ch.,3:爽秋 - イロトリドリノセカイ -
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予定どおり開催の合図となる号砲の音で、セットしたアラームよりも少しだけ早く名前は目を覚ました。中学最後の体育祭。カーテンの隙間から外を覗けば、まだ早朝であるというのに射し込む陽がひどく眩しい。日に日に真夏の暑さは少しずつ和らいで、初秋の風が爽やかさを纏 うことも増えてきていたが──今日は暑くなりそうだ。名前はひとつ大欠伸をして、そろりと布団から抜け出した。
昨晩のうちにあらかた準備した荷物を簡単に確認し、ジャージに着替えて階段を降りる。台所の方から漂ってくる食欲を唆 る香りに浸りながら顔を洗って、いつもより念入りに日焼け止めを塗り込んだ。この快晴では、少しでも気を抜けばこんがりよく焼けそうである。
「おはよー」
「ああ、おはよう。ご飯よそって」
「はぁい」
白米を盛った茶碗を手に名前が着席すると、父は弁当から溢れたおかずたちを少しずつ並べた皿を差し出してくれた。名前の好きなものばかりだ。台所で作業を続ける父に聞こえるよう大きめの声で「いただきます」と告げてから、名前は朝食をかき込んだ。
「ごちそうさま、美味しかったあ」
「弁当、父さんたちが持ってくのでいいんだよね?」
「うん。お母さんは?」
「仕事でちょっと遅れるけど、ダンスには間に合うように行くって」
「そっか。まあそんな無理せんでもええんやけど」
中学生にもなって、体育祭に親が見にくるのは正直恥ずかしい気持ちもあった。はりきってお弁当まで用意してくれて──もちろんありがたいことだし、家族が応援に来ている生徒は大勢いるので自分だけというわけでもないのだが。
洗面台に立ち、身なりを整える。今日の髪型は決めてあった。高い位置でのポニーテール、それ以外にない。普段しないそれで気を惹 こうとか、そこまで思っているわけではないが──あわよくば、みたいな気持ちがまったくないといえばそれは嘘になる。でも別にええやん、最後の体育祭やし……と誰に向けるわけでもない言い訳を脳内で並べ立てながら、髪の毛一本取りこぼさないよう慎重にまとめ上げた。どうせ終わる頃にはボサボサになってしまっているだろうが、少しでも抗えるよう丁寧にスプレーを吹きかける。ライブを終えても崩れていないアイドルの前髪は、いったいどのようにセットしているのだろうか。調べておけばよかった。
「ほな、行ってきまーす」
「いってらっしゃい。父さんたちは開会式に間に合うくらいに行くから」
玄関を出ると、起き抜けに見たそれより格段に強くなった陽射しが照りつけていた。着実に気温が上昇しているようで、日中のことを考えるとおそろしくなる程度にはすでに暑くなっている。だが、今日をずっと心待ちにしていた名前にとっては、そんなことは些細な問題だった。
ch.,3 : 爽秋 - イロトリドリノセカイ -
「おっ、お疲れ」
放送席の椅子に座ったまま振り返り、彼は言う。つい先ほどまで目の前に広がるグラウンドを走り回っていたはずなのに、特に呼吸を乱したりしている様子はない。対して名前は、男子種目に出場していた彼とは違い自席で応援していただけなので、余裕をもって身なりを整えることが出来た──はずだった。だが、彼を目の前にすると否応なく急上昇する体温に、名前は気が気ではない。拭ってきたはずの汗は、チェックしたはずの前髪は。何もかもが心配だったが、それを悟られないよう、どうにかこうにか平静を装って応える。
「早いね」
「おう、なんちゅうてもスピードスターやからな!」
「かけっこもめっちゃ速かったしな」
「かけっこ言うな」
彼──忍足謙也の快足は、体育祭を迎える前から注目必至であったし、それは去年もその前もそうだった。徒競走やリレーはもちろん、騎馬戦や棒倒しなどどちらかというと体格や腕力が重要そうな種目でさえも彼の活躍は著しい。
「苗字かて、タイヤ引き頑張っとったやん」
「げ、見とったん?」
「おん、白組ふたりに引っ張られて尻餅つくとこもバッチリ」
「うっそ……」
「いやいや、輝いとったで? 多勢に無勢でもなあ、あんなに勇ましく……」
「いやもう勘弁してください」
からからと笑う彼は心底楽しそうで、そんな表情を見せられてしまっては、何を言われても許してしまう。
砂埃に塗 れながらタイヤを奪い合って、挙句思い切り尻餅をついたまま相手に引き摺られたシーンは、彼の目にどんな風に映ったのだろう。全女子生徒がグラウンドを走り回って砂煙を巻き上げているなかで、そんなところをピンポイントで見られていたなんて──考えるだけで気絶しそうだ。
謙也に対して名前はというと、運動神経でいえば中の中。五〇メートル走のタイムも、体格や腕力も平均的で、体育祭だけでなく普段の体育や部活動においても、特段活躍もしないが、足を引っ張るというほどでもない。良くも悪くも影が薄いのだ。悪目立ちするよりは良いが、彼の視界に入る機会すらないというのも考えものだろうか。邪 な思考に多少の罪悪感もなくはないが──思う分には自由だろうと自分に言い聞かせる。脳内でなにかごちゃごちゃと考えるよりも、今、彼と過ごせる限られた時間を噛み締めたかった。
「二年ムカデ競走やろ。うちのスカした後輩どんな顔して出んのかちゃんと見といたらんと」
「うそ、四天宝寺 にもスカした後輩とかおるん」
「ずーっと徹底してスカしとるで。芯強いわ」
「たしかに」
入場前の待機場に集まった二年生たちがやがて列をつくると、その先頭で係が準備完了を示す旗を掲げた。程なくして入場用のBGMが流れ出し、事前に用意したカンペを読み上げる謙也のアナウンスにあわせ、二年生がぞろぞろと入場していく。
「お、あそこにおるわ。後輩」
「どれ?」
「あの……なんや後ろの方でポッケに手突っ込んどる……何やあいつ。やる気あるんか」
「ふ、あらへんのやろ」
「俺が実況したるからなって散々言うたんやけどな」
「原因それな気ぃするわ」
彼らが場位置についてスタートの合図を待つ少しの間、謙也はマイクの音を切り、列の後方で気怠げに立つ人物を指差した。見るからにひとりだけ不機嫌で分かりやすい。──だけど私も、彼がいなければ、体育祭なんて興味なかったかもしれない。
大きな発砲音を皮切りに、第一走者たちがいっせいに走り出す。一チーム四名のクラス別リレー形式で、足をゴム紐でつないだ彼らが何組もスタンバイしている様子はある意味異質だった。いちに、いちに、と声をかけあいながら必死にたすきをつないでいく彼らに合わせ、名前は何組が速いだの何組が転んだだの、凡 そ体育祭の実況といわれて思い浮かぶ典型的なアナウンスを都度行い──謙也はというと、横からひとりボケたりツッコんだりスベッたり、例の後輩がいざ走るとなれば永久にいじり倒すなどしていた。いきいきしていて楽しそうで、くるくる変わる表情から目が離せない。一競技にかかる時間などたかが知れているが、一秒たりとも見逃したくなくて、名前はその一瞬一瞬すべてを目に焼き付けながら、たからもののように胸の奥に仕舞い込む。彼が好きだ。いまこの瞬間が、ずっと続けばいいのに。
◇
照りつける太陽の下、名前はトラックの内側で自分の番を待っていた。三学年には選抜の徒競走とは別にいわゆる借り物競走があり、学年の全員が参加するこちらの種目では、真剣に一着を目指す者、どうにかして笑いをとることに一点集中する者──取り組み方は三者三様である。名前は自分のレースよりも謙也のそれに注目していたが、彼はピンポイントで「自分の部活の次期部長」と書かれた紙を引いて、件 の後輩に散々面倒がられながらもなんとかビリから二番目にゴールしていた。そういうところもらしくて好きだな──と、名前はひとりこそばゆい感情を持て余しながら自身の走順を待った。そしていざ自分の番というところまできても、名前はすでに彼との委員会当番 を終えてしまったこともあり今ひとつ身が入らず──手を抜くわけではないが、あとはもう当たり障りなく今日を終えるだけ。そう思っていたし、そうなるはずだった。
──の、だが。そこそこのスタートをきってそこそこの順位でお題の紙を手に取って、その文字列を頭が理解した瞬間、名前は血の気が一気に引いていくのを感じた。
『おっと、八組立ち止まりました! どうした!?』
どこぞの放送委員のアナウンスで名前は我にかえる。──い、いや、まだ大丈夫。名前はすでに自身のレースを終えている彼の元へ一目散に走り、その腕を掴んだ。
「いや~ん♡」
「こっ、小春ゥーッ!!」
雄叫びをあげながら、後ろから足音が追いかけてきて──それから逃げるように走り抜き、名前は自身と金色と、何故かついてきた一氏とともにゴールテープを切った。名前は息をきらしながら“借り物”のチェック係に用紙を渡し、内容の確認を受ける。
「な、何やねん貴様、俺の小春を誘拐しおって、内容によっちゃあタダじゃ済まさんぞ……」
「き、キレすぎやろ」
「えーと、なになに、“好きな人”……」
「はあああああッ!?」
係がお題を読み上げると、「おお~っ!」という全校生徒の歓声すらも掻き消すような一氏の絶叫が響き渡った。一氏によって胸ぐらを掴み上げられながら放たれる罵詈雑言は、名前の鼓膜を突き破らんとするほどの声量である。
「聞いとんのかワレ!」
「聞いとる聞いとる、声でか」
「何やその態度は!」
「いやいや、そもそも別に小春は一氏のとちゃうし」
「ああ゛!?」
「あらあら〜♡」
「こっ小春、浮気か!?」
「やぁねえ、アタシったらなんて罪作りなのかしら……」
そのままいつもの夫婦漫才がはじまって、名前はウケもそこそこに何とか危機を乗り越えることができた。たいていのことが笑いでどうにかなる校風でよかったと、この時初めて思ったのは心に秘めておくことにする。
安堵に息を吐きながら、名前は半分無意識のうちに謙也を目で探したが、見つけることは出来なかった。見られていただろうか。全校生徒が見ていたと言っても過言ではないのだから、普通に考えれば見られていて当然なのだが──それでも、どうにか見られていなかった理由を探してしまう。トイレにでも行ってたかもしれないし、余所見してたかもしれないし。全員が全員、すべての競技をずっと集中して見ているわけではない。自分でこの展開を選んだくせに勝手な言い分だと、名前は喉に小骨が引っかかったような感覚だった──こんなことを考えるくらいなら、勇気を出して彼の手をとれば良かったのに。
◇
しかし、ひどい目に遭った。
一氏が追いかけてくるであろうことは予想していたが、あそこまで至近距離で大声を浴びせられるとは思っておらず──どうにかこうにか逃れ、体育館脇の水飲み場までたどり着いた名前は、ふう、とため息を吐いた。
「あ、名前ちゃん」
「こ、小春ぅ……ごめんな、急にあんなん……」
「ええんよ、ウケたし、むしろ儲けモンやったわ。まさかホンマにあんなお題引くなんてねえ」
「いやホンマに……小春おらんかったらと思うとゾッとするわ……」
「でも、ケンヤくんは良かったん?」
少し遅れてやってきた金色は水道の蛇口を捻りながら、耳打ちをするような素振 りで名前に問う。以前なにかの拍子に謙也への恋心を見抜かれてしまってから、彼は名前にとって良き相談相手であり協力者でもあった。
「良かったもなにも……無理やて。あの状況で何か出来るくらい度胸あったら、とっくに告っとるし」
「ま、それはそやね」
「せやろ」
「そんでも、思い出作りくらい出来たんちゃう? ケンヤくんやったらノリでどうとでもなりそうやん」
「まあ、そうかもしれんけど……」
彼はああ見えて周りをよく観察しているので、空気を読んで合わせたり要すれば壊したり、そこにいる誰しもを置き去りにしないバランス感覚が絶妙である。それでいて自身のそういった面を誇示しない、そんなところも好きだった。だけど──だからこそ、誰にでもそうなのだと分かっているから──彼に優しくされると、胸が苦しくなる。
「今日は髪型も気合入っとるし。ええやん、ポニテ」
「ば、バレとる……」
「そらね、普段しとらんやん。似合っとるし、走るとぴょこぴょこしてかわええよ」
「そ、そうかな……」
「そうよお。……ケンヤくんもそう思うやろ?」
「え」
金色は目線を名前の頭ひとつ分上にやりながら、ふふ、と笑った。名前が勢いよく振り返ると、そこには渦中の人物が立っている。
「ほな、アタシは先戻っとるわね」
「ちょっ、待っ……」
行ってしまった。こ、こんないきなりふたりきりにされても、心の準備が。
「ど……どっから聞いてた?」
「いや、今来たとこやし」
「そ、そう……」
彼は蛇口に手をかけて、ボトルに水を注いでいく。とくとく、と鳴る水音を掻き消すように大きく跳ねる心臓が、今にも口から飛び出しそうだ。いつもなら気にならない、むしろ心地よくすら感じる彼との沈黙も、さすがに今は堪 える。
「……」
「……ほ、ほな私も……」
「なあ」
「はっ、はい」
そそくさと去ろうとしたが呼び止められ、思わず敬語で返事をしてしまった。だがそれに笑うでもなければ突っ込むでもなく、謙也は神妙な面持ちのままで──名前は息を呑む。
「……」
「え……なに?」
「いや……」
珍しく歯切れの悪い彼に、名前は何を言い出されるのか想像がつかず困惑していた。陽が反射してきらきら光る金髪の隙間から、伏せられた目が覗いている。流れる水を見ているようで、その実どこを見ているというわけでもないようだった。
「え……ホンマになに?」
「……自分、ホンマに小春のこと好きなん?」
「え」
「さっきの……“好きなヤツ”っちゅうの」
「え……ああ」
「ホンマに好きなん」
逃げることを許さないような声色に、名前はたじろいだ。本当に──珍しい。問いの真意をはかりかねたまま、名前はひとまず正直に答えた。
「や、好きっちゅうか……小春連れてったら一氏も来るやろし、そしたらウケるかなって……」
「ホンマに? それだけ?」
「ホンマにって……嘘つく意味あらへんやろ」
「……ほんならええけど」
「え……」
言葉の意味を噛み砕くべく頭をフル回転させようと思うのに、うるさいほどに響く鼓動がそれを阻もうとする。良かった、って、なに。そもそもその、質問の意図は。それでなんで、そんな普通なフリして、耳を真っ赤にしているの。
「な……んや、それ」
「いや、別に」
「べ、別にって……」
「あ。せや」
彼は流水を止めてボトルの蓋を閉めると漸 くこちらを見て、いたずらっぽく笑った。名前の一番好きな表情 だ。その笑顔ひとつで、ただでさえ激しく脈打つ心臓が、いよいよ爆発してしまうのではないかと思うほど。
「小春が言うとったやつ。俺もそう思うで」
「……え?」
「かわええよ、髪型 。いつもかわええけどな」
ほな。言い残し、名前の脳がその言葉の処理を終えるよりも先に、謙也はその自慢の快足で去っていってしまう。──なに、今の。なにが起きた?
ひとり取り残された名前は、混乱したままその場にしゃがみ込んだ。途中で何度も日焼け止めを塗り直したのだから日に焼けてはいないはず、それでも自身の両手で触れた頬は、まるで黒焦げになったかのように熱い。かわええって。かわええって、言った。噛み締めて、胸が苦しくて、名前は自分が自分にとって都合の良い夢を見ているだけなのではないかと、自身の頬を思い切り抓 った。痛い。夢でないならば聞き間違いか、あるいはやっぱり白昼夢か。ひりひりと痛む頬をさすりながら、名前は今にもこぼれそうな涙を必死に堪えた。夢じゃ、ない、なら──それって、どういう意味?
おまけ※会話文のみ
昨晩のうちにあらかた準備した荷物を簡単に確認し、ジャージに着替えて階段を降りる。台所の方から漂ってくる食欲を
「おはよー」
「ああ、おはよう。ご飯よそって」
「はぁい」
白米を盛った茶碗を手に名前が着席すると、父は弁当から溢れたおかずたちを少しずつ並べた皿を差し出してくれた。名前の好きなものばかりだ。台所で作業を続ける父に聞こえるよう大きめの声で「いただきます」と告げてから、名前は朝食をかき込んだ。
「ごちそうさま、美味しかったあ」
「弁当、父さんたちが持ってくのでいいんだよね?」
「うん。お母さんは?」
「仕事でちょっと遅れるけど、ダンスには間に合うように行くって」
「そっか。まあそんな無理せんでもええんやけど」
中学生にもなって、体育祭に親が見にくるのは正直恥ずかしい気持ちもあった。はりきってお弁当まで用意してくれて──もちろんありがたいことだし、家族が応援に来ている生徒は大勢いるので自分だけというわけでもないのだが。
洗面台に立ち、身なりを整える。今日の髪型は決めてあった。高い位置でのポニーテール、それ以外にない。普段しないそれで気を
「ほな、行ってきまーす」
「いってらっしゃい。父さんたちは開会式に間に合うくらいに行くから」
玄関を出ると、起き抜けに見たそれより格段に強くなった陽射しが照りつけていた。着実に気温が上昇しているようで、日中のことを考えるとおそろしくなる程度にはすでに暑くなっている。だが、今日をずっと心待ちにしていた名前にとっては、そんなことは些細な問題だった。
「おっ、お疲れ」
放送席の椅子に座ったまま振り返り、彼は言う。つい先ほどまで目の前に広がるグラウンドを走り回っていたはずなのに、特に呼吸を乱したりしている様子はない。対して名前は、男子種目に出場していた彼とは違い自席で応援していただけなので、余裕をもって身なりを整えることが出来た──はずだった。だが、彼を目の前にすると否応なく急上昇する体温に、名前は気が気ではない。拭ってきたはずの汗は、チェックしたはずの前髪は。何もかもが心配だったが、それを悟られないよう、どうにかこうにか平静を装って応える。
「早いね」
「おう、なんちゅうてもスピードスターやからな!」
「かけっこもめっちゃ速かったしな」
「かけっこ言うな」
彼──忍足謙也の快足は、体育祭を迎える前から注目必至であったし、それは去年もその前もそうだった。徒競走やリレーはもちろん、騎馬戦や棒倒しなどどちらかというと体格や腕力が重要そうな種目でさえも彼の活躍は著しい。
「苗字かて、タイヤ引き頑張っとったやん」
「げ、見とったん?」
「おん、白組ふたりに引っ張られて尻餅つくとこもバッチリ」
「うっそ……」
「いやいや、輝いとったで? 多勢に無勢でもなあ、あんなに勇ましく……」
「いやもう勘弁してください」
からからと笑う彼は心底楽しそうで、そんな表情を見せられてしまっては、何を言われても許してしまう。
砂埃に
謙也に対して名前はというと、運動神経でいえば中の中。五〇メートル走のタイムも、体格や腕力も平均的で、体育祭だけでなく普段の体育や部活動においても、特段活躍もしないが、足を引っ張るというほどでもない。良くも悪くも影が薄いのだ。悪目立ちするよりは良いが、彼の視界に入る機会すらないというのも考えものだろうか。
「二年ムカデ競走やろ。うちのスカした後輩どんな顔して出んのかちゃんと見といたらんと」
「うそ、
「ずーっと徹底してスカしとるで。芯強いわ」
「たしかに」
入場前の待機場に集まった二年生たちがやがて列をつくると、その先頭で係が準備完了を示す旗を掲げた。程なくして入場用のBGMが流れ出し、事前に用意したカンペを読み上げる謙也のアナウンスにあわせ、二年生がぞろぞろと入場していく。
「お、あそこにおるわ。後輩」
「どれ?」
「あの……なんや後ろの方でポッケに手突っ込んどる……何やあいつ。やる気あるんか」
「ふ、あらへんのやろ」
「俺が実況したるからなって散々言うたんやけどな」
「原因それな気ぃするわ」
彼らが場位置についてスタートの合図を待つ少しの間、謙也はマイクの音を切り、列の後方で気怠げに立つ人物を指差した。見るからにひとりだけ不機嫌で分かりやすい。──だけど私も、彼がいなければ、体育祭なんて興味なかったかもしれない。
大きな発砲音を皮切りに、第一走者たちがいっせいに走り出す。一チーム四名のクラス別リレー形式で、足をゴム紐でつないだ彼らが何組もスタンバイしている様子はある意味異質だった。いちに、いちに、と声をかけあいながら必死にたすきをつないでいく彼らに合わせ、名前は何組が速いだの何組が転んだだの、
◇
照りつける太陽の下、名前はトラックの内側で自分の番を待っていた。三学年には選抜の徒競走とは別にいわゆる借り物競走があり、学年の全員が参加するこちらの種目では、真剣に一着を目指す者、どうにかして笑いをとることに一点集中する者──取り組み方は三者三様である。名前は自分のレースよりも謙也のそれに注目していたが、彼はピンポイントで「自分の部活の次期部長」と書かれた紙を引いて、
──の、だが。そこそこのスタートをきってそこそこの順位でお題の紙を手に取って、その文字列を頭が理解した瞬間、名前は血の気が一気に引いていくのを感じた。
『おっと、八組立ち止まりました! どうした!?』
どこぞの放送委員のアナウンスで名前は我にかえる。──い、いや、まだ大丈夫。名前はすでに自身のレースを終えている彼の元へ一目散に走り、その腕を掴んだ。
「いや~ん♡」
「こっ、小春ゥーッ!!」
雄叫びをあげながら、後ろから足音が追いかけてきて──それから逃げるように走り抜き、名前は自身と金色と、何故かついてきた一氏とともにゴールテープを切った。名前は息をきらしながら“借り物”のチェック係に用紙を渡し、内容の確認を受ける。
「な、何やねん貴様、俺の小春を誘拐しおって、内容によっちゃあタダじゃ済まさんぞ……」
「き、キレすぎやろ」
「えーと、なになに、“好きな人”……」
「はあああああッ!?」
係がお題を読み上げると、「おお~っ!」という全校生徒の歓声すらも掻き消すような一氏の絶叫が響き渡った。一氏によって胸ぐらを掴み上げられながら放たれる罵詈雑言は、名前の鼓膜を突き破らんとするほどの声量である。
「聞いとんのかワレ!」
「聞いとる聞いとる、声でか」
「何やその態度は!」
「いやいや、そもそも別に小春は一氏のとちゃうし」
「ああ゛!?」
「あらあら〜♡」
「こっ小春、浮気か!?」
「やぁねえ、アタシったらなんて罪作りなのかしら……」
そのままいつもの夫婦漫才がはじまって、名前はウケもそこそこに何とか危機を乗り越えることができた。たいていのことが笑いでどうにかなる校風でよかったと、この時初めて思ったのは心に秘めておくことにする。
安堵に息を吐きながら、名前は半分無意識のうちに謙也を目で探したが、見つけることは出来なかった。見られていただろうか。全校生徒が見ていたと言っても過言ではないのだから、普通に考えれば見られていて当然なのだが──それでも、どうにか見られていなかった理由を探してしまう。トイレにでも行ってたかもしれないし、余所見してたかもしれないし。全員が全員、すべての競技をずっと集中して見ているわけではない。自分でこの展開を選んだくせに勝手な言い分だと、名前は喉に小骨が引っかかったような感覚だった──こんなことを考えるくらいなら、勇気を出して彼の手をとれば良かったのに。
◇
しかし、ひどい目に遭った。
一氏が追いかけてくるであろうことは予想していたが、あそこまで至近距離で大声を浴びせられるとは思っておらず──どうにかこうにか逃れ、体育館脇の水飲み場までたどり着いた名前は、ふう、とため息を吐いた。
「あ、名前ちゃん」
「こ、小春ぅ……ごめんな、急にあんなん……」
「ええんよ、ウケたし、むしろ儲けモンやったわ。まさかホンマにあんなお題引くなんてねえ」
「いやホンマに……小春おらんかったらと思うとゾッとするわ……」
「でも、ケンヤくんは良かったん?」
少し遅れてやってきた金色は水道の蛇口を捻りながら、耳打ちをするような
「良かったもなにも……無理やて。あの状況で何か出来るくらい度胸あったら、とっくに告っとるし」
「ま、それはそやね」
「せやろ」
「そんでも、思い出作りくらい出来たんちゃう? ケンヤくんやったらノリでどうとでもなりそうやん」
「まあ、そうかもしれんけど……」
彼はああ見えて周りをよく観察しているので、空気を読んで合わせたり要すれば壊したり、そこにいる誰しもを置き去りにしないバランス感覚が絶妙である。それでいて自身のそういった面を誇示しない、そんなところも好きだった。だけど──だからこそ、誰にでもそうなのだと分かっているから──彼に優しくされると、胸が苦しくなる。
「今日は髪型も気合入っとるし。ええやん、ポニテ」
「ば、バレとる……」
「そらね、普段しとらんやん。似合っとるし、走るとぴょこぴょこしてかわええよ」
「そ、そうかな……」
「そうよお。……ケンヤくんもそう思うやろ?」
「え」
金色は目線を名前の頭ひとつ分上にやりながら、ふふ、と笑った。名前が勢いよく振り返ると、そこには渦中の人物が立っている。
「ほな、アタシは先戻っとるわね」
「ちょっ、待っ……」
行ってしまった。こ、こんないきなりふたりきりにされても、心の準備が。
「ど……どっから聞いてた?」
「いや、今来たとこやし」
「そ、そう……」
彼は蛇口に手をかけて、ボトルに水を注いでいく。とくとく、と鳴る水音を掻き消すように大きく跳ねる心臓が、今にも口から飛び出しそうだ。いつもなら気にならない、むしろ心地よくすら感じる彼との沈黙も、さすがに今は
「……」
「……ほ、ほな私も……」
「なあ」
「はっ、はい」
そそくさと去ろうとしたが呼び止められ、思わず敬語で返事をしてしまった。だがそれに笑うでもなければ突っ込むでもなく、謙也は神妙な面持ちのままで──名前は息を呑む。
「……」
「え……なに?」
「いや……」
珍しく歯切れの悪い彼に、名前は何を言い出されるのか想像がつかず困惑していた。陽が反射してきらきら光る金髪の隙間から、伏せられた目が覗いている。流れる水を見ているようで、その実どこを見ているというわけでもないようだった。
「え……ホンマになに?」
「……自分、ホンマに小春のこと好きなん?」
「え」
「さっきの……“好きなヤツ”っちゅうの」
「え……ああ」
「ホンマに好きなん」
逃げることを許さないような声色に、名前はたじろいだ。本当に──珍しい。問いの真意をはかりかねたまま、名前はひとまず正直に答えた。
「や、好きっちゅうか……小春連れてったら一氏も来るやろし、そしたらウケるかなって……」
「ホンマに? それだけ?」
「ホンマにって……嘘つく意味あらへんやろ」
「……ほんならええけど」
「え……」
言葉の意味を噛み砕くべく頭をフル回転させようと思うのに、うるさいほどに響く鼓動がそれを阻もうとする。良かった、って、なに。そもそもその、質問の意図は。それでなんで、そんな普通なフリして、耳を真っ赤にしているの。
「な……んや、それ」
「いや、別に」
「べ、別にって……」
「あ。せや」
彼は流水を止めてボトルの蓋を閉めると
「小春が言うとったやつ。俺もそう思うで」
「……え?」
「かわええよ、
ほな。言い残し、名前の脳がその言葉の処理を終えるよりも先に、謙也はその自慢の快足で去っていってしまう。──なに、今の。なにが起きた?
ひとり取り残された名前は、混乱したままその場にしゃがみ込んだ。途中で何度も日焼け止めを塗り直したのだから日に焼けてはいないはず、それでも自身の両手で触れた頬は、まるで黒焦げになったかのように熱い。かわええって。かわええって、言った。噛み締めて、胸が苦しくて、名前は自分が自分にとって都合の良い夢を見ているだけなのではないかと、自身の頬を思い切り
おまけ※会話文のみ
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