幻水3(パーシヴァル×クリス)
「……指輪を失くした話?」
「そう、覚えてますか?」
使用人たちが休憩に出払った昼下がり。広いダイニングの一角で開いたティータイムの中で尋ねた問いに、クリスは眉間に皴を寄せ、大層にがい表情を浮かべた。
「……あれだろう、私が、お前から貰って三日後に失くしたやつ……」
「そうそう。もうあれも十五年前ですか。買うときに『遠い未来に捨てられる可能性』は考えましたが、まさかプロポーズの三日後に失くされるとは思わなかったな」
こちらはすっかり過去の笑い話として軽く会話を紡ぐが、クリスはまるで昨日やらかした出来事を振り返ったかのように、非常にばつが悪そうな面持ちだ。失くした側としては正しい態度かもしれないが、想像以上の反応にちょっとした罪悪感が芽生えてしまう。
「指輪、結局どこにあったんでしたっけ」
苦笑気味に問うと、クリスはティーカップに口をつけながらもごもごと答える。
「……手袋の中。はずすときに一緒に抜けてしまっていて」
「そうだ。侍女が見つけてくれたんですよね。しばらくふたりで救世主と呼んでご馳走したな」
「私は今でも救世主と思っているよ。――そういえば、彼女、結婚することになったそうだ。騎士団の中で良い縁があったらしくて」
「へえ、それはめでたい。何かお祝いを贈らないといけませんね」
「うん。色々物入りだから、少し良い家具でも贈りたいなと思って」
「いいですね。次の休暇にでも探しに行きましょうか」
頷き合って、茶菓子と紅茶を楽しむ。本来あるべき穏やかなひとときが、ゆるりと流れた。
「……で、どうして急に人の十五年前の不名誉な話をしだしたの?」
……が、違和感を拭えなかったのか、クリスは敢えて自分から話題を蒸し返してきた。こういったところの誠実さというか、生真面目さは昔から変わらない。流してしまおうと思えばできるものが、できない。それが、彼女らしさであり、微笑ましくなる。
「昨晩、夢を見たんですよ」
「夢?」
「そう。あなたが何かを失くして、顔面蒼白で部屋中ひっくり返していて。で、目が覚めて、そんなことが実際にあったなあと思い出して」
「あ、だから寝起きに人の顔見てニヤニヤしてたのか」
確かに、夢から覚めて隣で眠る彼女を眺めながら、在りし日の指輪紛失事件を思い出して笑んだのは今朝のできごとだ。こちらとしてはあの頃と寸分変わらない彼女の美貌と寝顔に複雑な想いを募らせていたのだが、「ニヤニヤしていた」という言葉で一蹴されてしまうあたり、日頃の行いを省みる必要性を感じてしまう。
「夢の中の私は、何を探していたんだろうな。今は特に、探している失せものもないけれど」
「なんでしょうね。今度、夢占いでも調べてみますか」
何かを探すクリス。それを夢に見る自分。もしかすると、本当に何かを探しているのは自分の方なのかもしれない。ふと、そう思う。それが「何か」と言葉というかたちにすることはできないが、年月を重ねるにつれて漠然とした「穴」のようなものを感じるのは事実だ。満たされた日々の中に生まれるそれは、やはり、彼女の右手に在るものの所為だろう。
「……ところでクリス様」
「なに?」
胸中にあるものを見せぬようにしながら、テーブル越しに向かい合う彼女を見据える。休日とあって髪も結わずリラックスした姿は、自分の中の不安なものをわずかにだが和らがせてくれた。
「話はがらっと変わるんですが、今日は何の日か覚えてますか?」
「きょう? うーん……別に普通の、ひ……」
きょとんとして思考を巡らせ始めた瞬間、クリスの顔からさっと血の気が引いた。それはもうはたから見てもわかりやすく、スッと音が聞こえそうなほどに。
「け、結婚記念日……!!」
「お、意外と思い出すのが早くて嬉しい限り」
それは皮肉でもなんでもない素直な感想だった。彼女がこういったことがらに無頓着なのは十五年以上の付き合いで勝手知ったるところだ。むしろ、こうでなくてはいけないとすら思う。その中で、この思い出すスピードは存外悪くない。
「完全に忘れてた……」
「まあ、ここのところ忙しかったですしね」
「怒らないの?」
「別に怒りはしませんよ。忘れてるのもクリス様らしいですし」
「まったく褒めてないっ!」
「不覚だ」と声を荒げ、頭を抱えて猛省する様を見るのは初めてではないが、何度見ても微笑ましい。記念日を忘れられることよりも、変わらずこのやり取りを続けられていることの方が、最近は貴重と感じるほどだ。
「記念日を忘れられても、指輪を捨てられてもいいんですよ」
「いや、失くしても捨てるわけはないだろう」
「失くさないと断言しないところ、好きですよ」
「や、その……気を付けは、する。今はほら、ネックレスに通して身に着けてるし」
焦った様子で服の間から抜き出したネックレスを突き付けてくる様は、反省の弁を述べる子供のよう。耐え切れず、噴き出してしまう。
「……パーシヴァル。お前、さっきからずっとからかってるだろう」
「いえ、そんなことは全然」
「悪い癖だ」と跳ねつけられるが、今日は本音しか話していないつもりだ。会話のとっかかりは少々意地悪だったかもしれないが、からかうつもりはさらさらない。
散々笑い疲れたところで、すっかり冷めてしまった紅茶で喉を潤し、改まって向き合った。
「……俺はね、あなたが生きている間、俺のことを覚えておいて貰えれば十分なんです」
「またその話か」
それは、ことあるごとに彼女に向けてきた言葉だ。彼女に向けては、以前よりもずっと気持ちを素直に出すようになった。それは、この年月の中での、大きな変化だと思う。秘め続けて良いと思っていたことも「伝えておきたい」と欲を持つようになってしまった。悪いことだとは思わないが、ずいぶんな変わりようだと、我ながら思う。時間の流れとその中での経験は、それなりに人を変える力があるのだと実感する。
「毎度言うが、誰が生きている中で人生の伴侶を忘れるというんだ」
「でも、もしこの先あなたが百年生きるとして、新しい縁が生まれないとも言えないでしょう?」
「ないよ、それは」
短くも、きっぱりとした言葉が返ってくる。向かい合った菫色の瞳は、揺らぐことのない強い意志を宿していた。
「何度も言ってるが、絶対にない」
念を押すように、もうひとつ。それで、漠然とした、かたちのない歪んだ「穴」が塞がっていく。自分がいなくなった先のこと。自分ではどうにもできない未来について、彼女は何度問うても同じ答えをくれる。「絶対」の裏付けがあるわけでもない。けれど、問わずともきっと大丈夫だと無条件に思えるものが宿る。何かの折に揺らいで、確認して。その繰り返し。それは、きっとこの先も続いていくのだろう。――それでもいい。
「毎度のことながら、そんなにはっきり言い切られると意地悪なことも言えなくなりますね」
「意地悪は最初から言わなくていい。……記念日を忘れてたのは、本当に、申し訳ないけど」
「別に拗ねて言ったわけじゃないですよ」
「だとしたら余計にタチが悪いんじゃないか?」
「まあまあ、細かいことは気にせずに。――さて、百年先も伴侶と思って貰える確信を得たところで、記念日のディナーでも作りますか」
立ち上がり、空になったふたりぶんのティーカップと菓子皿をトレイに載せながら視線を送る。なんだか煮え切らない、といった様子だが、記念日を忘れたショックからは抜け出せたようだ。
「ひとりでは少し手がかかるので、今日はちょっと手伝って貰えますか」
「もちろん。……できることであれば」
「そうですねえ……じゃあ、野菜の皮剥きは?」
「お前、やっぱり拗ねてるだろう! 野菜は洗う。剥く・切るは任せる」
「頼もしいことで」
けらけら笑うと、軽く蹴りを入れられる。口より先に足が出るのも変わらない。長い年月の中で、何度も確認しては幸せを噛み締める自分に呆れながらも、きっとこんな調子で終わりの時まで続けていけるのだろうと自覚する。今日の話はまた五年後にでも。そうして少しずつ積もっていくできごとを、いつか、彼女が遠い未来に誰かに向けて楽しかった昔話として話してくれればいい。
――そう、願ってやまない。
「そう、覚えてますか?」
使用人たちが休憩に出払った昼下がり。広いダイニングの一角で開いたティータイムの中で尋ねた問いに、クリスは眉間に皴を寄せ、大層にがい表情を浮かべた。
「……あれだろう、私が、お前から貰って三日後に失くしたやつ……」
「そうそう。もうあれも十五年前ですか。買うときに『遠い未来に捨てられる可能性』は考えましたが、まさかプロポーズの三日後に失くされるとは思わなかったな」
こちらはすっかり過去の笑い話として軽く会話を紡ぐが、クリスはまるで昨日やらかした出来事を振り返ったかのように、非常にばつが悪そうな面持ちだ。失くした側としては正しい態度かもしれないが、想像以上の反応にちょっとした罪悪感が芽生えてしまう。
「指輪、結局どこにあったんでしたっけ」
苦笑気味に問うと、クリスはティーカップに口をつけながらもごもごと答える。
「……手袋の中。はずすときに一緒に抜けてしまっていて」
「そうだ。侍女が見つけてくれたんですよね。しばらくふたりで救世主と呼んでご馳走したな」
「私は今でも救世主と思っているよ。――そういえば、彼女、結婚することになったそうだ。騎士団の中で良い縁があったらしくて」
「へえ、それはめでたい。何かお祝いを贈らないといけませんね」
「うん。色々物入りだから、少し良い家具でも贈りたいなと思って」
「いいですね。次の休暇にでも探しに行きましょうか」
頷き合って、茶菓子と紅茶を楽しむ。本来あるべき穏やかなひとときが、ゆるりと流れた。
「……で、どうして急に人の十五年前の不名誉な話をしだしたの?」
……が、違和感を拭えなかったのか、クリスは敢えて自分から話題を蒸し返してきた。こういったところの誠実さというか、生真面目さは昔から変わらない。流してしまおうと思えばできるものが、できない。それが、彼女らしさであり、微笑ましくなる。
「昨晩、夢を見たんですよ」
「夢?」
「そう。あなたが何かを失くして、顔面蒼白で部屋中ひっくり返していて。で、目が覚めて、そんなことが実際にあったなあと思い出して」
「あ、だから寝起きに人の顔見てニヤニヤしてたのか」
確かに、夢から覚めて隣で眠る彼女を眺めながら、在りし日の指輪紛失事件を思い出して笑んだのは今朝のできごとだ。こちらとしてはあの頃と寸分変わらない彼女の美貌と寝顔に複雑な想いを募らせていたのだが、「ニヤニヤしていた」という言葉で一蹴されてしまうあたり、日頃の行いを省みる必要性を感じてしまう。
「夢の中の私は、何を探していたんだろうな。今は特に、探している失せものもないけれど」
「なんでしょうね。今度、夢占いでも調べてみますか」
何かを探すクリス。それを夢に見る自分。もしかすると、本当に何かを探しているのは自分の方なのかもしれない。ふと、そう思う。それが「何か」と言葉というかたちにすることはできないが、年月を重ねるにつれて漠然とした「穴」のようなものを感じるのは事実だ。満たされた日々の中に生まれるそれは、やはり、彼女の右手に在るものの所為だろう。
「……ところでクリス様」
「なに?」
胸中にあるものを見せぬようにしながら、テーブル越しに向かい合う彼女を見据える。休日とあって髪も結わずリラックスした姿は、自分の中の不安なものをわずかにだが和らがせてくれた。
「話はがらっと変わるんですが、今日は何の日か覚えてますか?」
「きょう? うーん……別に普通の、ひ……」
きょとんとして思考を巡らせ始めた瞬間、クリスの顔からさっと血の気が引いた。それはもうはたから見てもわかりやすく、スッと音が聞こえそうなほどに。
「け、結婚記念日……!!」
「お、意外と思い出すのが早くて嬉しい限り」
それは皮肉でもなんでもない素直な感想だった。彼女がこういったことがらに無頓着なのは十五年以上の付き合いで勝手知ったるところだ。むしろ、こうでなくてはいけないとすら思う。その中で、この思い出すスピードは存外悪くない。
「完全に忘れてた……」
「まあ、ここのところ忙しかったですしね」
「怒らないの?」
「別に怒りはしませんよ。忘れてるのもクリス様らしいですし」
「まったく褒めてないっ!」
「不覚だ」と声を荒げ、頭を抱えて猛省する様を見るのは初めてではないが、何度見ても微笑ましい。記念日を忘れられることよりも、変わらずこのやり取りを続けられていることの方が、最近は貴重と感じるほどだ。
「記念日を忘れられても、指輪を捨てられてもいいんですよ」
「いや、失くしても捨てるわけはないだろう」
「失くさないと断言しないところ、好きですよ」
「や、その……気を付けは、する。今はほら、ネックレスに通して身に着けてるし」
焦った様子で服の間から抜き出したネックレスを突き付けてくる様は、反省の弁を述べる子供のよう。耐え切れず、噴き出してしまう。
「……パーシヴァル。お前、さっきからずっとからかってるだろう」
「いえ、そんなことは全然」
「悪い癖だ」と跳ねつけられるが、今日は本音しか話していないつもりだ。会話のとっかかりは少々意地悪だったかもしれないが、からかうつもりはさらさらない。
散々笑い疲れたところで、すっかり冷めてしまった紅茶で喉を潤し、改まって向き合った。
「……俺はね、あなたが生きている間、俺のことを覚えておいて貰えれば十分なんです」
「またその話か」
それは、ことあるごとに彼女に向けてきた言葉だ。彼女に向けては、以前よりもずっと気持ちを素直に出すようになった。それは、この年月の中での、大きな変化だと思う。秘め続けて良いと思っていたことも「伝えておきたい」と欲を持つようになってしまった。悪いことだとは思わないが、ずいぶんな変わりようだと、我ながら思う。時間の流れとその中での経験は、それなりに人を変える力があるのだと実感する。
「毎度言うが、誰が生きている中で人生の伴侶を忘れるというんだ」
「でも、もしこの先あなたが百年生きるとして、新しい縁が生まれないとも言えないでしょう?」
「ないよ、それは」
短くも、きっぱりとした言葉が返ってくる。向かい合った菫色の瞳は、揺らぐことのない強い意志を宿していた。
「何度も言ってるが、絶対にない」
念を押すように、もうひとつ。それで、漠然とした、かたちのない歪んだ「穴」が塞がっていく。自分がいなくなった先のこと。自分ではどうにもできない未来について、彼女は何度問うても同じ答えをくれる。「絶対」の裏付けがあるわけでもない。けれど、問わずともきっと大丈夫だと無条件に思えるものが宿る。何かの折に揺らいで、確認して。その繰り返し。それは、きっとこの先も続いていくのだろう。――それでもいい。
「毎度のことながら、そんなにはっきり言い切られると意地悪なことも言えなくなりますね」
「意地悪は最初から言わなくていい。……記念日を忘れてたのは、本当に、申し訳ないけど」
「別に拗ねて言ったわけじゃないですよ」
「だとしたら余計にタチが悪いんじゃないか?」
「まあまあ、細かいことは気にせずに。――さて、百年先も伴侶と思って貰える確信を得たところで、記念日のディナーでも作りますか」
立ち上がり、空になったふたりぶんのティーカップと菓子皿をトレイに載せながら視線を送る。なんだか煮え切らない、といった様子だが、記念日を忘れたショックからは抜け出せたようだ。
「ひとりでは少し手がかかるので、今日はちょっと手伝って貰えますか」
「もちろん。……できることであれば」
「そうですねえ……じゃあ、野菜の皮剥きは?」
「お前、やっぱり拗ねてるだろう! 野菜は洗う。剥く・切るは任せる」
「頼もしいことで」
けらけら笑うと、軽く蹴りを入れられる。口より先に足が出るのも変わらない。長い年月の中で、何度も確認しては幸せを噛み締める自分に呆れながらも、きっとこんな調子で終わりの時まで続けていけるのだろうと自覚する。今日の話はまた五年後にでも。そうして少しずつ積もっていくできごとを、いつか、彼女が遠い未来に誰かに向けて楽しかった昔話として話してくれればいい。
――そう、願ってやまない。
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