幻水3(ゼクセン騎士団)
「お疲れ様です」
ブラス城城下の見回りを終え、一息つこうと城のサロンに足を運ぶと、耳馴染みのある声に出迎えられた。
「ただいま戻りました。休憩ですか、サロメ殿」
「ええ、今日中の書類の整理を終えたので、一息つこうと思いまして」
目を細め、柔らかに笑むゼクセン騎士団副団長の目許には、細かな皴が刻まれている。出会った当初は見受けられなかったそれは、彼が着実に年齢を重ねている証であり、確かな年月の流れを物語っている。
「城下の様子はいかがでしたか?」
「今日も至って平和でした。ただ――」
「ただ?」
「道具屋の主人が仕入れのときに腰を痛めたらしく、奥様が店番をしていました。重症ではないそうですが、重い商品の運搬に苦労しているそうです」
城下で見たものを報告すると、サロメは興味深げな面持ちで、軽く腕を組んだ。
「それから、また鍛冶屋の猫が逃げ出したそうで、衛兵と従騎士が捜索に駆り出されていました。先代の母猫よりもずいぶんイタズラ好きのようです」
「なるほど……他には何かありましたか?」
「他に……」
どことなく嬉しそうな面持ちで尋ねられ、ふと天井を仰いで、ついさきほどまで見回していたのどかな城下の風景を思い起こす。平穏そのものの街のごくわずかな変化。それは日々見回りを続けているからこそ、気づけるものでもある。
「……あとは、ダッククラン族の交易商が熱心に醤油を売りに回っていましたが、少し苦戦しているようでした」
穏やかな街並みの中で醤油の入った瓶を抱えながら必死に声をかけるダッククランの交易商と、苦笑交じりに断る住人の姿はちょっとばかり目を惹いた。当然、そこで交易商が無理に売りつけたり、住人が口汚く追い返すことはなく、やり取り自体はすぐに終息した。結局買い手がつかず、がっくりと肩を落とす交易商の哀愁漂う背中が、一番印象深かったかもしれない。
「ああ、しばらく醤油のブームが来ていましたが、最近はすっかり落ち着きましたからね」
「ええ、高騰期に乗り遅れたようです」
「そうですね……ふふふ」
返事をしながら、サロメが堪えきれずといった様子で笑い声を漏らした。何事か、何かおかしなことでも言っただろうか、と軽く面食らうと、サロメはくつくつと笑いながら「すみません」と口を開いた。
「年々、あなたから聴く城下の者たちの話が増えて嬉しいと思ったのですよ」
「……え?」
言葉の意味と、それにつながる笑いの根源がつかめずに首を傾げる。すると、サロメは至極嬉しそうにこちらを見つめて微笑んだ。それは、彼と出会った二十年前から変わらない、彼らしい笑みだった。
「初めは見回り後の報告も『異常はありませんでした』のひとことだったでしょう? それが今や住人はおろかその飼い猫のことまで把握して、気遣っている」
「……出過ぎた、不要な報告でしょうか」
「とんでもない。我々はゼクセンの民あってこその存在です。生活の困りごとに手を差し伸べるのも、立派な騎士の姿と思いますよ。私は、あなたがゼクセンとその民に細かな目を向けてくれることが嬉しいんです」
言われて、微かに胸が疼いた。
確かに、故郷から流れてこの地に辿り着き、傭兵から騎士団に入団した頃は、民に目を向けることなどほとんどなかった。見回り後も城の橋から故郷の森に想いを馳せ、望郷に浸ってばかりだった。
しかし、今はブラス城の城下が平穏であることこそ喜びを感じる。人々の生活、子供たちの成長、草木の色の変化――それらがいつまでも平和に続くよう見守り支えることが己の職務であり、天命。今は、そう感じている。
「――ということで、道具屋には若手の力自慢を遣わせますか。仕入れが滞っては更に困る住人が出てしまいますからね」
早速の発案に、言い知れぬ喜びが沸く。それはサロメの速やかな機転に向けて嬉しさであり、道具屋の主人を助けられる歓喜でもあった。
「……はい。すっかり気落ちしていたので、元気な奴をぜひ」
「承知しました。――それはそうと、先日良い紅茶の葉をいただいたのですが、一杯いかがです?」
「ありたがい。見回り後で喉が渇いていたところです。喜んでいただきます」
「では、さっそく準備をするとしましょう」
頷き合い、共にサロンを後にする。遠ざかるふたつの足音はどちらも軽やかで、心弾むリズムを刻んでいた。
ブラス城城下の見回りを終え、一息つこうと城のサロンに足を運ぶと、耳馴染みのある声に出迎えられた。
「ただいま戻りました。休憩ですか、サロメ殿」
「ええ、今日中の書類の整理を終えたので、一息つこうと思いまして」
目を細め、柔らかに笑むゼクセン騎士団副団長の目許には、細かな皴が刻まれている。出会った当初は見受けられなかったそれは、彼が着実に年齢を重ねている証であり、確かな年月の流れを物語っている。
「城下の様子はいかがでしたか?」
「今日も至って平和でした。ただ――」
「ただ?」
「道具屋の主人が仕入れのときに腰を痛めたらしく、奥様が店番をしていました。重症ではないそうですが、重い商品の運搬に苦労しているそうです」
城下で見たものを報告すると、サロメは興味深げな面持ちで、軽く腕を組んだ。
「それから、また鍛冶屋の猫が逃げ出したそうで、衛兵と従騎士が捜索に駆り出されていました。先代の母猫よりもずいぶんイタズラ好きのようです」
「なるほど……他には何かありましたか?」
「他に……」
どことなく嬉しそうな面持ちで尋ねられ、ふと天井を仰いで、ついさきほどまで見回していたのどかな城下の風景を思い起こす。平穏そのものの街のごくわずかな変化。それは日々見回りを続けているからこそ、気づけるものでもある。
「……あとは、ダッククラン族の交易商が熱心に醤油を売りに回っていましたが、少し苦戦しているようでした」
穏やかな街並みの中で醤油の入った瓶を抱えながら必死に声をかけるダッククランの交易商と、苦笑交じりに断る住人の姿はちょっとばかり目を惹いた。当然、そこで交易商が無理に売りつけたり、住人が口汚く追い返すことはなく、やり取り自体はすぐに終息した。結局買い手がつかず、がっくりと肩を落とす交易商の哀愁漂う背中が、一番印象深かったかもしれない。
「ああ、しばらく醤油のブームが来ていましたが、最近はすっかり落ち着きましたからね」
「ええ、高騰期に乗り遅れたようです」
「そうですね……ふふふ」
返事をしながら、サロメが堪えきれずといった様子で笑い声を漏らした。何事か、何かおかしなことでも言っただろうか、と軽く面食らうと、サロメはくつくつと笑いながら「すみません」と口を開いた。
「年々、あなたから聴く城下の者たちの話が増えて嬉しいと思ったのですよ」
「……え?」
言葉の意味と、それにつながる笑いの根源がつかめずに首を傾げる。すると、サロメは至極嬉しそうにこちらを見つめて微笑んだ。それは、彼と出会った二十年前から変わらない、彼らしい笑みだった。
「初めは見回り後の報告も『異常はありませんでした』のひとことだったでしょう? それが今や住人はおろかその飼い猫のことまで把握して、気遣っている」
「……出過ぎた、不要な報告でしょうか」
「とんでもない。我々はゼクセンの民あってこその存在です。生活の困りごとに手を差し伸べるのも、立派な騎士の姿と思いますよ。私は、あなたがゼクセンとその民に細かな目を向けてくれることが嬉しいんです」
言われて、微かに胸が疼いた。
確かに、故郷から流れてこの地に辿り着き、傭兵から騎士団に入団した頃は、民に目を向けることなどほとんどなかった。見回り後も城の橋から故郷の森に想いを馳せ、望郷に浸ってばかりだった。
しかし、今はブラス城の城下が平穏であることこそ喜びを感じる。人々の生活、子供たちの成長、草木の色の変化――それらがいつまでも平和に続くよう見守り支えることが己の職務であり、天命。今は、そう感じている。
「――ということで、道具屋には若手の力自慢を遣わせますか。仕入れが滞っては更に困る住人が出てしまいますからね」
早速の発案に、言い知れぬ喜びが沸く。それはサロメの速やかな機転に向けて嬉しさであり、道具屋の主人を助けられる歓喜でもあった。
「……はい。すっかり気落ちしていたので、元気な奴をぜひ」
「承知しました。――それはそうと、先日良い紅茶の葉をいただいたのですが、一杯いかがです?」
「ありたがい。見回り後で喉が渇いていたところです。喜んでいただきます」
「では、さっそく準備をするとしましょう」
頷き合い、共にサロンを後にする。遠ざかるふたつの足音はどちらも軽やかで、心弾むリズムを刻んでいた。