幻水3(ゼクセン騎士団)
「……え? 軍曹、なんだって?」
ジョー軍曹からかけられた言葉に耳を疑ったヒューゴは、ビュッデヒュッケ城の二階に置かれている目安箱の蓋を開いたところで動きを止め、大きな瞳を見開いて振り向いた。後ろに続いていたジョー軍曹はというと、神妙な面持ちで立ち尽くし、羽毛に包まれたふかふかの腕を組んだ。
「だから、ゼクセンの鉄頭――じゃない、お偉い騎士様にケンカでも売ったのかって聞いてるんだ」
「なんだよいきなり。俺は何もしてないよ」
思わず、少し強めの否定を突き付けていた。それは、ヒューゴがこのビュッデヒュッケ城に移って来てから――いや、かつての英雄の後を継ぎ「炎の英雄」として歩む道を選んだときから、己にきつく戒めていた行いだったからだ。
「俺だって今の自分の立場くらいわかってるさ」
侵略の足を進めるハルモニア神聖国に立ち向かうべく、一時的に敵対していたゼクセンの騎士たちと手を組むことになり、そのリーダーとなった自分は、過去の私情や怨恨を一時的に抑え込まなければならない。ここで小競り合いをしていては、ハルモニアの強大な力にどちらも飲み込まれて終わり。それを避けるためにも、リーダーとして前に立った自分が、協力の姿勢を見せ続けることが必要だ。
「そりゃ、仲良くするのは難しいし、腹が立つこともあるけど、ケンカなんか売らないよ」
「どうだかな」
「信じてくれよ。軍曹だって、最近、城でのケンカだって減ってきてるって言ってたじゃないか」
ゼクセンの騎士と手を組んでからまだ二週間ほどだが、当初はあちこちで勃発していたグラスランドの民とゼクセンの騎士の諍いも、少しずつ減ってきている。その様子から、自分なりに、どうにかあるべき姿を示していられているのかと、ヒューゴは感じていた。
「まあ、それはそうなんだが、しかしなあ」
「なんだよ、どうしてそんな風に思うのさ」
あまりに認めてくれないジョー軍曹に、ヒューゴはいささか憤慨した思いで問い返す。
すると、ジョー軍曹は右の手羽で額のあたりを軽く撫でながら、少し呆れた声で返してきた。
「少し前から、六騎士のデカいおっさんに見られているのに気づかなかったのか?」
「――え?」
まったく予想だにしなかった言葉に、ヒューゴは言葉を失った。
「……デカいおっさんって、俺たちをゼクセで追い回してきた騎士のひとりのこと?」
「そうだ。誉れ高き六騎士のレオ――だったか。数日前からメシを食べてるときも、訓練場で稽古をしていたときも、風呂で一緒になったときも、お前、ずっと睨まれてたんだぞ」
「……全然知らなかった」
本当に、まったくそんな視線になど気づいていなかった。それだけ、日々の軍議や何やらに追われて、あたりの気配に鈍感になっていたのかもしれない。確かに、この戦いが始まる前の野を駆けまわって狩りを楽しんでいた頃とは違い、今は頭を使うことが多い。軍師のシーザーや母のルシアたちが繰り広げる論議についていくのにも精一杯だ。動物が草の根を踏む音を聴き逃さない感性もすっかり萎えてしまっているのを実感し、少し落ち込んでしまう。
「……だけど、俺、何もしてないよ」
「本当かあ?」
「本当さ! 風の精霊に誓って何もしてない!」
前のめりになり、ジョー軍曹にぐいっと詰め寄って宣言する。
その視線を合わせること数秒。ジョー軍曹はふう、と軽めの息を吐き、手羽を腰に当てて頷いた。
「まあ、風の精霊にまで誓うなら信じるとするか。――で、今日の目安箱の様子はどうだ?」
言いながら、ジョー軍曹は身を乗り出し、ヒューゴが開けた目安箱の中身を覗き込む。目安箱はこの城の城主のトーマスの発案で設置された、この城に集う人々が炎の英雄に向けて自由に手紙を投書する箱である。本来は要望や意見を取り込む目的のものではあるのだが、中には励ましの手紙や意味不明なメッセージまで多岐にわたり、ヒューゴとジョー軍曹のひそやかな楽しみになっている。
「なんだよ、軍曹が遮ってきたんだろ」
「まあまあ、気にするなって」
「まったく、調子がいいんだから」
ぼやきながら、ジョー軍曹の顔を払いのけて目安箱に手を差し込むと、複数の紙の感触が指先を掠めた。
「えーと、今日は二通か。まずはこの前お城に来たビッキー……あれ、宛先がトーマスさんになってる。あとで届けてあげよう。で、もうひとつが……」
もう一枚の二つ折りにされた手紙を開き、ヒューゴは硬直した。
「ん?どうしたヒューゴ」
息をするのも少し忘れかけていたヒューゴは、ジョー軍曹に呼びかけられてようやく時間を取り戻し、ゆっくりと手紙に綴られた文章を読み上げた。
「『俺の字は読むのに苦労すると思う。申し訳ない。――レオ』」
手紙には、そのようにだけ、記されていた。続く文章は何もない。
「「――レオ??」」
ジョー軍曹と顔を見合わせ、意図せずに声がそろう。
この「レオ」という人は、つい先ほどまで話題に出していた、自分を睨みつけていたというレオその人なのだろうか。だとしたら、あまりに手紙の内容とそれまでの様子が重ならない。もちろん、ゼクセで自分を追いかけていたときの、鬼のような形相ともかけ離れたものだ。
「誰か呼んだか?」
「うわ!!」
後ろから声をかけられ、ぎょっとして声を上げてしまう。
慌てて振り向いた先には、ゼクセン騎士団の誉れ高き六騎士、レオ・ガランその人が佇んでいた。
ヒューゴよりもはるかに高い上背に逞しい体、そして、身にまとう銀の甲冑は、近くで見るとそのどっしりとした存在を実感させる。ゼクセン騎士相手に怯むわけではないが、威圧感は相当なものがあった。
「レ、レオ――さん」
「む、箱の手紙を読んだのか」
ヒューゴの持つ手紙を目に留めたレオが尋ねる。
「あ、ええと、はい」
あまりに突然の顔合わせに言葉がうまく紡げず、もごもごと答えると、レオはうっすらと苦笑を浮かべ、頭をかいた。
「すまんな。何か気の利いたことでも書いてみようと思ったんだが、あまりに字が汚くて」
それで、この手紙の送り主の「レオ」が本当にこの眼前に立つ「レオ」で間違いないことが確定した。
ヒューゴは困惑し、悩んだ。それは初めてゼクセン騎士から手紙を貰ったせいでも、レオの威圧感のせいでもない。――「字が汚くて申し訳ない」と詫びる年長の大人に対し、どのような言葉をかけるべきか、正解がわからなかったからだ。
それでも何かしらの言葉は返さなければいけない。ヒューゴは悩み、悩みぬいた末に、言葉を絞り出した。
「……えーと、確かにちょっと変わった字だけど……その、ちゃんと読めますよ」
「……そうか?」
少し間を持たせた問いに、ヒューゴはこくこくと頷く。実際、字は確かにところどころにクセがあるが、読めないまでではない。それならば、ルルの字の方がよっぽど汚かった。
戦場に散った友を思い出し、ヒューゴは少しうつむいた。すると、その上からほっと安堵したような太い声が降ってきた。
「ふむ、ならば助かる。また、何か思いつくことがあれば入れてもいいか?」
その言葉にはっと顔を上げると、レオは先ほどの苦笑とは異なる、ゆったりとした笑みを浮かべていた。それは、少し前に自分を人質としてとらえようとしていた人間の顔とはとても思えない、やわらかなものだった。
「は、はい。もし良かったら……」
「うむ。ではまたな。色々大変だろうが、礼儀のなっていないうちの騎士がいれば、俺かサロメ殿にでも言ってくれ。しっかり言い聞かせよう」
「あ……ありがとうございます」
少し気の抜けたヒューゴの礼に、レオはひとつ大きく頷いて、城の階下に続く階段に向かって歩き去って行った。
その場に、静寂が舞い戻る。
ヒューゴは、並んで立ち尽くすジョー軍曹に、じっと視線を移した。
「……軍曹の早とちり」
「なんだ、お前を敵視してたわけじゃなくて気にかけてたのか。……しかし、不思議なもんだな」
「本当だよ。なんだか、ジンバやビッチャムに励まされたときみたいな気持ちだ」
素直に心境を告げると、ジョー軍曹は「確かに、似ているかもな」と答え、頷いた。
ヒューゴは振り返り、空っぽになった目安箱の中身を覗き込む。
そして、うっすらと笑んで、つぶやいた。
「次の手紙、楽しみだな」
ジョー軍曹からかけられた言葉に耳を疑ったヒューゴは、ビュッデヒュッケ城の二階に置かれている目安箱の蓋を開いたところで動きを止め、大きな瞳を見開いて振り向いた。後ろに続いていたジョー軍曹はというと、神妙な面持ちで立ち尽くし、羽毛に包まれたふかふかの腕を組んだ。
「だから、ゼクセンの鉄頭――じゃない、お偉い騎士様にケンカでも売ったのかって聞いてるんだ」
「なんだよいきなり。俺は何もしてないよ」
思わず、少し強めの否定を突き付けていた。それは、ヒューゴがこのビュッデヒュッケ城に移って来てから――いや、かつての英雄の後を継ぎ「炎の英雄」として歩む道を選んだときから、己にきつく戒めていた行いだったからだ。
「俺だって今の自分の立場くらいわかってるさ」
侵略の足を進めるハルモニア神聖国に立ち向かうべく、一時的に敵対していたゼクセンの騎士たちと手を組むことになり、そのリーダーとなった自分は、過去の私情や怨恨を一時的に抑え込まなければならない。ここで小競り合いをしていては、ハルモニアの強大な力にどちらも飲み込まれて終わり。それを避けるためにも、リーダーとして前に立った自分が、協力の姿勢を見せ続けることが必要だ。
「そりゃ、仲良くするのは難しいし、腹が立つこともあるけど、ケンカなんか売らないよ」
「どうだかな」
「信じてくれよ。軍曹だって、最近、城でのケンカだって減ってきてるって言ってたじゃないか」
ゼクセンの騎士と手を組んでからまだ二週間ほどだが、当初はあちこちで勃発していたグラスランドの民とゼクセンの騎士の諍いも、少しずつ減ってきている。その様子から、自分なりに、どうにかあるべき姿を示していられているのかと、ヒューゴは感じていた。
「まあ、それはそうなんだが、しかしなあ」
「なんだよ、どうしてそんな風に思うのさ」
あまりに認めてくれないジョー軍曹に、ヒューゴはいささか憤慨した思いで問い返す。
すると、ジョー軍曹は右の手羽で額のあたりを軽く撫でながら、少し呆れた声で返してきた。
「少し前から、六騎士のデカいおっさんに見られているのに気づかなかったのか?」
「――え?」
まったく予想だにしなかった言葉に、ヒューゴは言葉を失った。
「……デカいおっさんって、俺たちをゼクセで追い回してきた騎士のひとりのこと?」
「そうだ。誉れ高き六騎士のレオ――だったか。数日前からメシを食べてるときも、訓練場で稽古をしていたときも、風呂で一緒になったときも、お前、ずっと睨まれてたんだぞ」
「……全然知らなかった」
本当に、まったくそんな視線になど気づいていなかった。それだけ、日々の軍議や何やらに追われて、あたりの気配に鈍感になっていたのかもしれない。確かに、この戦いが始まる前の野を駆けまわって狩りを楽しんでいた頃とは違い、今は頭を使うことが多い。軍師のシーザーや母のルシアたちが繰り広げる論議についていくのにも精一杯だ。動物が草の根を踏む音を聴き逃さない感性もすっかり萎えてしまっているのを実感し、少し落ち込んでしまう。
「……だけど、俺、何もしてないよ」
「本当かあ?」
「本当さ! 風の精霊に誓って何もしてない!」
前のめりになり、ジョー軍曹にぐいっと詰め寄って宣言する。
その視線を合わせること数秒。ジョー軍曹はふう、と軽めの息を吐き、手羽を腰に当てて頷いた。
「まあ、風の精霊にまで誓うなら信じるとするか。――で、今日の目安箱の様子はどうだ?」
言いながら、ジョー軍曹は身を乗り出し、ヒューゴが開けた目安箱の中身を覗き込む。目安箱はこの城の城主のトーマスの発案で設置された、この城に集う人々が炎の英雄に向けて自由に手紙を投書する箱である。本来は要望や意見を取り込む目的のものではあるのだが、中には励ましの手紙や意味不明なメッセージまで多岐にわたり、ヒューゴとジョー軍曹のひそやかな楽しみになっている。
「なんだよ、軍曹が遮ってきたんだろ」
「まあまあ、気にするなって」
「まったく、調子がいいんだから」
ぼやきながら、ジョー軍曹の顔を払いのけて目安箱に手を差し込むと、複数の紙の感触が指先を掠めた。
「えーと、今日は二通か。まずはこの前お城に来たビッキー……あれ、宛先がトーマスさんになってる。あとで届けてあげよう。で、もうひとつが……」
もう一枚の二つ折りにされた手紙を開き、ヒューゴは硬直した。
「ん?どうしたヒューゴ」
息をするのも少し忘れかけていたヒューゴは、ジョー軍曹に呼びかけられてようやく時間を取り戻し、ゆっくりと手紙に綴られた文章を読み上げた。
「『俺の字は読むのに苦労すると思う。申し訳ない。――レオ』」
手紙には、そのようにだけ、記されていた。続く文章は何もない。
「「――レオ??」」
ジョー軍曹と顔を見合わせ、意図せずに声がそろう。
この「レオ」という人は、つい先ほどまで話題に出していた、自分を睨みつけていたというレオその人なのだろうか。だとしたら、あまりに手紙の内容とそれまでの様子が重ならない。もちろん、ゼクセで自分を追いかけていたときの、鬼のような形相ともかけ離れたものだ。
「誰か呼んだか?」
「うわ!!」
後ろから声をかけられ、ぎょっとして声を上げてしまう。
慌てて振り向いた先には、ゼクセン騎士団の誉れ高き六騎士、レオ・ガランその人が佇んでいた。
ヒューゴよりもはるかに高い上背に逞しい体、そして、身にまとう銀の甲冑は、近くで見るとそのどっしりとした存在を実感させる。ゼクセン騎士相手に怯むわけではないが、威圧感は相当なものがあった。
「レ、レオ――さん」
「む、箱の手紙を読んだのか」
ヒューゴの持つ手紙を目に留めたレオが尋ねる。
「あ、ええと、はい」
あまりに突然の顔合わせに言葉がうまく紡げず、もごもごと答えると、レオはうっすらと苦笑を浮かべ、頭をかいた。
「すまんな。何か気の利いたことでも書いてみようと思ったんだが、あまりに字が汚くて」
それで、この手紙の送り主の「レオ」が本当にこの眼前に立つ「レオ」で間違いないことが確定した。
ヒューゴは困惑し、悩んだ。それは初めてゼクセン騎士から手紙を貰ったせいでも、レオの威圧感のせいでもない。――「字が汚くて申し訳ない」と詫びる年長の大人に対し、どのような言葉をかけるべきか、正解がわからなかったからだ。
それでも何かしらの言葉は返さなければいけない。ヒューゴは悩み、悩みぬいた末に、言葉を絞り出した。
「……えーと、確かにちょっと変わった字だけど……その、ちゃんと読めますよ」
「……そうか?」
少し間を持たせた問いに、ヒューゴはこくこくと頷く。実際、字は確かにところどころにクセがあるが、読めないまでではない。それならば、ルルの字の方がよっぽど汚かった。
戦場に散った友を思い出し、ヒューゴは少しうつむいた。すると、その上からほっと安堵したような太い声が降ってきた。
「ふむ、ならば助かる。また、何か思いつくことがあれば入れてもいいか?」
その言葉にはっと顔を上げると、レオは先ほどの苦笑とは異なる、ゆったりとした笑みを浮かべていた。それは、少し前に自分を人質としてとらえようとしていた人間の顔とはとても思えない、やわらかなものだった。
「は、はい。もし良かったら……」
「うむ。ではまたな。色々大変だろうが、礼儀のなっていないうちの騎士がいれば、俺かサロメ殿にでも言ってくれ。しっかり言い聞かせよう」
「あ……ありがとうございます」
少し気の抜けたヒューゴの礼に、レオはひとつ大きく頷いて、城の階下に続く階段に向かって歩き去って行った。
その場に、静寂が舞い戻る。
ヒューゴは、並んで立ち尽くすジョー軍曹に、じっと視線を移した。
「……軍曹の早とちり」
「なんだ、お前を敵視してたわけじゃなくて気にかけてたのか。……しかし、不思議なもんだな」
「本当だよ。なんだか、ジンバやビッチャムに励まされたときみたいな気持ちだ」
素直に心境を告げると、ジョー軍曹は「確かに、似ているかもな」と答え、頷いた。
ヒューゴは振り返り、空っぽになった目安箱の中身を覗き込む。
そして、うっすらと笑んで、つぶやいた。
「次の手紙、楽しみだな」