ch.,4:霜夜 - 星が瞬くこんな夜に -
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『ばあちゃんがお汁粉作るって、食べにおいでや』
そのメッセージに釣られてこんな時間にホイホイやってきたのが間違いだったのかもしれない。陰りのない夜空が冷たい空気をより一層引き立たせており、凍えそうな寒さに拍車をかける。外に連れ出されるとわかっていたら……と思わなくもないが、自身の食指を動かしたのはメッセージの内容や甘味そのものではなく“メッセージの送り主”なのだから、結局のところはどうにもならない──それは、俺自身が誰より一番よくわかっていた。
ch.,4 : 霜夜 - 星が瞬くこんな夜に -
「ほんま騙されたわ。汁粉食いに来ただけやのに、初詣付き合わされるとか聞いてへん」
「まあまあ、ええやん」
文字どおり甘い誘惑で財前を唆 した名前は、彼の小言をさして気にもしない様子でへらりと笑った。腹立たしい。名前の言動も、汁粉ではなく彼女自身にあっさり釣られてしまう自分も。
三が日を過ぎれば混雑のピークも終わり、境内の人だかりはだいぶ少なくなっている。通常時よりは少し多いくらいだろうか。だからこそ尚更、無遠慮に衣類のあらゆる隙間から入り込まんとしてくる風がひどく冷たく感じられた。
「俺部活でも来させられてんけど」
「まあまあ、ええやん」
「せめて陽ぃ出とるうちにせえよ。寒いわ」
「いやほんまに、まじで寒い」
名前は剥き出しの手のひらに息を吐きかける。擦り合わせる手の隙間から覗くその鼻の頭は、薄明かりでも分かるほどに赤くなっていた。
「でもなんか、光全然寒そうに見えんけど」
「いや寒いけど。まあでもカイロあるし、今朝謙也さんからパクったやつ」
「出た! “ケンヤさん”、いつ聞いてもかわいそうでおもろい」
ふふ、と小さな笑い声が、白い息とともに彼女の口から漏れ出る。つられて笑みがこぼれそうで、財前は誤魔化 すようマフラーに顔を埋め直した。
「やって、引退したんに顔出す先輩とかウザいやろ。差し入れのひとつやふたつもらわんと割に合わんわ」
「そんなこと言って、懐いとるくせに。特に忍足には」
「しばくで」
「はいはい」
軽口を叩きながら参道を歩くうちに拝殿前へ到着すると、名前が半歩前に出る。「ほら、光も」と作法に則 る彼女に促され、財前は名前より半テンポ遅れながら一応手を合わせた。薄く開いた横目で彼女を様子を窺 う。その表情は先程とは打ってかわって随分真剣なものに見え、それがまた気に障った。そんなに大真面目に何を祈っているのか──聞かずとも、答えが何となくわかってしまうから。
最後にまた一礼し、名前は振り返る。
「帰ろっか」
「……真剣に祈り過ぎやろ」
「まあ、一応受験生やからね」
「そんなん、神頼みしとらんで努力をせえよ」
「まあまあ」
「ちゅうか、人に言うたら叶わんのとちゃう」
「んはは! そんなら聞かんでよ」
何笑っとんねん。人の気も知らないで。
ようやく離れられると思えば、いっそ晴れ晴れとした気持ちだ──そう言えば、名前は怒るだろうか。一度くらい、怒った顔も見てみたかったかもしれない。もう随分と長いこと一緒に過ごして来たのに、財前は名前のそういった表情を見たことがなかった。名前はいつも笑っていた。
そうだ。すぐに何にでもブツクサ言う俺の隣で、いつもいつもニコニコニコニコして──自分だけ物分かりの良い幼馴染みたいな顔をして、その笑顔ひとつひとつにも、気のない素振 りにも、翻弄されているのはこちらの方だというのに。
「光は?」
「……名前が合格しますようにて」
「うっそ。優しいやん」
「ほんま喧 しいねんおまえ。来年からようやっとおらんようになると思ったら清々するわ」
「ひどいな~」
口から出まかせであれば無限に出てくるのに、それ以外気の利いた言葉は何ひとつ言うことも出来ない。引き留めたところで意味はない。何がどう転んでも絶対に越えられない一年の差は、たったそれだけのことに思えるのに──その言葉の意味以上に、あまりにも遠く感じられる。でも、どうしようもない。変えられないのならせめて、明るく送り出したい。そう思う反面、未練を残してほしいという愚かな願いもどうしたって捨てられずにいる。
自分でも呆れるほどの二律背反に、財前は思わず溜め息をこぼした。もうすぐ会えなくなってしまうというのに、苛立ってばかりの自分にも──そして、そんな俺の一人相撲に気が付かないはずないだろうに、へらへらと知らん顔をする名前のその笑顔すらも。何もかもが癪 に障って仕方ないのだ。
「……光が私のために願い事してくれたんなら、私もなんか光のためにお願いしよかな」
「は?」
「まあ見とってよ」
家路の中名前は立ち止まり、空を見上げた。財前がそれに倣 えば、雲ひとつない、冷たい空気で澄み切った夜空が視界いっぱいに広がる。名前は光る星々のどことも言えない場所を指差して、──そのまま。暫しの間沈黙が流れた。
「……何?」
「……ここでね。流れ星が流れるはずやったんよ」
「はあ? 何言うとんねん」
「いやほんまに」
しぶんぎ座流星群。今朝ニュースでちらりと聞いたようなそうでもないような、耳馴染みのない星座の名を名前は口惜しそうに独りごちた。毎年この時期に流れるものの、ペルセウス座やふたご座のそれと違い、年によってかなりムラがあるらしい。
「……どっちにしろ、そんなホイホイ見られんやろ」
「んー、まあねえ。光と流星群見たかったんやけどな」
「……あ?」
「まあしゃあない、帰ろ! 寒いし」
名前は残念そうに眉を下げたかと思えば、またすぐにからりと笑った。そういう、表情がころころ変わるところも。流星群なんかよりよほど予想がつかなくて、流星群よりもよほど──なんて、何考えとんねん俺。きしょ。
「あー、ほんっまに寒い」
ひとり思考を巡らす財前を他所 に、名前は寒さゆえ袖口に引っ込めていた手を伸ばし、再び吐息で暖をとろうと試みている。──最後くらい、良いだろうか。誰に対するわけでもない言い訳を脳内で並べ立て、財前はポケットから出した手を名前に差し出した。
「手」
「え?」
「手出せや」
「なんや急に。カツアゲ?」
「なんでや。ええから早よせえ」
頭上に疑問符を浮かべながら、名前は財前の差し出したそれへと触れる。そのまま、財前は彼女の手ごと自身のコートのポケットへと突っ込んだ。
「え」
「……カイロ、半分貸したる」
その手にカイロを握らせて、そのうえに自分の手を重ねる。他人と比べて低いはずの自分の体温が、どんどんあがっていくのがよくわかった。冷えきった彼女の指先が心地良いほどだ。
「……ふ、半分って……微妙にケチ」
「わかった、しばく」
「うそうそ。光くん優しいな~」
そこからまた少し、二人無言のまま歩いた。来週には本格的に入学試験がはじまる。そうしたらもう卒業まであっという間だろう。小学生の頃だって当然ながら名前は先に卒業してしまったが、今回のそれは訳が違う。きっとただの幼馴染なんて、いつでも赤の他人に成り下がってしまう程度の関係なのだ。そこまでわかっていて、結局何もして来なかったのだが。
──願い。願いか。名前が俺のために何か祈るというのなら、俺は彼女のために何を祈ろう。何がしてやれるだろう。なんて、“ただの幼馴染”が図々しいか。ゆっくり足を進めながら、夜空の星と一緒に後悔をひとつずつ数えていた──その刹那。
「……あ」
「あ」
「見た!? 今、流れたやんな」
「ああ……」
「あーでも、また自分の願い事考えとったわ」
「欲深いやっちゃな。今度は何や」
「……今が、ずっと続けばいいのに」
なんてね。名前は空を見上げたまま、笑って小さく呟く。薄く細められた瞳に反射して瞬く星々の美しさに、財前は思わず息を呑んだ。見てる方が泣きたくなるような、彼女のそんな切ない笑顔を見るのは初めてだった。
「……やから、言うたら叶わんて」
「はは、やったら聞かんでって。光は?」
「別に」
「あ、自分だけ叶える気やな」
まったく、とマフラーの隙間から覗く頬を緩ませる名前は、もういつもどおりの彼女だった。──まったく、なんてこちらの台詞だというのに。どれだけ人のことを振り回したら気が済むのか。
「ま、光はなんだかんだ優しい良いやつやからね。願い事もきっと叶うよ」
「……なら、俺んこと好きになれや」
卒業なんか、せんで。
思わずこぼれ出たそれは聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで闇にとけていき、名前の耳に届いたかどうかはわからなかった。だがもういっそ、聞こえていてもいいと思った。最後くらい困ってしまえばいいのだ。ずっと、俺の気持ちに気付かないふりをしてきたのだから──そう思うのに。
「え?」
「……何も言っとらん」
「ええ? 何よ」
彼女相手ではどうにも自分の思うとおりに振る舞えないのが現実である。財前はぐっと眉間に皺を寄せ、名前を見遣 った。彼女はひどく上機嫌で、いつものニコニコを通り越し──にやにや、といった方が近しいだろうか。心底楽しそうに口角を釣り上げている。
「……ほんなら、耳の穴かっぽじってよう聞けや」
「こわ」
「卒業すんな」
「……ん?」
「卒業なんかせんで、……ずっと、すぐ近くでへらへらしとれよ」
まったくもって腹立たしいが、きっとずっと勝てないのだろう。
「……義務教育で留年はちょっとな。出来るん? そもそも」
「知らん」
「無責任やな」
「……ちゅうか、マジレスすな」
極力声のトーンは下げて言ったつもりだったが、名前のにやけ顔は止まらない。それもそのはず、自分でわかるほど、体中の熱が今顔に集まっているのだ。
「そんな顔で怒っても、ぜーんぜん怖ないよ」
「おちょくってんのとちゃうぞ」
「おちょくっとらんよ。光はかわいいね」
またいつもの──自分だけが弄ばれているような感覚に、財前は脱力した。名前の考えていることがわからない。ここで「おまえの方がかわいいよ」なんて返すことが出来るようなやつだったら、もっと違う“今”があったのだろうか。脳裏を過 る無意味なたらればを振り払うように、ふう、と溜め息をひとつ吐いた。
「……何なん、おまえマジで」
「でも好きなんやろ」
「……せやったら、なんか悪いんか」
ぶっきらぼうに返せば初めて、名前はその目を丸くした。どうやら少しだけ驚いたらしい。いい気味だ。
「いや全然。私も光のこと好きだよ」
かわいいところも、素直だけど素直じゃないところも、ほんとうは優しいところもね。
「……あ?」
「意外と鈍感なとこもかわええし」
「……しばいたろか、ホンマに」
「照れ隠しの憎まれ口も、慣れればまあ悪ないかな」
でも、私以外の子が近くにいるようになったら。光の良いところ気付かれちゃったら、少し寂しいな。
「名前……」
「やから、“好き”って言うてよ」
「……何が『やから』やねん。前後繋がっとらんやろ」
「ええやん別に、何でも」
「……嫌や」
「は~、ケチ」
「ケチで結構」
名前は口を尖らせながら、財前のポケットの中に入ったままの手のひらからカイロを手放して、彼の手をぎゅっと握り返した。今の今まで触れていたそれの熱か彼女自身の体温か、双方があいまってひどく熱い。
「ちょ、おい」
「あーあー、私は言うたのになあ」
「……」
「私かて不安なんやけどなあ」
「…………」
「素直じゃないとこもかわええけど、これくらい言うてくれたって……」
「……っ、ああもう、好きや! これでええんやろ」
投げ遣りに放った言葉でも、名前は「よくできました」と満足気に笑う。それは財前がこれまで彼女とともに過ごしてきたなかで、紛れもなく一番の笑顔だった。
そのメッセージに釣られてこんな時間にホイホイやってきたのが間違いだったのかもしれない。陰りのない夜空が冷たい空気をより一層引き立たせており、凍えそうな寒さに拍車をかける。外に連れ出されるとわかっていたら……と思わなくもないが、自身の食指を動かしたのはメッセージの内容や甘味そのものではなく“メッセージの送り主”なのだから、結局のところはどうにもならない──それは、俺自身が誰より一番よくわかっていた。
「ほんま騙されたわ。汁粉食いに来ただけやのに、初詣付き合わされるとか聞いてへん」
「まあまあ、ええやん」
文字どおり甘い誘惑で財前を
三が日を過ぎれば混雑のピークも終わり、境内の人だかりはだいぶ少なくなっている。通常時よりは少し多いくらいだろうか。だからこそ尚更、無遠慮に衣類のあらゆる隙間から入り込まんとしてくる風がひどく冷たく感じられた。
「俺部活でも来させられてんけど」
「まあまあ、ええやん」
「せめて陽ぃ出とるうちにせえよ。寒いわ」
「いやほんまに、まじで寒い」
名前は剥き出しの手のひらに息を吐きかける。擦り合わせる手の隙間から覗くその鼻の頭は、薄明かりでも分かるほどに赤くなっていた。
「でもなんか、光全然寒そうに見えんけど」
「いや寒いけど。まあでもカイロあるし、今朝謙也さんからパクったやつ」
「出た! “ケンヤさん”、いつ聞いてもかわいそうでおもろい」
ふふ、と小さな笑い声が、白い息とともに彼女の口から漏れ出る。つられて笑みがこぼれそうで、財前は
「やって、引退したんに顔出す先輩とかウザいやろ。差し入れのひとつやふたつもらわんと割に合わんわ」
「そんなこと言って、懐いとるくせに。特に忍足には」
「しばくで」
「はいはい」
軽口を叩きながら参道を歩くうちに拝殿前へ到着すると、名前が半歩前に出る。「ほら、光も」と作法に
最後にまた一礼し、名前は振り返る。
「帰ろっか」
「……真剣に祈り過ぎやろ」
「まあ、一応受験生やからね」
「そんなん、神頼みしとらんで努力をせえよ」
「まあまあ」
「ちゅうか、人に言うたら叶わんのとちゃう」
「んはは! そんなら聞かんでよ」
何笑っとんねん。人の気も知らないで。
ようやく離れられると思えば、いっそ晴れ晴れとした気持ちだ──そう言えば、名前は怒るだろうか。一度くらい、怒った顔も見てみたかったかもしれない。もう随分と長いこと一緒に過ごして来たのに、財前は名前のそういった表情を見たことがなかった。名前はいつも笑っていた。
そうだ。すぐに何にでもブツクサ言う俺の隣で、いつもいつもニコニコニコニコして──自分だけ物分かりの良い幼馴染みたいな顔をして、その笑顔ひとつひとつにも、気のない
「光は?」
「……名前が合格しますようにて」
「うっそ。優しいやん」
「ほんま
「ひどいな~」
口から出まかせであれば無限に出てくるのに、それ以外気の利いた言葉は何ひとつ言うことも出来ない。引き留めたところで意味はない。何がどう転んでも絶対に越えられない一年の差は、たったそれだけのことに思えるのに──その言葉の意味以上に、あまりにも遠く感じられる。でも、どうしようもない。変えられないのならせめて、明るく送り出したい。そう思う反面、未練を残してほしいという愚かな願いもどうしたって捨てられずにいる。
自分でも呆れるほどの二律背反に、財前は思わず溜め息をこぼした。もうすぐ会えなくなってしまうというのに、苛立ってばかりの自分にも──そして、そんな俺の一人相撲に気が付かないはずないだろうに、へらへらと知らん顔をする名前のその笑顔すらも。何もかもが
「……光が私のために願い事してくれたんなら、私もなんか光のためにお願いしよかな」
「は?」
「まあ見とってよ」
家路の中名前は立ち止まり、空を見上げた。財前がそれに
「……何?」
「……ここでね。流れ星が流れるはずやったんよ」
「はあ? 何言うとんねん」
「いやほんまに」
しぶんぎ座流星群。今朝ニュースでちらりと聞いたようなそうでもないような、耳馴染みのない星座の名を名前は口惜しそうに独りごちた。毎年この時期に流れるものの、ペルセウス座やふたご座のそれと違い、年によってかなりムラがあるらしい。
「……どっちにしろ、そんなホイホイ見られんやろ」
「んー、まあねえ。光と流星群見たかったんやけどな」
「……あ?」
「まあしゃあない、帰ろ! 寒いし」
名前は残念そうに眉を下げたかと思えば、またすぐにからりと笑った。そういう、表情がころころ変わるところも。流星群なんかよりよほど予想がつかなくて、流星群よりもよほど──なんて、何考えとんねん俺。きしょ。
「あー、ほんっまに寒い」
ひとり思考を巡らす財前を
「手」
「え?」
「手出せや」
「なんや急に。カツアゲ?」
「なんでや。ええから早よせえ」
頭上に疑問符を浮かべながら、名前は財前の差し出したそれへと触れる。そのまま、財前は彼女の手ごと自身のコートのポケットへと突っ込んだ。
「え」
「……カイロ、半分貸したる」
その手にカイロを握らせて、そのうえに自分の手を重ねる。他人と比べて低いはずの自分の体温が、どんどんあがっていくのがよくわかった。冷えきった彼女の指先が心地良いほどだ。
「……ふ、半分って……微妙にケチ」
「わかった、しばく」
「うそうそ。光くん優しいな~」
そこからまた少し、二人無言のまま歩いた。来週には本格的に入学試験がはじまる。そうしたらもう卒業まであっという間だろう。小学生の頃だって当然ながら名前は先に卒業してしまったが、今回のそれは訳が違う。きっとただの幼馴染なんて、いつでも赤の他人に成り下がってしまう程度の関係なのだ。そこまでわかっていて、結局何もして来なかったのだが。
──願い。願いか。名前が俺のために何か祈るというのなら、俺は彼女のために何を祈ろう。何がしてやれるだろう。なんて、“ただの幼馴染”が図々しいか。ゆっくり足を進めながら、夜空の星と一緒に後悔をひとつずつ数えていた──その刹那。
「……あ」
「あ」
「見た!? 今、流れたやんな」
「ああ……」
「あーでも、また自分の願い事考えとったわ」
「欲深いやっちゃな。今度は何や」
「……今が、ずっと続けばいいのに」
なんてね。名前は空を見上げたまま、笑って小さく呟く。薄く細められた瞳に反射して瞬く星々の美しさに、財前は思わず息を呑んだ。見てる方が泣きたくなるような、彼女のそんな切ない笑顔を見るのは初めてだった。
「……やから、言うたら叶わんて」
「はは、やったら聞かんでって。光は?」
「別に」
「あ、自分だけ叶える気やな」
まったく、とマフラーの隙間から覗く頬を緩ませる名前は、もういつもどおりの彼女だった。──まったく、なんてこちらの台詞だというのに。どれだけ人のことを振り回したら気が済むのか。
「ま、光はなんだかんだ優しい良いやつやからね。願い事もきっと叶うよ」
「……なら、俺んこと好きになれや」
卒業なんか、せんで。
思わずこぼれ出たそれは聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで闇にとけていき、名前の耳に届いたかどうかはわからなかった。だがもういっそ、聞こえていてもいいと思った。最後くらい困ってしまえばいいのだ。ずっと、俺の気持ちに気付かないふりをしてきたのだから──そう思うのに。
「え?」
「……何も言っとらん」
「ええ? 何よ」
彼女相手ではどうにも自分の思うとおりに振る舞えないのが現実である。財前はぐっと眉間に皺を寄せ、名前を
「……ほんなら、耳の穴かっぽじってよう聞けや」
「こわ」
「卒業すんな」
「……ん?」
「卒業なんかせんで、……ずっと、すぐ近くでへらへらしとれよ」
まったくもって腹立たしいが、きっとずっと勝てないのだろう。
「……義務教育で留年はちょっとな。出来るん? そもそも」
「知らん」
「無責任やな」
「……ちゅうか、マジレスすな」
極力声のトーンは下げて言ったつもりだったが、名前のにやけ顔は止まらない。それもそのはず、自分でわかるほど、体中の熱が今顔に集まっているのだ。
「そんな顔で怒っても、ぜーんぜん怖ないよ」
「おちょくってんのとちゃうぞ」
「おちょくっとらんよ。光はかわいいね」
またいつもの──自分だけが弄ばれているような感覚に、財前は脱力した。名前の考えていることがわからない。ここで「おまえの方がかわいいよ」なんて返すことが出来るようなやつだったら、もっと違う“今”があったのだろうか。脳裏を
「……何なん、おまえマジで」
「でも好きなんやろ」
「……せやったら、なんか悪いんか」
ぶっきらぼうに返せば初めて、名前はその目を丸くした。どうやら少しだけ驚いたらしい。いい気味だ。
「いや全然。私も光のこと好きだよ」
かわいいところも、素直だけど素直じゃないところも、ほんとうは優しいところもね。
「……あ?」
「意外と鈍感なとこもかわええし」
「……しばいたろか、ホンマに」
「照れ隠しの憎まれ口も、慣れればまあ悪ないかな」
でも、私以外の子が近くにいるようになったら。光の良いところ気付かれちゃったら、少し寂しいな。
「名前……」
「やから、“好き”って言うてよ」
「……何が『やから』やねん。前後繋がっとらんやろ」
「ええやん別に、何でも」
「……嫌や」
「は~、ケチ」
「ケチで結構」
名前は口を尖らせながら、財前のポケットの中に入ったままの手のひらからカイロを手放して、彼の手をぎゅっと握り返した。今の今まで触れていたそれの熱か彼女自身の体温か、双方があいまってひどく熱い。
「ちょ、おい」
「あーあー、私は言うたのになあ」
「……」
「私かて不安なんやけどなあ」
「…………」
「素直じゃないとこもかわええけど、これくらい言うてくれたって……」
「……っ、ああもう、好きや! これでええんやろ」
投げ遣りに放った言葉でも、名前は「よくできました」と満足気に笑う。それは財前がこれまで彼女とともに過ごしてきたなかで、紛れもなく一番の笑顔だった。
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