ナイト・メロウ・シンドローム
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目の前の液晶画面に映るのは、ギリギリまで手をつけていなかった課題。漸 く何とか、残り四分の一程度といったところだ。いつもいつも今回は早めに済まそうと思うのに気付けばこのザマで、名前はほとほと自分に嫌気がさした。学習しない。机に散らかった資料と画面にいくつも開くウィンドウを少しだけ整理して、空のコーヒーカップを手に立ち上がれば、節々がパキ、と音を鳴らした。肩が凝る。目も疲れた。でも自分のせいだ。別に悲観的になるほどのことでもないが、情けなくなるのは変え難い事実だった。提出は明日の午後。もうあと少しというところまで来たこともあり、仮眠を取ろうと思えば取れなくもないが、今までの経験との性格上、寝たら最後だと名前自身が誰よりもよく分かっていた。
四杯めのコーヒーと共に部屋に戻ると、時計はもう日付を跨いでいた。どうしてだかいつもより激務だった今日のアルバイトを思い返して、余計に増してしまったような疲れに名前は思わず溜め息をつく。眠いわけだ。大きな欠伸をひとつもらしながら、つい先刻ピロンと何度か音を立てたスマートフォンに手を伸ばした。謙也からだ。
「ハッピーバースデーっちゅー話や、……」
そうか、と、名前は思い出した。日付の変わった今日が誕生日であったことを。昨日までは覚えていたのだが、アルバイトでの重労働と突如思い出した課題の存在によって何だかもうそれどころではなくなってしまっていたのだ。謙也からのメッセージにはやたらと星が飛び交っていて、それだけでも目が回りそうなのに、疲れた目にはよろしくなさそうな色づかいの動き回るスタンプまで添えてある。名前は思わず俯き目頭をおさえた。今も変わらずわざわざ十二時ちょうどに連絡してくる謙也と、よくよく見れば十一時五十九分を示す送信時刻で、少しだけ穏やかな気分を取り戻せた気がする──目は痛むが。
こうしてこの時間にわざわざ連絡してくる友人も、この歳になると少なくなった。だからこそ残る未読が誰なのか、見ずとも予想がつく。一覧画面に戻り一番上に表示された送信者の名前を確認して、自身の思ったとおりだったことに名前は頬が綻 んだ。この追い詰められた状況で、ニヤニヤしながら一人スマートフォンを弄る自分。……奇妙だ、と、頭の片隅で思いながら、同じようにそれを開く。
誕生日おめでとう、おおきに、とだけ書かれた極めてシンプルな文章で、先程の星が飛び交うそれより数倍幸せを感じてしまうなんて──念の為、謙也のメッセージも嬉しかったことを断っておくが──お手軽な女だと自分でも思う。けれど、それでも構わなかった。それよりも、メッセージに書かれた「おおきに」が気になる。何故彼はなんで自分で祝って自分でお礼を言っているのか。渾身のボケなのか、であれば「なんで自分でお礼言うとんねん!」が正解の返信だろうか。彼のボケは時々……というか、それなりの割合で面白くない、というか分かりにくい。
──会いたい、なあ。名前はスマートフォンを握ったまま唇を噛み締めた。どんなに面白くなくとも分かりにくいと思っても、込み上げてくる愛しさの前にはそれ以外の感情全てが消え去ってしまう。約束もしていないのにこんな時間に会いに行ったら、「危ないやろ」と怒るだろうか。課題だって終わっていないのに、「ちゃんとしい」って嗜 められるかも。でも、そういう厳しいところも、私のことを思ってくれるからこそ厳しいことを言う優しいところも、好きだ。怒られても何でもいい、少しだけでも会いたい。名前は課題を明朝の自分に託すとそれ以上考えることを放棄し、部屋着のまま適当に上着だけ羽織い外へ向かった。
「……え」
「あ」
「…………え?」
玄関を飛び出した名前の目に真っ先に飛び込んできたのは、愛しい愛しいあの笑顔。名前は白石の、その照れ臭そうに笑う顔が何よりも一番好きだった。
「誕生日おめでとう」
「……なんでいんの……」
「やっぱ直接言いたかってん」
「でも、来るとか、書いてなかったじゃん」
「恥ずかしいやん」
サプライズで会いに来てるとか、今やってることの方が余程恥ずかしい。ただでさえ眉目麗しいというに、行動までこんな月九俳優顔負けのようなことをされてしまっては、名前は自分が彼に不釣り合いなのではないかとすら思えた。嬉しいのと愛しいのと、少しだけの切なさとで、名前は込み上げてくる涙を誤魔化すように白石の腕の中へ飛び込む。抱き留めてくれる胸板も、後頭部を撫でてくれる手のひらも暖かくて大きくて、より一層鼻の奥がツンと痛んだ。
「……おおきに、な」
「……それ、ラインにも書いてたけど……何?」
「えー……言わすん?」
「だって分かんないもん。いいじゃん、誕生日だし」
「……一回しか言わんで」
あん時俺と隣の席なってくれてありがとう。消しゴム貸してくてありがとう。励まして、一緒に落ち込んで、喝いれてくれてありがとう。傍におってくれてありがとう。……生まれてきてくれて、俺と出会ってくれて、ありがとう。
背中へ回された腕に力が籠る。煩いほどに響く白石の鼓動から、髪に触れるやさしい唇から伝わる愛しさが、更に涙腺を刺激した。
「…………。なんか言うてや、恥ずい」
「……き」
「ん?」
「好き……」
そう言うのが精一杯で、名前は溢れそうな涙をぐっと堪えながら、初めて自分から彼のそれに唇を寄せた。
生まれてこられたこと、この人と巡り会えたこと、この人を好きになって、今傍にいられること。誰に感謝すればいいのか分からないけれど、こんなに幸せでいいんだろうか。
初めての彼女からの口付けに少しだけ驚いた白石は一瞬目を見開き、けれどすぐに眉を下げ、名前の後頭部に添えていた手のひらにぐっと力を込める。唇が離れると、鼻先が掠め合う距離のまま「俺は愛してる」とだけ告げ、彼女が何か言うよりも先に再び自身のそれで名前の唇を塞いだ。
title by 白鉛筆
四杯めのコーヒーと共に部屋に戻ると、時計はもう日付を跨いでいた。どうしてだかいつもより激務だった今日のアルバイトを思い返して、余計に増してしまったような疲れに名前は思わず溜め息をつく。眠いわけだ。大きな欠伸をひとつもらしながら、つい先刻ピロンと何度か音を立てたスマートフォンに手を伸ばした。謙也からだ。
「ハッピーバースデーっちゅー話や、……」
そうか、と、名前は思い出した。日付の変わった今日が誕生日であったことを。昨日までは覚えていたのだが、アルバイトでの重労働と突如思い出した課題の存在によって何だかもうそれどころではなくなってしまっていたのだ。謙也からのメッセージにはやたらと星が飛び交っていて、それだけでも目が回りそうなのに、疲れた目にはよろしくなさそうな色づかいの動き回るスタンプまで添えてある。名前は思わず俯き目頭をおさえた。今も変わらずわざわざ十二時ちょうどに連絡してくる謙也と、よくよく見れば十一時五十九分を示す送信時刻で、少しだけ穏やかな気分を取り戻せた気がする──目は痛むが。
こうしてこの時間にわざわざ連絡してくる友人も、この歳になると少なくなった。だからこそ残る未読が誰なのか、見ずとも予想がつく。一覧画面に戻り一番上に表示された送信者の名前を確認して、自身の思ったとおりだったことに名前は頬が
誕生日おめでとう、おおきに、とだけ書かれた極めてシンプルな文章で、先程の星が飛び交うそれより数倍幸せを感じてしまうなんて──念の為、謙也のメッセージも嬉しかったことを断っておくが──お手軽な女だと自分でも思う。けれど、それでも構わなかった。それよりも、メッセージに書かれた「おおきに」が気になる。何故彼はなんで自分で祝って自分でお礼を言っているのか。渾身のボケなのか、であれば「なんで自分でお礼言うとんねん!」が正解の返信だろうか。彼のボケは時々……というか、それなりの割合で面白くない、というか分かりにくい。
──会いたい、なあ。名前はスマートフォンを握ったまま唇を噛み締めた。どんなに面白くなくとも分かりにくいと思っても、込み上げてくる愛しさの前にはそれ以外の感情全てが消え去ってしまう。約束もしていないのにこんな時間に会いに行ったら、「危ないやろ」と怒るだろうか。課題だって終わっていないのに、「ちゃんとしい」って
「……え」
「あ」
「…………え?」
玄関を飛び出した名前の目に真っ先に飛び込んできたのは、愛しい愛しいあの笑顔。名前は白石の、その照れ臭そうに笑う顔が何よりも一番好きだった。
「誕生日おめでとう」
「……なんでいんの……」
「やっぱ直接言いたかってん」
「でも、来るとか、書いてなかったじゃん」
「恥ずかしいやん」
サプライズで会いに来てるとか、今やってることの方が余程恥ずかしい。ただでさえ眉目麗しいというに、行動までこんな月九俳優顔負けのようなことをされてしまっては、名前は自分が彼に不釣り合いなのではないかとすら思えた。嬉しいのと愛しいのと、少しだけの切なさとで、名前は込み上げてくる涙を誤魔化すように白石の腕の中へ飛び込む。抱き留めてくれる胸板も、後頭部を撫でてくれる手のひらも暖かくて大きくて、より一層鼻の奥がツンと痛んだ。
「……おおきに、な」
「……それ、ラインにも書いてたけど……何?」
「えー……言わすん?」
「だって分かんないもん。いいじゃん、誕生日だし」
「……一回しか言わんで」
あん時俺と隣の席なってくれてありがとう。消しゴム貸してくてありがとう。励まして、一緒に落ち込んで、喝いれてくれてありがとう。傍におってくれてありがとう。……生まれてきてくれて、俺と出会ってくれて、ありがとう。
背中へ回された腕に力が籠る。煩いほどに響く白石の鼓動から、髪に触れるやさしい唇から伝わる愛しさが、更に涙腺を刺激した。
「…………。なんか言うてや、恥ずい」
「……き」
「ん?」
「好き……」
そう言うのが精一杯で、名前は溢れそうな涙をぐっと堪えながら、初めて自分から彼のそれに唇を寄せた。
生まれてこられたこと、この人と巡り会えたこと、この人を好きになって、今傍にいられること。誰に感謝すればいいのか分からないけれど、こんなに幸せでいいんだろうか。
初めての彼女からの口付けに少しだけ驚いた白石は一瞬目を見開き、けれどすぐに眉を下げ、名前の後頭部に添えていた手のひらにぐっと力を込める。唇が離れると、鼻先が掠め合う距離のまま「俺は愛してる」とだけ告げ、彼女が何か言うよりも先に再び自身のそれで名前の唇を塞いだ。
title by 白鉛筆
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