幻水その他
「……うむ、悪くない味じゃ。おんしにしてはセンスの良いボトル選びじゃのう」
「そりゃどうも」
グラスに半分ほど注がれた赤ワインをゆるりと揺らしながら微笑むと、並んで座る男は不機嫌そうに返事をして、自分のグラスを軽く傾けた。
深夜のビュッデヒュッケ城の湖畔は人気もなく、しんと静まり返っている。今宵は見事な満月。深夜にもかかわらず周囲は明るく、眼前に広がる湖の水面がきらきらと光っている。
「良い月夜じゃ」
「まったくだ。誰かさんのお力の賜物ってやつかい?」
「さあな。……まあ、力が溢れる夜であることは間違いないが」
軽口に軽口で返しながら、わざとらしく口端を上げて牙を見せつけると、男はぞっと顔を青ざめさせて身を引いた。
「ふふ、案ずるな。今日はこのワインでじゅうぶんに間に合う」
「そう願いたいもんだな。……で、突然押しかけてきた用件は?」
「なに、賑やかな城があると聞いて、興味が沸いての。たまたまその目的地におんしがいると伝え聞いたまでのこと」
「……あの風の紋章使いのことかい?」
率直な問いに、グラスを口元に運ぶ手が止まる。横目に見ると、冴えた「本職」の目をした男が、じっとこちらを見据えている。
――真なる風の紋章を宿す男が五行の紋章を求めて動きを見せていることは、うっすらと聞き及んでいた。十五年ほど前の戦いの折にわずかな縁を持っただけの少年だったが、その当時は何らかをたくらんでいる風ではなかった。このわずかな年月で何かを思い、心に決め、動き出したのだろう。
「紋章を集めて、どうする気なのやら」
「さあな。……ただ、強大な力が集結したときは、良いことより悪いことの方が起こりやすい。誰にとって何が"良い"か"悪い"かは、わからんがな」
「そうだよなあ……」
つぶやく男の声は、力ない。事の真相がつかめず、鬱屈とした思いがあるのだろう。
今度こそ、グラスを口元にあてがい、ワインで喉を潤す。熟成された甘味は、月に見たされた体を更に高揚させてくれた。
「あの神官将とは、知り合いなんだっけ」
「門の紋章の宿主の弟子時代に、少しな。じゃが、特段の関係があったわけでもない」
「……そうかい。あんたなら、奴が何を思っているのか見えてるのかもしれないと思ったんだけどね」
その言葉には、ふたつの意味があるのだろう。純粋に、自分が「彼」という人物を知っていること。そして、同じ真なる紋章を宿す者同士であること。
そこから生まれる予測が、ないわけではない。こうして近しい場所に訪れているのも、少なからず紋章の力が絡んでいる部分もあるはずだ。
空を仰ぎ、満ち満ちた月を見る。
白色に光る月は、この身に宿る力の根源であり、自身を生かし、縛り付けるもの。それをいくらか煩わしく、恨めしく思った時代は確かにあったが、もうずいぶんと前のことだ。
「……あやつはあやつなりの考えがあるのじゃろう。それが何かは、もう数百年前だったならわかったのかもしれぬがな」
「あんたは乗り越えてきたってことかい?」
「どうだろうな。真なる紋章持ちも千差万別。宿したとて、ひとりの人間であることに変わりはない」
「……あんたは吸血鬼だろ」
「やかましいっ」
揚げ足取りを睨みつけると、ようやく男が笑った。答えは見えずとも、何かしら感じたものはあるのかもしれない。間抜けで不運な男だが、勘の鋭さはこの数百年で出会ってきた人間の中でも頭ひとつ抜けている。
「力は貸してもらえない、よな」
「甘えるでない。妾は少し離れた所から見届けさせてもらう。これ以上、真なる紋章が絡んでも厄介じゃろう」
「おっしゃるとおりで」
「……さてと」
一息つき、手元のグラスのワインをくい、と飲み干した。後味も良く、もう一杯、と所望したくなるがこのあたりが引き際だろう。
立ち上がり、まだ中身の残っているワインボトルを手に取り、踵を返した。
「ちゃっかりお持ち帰りかよ」
「なんじゃ、久しぶりの友人への手土産だったのじゃろう? ありがたく頂戴しよう」
「いや、現れるなり『とっておきの赤を用意せい』って持ってこさせただけだろ! もう一杯よこせ!」
「断る。ではな。死ぬでないぞ」
ひらひらと手を振って別れを告げ、何かしらを喚く声を気分よく背に受けながら、城門に向かう。
不意に、微かな風が吹きつけ、シエラは足を止めた。
もう一度見上げた月は、変わらず煌々と光を放つ満月。人間にとっては気の遠くなる年月を重ねて力を得た象徴は、微風の中でも揺らぐことはない。
「……どうか、良い場所へ辿り着けるよう」
そうつぶやき、再び一歩を踏み出す。その足はしっかりと大地を踏みしめ、気ままな己が道を歩み、迷うことはなかった。
「そりゃどうも」
グラスに半分ほど注がれた赤ワインをゆるりと揺らしながら微笑むと、並んで座る男は不機嫌そうに返事をして、自分のグラスを軽く傾けた。
深夜のビュッデヒュッケ城の湖畔は人気もなく、しんと静まり返っている。今宵は見事な満月。深夜にもかかわらず周囲は明るく、眼前に広がる湖の水面がきらきらと光っている。
「良い月夜じゃ」
「まったくだ。誰かさんのお力の賜物ってやつかい?」
「さあな。……まあ、力が溢れる夜であることは間違いないが」
軽口に軽口で返しながら、わざとらしく口端を上げて牙を見せつけると、男はぞっと顔を青ざめさせて身を引いた。
「ふふ、案ずるな。今日はこのワインでじゅうぶんに間に合う」
「そう願いたいもんだな。……で、突然押しかけてきた用件は?」
「なに、賑やかな城があると聞いて、興味が沸いての。たまたまその目的地におんしがいると伝え聞いたまでのこと」
「……あの風の紋章使いのことかい?」
率直な問いに、グラスを口元に運ぶ手が止まる。横目に見ると、冴えた「本職」の目をした男が、じっとこちらを見据えている。
――真なる風の紋章を宿す男が五行の紋章を求めて動きを見せていることは、うっすらと聞き及んでいた。十五年ほど前の戦いの折にわずかな縁を持っただけの少年だったが、その当時は何らかをたくらんでいる風ではなかった。このわずかな年月で何かを思い、心に決め、動き出したのだろう。
「紋章を集めて、どうする気なのやら」
「さあな。……ただ、強大な力が集結したときは、良いことより悪いことの方が起こりやすい。誰にとって何が"良い"か"悪い"かは、わからんがな」
「そうだよなあ……」
つぶやく男の声は、力ない。事の真相がつかめず、鬱屈とした思いがあるのだろう。
今度こそ、グラスを口元にあてがい、ワインで喉を潤す。熟成された甘味は、月に見たされた体を更に高揚させてくれた。
「あの神官将とは、知り合いなんだっけ」
「門の紋章の宿主の弟子時代に、少しな。じゃが、特段の関係があったわけでもない」
「……そうかい。あんたなら、奴が何を思っているのか見えてるのかもしれないと思ったんだけどね」
その言葉には、ふたつの意味があるのだろう。純粋に、自分が「彼」という人物を知っていること。そして、同じ真なる紋章を宿す者同士であること。
そこから生まれる予測が、ないわけではない。こうして近しい場所に訪れているのも、少なからず紋章の力が絡んでいる部分もあるはずだ。
空を仰ぎ、満ち満ちた月を見る。
白色に光る月は、この身に宿る力の根源であり、自身を生かし、縛り付けるもの。それをいくらか煩わしく、恨めしく思った時代は確かにあったが、もうずいぶんと前のことだ。
「……あやつはあやつなりの考えがあるのじゃろう。それが何かは、もう数百年前だったならわかったのかもしれぬがな」
「あんたは乗り越えてきたってことかい?」
「どうだろうな。真なる紋章持ちも千差万別。宿したとて、ひとりの人間であることに変わりはない」
「……あんたは吸血鬼だろ」
「やかましいっ」
揚げ足取りを睨みつけると、ようやく男が笑った。答えは見えずとも、何かしら感じたものはあるのかもしれない。間抜けで不運な男だが、勘の鋭さはこの数百年で出会ってきた人間の中でも頭ひとつ抜けている。
「力は貸してもらえない、よな」
「甘えるでない。妾は少し離れた所から見届けさせてもらう。これ以上、真なる紋章が絡んでも厄介じゃろう」
「おっしゃるとおりで」
「……さてと」
一息つき、手元のグラスのワインをくい、と飲み干した。後味も良く、もう一杯、と所望したくなるがこのあたりが引き際だろう。
立ち上がり、まだ中身の残っているワインボトルを手に取り、踵を返した。
「ちゃっかりお持ち帰りかよ」
「なんじゃ、久しぶりの友人への手土産だったのじゃろう? ありがたく頂戴しよう」
「いや、現れるなり『とっておきの赤を用意せい』って持ってこさせただけだろ! もう一杯よこせ!」
「断る。ではな。死ぬでないぞ」
ひらひらと手を振って別れを告げ、何かしらを喚く声を気分よく背に受けながら、城門に向かう。
不意に、微かな風が吹きつけ、シエラは足を止めた。
もう一度見上げた月は、変わらず煌々と光を放つ満月。人間にとっては気の遠くなる年月を重ねて力を得た象徴は、微風の中でも揺らぐことはない。
「……どうか、良い場所へ辿り着けるよう」
そうつぶやき、再び一歩を踏み出す。その足はしっかりと大地を踏みしめ、気ままな己が道を歩み、迷うことはなかった。