幻水3(ゼクセン騎士団)
陽が昇って間もない早朝。目を覚まし、身支度を整えて部屋を出たロランはまだ人もまばらな城内を足早に抜け、馬房のある方向へと足を進めた。
歩きながらチラと見上げた朝日は白く眩しい。その光にうっすらと目を細めると、視界の隅に大きな影が映りこんだ。
巨大な翼を羽ばたかせて舞う、グリフォン。それは、かつて敵対する立場にあったカラヤ族の少年が相棒とする存在だ。名は、確かフーバーと言っただろうか。
そう、ここは己が属するゼクセン騎士団の砦であるブラス城ではない。ゼクセンと広大なグラスランドの境目にぽつんと佇む、穴だらけの小さな城、ビュッデヒュッケ。強大なハルモニア神聖国の侵攻に立ち向かうべく一時的に手を結んだゼクセンとグラスランドの連合軍「炎の運び手」が拠点と定めた場だ。
ビュッデヒュッケに身を移してからはや二週間。生活は思いのほか快適で、悪くはないものだった。城そのものは過去の事故の影響であちこちに穴が空き、堅牢とはとても言いがたいものだが、防具や道具や食堂などの施設はどれもゼクセンの首都ビネ・デル・ゼクセに引けをとらない。なんでも、この城の城主の懸命なスカウト活動によって、その道のプロが徐々に集っているらしい。城主は小柄で一見するとおどおどした少年にしか見えないが、深い懐の持ち主なのかもしれない。こうして一軍の拠点として己の城を提供するあたりからも、その姿が伺える。
今日は「炎の運び手」の一員となったロランに与えられた、三度目の休日である。「炎の運び手」として弓兵の一部隊を任されてはいる立場ではあるが、訓練は副隊長を務めるカラヤ族の青年が担当することになっている。はじめは休日であろうとも訓練に顔を出そうと思っていたが、それを察したカラヤの青年に「鉄頭は大人しく休んでいろ」とあっさり突き返されてしまった。その言動に思うことがなかった訳ではないが、自分が逆の立場であれば、同じように冷たく返していただろう。決して憎しみを抱えての言葉ではないが、ゼクセンとカラヤの間にある溝は深い。状況が変わったからと言ってすぐに柔らかな言葉を交わせるような間柄になることは難しい。
――ということで、まったく予定のない休日の朝なのだが、どうにもいつものクセが抜けず、早起きをしてしまった。目覚めても取り立てて何かをしたいとは思わず、朝食にもまだ早い。致し方なく軽くヤザ平原でも駆けようか、と思い立ち、こうして馬房の方にやってきてしまったという次第だ。
ここのところは緊迫した状況が続き、休日の過ごし方をすっかり忘れてしまっていることを実感する。以前ならば、もっとゆっくりと息抜きをしていたはずだが、それも遠い遠い昔のことのように思える。それほどに、この数ヶ月は色々なことが起こり過ぎているのだ。
目まぐるしく変化してきた戦況を頭の中で再生し、軽く溜息を吐きながら、ロランは馬房を預かる若い女性――キャシィーに軽く会釈し、己の馬が休む房にゆっくりと足を踏み入れた。
「おや、ロラン殿。おはようございます」
己の馬の隣で休む馬にブラシをかけていた青年が、こちらに気付いて柔らかな笑みを傾ける。
パーシヴァル・フロイライン。自分と同じくゼクセン騎士団に所属する騎士のひとりだ。騎士団で随一の馬術の腕を持ち、一軍の長を務める青年。飄々としてどこかとらえどころのない性格や言動は理解に苦しむことも多いが、携えている実力は誰が見ても確かだ。それは間違いない。
「おはようございます。こんなに早くから馬の手入れとは、早朝の訓練か何かで?」
日頃のように向かい風を浴びたように後方に撫で付けられた髪型ではなく、自然に下ろされた状態で問うパーシヴァルは、いつもより少し若々しい印象を抱かせる。
思いながら、ロランはゆったりと頭を振った。
「いえ、今日は休日なんですが、なんとなく目が覚めてしまって。最近、戦い以外でこいつを駆けさせていなかったんで、少しのんびり走らせてやろうかと思いまして」
口を動かしながらも、パーシヴァルはブラシの手を止めずに愛馬の体を丁寧に撫でている。それが心地良いのか、彼の愛馬はその場に静止したまま、嬉しそうに尻尾を振っている。
「そういうロラン殿こそ訓練ですか?」
「いえ、私も今日は休日で」
答えると、パーシヴァルはかすかに目を見開き、意外そうな面持ちでロランを見据える。その間も、ブラシで愛馬を撫でる手は止まらずにいる。
「休日でも早く目覚めてしまうほど、ロラン殿はお年ではなかったと思いますが」
「……ジョーク、ですか?」
「ははは。これは失礼」
無表情で返すと、パーシヴァルは破顔して詫びてきた。やはり、彼のこういった所には苦手意識を覚える。しかし、この悪びれのない笑みで、場の空気の流れを良好になるという事実も、現実としてある。集団の中で、彼のような人間もまた必要な存在であるのだろう。そこは、長く人間界に身を置く中で実感してきているところだ。
「では、お詫びといってはなんですが、この後、朝食を一緒に食べに行きませんか?」
「朝食を?」
「ええ、からかってしまったお詫びにご馳走させてください」
パーシヴァルが薄く浮かべた笑みに、軽薄さは感じられない。もしかすると、彼は最初から自分を朝食に誘う口実を探していたのだろうか。だとしたら、ずいぶんと遠回りな誘いだ。それだけ、ストレートに声をかけにくい雰囲気を自分が纏っているということか。思うと、少しばかり反省の念がやってくる。
「……わかりました。ご一緒しましょう」
静かに口を開くと、パーシヴァルは少しばかり笑みを深めて「それでは」と口にしながらブラシの手を止めた。彼の愛馬の尻尾が少し寂しげな揺れに変わる。
それを横目に見ながら、ロランはひとつの提案をパーシヴァルに差し出す。
「ただし、どちらが奢るかは馬の早駆けで決めませんか」
与えられた問いに、パーシヴァルは先ほどよりも驚いた面持ちで瞬きを繰り返した。その表情はいつもより少し幼く、少年のようにも見えた。
「……それはいい。こいつも喜びますよ」
パーシヴァルはニッと笑み、ポンと愛馬の背を叩いてやる。それが出かける合図と察した彼女は、再び嬉しそうに尾を振った。
「競争となれば、手加減はしませんよ」
「望むところです。ゼクセン一の馬術の腕前、久々に近くで拝ませていただきますよ」
言いながら、ロランも挑戦的な笑みとともに己の愛馬に合図を送り、出発を促した。
――その二時間後。
彼らの長を務めるゼクセン騎士団長、クリス・ライトフェローは城に隣接する湖の畔の食堂で楽しげに朝食を愉しむ部下たちを目にし、満足げな笑みを浮かべて彼らの輪に加わった。
その姿はブラス城でも滅多に目にすることのない微笑ましい光景として、人々の笑みを誘った。
歩きながらチラと見上げた朝日は白く眩しい。その光にうっすらと目を細めると、視界の隅に大きな影が映りこんだ。
巨大な翼を羽ばたかせて舞う、グリフォン。それは、かつて敵対する立場にあったカラヤ族の少年が相棒とする存在だ。名は、確かフーバーと言っただろうか。
そう、ここは己が属するゼクセン騎士団の砦であるブラス城ではない。ゼクセンと広大なグラスランドの境目にぽつんと佇む、穴だらけの小さな城、ビュッデヒュッケ。強大なハルモニア神聖国の侵攻に立ち向かうべく一時的に手を結んだゼクセンとグラスランドの連合軍「炎の運び手」が拠点と定めた場だ。
ビュッデヒュッケに身を移してからはや二週間。生活は思いのほか快適で、悪くはないものだった。城そのものは過去の事故の影響であちこちに穴が空き、堅牢とはとても言いがたいものだが、防具や道具や食堂などの施設はどれもゼクセンの首都ビネ・デル・ゼクセに引けをとらない。なんでも、この城の城主の懸命なスカウト活動によって、その道のプロが徐々に集っているらしい。城主は小柄で一見するとおどおどした少年にしか見えないが、深い懐の持ち主なのかもしれない。こうして一軍の拠点として己の城を提供するあたりからも、その姿が伺える。
今日は「炎の運び手」の一員となったロランに与えられた、三度目の休日である。「炎の運び手」として弓兵の一部隊を任されてはいる立場ではあるが、訓練は副隊長を務めるカラヤ族の青年が担当することになっている。はじめは休日であろうとも訓練に顔を出そうと思っていたが、それを察したカラヤの青年に「鉄頭は大人しく休んでいろ」とあっさり突き返されてしまった。その言動に思うことがなかった訳ではないが、自分が逆の立場であれば、同じように冷たく返していただろう。決して憎しみを抱えての言葉ではないが、ゼクセンとカラヤの間にある溝は深い。状況が変わったからと言ってすぐに柔らかな言葉を交わせるような間柄になることは難しい。
――ということで、まったく予定のない休日の朝なのだが、どうにもいつものクセが抜けず、早起きをしてしまった。目覚めても取り立てて何かをしたいとは思わず、朝食にもまだ早い。致し方なく軽くヤザ平原でも駆けようか、と思い立ち、こうして馬房の方にやってきてしまったという次第だ。
ここのところは緊迫した状況が続き、休日の過ごし方をすっかり忘れてしまっていることを実感する。以前ならば、もっとゆっくりと息抜きをしていたはずだが、それも遠い遠い昔のことのように思える。それほどに、この数ヶ月は色々なことが起こり過ぎているのだ。
目まぐるしく変化してきた戦況を頭の中で再生し、軽く溜息を吐きながら、ロランは馬房を預かる若い女性――キャシィーに軽く会釈し、己の馬が休む房にゆっくりと足を踏み入れた。
「おや、ロラン殿。おはようございます」
己の馬の隣で休む馬にブラシをかけていた青年が、こちらに気付いて柔らかな笑みを傾ける。
パーシヴァル・フロイライン。自分と同じくゼクセン騎士団に所属する騎士のひとりだ。騎士団で随一の馬術の腕を持ち、一軍の長を務める青年。飄々としてどこかとらえどころのない性格や言動は理解に苦しむことも多いが、携えている実力は誰が見ても確かだ。それは間違いない。
「おはようございます。こんなに早くから馬の手入れとは、早朝の訓練か何かで?」
日頃のように向かい風を浴びたように後方に撫で付けられた髪型ではなく、自然に下ろされた状態で問うパーシヴァルは、いつもより少し若々しい印象を抱かせる。
思いながら、ロランはゆったりと頭を振った。
「いえ、今日は休日なんですが、なんとなく目が覚めてしまって。最近、戦い以外でこいつを駆けさせていなかったんで、少しのんびり走らせてやろうかと思いまして」
口を動かしながらも、パーシヴァルはブラシの手を止めずに愛馬の体を丁寧に撫でている。それが心地良いのか、彼の愛馬はその場に静止したまま、嬉しそうに尻尾を振っている。
「そういうロラン殿こそ訓練ですか?」
「いえ、私も今日は休日で」
答えると、パーシヴァルはかすかに目を見開き、意外そうな面持ちでロランを見据える。その間も、ブラシで愛馬を撫でる手は止まらずにいる。
「休日でも早く目覚めてしまうほど、ロラン殿はお年ではなかったと思いますが」
「……ジョーク、ですか?」
「ははは。これは失礼」
無表情で返すと、パーシヴァルは破顔して詫びてきた。やはり、彼のこういった所には苦手意識を覚える。しかし、この悪びれのない笑みで、場の空気の流れを良好になるという事実も、現実としてある。集団の中で、彼のような人間もまた必要な存在であるのだろう。そこは、長く人間界に身を置く中で実感してきているところだ。
「では、お詫びといってはなんですが、この後、朝食を一緒に食べに行きませんか?」
「朝食を?」
「ええ、からかってしまったお詫びにご馳走させてください」
パーシヴァルが薄く浮かべた笑みに、軽薄さは感じられない。もしかすると、彼は最初から自分を朝食に誘う口実を探していたのだろうか。だとしたら、ずいぶんと遠回りな誘いだ。それだけ、ストレートに声をかけにくい雰囲気を自分が纏っているということか。思うと、少しばかり反省の念がやってくる。
「……わかりました。ご一緒しましょう」
静かに口を開くと、パーシヴァルは少しばかり笑みを深めて「それでは」と口にしながらブラシの手を止めた。彼の愛馬の尻尾が少し寂しげな揺れに変わる。
それを横目に見ながら、ロランはひとつの提案をパーシヴァルに差し出す。
「ただし、どちらが奢るかは馬の早駆けで決めませんか」
与えられた問いに、パーシヴァルは先ほどよりも驚いた面持ちで瞬きを繰り返した。その表情はいつもより少し幼く、少年のようにも見えた。
「……それはいい。こいつも喜びますよ」
パーシヴァルはニッと笑み、ポンと愛馬の背を叩いてやる。それが出かける合図と察した彼女は、再び嬉しそうに尾を振った。
「競争となれば、手加減はしませんよ」
「望むところです。ゼクセン一の馬術の腕前、久々に近くで拝ませていただきますよ」
言いながら、ロランも挑戦的な笑みとともに己の愛馬に合図を送り、出発を促した。
――その二時間後。
彼らの長を務めるゼクセン騎士団長、クリス・ライトフェローは城に隣接する湖の畔の食堂で楽しげに朝食を愉しむ部下たちを目にし、満足げな笑みを浮かべて彼らの輪に加わった。
その姿はブラス城でも滅多に目にすることのない微笑ましい光景として、人々の笑みを誘った。