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『全品十五パーセントオフ』。一日の労働を終え疲れ果てた脳味噌でも非常に分かりやすい、何とも単純かつ魅力的な訴求だ。駅前にケーキ屋が出来てからもう随分経つが、この商法には三度 引っかかっている。仕事帰りの人間が一番多くなるこの時間帯、商品を売り捌くべくこのようなセールは定期的に行われていたが、その中でも十五パーセント引きのそれは破格だった。
帰路を辿る人々の足取りは重く、名前も例外ではない。削れた体力、疲弊した脳、そして空きっ腹。帰り道にケーキ屋があるというだけでも危険なのに、こんなアピールをされてしまっては、抗える人間の方が少ないのではないか。商売上手と言う他ない。最近はSDGsが何ちゃらとか、そもそも廃棄を出さないのは大事だしね、と名前は誰へかも分からない言い訳を脳内でぼんやりと並べ立てながら、可愛らしいポップに吸い寄せられるよう、入り口脇に立てられた看板を覗き込む。──やはり季節柄、桜を冠する限定品が多い。でも今日は蒸し暑いし、こっちのレモン系とかがさっぱりして美味しそうだな。だけど、いつ食べてもピカイチなシュークリームも捨てがたいし……。
「真剣やな」
「うわっ」
突然声を投げかけられ、大袈裟に肩が跳ねる。顔を上げると、呆れたように笑う白石がそこに立っていた──手に白い箱を持って。どうやら今ちょうど、店から出てきたらしい。
「脅かさないでよ」
「脅かしてへんよ。夢中になりすぎやろ、なんやぶつぶつ独りごちとったで」
「うそ、声出てた?」
「めっさ出とった」
「恥ず」
はは、と笑う白石の横顔は絵になる。同じように一日働いて帰ってきた筈なのに、どうしてそんなに爽やかなのだろうか。
帰り道に一緒になるのは随分と久しぶりだ。ここのところお互いに忙しくて、バタバタしてすれ違っていた。二人ともそれぞれ働くいい大人なのだから、仕方のないことである。分かってはいても、身体的にも精神的にもすり減ってしまっていたけれど──彼が隣を歩いているだけで、そんな気持ちも軽くなる気がした。
「珍しいね、蔵ノ介くんがケーキとか買うの」
「ん? まあ……」
ホイホイと営業戦略に釣られる自分とは対照的に、名前は白石がそういった誘惑に負けるのを見たことがない。名前が食べたいと言った時や何かイベント事でもあれば別だが、何もない日、彼が自発的にそうすることはこれまであまりなかった。自制心がきちんと機能していて羨ましいような、それに引き換え自分は──と落ち込むような、よく分からない感情が心の中で渦を巻く。モヤモヤを振り払うように名前はかぶりを振った。
「え。何かあったっけ」
「いや……」
珍しく歯切れの悪い返答に、名前は焦りを感じた。
──うそ、何かあったっけ。やば、私なんか忘れてる?
「え、ごめん、何だっけ」
「いや、何もあらへんよ。ほんまに」
「ええ、言ってよ」
駅から少し離れただけで、この辺りは人気 も街灯の数もガクンと少なくなる。住宅街の民家からポツポツと漏れ出す明かりが頼りなく夜道を照らしているが、彼の表情を汲み取るにはどうも心許ない。
「……昨日」
「昨日?」
「俺が食うたやつ、名前のアイスやったんちゃう?」
「……え?」
名前は冷凍庫を確認して項垂れた。たしかに買ってあったと思ったのに、そこにあるのは肉やら野菜やら冷凍食品やらだけで、目当てのデザートの姿はない。
「どないした?」
「いや、なんも……」
先程彼が食べていたそれが、自分のだったのではと思ったが──怒る程のことでもない。お互い疲れてるし、今日は蔵ノ介くんがご飯作ってくれてたし。アイスなんてまた買ってくればいいだけの話だ。
「なんも……て感じやあらへんけど」
「……いや、ほんとに! なんも!」
糖分を欲していた脳が、それを得られないと分かって反乱を起こしかけている。でも、とてもじゃないが今から買いに行く元気はない。誰かと暮らしていればこういうことだってある。どうしようもないことだが──まあ、多少ショックではあるよね、やっぱり。
「そん時は気付かんかったけど、なんや冷凍庫見て凹んどったし……今日会社で思いついてん、あれよう考えたら名前のやったんかなって」
「あ、ああ、まあ……」
まあ、そのとおりである。だが名前を書いていた訳でもなし、私のだと分かってて嫌がらせした訳でもなければ、特に責める理由もない。こんなことで喧嘩とかしたくないし。──それよりも、職場で真面目な顔してそんなこと考えてたのかと思うと、ちょっと……いや、だいぶ面白すぎるな。仕事しろ。
「言うてくれたらよかったのに」
「いや、そこまででもないかなって」
「ああ、責めとるわけちゃうよ。むしろ責められるんやったら俺の方やし」
「いやほんと、別にわざわざこんな穴埋めしなくても……私はケーキのが良いから嬉しいけど!」
「や、穴埋めっちゅうか、……」
スーパーの特売で買った激安アイスに対してケーキ屋のケーキでは、さすがに釣り合いが取れないのではないか。元々アイスよりもケーキを好む名前としては結果的には喜ばしいことだったが、何となく腑に落ちず、素直に尋ねた。
が、白石はまた言い淀む。名前は学生時代から白石と過ごしてきたが、こんなにも煮え切らない彼はそうそう見たことがなく、余計に謎が深まるばかりだ。
「なんでそんなモジモジしてんの? ウケんだけど」
「ボケてへん時ウケんなや」
ボケた時はウケへんくせに、と眉を下げる彼の笑顔は、暗がりでも眩しい。人通りも、車通りも少ないこの道は仄暗く、とても一人で歩く気にはならないが、名前は夜にこの道を歩く白石を見るのが好きだった。色素の薄い髪色が月明かりに反射して、キラキラと揺れるのだ。すごくきれいで、だけど、だから誰にも──彼にすら教えない。私だけの宝物。アイスもケーキもなくたって、そこにあなたがいてくれさえすれば、──なんて、尚更彼には言えないけど。
「んはは! それは精進してもろて」
「……」
「……え。何?」
急に足を止めた白石の数歩先、名前も同じように立ち止まり振り返る。今日の彼は、何だかいろいろとよく分からない。
「……その顔が見たかってん」
「え?」
「……やから、その顔が見たくて買うてきただけ! その方が名前が喜ぶかな思うたから!」
投げやりに言い捨て、彼は私を追い抜きずかずかと先を急ぐ。月明かりだけでも分かるほど、髪の隙間から覗く耳が真っ赤に染まっていた。か、かわいい。
名前は慌てて後を追う。目一杯白石の歩幅に合わせながら横からその顔を覗き込むと、その耳に負けず劣らず顔全体を酷く紅潮させた彼と目が合った。
「そ……んな照れる!?」
「うっさいわ!」
「何で言った方が照れてんの、余計恥ずかしいじゃん!」
「……ほんなら恥ずかしいついでに言うたるわ」
これからも俺が笑わせたるから、ずっと傍におってな。
「…………プロポーズ?」
「まあそう取ってもろても吝 かではないっちゅうか、いやこれはあのあれなんで、それはそん時はね、ほら、ちゃんとしますけども」
「めっちゃ早口じゃん」
「……で?」
「え?」
「……返事くれへんの?」
──正直、あまりのかわいさに眩暈がした。ただでさえ、整った顔立ちから飛び出した破壊力抜群の口説き文句で倒れそうなのに。欠点とかないんかこいつは。顔良し性格良し、こんな風にちょっとヘタレたってこんなにかわいいし、ボケが面白くなくてもかわいいし、何してもカッコいいかかわいいかの二択じゃん。何これ?
「……ケーキ、何買ってきてくれたの?」
「え? ああ、たぶん名前が食いたそうなやつ。なんやレモンの……」
「エスパーだ」
「しかもシュークリームと、何と今なら蔵ノ介くんまでついてくる」
「ふ、でも、お高いんでしょう?」
「それが何と今だけ、お姉さんの笑顔ひとつでオーケー!」
「ええっ、私の笑顔ひとつで!?」
「コスパええで。今が買い時やねんけど、どう?」
「商売上手だねえ」
「好きやろ、特売。いつも乗せられとるもんな」
「んはは! そうね、……でも」
「ん?」
蔵ノ介くんの方が好きだよ。
赤いままの耳元に顔を寄せ呟いた。暗くて良かった、私も同じくらい真っ赤になっているだろう顔を見られなくて済むから。ああでも、私に彼の顔が見えてるんだから、彼からも見えてるのかも。──でもまあ、幸せだからいっか。
帰路を辿る人々の足取りは重く、名前も例外ではない。削れた体力、疲弊した脳、そして空きっ腹。帰り道にケーキ屋があるというだけでも危険なのに、こんなアピールをされてしまっては、抗える人間の方が少ないのではないか。商売上手と言う他ない。最近はSDGsが何ちゃらとか、そもそも廃棄を出さないのは大事だしね、と名前は誰へかも分からない言い訳を脳内でぼんやりと並べ立てながら、可愛らしいポップに吸い寄せられるよう、入り口脇に立てられた看板を覗き込む。──やはり季節柄、桜を冠する限定品が多い。でも今日は蒸し暑いし、こっちのレモン系とかがさっぱりして美味しそうだな。だけど、いつ食べてもピカイチなシュークリームも捨てがたいし……。
「真剣やな」
「うわっ」
突然声を投げかけられ、大袈裟に肩が跳ねる。顔を上げると、呆れたように笑う白石がそこに立っていた──手に白い箱を持って。どうやら今ちょうど、店から出てきたらしい。
「脅かさないでよ」
「脅かしてへんよ。夢中になりすぎやろ、なんやぶつぶつ独りごちとったで」
「うそ、声出てた?」
「めっさ出とった」
「恥ず」
はは、と笑う白石の横顔は絵になる。同じように一日働いて帰ってきた筈なのに、どうしてそんなに爽やかなのだろうか。
帰り道に一緒になるのは随分と久しぶりだ。ここのところお互いに忙しくて、バタバタしてすれ違っていた。二人ともそれぞれ働くいい大人なのだから、仕方のないことである。分かってはいても、身体的にも精神的にもすり減ってしまっていたけれど──彼が隣を歩いているだけで、そんな気持ちも軽くなる気がした。
「珍しいね、蔵ノ介くんがケーキとか買うの」
「ん? まあ……」
ホイホイと営業戦略に釣られる自分とは対照的に、名前は白石がそういった誘惑に負けるのを見たことがない。名前が食べたいと言った時や何かイベント事でもあれば別だが、何もない日、彼が自発的にそうすることはこれまであまりなかった。自制心がきちんと機能していて羨ましいような、それに引き換え自分は──と落ち込むような、よく分からない感情が心の中で渦を巻く。モヤモヤを振り払うように名前はかぶりを振った。
「え。何かあったっけ」
「いや……」
珍しく歯切れの悪い返答に、名前は焦りを感じた。
──うそ、何かあったっけ。やば、私なんか忘れてる?
「え、ごめん、何だっけ」
「いや、何もあらへんよ。ほんまに」
「ええ、言ってよ」
駅から少し離れただけで、この辺りは
「……昨日」
「昨日?」
「俺が食うたやつ、名前のアイスやったんちゃう?」
「……え?」
名前は冷凍庫を確認して項垂れた。たしかに買ってあったと思ったのに、そこにあるのは肉やら野菜やら冷凍食品やらだけで、目当てのデザートの姿はない。
「どないした?」
「いや、なんも……」
先程彼が食べていたそれが、自分のだったのではと思ったが──怒る程のことでもない。お互い疲れてるし、今日は蔵ノ介くんがご飯作ってくれてたし。アイスなんてまた買ってくればいいだけの話だ。
「なんも……て感じやあらへんけど」
「……いや、ほんとに! なんも!」
糖分を欲していた脳が、それを得られないと分かって反乱を起こしかけている。でも、とてもじゃないが今から買いに行く元気はない。誰かと暮らしていればこういうことだってある。どうしようもないことだが──まあ、多少ショックではあるよね、やっぱり。
「そん時は気付かんかったけど、なんや冷凍庫見て凹んどったし……今日会社で思いついてん、あれよう考えたら名前のやったんかなって」
「あ、ああ、まあ……」
まあ、そのとおりである。だが名前を書いていた訳でもなし、私のだと分かってて嫌がらせした訳でもなければ、特に責める理由もない。こんなことで喧嘩とかしたくないし。──それよりも、職場で真面目な顔してそんなこと考えてたのかと思うと、ちょっと……いや、だいぶ面白すぎるな。仕事しろ。
「言うてくれたらよかったのに」
「いや、そこまででもないかなって」
「ああ、責めとるわけちゃうよ。むしろ責められるんやったら俺の方やし」
「いやほんと、別にわざわざこんな穴埋めしなくても……私はケーキのが良いから嬉しいけど!」
「や、穴埋めっちゅうか、……」
スーパーの特売で買った激安アイスに対してケーキ屋のケーキでは、さすがに釣り合いが取れないのではないか。元々アイスよりもケーキを好む名前としては結果的には喜ばしいことだったが、何となく腑に落ちず、素直に尋ねた。
が、白石はまた言い淀む。名前は学生時代から白石と過ごしてきたが、こんなにも煮え切らない彼はそうそう見たことがなく、余計に謎が深まるばかりだ。
「なんでそんなモジモジしてんの? ウケんだけど」
「ボケてへん時ウケんなや」
ボケた時はウケへんくせに、と眉を下げる彼の笑顔は、暗がりでも眩しい。人通りも、車通りも少ないこの道は仄暗く、とても一人で歩く気にはならないが、名前は夜にこの道を歩く白石を見るのが好きだった。色素の薄い髪色が月明かりに反射して、キラキラと揺れるのだ。すごくきれいで、だけど、だから誰にも──彼にすら教えない。私だけの宝物。アイスもケーキもなくたって、そこにあなたがいてくれさえすれば、──なんて、尚更彼には言えないけど。
「んはは! それは精進してもろて」
「……」
「……え。何?」
急に足を止めた白石の数歩先、名前も同じように立ち止まり振り返る。今日の彼は、何だかいろいろとよく分からない。
「……その顔が見たかってん」
「え?」
「……やから、その顔が見たくて買うてきただけ! その方が名前が喜ぶかな思うたから!」
投げやりに言い捨て、彼は私を追い抜きずかずかと先を急ぐ。月明かりだけでも分かるほど、髪の隙間から覗く耳が真っ赤に染まっていた。か、かわいい。
名前は慌てて後を追う。目一杯白石の歩幅に合わせながら横からその顔を覗き込むと、その耳に負けず劣らず顔全体を酷く紅潮させた彼と目が合った。
「そ……んな照れる!?」
「うっさいわ!」
「何で言った方が照れてんの、余計恥ずかしいじゃん!」
「……ほんなら恥ずかしいついでに言うたるわ」
これからも俺が笑わせたるから、ずっと傍におってな。
「…………プロポーズ?」
「まあそう取ってもろても
「めっちゃ早口じゃん」
「……で?」
「え?」
「……返事くれへんの?」
──正直、あまりのかわいさに眩暈がした。ただでさえ、整った顔立ちから飛び出した破壊力抜群の口説き文句で倒れそうなのに。欠点とかないんかこいつは。顔良し性格良し、こんな風にちょっとヘタレたってこんなにかわいいし、ボケが面白くなくてもかわいいし、何してもカッコいいかかわいいかの二択じゃん。何これ?
「……ケーキ、何買ってきてくれたの?」
「え? ああ、たぶん名前が食いたそうなやつ。なんやレモンの……」
「エスパーだ」
「しかもシュークリームと、何と今なら蔵ノ介くんまでついてくる」
「ふ、でも、お高いんでしょう?」
「それが何と今だけ、お姉さんの笑顔ひとつでオーケー!」
「ええっ、私の笑顔ひとつで!?」
「コスパええで。今が買い時やねんけど、どう?」
「商売上手だねえ」
「好きやろ、特売。いつも乗せられとるもんな」
「んはは! そうね、……でも」
「ん?」
蔵ノ介くんの方が好きだよ。
赤いままの耳元に顔を寄せ呟いた。暗くて良かった、私も同じくらい真っ赤になっているだろう顔を見られなくて済むから。ああでも、私に彼の顔が見えてるんだから、彼からも見えてるのかも。──でもまあ、幸せだからいっか。
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