さよならメモリーズ
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はっくしゅん!
ギターを膝に乗せたまま特に弾くでもなくぼーっと窓の外を眺めていた名前は、友人・サキの一際大きなそれで我に返った。
「あー、失礼」
「ブレスユー、つってね」
「欧米か。もーあかんわ、花粉滅びんかな」
「大変やね」
これやから春は嫌なんよ、と、彼女は鼻をかみながらぼやく。花粉症でない名前はこれまで、春が来るたびに嘆くサキを憐れむことしか出来なかったが、今年の春は違った。理由こそ異なるが、前回の春を迎えてからずっと、次の春なんて来なければいいのに、と願い続けていた。それが意味のない祈りだと分かっていても。
「熱烈に見つめて、ホンマ好きやねえ」
「みっ……見とらんし。見たことないし」
「なんか言うとるわ。こん部室からやとよう見えるもんなあ」
「……見てないって」
「はいはい」
彼女の言うとおり、軽音楽部の部室からはテニスコートがよく見えた。名前が運動部での活動もそこそこに、いつも軽音楽部の部室に篭っているのは「ギターが好きだから」、勿論それが大前提ではあるが、それだけではなかった。不純だと笑えば良い。そもそも運動部なんて入りたくなかったのだ。掛け持ち強制なんて、他の学校では聞いたことがない。この学校は普通じゃない。だけどここでなきゃ、彼には出会えなかった。
「ちゅーかさあ、何でバレンタイン告らんかったん。フラれてももう卒業すんねやからええやんか」
「火の玉ストレートやめて」
「ずーっと、何っ回もチャンスあったやろ。修学旅行も体育祭も文化祭も、それこそバレンタインも。そん度『今度こそ』言うて、結局ぜーんぶ何もナシに終わってしもたなあ」
「辛辣すぎる」
「ほんでもう明日卒業やて。三年間何しとったん? 呼吸だけ?」
「オーバーキルだって……」
留まることない尖ったナイフのような指摘が、名前の心にぐさぐさと突き刺さる。修学旅行も体育祭も文化祭も、バレンタインだって、イベントに託 けて行動しようとした。何度も呼び出そうとしたし、バレンタインに至ってはチョコレートだって用意していたのだ。けれど、結局何も出来なかった。サキに言われるまでもなく、名前は自分の情けなさを自身が一番よく理解していた。
「仲間の恋路を応援してんねん」
「……分かってるけど。でも忍足くんを前にすると普通にするので精一杯で、何も言えなくなっちゃうんだよ……」
「そういうんを私相手やなくて忍足に言うたらええねん。普通なフリすんのだけ上手いのやめぇや」
「それが言えるんならとっくに言ってる……」
「そら、まあせやな。せめてそっから手ぇくらい振ったらええんちゃう」
「いやいやいや、向こうは気付いてないから!」
「ホンマかあ? ……ちゅーか、忍足おらんくない?」
「え?」
ベースを抱えたまま立ち上がり、窓際に腰掛ける名前の横で落下防止の手すりにもたれながら、サキは眉を顰 めた。名前もそれに倣い、今一度外を覗き込む。さほど人数に差異はなさそうだが、確かに先程まではそこにいたはずの彼は、もう見当たらなかった。
「……幻覚?」
「いやいやいや、さっきまでいたんだって! そこまでおかしくなってないから」
「まあ、せやなあ。金髪目立つし、そもそも名前が忍足見間違えるわけないもんなあ」
「……そうだけど、言われるとなんかムカつく」
「なんや、俺の話か?」
「うわあっ!」
「うおっ」
入り口に立っていたのは、先程までテニスコートにいたはずの彼。
「デカい声出しなや、ビビるやろ」
「ビビったのはこっち……」
「そない驚くと思わんかったわ、なんやホンマに俺の話しとったんか? ハッハッハ!」
謙也は笑いながら、自身のロッカーに手をかけた。どうやら会話は聞かれていなかったらしい。安堵しつつ、テニスコートを眺めていたことに気付かれないよう慌てて、けれど自然に窓際から距離を置く名前の隣で、サキは徐 に抱えていたベースを下ろしケースに仕舞い始めた。
「え、サキ?」
「あかん。女バレに顔出さなならんの忘れとったわ」
「え」
「ほな! ごゆっくり!」
──う、うそでしょ。サキのお節介……!
今までにないくらいの速さで荷物をまとめ、サキは名前の制止も聞かずに部室を飛び出して行く。残された名前と謙也の間に少しの間流れた沈黙を、破ったのは謙也だった。
「なんやあいつ。忙しないやっちゃな」
「忍足くんが言う? それ」
「おっ、言うやん。確かにな!」
気まずい、というわけではないが、今の今までサキと話していた内容がどうしても離れずに緊張してしまう。名前は比喩でなく、今にも口から心臓が飛び出してしまいそうな心地だった。対して、「スピードスターやからな」と上機嫌でロッカーを整理する謙也。その姿は少なくとも名前にとっては普段と変わらないように見え、名前は何だか切なくなった。こんな時間を過ごすのも、これが最後だ。明日の卒業式を終えれば会うことすら難しくなるだろう。そう思うと、どうしようもなく鼻の奥がツンと痛んだ。
「苗字はもうちょいおるん?」
「……私も帰ろうかな、サキ行っちゃったし」
「ほな途中まで一緒行こや。俺もロッカー片しに来ただけやし」
え。
*
な、何でこんなことに。
名前は謙也と肩を並べ、駅までの道を歩いていた。成り行きとは言えこんなことになるとは思っておらず、これまで自分が何を口走ったかもよく覚えていない。心臓の音が煩くて、謙也の声すらも聞き取れないかと思うほど。
「……前もこないなことあったよなあ。覚えとるか?」
「……覚えてるよ。忍足くんが盗み聞きしてた時でしょ」
「はは、根に持っとんなあ」
それは、名前と謙也が初めて言葉を交わした日のことだった。まだ入学して間もない頃。名前は一人部室でギターを弾いていて、音量を気にせず好きに弾けることが嬉しくて楽しくて気分が良くなって、思わず弾きながら歌を口ずさんでいた。ギターボーカルだとか、弾き語りなんて言うようなたいしたものではない。今よりも下手なギターとただの鼻歌でしかなかったはずだが、それを謙也が部室の外で聴いていたのだ。彼はギターも歌も褒めてくれていたが、顔から火が出る程の恥ずかしさで半泣き状態だった名前──そもそも見られて困ることを部室でしていた名前にも否があるのだが──を、謙也が大慌てで何とかせんとしているうちに、何やかんや成り行きで一緒に帰った、というのが事のあらましである。忘れる筈もない、名前はこの日からずっと謙也に想いを寄せていたのだから。
「あん時ホンマ焦ったわ、『泣かせた!』思て」
「ははは! ごめんね、泣いてないよ。泣きそうだっただけで」
「似たようなモンやんけ」
「いやもう、ほんっとに恥ずかしくて……」
「苗字の歌聴いたんもアレが最初で最後やったし。ギターボーカルかと思っとった」
「うっそ、耳おかしいんじゃ?」
「自虐つよっ。……いや俺への悪口か? まあ、言うほど酷なかったで。ちゅうか散々褒めたやん、あれかて本心やし」
「いや~……。でもあのおかげでサキたちとバンド組めたし、お礼言わなきゃと思ってたんだ」
「え、そうなん?」
「うん、自分から他の子に声かける勇気とかなかったし……とりあえずギターさえ弾ければいいやと思ってたから」
「ほーん。でもまあ、別に俺のおかげやなくて苗字の実力やろ」
謙也がからからと笑う。その笑顔が眩しくて、名前は思わず俯き足を止めた。
──忍足くんの、そういうところが好きだ。優しいところ。真っ直ぐなところ。子どもみたいに笑うところ。あの日からずっと好きだった。忍足くんのことが好きだったから、三年間ずっと楽しくて、だけど同じくらい苦しかった。気持ちを伝えたくて、だけど何も言葉に出来なかった。でももう、このまま会えなくなるなんて嫌だよ。
言葉に詰まると涙が出てくる。あの日と同じだ。泣いたら、もっと困らせてしまう。だけど止められない。
「……苗字?」
「…………」
「えっ、なっ、なんで!? 俺なんか変なこと言うた!?」
「……き」
「え」
「……好き、です……」
名前は俯いたまま、聞こえるかどうかも分からない程の小さな声で呟いた。心臓が今にも爆発しそうだ。顔が見られない。見たくない、見せたくない。堪えきれなかった涙が溢れ、パタパタと地面を濡らしていく。言ってしまった、けれど、やっと言えた。死んでしまいそうな程の羞恥と、困らせてしまう罪悪感はあったが、それよりも胸の支えがとれたような気分だった。
「…………」
「……ごめんね。言いたかっただけだから」
また明日。言い残して、名前はその場を走り去った。
──走り去ろうとした、が正しい。謙也に腕を掴まれ身動きが取れなくなった名前は、致し方なく顔を上げた。こんな涙でぐちゃぐちゃの顔を見られたくはなかったのに。
「ちょお、言い逃げすんな」
「離して……」
「っ、俺は!」
腕を振り解こうとする名前に痺れを切らし、謙也は少しだけ声を荒げた。ビク、と驚く名前に小さく「すまん」と告げ、けれど腕はしっかりと掴んだまま、名前の返答を待たずに続ける。
「……俺かて、ずっと苗字の歌がもう一回聴きたかってん」
「……え?」
「楽しそうにギター鳴らして鼻歌歌って、あの日の苗字がずっと忘れられんかった」
「そ、それは忘れてほしいんだけど……」
「忘れんよ。やってあの日から、ずっと」
ずっと、好きやった。
「う、うそ……」
「嘘ちゃうわ! ここで嘘つくわけあらへんやろ!」
「な、なんで?」
「なんで、て……そんなん、……ああもう、あん時の苗字がどーしようもなくかわいかったんやからしゃあないやろ!」
呆然とする名前が逃げ出す気を失くしたことを確認して、謙也はその腕を解放し、代わりに抱き寄せながら投げ槍に答える。名前がぼやけた視界で最後に見えた謙也の顔は、夕焼けと相まって真っ赤に染まっていた。
「……ちゅうか、何で今言うねん。明日俺が言うつもりやったのに」
「え、いや、なんか……今言わないともう明日も無理そうだったし……」
「……いや、すまん、ええねん。俺がビビってチンタラしとったんやし……」
スピードスターの名が廃るわ、と謙也はバツが悪そうにぼやく。名前は自分と同じくらいにドキドキと煩い彼の鼓動が嬉しくて、一度は驚いて引っ込んだ筈の涙がまた込み上げてきて。うう、と鼻を啜れば、謙也が「明日で着るん最後やし、いくらでも汚してええで」と冗談めかして言った。こういう、びっくりするくらい優しいのに、それを相手に気負わせないようなところも、好きだ。名前は答える代わりに、彼の背にそっと自分の腕を回した。
ギターを膝に乗せたまま特に弾くでもなくぼーっと窓の外を眺めていた名前は、友人・サキの一際大きなそれで我に返った。
「あー、失礼」
「ブレスユー、つってね」
「欧米か。もーあかんわ、花粉滅びんかな」
「大変やね」
これやから春は嫌なんよ、と、彼女は鼻をかみながらぼやく。花粉症でない名前はこれまで、春が来るたびに嘆くサキを憐れむことしか出来なかったが、今年の春は違った。理由こそ異なるが、前回の春を迎えてからずっと、次の春なんて来なければいいのに、と願い続けていた。それが意味のない祈りだと分かっていても。
「熱烈に見つめて、ホンマ好きやねえ」
「みっ……見とらんし。見たことないし」
「なんか言うとるわ。こん部室からやとよう見えるもんなあ」
「……見てないって」
「はいはい」
彼女の言うとおり、軽音楽部の部室からはテニスコートがよく見えた。名前が運動部での活動もそこそこに、いつも軽音楽部の部室に篭っているのは「ギターが好きだから」、勿論それが大前提ではあるが、それだけではなかった。不純だと笑えば良い。そもそも運動部なんて入りたくなかったのだ。掛け持ち強制なんて、他の学校では聞いたことがない。この学校は普通じゃない。だけどここでなきゃ、彼には出会えなかった。
「ちゅーかさあ、何でバレンタイン告らんかったん。フラれてももう卒業すんねやからええやんか」
「火の玉ストレートやめて」
「ずーっと、何っ回もチャンスあったやろ。修学旅行も体育祭も文化祭も、それこそバレンタインも。そん度『今度こそ』言うて、結局ぜーんぶ何もナシに終わってしもたなあ」
「辛辣すぎる」
「ほんでもう明日卒業やて。三年間何しとったん? 呼吸だけ?」
「オーバーキルだって……」
留まることない尖ったナイフのような指摘が、名前の心にぐさぐさと突き刺さる。修学旅行も体育祭も文化祭も、バレンタインだって、イベントに
「仲間の恋路を応援してんねん」
「……分かってるけど。でも忍足くんを前にすると普通にするので精一杯で、何も言えなくなっちゃうんだよ……」
「そういうんを私相手やなくて忍足に言うたらええねん。普通なフリすんのだけ上手いのやめぇや」
「それが言えるんならとっくに言ってる……」
「そら、まあせやな。せめてそっから手ぇくらい振ったらええんちゃう」
「いやいやいや、向こうは気付いてないから!」
「ホンマかあ? ……ちゅーか、忍足おらんくない?」
「え?」
ベースを抱えたまま立ち上がり、窓際に腰掛ける名前の横で落下防止の手すりにもたれながら、サキは眉を
「……幻覚?」
「いやいやいや、さっきまでいたんだって! そこまでおかしくなってないから」
「まあ、せやなあ。金髪目立つし、そもそも名前が忍足見間違えるわけないもんなあ」
「……そうだけど、言われるとなんかムカつく」
「なんや、俺の話か?」
「うわあっ!」
「うおっ」
入り口に立っていたのは、先程までテニスコートにいたはずの彼。
「デカい声出しなや、ビビるやろ」
「ビビったのはこっち……」
「そない驚くと思わんかったわ、なんやホンマに俺の話しとったんか? ハッハッハ!」
謙也は笑いながら、自身のロッカーに手をかけた。どうやら会話は聞かれていなかったらしい。安堵しつつ、テニスコートを眺めていたことに気付かれないよう慌てて、けれど自然に窓際から距離を置く名前の隣で、サキは
「え、サキ?」
「あかん。女バレに顔出さなならんの忘れとったわ」
「え」
「ほな! ごゆっくり!」
──う、うそでしょ。サキのお節介……!
今までにないくらいの速さで荷物をまとめ、サキは名前の制止も聞かずに部室を飛び出して行く。残された名前と謙也の間に少しの間流れた沈黙を、破ったのは謙也だった。
「なんやあいつ。忙しないやっちゃな」
「忍足くんが言う? それ」
「おっ、言うやん。確かにな!」
気まずい、というわけではないが、今の今までサキと話していた内容がどうしても離れずに緊張してしまう。名前は比喩でなく、今にも口から心臓が飛び出してしまいそうな心地だった。対して、「スピードスターやからな」と上機嫌でロッカーを整理する謙也。その姿は少なくとも名前にとっては普段と変わらないように見え、名前は何だか切なくなった。こんな時間を過ごすのも、これが最後だ。明日の卒業式を終えれば会うことすら難しくなるだろう。そう思うと、どうしようもなく鼻の奥がツンと痛んだ。
「苗字はもうちょいおるん?」
「……私も帰ろうかな、サキ行っちゃったし」
「ほな途中まで一緒行こや。俺もロッカー片しに来ただけやし」
え。
*
な、何でこんなことに。
名前は謙也と肩を並べ、駅までの道を歩いていた。成り行きとは言えこんなことになるとは思っておらず、これまで自分が何を口走ったかもよく覚えていない。心臓の音が煩くて、謙也の声すらも聞き取れないかと思うほど。
「……前もこないなことあったよなあ。覚えとるか?」
「……覚えてるよ。忍足くんが盗み聞きしてた時でしょ」
「はは、根に持っとんなあ」
それは、名前と謙也が初めて言葉を交わした日のことだった。まだ入学して間もない頃。名前は一人部室でギターを弾いていて、音量を気にせず好きに弾けることが嬉しくて楽しくて気分が良くなって、思わず弾きながら歌を口ずさんでいた。ギターボーカルだとか、弾き語りなんて言うようなたいしたものではない。今よりも下手なギターとただの鼻歌でしかなかったはずだが、それを謙也が部室の外で聴いていたのだ。彼はギターも歌も褒めてくれていたが、顔から火が出る程の恥ずかしさで半泣き状態だった名前──そもそも見られて困ることを部室でしていた名前にも否があるのだが──を、謙也が大慌てで何とかせんとしているうちに、何やかんや成り行きで一緒に帰った、というのが事のあらましである。忘れる筈もない、名前はこの日からずっと謙也に想いを寄せていたのだから。
「あん時ホンマ焦ったわ、『泣かせた!』思て」
「ははは! ごめんね、泣いてないよ。泣きそうだっただけで」
「似たようなモンやんけ」
「いやもう、ほんっとに恥ずかしくて……」
「苗字の歌聴いたんもアレが最初で最後やったし。ギターボーカルかと思っとった」
「うっそ、耳おかしいんじゃ?」
「自虐つよっ。……いや俺への悪口か? まあ、言うほど酷なかったで。ちゅうか散々褒めたやん、あれかて本心やし」
「いや~……。でもあのおかげでサキたちとバンド組めたし、お礼言わなきゃと思ってたんだ」
「え、そうなん?」
「うん、自分から他の子に声かける勇気とかなかったし……とりあえずギターさえ弾ければいいやと思ってたから」
「ほーん。でもまあ、別に俺のおかげやなくて苗字の実力やろ」
謙也がからからと笑う。その笑顔が眩しくて、名前は思わず俯き足を止めた。
──忍足くんの、そういうところが好きだ。優しいところ。真っ直ぐなところ。子どもみたいに笑うところ。あの日からずっと好きだった。忍足くんのことが好きだったから、三年間ずっと楽しくて、だけど同じくらい苦しかった。気持ちを伝えたくて、だけど何も言葉に出来なかった。でももう、このまま会えなくなるなんて嫌だよ。
言葉に詰まると涙が出てくる。あの日と同じだ。泣いたら、もっと困らせてしまう。だけど止められない。
「……苗字?」
「…………」
「えっ、なっ、なんで!? 俺なんか変なこと言うた!?」
「……き」
「え」
「……好き、です……」
名前は俯いたまま、聞こえるかどうかも分からない程の小さな声で呟いた。心臓が今にも爆発しそうだ。顔が見られない。見たくない、見せたくない。堪えきれなかった涙が溢れ、パタパタと地面を濡らしていく。言ってしまった、けれど、やっと言えた。死んでしまいそうな程の羞恥と、困らせてしまう罪悪感はあったが、それよりも胸の支えがとれたような気分だった。
「…………」
「……ごめんね。言いたかっただけだから」
また明日。言い残して、名前はその場を走り去った。
──走り去ろうとした、が正しい。謙也に腕を掴まれ身動きが取れなくなった名前は、致し方なく顔を上げた。こんな涙でぐちゃぐちゃの顔を見られたくはなかったのに。
「ちょお、言い逃げすんな」
「離して……」
「っ、俺は!」
腕を振り解こうとする名前に痺れを切らし、謙也は少しだけ声を荒げた。ビク、と驚く名前に小さく「すまん」と告げ、けれど腕はしっかりと掴んだまま、名前の返答を待たずに続ける。
「……俺かて、ずっと苗字の歌がもう一回聴きたかってん」
「……え?」
「楽しそうにギター鳴らして鼻歌歌って、あの日の苗字がずっと忘れられんかった」
「そ、それは忘れてほしいんだけど……」
「忘れんよ。やってあの日から、ずっと」
ずっと、好きやった。
「う、うそ……」
「嘘ちゃうわ! ここで嘘つくわけあらへんやろ!」
「な、なんで?」
「なんで、て……そんなん、……ああもう、あん時の苗字がどーしようもなくかわいかったんやからしゃあないやろ!」
呆然とする名前が逃げ出す気を失くしたことを確認して、謙也はその腕を解放し、代わりに抱き寄せながら投げ槍に答える。名前がぼやけた視界で最後に見えた謙也の顔は、夕焼けと相まって真っ赤に染まっていた。
「……ちゅうか、何で今言うねん。明日俺が言うつもりやったのに」
「え、いや、なんか……今言わないともう明日も無理そうだったし……」
「……いや、すまん、ええねん。俺がビビってチンタラしとったんやし……」
スピードスターの名が廃るわ、と謙也はバツが悪そうにぼやく。名前は自分と同じくらいにドキドキと煩い彼の鼓動が嬉しくて、一度は驚いて引っ込んだ筈の涙がまた込み上げてきて。うう、と鼻を啜れば、謙也が「明日で着るん最後やし、いくらでも汚してええで」と冗談めかして言った。こういう、びっくりするくらい優しいのに、それを相手に気負わせないようなところも、好きだ。名前は答える代わりに、彼の背にそっと自分の腕を回した。
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