象的なユニフォームだ。隣の地区からやってきたばかりの名前には見覚えがないものだし、名前が着用している中学のジャージも、彼にとって同じように見知らぬものなのだろう。とはいっても、一度見たら忘れることはなさそうな彼のそれに比べ、名前のジャージは紺色に一部白のラインが入っただけの至ってシンプルなデザインなので、見たことがあったとしても記憶に残りにくいだろうが。
「あ……最近引っ越してきたから」
「あっ、そうなんだ」
ボールを軽く上に放り投げてはキャッチして、を繰り返しながら、彼はしゃがんでナナに目線をあわせる。人懐こい犬はひとしお激しく尾を揺らしながら、きらめかせた目で上下するボールの行方を追っていた。
「かわいーねえ。触ってもいい?」
「あ、うん。なんか……こんな感じで、下から……」
「オッケー」
名前の手本に倣 って撫でれば、ナナは気持ち良さそうに目を伏せる。名前のそれよりも大きなてのひらに、さぞかしご満悦のようだ。ここまで誰にでも愛想を振りまいていると、あまりのかわいさに誘拐でもされるのではないか──とどまることを知らない親バカならぬ飼い主バカの発想に、名前は思わず小さく笑いをこぼした。
「…………」
「……なにか?」
ナナの顎をさする彼の視線は、いつの間にかこちらに向いている。変なタイミングでひとり笑ってしまった自覚はありつつも、名前が何もなかったかのように問えば、彼もへらりと笑って「いや、なんでも」と答えつつまたナナのほうへと顔を向けた。
「いや~、それにしても俺ってばラッキーだなあ。二日連続で君に会えるなんて」
「……そのラッキーって、口癖なの?」
「口癖っていうか、うーん……まあそんなところかな」
一度撫で始めれば、ひとたび手を休めると、ナナは「手が止まってますよ」と言わんばかりに前足で突く。飼い主にとってみれば愛らしい行動だが、あくまでも普段の家族に対する振る舞いであって、初対面の人間相手に行 うべきものではなく──名前は慌ててナナを抱え上げた。
「ご、ごめんね。こら、図々しいよ、ナナ」
「はは、全然。ナナちゃんっていうんだ、おりこうさんだね」
「いやもう、甘えたで……」
立ち上がってナナに顔を近づけながらその顎下を指でさすってやる彼の仕草は、動物慣れしているようものに見えた。なにかペットを飼っているのかも……と思ったが、ふと我に返ると、彼の顔が思った以上に近くにあって──ナナに近づけられたそれが、必然的に自分との距離も縮まっているのは当然のことなのだが──びっくりして、何もかもよくわからなくなってしまった。なんかこの人、距離近くないか。
「君はなにチャン?」
「え?」
「俺は千石清純っていうんだ。君は?」
「あ、ああ……苗字名前です……」
「名前ちゃんね。何年生?」
「ちゅ……中三、もうすぐ」
「おっ、俺も! 同い年かあ、やっぱ俺ってツイてる」
軽いノリで呼ばれ、不覚にもどきっとしてしまった。同級生の男子に、こんな距離感で話しかけられることも、ちゃん付けで呼ばれる経験だってそうないものだから──とはいえ、もしかしたら自分は単純なのかもしれない。はじめての感覚にどぎまぎしながら、名前は平静を装うことに必死だった。
「俺、明日もこのくらいの時間にここでテニスやってるからさ」
「そ……う、なんだ」
「うん。だから、また会えたらうれしいなあ」
彼が指差す少し先に、テニスコートがいくつかあることに漸 く気が付いた。今日も、彼の後ろ姿はまぶしい。
◇
あれから一週間ほど経った今日。名前は昨日と同じ時間帯、もうすっかりいつもの道となったこの川沿いの通りを、ひとりで歩いていた。
「名前ちゃん」
「あ、千石くん」
「あれ? 今日はひとりなんだね」
「うん」
途中から千石が合流して、ナナもいつもどおりその尾をいっそう大きく揺らしながら彼の足元にじゃれついて、少しの間一緒に歩く。この数日間そうやって過ごしてきた。だが今日は違う。彼に懐いているナナには申し訳ないが、今日の散歩は早い時間に前倒しさせてもらった──彼とこうして過ごせるのも、今日で最後だから。春休みが終われば、お互いにきっとそう上手く時間の都合もつけられないだろう。こう見えて真摯に部活に打ち込んでいる彼は、自分より数倍忙しいのだ。
「明日始業式かあ」
「……うん、私のとこもそう」
「だよねえ」
ただでさえ長期休みなんてあっという間に終わってしまうが、名前にとって今回のそれは今までの比ではなかった。物理的にも精神的にも慌ただしいことばかりで、当初はどうなることかと思ったが──思いがけず、楽しく過ごすことができた。それはきっと彼のおかげだ。
「千石くん」
「え?」
名前は足を止め、千石の名を呼んだ。オレンジ色の夕陽が振り返った彼と重なって、名前はまぶしくて目を細めた。たった数日のことだったが、この数日間、彼は名前にとっての太陽だった。いろいろな話をした。涙が出るほど笑い転げた出来事も一緒に笑ってくれたし、抱えきれなくなった悲しみは半分持とうとしてくれた。ノリの軽さで流してしまいそうになるけれど実は本当に優しいところも、テニスには真剣なところも、知ることができてうれしかった。彼と出会えたから──きっと出会いにも別れにも、意味があるのだと思えた。
「今日まで楽しかった。いろいろ話聞いてくれてありがとう」
「いやいや。俺も楽しかったし」
すでに満開のピークを過ぎた桜は、少しずつ芽を出し始めている。舞い落ちる花弁の量も、先週より随分と少なくなった。みな、変わって──進んで、成長していくのだ。
「……あのさ」
「これ。あげる」
「え……」
「私にとってもラッキーアイテムだったみたい」
何か言いかけた千石の言葉を遮って、名前はポケットから取り出した飴玉を彼に差し出した。彼は目を丸くして、自身のてのひらに転がされた包みと名前の顔を交互に見ている。出会った日に彼がわけてくれた幸運のそれは甘く、まるで彼のやさしさそのものだった。これで漸 く、対等になれるだろうか。彼がくれたやさしさを、こんなもので本当に返せるとは思わないが──それでも、一方的に享受するだけの関係のまま終わりにしたくはなかった。もう会えなくなるのだとしても、最後にこれだけは。
「じゃあ……」
「待……っ」
去ろうとした名前を、今度は千石が引き留める。つかまれた手が、ひどくあつい。反射的に振り返って目に入った彼の表情はうつむき気味だったこともあり、夕陽で陰ってよく見えなかったが──あまり、見たことがないそれをしているような、気がした。「ご、ごめん」とつかんだ私の手を解放してから、彼は続ける。
「また、会いたいんだけど」
「え」
「……初めて会ったとき、君、泣いてたろ」
「…………」
「で、次の日笑った顔見て、……もっといろんな表情 が見たいって思ったんだ」
「そ、れは……」
「だから、もっと君のこと知りたいし……毎日会うのは無理でも、会う約束ができるようになりたい……って言ったら、変かな」
彼が顔を上げると、視線がかち合う。見たことのない彼の真剣なそれに射抜かれて、身動きがとれない。終わりにしなくても、いいのだろうか。変わらなくても──変わっていくとしても、そのとき隣にいられることを、祈ってもいいのだろうか。熱を持ったままのてのひらで、今度は自分から彼のそれに触れると、少しだけ彼の手に力がこもった。彼の体温は自分のそれと同じくらいあつく──紅く染まった頬も体温も速まる鼓動も、あるいは想いも同じなのかもしれない。そう思うと胸がいっぱいになって、きゅ、と緩く握られた手を、名前はそっと握り返した。
──帰ろう。お母さんが心配する。
名前は今日、母親と愛犬とともに祖父母の家へ越してきた。両親が離婚したのだ。その原因について名前は詳しく聞かされていないが、どうやら不倫だとか不仲だとか、そういうものではないらしい。父親とだって会いたい時に会っていい、誰の許可も必要ない、母ははっきりとそう言ったし、その隣で父も頷いていた。切なげな笑顔ではあったが、追い詰められたそれではなかったように思う。だからきっと──悲しいのもさみしいのも今だけだ。祖父母の家は元居た家の隣の区にあり、学校も転校することなくギリギリ通い続けられる距離であったし、父親とだってこの先一生会えないわけじゃない。自分は恵まれているほうだ。
思いつくあらゆる励ましを自分に言い聞かせ、名前は袖で強めに目元を拭う。立ち上がりボトムについた砂埃をぱたぱたと払うと、それに紛れて少し違う音──砂利を踏み締めるような──が、すぐ後ろから聞こえた。
「あ」
「え」
「あ、いや……具合でも悪いのかなって」
見知らぬ男の子が戸惑った様子でそこに立っていた。今まさに、私に声をかけようとしたところだったらしい。
「あ、すみません……大丈夫です」
「……そう?」
絞りだした声は自分で思うよりもかすれていて、まるで大丈夫じゃないそれに、名前は思わずこぼれそうになった苦笑をなんとか嚙み殺した。じっと見られ、気まずくて目をそらしたが──泣いていたと、気付かれてしまっただろうか。だが彼は、それ以上何も聞いては来なかった。
「ならいいけど」
「……」
「あ。そうだ、これあげるよ」
彼はおもむろにカバンを
「これは……」
「俺の今日のラッキーアイテムなんだ」
「は、はあ……」
じゃあね、とだけ言い残し、彼は行ってしまった。風に揺れるオレンジ色の髪の毛が、陽の光に反射してきらきらとまぶしかった。
◇
ご機嫌な愛犬を連れ、名前はいまだ見慣れない道を歩いていた。昨日ほどではないが、今日も比較的よく晴れている。春休みの部活終わり、長くなった通学時間の分、着替えるのもより一層面倒で──ジャージのまま家でだらだらと過ごし、挙句そのまま犬の散歩に出てきてしまった。午前中はそれほどでもなかったが、陽が随分とのびてきた夕方の時間帯はもう長袖のそれでは暑いくらいだ。季節の変わり目にもかかわらず、ここのところ天気も気温も安定している。自分の精神状態のほうがよほど不安定なのではないかと、名前は袖をまくり上げながらひとり自嘲した。そんな名前に構うことなく、愛犬・ナナ──またの名をお姫様、あるいは天使──は、初めて歩く道のなにもかもに興味津々で、てくてく歩きながらきょろきょろと辺りを見渡し、その間も休むことなく尻尾をぶんぶんと振り回し続けている。
今日も今日とて川の方をぼんやり眺めながら歩いていると、リードがぴん、と突っ張った。どこからか転がってきたテニスボールに気を取られたらしいナナの尻尾は先ほどまでよりも激しく左右に動かされ、もげてしまいそうな勢いだ。
「……あ」
「あ。昨日の」
そこにいたのは、昨日の彼だった。いつの間にか昨日よりも幾分遠くまで来ていたらしい。同じ川沿いを歩いてきたはずなのに、彼の後ろに広がる景色は昨日のそれとは随分違うもののように見えた。じゃれるナナを軽く静止しながらボールを拾い上げ、彼に手渡す。
「あ、ごめんね。ボールありがとう」
「や、こちらこそ……昨日はどうも」
「……それ、どこの学校のジャージ?」
「え?」
「この辺であんまり見ないなあって」
彼は自己紹介代わりか、胸元のジッパー下に書かれた“山吹中”の文字をこちらに見せるよう、自身のユニフォームの裾を広げて引っ張った。緑色に濃いめの黄色いラインが入ったなかなか印象的なユニフォームだ。隣の地区からやってきたばかりの名前には見覚えがないものだし、名前が着用している中学のジャージも、彼にとって同じように見知らぬものなのだろう。とはいっても、一度見たら忘れることはなさそうな彼のそれに比べ、名前のジャージは紺色に一部白のラインが入っただけの至ってシンプルなデザインなので、見たことがあったとしても記憶に残りにくいだろうが。
「あ……最近引っ越してきたから」
「あっ、そうなんだ」
ボールを軽く上に放り投げてはキャッチして、を繰り返しながら、彼はしゃがんでナナに目線をあわせる。人懐こい犬はひとしお激しく尾を揺らしながら、きらめかせた目で上下するボールの行方を追っていた。
「かわいーねえ。触ってもいい?」
「あ、うん。なんか……こんな感じで、下から……」
「オッケー」
名前の手本に
「…………」
「……なにか?」
ナナの顎をさする彼の視線は、いつの間にかこちらに向いている。変なタイミングでひとり笑ってしまった自覚はありつつも、名前が何もなかったかのように問えば、彼もへらりと笑って「いや、なんでも」と答えつつまたナナのほうへと顔を向けた。
「いや~、それにしても俺ってばラッキーだなあ。二日連続で君に会えるなんて」
「……そのラッキーって、口癖なの?」
「口癖っていうか、うーん……まあそんなところかな」
一度撫で始めれば、ひとたび手を休めると、ナナは「手が止まってますよ」と言わんばかりに前足で突く。飼い主にとってみれば愛らしい行動だが、あくまでも普段の家族に対する振る舞いであって、初対面の人間相手に
「ご、ごめんね。こら、図々しいよ、ナナ」
「はは、全然。ナナちゃんっていうんだ、おりこうさんだね」
「いやもう、甘えたで……」
立ち上がってナナに顔を近づけながらその顎下を指でさすってやる彼の仕草は、動物慣れしているようものに見えた。なにかペットを飼っているのかも……と思ったが、ふと我に返ると、彼の顔が思った以上に近くにあって──ナナに近づけられたそれが、必然的に自分との距離も縮まっているのは当然のことなのだが──びっくりして、何もかもよくわからなくなってしまった。なんかこの人、距離近くないか。
「君はなにチャン?」
「え?」
「俺は千石清純っていうんだ。君は?」
「あ、ああ……苗字名前です……」
「名前ちゃんね。何年生?」
「ちゅ……中三、もうすぐ」
「おっ、俺も! 同い年かあ、やっぱ俺ってツイてる」
軽いノリで呼ばれ、不覚にもどきっとしてしまった。同級生の男子に、こんな距離感で話しかけられることも、ちゃん付けで呼ばれる経験だってそうないものだから──とはいえ、もしかしたら自分は単純なのかもしれない。はじめての感覚にどぎまぎしながら、名前は平静を装うことに必死だった。
「俺、明日もこのくらいの時間にここでテニスやってるからさ」
「そ……う、なんだ」
「うん。だから、また会えたらうれしいなあ」
彼が指差す少し先に、テニスコートがいくつかあることに
◇
あれから一週間ほど経った今日。名前は昨日と同じ時間帯、もうすっかりいつもの道となったこの川沿いの通りを、ひとりで歩いていた。
「名前ちゃん」
「あ、千石くん」
「あれ? 今日はひとりなんだね」
「うん」
途中から千石が合流して、ナナもいつもどおりその尾をいっそう大きく揺らしながら彼の足元にじゃれついて、少しの間一緒に歩く。この数日間そうやって過ごしてきた。だが今日は違う。彼に懐いているナナには申し訳ないが、今日の散歩は早い時間に前倒しさせてもらった──彼とこうして過ごせるのも、今日で最後だから。春休みが終われば、お互いにきっとそう上手く時間の都合もつけられないだろう。こう見えて真摯に部活に打ち込んでいる彼は、自分より数倍忙しいのだ。
「明日始業式かあ」
「……うん、私のとこもそう」
「だよねえ」
ただでさえ長期休みなんてあっという間に終わってしまうが、名前にとって今回のそれは今までの比ではなかった。物理的にも精神的にも慌ただしいことばかりで、当初はどうなることかと思ったが──思いがけず、楽しく過ごすことができた。それはきっと彼のおかげだ。
「千石くん」
「え?」
名前は足を止め、千石の名を呼んだ。オレンジ色の夕陽が振り返った彼と重なって、名前はまぶしくて目を細めた。たった数日のことだったが、この数日間、彼は名前にとっての太陽だった。いろいろな話をした。涙が出るほど笑い転げた出来事も一緒に笑ってくれたし、抱えきれなくなった悲しみは半分持とうとしてくれた。ノリの軽さで流してしまいそうになるけれど実は本当に優しいところも、テニスには真剣なところも、知ることができてうれしかった。彼と出会えたから──きっと出会いにも別れにも、意味があるのだと思えた。
「今日まで楽しかった。いろいろ話聞いてくれてありがとう」
「いやいや。俺も楽しかったし」
すでに満開のピークを過ぎた桜は、少しずつ芽を出し始めている。舞い落ちる花弁の量も、先週より随分と少なくなった。みな、変わって──進んで、成長していくのだ。
「……あのさ」
「これ。あげる」
「え……」
「私にとってもラッキーアイテムだったみたい」
何か言いかけた千石の言葉を遮って、名前はポケットから取り出した飴玉を彼に差し出した。彼は目を丸くして、自身のてのひらに転がされた包みと名前の顔を交互に見ている。出会った日に彼がわけてくれた幸運のそれは甘く、まるで彼のやさしさそのものだった。これで
「じゃあ……」
「待……っ」
去ろうとした名前を、今度は千石が引き留める。つかまれた手が、ひどくあつい。反射的に振り返って目に入った彼の表情はうつむき気味だったこともあり、夕陽で陰ってよく見えなかったが──あまり、見たことがないそれをしているような、気がした。「ご、ごめん」とつかんだ私の手を解放してから、彼は続ける。
「また、会いたいんだけど」
「え」
「……初めて会ったとき、君、泣いてたろ」
「…………」
「で、次の日笑った顔見て、……もっといろんな
「そ、れは……」
「だから、もっと君のこと知りたいし……毎日会うのは無理でも、会う約束ができるようになりたい……って言ったら、変かな」
彼が顔を上げると、視線がかち合う。見たことのない彼の真剣なそれに射抜かれて、身動きがとれない。終わりにしなくても、いいのだろうか。変わらなくても──変わっていくとしても、そのとき隣にいられることを、祈ってもいいのだろうか。熱を持ったままのてのひらで、今度は自分から彼のそれに触れると、少しだけ彼の手に力がこもった。彼の体温は自分のそれと同じくらいあつく──紅く染まった頬も体温も速まる鼓動も、あるいは想いも同じなのかもしれない。そう思うと胸がいっぱいになって、きゅ、と緩く握られた手を、名前はそっと握り返した。
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