幻水3(ゼクセン騎士団)
――ゼクセン連邦が十数年ぶりの猛暑を記録した夏。
「……暑い!!」
ブラス城の日陰にあたるサロンで体を休めていたボルスは、怒声と共にグラスに入った水を一気に飲み干し、ソファに身を預けてぐったりと項垂れた。
「暑いですね」
テーブルを挟んで向かい合わせに座り、書類らしきものに目をやるロランも同調するが、その声は涼やかだ。
「……ロラン、実はそんなに暑くないだろう」
むすっとした面持ちでボルスが問うと、ロランはようやく面を上げ、苦笑気味に頷いた。
「暑いですが、まだこの程度であればなんとか」
「エルフ族の体質ってやつか? 羨ましい……。しかし、今年の暑さは異常だな……はぁー……」
苛立ちを隠せない様子でがしがしと頭をかくボルスの額からは汗が伝い、相当に暑さにやられていることが窺える。
「……ボルス殿、お言葉ですが」
そんな烈火の剣士に、ロランは丁寧な前置きをしつつ、少し逡巡するような間を置いてから――
「暑いなら、鎧を脱いでも良いのでは?」
言い放つと、ボルスはきょとんとして大きな瞳を見開いた。そう、彼は猛暑の中、ゼクセン騎士団のトレードマークといえる銀色の重厚な甲冑をフル装備で身に着けているのだ。甲冑の重みはもちろん、その下には夏用といえども幾重にも重ね着をしており、とてもこの暑さの中で耐えられる格好ではない。
かくいう弓兵のロランですら、今日は一般の兵に比べると軽装の鎧をはずし、風通しの良いシャツの上から団服を羽織って過ごしている。
「さすがに今日は無理でしょう。今は平時ですし、脱いでも誰も咎めないかと」
「それはダメだ。いつ何時、敵襲があるかわからないんだからな」
頑として譲らない、といった様子で腕を組んでそう返すボルスだが、既に顔は紅潮しており、痩せ我慢をしているようにしか見えない。
「ゼクセン騎士たるもの、この程度で屈してたまるものか」
「ですが、暑いのは暑いんでしょう? それなら――」
「やっぱりここが一番涼めそうだな」
会話を遮るようなかたちでドアを開け、サロンに入ってきたのはパーシヴァルだった。
入室してソファまでやってくるパーシヴァルに、ボルスは怒気をはらんだ目つきで睨みつける。
「お前、鎧はどうした」
当然ながら、パーシヴァルも甲冑は身に着けていなかった。それどころか、もはや団服すら身に着けず涼し気なシャツ一枚といういでたちだ。
「なんだ、その休日みたいな格好は」
「いや、いつもなら『追剥ぎにあって』とでも返すところだが、さすがに今日はきついだろう」
確かに、いつもならばここでひとつゼクセン名物烈火と疾風の漫才めいたやりとりが始まるところだが、今日ばかりはこの猛暑の中で甲冑姿でいるボルスの方が異常だ。
「他のお堅い真面目な兵たちも音を上げて脱いでいたぞ」
引き気味の視線を向けながら言葉をかけるパーシヴァルに、ボルスはふん、と鼻をならした。
「それは奴らが軟弱者なだけだ」
「この暑さはそういうレベルを超していると思うんだが。お前もそのままだと倒れるぞ」
「問題ないさ、これしきのことくらい耐えられなくて誰がゼクセンの盾になれる?」
茹だった顔でそう言い放ち、ガラスの瓶からグラスに注いだ水を一気飲みするボルスに、ロランとパーシヴァルはどちらともなく顔を見合わせやれやれと息を吐く。
「ああ、お前たちもここに来ていたか。ちゃんと暑さを凌いでくれていて良かったよ」
続いてサロンにやってきたのは、クリスとサロメだった。
「クリス様!」
不機嫌そのもの、といったボルスの声が百八十度切り替わる。条件反射で腰を上げ、嬉々としてふたりに向き合ったボルスだったが――
「……って、ええ!?」
その顔は長くは持たず、驚愕の色に変わる。
「ん? どうした、ボルス」
「い、いえ、あの……クリス様、鎧は……?」
そう、もちろん、クリスも甲冑は身に着けていなかったのだ。そのすぐ斜め後ろに立つサロメも同様で、ふたりともパーシヴァルほどの着崩しではないが軽装姿で佇んでいる。
「ああ、さすがに今日の暑さではやられてしまうのでな……。その、お前は頑張っているな……大丈夫か?」
何とも言えない表情で、なんとか甲冑姿のボルスに対して気を損ねない言葉を選ぶクリスに、ボルスは気の抜けたソーダ水のように呆けている。
「いえ、敵襲に備えてと思って……」
「暑さにやられてしまっては敵襲にも対応できないでしょう? 兵たちにも今日は訓練を切り上げて涼むように伝えましたし、ボルス殿も無理はなさらず」
とどめはサロメの一閃だった。完膚なきまでにやられたボルスはしばし呆然としていたかと思うと、突如、何かが切り替わったかのように光のような甲冑を外しにかかった。――やはり、限界が近かったらしい。
「なんなんだこの暑さは! 無理に決まってるだろう!」
着替え終わったボルスの真なる本音に、その場の全員が氷水を飲みながらため息を吐いた。サロン内は多少なりとも日陰にはなるが、それでも暑いものは暑い。サロメですら、思わず手にしていた書類をうちわ代わりにしてしまうほどだ。
「夜になれば涼しくなりますが、しばらくは訓練もままなりませんな」
「今は平時ですので多少は問題ありませんが、もしこの炎天下に戦がぶつかれば、それだけで不利になりますね」
うーん、と現状とその対策に唸る中、ふと、クリスがひらめいた面持ちで軽く手を上げた。
「ひとつ提案なんだが」
「なんですか?」
「"これ"で涼しくすることはできないかな」
言いながら向けられたのは、クリスが上げた右手の甲。薄青の円を描く、神秘的な紋章だ。
それを凝視した一同は、一瞬息を詰めて言葉を失う。
「……クリス様、真なる紋章をそういうことに使うのはいかがなものかと……」
苦々しく返すサロメだが、クリスは冗談でもない、といった様子だ。
「そうか? 深刻な問題だからやむなしだと思うんだが……。ああでも、うまくコントロールできる自信がないな……」
「城を氷漬けにしてしまっては大変だ」と縁起でもないことをぶつぶつつぶやくクリスに、一同は肝が据わってきたと感心する反面、末恐ろしさも感じてしまう。
そんな中でも、太陽はじりじりとゼクセン連邦からグラスランド一帯の大地を熱し続けるい。サロンの窓から注ぐ日差しも、ひときわまぶしく、暑い。
言葉も途切れがちになり、水を飲む五人の空気も重みを帯びていく。
「おお、みんなここだったか」
その空気を吹き飛ばしたのが、たくましい男の声だった。
「レオ殿……。涼しそうで良いですね」
やってきたレオはもはや上半身裸だったが、やんわりとしたサロメの感想以上のツッコミはもう誰からも出てこなかった。
「うむ、こう暑くては鎧など着ていられんからな。辛そうだが、朗報だ」
「朗報」の言葉に、ぐったりとうつむいていた一同が面を上げる。
全員の視線を受けたレオが皆に告げた言葉は――
「今日から食堂でかき氷が始まったぞ」
その場にいる全員に希望の光を灯す、まさに「朗報」だった。
「行きましょう」
「ああ」
「こんなところに長居は無用だ」
一斉に立ち上がり、颯爽とサロンの出口を目指して歩みを進める。入口で待ち構えていたレオと合流し、食堂へ向かう六人の背は、ゼクセンの民たちが憧れ、讃える「誉れ高き六騎士」の姿そのものだった。――遠くから響く「イチゴにしよう」「メロンだな」という声さえ、聴き拾わなければ。
――ゼクセン連邦が十数年ぶりの猛暑を記録した夏。
屈強な騎士であろうとも、暑いものは暑いのである。
「……暑い!!」
ブラス城の日陰にあたるサロンで体を休めていたボルスは、怒声と共にグラスに入った水を一気に飲み干し、ソファに身を預けてぐったりと項垂れた。
「暑いですね」
テーブルを挟んで向かい合わせに座り、書類らしきものに目をやるロランも同調するが、その声は涼やかだ。
「……ロラン、実はそんなに暑くないだろう」
むすっとした面持ちでボルスが問うと、ロランはようやく面を上げ、苦笑気味に頷いた。
「暑いですが、まだこの程度であればなんとか」
「エルフ族の体質ってやつか? 羨ましい……。しかし、今年の暑さは異常だな……はぁー……」
苛立ちを隠せない様子でがしがしと頭をかくボルスの額からは汗が伝い、相当に暑さにやられていることが窺える。
「……ボルス殿、お言葉ですが」
そんな烈火の剣士に、ロランは丁寧な前置きをしつつ、少し逡巡するような間を置いてから――
「暑いなら、鎧を脱いでも良いのでは?」
言い放つと、ボルスはきょとんとして大きな瞳を見開いた。そう、彼は猛暑の中、ゼクセン騎士団のトレードマークといえる銀色の重厚な甲冑をフル装備で身に着けているのだ。甲冑の重みはもちろん、その下には夏用といえども幾重にも重ね着をしており、とてもこの暑さの中で耐えられる格好ではない。
かくいう弓兵のロランですら、今日は一般の兵に比べると軽装の鎧をはずし、風通しの良いシャツの上から団服を羽織って過ごしている。
「さすがに今日は無理でしょう。今は平時ですし、脱いでも誰も咎めないかと」
「それはダメだ。いつ何時、敵襲があるかわからないんだからな」
頑として譲らない、といった様子で腕を組んでそう返すボルスだが、既に顔は紅潮しており、痩せ我慢をしているようにしか見えない。
「ゼクセン騎士たるもの、この程度で屈してたまるものか」
「ですが、暑いのは暑いんでしょう? それなら――」
「やっぱりここが一番涼めそうだな」
会話を遮るようなかたちでドアを開け、サロンに入ってきたのはパーシヴァルだった。
入室してソファまでやってくるパーシヴァルに、ボルスは怒気をはらんだ目つきで睨みつける。
「お前、鎧はどうした」
当然ながら、パーシヴァルも甲冑は身に着けていなかった。それどころか、もはや団服すら身に着けず涼し気なシャツ一枚といういでたちだ。
「なんだ、その休日みたいな格好は」
「いや、いつもなら『追剥ぎにあって』とでも返すところだが、さすがに今日はきついだろう」
確かに、いつもならばここでひとつゼクセン名物烈火と疾風の漫才めいたやりとりが始まるところだが、今日ばかりはこの猛暑の中で甲冑姿でいるボルスの方が異常だ。
「他のお堅い真面目な兵たちも音を上げて脱いでいたぞ」
引き気味の視線を向けながら言葉をかけるパーシヴァルに、ボルスはふん、と鼻をならした。
「それは奴らが軟弱者なだけだ」
「この暑さはそういうレベルを超していると思うんだが。お前もそのままだと倒れるぞ」
「問題ないさ、これしきのことくらい耐えられなくて誰がゼクセンの盾になれる?」
茹だった顔でそう言い放ち、ガラスの瓶からグラスに注いだ水を一気飲みするボルスに、ロランとパーシヴァルはどちらともなく顔を見合わせやれやれと息を吐く。
「ああ、お前たちもここに来ていたか。ちゃんと暑さを凌いでくれていて良かったよ」
続いてサロンにやってきたのは、クリスとサロメだった。
「クリス様!」
不機嫌そのもの、といったボルスの声が百八十度切り替わる。条件反射で腰を上げ、嬉々としてふたりに向き合ったボルスだったが――
「……って、ええ!?」
その顔は長くは持たず、驚愕の色に変わる。
「ん? どうした、ボルス」
「い、いえ、あの……クリス様、鎧は……?」
そう、もちろん、クリスも甲冑は身に着けていなかったのだ。そのすぐ斜め後ろに立つサロメも同様で、ふたりともパーシヴァルほどの着崩しではないが軽装姿で佇んでいる。
「ああ、さすがに今日の暑さではやられてしまうのでな……。その、お前は頑張っているな……大丈夫か?」
何とも言えない表情で、なんとか甲冑姿のボルスに対して気を損ねない言葉を選ぶクリスに、ボルスは気の抜けたソーダ水のように呆けている。
「いえ、敵襲に備えてと思って……」
「暑さにやられてしまっては敵襲にも対応できないでしょう? 兵たちにも今日は訓練を切り上げて涼むように伝えましたし、ボルス殿も無理はなさらず」
とどめはサロメの一閃だった。完膚なきまでにやられたボルスはしばし呆然としていたかと思うと、突如、何かが切り替わったかのように光のような甲冑を外しにかかった。――やはり、限界が近かったらしい。
「なんなんだこの暑さは! 無理に決まってるだろう!」
着替え終わったボルスの真なる本音に、その場の全員が氷水を飲みながらため息を吐いた。サロン内は多少なりとも日陰にはなるが、それでも暑いものは暑い。サロメですら、思わず手にしていた書類をうちわ代わりにしてしまうほどだ。
「夜になれば涼しくなりますが、しばらくは訓練もままなりませんな」
「今は平時ですので多少は問題ありませんが、もしこの炎天下に戦がぶつかれば、それだけで不利になりますね」
うーん、と現状とその対策に唸る中、ふと、クリスがひらめいた面持ちで軽く手を上げた。
「ひとつ提案なんだが」
「なんですか?」
「"これ"で涼しくすることはできないかな」
言いながら向けられたのは、クリスが上げた右手の甲。薄青の円を描く、神秘的な紋章だ。
それを凝視した一同は、一瞬息を詰めて言葉を失う。
「……クリス様、真なる紋章をそういうことに使うのはいかがなものかと……」
苦々しく返すサロメだが、クリスは冗談でもない、といった様子だ。
「そうか? 深刻な問題だからやむなしだと思うんだが……。ああでも、うまくコントロールできる自信がないな……」
「城を氷漬けにしてしまっては大変だ」と縁起でもないことをぶつぶつつぶやくクリスに、一同は肝が据わってきたと感心する反面、末恐ろしさも感じてしまう。
そんな中でも、太陽はじりじりとゼクセン連邦からグラスランド一帯の大地を熱し続けるい。サロンの窓から注ぐ日差しも、ひときわまぶしく、暑い。
言葉も途切れがちになり、水を飲む五人の空気も重みを帯びていく。
「おお、みんなここだったか」
その空気を吹き飛ばしたのが、たくましい男の声だった。
「レオ殿……。涼しそうで良いですね」
やってきたレオはもはや上半身裸だったが、やんわりとしたサロメの感想以上のツッコミはもう誰からも出てこなかった。
「うむ、こう暑くては鎧など着ていられんからな。辛そうだが、朗報だ」
「朗報」の言葉に、ぐったりとうつむいていた一同が面を上げる。
全員の視線を受けたレオが皆に告げた言葉は――
「今日から食堂でかき氷が始まったぞ」
その場にいる全員に希望の光を灯す、まさに「朗報」だった。
「行きましょう」
「ああ」
「こんなところに長居は無用だ」
一斉に立ち上がり、颯爽とサロンの出口を目指して歩みを進める。入口で待ち構えていたレオと合流し、食堂へ向かう六人の背は、ゼクセンの民たちが憧れ、讃える「誉れ高き六騎士」の姿そのものだった。――遠くから響く「イチゴにしよう」「メロンだな」という声さえ、聴き拾わなければ。
――ゼクセン連邦が十数年ぶりの猛暑を記録した夏。
屈強な騎士であろうとも、暑いものは暑いのである。