幻水3(ゼクセン騎士団)
深い溜息とともにサインを記した書類を紙の山の頂きに載せると、壁のからくり時計が鐘を打ち、午後三時を告げた。
昼から手を付け始めた書類の処理はまだ半分も片付いておらず、クリスはその難攻不落っぷりに気疲れした面持ちで項垂れる。今日の山はいつも以上に険しい。果たしていつ終わらせられることやら……。考えるのも嫌になり、誰もいないのをいいことにデスクに突っ伏すと、ふと、ふたり分の足音が迫ってくるのを耳が聴き拾った。
足音はぼうっと聴き続けていると、ふと止まる。それから、今度は執務室のドアを軽く叩く音が響いた。間髪入れずに「入れ」と許可すると、ドアが開く。現れたのは、クリスが内心で待ち望んでいたふたりの部下だった。
「お疲れ様です。進み具合はいかがですか」
柔らかな声で尋ねるサロメに、クリスはデスクに伏した状態のまま、書類の山に目をやってそっけなく言い放つ。
「見てのとおりだが、何か?」
「おやおや、ずいぶんと不機嫌なご様子で。まあそう不貞腐れずに、少し息抜きしませんか」
その態度に怯むでもなく、至って楽し気に笑うパーシヴァルは、片手に持っていた木製のトレイをデスクに差し出した。
トレイに置かれたもの見るなり、クリスはがばっと体を起こして目を輝かせた。
シンプルな陶器のティーカップと同じデザインのティーポット、そして、小さな小皿に載る小ぶりのクッキーが数枚。実に完璧な布陣。待ち焦がれたティータイムである。
「……午後三時すぎ。時間も完璧だな」
「そりゃあ、不定期にでも一か月そこらおやつ当番をしていたら、どの時間に行くのが喜ばれるかくらいはわかりますよ」
そう、一か月ほど前から不意に始まったサロメとパーシヴァルによるおやつとお茶の支給は、好きでもないデスクワークに追われるクリスにとってささやかな幸せを味わえるひとときだった。しかも、どうやらこれは他の六騎士にも振る舞われているらしく、書類仕事が大の苦手、かつ甘味が好物のレオはいつも子供のように大喜びしているらしい。
「それで、今日のお茶とお菓子の中身は?」
「お茶はカラヤクランの行商から仕入れた茶葉です。スパイスが効いていて温まりますよ」
言いながら、サロメが慣れた手つきでティーポットを持ってお茶をカップに注ぐと、甘辛い香りがふわりと漂う。あまり嗅いだことのない独特な香りだが、不思議と疲労感が薄れるような温かみを感じる。
「クッキーは先日バーツから貰ったクランベリー入りです。今年は例年になく質が良くて、いい甘酸っぱさですよ」
パーシヴァルの解説どおり、クッキーには目を惹く赤さのクランベリーがふんだんに練り込まれている。口の中に広がる甘酸っぱさとクッキーの甘さを想像すると、口元もうっすらとゆるんでしまう。
「ふふ、楽しみだな。ふたりともいつもありがとう」
「いいえ、我々も息抜きでやっていますから。この後のお茶を飲みながらの雑談も含めましてね」
三人分のお茶を淹れ終えたサロメが柔和に笑う。お茶はともかく、お菓子作りが「息抜き」になるというのはクリスとしては少し理解に苦しむが、双方にとって良い影響を及ぼすのであれば、願ってもないお恵みだ。
「私もバーツから大量に貰う野菜や果物をさばけてありがたいですよ。半分以上は食堂に納めてますけどね」
「ははは、いつも荷馬車いっぱいに持ってきてくれるものな。近いうちにバーツにもお礼をしないと」
「それなら次に会った時に『美味しかった』と言ってやるだけで十分ですよ。きっとそれが一番嬉しいはずです」
「うん、そうだな……そうかもしれない」
戦後、焼け野原になったイクセの畑をよみがえらせ、見事な作物をお裾分けに訪れるバーツはビュッデヒュッケ城にいた頃と同じかそれ以上に希望に満ちて輝いている。パーシヴァルの言うとおり、次にブラス城へやってきたときには、野菜も果物もぜんぶ美味しかったと心から伝えよう。そうクリスは心に決め、小さく頷いた。
「では、お茶が冷めてしまわないうちに始めますか」
サロメのひとことに待ってましたとばかりにクリスはティーカップに手を伸ばす。なみなみと注がれた甘辛い香りの紅茶はほのかなに湯気を立ち昇らせ、ひと口を含む期待を高まらせる。
デスクの書類の山には今ばかりは目を逸らせ、ひとこと。
「いただきます」
そうつぶやいて、ティーカップに唇を当てがった。
幕を開けたティータイムは、穏やかに、そしてうっかり夕刻近くまで続いたという。
昼から手を付け始めた書類の処理はまだ半分も片付いておらず、クリスはその難攻不落っぷりに気疲れした面持ちで項垂れる。今日の山はいつも以上に険しい。果たしていつ終わらせられることやら……。考えるのも嫌になり、誰もいないのをいいことにデスクに突っ伏すと、ふと、ふたり分の足音が迫ってくるのを耳が聴き拾った。
足音はぼうっと聴き続けていると、ふと止まる。それから、今度は執務室のドアを軽く叩く音が響いた。間髪入れずに「入れ」と許可すると、ドアが開く。現れたのは、クリスが内心で待ち望んでいたふたりの部下だった。
「お疲れ様です。進み具合はいかがですか」
柔らかな声で尋ねるサロメに、クリスはデスクに伏した状態のまま、書類の山に目をやってそっけなく言い放つ。
「見てのとおりだが、何か?」
「おやおや、ずいぶんと不機嫌なご様子で。まあそう不貞腐れずに、少し息抜きしませんか」
その態度に怯むでもなく、至って楽し気に笑うパーシヴァルは、片手に持っていた木製のトレイをデスクに差し出した。
トレイに置かれたもの見るなり、クリスはがばっと体を起こして目を輝かせた。
シンプルな陶器のティーカップと同じデザインのティーポット、そして、小さな小皿に載る小ぶりのクッキーが数枚。実に完璧な布陣。待ち焦がれたティータイムである。
「……午後三時すぎ。時間も完璧だな」
「そりゃあ、不定期にでも一か月そこらおやつ当番をしていたら、どの時間に行くのが喜ばれるかくらいはわかりますよ」
そう、一か月ほど前から不意に始まったサロメとパーシヴァルによるおやつとお茶の支給は、好きでもないデスクワークに追われるクリスにとってささやかな幸せを味わえるひとときだった。しかも、どうやらこれは他の六騎士にも振る舞われているらしく、書類仕事が大の苦手、かつ甘味が好物のレオはいつも子供のように大喜びしているらしい。
「それで、今日のお茶とお菓子の中身は?」
「お茶はカラヤクランの行商から仕入れた茶葉です。スパイスが効いていて温まりますよ」
言いながら、サロメが慣れた手つきでティーポットを持ってお茶をカップに注ぐと、甘辛い香りがふわりと漂う。あまり嗅いだことのない独特な香りだが、不思議と疲労感が薄れるような温かみを感じる。
「クッキーは先日バーツから貰ったクランベリー入りです。今年は例年になく質が良くて、いい甘酸っぱさですよ」
パーシヴァルの解説どおり、クッキーには目を惹く赤さのクランベリーがふんだんに練り込まれている。口の中に広がる甘酸っぱさとクッキーの甘さを想像すると、口元もうっすらとゆるんでしまう。
「ふふ、楽しみだな。ふたりともいつもありがとう」
「いいえ、我々も息抜きでやっていますから。この後のお茶を飲みながらの雑談も含めましてね」
三人分のお茶を淹れ終えたサロメが柔和に笑う。お茶はともかく、お菓子作りが「息抜き」になるというのはクリスとしては少し理解に苦しむが、双方にとって良い影響を及ぼすのであれば、願ってもないお恵みだ。
「私もバーツから大量に貰う野菜や果物をさばけてありがたいですよ。半分以上は食堂に納めてますけどね」
「ははは、いつも荷馬車いっぱいに持ってきてくれるものな。近いうちにバーツにもお礼をしないと」
「それなら次に会った時に『美味しかった』と言ってやるだけで十分ですよ。きっとそれが一番嬉しいはずです」
「うん、そうだな……そうかもしれない」
戦後、焼け野原になったイクセの畑をよみがえらせ、見事な作物をお裾分けに訪れるバーツはビュッデヒュッケ城にいた頃と同じかそれ以上に希望に満ちて輝いている。パーシヴァルの言うとおり、次にブラス城へやってきたときには、野菜も果物もぜんぶ美味しかったと心から伝えよう。そうクリスは心に決め、小さく頷いた。
「では、お茶が冷めてしまわないうちに始めますか」
サロメのひとことに待ってましたとばかりにクリスはティーカップに手を伸ばす。なみなみと注がれた甘辛い香りの紅茶はほのかなに湯気を立ち昇らせ、ひと口を含む期待を高まらせる。
デスクの書類の山には今ばかりは目を逸らせ、ひとこと。
「いただきます」
そうつぶやいて、ティーカップに唇を当てがった。
幕を開けたティータイムは、穏やかに、そしてうっかり夕刻近くまで続いたという。