幻水3(パーシヴァル×クリス)
気付けば、人目につかない城の屋上に辿り着いていた。
いつ来ても、ここには空と風しかない。見つけたのはまだ従騎士だった頃。偶然に探り当てて以来、秘密の場所になっている。
屋上の真ん中に膝を折って座り込み、空を仰ぐ。
空は何も語りかけてこない。傷つけも、励ましもしない。何もない空間だけを提供してくれる。
ここに来たくなるような日は、なぜかいつも雲ひとつない晴天で、遥か遠くの山々まで見渡せる。
呆然と、そんな景色を眺める。
無限に続く空。
ずっと見つめていると、不意に意識を吸い取られそうになる。
そんな感覚がどこか心地良い。
いっそのこと、本当にこんな脆弱な意識など浚って行ってしまえばいいのにとすら思う。
「……あの頃に戻りたい」
ぽつりと漏れた声は、自分でも笑えるほどか細い。
願うのは、ただの騎士として、団長の下で一心不乱に剣を振っていた頃。
言えば言うだけ空しくなって、空に吸い込まれてしまうだけだというのに。
俯き、両膝に額を当てて、願ってしまう。
「……戻りたい」
もう、とっくに時間は進んでいる。
今更、焦がれたって何になる。
ゼクセンの象徴たる存在。
与えられた銀の乙女の二つ名。
その手には真なる水の紋章を宿す、紋章の継承者。
名誉あること。
誇らしいこと。
みんな、讃えてくれる。
――そんなもの、欲しくなんかなかったのに。
晒された体を陽光は容赦なく包んだ。背凭れもなく、力の抜けた体は徐々に後ろへと倒れゆく。
いっそ、日干しになってしまいたい。眠って起きた時にはもう干からびていて、誰も私を私とも思わず、捨てられてしまえばいいのに。
すとん。
倒れることを望んだ体は、不意に現れた壁によって仰向けになることを阻まれた。
暖かい壁。人の温もりがする、背中と言う名の壁だった。
「パーシヴァル」
その壁の主の名を呼ぶ。
なぜ、背中だけでわかるのだろう。
直感? 本能? ――いや、それともつかない、もっと別のものかもしれない。
「そろそろ会議の時間だな。探しに来てくれたんだろう。悪かった、すぐもど」
「戻らなくていいですよ」
「え?」
「このままでいてください」
「でも」
「大丈夫ですから」
淡々と告げる声にこれといった喜怒哀楽は感じられない。どちらかといえば、無に近い。それが返って言葉の力を強くさせ、自分を立たせることを封じさせた。
背中合わせのまま、再び空を仰ぐ。
空は相変わらず空々しい。
――空なんだから、当たり前か。思考はまだ騎士団長であるべきものに戻らない。
ふと、そっと視覚を閉ざした。
遠くの小鳥の囀りが際立って聞こえる。
頬に触れる風の感触が鮮明になる。
舌先にはまだ先ほど飲んだ紅茶の味覚が残っていて。
鼻には、鮮やかな緑と埃の匂い。
――それから、背中に当たる固い肩胛骨の、感触。
空は何も語りかけてこない。
傷つけも、励ましもしない。
何もない空間だけを提供してくれた。
――けれど、この背中は。
「今、何を考えています?」
「……悔しい」
「なにが?」
「讃えられても、実際は何もできていない自分の無力さが」
「他には?」
「……辛い」
「なにが?」
「多くを求められて……できもしないのに賞賛されて……」
「他には?」
「……苦しい……」
気づけば、涙が零れて止まらなくなっていた。嗚咽も抑えられず、か細い声が情けなくなるくらいに漏れている。
「好きなだけ、泣いて下さい」
暖かい背中。今、どんな顔をしているのか、手に取るように判る。
きっと、今、目を伏せた。それから、短い溜息をついて、声に出さずに唇だけで象った。
『――頑張れ』
だから、泣きながらも小さく、唇だけで呟いた。
『――頑張る』
ここまで来てしまった道をもう戻ることはできない。選択を迫られて最終的に選んだのは、他でもない自分だ。
『自分が決めて選んだのであれば、信じて進んでください。もしその先が間違いであったとしても、俺はあなたを支えます。すべて壊して凍らせてしまいたくなったなら、それすら喜んで付き従います。だから、後悔なんてしなくていい』
――そう言ってくれたのは、あなただけ。
「……あり、がと、う。も、だいじょ、ぶ、だから」
「落ちついて。ゆっくり息を吸って」
「……すまない。本当に」
「いいんですよ。――でもね、俺もあなたを落ち着かせる壁くらいにはなれるんですから、こんなそっけない空に頼るのは、これっきりにしませんか」
そう言って、背中は消えた。
「先に行ってお待ちしていますよ」
優しく、柔らかに笑む眼をしかと見つめた。
背中合わせになって頭の中で思い描いていたときと同じ笑みだった。
「……パーシヴァル。また、背中が借りたくなったら――」
「そのときは、もっと見晴らしの良い場所まで馬を駆って、そこで泣きましょうか」
「――ありがとう」
静かに笑って、立ち去る背中を見送る。
私には、帰る場所がある。寄りかかれる人も、こんなに溢れて止まらない想いもある。
――もう少しだけ泣いたら、また頑張ろう。
思って、用済みの空を少しだけ、仰いだ。
いつ来ても、ここには空と風しかない。見つけたのはまだ従騎士だった頃。偶然に探り当てて以来、秘密の場所になっている。
屋上の真ん中に膝を折って座り込み、空を仰ぐ。
空は何も語りかけてこない。傷つけも、励ましもしない。何もない空間だけを提供してくれる。
ここに来たくなるような日は、なぜかいつも雲ひとつない晴天で、遥か遠くの山々まで見渡せる。
呆然と、そんな景色を眺める。
無限に続く空。
ずっと見つめていると、不意に意識を吸い取られそうになる。
そんな感覚がどこか心地良い。
いっそのこと、本当にこんな脆弱な意識など浚って行ってしまえばいいのにとすら思う。
「……あの頃に戻りたい」
ぽつりと漏れた声は、自分でも笑えるほどか細い。
願うのは、ただの騎士として、団長の下で一心不乱に剣を振っていた頃。
言えば言うだけ空しくなって、空に吸い込まれてしまうだけだというのに。
俯き、両膝に額を当てて、願ってしまう。
「……戻りたい」
もう、とっくに時間は進んでいる。
今更、焦がれたって何になる。
ゼクセンの象徴たる存在。
与えられた銀の乙女の二つ名。
その手には真なる水の紋章を宿す、紋章の継承者。
名誉あること。
誇らしいこと。
みんな、讃えてくれる。
――そんなもの、欲しくなんかなかったのに。
晒された体を陽光は容赦なく包んだ。背凭れもなく、力の抜けた体は徐々に後ろへと倒れゆく。
いっそ、日干しになってしまいたい。眠って起きた時にはもう干からびていて、誰も私を私とも思わず、捨てられてしまえばいいのに。
すとん。
倒れることを望んだ体は、不意に現れた壁によって仰向けになることを阻まれた。
暖かい壁。人の温もりがする、背中と言う名の壁だった。
「パーシヴァル」
その壁の主の名を呼ぶ。
なぜ、背中だけでわかるのだろう。
直感? 本能? ――いや、それともつかない、もっと別のものかもしれない。
「そろそろ会議の時間だな。探しに来てくれたんだろう。悪かった、すぐもど」
「戻らなくていいですよ」
「え?」
「このままでいてください」
「でも」
「大丈夫ですから」
淡々と告げる声にこれといった喜怒哀楽は感じられない。どちらかといえば、無に近い。それが返って言葉の力を強くさせ、自分を立たせることを封じさせた。
背中合わせのまま、再び空を仰ぐ。
空は相変わらず空々しい。
――空なんだから、当たり前か。思考はまだ騎士団長であるべきものに戻らない。
ふと、そっと視覚を閉ざした。
遠くの小鳥の囀りが際立って聞こえる。
頬に触れる風の感触が鮮明になる。
舌先にはまだ先ほど飲んだ紅茶の味覚が残っていて。
鼻には、鮮やかな緑と埃の匂い。
――それから、背中に当たる固い肩胛骨の、感触。
空は何も語りかけてこない。
傷つけも、励ましもしない。
何もない空間だけを提供してくれた。
――けれど、この背中は。
「今、何を考えています?」
「……悔しい」
「なにが?」
「讃えられても、実際は何もできていない自分の無力さが」
「他には?」
「……辛い」
「なにが?」
「多くを求められて……できもしないのに賞賛されて……」
「他には?」
「……苦しい……」
気づけば、涙が零れて止まらなくなっていた。嗚咽も抑えられず、か細い声が情けなくなるくらいに漏れている。
「好きなだけ、泣いて下さい」
暖かい背中。今、どんな顔をしているのか、手に取るように判る。
きっと、今、目を伏せた。それから、短い溜息をついて、声に出さずに唇だけで象った。
『――頑張れ』
だから、泣きながらも小さく、唇だけで呟いた。
『――頑張る』
ここまで来てしまった道をもう戻ることはできない。選択を迫られて最終的に選んだのは、他でもない自分だ。
『自分が決めて選んだのであれば、信じて進んでください。もしその先が間違いであったとしても、俺はあなたを支えます。すべて壊して凍らせてしまいたくなったなら、それすら喜んで付き従います。だから、後悔なんてしなくていい』
――そう言ってくれたのは、あなただけ。
「……あり、がと、う。も、だいじょ、ぶ、だから」
「落ちついて。ゆっくり息を吸って」
「……すまない。本当に」
「いいんですよ。――でもね、俺もあなたを落ち着かせる壁くらいにはなれるんですから、こんなそっけない空に頼るのは、これっきりにしませんか」
そう言って、背中は消えた。
「先に行ってお待ちしていますよ」
優しく、柔らかに笑む眼をしかと見つめた。
背中合わせになって頭の中で思い描いていたときと同じ笑みだった。
「……パーシヴァル。また、背中が借りたくなったら――」
「そのときは、もっと見晴らしの良い場所まで馬を駆って、そこで泣きましょうか」
「――ありがとう」
静かに笑って、立ち去る背中を見送る。
私には、帰る場所がある。寄りかかれる人も、こんなに溢れて止まらない想いもある。
――もう少しだけ泣いたら、また頑張ろう。
思って、用済みの空を少しだけ、仰いだ。