幻水3(パーシヴァル×クリス)
――どこか、どこか遠くへ。
「……どこかに行きたい」
無言でデスクワークをこなす午後の執務室。
一向に片付かない書類を前にして、ふと現実逃避を口走ってしまった。
向かいには「手隙になったから」と手伝いに来ていた男が、筆の手を止めてこちらを見つめている。
返事を恐れ、無意識にふい、と視線を逸らした。逸らす前に見た表情は無に近かったが、きっと、内心ではくつくつと笑っていることだろう。「クリス様でも現実逃避したがるんですね」なんて、からかいながら。
考えると無性に気恥ずかしくなり、晴れ渡った空――を遮る、無骨な飾り窓を凝視して気を鎮めることにした。
窓は飾り窓ゆえに開け放つことができない。それは「どこにも行けない」と自分の願望を無言で打ち崩す、拒絶の象徴のようだ。近頃は戦況が戦況なだけに、実家にも帰れていない。ブラス城が嫌いなわけではないが、ずっと同じ場所に縛られていると息苦しさも芽生えてくる。昔はそれが当たり前で、気にもならなかった。でも、外の世界を少し知ってしまった今は、時折、こうして解放を渇望してしまうことがある。
――どこかに行きたい。
そして、すぐ首を横に振る。
――どこへも、行けはしない。
「どこへ?」
「え……」
行き止まるはずの言葉を、不意に拾い上げられた。視線を向かいに戻すと、彼はからかうでもなく、ただ優しげに笑んでいた。
「どこに行きたいんです?」
そう言って、手招きをする。その誘い方があまりに優しいものだから。
「いけない」なんて形ばかりに思いながら誘いに甘えて、再び現実逃避を始めることにした。
「そうだな、チシャ……とか」
「行って、何を?」
「サナさんに挨拶をして、色々話を聞きたいな。それに、この季節だから美味しいワインも飲みたい」
「そこだけですか? せっかくの旅行なのに、巡るのが一ヶ所というのも味気ない」
「……アルマキナンにも行きたいな」
「彼女にご挨拶ですか」
「しばらく顔を見せていないしな」
「となると、日程はざっと一週間といったところですかね」
「ずいぶんとゆっくりだな」
「旅行で馬を飛ばしても仕方がないでしょう? ゆったりと景色を楽しむ旅もいいものですよ」
「――それもそうか」
微笑を交わして、一息の間が生まれる。
訪れた静寂の中、屋外で訓練に勤しむ騎士たちの猛る声が微かに響き、現実に引き戻される。
仕事は山積み。先の予定は会議などでいっぱいだ。ここから出ることはしばらく叶わない。そう、どこへも行けないのだ。念を押して、話を広げる空しさを噛み締めた。
――なのに。
「では、出発しましょうか」
「――何?」
「行きましょう。旅行に」
「……無茶を言うな」
「無茶ではありませんよ」
「こんな忙しい時にふらふら旅行など行けるものか」
「では、目を閉じてください」
彼の優しい瞳が、重みを持った。
「……目? なぜ?」
「まあまあ。騙されたと思って閉じてみてください」
彼の声はどこまでも柔らかい。なのに、たまに逆らうことを許さない力を持つときがある。その力にいつも平伏せて、あっさりと懐柔されてしまう。今日も、例外ではない。
「……こう?」
言われるがままに瞼を伏せた。世界が闇に覆われる。手にしていた、インクを蓄える飛べない羽をするりと奪われ、その掌は彼の掌と堅く結ばれた。自分と違う体温が、細胞を通して流れ込む。
漆黒の世界で、掌だけが温かな朱の色を放つ。そんなイメージさえ、浮かんだ。
「それでは、行きましょう」
「え?」
「想像してください」
「そうぞう?」
「そう。ふたりで話しながら、想像の旅をするんです。これならば、どこへでも行けるでしょう?」
言われて、目を見開く。
闇の世界が一気に白色の光に染まる。先ほどまで見ていた重い現実は、極彩色に輝いていた。逃げ道のない箱の中にいる筈なのに、息苦しさはもうそこにはない。変わらなかったのは、目の前で笑っている彼くらい。
「大切なのは頭の柔らかさです。できないことなんて、案外少ないものですよ」
「……敵わないな」
感服の息をひとつ吐き出して、笑みがこぼれる。
ああ、こんな「外の世界」もあるんだ。教えられて、無性に嬉しくなる。
そうして、再び瞼を閉ざす。見えるのは、ふたりで見る、ふたりが思い通りにできる世界。
――ふたりでどこまでも、遠くに行ける世界。
「では出発しましょう。ああ、その前に服ですね。どうしましょうか」
「そうね、少し寒くなってきているから、厚着の方がいいかな」
「上着は少し前に着ていた茶のコートはどうですか? あれ、よく似合っていて好きなんですよ」
「……いきなりサラリと好きとか言うな。照れる。……でも、それでいいよ。お前はどうする?」
「そうですねえ、では、せっかくなのでクリス様がコーディネートしてくれませんか?」
「いいけど……。うーん……どうしようかな……」
「……これではいつまでも出発できませんね」
「うう、もういいっ! 団服のままで行くぞ!」
「ああ、それも脱走みたいでいいですね。では、行きますか」
「……うん」
「まずは俺が衛兵をうまいこと出し抜いて、馬を奪います。それから――」
掌から掌へと流れ込む温度だけが、現実への切符。離さないようにしかと握り締めて、青空めがけて飛び立った。
羽などなくても飛べることを、初めて知った。これなら世界の大体の苦難も、固く結んだ掌ひとつで結構どうにでもなってしまうかもしれない。なんて、少し大袈裟すぎる想像さえできてしまう。
そう思わせるくらい、この掌は私にとって大きく――暖かい。
「パーシヴァル」
「なんですか?」
「……手、離さないでいてね」
「――もちろん。離せと言われても離しませんよ」
――さあ、ふたりでどこへ行こう?
「……どこかに行きたい」
無言でデスクワークをこなす午後の執務室。
一向に片付かない書類を前にして、ふと現実逃避を口走ってしまった。
向かいには「手隙になったから」と手伝いに来ていた男が、筆の手を止めてこちらを見つめている。
返事を恐れ、無意識にふい、と視線を逸らした。逸らす前に見た表情は無に近かったが、きっと、内心ではくつくつと笑っていることだろう。「クリス様でも現実逃避したがるんですね」なんて、からかいながら。
考えると無性に気恥ずかしくなり、晴れ渡った空――を遮る、無骨な飾り窓を凝視して気を鎮めることにした。
窓は飾り窓ゆえに開け放つことができない。それは「どこにも行けない」と自分の願望を無言で打ち崩す、拒絶の象徴のようだ。近頃は戦況が戦況なだけに、実家にも帰れていない。ブラス城が嫌いなわけではないが、ずっと同じ場所に縛られていると息苦しさも芽生えてくる。昔はそれが当たり前で、気にもならなかった。でも、外の世界を少し知ってしまった今は、時折、こうして解放を渇望してしまうことがある。
――どこかに行きたい。
そして、すぐ首を横に振る。
――どこへも、行けはしない。
「どこへ?」
「え……」
行き止まるはずの言葉を、不意に拾い上げられた。視線を向かいに戻すと、彼はからかうでもなく、ただ優しげに笑んでいた。
「どこに行きたいんです?」
そう言って、手招きをする。その誘い方があまりに優しいものだから。
「いけない」なんて形ばかりに思いながら誘いに甘えて、再び現実逃避を始めることにした。
「そうだな、チシャ……とか」
「行って、何を?」
「サナさんに挨拶をして、色々話を聞きたいな。それに、この季節だから美味しいワインも飲みたい」
「そこだけですか? せっかくの旅行なのに、巡るのが一ヶ所というのも味気ない」
「……アルマキナンにも行きたいな」
「彼女にご挨拶ですか」
「しばらく顔を見せていないしな」
「となると、日程はざっと一週間といったところですかね」
「ずいぶんとゆっくりだな」
「旅行で馬を飛ばしても仕方がないでしょう? ゆったりと景色を楽しむ旅もいいものですよ」
「――それもそうか」
微笑を交わして、一息の間が生まれる。
訪れた静寂の中、屋外で訓練に勤しむ騎士たちの猛る声が微かに響き、現実に引き戻される。
仕事は山積み。先の予定は会議などでいっぱいだ。ここから出ることはしばらく叶わない。そう、どこへも行けないのだ。念を押して、話を広げる空しさを噛み締めた。
――なのに。
「では、出発しましょうか」
「――何?」
「行きましょう。旅行に」
「……無茶を言うな」
「無茶ではありませんよ」
「こんな忙しい時にふらふら旅行など行けるものか」
「では、目を閉じてください」
彼の優しい瞳が、重みを持った。
「……目? なぜ?」
「まあまあ。騙されたと思って閉じてみてください」
彼の声はどこまでも柔らかい。なのに、たまに逆らうことを許さない力を持つときがある。その力にいつも平伏せて、あっさりと懐柔されてしまう。今日も、例外ではない。
「……こう?」
言われるがままに瞼を伏せた。世界が闇に覆われる。手にしていた、インクを蓄える飛べない羽をするりと奪われ、その掌は彼の掌と堅く結ばれた。自分と違う体温が、細胞を通して流れ込む。
漆黒の世界で、掌だけが温かな朱の色を放つ。そんなイメージさえ、浮かんだ。
「それでは、行きましょう」
「え?」
「想像してください」
「そうぞう?」
「そう。ふたりで話しながら、想像の旅をするんです。これならば、どこへでも行けるでしょう?」
言われて、目を見開く。
闇の世界が一気に白色の光に染まる。先ほどまで見ていた重い現実は、極彩色に輝いていた。逃げ道のない箱の中にいる筈なのに、息苦しさはもうそこにはない。変わらなかったのは、目の前で笑っている彼くらい。
「大切なのは頭の柔らかさです。できないことなんて、案外少ないものですよ」
「……敵わないな」
感服の息をひとつ吐き出して、笑みがこぼれる。
ああ、こんな「外の世界」もあるんだ。教えられて、無性に嬉しくなる。
そうして、再び瞼を閉ざす。見えるのは、ふたりで見る、ふたりが思い通りにできる世界。
――ふたりでどこまでも、遠くに行ける世界。
「では出発しましょう。ああ、その前に服ですね。どうしましょうか」
「そうね、少し寒くなってきているから、厚着の方がいいかな」
「上着は少し前に着ていた茶のコートはどうですか? あれ、よく似合っていて好きなんですよ」
「……いきなりサラリと好きとか言うな。照れる。……でも、それでいいよ。お前はどうする?」
「そうですねえ、では、せっかくなのでクリス様がコーディネートしてくれませんか?」
「いいけど……。うーん……どうしようかな……」
「……これではいつまでも出発できませんね」
「うう、もういいっ! 団服のままで行くぞ!」
「ああ、それも脱走みたいでいいですね。では、行きますか」
「……うん」
「まずは俺が衛兵をうまいこと出し抜いて、馬を奪います。それから――」
掌から掌へと流れ込む温度だけが、現実への切符。離さないようにしかと握り締めて、青空めがけて飛び立った。
羽などなくても飛べることを、初めて知った。これなら世界の大体の苦難も、固く結んだ掌ひとつで結構どうにでもなってしまうかもしれない。なんて、少し大袈裟すぎる想像さえできてしまう。
そう思わせるくらい、この掌は私にとって大きく――暖かい。
「パーシヴァル」
「なんですか?」
「……手、離さないでいてね」
「――もちろん。離せと言われても離しませんよ」
――さあ、ふたりでどこへ行こう?