幻水3(ゼクセン騎士団)
キュイイイイインンン!!
窓越しにでも強烈に響く音に、思わずびくりと体を竦め、滑らせていた羽根ペンの手を止める。
かけていた椅子ごと振り向いて背後にある窓を見やると、目線よりも少し上のあたりに位置する空を悠々と旋回する巨大な生物が目に留まった。固い鱗に身を包む、白色の体躯。先日トラン共和国の竜洞騎士団からやってきた竜騎士フッチの相棒、ブライトである。
竜を目にするのは初めてだった。もちろん、鳴き声を耳にするのも初めてで、まだ耳慣れない。カラヤクランのヒューゴが相棒とするグリフォンのフーバーの鳴き声にはようやく慣れてきたところだが、ブライトの方はもう少し時間を要しそうだ。
体を窓から机に向き直らせたゼクセン騎士団副団長、サロメ・ハラスは手にしていたペンを置き、深めの息を吐く。
グラスランドのシックスクランとゼクセン騎士団が一時的に手を結び、「炎の運び手」として両者の中間地に位置するビュッデヒュッケ城を拠点に構えて二週間。敵対するハルモニア神聖国の出方を窺う現状はとても戦時とは思えないほど、この城の空気は安穏としている。グラスランド氏族とゼクセン騎士の些細な諍いは頻出しているが、それも日に日に落ち着きを見せ、共闘の意志を固めつつある状況だ。
戦いの前で空気も悪くなく、現状は穏やかな日々が続いている。――しかし、自分はその中で緊張を緩めることができずにいる。
グラスランド氏族と手を合わせた中、今の自分の役目はハルモニアの状況を探りつつ、それぞれの首脳と弁を交わし、次なる策の方針を固めることが主だ。戦の策はかのシルバーバーグの家系に通ずるシーザーが指揮を執っているが、戦い以外の工面や調整は各首脳が担っている。リザードクラン新族長のデュパやカラヤクラン族長ルシアはいずれも理性的な人物で、一時的に互いに向けた剣を置き、建設的な会話はできているが、それでも双方の文化の違いは大きい。互いの常識にないものはなかなかすぐには受け入れられないのも事実で、相手の言い分を認められずに空気が淀むことも少なくない。更に会議の中で疲労も溜まれば、抑え込んでいた感情は顔や瞳に漏れ出てしまう。険悪な空気の中「大勢の同胞を死に追いやった斃すべき軍師」と敵意を肌で感じたことは一度や二度ではない。自分とて「仲間を葬った蛮族」として見てしまったこともある。
お互い様ではあるが、そうした敵意に触れる度に痛感し、身を引き締めてしまうのだ。いつ、この地で己の背にナイフを突き立てられてもおかしくはない――と。
ゼクセン騎士団の副団長としての務めは、決してきれいなものばかりではない。この寄せ集めの人々が集まるビュッデヒュッケ城において、自分に殺意を抱く者はごまんといる。穏やかな日差しが窓から差し込むこの部屋の中でひとり仕事をするときでさえ、どうにも気を抜くことは難しい。この城に集う人間の中には隠密に長けた者もおり、いつどこで命を狙っていてもおかしくはない。騎士として死を恐れているわけではないが、今、ここで斃れるわけにはいかない。それほどに、自分がゼクセンを守る者として握っているものは多く、大きくなってしまった。客観的に俯瞰して見てもそう認めざるを得ないがゆえに、常に神経を張り詰めずにはいられないのだ。
そして、そのように思う自分にも微かに嫌悪して、気が重くなってしまう。――ずいぶん、疲れているようだ。
「――!」
机の右手側に位置する扉が、きぃ、と静かな音を立てて開き、全身に緊張が走る。何も気配を感じなかった。足音も聞こえなかった。油断していた。気を張り過ぎるがあまり察知できなかったのか。とにかく、扉を開けた者の気配は微塵にも感じられず――
「……?」
――人影も、ない。扉は小さな子供が通れるかどうか程度まで開いているが、誰も姿を現さない。扉だけを開けて影に隠れているのか? しかし、急襲を狙うならばそうする意図がわからない。
「……どなたです?」
恐る恐る、問いかける。しかし、返事はない。
思わず、息を呑む。扉の先にいる者と、見えない駆け引きをしているような。そんな緊迫した感覚に、背筋が痺れた。
「……なんのご用ですか? 中に入ったらどうです」
やはり、返事はない。代わりに、半端に開いていた扉がゆるりと動き、大人が通れるほどにまで開いた。
扉の先に見えるのは、誰もいない廊下の壁。しかし、目線の下に、のそっと動く茶色い影が見えた。
「……クゥゥゥゥゥゥゥゥ」
「……コロク?」
明るい茶の毛色と、首に巻いた緑の風呂敷、そして、見る者を脱力させるまったりとした鳴き声。扉の先から部屋に入ってきたのは、この城の飼い犬のコロクだった。守備隊長のセシル曰く「門番であり番犬」とのことだが、客人が来ようとも吠える気配はなく、その役割はまったく果たせていない。住人たちの癒しになっていることは間違いないが、首輪もつけず放し飼いにしておくのはいかがなものかと気になっていた存在である。
「……クゥゥゥゥゥゥゥゥ」
現に、こうして城内をうろついて、勝手に部屋に入って来てしまっている。そんな大らかな城など聞いたことがない。ブラス城も城下には自由に歩き回っている犬や猫がいるが、さすがに城の中には入ってきていない。
「……クゥゥゥ?」
やはり、放し飼いにするのはいささか問題だ。トーマス殿との次の打ち合わせの際には、提言をしなければ。他にヒューゴが拾ってきた色違いの犬たちも同様だ。クリス様も珍しがって散歩に連れて行きたがる始末。取り締まらねば。
「……クゥ?」
「……」
気の抜ける鳴き声とこちらをじっと見据えるつぶらな瞳。しばし対峙するも、その脱力した存在感に、ふっと肩の力が抜けてしまう。浅く腰かけていた椅子にだらりと背を預け、全身の力を抜く。口許は、思わず緩んで笑みを象っていた。
「……気を張ったとて、何も生まれない、か」
この城に自分を憎む者は大勢いるのは事実。できるものなら殺したいと思っている人間がいることも事実。だが、一時的ながら休戦を約束している今、その敵意に応じるように張り詰めたとて、何が変わるのだろう。言葉なき緊迫はいつまでも解れず、いざという窮地に手を合わせることもできなくなってしまう。それは、憎み、敵意を向けることとなんら変わらないではないか。
「……少し、休憩しますか」
脱力した体に少しばかりの力を込めて、立ち上がる。その体は先ほどよりも軽く、それでいて心地よい感覚が宿っている。
「クゥ?」
「お前にも新しい骨を出しましょう。確か、先日の仕入れの荷の中に入っていたはず」
扉に向かって歩みを進めると、コロクもその身を返し、後に続く。呑気な犬ではあるが、どちらかと言えば利口なのは否定できない。
「ところで、どうやって扉を? しっかりと締めきっていたはずだが……」
廊下に出て、足元に佇むコロクを見下ろす。しかし、答えが返ってくることは当然なく。
「クゥゥゥゥゥゥゥ」
気抜けする鳴き声が廊下に力なく響くばかり。
「……まあ、いいでしょう。解明は今後ということで」
深く考えることをやめ、サロメは自分にあてがわれた扉を静かに閉じた。
――キュイイイイインンン!!
今も城の上空を旋回するブライトの遠吠えが、扉すら突き抜けて響く。
しかし、サロメは驚くどころかその鳴き声を気にかけることもなく、同じ歩調で歩くコロクに慈愛に近い眼差しを向け、柔らかな笑みを浮かべていた。
窓越しにでも強烈に響く音に、思わずびくりと体を竦め、滑らせていた羽根ペンの手を止める。
かけていた椅子ごと振り向いて背後にある窓を見やると、目線よりも少し上のあたりに位置する空を悠々と旋回する巨大な生物が目に留まった。固い鱗に身を包む、白色の体躯。先日トラン共和国の竜洞騎士団からやってきた竜騎士フッチの相棒、ブライトである。
竜を目にするのは初めてだった。もちろん、鳴き声を耳にするのも初めてで、まだ耳慣れない。カラヤクランのヒューゴが相棒とするグリフォンのフーバーの鳴き声にはようやく慣れてきたところだが、ブライトの方はもう少し時間を要しそうだ。
体を窓から机に向き直らせたゼクセン騎士団副団長、サロメ・ハラスは手にしていたペンを置き、深めの息を吐く。
グラスランドのシックスクランとゼクセン騎士団が一時的に手を結び、「炎の運び手」として両者の中間地に位置するビュッデヒュッケ城を拠点に構えて二週間。敵対するハルモニア神聖国の出方を窺う現状はとても戦時とは思えないほど、この城の空気は安穏としている。グラスランド氏族とゼクセン騎士の些細な諍いは頻出しているが、それも日に日に落ち着きを見せ、共闘の意志を固めつつある状況だ。
戦いの前で空気も悪くなく、現状は穏やかな日々が続いている。――しかし、自分はその中で緊張を緩めることができずにいる。
グラスランド氏族と手を合わせた中、今の自分の役目はハルモニアの状況を探りつつ、それぞれの首脳と弁を交わし、次なる策の方針を固めることが主だ。戦の策はかのシルバーバーグの家系に通ずるシーザーが指揮を執っているが、戦い以外の工面や調整は各首脳が担っている。リザードクラン新族長のデュパやカラヤクラン族長ルシアはいずれも理性的な人物で、一時的に互いに向けた剣を置き、建設的な会話はできているが、それでも双方の文化の違いは大きい。互いの常識にないものはなかなかすぐには受け入れられないのも事実で、相手の言い分を認められずに空気が淀むことも少なくない。更に会議の中で疲労も溜まれば、抑え込んでいた感情は顔や瞳に漏れ出てしまう。険悪な空気の中「大勢の同胞を死に追いやった斃すべき軍師」と敵意を肌で感じたことは一度や二度ではない。自分とて「仲間を葬った蛮族」として見てしまったこともある。
お互い様ではあるが、そうした敵意に触れる度に痛感し、身を引き締めてしまうのだ。いつ、この地で己の背にナイフを突き立てられてもおかしくはない――と。
ゼクセン騎士団の副団長としての務めは、決してきれいなものばかりではない。この寄せ集めの人々が集まるビュッデヒュッケ城において、自分に殺意を抱く者はごまんといる。穏やかな日差しが窓から差し込むこの部屋の中でひとり仕事をするときでさえ、どうにも気を抜くことは難しい。この城に集う人間の中には隠密に長けた者もおり、いつどこで命を狙っていてもおかしくはない。騎士として死を恐れているわけではないが、今、ここで斃れるわけにはいかない。それほどに、自分がゼクセンを守る者として握っているものは多く、大きくなってしまった。客観的に俯瞰して見てもそう認めざるを得ないがゆえに、常に神経を張り詰めずにはいられないのだ。
そして、そのように思う自分にも微かに嫌悪して、気が重くなってしまう。――ずいぶん、疲れているようだ。
「――!」
机の右手側に位置する扉が、きぃ、と静かな音を立てて開き、全身に緊張が走る。何も気配を感じなかった。足音も聞こえなかった。油断していた。気を張り過ぎるがあまり察知できなかったのか。とにかく、扉を開けた者の気配は微塵にも感じられず――
「……?」
――人影も、ない。扉は小さな子供が通れるかどうか程度まで開いているが、誰も姿を現さない。扉だけを開けて影に隠れているのか? しかし、急襲を狙うならばそうする意図がわからない。
「……どなたです?」
恐る恐る、問いかける。しかし、返事はない。
思わず、息を呑む。扉の先にいる者と、見えない駆け引きをしているような。そんな緊迫した感覚に、背筋が痺れた。
「……なんのご用ですか? 中に入ったらどうです」
やはり、返事はない。代わりに、半端に開いていた扉がゆるりと動き、大人が通れるほどにまで開いた。
扉の先に見えるのは、誰もいない廊下の壁。しかし、目線の下に、のそっと動く茶色い影が見えた。
「……クゥゥゥゥゥゥゥゥ」
「……コロク?」
明るい茶の毛色と、首に巻いた緑の風呂敷、そして、見る者を脱力させるまったりとした鳴き声。扉の先から部屋に入ってきたのは、この城の飼い犬のコロクだった。守備隊長のセシル曰く「門番であり番犬」とのことだが、客人が来ようとも吠える気配はなく、その役割はまったく果たせていない。住人たちの癒しになっていることは間違いないが、首輪もつけず放し飼いにしておくのはいかがなものかと気になっていた存在である。
「……クゥゥゥゥゥゥゥゥ」
現に、こうして城内をうろついて、勝手に部屋に入って来てしまっている。そんな大らかな城など聞いたことがない。ブラス城も城下には自由に歩き回っている犬や猫がいるが、さすがに城の中には入ってきていない。
「……クゥゥゥ?」
やはり、放し飼いにするのはいささか問題だ。トーマス殿との次の打ち合わせの際には、提言をしなければ。他にヒューゴが拾ってきた色違いの犬たちも同様だ。クリス様も珍しがって散歩に連れて行きたがる始末。取り締まらねば。
「……クゥ?」
「……」
気の抜ける鳴き声とこちらをじっと見据えるつぶらな瞳。しばし対峙するも、その脱力した存在感に、ふっと肩の力が抜けてしまう。浅く腰かけていた椅子にだらりと背を預け、全身の力を抜く。口許は、思わず緩んで笑みを象っていた。
「……気を張ったとて、何も生まれない、か」
この城に自分を憎む者は大勢いるのは事実。できるものなら殺したいと思っている人間がいることも事実。だが、一時的ながら休戦を約束している今、その敵意に応じるように張り詰めたとて、何が変わるのだろう。言葉なき緊迫はいつまでも解れず、いざという窮地に手を合わせることもできなくなってしまう。それは、憎み、敵意を向けることとなんら変わらないではないか。
「……少し、休憩しますか」
脱力した体に少しばかりの力を込めて、立ち上がる。その体は先ほどよりも軽く、それでいて心地よい感覚が宿っている。
「クゥ?」
「お前にも新しい骨を出しましょう。確か、先日の仕入れの荷の中に入っていたはず」
扉に向かって歩みを進めると、コロクもその身を返し、後に続く。呑気な犬ではあるが、どちらかと言えば利口なのは否定できない。
「ところで、どうやって扉を? しっかりと締めきっていたはずだが……」
廊下に出て、足元に佇むコロクを見下ろす。しかし、答えが返ってくることは当然なく。
「クゥゥゥゥゥゥゥ」
気抜けする鳴き声が廊下に力なく響くばかり。
「……まあ、いいでしょう。解明は今後ということで」
深く考えることをやめ、サロメは自分にあてがわれた扉を静かに閉じた。
――キュイイイイインンン!!
今も城の上空を旋回するブライトの遠吠えが、扉すら突き抜けて響く。
しかし、サロメは驚くどころかその鳴き声を気にかけることもなく、同じ歩調で歩くコロクに慈愛に近い眼差しを向け、柔らかな笑みを浮かべていた。