幻水3(パーシヴァル×クリス)
ことん。
琥珀色のマグカップをそっとテーブルに載せた。
ソファに腰かけて読書に耽っていたパーシヴァルはその物音に少し驚いて、カップの中身を覗き込む。
「ココアですか?」
カップから漂う匂いはむせ返るほどに甘い。
数分前まで鍋で熱せられていた茶色の液体は、今もまだその名残を残して湯気を立ち上らせている。
「そうだ。飲め」
前触れもなく差し出したゆえに自然な言葉が見つからず、ぶっきらぼうな物言いしかできない自分が腹立たしい。
それでもパーシヴァルは言われるがままにカップの取っ手を握り、ゆっくりとカップに唇を宛がってくれた。
「……」
ココアを飲む男を凝視する。それは一口、二口を啜るわずか十数秒にも満たない時間だったが、まるで生きた心地がしなかった。
微かな動作のひとつすら見逃さないよう、固唾を飲んで見守った。
「……どうだ?」
「美味しい」
「……本当?」
半信半疑で問う。味見はしたものの、自信が持てなかった。自分の腕前や味覚を信頼することなどとてもできなかった。
「本当ですよ。甘すぎなくて飲みやすいです」
柔らかな表情に嘘は見えない。我慢を隠している素振りもない。
「良かった……」
それでようやく胸を撫で下ろす。張りつめていた緊張も一気にほぐれて安堵に包まれた。
「しかし、なぜ急に?」
「……思い出したんだ」
「何を?」
「母が、よく作ってくれていた」
忘れていたわけではない。記憶の部屋の奥底に閉じ込めていた、幼い頃の思い出。強い自分を演じるために鍵をかけていたのに、ある日、ふと思い出してしまった。
台所に立つ母。ふわふわのココアパウダーと牛乳を鍋に入れ、熱しながらかき回す。塊ができないよう丁寧に混ぜる母の横から、私が背伸びをしてバターとひとつまみの塩を落とす。
その仕事が楽しかった。そうすることで母に褒められることが嬉しかった。
火にかけた鍋がぐらぐら煮立ち、熱くなりすぎる前に火を止める。それを私専用のマグカップにゆっくり注ぎ、息をかけてこくりと飲み干す。
やみつきになる甘さと「美味しい」と放つ言葉に返ってくる母の笑顔。時折、その隣に父もいた。その安寧なひとときが、子供ながらに愛おしかった。
――そんな、些細な思い出。
「母の味、というやつだ」
あの頃は手伝うだけだった。でも今日はすべて自分で作り上げた。パウダーと牛乳の量を自分で計り、神経質なほどにかき混ぜた。
そんな作業をしながら、現実を噛みしめる。もう、あの頃には帰れない。母も戻らない。父もいない。ずいぶんと前に受け入れたはずなのに、どうしようもないやるせなさが胸を圧迫する。
煙に混じって、鍋に塩辛い雫を二、三滴こぼしたことは、決して言えない。
パーシヴァルは再びカップを傾け、ごくごくとココアを体内に取り込む。その動きは途切れることなく、一気に飲み干してしまわんばかりの勢いだ。
「そんなに美味しい?」
「ええ、格別です」
浮かぶ笑みは柔らかい。それは他の誰でもない自分に向けられている。思うと、何とも言えない照れくささと誰に対してでもない優越感が意識を占拠する。
――思い出のかけらが更に蘇る。
『大きくなったら、クリスの子供にも作ってあげてね。そしたら、今の私と同じ幸せをあなたも味わえるから』
優しい笑みを浮かべてそう言った母は、額を私の額にすり合わせた。
それから、今度は少し毛色の違う笑みで囁く。
『……それから、好きな人にも、ね?』
今思えば、あのときの母の笑みは「女の微笑」というやつだったのだろう。
あのとき、母は私がこんな気持ちを抱くことを願っていたんだろうか。……父にも今の私と同じ気持ちを抱いて、ココアを差し出したことがあったんだろうか。
「ごちそうさまでした」
パーシヴァルはきれいに空にしたカップを手渡し、そのついでに甘く染まった唇を重ねてきた。
好意と感謝のしるし。甘味はそっと唇越しに運ばれる。その味はかつての記憶より深く甘く、鮮明だった。
「また、作ってくれますか」
「……飲んでくれる、なら」
ああ、きっと。きっと母も、こんな気持ちを父に抱いていたのだろう。
母が抱いたのと、同じ気持ち。
母と私の、小さな共有。
「では、明日は俺も茶菓子を作りましょう」
「茶菓子?」
「ウチの母の味を披露します」
「……楽しみにしてるよ」
そうして、彼と私の小さな共有が紡がれていく。
右手に宿る得体の知れない力。
たった一杯のココアや茶菓子。
歴然とした差を持ちながら、どちらも私と大切な人をつなぐもの。
同じだけの重さがある。
今は、どちらも手放さないでいたい。
大切なものを失わないように、未来の誰かに伝えていくために――。
琥珀色のマグカップをそっとテーブルに載せた。
ソファに腰かけて読書に耽っていたパーシヴァルはその物音に少し驚いて、カップの中身を覗き込む。
「ココアですか?」
カップから漂う匂いはむせ返るほどに甘い。
数分前まで鍋で熱せられていた茶色の液体は、今もまだその名残を残して湯気を立ち上らせている。
「そうだ。飲め」
前触れもなく差し出したゆえに自然な言葉が見つからず、ぶっきらぼうな物言いしかできない自分が腹立たしい。
それでもパーシヴァルは言われるがままにカップの取っ手を握り、ゆっくりとカップに唇を宛がってくれた。
「……」
ココアを飲む男を凝視する。それは一口、二口を啜るわずか十数秒にも満たない時間だったが、まるで生きた心地がしなかった。
微かな動作のひとつすら見逃さないよう、固唾を飲んで見守った。
「……どうだ?」
「美味しい」
「……本当?」
半信半疑で問う。味見はしたものの、自信が持てなかった。自分の腕前や味覚を信頼することなどとてもできなかった。
「本当ですよ。甘すぎなくて飲みやすいです」
柔らかな表情に嘘は見えない。我慢を隠している素振りもない。
「良かった……」
それでようやく胸を撫で下ろす。張りつめていた緊張も一気にほぐれて安堵に包まれた。
「しかし、なぜ急に?」
「……思い出したんだ」
「何を?」
「母が、よく作ってくれていた」
忘れていたわけではない。記憶の部屋の奥底に閉じ込めていた、幼い頃の思い出。強い自分を演じるために鍵をかけていたのに、ある日、ふと思い出してしまった。
台所に立つ母。ふわふわのココアパウダーと牛乳を鍋に入れ、熱しながらかき回す。塊ができないよう丁寧に混ぜる母の横から、私が背伸びをしてバターとひとつまみの塩を落とす。
その仕事が楽しかった。そうすることで母に褒められることが嬉しかった。
火にかけた鍋がぐらぐら煮立ち、熱くなりすぎる前に火を止める。それを私専用のマグカップにゆっくり注ぎ、息をかけてこくりと飲み干す。
やみつきになる甘さと「美味しい」と放つ言葉に返ってくる母の笑顔。時折、その隣に父もいた。その安寧なひとときが、子供ながらに愛おしかった。
――そんな、些細な思い出。
「母の味、というやつだ」
あの頃は手伝うだけだった。でも今日はすべて自分で作り上げた。パウダーと牛乳の量を自分で計り、神経質なほどにかき混ぜた。
そんな作業をしながら、現実を噛みしめる。もう、あの頃には帰れない。母も戻らない。父もいない。ずいぶんと前に受け入れたはずなのに、どうしようもないやるせなさが胸を圧迫する。
煙に混じって、鍋に塩辛い雫を二、三滴こぼしたことは、決して言えない。
パーシヴァルは再びカップを傾け、ごくごくとココアを体内に取り込む。その動きは途切れることなく、一気に飲み干してしまわんばかりの勢いだ。
「そんなに美味しい?」
「ええ、格別です」
浮かぶ笑みは柔らかい。それは他の誰でもない自分に向けられている。思うと、何とも言えない照れくささと誰に対してでもない優越感が意識を占拠する。
――思い出のかけらが更に蘇る。
『大きくなったら、クリスの子供にも作ってあげてね。そしたら、今の私と同じ幸せをあなたも味わえるから』
優しい笑みを浮かべてそう言った母は、額を私の額にすり合わせた。
それから、今度は少し毛色の違う笑みで囁く。
『……それから、好きな人にも、ね?』
今思えば、あのときの母の笑みは「女の微笑」というやつだったのだろう。
あのとき、母は私がこんな気持ちを抱くことを願っていたんだろうか。……父にも今の私と同じ気持ちを抱いて、ココアを差し出したことがあったんだろうか。
「ごちそうさまでした」
パーシヴァルはきれいに空にしたカップを手渡し、そのついでに甘く染まった唇を重ねてきた。
好意と感謝のしるし。甘味はそっと唇越しに運ばれる。その味はかつての記憶より深く甘く、鮮明だった。
「また、作ってくれますか」
「……飲んでくれる、なら」
ああ、きっと。きっと母も、こんな気持ちを父に抱いていたのだろう。
母が抱いたのと、同じ気持ち。
母と私の、小さな共有。
「では、明日は俺も茶菓子を作りましょう」
「茶菓子?」
「ウチの母の味を披露します」
「……楽しみにしてるよ」
そうして、彼と私の小さな共有が紡がれていく。
右手に宿る得体の知れない力。
たった一杯のココアや茶菓子。
歴然とした差を持ちながら、どちらも私と大切な人をつなぐもの。
同じだけの重さがある。
今は、どちらも手放さないでいたい。
大切なものを失わないように、未来の誰かに伝えていくために――。