幻水その他
夢を、見た。
まぶたを開くと、青い世界が広がっていた。空も、山も、大地も、果てに見える家屋らしき建物すらも青く、深い色に染まっている。違うと言えば、空に途切れ途切れに浮かぶ雲の白くらいだが、それすらも、そう遠くない未来に青く染められてしまいそうだ。
足元を見やり、はっとして目を見開く。
僕が今立っているのは、水面の上。果てなく広がる湖らしき水面を確かに踏みしめて立っている。理屈はまったくわからないけれど、いかんせん、これは夢だ。どんなことがあっても不思議ではない。
意を決して、右足を一歩前に進めてみる。足を浮かせ、踏みしめると、ちゃぷ、と水の音を立てながらも感触は固い大地と違わずに立っていられた。それに少しほっとして、息をすうっと吸い込むと、澄んだ空気が全身を満たしてくれた。
静かに息を吐き、まぶたを閉じて思う。
――きれいな世界だ。
静かで、青く、よどみのない世界は僕に安息を与えた。真なる五行の紋章を巡る戦い以降、迷いと憂いに染まっていた心が、じんわりと浄化されていくようだった。夢と分かりながら、覚めないでいて欲しい、なんて甘えた願望すら抱かせてしまう。
「……え?」
もう一度まぶたを開き、面を上げると、そこには先ほどまで存在しなかったものが鎮座していた。
青い湖面にたたずむのは、一台のグランドピアノと椅子。そして、その椅子に座っていたのは――
「……君は、」
名を呼ぶ前に、彼は片手を上げて制止する。こちらに向けたむすっとした顔は何度か対面したいずれの機会でも見たことのない、ぶっきらぼうで、拗ねたような、少し子供っぽいものだった。自分と同じ顔をした「器」。そのくせ、僕を「兄」などと呼んで見せた、破壊者。
「どうして、君が」
「別に。理由なんてなんでもいいだろ」
「いや、でも、」
「いいから、少し黙ってなよ」
つっけんどんに言い放ち、彼は視線を僕からピアノの鍵盤へと移した。
小さく息を吸って吐き、両手の指先を鍵盤に載せる。それから、彼は静かにその指で音楽を奏で始めた。
聞いたことのない曲だった。優しくも柔らかく、ふんわりとした毛布を撫でるような音色は、心をより一層穏やかにさせてくれる。同時に、少し懐かしい気持ちにもさせてくれる。初めて聞いたはずなのに、どこかで耳にしたことがあるような。そんな郷愁めいたものを感じさせてくれた。
音楽の類には精通している方ではないけれど、彼が想いを込めて奏でているのが、感じようとしなくても伝わってくる。
不意に、柔らかな風が吹き出した。髪を少し揺らす程度のそよ風が世界を静かにさざめかせる。まるで、彼の指先が、彼の奏でる音が風を吹かせているようだ。
僕はその風の肌触りのよさに気を良くし、曲に合わせてハミングしてみる。
一瞬、彼は不機嫌そうに眉間にしわを寄せてこちらを見やったが、僕は構わず続けた。そっちだって勝手に表れて勝手にピアノを弾いているんだから、これくらいは好きにさせて欲しい。ハミングをやめようとしない僕のその意思を感じ取ったのか、やがて彼はあきらめて、再び眼前の鍵盤に集中した。
知らないはずなのに歌えるうた。それはもしかすると、つくられた「器」の中に刻まれた、誰かの記憶の歌なのかもしれない。「僕」ではない、「彼」でもないものが聞いた歌。それでも、ここでは「僕」と「彼」を繋ぐたったひとつの、争わずに共有し得るものだった。
曲がクライマックスを迎え、鍵盤から彼の指が離れた。
その後にあるのは、ひたすらの静寂――。
「……ふぅ」
息をついた彼は、音もたてずに椅子から立ち上がり、僕を見据えた。
その瞳は――いや、その顔は、まるで僕と同じ。――だけど、僕とはまったく違う、「彼」だった。
「さよならだよ、兄さん」
そう告げる声は、なぜか少し寂しげだ。僕は尋ねるでもなく、静かにうなずく。
「ああ、さよならだ――ルック」
名を呼ぶと、彼は少し顔をしかめた後、どこかむずかゆいような、居心地の悪い顔をしてそっぽを向いた。
僕から背を向けた彼が、右手を軽く掲げる。同時に、ひゅうっと少し強い風が吹いた。僕は反射的に顔を背け、風から身をかばう。風が過ぎ、再び視線を戻したときにはもう、彼も、ピアノもなくなっていた。
ふと、足元を見下ろす。僕のブーツの周りには、水面から青々とした草が生い茂っていた。その光景に僕は目を細め――ゆっくりと目を閉じた。
次に目覚めたときに目に入ったのは、いつものベッドの天蓋だった。
無機質なつくりのそれをじっと見つめる。それから、意識の深淵に眠っていたうたを、小さく口ずさんだ。
きっとあれが、僕と彼の、最初で最後の「きょうだい」としてのひとときだ。
歌いながら想うと、一筋だけ、涙が目尻を伝った。
しばし、思いに耽った後――僕はそれを服の袖でぐいと拭い、起き上がった。
ベッドを出て、窓を開け放つ。眼前に広がるのは、青だけではない、色鮮やかな世界。その色を確かに眼に留めて頷き、僕は顔を洗うために部屋を出た。
それ以降、もう、泣くことはしなかった。
まぶたを開くと、青い世界が広がっていた。空も、山も、大地も、果てに見える家屋らしき建物すらも青く、深い色に染まっている。違うと言えば、空に途切れ途切れに浮かぶ雲の白くらいだが、それすらも、そう遠くない未来に青く染められてしまいそうだ。
足元を見やり、はっとして目を見開く。
僕が今立っているのは、水面の上。果てなく広がる湖らしき水面を確かに踏みしめて立っている。理屈はまったくわからないけれど、いかんせん、これは夢だ。どんなことがあっても不思議ではない。
意を決して、右足を一歩前に進めてみる。足を浮かせ、踏みしめると、ちゃぷ、と水の音を立てながらも感触は固い大地と違わずに立っていられた。それに少しほっとして、息をすうっと吸い込むと、澄んだ空気が全身を満たしてくれた。
静かに息を吐き、まぶたを閉じて思う。
――きれいな世界だ。
静かで、青く、よどみのない世界は僕に安息を与えた。真なる五行の紋章を巡る戦い以降、迷いと憂いに染まっていた心が、じんわりと浄化されていくようだった。夢と分かりながら、覚めないでいて欲しい、なんて甘えた願望すら抱かせてしまう。
「……え?」
もう一度まぶたを開き、面を上げると、そこには先ほどまで存在しなかったものが鎮座していた。
青い湖面にたたずむのは、一台のグランドピアノと椅子。そして、その椅子に座っていたのは――
「……君は、」
名を呼ぶ前に、彼は片手を上げて制止する。こちらに向けたむすっとした顔は何度か対面したいずれの機会でも見たことのない、ぶっきらぼうで、拗ねたような、少し子供っぽいものだった。自分と同じ顔をした「器」。そのくせ、僕を「兄」などと呼んで見せた、破壊者。
「どうして、君が」
「別に。理由なんてなんでもいいだろ」
「いや、でも、」
「いいから、少し黙ってなよ」
つっけんどんに言い放ち、彼は視線を僕からピアノの鍵盤へと移した。
小さく息を吸って吐き、両手の指先を鍵盤に載せる。それから、彼は静かにその指で音楽を奏で始めた。
聞いたことのない曲だった。優しくも柔らかく、ふんわりとした毛布を撫でるような音色は、心をより一層穏やかにさせてくれる。同時に、少し懐かしい気持ちにもさせてくれる。初めて聞いたはずなのに、どこかで耳にしたことがあるような。そんな郷愁めいたものを感じさせてくれた。
音楽の類には精通している方ではないけれど、彼が想いを込めて奏でているのが、感じようとしなくても伝わってくる。
不意に、柔らかな風が吹き出した。髪を少し揺らす程度のそよ風が世界を静かにさざめかせる。まるで、彼の指先が、彼の奏でる音が風を吹かせているようだ。
僕はその風の肌触りのよさに気を良くし、曲に合わせてハミングしてみる。
一瞬、彼は不機嫌そうに眉間にしわを寄せてこちらを見やったが、僕は構わず続けた。そっちだって勝手に表れて勝手にピアノを弾いているんだから、これくらいは好きにさせて欲しい。ハミングをやめようとしない僕のその意思を感じ取ったのか、やがて彼はあきらめて、再び眼前の鍵盤に集中した。
知らないはずなのに歌えるうた。それはもしかすると、つくられた「器」の中に刻まれた、誰かの記憶の歌なのかもしれない。「僕」ではない、「彼」でもないものが聞いた歌。それでも、ここでは「僕」と「彼」を繋ぐたったひとつの、争わずに共有し得るものだった。
曲がクライマックスを迎え、鍵盤から彼の指が離れた。
その後にあるのは、ひたすらの静寂――。
「……ふぅ」
息をついた彼は、音もたてずに椅子から立ち上がり、僕を見据えた。
その瞳は――いや、その顔は、まるで僕と同じ。――だけど、僕とはまったく違う、「彼」だった。
「さよならだよ、兄さん」
そう告げる声は、なぜか少し寂しげだ。僕は尋ねるでもなく、静かにうなずく。
「ああ、さよならだ――ルック」
名を呼ぶと、彼は少し顔をしかめた後、どこかむずかゆいような、居心地の悪い顔をしてそっぽを向いた。
僕から背を向けた彼が、右手を軽く掲げる。同時に、ひゅうっと少し強い風が吹いた。僕は反射的に顔を背け、風から身をかばう。風が過ぎ、再び視線を戻したときにはもう、彼も、ピアノもなくなっていた。
ふと、足元を見下ろす。僕のブーツの周りには、水面から青々とした草が生い茂っていた。その光景に僕は目を細め――ゆっくりと目を閉じた。
次に目覚めたときに目に入ったのは、いつものベッドの天蓋だった。
無機質なつくりのそれをじっと見つめる。それから、意識の深淵に眠っていたうたを、小さく口ずさんだ。
きっとあれが、僕と彼の、最初で最後の「きょうだい」としてのひとときだ。
歌いながら想うと、一筋だけ、涙が目尻を伝った。
しばし、思いに耽った後――僕はそれを服の袖でぐいと拭い、起き上がった。
ベッドを出て、窓を開け放つ。眼前に広がるのは、青だけではない、色鮮やかな世界。その色を確かに眼に留めて頷き、僕は顔を洗うために部屋を出た。
それ以降、もう、泣くことはしなかった。