幻水3(ゼクセン騎士団)
――それは、暑い暑い真夏の日の出来事。
「……熱っぽい」
目が覚めて、体を起こした瞬間に自覚した。額に手を当てて、その温度を確かめる。熱い。触れた掌の面がじわじわ熱に浸食されていくのがわかる。全身も熱く、シーツや衣服に触れる皮膚がぴりぴりとして、独特の痛みを放っている。心なしか、目の周りもぼんやりと火照っているような気がする。
そして、極めつけは真夏だというのに微かに感じるこの寒気。
――間違いない。完全に夏風邪だ。
風邪を引くなど何年振りだろうか。田舎育ちの野生なのか何なのか、昔から風邪の類には滅法強かった。従騎士時代、城の中で風邪が大流行したときも、同じ隊の同期は愚か隊長まで倒れる中、ただひとり元気に別隊の訓練に参加したという伝説まで残すほど、風邪の抵抗力には自信があったのだが。
しかも、ここ最近はそれなりに規則正しい生活を送っていたし、病原菌が付け入る隙はなかったはずだ。よほど強烈な菌に冒された誰かに伝染されでもしたのだろうか。
ふと、昨日顔を合わせた面々を思い返してみるものの、目に見えて具合の悪そうだった者は思い浮かばない。更に深く遡ってみようと思うも、体のだるさゆえか、ふと考えるのが面倒になってくる。大体、伝染した奴を暴いたとて風邪が治るわけでもない。建設的ではないことを認識し、犯人探しは早々に打ち切ることにした。
さて、本当の問題は今日一日をどう過ごすかだ。
正直に体調不良を訴えて部屋で療養するのがベストだが、代わりに仕事を任せる部下を探して引き継ぐのも、それはそれで労力がかかる。しかも、今日は六騎士が揃っての定例会議の予定が入っている。さすがにこれには部下を代理に送り込むことはできない。そんなことをしようものなら、サロメ副団長殿の雷が落ちるのが目に見えている。こういうとき、組織の割と上の方に立つ人間は辛い。
「……ま、いいか。これくらいなら」
ありがたいことに、喉や鼻の異常といった風邪と見抜かれるような症状は出ていない。体の内側は熱に浮かされているが、傍目には気付かれることはないだろう。急ぎで処理しなければならない書類もそう多くはないし、早朝訓練の監督と会議さえ終われば後は楽なものだ。この程度なら、辛抱してやり過ごせるだろう。
「――よし」
思い、ベッドから出ることを拒みたがる体に気合を入れ、着替えをすることにした。
「素振り、はじめー!」
真夏はたとえ早朝であっても暑い。照りつける日差しは強く、既に蝉まで鳴き始めている。今年のゼクセンは、十何年かぶりの猛暑らしい。
だが、例えそんな気候であったとしても、ゼクセンを守る勇猛な新米騎士たちは、フル装備で早朝訓練に臨むことを義務づけられている。騎士たる者、夏の暑さごときに屈することなどあってはならないのだ。
「……パーシヴァル様。今日もまたずいぶんとラフな格好ですね」
素振りをする騎士たちと同じく、しっかりと甲冑を着込んだ部下が、眉間に皺を寄せて苦笑う。その顔は既に汗だくだ。
「そうか? ちゃんと団服は着てるだろう」
「甲冑を身に着けてない時点で充分にラフですよ。あーもう、腕まくりまでしちゃって……。他の六騎士の方は朝からちゃんと甲冑姿でしたよ」
じりじりとした暑さと、それに反比例した寒気に嫌なものを感じつつも、気取られないよう軽く笑って流した。
「はは、こんな暑い日にみんな真面目だなあ」
「あなたが不真面目なだけですよ!」
同じ隊の部下であり、同郷の仲間でもあるこの若い騎士は、表立って口調を崩しはしないものの、ツッコミはなかなかに鋭い。
真夏の炎天下、体調が優れないというのに甲冑姿で訓練の監督をするなど自殺行為もいいところ。多少の迷いはあったものの、普段からあまり鎧をまとわずに城内を歩いていることが幸いし、いつもの不真面目と思われたようだ。
「まったく、今や村では“イクセの英雄”って呼ばれてるんですから、もうちょっとしっかりしてくださいよ」
「それはそれはもったいない呼び名。村の名を汚すことはできませんな」
おどけた口調で笑ってみせると、部下は何かを言うのも諦めた様子で、がっくりとうなだれた。
早朝訓練を終え、今度は会議のためにサロンへと向かう。軽く朝食をとる時間もあったが、どうにも食欲すら沸かない。変に何かを口にしようものなら更に容体が悪化する危険も踏まえ、そのままサロンに直行することにした。
「おはようございます、パーシヴァル様!」
「ああ、おはよう」
道すがら、多くの城の人間とすれ違い、挨拶を交わした。朝の見回りや食堂へ向かう騎士、城内の掃除をし始めるメイド、訓練に向かう従騎士や士官候補生――。
こうして見ると、ブラス城で活動をする人間は思いのほか多い。長年ここで生活していたこともあって普段は気に掛けることもなかったが、挨拶ひとつにも体力を消耗する今は、その数の多さを身をもって実感した。
多くの人間によって騎士団が回り、それがゼクセンの支えになっている。一度、村に帰って再び騎士団に戻ってきたときにも感じたことだが、風邪を引くことで、改めて気づかされるとは思いもしなかった。
「朝からパーシヴァル様と挨拶できるなんて、今日は良い日になるわ」
「本当ね。相変わらず涼しげで素敵」
すれ違ったメイドたちの囁き合いが聞こえる。目覚めの頃に比べると症状はぐんと悪化しているような気もするが、どうやら表には出ていないようだ。安堵し、サロンへの道を急いだ。
サロンの扉を開くと、すでに自分を除く他の六騎士たちは全員席に着いていた。部下の言うとおり、全員がしっかりと甲冑を着込んでおり、非常に暑苦しい。
「おはようございます。みなさん暑そうですね」
「そういうお前は涼しそうだな」
書類をうちわ代わりにして煽ぐボルスが、恨めし気にこちらを見る。
「まあ、今日は外出の用事もないしな。別にいいじゃないか」
「俺だってないが、だからって装備を怠るべきじゃないだろう」
「そういう決まりはないじゃないか。そこはもう個人の主義の問題だろう。それに、今日は暑いし」
「結局それか!」
自分と違い、我が戦友は朝から元気だ。怒鳴られることにもはや心地良さすら覚え、笑い返しながら席に着く。
「いつもながら仲がいいな、お前たちは」
右隣に座るレオが、呆れ半分気味に笑った。
「でしょう? そろそろ正式に交際発表したいところなのですが、ボルス卿もなかなか奥手なのか、告白してくれなくて」
「誰が告白なんぞするか!」
「なんだよ、この前、ウエディングドレス姿で告白してくれるって約束したじゃないか」
「するか!!」
「いや、確かにしていたよ。しこたま飲んで酔っ払ってた時に」
「ほ、本当ですか、クリス様!?」
「はい、そこまでです。漫才はそのくらいにして、そろそろ始めますよ」
もうすっかり慣れっこといった様子でサロメが仕切りを入れる。ボルスは今の話題について追及したい気持ちをぐっとこらえ、それを見たクリスはくすくすと笑った。自分の左隣に座るロランはいつものように無表情――ではなく、今日は彼もうっすらと笑んでいた。どうやら、彼の笑いのツボを軽く押さえる何かがあったらしい。
「では、さっそく今日の議題ですが――」
――さて、ここからが山場。乗り切れば、あとは医務室で薬をこっそり貰い、自室にこもって眠っていられる。半日でも寝ていれば、まあ明日はなんとかなるだろう。
「――? サロメ殿、少し待って頂けますか」
サロメが話し始めたのを遮ったのは、ロランだった。
「どうしました、ロラン殿」
「……パーシヴァル殿。風邪でも引きましたか?」
「――え?」
いきなり話を振られ、ぼんやりしつつも七割方は正常に機能していた思考がぱたりと停止した。
「あの、どうして、そんな急に」
「顔色が悪いです」
彼の指摘を受け、他の面々もこぞってこちらを凝視してきた。大の大人五人が身を乗り出して来て、自分の視界のほぼすべてを埋め尽くす。異様な圧迫感に、息が詰まった。
「本当だ」
「大丈夫か?」
「いえ、別に私は何とも」
「ないわけないでしょう。そんな顔で」
言い訳もぴしゃりと跳ねられる。一対五ではあまりに分が悪い。いや、いつもならそれでも上手いこと自分のペースに持って行けていたはずだが、今日はあまりに厳しい。あまりに不意打ち過ぎる。――なぜ、気づかれた? 今朝、あれだけの人と顔を合わせても誰ひとり気づかなかったというのに。
「薬は飲んだんですか」
尋ねてくるサロメの表情は厳しい。まるで、その答えを知っているかのような口ぶりだ。
「……ちょうど部屋に置いてあった薬が切れてまして」
「朝食は?」
「……」
「食べたんですか?」
「あまり食欲が沸かなかったもので……良くなったら食べようかなとは思ってたんですけど……」
バツが悪くなり、目を逸らして逃げを打つ。視界から遠ざけた彼の表情は、その後に吐かれた盛大な溜息で存分に察した。
「とりあえず、マスクくらいしてください。皆に伝染ります」
「……すみません。――ですが、ひとつ聞いてもいいですか」
「なんですか?」
再び、五人の視線が一斉に集まる。その顔は心配そうであったり、やや怒っていたりと様々だ。
「どうしてわかったんですか、私が風邪を引いているって」
率直に問うと、彼らは揃って目を見開いて丸くした。
「……」
それから、やや無言の間が続く。彼らは誰ともなく互いの顔を見合わせ、そののち、再びこちらに目を向けてきた。
「どうしてって」
「見たまんまじゃないか」
何を言っているのかわからない、と言った様子で見つめ返される。
「見たままって、いつもと変わらなかったでしょう? 他の人間にも気づかれなかったし」
「……あのなあ」
レオが荒い溜息を吐き、頭をかきながら答えた。
「もうお前と何年の付き合いだと思っているんだ」
「確かに、お前の考えていることは読み取りにくいときもあるけれど、それでも、なんとなくわかるものだよ」
穏やかに笑って話すクリスに、ロランがゆっくりと頷いた。
「隠していても、ちょっとした変化などすぐにわかります」
「そうですね、少なくともここにいるメンバーには隠しても無駄ですね」
「というか、それで隠してるつもりだったのか?」
「……」
――体が、熱い。恐らく、熱が更に上がってきているのだろう。
思わず、頭を抱えた。今度は頭痛までもよおし始めている。辛い。とても辛い。しかし、それ以上に――満ち足りた何かで倒れてしまいそうだった。
「……愛されているな、俺は」
思わず本音を零して頬を緩めると、五者は一斉に表情を一変させる。
「……何言ってるんだ。気持ち悪いな」
「サロメ、会議は明日にしよう。これは早く戻して寝かせないとダメだ」
「大丈夫ですよ、クリス様。あと少しなら耐えられますから」
「どこが大丈夫なもんか。そんな熱っぽい顔でニヤニヤしやがって」
「いや、本当にだいじょう――」
バタン、と大きな音がした。途端に、視界が真っ暗になる。
「パーシヴァル!」
「おい、大丈夫か!!」
名を呼ばれるが、意識は遠い。もはや現実と夢の境界線も曖昧だった。そのくらい、意識の飛ぶ瞬間は――心地が良かった。
次に目が覚めたときには、既に夕刻になっていた。意識を失って運び込まれたのか、自分が横になっているのは自室のベッドだった。
額には誰かが乗せてくれた濡れタオルがひんやりと熱を冷ましてくれている。
起き上がってみると、朝のような気だるさや皮膚の痛みはない。どうやら、かなり回復したようだ。
ふと目線をずらすと、机の上に今朝までは無かったものが山になって置かれている。籠に詰め込まれた果物、漢方の入った茶葉など、体に良さそうなものが主な物だ。……明らかに本人の好みと思われるスイーツやワインもあるが、置いていく持ち主の姿を想像すると、微笑ましさは増幅するばかりだ。
「……ん?」
よく見ると、ワインボトルの下に小さな紙が二つ折りになって挟まっていることに気付く。取り出して開くと、中には決してきれいとは言えない文字でこう綴られていた。
”いつも不真面目でサボってるんだから、本当に具合が悪いときも休んでろ“
読んだ瞬間に頬が緩み、思わず口許を手で覆っていた。誰にも見られていないとはわかりつつ、今の自分のにやけた顔は隠したい。
――本当に、彼らには参った。完敗だ。全面降伏だ。
世間一般では、自分は要領が良い世渡り上手の曲者で通っていると認識している。これは思い込みでも何でもなく、周囲の話を直に聞いてのものなので、恐らく間違いはない。
それは、自分が生きていく中で身に着けたスキルであり、人間であれば、誰しもがある程度持っているものだ。それがたまたま、自分にはそれなりの才があっただけの話。
悠々として、とらえどころがない――。そう思われて生きることも、まあ悪くはないと思っていた。
――だが、そんな上辺を破った自分の本質を見抜かれているというのは、結構――いや、かなり嬉しいものだ。しかも、それが同じ戦場に立ち、背中を預けたりできる人間であるのなら、尚更の話。こんな嬉しい敗北は一生に一度、あるかないかだろう。
二年前の真の紋章をめぐる戦の中で、自分の立ち位置を勝手に見失い、勝手に城を去った。自分の在り方を見定めようと故郷の村に戻ってみたものの、散々迷った挙句、結局、恥も承知で帰って来たのはこの城だった。はっきりとした理由は説明できない。だが、自分の本能は確かにここに帰りたいと望んでしまった。
その選択が正しかったかどうかは、わかりかねている。今もまだ、答えは出せていない。
各々なりの立派な誇りや信念を抱えている彼らに比べれば、こんな自分はずっとずっと薄っぺらい騎士だろう。そんな彼らと再び「誉れ高き六騎士」と一括りにされて肩を並べるのは、正直に言って恐縮の極みだ。
だが、それでも、自分はこの場所を望んだ。不相応なのに彼らと並んでいたいと思ってしまった。その理由だけは、わかったような気がした。
自分は、自分が思うよりも彼らに愛されていて、自分が思うよりもここに執着している。
――だから、ここにいる。
「戻ってきて良かった――」
噛み締めるように呟いた声が、室内に溶ける。吐く息の熱さにまだ気だるさを覚えながらも、頭の中だけは澄み渡り、背中からベッドに倒れ込んだ。大きく吸ったこもった空気も今は心地よく感じられ、再び深い眠気がやってくる。
意識が遠のいていく中、外で鳴く蝉の声が、うるさいはずなのになぜか耳障り良く感じられた――。
「……熱っぽい」
目が覚めて、体を起こした瞬間に自覚した。額に手を当てて、その温度を確かめる。熱い。触れた掌の面がじわじわ熱に浸食されていくのがわかる。全身も熱く、シーツや衣服に触れる皮膚がぴりぴりとして、独特の痛みを放っている。心なしか、目の周りもぼんやりと火照っているような気がする。
そして、極めつけは真夏だというのに微かに感じるこの寒気。
――間違いない。完全に夏風邪だ。
風邪を引くなど何年振りだろうか。田舎育ちの野生なのか何なのか、昔から風邪の類には滅法強かった。従騎士時代、城の中で風邪が大流行したときも、同じ隊の同期は愚か隊長まで倒れる中、ただひとり元気に別隊の訓練に参加したという伝説まで残すほど、風邪の抵抗力には自信があったのだが。
しかも、ここ最近はそれなりに規則正しい生活を送っていたし、病原菌が付け入る隙はなかったはずだ。よほど強烈な菌に冒された誰かに伝染されでもしたのだろうか。
ふと、昨日顔を合わせた面々を思い返してみるものの、目に見えて具合の悪そうだった者は思い浮かばない。更に深く遡ってみようと思うも、体のだるさゆえか、ふと考えるのが面倒になってくる。大体、伝染した奴を暴いたとて風邪が治るわけでもない。建設的ではないことを認識し、犯人探しは早々に打ち切ることにした。
さて、本当の問題は今日一日をどう過ごすかだ。
正直に体調不良を訴えて部屋で療養するのがベストだが、代わりに仕事を任せる部下を探して引き継ぐのも、それはそれで労力がかかる。しかも、今日は六騎士が揃っての定例会議の予定が入っている。さすがにこれには部下を代理に送り込むことはできない。そんなことをしようものなら、サロメ副団長殿の雷が落ちるのが目に見えている。こういうとき、組織の割と上の方に立つ人間は辛い。
「……ま、いいか。これくらいなら」
ありがたいことに、喉や鼻の異常といった風邪と見抜かれるような症状は出ていない。体の内側は熱に浮かされているが、傍目には気付かれることはないだろう。急ぎで処理しなければならない書類もそう多くはないし、早朝訓練の監督と会議さえ終われば後は楽なものだ。この程度なら、辛抱してやり過ごせるだろう。
「――よし」
思い、ベッドから出ることを拒みたがる体に気合を入れ、着替えをすることにした。
「素振り、はじめー!」
真夏はたとえ早朝であっても暑い。照りつける日差しは強く、既に蝉まで鳴き始めている。今年のゼクセンは、十何年かぶりの猛暑らしい。
だが、例えそんな気候であったとしても、ゼクセンを守る勇猛な新米騎士たちは、フル装備で早朝訓練に臨むことを義務づけられている。騎士たる者、夏の暑さごときに屈することなどあってはならないのだ。
「……パーシヴァル様。今日もまたずいぶんとラフな格好ですね」
素振りをする騎士たちと同じく、しっかりと甲冑を着込んだ部下が、眉間に皺を寄せて苦笑う。その顔は既に汗だくだ。
「そうか? ちゃんと団服は着てるだろう」
「甲冑を身に着けてない時点で充分にラフですよ。あーもう、腕まくりまでしちゃって……。他の六騎士の方は朝からちゃんと甲冑姿でしたよ」
じりじりとした暑さと、それに反比例した寒気に嫌なものを感じつつも、気取られないよう軽く笑って流した。
「はは、こんな暑い日にみんな真面目だなあ」
「あなたが不真面目なだけですよ!」
同じ隊の部下であり、同郷の仲間でもあるこの若い騎士は、表立って口調を崩しはしないものの、ツッコミはなかなかに鋭い。
真夏の炎天下、体調が優れないというのに甲冑姿で訓練の監督をするなど自殺行為もいいところ。多少の迷いはあったものの、普段からあまり鎧をまとわずに城内を歩いていることが幸いし、いつもの不真面目と思われたようだ。
「まったく、今や村では“イクセの英雄”って呼ばれてるんですから、もうちょっとしっかりしてくださいよ」
「それはそれはもったいない呼び名。村の名を汚すことはできませんな」
おどけた口調で笑ってみせると、部下は何かを言うのも諦めた様子で、がっくりとうなだれた。
早朝訓練を終え、今度は会議のためにサロンへと向かう。軽く朝食をとる時間もあったが、どうにも食欲すら沸かない。変に何かを口にしようものなら更に容体が悪化する危険も踏まえ、そのままサロンに直行することにした。
「おはようございます、パーシヴァル様!」
「ああ、おはよう」
道すがら、多くの城の人間とすれ違い、挨拶を交わした。朝の見回りや食堂へ向かう騎士、城内の掃除をし始めるメイド、訓練に向かう従騎士や士官候補生――。
こうして見ると、ブラス城で活動をする人間は思いのほか多い。長年ここで生活していたこともあって普段は気に掛けることもなかったが、挨拶ひとつにも体力を消耗する今は、その数の多さを身をもって実感した。
多くの人間によって騎士団が回り、それがゼクセンの支えになっている。一度、村に帰って再び騎士団に戻ってきたときにも感じたことだが、風邪を引くことで、改めて気づかされるとは思いもしなかった。
「朝からパーシヴァル様と挨拶できるなんて、今日は良い日になるわ」
「本当ね。相変わらず涼しげで素敵」
すれ違ったメイドたちの囁き合いが聞こえる。目覚めの頃に比べると症状はぐんと悪化しているような気もするが、どうやら表には出ていないようだ。安堵し、サロンへの道を急いだ。
サロンの扉を開くと、すでに自分を除く他の六騎士たちは全員席に着いていた。部下の言うとおり、全員がしっかりと甲冑を着込んでおり、非常に暑苦しい。
「おはようございます。みなさん暑そうですね」
「そういうお前は涼しそうだな」
書類をうちわ代わりにして煽ぐボルスが、恨めし気にこちらを見る。
「まあ、今日は外出の用事もないしな。別にいいじゃないか」
「俺だってないが、だからって装備を怠るべきじゃないだろう」
「そういう決まりはないじゃないか。そこはもう個人の主義の問題だろう。それに、今日は暑いし」
「結局それか!」
自分と違い、我が戦友は朝から元気だ。怒鳴られることにもはや心地良さすら覚え、笑い返しながら席に着く。
「いつもながら仲がいいな、お前たちは」
右隣に座るレオが、呆れ半分気味に笑った。
「でしょう? そろそろ正式に交際発表したいところなのですが、ボルス卿もなかなか奥手なのか、告白してくれなくて」
「誰が告白なんぞするか!」
「なんだよ、この前、ウエディングドレス姿で告白してくれるって約束したじゃないか」
「するか!!」
「いや、確かにしていたよ。しこたま飲んで酔っ払ってた時に」
「ほ、本当ですか、クリス様!?」
「はい、そこまでです。漫才はそのくらいにして、そろそろ始めますよ」
もうすっかり慣れっこといった様子でサロメが仕切りを入れる。ボルスは今の話題について追及したい気持ちをぐっとこらえ、それを見たクリスはくすくすと笑った。自分の左隣に座るロランはいつものように無表情――ではなく、今日は彼もうっすらと笑んでいた。どうやら、彼の笑いのツボを軽く押さえる何かがあったらしい。
「では、さっそく今日の議題ですが――」
――さて、ここからが山場。乗り切れば、あとは医務室で薬をこっそり貰い、自室にこもって眠っていられる。半日でも寝ていれば、まあ明日はなんとかなるだろう。
「――? サロメ殿、少し待って頂けますか」
サロメが話し始めたのを遮ったのは、ロランだった。
「どうしました、ロラン殿」
「……パーシヴァル殿。風邪でも引きましたか?」
「――え?」
いきなり話を振られ、ぼんやりしつつも七割方は正常に機能していた思考がぱたりと停止した。
「あの、どうして、そんな急に」
「顔色が悪いです」
彼の指摘を受け、他の面々もこぞってこちらを凝視してきた。大の大人五人が身を乗り出して来て、自分の視界のほぼすべてを埋め尽くす。異様な圧迫感に、息が詰まった。
「本当だ」
「大丈夫か?」
「いえ、別に私は何とも」
「ないわけないでしょう。そんな顔で」
言い訳もぴしゃりと跳ねられる。一対五ではあまりに分が悪い。いや、いつもならそれでも上手いこと自分のペースに持って行けていたはずだが、今日はあまりに厳しい。あまりに不意打ち過ぎる。――なぜ、気づかれた? 今朝、あれだけの人と顔を合わせても誰ひとり気づかなかったというのに。
「薬は飲んだんですか」
尋ねてくるサロメの表情は厳しい。まるで、その答えを知っているかのような口ぶりだ。
「……ちょうど部屋に置いてあった薬が切れてまして」
「朝食は?」
「……」
「食べたんですか?」
「あまり食欲が沸かなかったもので……良くなったら食べようかなとは思ってたんですけど……」
バツが悪くなり、目を逸らして逃げを打つ。視界から遠ざけた彼の表情は、その後に吐かれた盛大な溜息で存分に察した。
「とりあえず、マスクくらいしてください。皆に伝染ります」
「……すみません。――ですが、ひとつ聞いてもいいですか」
「なんですか?」
再び、五人の視線が一斉に集まる。その顔は心配そうであったり、やや怒っていたりと様々だ。
「どうしてわかったんですか、私が風邪を引いているって」
率直に問うと、彼らは揃って目を見開いて丸くした。
「……」
それから、やや無言の間が続く。彼らは誰ともなく互いの顔を見合わせ、そののち、再びこちらに目を向けてきた。
「どうしてって」
「見たまんまじゃないか」
何を言っているのかわからない、と言った様子で見つめ返される。
「見たままって、いつもと変わらなかったでしょう? 他の人間にも気づかれなかったし」
「……あのなあ」
レオが荒い溜息を吐き、頭をかきながら答えた。
「もうお前と何年の付き合いだと思っているんだ」
「確かに、お前の考えていることは読み取りにくいときもあるけれど、それでも、なんとなくわかるものだよ」
穏やかに笑って話すクリスに、ロランがゆっくりと頷いた。
「隠していても、ちょっとした変化などすぐにわかります」
「そうですね、少なくともここにいるメンバーには隠しても無駄ですね」
「というか、それで隠してるつもりだったのか?」
「……」
――体が、熱い。恐らく、熱が更に上がってきているのだろう。
思わず、頭を抱えた。今度は頭痛までもよおし始めている。辛い。とても辛い。しかし、それ以上に――満ち足りた何かで倒れてしまいそうだった。
「……愛されているな、俺は」
思わず本音を零して頬を緩めると、五者は一斉に表情を一変させる。
「……何言ってるんだ。気持ち悪いな」
「サロメ、会議は明日にしよう。これは早く戻して寝かせないとダメだ」
「大丈夫ですよ、クリス様。あと少しなら耐えられますから」
「どこが大丈夫なもんか。そんな熱っぽい顔でニヤニヤしやがって」
「いや、本当にだいじょう――」
バタン、と大きな音がした。途端に、視界が真っ暗になる。
「パーシヴァル!」
「おい、大丈夫か!!」
名を呼ばれるが、意識は遠い。もはや現実と夢の境界線も曖昧だった。そのくらい、意識の飛ぶ瞬間は――心地が良かった。
次に目が覚めたときには、既に夕刻になっていた。意識を失って運び込まれたのか、自分が横になっているのは自室のベッドだった。
額には誰かが乗せてくれた濡れタオルがひんやりと熱を冷ましてくれている。
起き上がってみると、朝のような気だるさや皮膚の痛みはない。どうやら、かなり回復したようだ。
ふと目線をずらすと、机の上に今朝までは無かったものが山になって置かれている。籠に詰め込まれた果物、漢方の入った茶葉など、体に良さそうなものが主な物だ。……明らかに本人の好みと思われるスイーツやワインもあるが、置いていく持ち主の姿を想像すると、微笑ましさは増幅するばかりだ。
「……ん?」
よく見ると、ワインボトルの下に小さな紙が二つ折りになって挟まっていることに気付く。取り出して開くと、中には決してきれいとは言えない文字でこう綴られていた。
”いつも不真面目でサボってるんだから、本当に具合が悪いときも休んでろ“
読んだ瞬間に頬が緩み、思わず口許を手で覆っていた。誰にも見られていないとはわかりつつ、今の自分のにやけた顔は隠したい。
――本当に、彼らには参った。完敗だ。全面降伏だ。
世間一般では、自分は要領が良い世渡り上手の曲者で通っていると認識している。これは思い込みでも何でもなく、周囲の話を直に聞いてのものなので、恐らく間違いはない。
それは、自分が生きていく中で身に着けたスキルであり、人間であれば、誰しもがある程度持っているものだ。それがたまたま、自分にはそれなりの才があっただけの話。
悠々として、とらえどころがない――。そう思われて生きることも、まあ悪くはないと思っていた。
――だが、そんな上辺を破った自分の本質を見抜かれているというのは、結構――いや、かなり嬉しいものだ。しかも、それが同じ戦場に立ち、背中を預けたりできる人間であるのなら、尚更の話。こんな嬉しい敗北は一生に一度、あるかないかだろう。
二年前の真の紋章をめぐる戦の中で、自分の立ち位置を勝手に見失い、勝手に城を去った。自分の在り方を見定めようと故郷の村に戻ってみたものの、散々迷った挙句、結局、恥も承知で帰って来たのはこの城だった。はっきりとした理由は説明できない。だが、自分の本能は確かにここに帰りたいと望んでしまった。
その選択が正しかったかどうかは、わかりかねている。今もまだ、答えは出せていない。
各々なりの立派な誇りや信念を抱えている彼らに比べれば、こんな自分はずっとずっと薄っぺらい騎士だろう。そんな彼らと再び「誉れ高き六騎士」と一括りにされて肩を並べるのは、正直に言って恐縮の極みだ。
だが、それでも、自分はこの場所を望んだ。不相応なのに彼らと並んでいたいと思ってしまった。その理由だけは、わかったような気がした。
自分は、自分が思うよりも彼らに愛されていて、自分が思うよりもここに執着している。
――だから、ここにいる。
「戻ってきて良かった――」
噛み締めるように呟いた声が、室内に溶ける。吐く息の熱さにまだ気だるさを覚えながらも、頭の中だけは澄み渡り、背中からベッドに倒れ込んだ。大きく吸ったこもった空気も今は心地よく感じられ、再び深い眠気がやってくる。
意識が遠のいていく中、外で鳴く蝉の声が、うるさいはずなのになぜか耳障り良く感じられた――。