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幻水3(ゼクセン騎士団)

 ――太陽暦四七五年、春。
 サロメ・ハラス卿は、気持ちの良い春の青空が広がるその日も、朝から自室で重要書類と睨み合っていた。デスクの上にはまだ手つかずのままの書類が山積みになっており、一日二日ではとても片付くような量ではない。
 終わりの見えない戦い――。気を抜けばプツリと気持ちの糸が切れて投げ出してしまいそうになるのを堪えながら、彼はひとつずつ処理を行っていた。
 文書の全文に目を通し、サインを記す。朝からもう何時間、その作業を繰り返しているだろうか。――いや、考えてしまっては負けだ。そう言い聞かせ、サロメは神経を再び張り直し、感情を無にして次の書類に手を伸ばした。
 そんな彼の手を、ひとりの来訪者が停止させた。コンコン、と小気味良いノックが二回。そのリズムを生み出す人間を、サロメは熟知していた。たった二回のノックだが、それはあまりに馴染みの音とリズムだった。
 だからこそ、彼は盛大に眉間に皺を寄せた。連想される人間の姿が、今の自分にとってはあまりにありがたくない存在だったからだ。
 再び、コンコン、と先ほどとまったく同じリズムのノック。しかし、どこかせっつくような圧迫感を感じさせるのは、その先の主の表情がありありと浮かぶからだろうか。
 サロメは観念し、大きなため息を吐いた。
「……おりますよ。どうぞ」
 ドア越しの人間に告げると、扉は勢いよく開かれた。その先にいたのは――やはり、予想していたとおりの人間だった。
「おはようさん。なんだなんだ、朝からシケた面してんな」
「あなたが元気すぎるんですよ、ペリーズ様」
「だってこんなにいい天気なんだぜ? 気分が悪いわけないだろう」
「……天気ひとつで浮かれられるのがお羨ましいですよ」
「なんだよ。今日はいつにも増して冷たいな」
 副団長・ペリーズ。自分の上官にして、軍略の師。騎士としての技量や軍師としての才には、心から尊敬の念を抱いている男だ。
 ――が、いかんせん、性格には非常に難がある。ありすぎるほどにある。長いこと彼の下について動き回ってきたが、その大半が彼のお守りであったことも事実。一人前として認められた現在でも、その関係性が途切れることはない。彼の悪ふざけに付き合わされるのはもはや日常茶飯事レベルの話だが、それでも頭の痛い悩みでもあった。
「仕事が詰まってるのはわかるけどよ、外に出て新鮮な空気を吸うのもいいもんだぞ」
「……そんな心の余裕も、さすがに今はまだ持てそうにありません。出陣の時期も迫っていますし」
「まあ、そうなんだがな。……それなら、部屋に花でも飾ってみたらどうだ?」
「……花?」
「そう。ちょっと置いておくだけで、ずいぶん気分が変わるもんだぞ」
「そういう、ものですか」
「そういうもんなの。――ということで、ほい」
 ペリーズが笑みながら、山積みの書類の合間に手を伸ばし、何かを置く。
「なんですか……?」
 怪訝な表情で身を乗り出して覗き込む。置かれていたのは、小さな厚紙でできた箱だった。正方形の箱は濃い赤色で、その中には小ぶりな薄いピンクの花がぎっしりと詰まっている。その合間には、一文を添えた小さなメッセージカードが鎮座していた。
「……カーネーション?」
「ご名答。さっき朝の散歩がてら城下の花屋の前を通ったら、こんな感じの花が山ほど売っててさ。綺麗だったんで、思わず買っちまったんだよ」
「……」
「自分の部屋に飾ってもいいんだが、根を詰めてるお前の部屋に置いた方が効果があるんじゃないかと思ってな」
「……」
 じっとペリーズを見やる。彼は、非常に純度の高い笑みを湛えていた。――そう。まったく悪びれもなく「心からの気持ちを込めて」と言った風に。
「いつも苦労をかけているサロメ卿へ、俺からのプレゼントだ」
「……ペリーズ様」
「ん?」
 置かれた花の箱を持ち、その合間に紛れるメッセージカードを指差し、再びペリーズを凝視する。無言で、そして真顔で訴える。しかし、ペリーズはきょとんとして首を傾げるだけだった
「なんだ?」
「ここに書かれている文章に、強い悪意を感じるのですが」
「なーに言ってんだよ。悪意も何も、まんまお前のことじゃないか」
「……」
 ペリーズは再びにっこりと笑み、メッセージカードの文章を読み上げた。
「“いつもありがとう、おかあさん”」

 ――その直後、サロメ・ハラス卿の私室から凄まじい怒声と破壊音が響き渡り、城内は一時騒然となった。
 それは伝説の『母の日事件』として、今もゼクセン騎士団内に語り継がれている。そして、それ以降、「母の日にはサロメ卿の部屋に花を持ち込む」という風習が一部で見受けられるようになった。きっかけがきっかけなだけにサロメ卿本人も初めはうんざりしていた様子だったが、数年を経た現在ではまんざらでもないといった様子になっている。

 ――今年の春もまた、彼の部屋には大勢の騎士や市民から贈られた、溢れんばかりのカーネーションが綻んでいるのだとか。
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