under the rose
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俺は今、柄にもなく緊張している。いつもよりゆっくりと、一歩ずつ踏みしめるように階段へ足をかけ、たどり着いた一番上──屋上へと続く扉の前で深呼吸をした。磨 りガラスから差し込む陽が眩しい。真冬だというのに手のひらにうっすらとかいてしまった汗を、軽く拭ってから触れたドアノブはひどく冷たかった。
「やっほー」
古びたドアはどんなに慎重に開こうとしてもギイ、と、これまた古臭い音をたててしまう。聞き慣れたその音に、屋上の手すりに身を預け景色を眺めていたであろう苗字は顔だけこちらを向け、手をひらひらと振っていた。冬の晴れた空は彼女によく似合う。ほかの季節のそれより色素の薄い、それでいてよく澄んだ空だ。目立つタイプではないのにどこか他の同級生とは違っていて、その立ち振る舞いにはうそもごまかしもない──自分とは正反対の彼女が、俺にとってどうしようもなく気にかかる人物となってしまったのは、今思えば抗 いようのないことだったのかもしれない。
「来ないかと思った、今日寒いし」
「猫かなんかか、俺は」
「猫みたいなもんじゃない?」
こうして彼女とふたり、屋上で過ごすようになったのはいつの頃からだっただろうか。最初の頃は苗字にも恋人がいて、俺もまだ彼女のことをただのクラスメイトとしか思っていなくて──今とは何もかもが違っていた。盛り上がるような共通の話題があるわけでもない、日常の愚痴や、不満というほどでもないそれを、お互いにぽろぽろとこぼすだけ。苗字の話すことに俺が適当な返事をして、それにまた彼女が笑う、それだけ。時には言葉すらなく、肩を並べてぼうっと景色を、空を眺めているだけのこともあった。だがそれが、言いようのないほどに心地よかったのだ。進級してクラスがわかれ、彼女は恋人と知らぬ間に破局し、それでも俺たちの間柄は変わらなかった。特に約束もせずここでたまに会うだけの、きっと、友達と呼べるほどのものですらない関係性。ずっと、名前をつけることを避けていたそれを──俺は今日、彼女に壊してほしかった。うそしか吐 けない俺のこの気持ちをどうにかしてくれないか──という、淡い期待であって、無謀な願いでもある。
「見て。こっから、三年の教室すごいよく見えるの」
「そんなん、前からじゃろ」
「そうだけどさ。おもしろいよ、ほら、真田がめっちゃチョコもらってる」
あそこ、と彼女が指さす先。言葉のとおり、真田が複数の女子に囲まれて、次から次へとチョコレートを押し付けられていた。“女子の勢いに気圧 される真田”は実際愉快な光景ではあるが──本当は、苗字のその楽しそうな顔を見ているほうがいい。そう言ったら、彼女はなんと答えるだろうか。また、「うそばっかり」と呆れるだろうか。そうして笑ってくれるのなら、それもまあいいかと思わなくもないが──それでも、今日は。
「テニス部モテるもんねえ。仁王だって、相当もらったんじゃない」
「まあ、ぼちぼちナリ」
「……ふーん。いいねえ」
「……おまんは、誰かに渡したんか」
「え?」
「あの……ほら、石野とか? 前カッコいい~とか言うとったき」
「ええ? そんなこと言ったっけ」
「覚えとらんのか。体育祭んとき……」
「あー……言ったかも。よく覚えてんね」
忘れるわけ、と、言いかけてやめた。自分だけが気にしているようで、おもしろくない──が、認めたくなくとも、それが現実なのかもしれない。
実際、苗字の考えていることはよくわからない。うそもごまかしもない彼女の言動すらも、変に期待したり無駄に憂 いたりして素直に受け取ることができないのだ。自分で言うのも何だが、人の感情の機微 には聡 いほうのはずなのに。恋は盲目、惚れたもん負けとはよく言ったものだ。
「私なんかそもそも、今日がバレンタインだって、学校来てから思い出したし」
「そんなことあるんか? ……まあ、おまんらしいと言えば、そうかもしれんの」
「どういう意味よ」
あっけらかんとしたその言葉に、虚しさを感じないかと言えば、それはうそになる。でもどちらかと言えば、むしろ安心したような、肩の荷が降りたような気分だった。ほかの誰かに用意しているとか、もう渡してきたとか、失恋 と比べれば百倍いい──そう、思ったのに。
「言っとくけどね。私だって本命チョコのひとつやふたつ、用意してたんだから」
「……え?」
「でも持ってくるの忘れちゃった。ウケるよね」
そのあとのやりとりは、もう頭に入ってこなかった。「忘れるっちゅうことは、たいして好きでもなか、ちゅうことぜよ」とか「ふたつもあったらおかしいじゃろ」とか返した気もするが、苗字がなんと答えたのかは覚えていない。ただ忘れていただけならば、まあ、良しとしようと。何も今、急いでどうこうしなければならないわけじゃない。中三のバレンタインであってもそうやってごまかすことができるのだから、それは中高一貫校の特権だと、自分に言い聞かせようとした矢先。彼女からとってつけたように発せられた言葉は、勢いよく鈍器で殴られたかと錯覚するほどに衝撃的なもので──今にも噴き出しそうな冷や汗を悟られないよう、必死に平静を装った。好きなやつ、おるんか──それだけが思考回路を支配して、いつもならするする出てくるはずのそれが、何ひとつ出てこない。
「……仁王?」
「……え? ああ……苗字にも、好きなやつとかおるんじゃなーと思ったら……なんじゃ、おかしくなってしまってのう」
「今日の仁王、いつもより失礼だね」
「……ま、そんなに怒りなさんな」
「別に怒ってないけど。そっちこそ、そんなに落ち込まないでよ」
「……何がじゃ。俺だって別に、なんも落ち込んどらんぜよ」
「うそばっかり。仁王はいっつもそう、チョコだって、今年は受け取ってないの知ってるんだからね」
「……あ?」
「仁王の好きな人って、だれ?」
「え」
「……て、聞いても答えないかあ。今年は“好きな人からしか受け取らない”って、断ってるって聞いたから、気になっちゃって」
言いながら、苗字はおもむろにブレザーのポケットへと手を突っ込んで──そこから小さな包みを取り出した。
「……なんじゃ、それ」
「“本命チョコ”」
「……は?」
「忘れたとか、うそ。仁王が適当なことばっかり言うからさあ。たまには仕返ししてやろっかなって」
「……はあ?」
「……まあ、でも……別に無理して受け取らなくていいよ。そのまま、“持ってくるの忘れた”ってことにしといて」
“好きな人からしか受け取らない”、んでしょ。
苗字のそんな顔は、初めて見た。ごまかすように目線をそらし、それでも髪の隙間から覗く耳は真っ赤に染まっていて──
「……じゃあ、私はこれで」
「ちょ、おい、待て。チョコ 、どうする気じゃ」
「……どうもこうも、ないけど。持って帰って食べる」
「俺にくれるんじゃないんか」
「……なら、ちゃんと言ってよ」
「え……」
「……今なら。何言ってくれても信じるよ」
引き留めようとつかんだ腕から、感じる体温。俺を──俺だけを映す、湿った瞳が揺れる。ほんとうの、こと。今なら。
「……わかった」
「……え」
「おまんだけに、教えちゃるき。……内緒にしてな」
寒空に吹く風で、彼女の髪が揺れる。あついほどに照り付ける西日が、それに乱反射してきらきらと眩しくて──願わくは、俺たちのこれからの関係性も、こんなふうに輝かしいものであったなら。腕のなかに抱き寄せた彼女の体温を感じながら、そう祈らずにはいられなかった。
【under the rose】
秘密に, ないしょで 《【由来】 昔, バラは秘密の象徴であった; sub rosa <ラテン語>の英訳》
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「やっほー」
古びたドアはどんなに慎重に開こうとしてもギイ、と、これまた古臭い音をたててしまう。聞き慣れたその音に、屋上の手すりに身を預け景色を眺めていたであろう苗字は顔だけこちらを向け、手をひらひらと振っていた。冬の晴れた空は彼女によく似合う。ほかの季節のそれより色素の薄い、それでいてよく澄んだ空だ。目立つタイプではないのにどこか他の同級生とは違っていて、その立ち振る舞いにはうそもごまかしもない──自分とは正反対の彼女が、俺にとってどうしようもなく気にかかる人物となってしまったのは、今思えば
「来ないかと思った、今日寒いし」
「猫かなんかか、俺は」
「猫みたいなもんじゃない?」
こうして彼女とふたり、屋上で過ごすようになったのはいつの頃からだっただろうか。最初の頃は苗字にも恋人がいて、俺もまだ彼女のことをただのクラスメイトとしか思っていなくて──今とは何もかもが違っていた。盛り上がるような共通の話題があるわけでもない、日常の愚痴や、不満というほどでもないそれを、お互いにぽろぽろとこぼすだけ。苗字の話すことに俺が適当な返事をして、それにまた彼女が笑う、それだけ。時には言葉すらなく、肩を並べてぼうっと景色を、空を眺めているだけのこともあった。だがそれが、言いようのないほどに心地よかったのだ。進級してクラスがわかれ、彼女は恋人と知らぬ間に破局し、それでも俺たちの間柄は変わらなかった。特に約束もせずここでたまに会うだけの、きっと、友達と呼べるほどのものですらない関係性。ずっと、名前をつけることを避けていたそれを──俺は今日、彼女に壊してほしかった。うそしか
「見て。こっから、三年の教室すごいよく見えるの」
「そんなん、前からじゃろ」
「そうだけどさ。おもしろいよ、ほら、真田がめっちゃチョコもらってる」
あそこ、と彼女が指さす先。言葉のとおり、真田が複数の女子に囲まれて、次から次へとチョコレートを押し付けられていた。“女子の勢いに
「テニス部モテるもんねえ。仁王だって、相当もらったんじゃない」
「まあ、ぼちぼちナリ」
「……ふーん。いいねえ」
「……おまんは、誰かに渡したんか」
「え?」
「あの……ほら、石野とか? 前カッコいい~とか言うとったき」
「ええ? そんなこと言ったっけ」
「覚えとらんのか。体育祭んとき……」
「あー……言ったかも。よく覚えてんね」
忘れるわけ、と、言いかけてやめた。自分だけが気にしているようで、おもしろくない──が、認めたくなくとも、それが現実なのかもしれない。
実際、苗字の考えていることはよくわからない。うそもごまかしもない彼女の言動すらも、変に期待したり無駄に
「私なんかそもそも、今日がバレンタインだって、学校来てから思い出したし」
「そんなことあるんか? ……まあ、おまんらしいと言えば、そうかもしれんの」
「どういう意味よ」
あっけらかんとしたその言葉に、虚しさを感じないかと言えば、それはうそになる。でもどちらかと言えば、むしろ安心したような、肩の荷が降りたような気分だった。ほかの誰かに用意しているとか、もう渡してきたとか、
「言っとくけどね。私だって本命チョコのひとつやふたつ、用意してたんだから」
「……え?」
「でも持ってくるの忘れちゃった。ウケるよね」
そのあとのやりとりは、もう頭に入ってこなかった。「忘れるっちゅうことは、たいして好きでもなか、ちゅうことぜよ」とか「ふたつもあったらおかしいじゃろ」とか返した気もするが、苗字がなんと答えたのかは覚えていない。ただ忘れていただけならば、まあ、良しとしようと。何も今、急いでどうこうしなければならないわけじゃない。中三のバレンタインであってもそうやってごまかすことができるのだから、それは中高一貫校の特権だと、自分に言い聞かせようとした矢先。彼女からとってつけたように発せられた言葉は、勢いよく鈍器で殴られたかと錯覚するほどに衝撃的なもので──今にも噴き出しそうな冷や汗を悟られないよう、必死に平静を装った。好きなやつ、おるんか──それだけが思考回路を支配して、いつもならするする出てくるはずのそれが、何ひとつ出てこない。
「……仁王?」
「……え? ああ……苗字にも、好きなやつとかおるんじゃなーと思ったら……なんじゃ、おかしくなってしまってのう」
「今日の仁王、いつもより失礼だね」
「……ま、そんなに怒りなさんな」
「別に怒ってないけど。そっちこそ、そんなに落ち込まないでよ」
「……何がじゃ。俺だって別に、なんも落ち込んどらんぜよ」
「うそばっかり。仁王はいっつもそう、チョコだって、今年は受け取ってないの知ってるんだからね」
「……あ?」
「仁王の好きな人って、だれ?」
「え」
「……て、聞いても答えないかあ。今年は“好きな人からしか受け取らない”って、断ってるって聞いたから、気になっちゃって」
言いながら、苗字はおもむろにブレザーのポケットへと手を突っ込んで──そこから小さな包みを取り出した。
「……なんじゃ、それ」
「“本命チョコ”」
「……は?」
「忘れたとか、うそ。仁王が適当なことばっかり言うからさあ。たまには仕返ししてやろっかなって」
「……はあ?」
「……まあ、でも……別に無理して受け取らなくていいよ。そのまま、“持ってくるの忘れた”ってことにしといて」
“好きな人からしか受け取らない”、んでしょ。
苗字のそんな顔は、初めて見た。ごまかすように目線をそらし、それでも髪の隙間から覗く耳は真っ赤に染まっていて──
「……じゃあ、私はこれで」
「ちょ、おい、待て。
「……どうもこうも、ないけど。持って帰って食べる」
「俺にくれるんじゃないんか」
「……なら、ちゃんと言ってよ」
「え……」
「……今なら。何言ってくれても信じるよ」
引き留めようとつかんだ腕から、感じる体温。俺を──俺だけを映す、湿った瞳が揺れる。ほんとうの、こと。今なら。
「……わかった」
「……え」
「おまんだけに、教えちゃるき。……内緒にしてな」
寒空に吹く風で、彼女の髪が揺れる。あついほどに照り付ける西日が、それに乱反射してきらきらと眩しくて──願わくは、俺たちのこれからの関係性も、こんなふうに輝かしいものであったなら。腕のなかに抱き寄せた彼女の体温を感じながら、そう祈らずにはいられなかった。
【under the rose】
秘密に, ないしょで 《【由来】 昔, バラは秘密の象徴であった; sub rosa <ラテン語>の英訳》
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